2018年1月24日 エンマと桜オロチ 温室植物園

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冬のひとひら

霧が途切れるのを桜オロチはじっと待っていた。

やがて冬霧の合間に町を背景とした葉をつけぬ木立が現れたのを見て、自分が小高い丘のような場所…おそらくおおもり山にいるのだろうと桜オロチは見当をつける。ともかくも自身が今どの辺りにいるのかの察しがついたので、ほっと息をついて、桜オロチは腰かけていた木の幹を優しくさすった。それから改めて自分の衣服や草履、髪の毛先までも確認してみる。それらは完全に花の色へと変わっていた。

季節外れにこの姿になるなんて

桜オロチは、心の奥底に潜り込みひたすら眠ろうとする存在にゆっくりと語りかける。

疲れているのだな 案ずることはない「オロチ」 暫しこの姿の間は私がうまくこなすから おまえは少し休めばいい

それから桜オロチは春めく少女のような姿を軽やかに翻し、白く凍える上空へと舞い上がった。違う季節が唐突にその姿を現したことを不思議がるように北風が巻き起こり、切り裂くような冷たさが薄紅の髪を揺らした。桜オロチはその寒さに身を震わせ、大きな瞳を瞬かせたが、気を取り直して町を見下ろす。

さあ、何をして遊ぼう

しばらく思案ののち、特に何も思いつかなかったのだが、とりあえずはとその身を急降下させ、桜オロチは町の中心部に近い路地に風とともに降り立った。路地の暗がりに潜んでいた妖怪たちが突如現れた桜オロチに驚き、ざわめいている。行き先を考えあぐねた桜オロチがぼんやりと立ち尽くしていると、暗がりから一匹の鬼が出てきた。男は酔ったようなふらついた足取りで近づいてくる。

 

「おまえ、良い匂いがするぞ。」

 

酔ったような、ではなく、本当に酒に酔っているのだ。大きな体で立ちふさがった鬼の、口を開けて言葉を発すると同時に漂ってきた強い酒気に、桜オロチは眉をひそめ、鬼にくるりと背を向けた。鬼は今の今まで酒を飲み管を巻いていたらしい。鬼の居た場所には低級妖怪が途方に暮れたように残されており、そのうちの何匹かには殴られたような痕がある。

可哀想に…

横目で妖怪たちの姿を確認して桜オロチは思う。

助けてあげなければ

鬼が背後から野卑な言葉を投げつけてくるが、桜オロチの耳には入らず、よって返答もない。

何を言っても自分に背を向け目も合わさないことに血が上ったのか、急に声を荒げた鬼が腕を掴もうとしてくる。

いきなり桜オロチはふりかえった。

わずかに浮遊していた体をいったん地に落とすと強く蹴って跳ね上がる。そのまま相手に飛びこむと首にさっと手を走らせた。触れてはいないはずが、桜オロチのその手の動きに合わせて男の体は回転し、地面に強く叩きつけられる。

 

「戦いたくないな…でも仕方ない。」

 

桜オロチは呟く。

地に叩きつけられ一瞬息が止まり、しかしその後に怒声とともに起き上がろうとした男の頭を踏んで、桜オロチは再度跳ね上がった。軽やかな跳躍が終わらぬうちに、再度白い手が振られ、鬼の体は狭い路地を吹っ飛び、壁にどうと打ち付けられた。

息をのんで見守っていた周囲の妖怪たちから、ワッと歓声が上がる。

桜オロチは男が起き上がってくるのを待ったが、鬼は呻いたまま動く気配がない。

手加減したつもりだったけど…

桜オロチは首を傾げ、鬼に近づいた。

 

「痛かった、か?」

 

鬼はいっそう大げさに呻いた。哀れになり、回復するまでそばにいてやろうかとも思ったが、少し考え、やめることにした。

 

「今後は無暗に暴れないことだな。」

 

鬼にそっと言葉をかけると、相手に触れずに倒したことに満足しながら桜オロチは踵を返す。その瞬間目の前に立っている少年に気付き、桜オロチは目を見張った。

つり上がった目、気の強そうな顔立ち、跳ね上がっている黒い髪。華奢な少年の姿だが桜オロチよりやや背が高く、ズボンの裾からスラリとした足を覗かせ真っ直ぐに立っている。鬼に気を取られている間は気付かなかったが、少年からは体に収まりきらない強い妖気が溢れだしていて、あたりに渦巻いていた。

呻いてうずくまっていたはずの鬼が悲鳴をあげて逃げ出し、周囲の妖怪たちはおののいて後ずさった。

人に化けた姿は初めて見たが…

 

「エンマ大王か。」

 

桜オロチが問うと、エンマは笑い、鷹揚に頷いた。

 

「か弱そうなのが絡まれてると思ったら、おまえ存外に強いな。」

 

明るい調子で話しかけられ、桜オロチはふふっと得意げに笑った。相手がエンマだとわかって懐かしさや親近感のような気持ちが広がり、一気に楽しい気分になっていく。何よりも、いい遊び相手を見つけたという思いがあった。

エンマも、私の姿を見るのは確か初めてだった。自己紹介しなくてはならないだろう。

 

「見た目だけで見くびってもらっては困る。私はオロチよりも強い。」

「オロチ…?」

 

エンマが眉間に皺を寄せて首を傾げるのを見て、桜オロチは続ける。

 

「私はオロチだ。だがこの姿の間の名は桜オロチ。おまえのことも知っているよ、エンマ。」

 

何気ない顔で呼び捨てにされたが、そこにエンマは拘らず、桜オロチを見つめる。

 

「女かと思ってたぜ。おまえ、オロチの別人格か…?」

「難しいことはわからない。」

 

桜オロチは薄く色づき眠そうに見える目をしばたかせ、穏やかに笑った。

 

「オロチと私は同じ存在だが、主体のオロチは今、心の奥で眠っている。この姿でない時も、オロチが見たものを全部ではないが私も見ているし、私が見たものも少しはオロチに残っていると思う。たぶん。」

 

言いながら桜オロチは人の姿に身を変えた。衣服の形が多少変わり白龍たちがその色のままのマフラーとなって胸元に収まった程度の変化は、目立ちすぎるきらいのある華やかな髪色や瞳の色をそのままにしたが、気にせずに桜オロチはエンマに歩み寄った。

 

「それより、遊びに行こう。」

 

人の姿でこの町にいるということは、おまえも休息が必要なのだろう

だが腕を絡ませるとエンマにギョッとしたような表情が浮かんだので、少し考えて腕を外した。そのかわりに手を繋ごうとすると、余計に目を見張られた。

 

「何してるんだ?」

「…ダメなのか?」

 

桜オロチは手をおろした。

 

寒いのに…

 

「うーん…」

 

エンマは頭をさすった。

 

「おまえ、普段のオロチとずいぶん違って調子が狂うぜ…。まあいいや。ついてきたいなら、ついてきな。」

 

そう言ってエンマが歩きだしたので、遠巻きに見ていた妖怪たちにひらひらと手を振りながら、桜オロチは後を追う。

と、ばさりと上着が飛んできた。

 

「おまえの恰好、見てるだけで寒いんだよ。貸してやる。」

 

エンマの声は不愛想で、投げられた上着は1月の寒さには不足のある薄手のコートだったが、エンマの体温の残るそれを羽織るとむき出しの腕が外気にさらされなくなり、桜オロチはほっと息をついた。

大通りに出ると、途端に木枯らしが吹きつける。行き交う人々は誰しもが暗い色合いの上着を着こんで寒さに身を強張らせながら歩き、皆が一様にうつむきがちだ。人々がふと歩を止めて見下ろす、あるいは見上げるような花は、どこにも咲いていなかった。それでも桜オロチは楽しげに周囲を見渡し、歩を進める。この姿となって見る世界の、なんと美しいことか。白く曇った空でさえ、清らかな感動を携えて目に飛び込んでくる。

 

やがて訪れる春にはさらに色が満ちあふれ、空と地に鳥がさえずり、花がいくつも咲くだろう

私はただそれを待てばいい

 

流れに逆らわずに体を滑らせていけば、優しい季節が訪れ、腰に腕を回し、微笑みかけてくれる誰かが必ず現れることを、桜オロチは知っていた。エンマの体温が残る上着に包まれていると、いっそうの色を乗せて咲いていく温かな夜の記憶が蘇る。吐息から花を散らし、薄紅の爪で相手の髪をすき、その時だけが意識がはっきりする甘やかな時間。身を委ねるときのなんともいえない温もりを、桜オロチは思い出して微笑んだ。

 

たくさん愛してほしい

ひとつ、またひとつと、この身の花を咲かせてほしい

私は咲くために生まれたのだから

 

追憶に浸る桜オロチの表情は優しく彩られ、それがオロチだとはにわかに信じられないほど普段の眼光の鋭さや張り詰めた気配はない。横を歩くエンマはその横顔を不思議そうに眺めた。と、大人びたような笑みを浮かべていた桜オロチの表情が一変し、ぱっと目が輝いた。

 

「エンマ、あれは?」

 

桜オロチの指さすほうは駅前の広いロータリーとなっており、昼時だからだろうか中央の広場にはいくつかの屋台が出ていて、何組かの家族やカップルが寒さにも負けずたむろしていた。桜オロチの指さしたのはいくつかの屋台と一緒に並ぶオレンジ色のワゴン車で、問われたままにエンマは【森のクレープ屋】と車体に書かれた文字を読み上げた。

 

「クレープ!」

 

言い終えぬうちに桜オロチが走っていく。

信号を見ているのか見ていないのかたまたま青だった横断歩道を突っ切り、目当てのワゴン車にかけよると、尚も桜オロチは店員に近づこうとした。だがそこで2,3人の客が既に並んでいるのに気付き、その最後尾に桜オロチはつく。

何にしよう

メニューに目が釘付けになる。

チョコレート ラズベリー キャラメル バナナ…

少し迷い、やっぱり苺にしようと頷く。そのまま並んでいると、わざとノロノロと歩んできたエンマが呆れたように後ろから声をかけてきた。

 

「一応聞くけどよ。おまえ、手持ちは?」

「手持ち?」

「金だよ金。」

「金など持ったことはない。」

 

はあ?とエンマは声を上げ、それから大きくため息をつく。

 

「なんだおまえ。世慣れてないのは普通こっちのはずだろ。俺は大王だぜ。」

 

だが、ちょうど自分の番になった桜オロチは目を輝かせながら注文している。エンマは目を細めそれを見ていたが、いざ金を払う段になると肩をすくめて近づき、財布を出した。支払いをすませると、桜オロチがにっこりと笑いかけてくる。

 

「おまえは持っていたんだな。金を。」

 

俺が持っていなかったらおまえはどうするつもりだったんだよ

心中で呟きながらも、よく妖魔界を抜け出して買い食いしてるからな…と物憂げに応じてやる。エンマが応じるそばから、桜オロチはクレープにかじりつき、幸せそうに食べ始めた。

聞いてるのかよ

エンマは独り言ち、それから目を走らせて主食と一緒に菓子を売っている屋台を見つけた。適当にいくつかの駄菓子を選んで桜オロチの横に戻ると、エンマは麩菓子をつかんで口に放り込む。そのエンマにクレープを頬張りながら屈託なく笑いかけてくる桜オロチの顔は、先ほどまでの窺い知れない表情が鳴りを潜めていてひどく愛らしかったが、自らの心に浮かぶその印象でさえエンマを苦笑させた。

調子狂うぜ…

ただ、ひとりで町を彷徨うよりも、まあ楽しいかもしれない

エンマは、なぜ自分が王宮を抜け出してきたかを急に思い出した。駄菓子をバリバリと噛み砕き、陰鬱な空を見上げる。

帰ったら、やるべきことが山積みだ。

軽く頭を振ると、エンマは周囲に花が散るかのごとく幸せそうな桜オロチに目を戻した。

しかしこいつが甘いものでこんなに喜ぶとは…

若菜色の瞳をキラキラと輝かせているその顔が、まったく気楽に見えた。頬に生クリームがついている。俺もよく自発的休暇を取るが、ここまで振り切れた顔はしねえ

エンマは思わず吹きだした。

 

「ありがとう」

 

食べ終わると桜オロチは笑みを浮かべ、エンマの先にたって歩きだした。後を追う形になるのは癪で、エンマはその桜オロチを足早に抜き、わずかに半歩先を行く。昼下がりのビル街から離れるほど人はまばらとなり、住宅が立ち並び始めた。

商店街のほうへ歩いたほうが、こいつの興味を引くものがあるかもしれない

エンマはそう思ったが、一軒の軒先に梅が咲いているのを見つけ、桜オロチは微笑んで手を伸ばした。

 

「この時期は花が少ないな。」

 

ぽつりと呟かれた言葉を聞き、花か…とエンマは考えを巡らす。人間界に忍んで遊びに来た何度めかに、古びた植物園を見かけた覚えがある。

人が入っている印象のない植物園だったが、今もあるだろうか

ひとまず向かってみようと決めたエンマに、桜オロチがゆったりとついていく。

 

果たして寒風の住宅街の中、温室植物園という小さな看板を掲げてその園は存続していた。

エンマは、入り口近くのプレハブの中で炬燵に入ってまどろんでいた老婆を呼び、入園料を払った。半透明のガラスに覆われたモスクのような形の中に、緑が茂っているのが透けて見える。ひっそりと立つ建物の中にふたりは入っていった。

入るなり、桜オロチが小さく声を上げる。寂れた外観に反して、植物園の中は青々とした熱帯の葉でいっぱいだった。さほど広い室内ではないものの、蔦の絡まるアーチを抜ければ無人の広場のそこかしこに南国の花が咲いている。湿気と温かさは乾いていた肌を潤し、花や葉や土の混ざり合った強い香りが染み込んできた。中央の、崖に見立てて盛られた土石には人工の小さな滝があつらえてあり、その水の流れるささやかな音こそあれ、外界から遮断された空間はとても静かだった。見上げれば柔らかく円を描いて空に繋がっていく窓枠はなかなかに豪奢で、客は来ないが道楽で運営されている植物園なのだろうかとも思えてくる。

ひとつひとつ花に顔を寄せ、桜オロチが目を細めている。桜オロチの視線が注がれた花は、より美しく輝くようにエンマには見えた。嬉し気なその姿はやはり少女のようで、普段のオロチの他者を寄せ付けないようなオーラは全くなく、やっぱり別人格ではないのかとエンマは思う。待っているとそのうち、ひらひらと飛び回っていた桜オロチが戻って来た。

 

「滝の山の後ろに椅子がある。そこに座ると花に囲まれてとても綺麗だ。」

 

桜オロチに手を引かれ行ってみると、確かにひと際鮮やかな一帯となっており、置かれている小さな鉄製ベンチもどこぞから取り寄せたものだろうか、細かい花の細工が背もたれや柄などに一面施されていて洒落ていた。座ってみると円の形に葉で囲まれ、足元には花が広がり、滝の音が遠くなって滲むように聞こえてくる。真冬のはずだが、ガラス越しに柔らかく注ぐ陽光と室内の湿気は充分ふたりを温めた。

 

不思議な空間だった。

ここは様々なものから遮断されている、とエンマは感じる。

流れる音は血潮の音

触れられているような温もり

懐かしい匂い

胎内というのもこんな心地だっただろうか

そこまで考えてふと亡き母の面影が立ち、エンマは慌てて頭を振った。思慕にとらわれるほど自分は幼くない。強くそう思ってみたが、いったん浮かんだ面影を前に、居心地が悪いようないたたまれないような、そんな気持ちを抱えてエンマはふっと息をつく。桜オロチがそんな気持ちを見透かすわけもないが、なんとなく気恥ずかしくなって、エンマはそっぽを向いて茂る葉を眺めた。

最近はずっと激務に追われ、少し気が滅入っているのかもしれない。いや、本当は仕事の多さなどよりも、どの蓋を開けてみてもかつて爺ちゃんが絡んでいたことが判明することのほうに気が滅入っている。おもしろくない。やることなすこと、爺ちゃんが先に関わっていて、ある程度を成していたこと。

下手をすると俺は爺ちゃんの手のひらの上で転がされているだけなのではないかと、そんな感覚に時に苛立ってしまうんだ…

 

気に入らねえ

エンマは呟いた。

 

ふっと空中に舞った桜の花びらを、桜オロチは細い指でつまんだ。

それが雪のように溶けてなくなるのを見届けてから、気付かれないようにそっと、エンマの横顔に視線を戻す。整ったエンマの顔つきの、ふとした表情に閻魔が重なる。大雑把なようで無駄の無い立ち振る舞いや、揺ぎ無い声で発されるはっきりした物言い。視線が合えば誰もが胸をときめかせるのだろう。惹き付ける力の強さはさすが閻魔の血を引いていると言うべきか。しかし今その顔には微かな疲れがある。エンマはもっと飄々とした、少しの隙もないヤツだと思っていた。オロチの目を通して見るエンマがそうだったから。

だが、おまえのような天性の王であっても、苦しみや惑いからは逃れられないのだな

先ほど一瞬エンマの目に走った、置いていかれた子どものような眼差し。同じ眼差しをどこかで見た覚えがある。あれは、そう…日影真生だ。

桜オロチは閻魔が残した子どもたちを想った。そして閻魔を想う。かつて閻魔から自分に注がれた熱を持った視線、王としての測り知れない力量、豪胆さ、少しの冷徹…

 

「先の王も花が好きだったよ。」

 

ぽつりと紡がれた桜オロチの言葉に、エンマは僅かに身を強張らせた。やっぱりな、と苦さが広がる。

俺に出会うよりも前に爺ちゃんと出会っていたヤツが、ここにもいやがった

暫く黙り込み、後にエンマは、そうかよ、とだけ無愛想に返した。サラサラと水は流れていく。

 

 

 

 

追憶の中で、桜オロチは誰かと肌を重ねている。

甘やかな匂いのたゆたう身を相手にそっと寄せ、その背をなぞり微笑んでやるだけで、どんな男でもすぐにその男根を直立させた。男は夢中で桜オロチに腕を回してくる。耳元に荒々しい息遣いがした。

 

あの時のあの相手は誰だったっけ

 

桜オロチは首を傾げた。抱かれていれば喜びで胸が満ちるのだ。だが全て思い出そうとすると立ち眩みのように視界がにぶる。どこからどこまでが、オロチの目を通して見たものだったか。

 

そなたはオロチだが、だが同時にこの世のものではないのだ

 

閻魔の低い声が蘇る。

 

美しい春よ、おまえの纏っているものは恐ろしく、だが我にはおもしろい

 

桜オロチは閻魔の静かな瞳を見上げた。冬の湖面のようなそれに物足りなさを感じたが、もっと愛されたかったのでにこりと笑い、その笑みは周囲に優しい花の香りを振りまいた。

 

おまえを抱くと花に満ち、おまえの瞳の白い光に引き込まれそうになる

焦点の合わない、まどろみのようなその目…

 

閻魔は桜オロチの髪を撫で、呟いた。

 

今夜も楽しませてくれるか

 

続けての言葉に思わずふふっと笑い声をたててしまう。任せてくれと胸をはって言える。

桜オロチの緑の瞳は弧を描き、唇は妖艶に口角を上げた。伸ばした白い指先が閻魔の鼻筋をなで、胸を触り、やがて蛇のように絡みつく。

だが閻魔の首に腕を回すと、そこに微妙な熱を感じて一瞬手が止まる。頑健そのものの見た目をしながら、その頃の閻魔は原因不明の熱を出すことが多くなり、それでも昼間はこなさなければならない政務を黙々とこなしていた。夜には口付けを交わし、愛おしそうに頬を撫でてくるのに、それなのにその次の瞬間には急に咳き込み、大きな体を震わせたりする。

閻魔が床に臥せることが多くなったのはいつ頃からだっただろうか…床から私を呼び、珍しく切なそうな声で、閻魔は私に何を言っただろうか。

はっきり覚えていない。まあ、いいか。何度も私を愛してくれたことは覚えている。それで充分だ。

 

ふふっ

 

桜オロチは軽やかに笑う。それから、この姿になる度に思うことを今日も思う。

 

戻りたくないな、オロチの姿に 彩度を下げた、あの世界に

雷のように強い情念に突き動かされて、守ろうとして、戦って、それでいて何も確かにしようとしない オロチではないこの姿になれば、地を這うような感覚がゆっくりと抜け、花が体に満ちていくのに 花はいつでも手を伸ばし、私に味方し、咲き乱れていく

 

桜オロチがふうと息を吐くと、花びらが生まれ、ちらちらと舞った。

 

必ず誰かが私を見つけ、そうすれば私はこの追憶の木を離れ、温かい腕の中に身を委ねることができる なんて楽なのだろう 委ねることは心地よい 愛されて、ただそれだけでいい この世界は色に満ちている 難しいのは嫌い 苦しいのも嫌いだ

 

そこまで思って、背中に視線を感じ、桜オロチはゆっくりと振り返った。

予想通り、人の子どもがひとり暗闇に仁王立ちし、怒りとも哀しみともつかぬ薄暗さをたたえてじっとこちらを見ている。子どもは何を言うでもなかったが、途端に脳裏に火がちらつき、桜オロチは苦しげに眉を寄せた。

オロチの向こう側のもう一人のオロチは、名も無き無力な子どもであるのに、許さない、許さないと、黒い炎を揺らめかせながら番人のようにここに巣くっている。

 

哀れな子ども 私までおまえの怨みで束ねないでほしい

 

桜オロチは寂しく微笑み、子どもから静かに目をそらした。

 

 

 

 

子どもから弾き飛ばされたように、桜オロチの意識は熱帯の葉に囲まれたベンチに戻って来た。子どもの暗い視線がまだ体にまとわりついているようで、寒気を感じて身を震わせる。

そんな様子をちらりと見て、エンマは手を伸ばし、桜オロチの手を掴んで自分のポケットに引き込んだ。エンマの手は温かかった。ふたりは無言でガラス越しの空を見上げた。

 

「吹雪きそうだな。」

 

上空にはいつのまにか厚い雲が立ち込め、強い風にあおられてその形を変化させていく。

うん、と桜オロチは頷いた。

急速な眠気が込み上げていた。おそらくは先ほど記憶に現れた子どもにオロチの心が呼応し、目覚めかけているのだろう。それなら私は眠りが訪れるまで、ただここから吹雪く空を見上げていればいい。次に目覚めたらオロチとなって、きっとすぐに私はおおもり山に戻るのだろう。桜オロチは小さく欠伸をした。

綺麗な水と、空気と、陽光、愛を注いでくれる誰か それだけあればいいのに

何度か眠い目をまばたきさせた後、桜オロチはエンマに身を寄せ、その肩にそっともたれかかった。すっと香気が漂い、エンマの鼻梁をくすぐる。桜オロチの白い指が伸び、エンマの頬を撫でた。

 

「私はもう眠るから、」

 

見上げられた大きな瞳の、底にゆらゆら揺れる光がエンマを捕らえている。

 

「少しだけでも触れてほしい。」

 

そう言って、桜オロチは身を起こすと、エンマに口付けた。

エンマは目を見開いた。柔らかな唇から伝わる花の香りが、熱をもった体内に、冷たく甘く滑り落ちていった。

その途端、夜に浮かび上がる桜の大木が目の前いっぱいに浮かび上がった。風に乗せられ幾千と乱舞する薄紅が、物言わず夜を彩っている。妖しく狂おしい美しさに体が痺れ、強い眩暈がエンマを襲った。

 

と、唇が離れる。桜オロチの目元や頬は、口付けに満足したように薄っすらと紅色を増していた。瞳をいっそう揺らめかせ、桜オロチはエンマに微笑んだ。エンマはその顔を呆然と見つめる。不意に理解していく。

あの桜はかつて爺ちゃんのものだった 儚さと狂気の混じり合った春を、爺ちゃんはおそらくこともなげに傍らにおいて愛しんだのだろう

絡まり合う妖魔界の出来事の、中心にいつも見え隠れする先の王の顔は、家族として接してきた祖父の顔とは違う表情をしている。

俺は、爺ちゃんでしかその意味を知り得ない存在と、これから何度出会うのだろう

エンマは、だが、やがてその眼の底に鋭さを取り戻していく。もう苛立つ気持ちはわかなかった。

エンマは瞳を閉じかけていた桜オロチの顎に指をかけ、上を向かせる。

 

「もう一度見せてみろ。」

 

今度は自分から口付けた。

触れた途端にやはり、視界いっぱいの桜吹雪と夜の大気、狂おしい物悲しさ、春の風に乗せられ乱舞する薄紅。箱庭のような世界がエンマを取り囲む。

夜のしじまに幾度となく咲いたのだろう 爺ちゃんもこれを見ていた どんな気持ちで見ていたんだ

薄紅の花びら一枚の向こうに、暗く待ち構えているものを、降り積もった想いを、透かして見ようとエンマは目を細めた。

そこにあるものを知らなくてはならない

だが手を伸ばしてもつかめない桜は、ただ靄のような紅となって無言で舞っていく。

もっと、もっと見たい

深く舌を絡ませると、桜オロチが微かに声を上げた。桜オロチのそのおとなしやかな見た目の奥に、先の王の、妖魔界の、幾多の記憶を抱え込む異界が隠れていることを、エンマははっきりと自らの目で知った。

オロチ、おまえが望んで纏ったものなのか

エンマは唇を離した。体の中に数枚の花びらが舞い込んできた感覚があり、口に僅かに甘さが残った。

心は妙に高揚し、エンマはもっとその先を知りたいと願ったが、唇が離れた途端に桜オロチはかくんとこうべを垂れ、エンマの胸に顔をうずめた。

 

「おやすみ、エンマ…続きはまた今度だ」

 

強い眠気は桜オロチを引き込み、夜へ夜へと誘っていく。

 

どこかで誰かが呼んでる

 

まどろみながら、桜オロチは思う。

 

誰だっただろう…あの声は…

 

意識はそこで途切れた。

空中に現れた最後の花びらは、エンマの前でやがてひとひらの淡い色となり、消えていった。

 

 

 

 

 

 

 



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