1997年、春
噴水の音がした。外からの光がレースのカーテン越しに外の庭の木々の柔らかい影を作ってる。ちょっぴり湿っぽい空気は、こないだまでいた砂漠と全然違って、体がムズムズする。
フカフカのソファに、ピカピカのテーブル。上には金色の何に使うのかよくわからない器だとかライターみたいなものとかがおいてある。壁には絵と十字架がかけてあって、なんだか厳かな雰囲気だ。
扉の向こうから音がした。僕は師匠を見上げた。師匠は扉を開ける主をまっすぐ見ていた。
入ってきたのは浅黒い皮膚をした男だった。胸に十字架をくっつけているから神父か牧師なんだろう。師匠の訪問をあまり快く思ってないようだった。
「その子が電話で話していた子か」
「ああ。ブランクって呼んでる」
師匠は僕を立たせた。普段着ないような襟付きの服を着せたのはこのためだったらしい。
神父は僕を頭のてっぺんからつま先まで見つめた。そして何か汚らわしいものを見るようにして目を逸らす。
「こんな子を代わりにする?頭がおかしいんじゃあないか。彼は、もういない。どんな才能があったって彼になりうる人間なんてこの世に一人もいるものか」
「待ってくれ。それだけじゃない」
師匠は机の上に地図を広げて指差して、縋るような必死さで神父に説明する。
「この子は、彼の…子どもかもしれない。その可能性だってある。生まれながらのスタンド使いで…みろ、地図、彼の旅した場所で……!」
神父はそれを机から叩き落として怒鳴った。
「代わり?代わりだって?彼の代わりなんてあるものか!彼は失われたんだよ、永遠に!そんなちっぽけな代用品で私と彼の関係性まで穢すな!」
僕は神父を眺めた。僕は自分が怒鳴られようと殴られようと何も感じない。でも、その言葉に師匠が傷つくのはわかった。
師匠は落ちた地図をただ黙って見ている。
神父は激昂したことを恥じるように口を一度覆ってから、今度は静かに言った。
「この子と君の出会いは運命かもしれない。だがそれは、彼とは全く関係ない別の引力だ。いい加減現実を見ろ。年も合わない。それに彼に似てるとこなんて何一つないだろ」
師匠は黙りこくってしまった。僕は師匠が僕をどうしたいのか、直感でわかってても言葉にはできない。ただ、少し前から彼の心に迷いを見ていた。
神父はそれをズバリ言い当てたんだろう。
「……」
「…教会から孤児院を紹介できる。置いていくか?」
神父の言葉に、師匠は首を横に振った。
「いいや…オレは、諦めない…こいつは、いつか弾になる。あの、空条承太郎の心臓を貫く銀の弾丸に」
「そうか」
神父は嘲るような口調だった。
師匠は僕の手を掴んで部屋から出た。その手はとてもあつかった。
僕はそのあつさにおどろいて思わず尋ねた。
「ししょう…ぼくはここに残ったほうがいいですか」
「残らないよ。お前はオレと一緒に行くんだ」
「どこへ」
「どこまでもだ。道を見つけるまでどこまでも」
あの時師匠の手に宿ったあつさが、急に瞳に涙として宿った気がした。頬から水滴がこぼれ落ちた。それは涙ではなく、血だ。
船底にはブランクの血がたくさん流れていた。朝日に照らされている朱色の血。生きている証拠。
「僕は空っぽなんかじゃない。それを隠すのがうまかっただけだ。だからここまで…失うまで、気付けなかったんだ…」
顔を拭う。だが手も血だらけだから効果がないかもしれない。でももうそんなことブランクにはどうでもよかった。ただ頭と胸がねじ切られそうなくらいに苦しい。
「辛い、苦しい…寂しい…みんないなくなっちゃった。耳も吹っ飛ぶし、目も潰れるし、手もえぐられるし……しこたま殴られたし…」
「最後のだけ自業自得じゃないか?」
メローネが突っ込む。確かに今痛むのはほとんどギアッチョにぶん殴られた部分だ。
「もう傷つきたくないよ…」
「傷つかない人生なんて死んでるのと同じだろ。…つーかめそめそ鬱陶しいな…あれもこれもやりたくない、じゃあどうしようもないだろ。イヤイヤ期ってやつなのか?」
ブランクは黙って、鼻水を啜った。メローネは教会の方をじっと見つめた。そして滔々と昔話でもするかのようにブランクに話し始めた。
「オレたちはお前がきてから散々だったぜ。名誉も地位も、尊厳も何もかも、ハゲタカみたいなヤツらがこぞってオレたちから奪っていく」
ブランクはまた胸がいたんだ。足元を睨みつけて黙ることしかできなかった。
「この世界じゃ全員が奪う側に回ろうとする。でもオレたちははじめからそういう奪い合いゲームの中で生きていた。それまでずっと奪う側だったから忘れてただけで」
暗殺は人間の命を“奪う”ことだ。人間から奪えるものの中で一番重いものを奪い、対価を得る。そうしなければ生きていけないから。
「誰も彼もがお互いに奪い合う。それが世界のルールなんだ。こうなったのはお前のせいじゃない。ギアッチョもわかってる。もっと大きなものが、オレたちをこんなとこまで追いやったんだよ」
「……そんな理屈…僕にはわからないよ」
「そうか?お前もずっと、誰かに都合よく搾取されていたろ。ムーロロに、ボスに。お前は奪われ続けてたんだよ」
イルーゾォの言葉が、ふいにブランクの脳裏に蘇った。
テメーが毎日をやり過ごせねえ程に怒ったことねーのは、テメーがボケっと生きてるからだろ
そう、僕は毎日を、漠然と、やり過ごせれば幸せだと思ってた。
誇りとかクセーこと言うつもりはないが、そういう生きる支柱みてーなのが傷つけられた時に怒るんだよ
僕はいま怒ってるのかな、イルーゾォ。
それがわかんねーってことはてめーは今まで誇りなんて感じたことなかったってことだ
ブランクはやっと、身体を起こした。そしてメローネをまっすぐ見て問いかける。
「……メローネは…僕がここで逃げ出したら、僕を殺す?」
「…まあ一回限りで見逃してやるよ」
「どうして?」
「さっきお前に助けてもらったから」
「……それだけ?」
「あっ、おい。オレが優しいやつだなんて勘違いはよせよ。そうじゃあない」
メローネはわざわざ手をびしっと前にして断りを入れた。そしてブランクの手の傷を指差し、はっきり言った。
「お前は自分が死ぬかもしれないのにオレを助けた。オレがお前を見逃すのはその傷への見返りだ。
メローネとブランクの視線がかっちりと合った。メローネはトルコブルーの瞳で、ブランクはウルトラマリンの瞳で。ブランクはゆっくり瞬きしてから、目を逸らす。
「……逃げないよ。僕、泳げないし…」
「あっそ~かよ。じゃあもう黙って鼻血拭いてろ」
「………メローネ。さっき世界は奪い合いだって言ったでしょ。本当にそうなら、世界は残酷だね」
「そうだ、残酷だ。だからオレたちは奪われただけボスから奪い返してやるのさ」
強いものだけが、勝者だけが、すべてを掴む。それがギャングの掟だ。
「それでお前はどうする。苦しいからってそこに座ったまま動かないのか?」
ディアボロは娘、トリッシュに会ってみて“実感”した。
地下納骨堂に逃れて、高窓から届く僅かな明かりでしか顔を確認できないが、確かに血の繋がりを感じる。
ほとんど直感で、“これが自分の娘だ”と感じる。それはつまり、娘も意識があるときならば自分の存在を直感で察知できるということだ。
やはり、始末しなければならない。自分へ繋がる痕跡は、血はここで絶たねば。
リゾットは完全にまいたはずだ。エレベーターの穴に気づいたところで姿を捉えることはできまい。
ギ…
そこで本来聞こえ得ない音がして、ディアボロは柱の影に隠れる。納骨堂入り口の扉がゆっくり開いている。
「…ようやく辿り着いた。本来ならば沈黙のうちに標的を葬り去るが、お前には…しっかりとけじめをつけなきゃならない。死ぬ前に自分が何に殺されたのか理解してから死んでもらわなければ、仲間が浮かばれないからな」
「…リゾット・ネエロ……何故わたしがここにいるとわかったのだ」
これもやつの能力か?エレベーターから一直線に来なければ追いつかれるはずがない。
一体何を感知している。
リゾットの姿は扉の前から不意に消えた。
階段を降りる靴音が僅かに聞こえた。
ちゃり…ちゃりちゃりちゃり…
金属がこすれるような音が抱えているトリッシュのもとから聞こえてきた。
「……これは…」
トリッシュの手だ。左手に小さな切り傷がある。そしてそこから“釘”が生え、階段の方へ引っ張られているのだ。
「まさか…磁力か…!」
ディアボロは迷わずトリッシュの左手を切断した。
「これほど早くオレの能力を悟ったのは貴様が初めてだ。だがすでに射程距離に入った」
射程距離と聞きディアボロはとっさに後ろへ下がる。途端ディアボロの左腕から大量のカミソリが生えてきた。カミソリは手首の動脈を的確に切り裂き血飛沫とともに地面に落ちる。
「何ッ…!」
その血にはおぞましいスタンド像が見える。体内に発現させるスタンド…これでは攻撃されるまで何もわからないわけだ。
血しぶきが空中で止まったように見えた。いや、血が、リゾットにかかったのだ。
姿の見えない理由がわかった。やつは磁力で鉄を操ることができる。おそらく砂鉄を纏って磁力で姿をカモフラージュしているのだ。
「右だな」
こちらがやつの姿をほとんど視認できないのに対して、リゾットはまだこちらの位置を探知している。
いや、もうすでにかなり近くにいるはずだ。トリッシュを探知しているのか自分をすでに捉えているのかはわからないが、とにかくトリッシュを抱いたままでは殺られる。
ディアボロはトリッシュを投げ捨てる。そしてキング・クリムゾンの能力で時を飛ばし、さらに奥へ距離を取る。
だが完全に射程圏外に出ない限りスタンドそのものが消えるわけではない。
「逃がすか!」
納骨堂から外へ抜けようとしたのは失敗だった。この狭い空間ではやつを振り切るのは困難だ。
だが…一度能力の種がわかれば、そしてキング・クリムゾンの射程圏2メートルに入りさえすれば、確実に殺せる。
ヤツの姿は見えないが出血部位から窺える群体型スタンドの密度からして射程は10メートルがせいぜいだろう。離れれば離れるほど密度が落ちている。
チキ…
皮膚の下で何かが動く感触がした。左のこめかみだ。やつは少なくとも左側にいる。時を飛ばし一気に駆け寄り、確実に殺す。
離脱までにこのカミソリが体外へ飛び出すのは確実だろう。だがこのままヤツの仲間がやってきて、トリッシュを置き去りにして逃げざるを得なくなるのが一番恐るべきことだ。
「傷を受ける覚悟なくして、何も得ることはできん!因縁を断ち切るための、これは試練だ」
「メローネ…やっぱまけてねェーじゃねーかよ」
ボートはまっすぐこちらへ向かってくる。
ギアッチョは即座に行動を開始した。
ミスタは遠くに見えるサン・ジョルジョ・マジョーレ島を眺めながら操縦をしているブチャラティに話しかける。船上には二人だけでジョルノとアバッキオは亀の中で待機している。
「…本当に奴らは…ボスはあそこにいんのか?」
「ムーディー・ブルースのリプレイで確かに聞いたろう」
ー今ここで憶測を言うのは、先入観により判断を鈍らせることに繋がると思います。一つ確かなのはサン・ジョルジョ・マジョーレ島に必ずいるということ。それだけですー
リプレイで映し出される赤毛の狙撃手は仲間にひどく殴られていたようだった。ミスタは何があったのかとても気になったが、前後のつながりまで聞いている暇がなく、リプレイ後すぐにボートを前進させた。
ボートは飛沫を上げて、サン・ジョルジョ・マジョーレ島に向かっている。
敵の妨害もない。教会内ですでにボスと戦っているのだろうか?だとしたらジョルノの心配事が実現してしまったというわけだ。
そーだとしたら相当ヤバいぜ。まさか4月に入ったせいか?オレに一月まるまる家から出るなって言ってんのかよ。クソッ!
ミスタは心の中で悪態をつく。そして朝日に照らされる教会を睨みつけ…キラリと空中で何かが光を反射しているのを発見した。
「ブ、ブチャラティ!今すぐ船を止めろーーッ!」
ミスタはブチャラティから無理やり舵を奪い、ハンドルを思いっきり切った。だが遅かった。
進行行方向上に並べられた氷のつららが舟の胴に突き刺さった。
「これは…!」
つららはいくつかブチャラティとミスタの体を抉っていた。飛び散った血で色が付き、まるで剣山のように並べられていた氷の罠が明らかになる。
「空気中の水分を凍らせて作ったんだ!ギアッチョ…あいつがいる!この周囲に潜んでいるぞ!」
「潜むって言ったってここは…うっ!」
ブチャラティは自分の手に起きた異常にようやく気がついた。ボートについていた手のひらの皮膚が剥がれ、ひっついている。
「凍っている…!痛みに気がつかないほどに!」
「下だ!」
ミスタはすぐさま川へ発砲した。弾丸を水中で届けることは難しい。だが敵の姿を確認することくらいはできる。
「イルゼェーミスタ!ヤツハ船底ニ張リツイテヤガルッ!アンタノ真下ダ!!」
途端、ミスタの足元から底がぶち抜かれ、氷をまとった腕ががっちりと足を掴んだ。ホワイト・アルバムのメット越しにギアッチョとミスタの視線がかち合う。
「引きずり落としてやるぜェーーーッミスタ!!」
「しぶてえヤローだなテメーはよォーッ!」
ミスタは無理やり腕から足を引っこ抜いた。ズボンと皮膚が持ってかれる。血まみれの足さえもどんどん凍りついていく。
「クソッ…!血が凍りつく…!」
ブチャラティが持っていた亀の中からジョルノだけがでてきた。状況を見て息を呑む。
ボートの周りが次第に凍りついていき、スケートリンクか氷山みたいになってゆっくり川を流れていっている。
「まさか泳ぐしかねーのか?!島まで100メートルはあるぞ」
「いいえ、まだ諦めるには早すぎます」
ジョルノは攻撃により破損したボートの部品を魚に変えた。カプリ島のときと同じことをしようとしているわけだ。
「わかってねーようだな。オレのホワイト・アルバムは…流れる水だろーと関係なく止められるんだよッ!」
ギアッチョはボートに上がり叫んだ。そしてジョルノたちを追いかけるように水面が凍り付く。
ジョルノは自分以外を亀にしまい速度を上げるが、ギアッチョは凍った水面をスケートで滑ってきてすぐに追いつき、ジョルノに蹴りを入れた。
するどいブレードがジョルノの背中に突き刺さり体が宙に浮いた。亀はジョルノの手からこぼれ落ち、川へと投げ出されてしまった。
「チ…まあいい。まずはテメーだ新入り…」
ギアッチョはジョルノから流れる血を凍らせ、蹴り飛ばされたときと同じ姿勢で静止させる。そして空中に氷柱を作り出し、ジョルノの延髄に叩き込もうとする。
「うぉおおォーーッ喰らいやがれ!」
ドンドンと発泡音がした。どうやらミスタは水面が凍り切る前に亀から逃れ浮上したらしい。
「何度同じことすりゃわかるんだ?効かねーっつてんだろーが!」
ギアッチョはジェントリー・ウィープスで瞬時に氷の壁を作りだし、銃弾を弾く用意をした。
「気を引けたら十分なんだよ!」
「何ッ」
ジィッ
「ジッパー…だと!?」
スティッキィ・フィンガーズがギアッチョの足元の氷を切開し川に叩き落とした。
水面下でブチャラティとギアッチョが対峙した。ギアッチョは着水の瞬間空気穴を閉じたが、水泡がごぽりと上がったのがわかった。
「オレをなめすぎなんじゃあねーのか?ブチャラティ。流れてる水だろうと、どんだけ体積があろうと…オレのホワイト・アルバムはすべてを静止させるぜッ!」
ギアッチョの周りが瞬時に凍り付く。ブチャラティは離脱が一瞬遅れるが、すんでのところで魚に引っ張られた。すべてが凍っていないとはいえ、水温は零度前後のはずだ。なのに魚はその中を自在に泳いでいる。南極の海であろうと生存する魚はいる。不凍タンパク質を持つ魚だ。
この凍る寸前の水に飛び込むブチャラティも相当肝が座ってるが、あの新入りもまんざらバカじゃないらしい。
水面下まで凍ってしまえば泳いで追いかけることもできない。ギアッチョはすぐに浮上した。
ブチャラティも水中から上がってきたらしい。ガタガタ震えながら蹲っている。
ギアッチョの顔面が出てきてすぐ、ミスタは発砲した。氷の壁があるというのにバカなやつだ。すでにかなりスタンドパワーは消費しているがやむを得ない。ギアッチョは再び自身の周囲の空気を凍らせた。
だがそこで違和感に気づく。
「ッ…!」
新入りが自分の背中の傷を抉って、血まみれの腕をこちらに向けて振った。
ギアッチョは瞬間理解する。
とっさに腕でホワイトアルバムのフェイスカバー部分を覆った。現在ギアッチョの周りはなんであれ問答無用で凍る温度だ。そこに真っ赤な血なんてぶっかけられたあとじゃ…!
発砲音が聞こえた。空気穴は閉じている。たとえ弾丸が氷の壁を見切り飛んできたとしても耐えられる。
案の定首筋に衝撃が走った。だがダメージは全くない。ギアッチョは腕をどけ、勝ち誇ったように言い放った。
「勘がいいなてめーらは…だが一手、こっちが早かっ…」
そこで、本当に一手上回っていたのは相手だったことを悟る。
教会からすぐ近くの船着き場のビットにブチャラティがしがみつき、よじ登っているのだ。
「は?なんであそこにブチャラティが…」
ギアッチョは蹲り倒れている氷上のブチャラティを見た。それは呼応するようにゆっくりこちらを振り向いた。
頭にタイマーがついた、ムーディ・ブルースのブチャラティだった。
「ッ」
ギアッチョはスーツ内にしまっていた無線機のボタンを押して叫んだ。
「メローネ!ブチャラティがそっち行ったぞ!!」
「メローネ!ブチャラティがそっち行ったぞ!!」
無線から突如ギアッチョの怒鳴り声が聞こえてきて、メローネもブランクもハッとなった。メローネは無線をとって応答する。
「何?!ギアッチョ、そっち側で何が起こってんだ!?もしもし?」
メローネの通信にギアッチョからの返事はなかった。
「……メローネ、僕行きます」
ブランクが立ち上がり、返事も聞かずに船から降りて走り出す。
船から降りて、ふらついた。でも転ばないようにしっかり地面を踏みしめる。
武器は背中に背負ったライフルにナイフが一振り。
そんなんでブチャラティを止めて、ボスを倒せるのか。わからなかった。だが立ち止まってる場合じゃない。
教会の扉がバタンと閉まるのが聞こえた。きっとブチャラティだ。転びかけながら階段を登り、ブランクも扉に到達する。
僕は、この世界は奪い合いゲームだなんて思いたくない。
だって僕はたくさん与えてもらった。
師匠にも、ムーロロにも、チームのみんなにも。
奪われ続けていたのなら、みんなが僕に与えられるものなんてないはずでしょう?
世界が本当に奪い合いゲームなら、僕は空っぽか、マイナスになってるはずなんだ。
でもそうじゃない。
世界は両義的で、引き裂かれてて、僕たちはその中間を飛ぶ一羽の鳥だ。
鳥はいつか一つの空を飛び続けることになるのかもしれない。
でも、違う空が消えるわけじゃないんだ。
僕はずっと、なにとも向き合ってなかった。
辛いことは全部箱の外に押しやって、空っぽの箱の中で呆然と、その空虚な安寧に浸っていた。
でももう、与えられたものについて無視を決め込むことはできない。
僕はもう、ここに留まっていられない。
鳥は、そとに向かって飛ぶのだ。
リゾットは己の勝ちを確信した。ボスは出血した。さらにそれだけでなく、メタリカがすでに発動している。納骨堂は広く、その気になればメタリカの射程内から逃げ出すことは可能だ。
さらに言えばここまで攻撃を加え逃げの一手に徹してるあたり、ボスの能力は近距離パワー型…。こちらが近づかなければ勝てる。
心が踊る。ボスの顔を拝むのが…苦しみに歪んだボスの顔を見るのが楽しみでしょうがない。だが、浮かれてはならない。浮かれたやつから死んでいく…!
磁力によりボスの位置は簡単に探知できる!娘の体以外に磁気を発しているのは…
「もう追い詰めたぞ、ボス!ここが貴様の墓場だ」
柱の影で皮膚がバリバリと剥がれる音がした。だが
「ッ違う…これは」
柱の影にあったのは。トリッシュの切断された手だ。いや、確かにさっきまで人一人いたはずなのに。
まさか先程から起きている不可解な感覚…いつの間にか行動していたような瞬間が今再びあった。
その能力を使い移動したのか。
だが、
「どこにいようと…オレの意識があろうとなかろうと、メタリカはお前の体を内側から切り裂くッ!」
感じた。背後だ。
リゾットは振り向きざまに最大パワーでメタリカにより刃物を作り出そうとした。
「喰らえ…ボス!」
だが、目に飛び込んできたのは納骨堂の階段を降りて全力でこちらに走ってくるブチャラティだった。
「ッ……ブチャラティ、だと?!」
メタリカの主たる能力は磁力による鉄の操作である。故に操作するリゾット本人が認識した対象でなければ、活性非活性、または攻撃といったアクションを取れない。
すべての意識を“背後のボス”に向けていたリゾットにとって、背後にいたのがボスではなく、いつの間にか教会にたどり着いていたブチャラティだという衝撃は一瞬の隙となった。
「
その冷たい声に、一瞬が永遠に引き伸ばされたようなどす黒い絶望を感じた。
「ほんの一瞬の隙が…お前の命運をわけたな」
ディアボロはキング・クリムゾンを発動させた。
「隙というものはわたしのキングクリムゾンの能力と少し似ている。
つまり意識と意識のはざま。
己の中へ埋没し現実に表出しない“時間”だ。
『キング・クリムゾン』の能力の中ではこの世の時間は消し飛び、全ての人間はこの時間の中で動いた足跡を覚えていない。
だが一度血液内に発現したメタリカは時間を飛ばそうと飛ばさまいと殺意が継続する限り存在する。
つまりスタンド本体のお前が
お前自身が、己自身の意識の狭間に落ちない限りオレの体内の鉄分は奪われ続ける…。
だが今回ばかりは運命が俺に微笑んだようだな」
ブチャラティは何が起きているのか理解ができなかった。黒服の大柄な男が突然、どてっぱらをぶちぬかれて血を拭き上げたのだ。
「なッ……何ィ?!」
漆黒の男の背後には真紅のスタンドが立って、拳を振り上げている。
そしていつの間にか、背後に冷たい刃物のような殺意を感じ、ブチャラティは息を呑んだ。
「ここで振り向かずに帰れば、お前に安寧を与えてやろう。お前のおかげで裏切り者のリゾットを倒し、トリッシュも我が手にできたのだからな。道中娘を奪われた失態はそれで精算する。…いい話だろう」
ボスだ。今、背後にボスが立っている!
魚に引かれる前にジョルノから生命エネルギーを与えられたブローチを預かっていた。だがそれをボスにつける隙などあるわけがなかった。
こんなに近く、息遣いを感じるほど近くにいるのに。
ピクリとも動けない…これが、ボス。オレたちがいつか倒すべき相手…
ブチャラティは、拳を引き抜かれ地面に崩れ落ちた男の向こうに、トリッシュが倒れているのを見つけた。彼女の投げ出された足は失血により真っ白になっている。
冷水に飛び込んだ時よりも背筋が凍りつくのを感じた。
「一つだけ質問させてください。トリッシュの傷は……この男が?」
「……そうだ」
汗を舐めなくたってわかることだ。
失血した娘を、手首を切断された娘を捨て置いて男の始末を優先し、オレに甘言を吐く男が…娘を保護して安全に匿おうなどと、考えているわけがない。
ずっと想像していた最悪の想像が的中してしまった。
やはり、ボスは…
ブチャラティがスティッキィ・フィンガーズを発動しようとしたその時、
「お前…一体誰なんだ…?」
ハスキーな声が聞こえた。
階段から光が漏れ、その影がブチャラティのもとまで長く伸びている。
この声はついさっき、ムーディー・ブルースのリプレイで聞いた。ブランクと呼ばれていた赤毛の狙撃手のものだ。
「ダメだ早く逃げろ!」
ブチャラティは叫んですぐ前へ駆けた。トリッシュのもとへ、ほとんど飛び込むように。
前後を敵に挟まれる形となったボスは一瞬判断が遅れた。そのおかげでブチャラティはなんとかトリッシュのもとへ辿り着いた。
すぐに彼女の傷をジッパーで塞ぐ。だかもうその時には、悪魔の手は彼に届いていた。
「ブチャラティ!」
赤毛の少年が叫ぶと同時に銃声が轟く。だがもう何もかもが遅かった。
ブチャラティの肩口に物凄いパワーでチョップが叩き込まれていた。その傷は心臓まで届いている。ブチャラティにはわかった。
そしてすぐさま、ジッパーでボスのスタンドの腕を固定した。
「ブランク…撃て!…オレごと!」
ブランクは躊躇いなく撃った。一発で仕留められるかなんてわからないので連続で早打ちする。
だが弾はなぜかすべて背後の壁に当たった。まるで弾丸が体を貫くその瞬間、彼らが透明になったかの様に。
「無駄な悪あがきだぞブチャラティッ!」
スタンドは無理やりブチャラティの体からジッパーを引き千切るように拳を引き抜いた。肉と皮膚がぶちぶちと破れる嫌な音がした。
「くッ…」
ブランクはすぐに撃つ。
「弾丸など、我がスタンド、キング・クリムゾンに対して最も無為な攻撃だな!」
キング・クリムゾンはブランクも始末しようと階段の方へ振り向いた。
だがそこで、納骨堂全体に凶悪な冷気が流れ込んできた。
「これは…ギアッチョのホワイト・アルバム」
キング・クリムゾンは暗がりから出るのをやめた。すべてを凍らされては地下道から脱出するのは困難。
ギアッチョが護衛チームの足止めをやめてこちらに来るということは、大量のスタンド使いがここにくるのと同義だ。
いかにキング・クリムゾンといえど複数名相手に正体をまったく見せずに戦うのは無理だ。
「チッ…」
ボスはすぐさま地下道の入り口へ走り、すでにドアに張り始めている氷を破壊し逃亡した。
「り、リゾット…!」
ブランクは薄く張り始めた氷にすっ転んで階段を落ち、リゾットのもとへ駆け寄った。まだ意識があるようだったが、腸が床に飛び散っている。手遅れなのは明らかだった。
「そんな…僕がもっと早く来てれば…」
「い、いや…やつを捉えていながら瞬殺しなかったオレの、ミスだ……それより」
リゾットは自分の顔にかかった血液を指さした。
「…これが……ボスの血液だ。受け取れ」
ブランクはいそいでいつも持たされているメローネのサンプル回収キットで血液を採取した。
「ブランク…」
「僕のコピーしてる力じゃ、治せない…。ごめんリゾット…僕の…せいで…」
「違う。これは単なる
「でも、僕は裏切ってたんだよ。僕が馬鹿だったせいで、もっと早く片付く問題がここまで悪くなったんだ…」
「…ブランク、オレがお前を罰さなかったのは…お前が…お前がう、奪われ続けてるだけじゃ…可哀想に思えた…からだ」
リゾットは血を吐いた。もう意識も途切れそうなんだろう。虚ろな目で高窓からさす光を見ていた。
「だって…それじゃあんまりだ。きっとオレもお前に…
「はい」
ブランクはリゾットの手を握った。初めて触れる大きな手はどんどん冷たくなっていく。
「オレの望んでることがわかるか」
「…わかります」
「叶えてくれるか」
「はい…僕は…僕は、自分の意志で誓います。リゾット、必ず貴方の望みを叶えます」
「頼んだぞ」
寒い。ギアッチョのホワイト・アルバムのせいだけじゃなかった。
ここはとても寒くて、暗い。人が死ぬには悲しすぎる場所だ。
ブランクはリゾットの瞼を閉じてやった。ここでじっとしててはだめだ。でも、ここにリゾットを留めたままにするなんて嫌だ。
その思いを断ち切り、立ち上がる。
トリッシュとブチャラティが倒れている。彼らにも申し訳ないが、今はリゾットが命をかけて手に入れたボスの血液をメローネに渡さなければならない。
トリッシュの喉がかすかに動くのだけ確認した。…ブチャラティはもう、駄目だろう。ブランクが去ろうとするのもわからないらしい。虚ろな目でトリッシュの方を見ている。
ブランクが階段を登ろうとするとブレードが地面を削る音がしてギアッチョが滑ってきた。納骨堂に立ち込める血の匂いに顔をしかめてブランクを睨んだ。
「お前……」
「ギアッチョ、リゾットは仕事を果たした」
ブランクは血液のサンプルをギアッチョに渡そうと手を伸ばした。だがギアッチョはそれを受け取らず、
「よく、ぬけぬけと…」
と怒りを押し殺したかのように言った。
ブランクは腕を伸ばしたまま、ギアッチョを真っ直ぐ見つめ、強い口調でいった。
「僕はリゾットに、みんなにとてもひどいことをした。それを償うまでは殺さないでほしい」
ギアッチョは黙った。そしてしっかりと二本の脚で立ってる、だが震えているブランクを見て、小さくため息をつく。
「…ブチャラティの仲間がもうたどり着く。てめーを引きずってちゃ追いつかれる。おぶされ」
ギアッチョは背中を向けた。ブランクはこわごわおぶさる。
「うわ…お、お腹が冷える…下りそう…」
「テメーはたきおとすぞ、途中で。こっちはマジで疲れてんだよ…」
ギアッチョはスピードスケートの選手みたいにみたいに走り出す。背中のブランクのことなんて全く気にしてないフォームだから気を抜くと振り落とされそうだ。
複数の足音が聞こえるが、間一髪、裏口を蹴破って勢いよく外に出た。
外に広がっていたのは思いもよらない光景だった。
「うわ……!」
「言ったろーが、海だって川だって、止められる。その気になりゃーな!」
目の前に広がっていたのは氷漬けにされたカナル・グランデだった。太陽の光を受けてキラキラと、オレンジ色に輝いている。
着氷し、氷の破片が空へ舞った。ブランクの赤毛が氷を通してピンク色の光になり、背後に積もっていく。
少し滑ると、凍りついた川を走るメローネの後ろ姿が見えた。起きだした街の住人も面白がって、次々と氷の上に立つ。
メローネに追いつくとギアッチョはブランクを乱暴に背中から振り落とした。
「リゾットは!」
「…任務は果たした」
メローネの言葉にギアッチョがこたえ、ブランクはポケットからサンプルを手渡した。メローネは受け取った血液サンプルを見てなんともいえない顔をした。
「詳しいことは…とにかくこの街を出てからだな」
「ああ。まあでもちょっとみてろよ」
三人が岸に上がり終えると、ギアッチョはニヤッと笑ってお祭り騒ぎになっている凍った川を指さした。
「ホワイト・アルバム解除!」
川は一瞬で溶け、氷上ではしゃいでいた大人、子ども、みんなが水の中に落ちた。
「ハッハッハッ!バカどもが!ヘヘヘヘヘッ!!」
「ふ…あはは…はははは!」
「ははは…あは…あっはっはっはー!」
ギアッチョとメローネは笑った。
ブランクも笑った。涙も出てきたけど、構わずに笑ってやった。
たくさんの舟が落ちた人たちを助けようと川を覆いつくしていく。ついでにいい足止めになったわけだ。
「じゃあ…行こう。次こそボスを仕留めるぞ」
メローネの言葉に二人はうなずき、歩き出す。振り返らずに。
鳥は卵からむりに出ようとする。
卵は世界だ。
生まれようとする者は、ひとつの世界を破かいせねばならぬ。
鳥は神のもとへとんでゆく。
その神の名は、アプラクサスという。
ヘルマン・ヘッセ(実吉捷郎 訳)『デミアン』岩波書店 1959年 より