2017年6月16日 キュウオロ 季節の受け渡し

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雨のもと花は眠る

さくらニュータウンの空は朝から濡れていた。

白く冷ややかな上空で、キュウビは気を研ぎ澄ましている。

そして昨日までは弱すぎてわからなかった気配がほんの少しだけ強さを増し、信号のように呼んでいるのを感じ取る。

さらに意識を集中させ、それがおおもり山の中腹辺りから発されていることを突き止めると、キュウビは首をふった。

あの辺りはくまなく探したつもりでいたのに。年々隠れるのがうまくなる。

体の向きを変え、空から滑り落ちるように山腹を目指した。雨降り注ぐ新緑は近づくほどいっそう色合いを深めていく。人目に付きにくい山肌に未だ山桜のひっそり咲いているのが目に入り少しばかり気を滅入らせながら、狐の姿の妖怪はひゅうひゅうと木々の間を飛んだ。

やがて咲き切らない大きな紫陽花の株に差し掛かり、探していた相手が花に囲まれて潜んでいるのを知ると、キュウビはまっすぐ舞い降りた。

何かがかぶさったようなオロチの気配。昨日までこの微弱な気配すらも途切れ途切れのなんとも心許ない状態だったのだから、探すのに骨が折れた。

紫陽花の横にそっと立つ。何も言わないキュウビに、小さい身体をさらに縮こまらせて膝に顔をつけたオロチは、無言に無言を返して体を逆のほうに向ける。

その背中を見やりながら、キュウビは霧のように降るしずくをはらい、オロチが先に言葉を発するのを待つ。

 

「今年も…雨狐」

 

ほどなくして小さい声が漏れた。

やって来たんだな…

言葉と一緒にオロチのまわりに数枚の花びらが現れ、舞う間もなく雨にうたれて消えていく。

キュウビは肩をすくめた。

 

「やって来たって、僕が?それとも雨の時期が?」

 

「どっちもだ。」

 

「ようやく降らせることができた。この町の梅雨入りはいつもより遅かったくらいだよ。」

 

言いながらキュウビはオロチの様子を眺めた。

その身をつつむ衣は一面に散った艶やかな花模様。雨に湿った薄紅の髪がほつれ、白い首筋にはりついている。こちらに顔を向けないので見えないが、瞳も未だに淡萌黄のはずだ。そこだけ桜が咲いたように華やかな姿は、しかし雨と紫陽花の風景には馴染まなく、寂しそうにうつむいている。

暦が変わっても季節外れの姿のままでいることを咎められたくないのだろう。華やかな姿を毎年ふいと隠すはいいが、今年も僕が見つけなければいったいいつまでここにいるつもりだったのか。

全く未練がましい。いつまでもその姿のままでいられるとこの町の季節に差し障る。

キュウビは口元を歪めたが、頑なに背を向けている後ろ姿からは、春を手放そうとする様子はついぞ感じられなかった。

オロチの周囲に薄っすらと甘く漂う花の香。雨空を染めるにおい。

 

「無粋な花散らしの雨にも負けず、健気に咲いているね。」

 

静かにキュウビは声をかける。声色に皮肉をこめた。

 

「もうキミの季節は終わったんだよ。」

 

オロチはゆっくり振り返った。

キュウビを見る視線はぼんやりしている。目が合ったが、じきにそれはゆるゆると外された。

雨に冷やされ、透けるような肌。伏せた目元や時折覗く唇が、桜の実のように紅い。それらはこんな時でなければ大いに目を楽しませてくれるものだったのだが。

今は亡き地底の王の好んだ桜の大木。毎年春になるとその霊力がオロチに宿り、色や衣さえも変化させるのだった。

オロチのこの変化はとどのつまり先王の娯楽、戯れにより成されたものだとキュウビは思っている。強気な顔だちが桜色に染められ色を増すのを、亡き王はさぞ楽しんだのだろう。ああ、僕はオロチと王の過去のあれこれに首を突っ込むつもりはないのだけど。

問題は、変化するたびにオロチが王を懐かしみ、わずかに残る思い出に浸り、王の好んだ桜を宿した姿のままでいたがることだ。散らない桜の大きな霊力は、毎年この町のところどころに季節狂いの風を吹かせ、巡る時間をかき混ぜてしまう。それに気付いていながら終わった春にすがる姿は、らしくない。キュウビは思う。

昔々の一時の熱情を後生大事に離さないなんて。

 

「寒いだろう。そこから出ておいでよ。」

 

「…寒くなければ、雨は嫌いではないのに。」

 

はぐらかしながら、オロチは紫陽花から出てこない。

心ここにあらずで亡き王のことを考えているのが手に取るようにわかる。

キュウビは面白くなさそうに自らの尻尾に視線を落とす。しっとりと潤んだ毛並には艶があったが、どうにも眠くなる雨の日に出歩くことを昔は避けていたのだ。ところが古いつきあいのオロチが春を引きずり、その余波で町の時候が狂うことに気をもむうち、強引に雨を降らせ地を冷まし、正しく季節が巡るよう全てを洗い流す浄化の技を身につけてしまった。今までの妖術と相反する力を器用に操れるようになったことを楽しく思わないでもなかったが、王の戯れの後始末をしているようにも感じ、やはりそれについては面白くない。

 

「僕は本来、炎使いなんだよ。あまり手間をかけさせないでよ。」

 

キュウビは一呼吸置いてからオロチに声をかける。

 

「いつまでも春に囚われていると、キミの周りだけスコールを降らせてその衣装ごとそぎ落としてしまうよ。」

 

「そんなことをしたら時を止めておまえの顔にひげを描いてやる。」

 

「元からひげがあるんだから痛くも痒くもないね。わずかな時しか止められないくせに。」

 

「数秒あればおまえの目のまわりに丸を書くこともできる。」

 

「ふふ、王から授けられた期間限定の力なんて、そんなに嬉しがって使うものでもないだろう。」

 

「……」

 

しまったと思う間もなく、挑発に乗りかけていたオロチの目からふっと生気が弱まり、再びその顔がそらされる。

王という言葉から離れるべきだった。膜がはったようにまたもオロチは追憶に沈み、身体のまわりは花の香で満たされていく。

 

ご本人亡き後にも途切れないこの力。

しつこいねえ。キュウビは天を仰ぐ。

 

どうせキミは、嵐の夜に灯台の灯りを見つけた船のように、身も蓋もなく王に惹かれてしまったのだろう。キミは、無知な子どもに等しかった。そして王の手中に完全に落ちてしまった。

王が去って尚、相手がいないことで美化される甘い思い出が、柔らかな拘束から永遠に逃れられない絶望感をギリギリのところで凌駕している。

結果、ゼリーの中にいるみたいに鈍い目線で、花の香をまとわせ続けることになる。

 

無いものにすがるなんて。

キュウビは顎を上げる。

早く春を散らしてしまえ。

 

 

 

ーーーーーーーー

 

いつもは霞がかっているくせに、この姿でいる時にだけまるでそこにいるかのようにありありとかつての王を思い出せるのが不思議だった。

花の色、香りが、王との記憶に密接に繋がっているのかもしれない。それともこれもまた桜の霊力が働いているせいなのだろうか。

ああ、ヤツを思い出せるのなら、理由など何でもいい。

考えるのをやめ、甘く朧に光る記憶にオロチは潜っていく。

 

大きな手に引かれて宮中に入った日。

王家に仕える者たちにこころよく思われていないことはすぐにわかった

氷のような侮蔑の眼差し。炎のような嫉妬の眼差し。

視線には温度があり、その温度に合わせて一瞬後に身を翻すやり方をオロチは宮中で学んだ。

三日三晩の罰を受けるでもなく勿論世継ぎを生むでもないオロチが王宮に迎え入れられ居座ることに、かわし方を学ぶに事欠かないほど周囲の苛立ちは高まった。

ゲセンノモノ ゲセンユエ

常々囁かれる陰口は行く手を阻む呪詛のようだった。

妃と位置する女達の一部にはあからさまな敵意を向けられ、誰ともわからぬものに巧妙な嫌がらせをされた。御簾の向こうから常に監視され、嗤われているような居心地の悪さがあった。

そのうえ王宮はどこからか血生臭い匂いが漂ってくる。その殺気めいた気配は本能をざらつかせた。

これほど優れた王がいながら、何故、どこから不穏が臭うのか、オロチにはわからなかった。

王宮は肌に合わないと思ったが、だがオロチは概ね気にしないことにした。否定に躍起になることもなく、それらのことからひらひらと身をかわし、それよりも朝も夜も、オロチは王の一挙一動に夢中になった。

俺を組み伏せたヤツはおまえが初めてだ。王の筋肉質な手の甲に頬をあて、オロチは思う。王の横顔を見上げ、やがて優しい目を向けられると心が満たされた。

おまえは不思議なヤツだ。とことん俺を打ちのめしたというのに、こんなにも優しく触れてくる。

殺せだのいっそ地獄に落とせだの王に向かってあらん限りに叫んでいた自分を忘れ、経験のない強さと優しさにオロチは溺れていった。

おまえが願うなら、俺は命に代えてもそれを遂行しよう。

時に父の背を追う子となり、時に王の寝室で明け方まで情を受けながら、オロチは昂然たる王に心を寄せ、忠誠を誓った。

王はオロチにこの世界の様々なことを説いた。王の知らないものなど何もなかった。自分には望むべきもない英知だとオロチは感心するばかりだった。

王の手によって地獄に突き落とされた者らの事の経緯を聞き物思いに沈むと、ところが我はおまえにそれをするつもりはないのだと大切に頬を撫でられた。オロチには、王が自分を罰さない理由がわからなかった。わからなかったが、許容の言葉と共に頬を撫でられると、喉の奥に痛いような熱がこみ上げた。

王家を取り巻く反勢力の存在を聞き、背景も知らぬまま俺がそいつらを叩き潰してやるといきり立って、穏やかな笑みに制されることもあった。

何もかもが甘やかに感じる日々だった。夢を見ているような気がして、ふわふわしながらオロチは過ごした。

どこからが自分にとっての本当だったのだろう。そのうちに、何故自分が王に対してあれほど敵意を燃やしたのか、身を焼き尽くすように強かった孤独や怒りさえ、その大本がわからなくなった。

王の体に自分との闘いでついた傷跡はないかと隅々まで確認し、どうやら何の痛手も残っていないようだと気が済むと、オロチは安心して王に身を寄せ眠るのだった。

体躯に似合わず王はしなやかな手腕で隅々までを統治し、方々のくすぶる火種をいつのまにか始末し、大火とさせる隙を与えなかった。多忙を極めたはずだが疲れを垣間見せず、むしろオロチの前にその大きな体で立ち、王宮でオロチに注がれる視線や臣下の辛辣な言動を遮ろうとまでした。かつ不満を抱えた相手の顔を立てることも忘れずにしてみせるのだった。

だが万能の王は、どこ吹く風でオロチが頓着しないにもかかわらず、王宮でオロチが歓迎されていないことを気にし続けているようだった。時おり、宮中でのオロチへの取り沙汰が過ぎたものとなると、王はオロチを王宮から離れさせた。奥の窓辺にオロチを手招き、外へとそっと羽ばたかせる。

 

桜の下で

 

そんな時、決まって王から発される言葉。それを囁かれるたびオロチの頬は熱くなった。

桜の好きな王の、気に入りの大木。

夜の中、樹齢の測り知れない常春の樹からは幾千の花びらが白雪のように降り、藍とごく薄い紅の混じり合うその風景は総毛立つほど美しく、そしてその物悲しさはオロチの胸に強烈に刻まれた。

待っているとやがて桜の下へ訪れる王に、枝に腰かけていたオロチは飛び降りて抱き着き、口付けを交わし、やがて身に花を受けながら乱れていく。

視界に入るのは夜と桜と王の顔、耳に入るのは風の音、息遣い、低くこもる王の声だけだった。

たちこめる花の香。汗ばんだ肌と回された手。今も思い出す。自分に向けられた王の、その表情がいつも優しかったこと。

あの頃の自分はただひたすらに夢中で、王の真意を推し量ることなどできようもなく、その口から発された言葉のみが真実だった。

 

「歌ってくれないか。」

大きな体に舞い落ちてくる花をつまみ、王はある夜オロチに向かって言った。オロチは戸惑った。

「夜に蛇が歌うと呪われると言わないか。」

王は吹き出した。

「その言い伝えはいろいろ間違っているな。」

笑いながら王は再度促し、オロチは小さい声である一節を歌った。

王は深く頷いた。

「美しい声だ。普段の勝気なおまえからは想像できない切ない調べだ。」

そして満面の笑みを浮かべる。

「見ろ。桜が共鳴している。おまえの歌声は天の楽器のようだ。」

歯の浮くような台詞とともに、もう一度、もう一度だ、と請われ、オロチは何度も王のために歌を紡ぐ。

 

もう他に口ずさむ者はいなくなった 故郷の歌だ

俺の育ったあの村も本当の名も お前以外は誰も知らない

俺の全てはおまえだけとなった

 

オロチはふいに歌うのをやめた。

「離れないでくれ、この先ずっと。」

桜の根元に座した王の衣の袖口を握りしめる。

「ずっと俺のそばにいると言ってくれ。」

王はわずかに身じろいだ。

しかし結局は頷き、笑みを浮かべてオロチを抱き寄せた。

 

あの時、おまえが躊躇したことに、俺は本当は気付いていたんだ。

でもそれ以上に安心してしまった。「閻魔」が嘘をつくはずがないと。

これからは失うことがない。胸いっぱいの喜びで、俺はおまえの躊躇を故意に記憶の底に閉じ込めたんだ。

 

 

 

ーーーーーーー

 

 

空をかき混ぜる雨音 水たまりの暗い空を映してさざめく水面

時おり周辺の高い葉から大きな雫がぱたぱた落ちる

 

オロチは雨の現に戻りたくない。

追憶に身を浸すと、絶えず心にくすぶっている原因のわからない虚しさが埋まっていくような気がした。

傍らのキュウビは静かに待っている。ただ佇んでそこにいてくれることを、申し訳ないと思った。

だが、依然雨景色は桜景色とうって変わった侘しさだけの風景に見え、追憶の花と比べれば何処も彼処もくすんでいる。体ごと記憶の海に入り込んでいけないことが残念だった。思い出すことができるだけ。王を信じ、委ねた日々を。

 

「魔法にかけられたようなものだな。毎年この姿になり、なる度、忘れていたことを思い出す。」

 

オロチは現の雨に濡れながら呟く。

佇んでいたキュウビが返す。

 

「呪縛と言ったほうが近いね。」

 

呪縛…?

オロチが一瞬気色ばむ。

キュウビは介さず言葉を続けた。

 

「キミは王の多数いるお相手のひとり、戯れの対象にすぎなかった。そんな関係にもかかわらず王の死後どんなにたっても想い続けることをやめないなんて。」

 

「私は多々いる中のひとりではない。」

 

憮然とオロチは言い返した。

 

「確かにあの頃の王家は色事の噂に絶えなかったが、ヤツが見ていたのは私だけだ。」

 

強い口調で放たれた台詞にキュウビは呆れ、冷たい色がサッと瞳を染めた。

 

「そう思うのは自由だけど開いた口が塞がらないよ。」

 

暫し白々とした空気がふたりの間に流れた。

言い返そうとしてうまい言葉を思いつかなかったのか、悔しそうに顔を歪ませたかと思うとオロチの瞳が瞬いた。

まさか泣くのかと思ったが、そのままそっぽを向いてしまう。

 

「…オロチ」

 

暫くして声音を変えて呼んでみたが、オロチは絶対に振り返らないとばかりに全身を強張らせている。

 

 

聞こえたのか聞こえなかったのか。

オロチの意識がまたも向こう側に引きずられていくのを感じ、キュウビは呼ぶのをやめ、一度口をつぐんだ。

オロチの髪はすっかり濡れそぼっている。濡れた端から薄紅の髪を青く染め、水滴がオロチを元の姿に戻すよう、辛抱強くキュウビは雨を降らす。

時が経ち忘れることで和らぐ喪失の痛みを、舞う桜の花が追いかけ、忘れさせず、いつまでも鮮明にかつての日々や王との約束を再現させる。オロチというより、これは王の執念ではないだろうか。

もともと善悪の意義に振り切れたアヤカシであったため、王族を怖れる気持ちも敬う気持ちも、その良し悪しへの興味でさえキュウビには薄い。ただ、裁きの君主と謳われどこに行っても慕われた先の王を思い出すたび、王が生きていた頃から何処かしら胸の内にひっかかるような感情を己が持っていたことを思い出す。

額面通りの王だったのだろうか。それとも、王を想うオロチの心が、桜を魔のものに変えてしまったのだろうか。

キュウビは再びオロチの様子を窺う。

オロチは青い濃淡で彩られた紫陽花の中に座っている。わずかに濃さを増した翡翠の瞳が、過去を映して揺らめいている。心が過去に戻るたびにオロチの身体にまとわりつく花の香は意思を持つかのごとく強さを増し、花の気配が強まるほどオロチの表情からは生気が失われていく。囚われてそのまま引き込まれぬように、キュウビは今年も絶え間なく雨を降らせ、町全体の春を洗い流そうとする。

しかし過去のものであるはずの桜の、引き込む力は年々強まっていく。

 

春をまとうキミは少女のようだ。

刻々とオロチから生気が失われていく目の前の事態に気が急いてはいるのだが、急く感情だけでいっぱいにはなりたくない。今できることは待つことのみだとも思う。

キュウビは色めくオロチの容姿を観察し、やはりその見た目自体は嫌いではないな、とあえてゆっくり独り言ちる。

全く先代の閻魔に妙なカスタマイズをされたものだよ。化粧まで施されて、キミがそれを拒否しなかったなんて、よっぽど王に心酔していたんだね。王はそんなキミをどんな目で見つめたか…

ふん、とキュウビは肩をすくめる。

わかっていると思うが僕が抱える感情は嫉妬ではない キミみたいに戻らないものに執着し続けるのは性に合わないし、そんな姿を見守らなければならないのも苦しい

キミの故郷と同じ、王もとっくに土の下だというのに

 

オロチから反応がない。それでもキュウビは声を途切れさせずに喋る。

こうも毎年過去の花を咲かせるのは、先の王、貴方なのか

だとしたら貴方は、いったいいつまで戯れを続けるつもりだろうね

どうせ本気ではなかったくせに、一時の相手を手放すことも惜しいのか

大人しく眠っていればいいものを

毎年毎年艶やかな花をこれ見よがしに咲かせては、風化すべき約束を胸に灯させる

好きじゃないね、こういうやり方は

オロチとの間にある、薄くて脆い、しかしいつまでも消えない、熱情の名残り

未練がましい 鬱陶しいよ

 

雨にうたれ、呼びかけに応じて、戻ってくるのがこれまでの常だった。しかしオロチの横顔はさらに青ざめ血の気がなくなり、肌の生気の無さは幽玄の桜のほの白さに重なっていく。確実に一歩一歩と向こう側に引かれている。桜の木は恐ろしい。キミを取りこめばあの桜はより艶やかに咲き誇るのだろう。

王の残した束縛の念であってもオロチ自身の執着であっても、結局は自らが戻りたいと思わなければ戻らないのだと思う。これ以上は、介入しても仕方ないはずだ。しかし事態は随分まずい。業を煮やしてオロチの肩を揺すぶると、横向きにカクンと倒れた。

そのまま目を開けない。

 

「オロチ、オロチ」

 

呼んだが動かない。

 

「オロチ!」

 

王宮の奥、位牌の重々しい黒

供えられた百合の前に立ち尽くし、俯いていたキミの後ろ姿

辛気臭い 終わってしまったことなのに

繰り返し呼び戻され、引き込まれるなんて

 

キュウビの感情に合わせて雨の中に炎が閃いた。

 

「起きてくれオロチ!」

 

 

 

 

桜の木に通じる暗い道のりの途中で、キュウビの声を聞いた気がした。あれがキュウビの声だとしたらたかが私の色が変わったくらいで何を恐れているのだろう。オロチは不思議に思う。振り向こうとしたが、前方の何かに身体が引き寄せられた。

闇の中に浮かぶ青い光

その中に薄っすら色付くものが見えた 。それが満開のあの桜だと知った時、郷愁に似た強い感情が湧き起こる。

もう少しで辿り着く。いつも私を待たせていたあいつが、あの根元にきっと今度は待っているだろう。

あそこに辿り着きさえすれば、あの声も、笑った顔も、私だけのものだ。

近づくたび肌は透け、髪も着物も桜の色合いをさらに増し、身が軽くなっていく。

 

おまえに会えるのなら、こんなに楽になれるのなら、もっと早くここに来れば良かった

ずっとおまえに聞きたかったんだ いつまで約束を守り続ければいいのかと

ただ、おまえのもとに行けるなら、もう赦される必要もない

 

桜のまわりの大気はねっとりと生温かく、胎内に潜っていくようだ。

 

私は人が恋しい だからおまえとの約束を喜んで引き受けた

だが、人と付かず離れずなことをしながら、そんな些細なしがらみさえも煩わしいと感じる自分もいた

私という根本はきっと冷たいのだろう

 

オロチを吸い取ろうとする桜の大木はオロチの思いを肯定し、あとわずか、その身が近づくのを待っている。

 

わかるよ キミは優しいふりをして冷たい 思わせぶりなことを言って

次の日には手のひらを返したように素知らぬ顔をするのが得意だからね キミはいつでも矛盾している

 

いつかキュウビに言われた言葉が、声ごと耳に蘇る。

 

そうだ、ちぐはぐだ

それぞれの人生に少しずつ関わりながら、それ以上を委ねられることも委ねることも避けていた

真生を守り、町を見守ること

どちらも、私を生かすためおまえが残したものだったのかもしれない

私はそれに薄々気付いていたのに、終わりの見えない約束が苦しくて、それさえも忘れて眠りたいと願ってしまった

 

しかし、オロチはハッとして、自らの意思で唐突に歩を止めた。

 

だからと言って、約束を破りたいわけではない。

閻魔がもう充分と言わない限り。

私がそれを手離そうと決めない限り。

 

過去に戻りたい訳ではないのだと、オロチは目が覚めたように顔を上げた。

 

あの桜は幻想だ。

呼んでいるのは閻魔ではない。閻魔はあそこにはいない。

 

そう思って目をこらすと、咲き誇っていた桜は急に錆びたような鈍い色合いに変化していく。

 

長く引き止めて悪かった。

オロチは霊木に話しかける。

春を送り、雨の季節に戻ろう。

 

踵を返そうとした時、オロチの足元が揺れた。

地鳴り…?

太い低音が鳴り渡り、徐々に高くなるそれは引っ掻くような不快音となった。

唸り声なのか?

しまいに断末魔の女の叫びのごとくなった音は、オロチの背に冷たいものを走らせた。突如足下の地が割れ、血のように紅い桜の根がぞろりぞろりと這い出てくる。これは何だと考える間もない。身体に巻き付こうとする根を避け宙に逃げると四方八方から伸びた根に周囲を囲まれ一気に視界が赤黒くなった。手刀で断ち切り逃れようとしたがその瞬間足首に根が巻きついた。そのまま地に打ちつけられ黒い地を引きずられ、桜の根元に近づいていく。

吸い込まれる

オロチは必死に地に爪を立て双龍に根を食い千切らせ、己の体を止めようとした。が、龍の食い千切るよりも早く新たな根が途切れずに這い出て身体に何重にも巻きついてくる。喉元に食い込んだ根に、オロチは声にならない声を上げた。

自分がどの方角からやって来たのか、雨の現はどこに行ってしまったのか。

オロチはあらん限りの力を振り絞り、喉や腰に巻きついた根を自らの手で引きちぎった。

 

「…キュウビ!キュウビ!」

 

叫び、浮かびかけたところを再び根に巻きつかれ、地に戻され、引きずられる体が速度を増した。

ダメだ 取り込まれる

暗い暗い、桜の根元が見えた。

 

美しい桜の下には死体が埋まっているというのは嘘か真か

 

かつての日々、王はオロチに問いかけた。

わからない、と答えると、王は頷いた。

 

その時が来たら、その答えをそなたが選べ オロチよ

 

「嫌だ!嫌だ!ここから出たい!」

 

オロチはかろうじて動く部位をがむしゃらにバタつかせて叫んだ。

途端に、暗闇から巨大な手がまろび出た。

手は桜の大木を包み込み、まるで玩具のようにクシャリと潰す。桜の枝からザッと音を立て幾千の花が散り、触手のように蠢いていた枝は悲鳴のように鳴り、オロチを落とし、引いていく。

あの手…

身を起こし、思わずその手のもとに駆け寄ろうとして、すんでのところでオロチは止まった。

 

「オロチ!」

 

止まった瞬間を逃さず、背後からキュウビの腕が伸びた。オロチの襟首を掴み、勢いよく引き寄せる。

 

巨大な手は光となり、桜と共に黒い地に沈んでいく。

追いかけるキュウビの炎が一気に視界を覆った。

涙のように、オロチから花が舞う。

 

 

 

 

 

雨が降っている。

紫陽花の根城から這い出て、オロチは濡れる木々や白い空を見渡した。

 

「…よく私を見つけたな。」

 

「キミが僕の名を呼んだんだよ。」

 

雨の色に染まったオロチの藍の衣や髪が、紫陽花とよく合った。瞳は金色を宿している。

 

「あの桜、燃やしてしまおうと思ったのにあと少しのところで逃してしまった。忌々しい!」

 

荒く言葉を吐き出し、キュウビは眉間にギュッとシワを寄せた。

 

「キミはもう少しで囚われるところだった。僕まで夢幻のものに引きずられかけたんだ。」

 

苦しげに身を震わせる。

「僕は正念場に駆り出されるのは好きじゃない…過去やら約束やら、そんなわけのわからないものが相手なんて尚更、こんな思いを毎年しなくてはならないのはもうごめんだ!」

 

キュウビはサッとオロチに背を向けた。

普段感情を露わにしないキュウビの、激しい態度に目を見張ったオロチは、キュウビのその姿を見て去られることを覚悟した。

立ち尽くした体が自分のものではないように固まり、鼓動の音がやけに響いた。口は乾き、動かない。

 

しかし、キュウビは暫くすると肩で息をつき、振り返った。

 

「…おかえり、オロチ。今年こそ戻ってこないかと思ったよ。」

 

腕が伸び、長い指が頬を撫でた。大きな手のひらが包むように添えられる。

 

キュウビの手はあの手の固さと違う、いや、今、あいつの手は関係ない。今ここにいるのは、キュウビ。

夢の中に入り込み、迎えに来てくれた。離れていかず、振り向いてくれた。

言わなくてはならないことでいっぱいになり、喉の奥も?も熱を持つ。根に巻きつかれた首元がじんじんと痛むことにようやく気付いた。執拗に絡みついてきた、あの桜は私の執念そのものだった。

 

キュウビの指に触れ、オロチはそっとそれを握る。少し疲れたキュウビの顔が、いつもの笑みを浮かべた。

 

閻魔は何処に行ったのだろう。キュウビは思う。

桜が咲き鳳凰が舞う極楽浄土だろうか。それとも地底の王らしく、さらに深い地の底に眠るのだろうか。

 

龍のマフラーからのぞくオロチの首筋に花びらの最後の一枚が貼りついているのを見つけ、空いたほうの指でキュウビはそれを取ると、宙にはらった。

 

それから空を切るように長い腕を動かし、さめざめと降り続けていた雨をあがらせる。かわりに陽の光が幕がおりるようにさしこんだ。

所々でしずくが光り、紫陽花に小さな虹がかかる。

向かい合って互いを見つめるふたりの姿が、いくつもの水滴に映って揺らめきながら輝いている。

 

季節は変わった

言葉を交わそう わかり合おう

私たちはまだ、

流れ去ったものではないのだから

 

 

 

 

 

 



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