2016年10月30日 ケータとオロチ、先代

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冬が来る前に

太陽が真上にある時間帯でもひんやりした空気が頬や腕を掠めていく。

大気は轟々とうなる乾いた風にあおられ、舞い上がっていった。

川原から空を見上げるオロチには、大気の中に浮かんでは割れる光の飛沫が見える。

それは上へ上へ空の中枢に集まっていき、無人の青空は、人いきれに満ちた下界よりも命の躍動に溢れているようだった。

太鼓が打たれた後の耳鳴りのような余韻が空一面波紋を広げている。

こうした季節の変わり目に、何か大きなものが魂の気配を感じさせつつ上昇していくのを見るのは毎回不思議な感覚だった。

 

「…完全に寝ちゃったね。」

 

小さく笑いをこめながら隣に座っているケータが囁く。

視線を下に向けると、膝の上に乗せた痩せた野良猫は体を丸め目を閉じていた。

無意識に猫の腹のあたりを撫でていた手を止め、オロチは気持ち良さそうに寝入る猫を暫し見つめた。

それから思い出し、再び空を見上げたが、先ほどまで起こっていた濃い彩りは消え、大気の乱舞も止んでいた。

オロチは下界に目を戻す。

 

「寝子とはよく言ったものだな…。」

 

人や妖怪を恐れるでもなく、撫でられるままに膝の上でくつろぎ寝入ってしまった猫は、規則正しい呼吸で腹を上下させていた。

猫の体温がオロチの手や膝を温める。

 

「オロチって猫好きだよね。」

 

寝子の意味がよく伝わらないまま、ケータがまた笑顔を浮かべた。

ケータはランドセルをしょったままだった。

オロチがよく川原に佇んでいるから、今日もいるかもしれないと学校帰りにここに寄ってみた甲斐があった。

授業の早く終わった今日は陽射しがまだこんなにも高いし、

走ってきたから汗が出てドキドキして、川のほうから吹いてくる冷たい風が気持ちいい。

川原の植え込みの隅で猫を撫でているオロチを見つけた時には再び一気に鼓動が跳ね、ケータの心臓はなかなか落ち着かなかった。

 

さらさらと水の流れていく音のみの昼下がりの川原だった。

目を合わさなくとも横にいるケータの笑顔を感じ、膝の上の猫は温かかった。

 

静かだな

 

オロチは思った。

 

 

 

 

 

また、おまえか…

 

暗闇にうずくまる人間の子どもの姿を見て、一気に胸が塞ぐ。

その後に怪訝に思う。

俺はこの子どもを以前にも見たことがあっただろうか。

 

子どもはかつて集落だったらしき荒れ果てた土地に這いつくばっていた。

長い髪を背に散らし、その姿は地にしがみ付いているように見えた。

オロチはその子どもを確かに知っていた。

 

荒廃したその場を見渡す。

惨劇は今は昔。

元より他所と交流の乏しかった小さな集落は、その全滅の異様さから人足は遠のき、野ざらしになって潰えだいぶ経った後も貧しい土地柄が相まって見向きする者はいなかった。

 

誰もまともに手を合わせる者がいなかったのだ。

おぞましい怪異を人の世がなるべく早く忘れてしまいたがる例に違わず、供養にさえ人はこの集落に近づくことを恐れた。

集落の中で唯一生き残った子どもは、まず何より集落を偲び、無念のまま燃やされた人々に心を手向けるべきだったのかもしれない。

しかし子どもは自らもアヤカシへとその身を変化させ、怒りと恨み、そして蛇のように執念深い瞳をぎらつかせ、あっという間にその地を去ってしまった。

 

何故あの妖怪に、この地は襲われなければならなかったのか。

確かにわかっていた筈の答えは霞みがかった。

地鳴りがし、地底からざわざわと湧き上がってきた生ぬるい秋の風の音が、

ついえた人々の恨み声のようにも人間の大人が夏に縁側で聞かせてみせる怪談の声質のようにも聞こえた。

 

這いつくばっていた子どもが、ゆっくりとこちらを振り向く…

 

 

 

 

 

 

シンとした寝室。

浅い眠りからオロチは目を覚ます。

首を上げ、横に見知った柔和な顔がこちらを見つめているのを認めると、安堵の息をついた。

夜は徐々に冷え込む季節となっていたが、静かな寝室は温かかった。

 

「妙な夢を見た。」

 

もぞもぞと布団の中で体を近づけると、相手は期待通りにオロチを抱き寄せ、その髪を撫でてくれた。

 

「ほう…どんな夢を見た?」

 

愛しいその声色に、先ほど見た夢の何ともいえない不快感が急速に消え去っていくのをオロチは感じる。

夢のことなど置いてその逞しい腕に抱かれたいと思ったが、しかし相手から問われたことに返そうと、オロチは金の瞳を相手に合わせた。

 

「人間の子どもと、どこか知らない…川原のような場所で話す夢を見た。

親しげに話しかけられて、俺自身もそいつを知っているような…妙な夢だったな。

もうひとつの夢は荒れ果てた人間の村だ。夜だった。

そこにも子どもがひとりいた。三途の川で石を積む餓鬼のような。」

 

夢で見たその姿を思い起こしオロチはぶるりと身体を震わせた。

 

「こんな夢はどうでもいい。」

 

オロチは相手の胸元に顔をうずめ話を途切れさせたが、相手はその夢の話にどこか考え込むような表情を見せた。

 

「…なんだ。」

 

オロチは不安げにその表情を見上げた。

 

「どうしてそんな顔をする閻魔。」

 

閻魔は優しく目を細めた。

そして自分の表情に敏感に反応する、少年の姿をした妖怪の額に愛しげに口付けをした。

 

「夢の中に友人ができたのだな。」

 

「違う。友はおまえひとりだけでいい。」

 

閻魔の言葉にオロチは首を振る。

閻魔以外に友と呼ぶ相手ができるなど考えられない。

 

「おまえがいれば俺は…。」

 

オロチのひたむきな視線に、閻魔は微笑んだが寂しげな色が瞳によぎった。

 

「儂にはもう、時間がない。」

 

閻魔はオロチの頬を撫でた。

その指先は痺れている。

 

オロチ、おまえの毒が指にも回り始めたよ。

 

指先の痺れは疼きとなって閻魔の神経を煩わせた。

それをおくびにも出さず閻魔は鷹揚と微笑む。

 

 

 

--------

 

 

 

愛しい大蛇。

おまえと闘った三日三晩は楽しかったな。

儂は今まで、こんなにも魂を燃やし儂の世界に入り込んでこようとする存在を知らなかった。

こんなにも強く、悲しく、純粋な存在を知らなかった。

儂はあの時、妖魔界を守る王としておまえと闘ったのではない。

ただひとつの魂となっておまえと相対していたのだ。

 

三日目の夜、ついに勝負が決まろうとしたその瞬間、おまえはこの首に噛み付いて、この体に中和のできないものを注ぎ込んだ。

そしておまえはそのまま儂の腕の中で気を失った。

 

儂はその後もおまえを離さなかった。

大王にたてついた者は封印するべきだ、いやその魂さえも消してしまえばいい、と声を荒げる者達もいた。

無論、そうするつもりはなかったよ。

火花を散らしている最中に、儂はおまえの魂の色を何度も垣間見た。

意外なほど、おまえに邪気は無かった。

この先おまえの傍らに儂がいれば、おまえが再び暴れ大蛇とはならないことを、儂はよくわかっていた。

 

…何より、儂がおまえにそばにいてほしかったのだよ。

おまえが愛しかった。

真っ直ぐなおまえの魂が。

儂を慕い、ひたむきに見つめてくれるおまえ自身が。

何故おまえが儂のような存在に惹かれたのか、儂は今でもわからない。

おまえの強すぎる思いの内側をいつか聞かせてほしいと思っていたが、

それを味わう時間も無いようだ。

 

おまえが注ぎ込んだものが毒だと、儂は知っていたよ。

それは無敵と謳われた儂の体を少しずつ侵し始めたが、病と老体のせいだと、儂は皆に言って聞かせた。

儂には後悔など微塵もないのだ。

おまえの毒で死がすぐそこにまで迫っている今この時にも。

 

愛しい大蛇。

儂は死の前に、ひとつの魂ではなく閻魔として行わなければならないことがまだ残っている。

儂がただの一人の男であれば、今際の際までおまえの傍らで、おまえの金の瞳に見惚れていることもできただろうに。

 

 

 

愛しい大蛇。

儂の役目はもうすぐ終わる。

どうかおまえの魂に刻み込んでほしい。

これから起こる何もかも、今まで起きた何もかも、無限に回転し、繋がっていくことを。

 

 

 

-------

 

 

 

閻魔は目を伏せた。

そして先ほど聞いたオロチの夢の話に思いを巡らせた。

 

「ああ、閻魔…。」

 

黙って俯いていたオロチが弱く囁いた。

 

「おまえの中の病を消すことができるのなら、俺は何だってするのに…。」

 

己の体内に巡るその毒も、そしてその毒が妖魔界を司る王の命を消すことになった事実も、閻魔は誰にも明かさず諸共を己の墓場にうずめるつもりだった。

全ての成り行きを肯定し、こうなったことは必然であったとさえ閻魔は思うのだ。

 

閻魔はしばらく静かに口をつぐんでいた。

だが、今が切り出すべき時だという内なる声に従い、オロチをこちらに向かせ、ゆっくりと言葉をかけた。

 

「わかるだろう、オロチ。儂にはいよいよ死が迫っている。」

 

オロチはぐ、と声を詰まらせたが、否定することはできず、かわりに閻魔の指をその手で包んだ。

そしてかねてより決意していたことを固い声で呟いた。

 

「おまえを看取った後、すぐに俺も後を追う。」

 

「それはいけない。」

 

「…何故だ?」

 

即座に返ってきた否定にオロチは驚いて目を見張り勢いよく起き上がった。

 

「何故だ。俺に追われるのが嫌なのか閻魔?!」

 

ひしと見つめる目に閻魔は微笑し、オロチの肩や足のはだけた着物を直してやった。

 

「儂の願いのために、生き続けてほしいのだ。オロチ。」

 

「…」

 

首を傾げるオロチの柔らかい髪を撫でる。

その若さと血気を改めて愛しいと思った。

 

「儂の願いのためにこれからいくつかの役割をこなしてほしい。

 そのために…今からおまえの心に穴を開けるよ。」

 

「どういうことだ。俺に傀儡になれと言うのか。」

 

恐れを知らない恋人は、竹を割ったような反応をする。

 

「正確ではない。おまえの選択が儂の意思となっていくというだけ。」

 

閻魔の眼光はオロチの目を凌駕する。

 

「どのような時のおまえでも、偽りでは無く実際に血の通ったおまえ自身。

 そしてオロチよ、おまえが生きる限り、儂はおまえの中に生き続ける。」

 

「おまえが暴れ大蛇となった理由も、おまえの生きてきた過去も、これから歩んでいく道も、

 全てを無限に変幻させよう。儂はおまえの中に。そしておまえは儂の中に生きていく。」

 

閻魔の言葉にオロチは瞬きもせず聞き入ったが、実際に自分がどう動くことを相手が望んでいるのかわからなかった。

しかし言われたことを拒否するつもりは毛頭なく、じきに死にゆく愛しい相手の願うものを、兎にも角にも全て引き受けようと心は決まる。

元より、嘆くよりも実行動を直ちに開始する質だった。オロチの目は爛々とし出した。

 

「俺の心を抜き取って、おまえの魂を俺に注ぐということか。」

 

「いや…、おまえの心に風穴を開けるといった表現のほうが近い。時が出這入りしやすいように。」

 

オロチは閻魔の言葉に再び首を傾げかけた。

閻魔が何を願ってそれをするのかわからなかった。

だがオロチはそれ以上の問いかけをやめた。

多くを語るつもりのないことは閻魔の目を見てわかった。

オロチはおもむろに口を開く。

 

「やりたいなら早くやれ。おまえの望むままに。」

 

「恐れぬのか。おまえ自身がこれからどうなっていくのか。」

 

慎重に言葉を継ぐ閻魔に、オロチは薄く笑う。

今さら恐れなど。

 

「俺はおまえに拾われて救われた。今ここに俺がいるのはおまえの慈悲だ。

 そしてこれから先、俺が生きる理由はおまえがそう望んでいるということだけだ。」

 

オロチは閻魔の首に腕を回し、抱きついた。

 

「早くやれ。」

 

閻魔はその細い肢体を抱き返し、ついばむような口付けをした。

優しく、それから深く。

 

「儂を赦してくれ。」

 

オロチの身体をベッドに横たわらせ、その身体に閻魔が覆いかぶさった。

口付けを交わす度、オロチの身体にふわふわと夢遊するような感覚が湧き上がってくる。

これが心に穴をあける儀式なのかとオロチは不思議に思う。

物々しさのないそれは、いつもと変わらぬ触れ合いのようだった。

 

王族の術はしかし確実に遂行され、口移しで閻魔の気がオロチの体内に入るうちに世界はゆっくりと途切れていく。

はっきり開けた目に、豪奢な寝室にぶれたように重なる見知らぬ土地が徐々に見え始めた。

知らない地の風が涼やかに頬を掠めるのを感じた。知らない誰かの声が遠く響くのを聞いた。

いつもは冷えている己の手足が熱を持ち、何かに引っ張られていく。

大きなものが近づいてくる気配を感じ、恐れは何もなかったが動悸が激しくなった。

 

「おまえに託したいものはひとつではない。」

 

閻魔が囁いた。

 

「回転させていく。何がどこに繋がっていくかはその度におまえが判断し、選択せよ。」

 

閻魔の手が蒼く発光し、その指先は透き通りながらずぶずぶとオロチの胸に入っていく。

 

「おまえが選ぶものは儂の意思となる。」

 

痛みはないが、体内に入ってくる閻魔の指の感触にぞくぞくと背が震えた。

オロチは咄嗟に閻魔を抱きしめる手を強めた。

 

「愛している…。」

 

オロチは呟く。最愛の相手へ。

伝えられる機会はこれが最後のような気がして、空洞となっていく心に刻み付けるように言葉を発した。

 

「愛してる…閻魔。」

 

視界の暗転。

言葉は宙に散り、閻魔は霞んだ。

輪郭は淡さを増していき、静寂の夜の帳にやがて消えていった。

 

 

 

 

 

 

「なんだかまだ夏休みみたいな気分。」

 

言った後で、ケータが照れくさそうに笑った。

乾いた柔らかい陽射しに瞬きすると、その睫毛に小さく光が踊る。

猫は膝の上で身じろぎもせず寝入っていた。

 

絶え間無い風

流れていく川の音

葉を散らしていく木々の匂い

 

「もうこんなに涼しいのにね。」

 

ケータは手の平を太陽にかざす。

透かされた血潮が温かい色となり外郭をなぞった。

 

「夏が終わるのって早いよね。」

 

かざしながらケータは言う。

 

「でも、どうしてかな。今年の夏は、ずっとこのままな気がしてた。ずっと夏休みのまま。おかしいね。去年の夏はこんな気持ちにならなかったんだけど。俺、そうなればいいのにって思ってたのかな…。」

 

たどたどしい言葉は語尾が小さくなった。

まとまらないまま、ケータはもどかしそうな顔をする。

 

ずっとこのまま

これからもみんなと一緒にいたい

 

ケータの表情がわずかに翳るのを見て、オロチはそっと目をそらし、かわりにかざされたケータの手を見上げた。

透かされた手の平の血潮の色を、綺麗だと思った。

 

「ケータが来る少し前まで白昼夢のようなものを見てた。」

 

ぽつりとオロチは言った。

 

「意識が戻った時にどちらが現実なのかわからなかった。私がどちら側にいるのか。」

 

あはは、とケータは明るく笑った。

陽にあてられていた手が伸びてオロチの指先をふわりと掴む。

 

「こっちが本当だよ。」

 

青空は無限にループしていく。

時計はほんの少し進む。

 

 

 

 

 

 

 


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