ABOUT THE BLANK   作:ようぐそうとほうとふ

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03.デプレッション

 

「ふぅ…ふぅ…ふぅ……」

 

 息の荒い男がトイレに駆け込んできた。フーゴはそれを横目でちらりと見た。冬だというのに脂汗をかいて、上着を半分脱いでシャツの袖をまくっている。

 男は個室に駆け込み、ゴソゴソやった後スッキリした顔で出てきた。

 

 どうみても、クソをひり出したって感じじゃあないな…。

 

 フーゴは手を洗ってすぐにその場から立ち去った。ジャンキーなんて関わり合いたくもない。薬物で身持ちを崩すなんて、自分は愚かだと札をつけて歩いているようなものじゃないか。

 だが、巷にはそんな奴が溢れている。そして、自分たちの組織が、その土壌を形成している。

 

「うちの子がね、急に高価いラジカセを買っていたのよ…」

 

 いつものリストランテに行った。ちょうどフロアの隅でブチャラティが掃除係をしている従業員から相談を受けているところだった。神妙な、ささやくような声で女はいう。

 

「問い詰めたら…受け子をやってるんだって。恥ずかしげもなく言うの。誰のって聞いても答えなくって…ねえ、ブチャラティ…もし売人に心当たりがあるんなら、子どもを巻き込まないように言ってやってくれないかね…」

「わかりました…こちらで探してみましょう」

 

 最近組織はヤクを売り捌いてるのを隠しもしなくなった。フーゴはヤクの話が出るとブチャラティの表情が強ばるのに気づいていた。普段冷静で感情を表に出さない彼が唯一自分をコントロールしきれない瞬間。過去に麻薬絡みでなにかあったのだろうと容易に想像できた。

 だからといって無闇やたらに過去を詮索したりはしない。それが礼儀だ。

 

「ブチャラティ」

「ああ、フーゴか。聞こえていたか?」

「ええ。子どもに受け子をやらせてるやつがいるんですか?とんでもないクズがいたもんですね」

「ああ。まったくだ…」

 

 受け子とは要するに金と薬の受け渡し役だ。客と直接会うのを嫌がるやつが犯罪とは無縁の市民に小金と引き換えに片棒を担がせる。

 はっきり言って、そういうのに抵抗がないやつは将来的に顧客になる可能性が高い。もちろん子どもも例外ではなかった。

 

「何人か心当たりはあるからこれから当たってみる」

「ブチャラティ、ぼくも手伝いますよ。手分けしたほうが早いでしょう」

「そうか?それは助かる」

 

 これでもフーゴはブチャラティチーム最古参だ。少なくともミスタ、ナランチャよりはチンピラたちに話が通りやすいだろう。

 フーゴは車で空港に向かった。

 空港につくと、真っ先にタクシー乗り場へ行く。目的の人物はすぐに見つかった。

 

 彼の名前は涙目のルカ。空港で私営タクシーを牛耳ってるケチなチンピラだ。そういうゆすりたかりだけでは生計は成り立たない。いくら巻き上げても上納金はパーセンテージで決まっている。

 下っ端たちはだいたいそんな感じでヤクザ稼業に真摯にうちこんでも大した金にはならない。だから大抵は副業をしている。ルカも例外ではなかった。

 

 フーゴと目が合うと、ルカは鼻をすすり、ハンカチで涙を拭った。やつの目はショバを巡る喧嘩でぶちのめされて以来涙が止まらないと聞いている。よくみるとまだ頬に傷跡が残っている。

 

「ブチャラティんとこの…フーゴ……さんでしたっけ?どうかしました?」

 ルカは言葉遣いこそ丁寧だが、なんとなく不遜な感じがした。フーゴは静かに苛ついた。

 偉くもない、たまたま喧嘩で最後まで立ってただけでイキってる間抜け。そういうやつは嫌いだ。

 

「いえね、ちょっと噂を耳にしまして。あんた、ヤクを売り捌いてるそうじゃないか。子どもに受け子をやらせてるんだってな?」

 もちろん証拠はないが、カマ掛けとして断定口調を使った。だがルカは悪びれもせず首を縦に振った。

 

「ああ。許可をとって売ってんだ。何が悪いっていうんです?そもそも麻薬はあんたたちの管轄外だろ」

「…いいや、管轄内だ。子どもを犯罪に巻き込むな」

「……売っちゃいないですよ?さすがにね…でも、働きたいやつと人手がほしいの、需要と供給ってやつですか?それが噛み合ってるってだけじゃないですか」

「覚えたての言葉を使ってるのはバカみたいだぞ。とにかくぼくは子どもに受け子をやらせるのをやめろと忠告してるんだ」

「いちいちうるせーな!オレらはオレらで納得してやってんだよ!文句言うなら仕事も娯楽もろくにねぇーセーフに言えよ!」

 

 フーゴは返事はせず、拳でルカの頭を殴りつけた。ルカは吹っ飛び、地面に落ちて起き上がることはなかった。

 

「…今日は食いっぱぐれたな」

 

 

 

 


 

 

 

 

「はい!というわけでだいたいここに書いてあるとおりなんだけど…」

 

 くおんの広げた資料に載っていたのは見覚えのある男の顔だった。

 

「ヴォルペ…?マッシモ・ヴォルペが…抹殺対象だと?」

「えっ?!知ってる人?すっごーいぐうぜん!」

 

 なんだか適当なやつだ。フーゴは自分があしらわれてるように感じ、若干不快になった。だがそれよりもボローニャ大学の頃の同級だったヴォルペとの思わぬ再会のほうがはるかに注意をひいた。

 尖った印象を受ける骨格に、イギリス系の細い鼻筋に細い眉と目。間違いない、ヴォルペ本人だ。

 

 資料の下に記されているのは彼のスタンド、マニック・デプレッションの能力だった。

 

「麻薬を生み出す能力…こんなものがパッショーネの麻薬ビジネスの正体…か」

「あっもちろんこれだけじゃないよ?やっぱねぇ、ウィードは産地で選ぶ人もいるから。…とはいえ市民に流通してる安価なのはほとんど彼のだったみたいだけどね!質がいいのは金持ち専用〜カリブ直送安心品質!…まあそのルートもコカキが管理してたから他のギャングに売られちゃったかも」

 

 フーゴの脳裏にブチャラティの顔がよぎり、心臓がずきりといたんだ。

 長らく彼を見ていたフーゴは知っていた。彼は口にはしなかったが、麻薬に対しては複雑な思いを抱いていたに違いなかった。

 自分がその元凶とこんな形で関わることになるとは思いもしなかった。

 

「ぼくが選ばれたのは彼と同級だったからか?」

「えっ?違うんじゃあないかな?初耳だし。えっと…そうだね。まずは経緯説明だね!車でやろっか」

 

 メランコリーに陥りかけたフーゴをガン無視して、くおんはヴォルペの資料を回収し、細かくちぎって灰皿の上で燃やし始めた。

 

「ちょっと待ってくれ。まだ店が…」

「えー?どーせこないよ客なんて。いっこくをあらそう?らしいのでハイ!車へゴー」

 

 フーゴは振り上げたくなる拳をぐっとおさえた。だがこのくおんは任務を持ってきた以上、フーゴより立場は上だ。あの日からポッキリ折れたフーゴには舐めた態度の女をぶん殴るほどの激情を持てずにいる。

 

 くおんはフーゴの返事も聞かずに店を出て、乗ってきたらしいワゴン車に乗り込んだ。ナンバーから見るにレンタカーだ。

 車が発進し、夜の街を抜けていく。誰かを轢き殺しても構わないといいたげなスピードの出し方だった。くおんは路地を抜けると唐突に話しだした。

 

「麻薬チームの討伐はほんとはボクらの任務じゃなかったんだよね。ていうか、前任がちょっとしくじったのねー」

 

 当初、麻薬チーム殲滅メンバーはサーレー、ズッケェロ、シーラEの三名だった。ヴィラ・サン・ジョヴァンニにてビットリオ、コカキの撃破には成功したらしい。

 作戦終了予定時間、港に派遣された斥候は重篤な麻薬中毒の症状の状態で倒れているズッケェロを発見し、その近くでビットリオと刺し違えたと見られる重傷のサーレーとともに回収した。

 

「なんと!麻薬チームの武闘派二人は仕留められたんだけど…代わりにシーラちゃんが攫われちゃってさ。それでホントはその後を引き継ぐはずだったボクと君の出番ってわけ!いえーい大抜擢ッ」

「大抜擢?」

 

 そんなわけ無いだろう。という意図を込めてくおんをにらんだ。だがくおんはそれにニコニコと笑顔で応じ、全く気にしてない様子だった。

 

「女の子を助けに行くナイトだよ。光栄だよね!でもこのヴォルぺとアンジェリカも多分手強いよ」

「麻薬を生み出す能力に…幻覚を見せる能力…なのか?さっき燃やした資料に書いてあったのを見るに、戦闘能力が高いとは言い難いが」

「まあたしかに、シンプルな強さはコカキとビットリオの方が勝るね。っていうかむしろサーレーとズッケェロはよく倒したと思うよ!シーラちゃんさらうのに手間取っただけかもしれないけどさ」

「…逆に言えば残りの二人は正攻法では倒せないと」

「そうだね。そうかな?んー…詳しくはわっかんないや!」

「…こんなの情報なんて言えない。不正確すぎる」

「もー、文句言わないでよー!かわいそうでしょ!こんだけわかったのってすごいよ?あの二人は不死身だね!今は怪我と中毒で死にかけだけど」

「……」

 

 フーゴは「ぼくはお前に文句を言ったんだ」と言いたいのをぐっとこらえた。

 

「よし。他になんか思い出したら適宜言うよ!」

 

 車は高速に入り、くおんはアクセルを踏み抜く。法定速度なんて全く気にする様子はない。それほど急ぎなのか、そういう性格なのか。態度からは掴みかねる。

 

「さっきははぐらかされたが、ぼくときみがこの任務に選ばれたのはなぜだ?」

「え?あー…」

 くおんははじめて困ったような、なんとも言えない渋い顔をした。

「ボクの元上司、ムーロロって人なんだけど…実は前の騒ぎの元凶みたいな?結局有耶無耶になったんだけど…それでちょっとね」

「ああ。なるほど…」

 

 どうやらくおんも自分と似たような立場らしい

 

 二人とも“ボス”の秘密に関わっているというわけだ。それに前任のメンバーのうちズッケェロは聞き覚えがある。ブチャラティがポルポの遺産を取りに行く際襲撃してきたやつの名だ。

 

 つまりこの麻薬チームの殲滅は組織にとっての懸念事項をまとめて潰すいい機会とも捉えることができる。

 病院に訪れたジョルノからそんな気配は感じられなかったが、ミスタと彼を除く組織のトップは元暗殺者チームが占めている。彼らならばフーゴを切り捨てる理由は十分にある。

 

「パンナコッタくんのこともちょっと知ってるよ。情報チームだからね!暗殺チームとバトったんでしょ?事情知らなかったとはいえツイてないねー」

「なんだ。知っていたのか…」

「そりゃね!っていうか〜知ってるからヤバイんだよ。やんなっちゃうね」

 

 組織に忠誠を誓わないものはソウルスティーラーに能力を奪われるという。

 

 ソウルスティーラーはかつて敵対した暗殺者チームの狙撃手、ヴォート・ブランクだ。だがヴェネツィアで敗北した自分は彼と戦ったことはない。それどころか顔も知らない。

 あれからおよそ三ヶ月、ブランクからの連絡は未だにない。彼の仲間を殺したのは自分のパープル・ヘイズだ。なのになんの音沙汰もないのは不気味だった。

 だが、おそらくこの任務が終われば会うことになるだろう。彼は怒るだろうか?それとも自分を許すのだろうか?わからない。

 自分にはもう抗う権利すらないような気がした。

 

「シーラちゃん、無事だといいね。なんでさらわれたのかわかる?あっ!そういえばパンナコッタ君って大卒だっけ?なんかめっちゃ頭いいんだよね!」

「名前で呼ぶの、やめてくれないか」

「えっ。なんで?だってボクはくおんだよ?」

「意味がわからないんだが。…とにかく嫌なんだ。大体、初対面なのに馴れ馴れしいぞ。立場以前に礼儀が…」

「じゃあパニーって呼ぶね!」

 

 フーゴは助手席の前を蹴った。破壊音が聞こえ、グローブボックスのフタが空いて中身が床にこぼれ落ちた。

 

「うわーッ?!これ経費で落ちるかな?!この前ウィリーやって壊したバイクは駄目だったんだよね」

「知るかッ!」

「まーまーリラックス!気楽に行こうよ」

 

 フーゴはもう一回グローブボックスを蹴った。今度は蓋が完全に取れてしまった。だがくおんはもう経費のことは忘れたのか、ケロッとした顔で気遣わしげな声を出した。

 

「でも麻薬チームも気の毒だよね?」

「お前…無敵か…?」

「だってできる事をしてるだけだよ?それを否定して、死ねって。かわいそー」

「そのできることってのが許されないことなら、しかたないだろ」

「そお?じゃあパンナコッタくんは生きてるだけでめーわくだからしね!って言われてもいーの?!」

「………そうだな。言われても、仕方ない」

「な、なによう。急にそんなトーンダウンしなくてもいいじゃん。話に聞いてたのと違うなぁー…」

 

 くおんはシーラEの話をぺらぺら喋っていた。フーゴがあからさまに興味なさげな顔をしてもお構いなしだった。

 この能天気さは、強いて例えるならミスタとナランチャを足してそのまま割らない…。そんな感じだ。

 

 

「人間の肉ってよォ〜美味いのか?まずいのか?」

 

 そんなことを話していたミスタのことを思い出した。ナランチャはやめろよといいつつも想像が止まらなくて余計ミスタを饒舌にしてしまうし、アバッキオもそれを止めずに静観していた。

 

 ああ、そういえば一連の出来事は、奇妙な彫刻家の件を片付けてすぐのことだったな…

 

 

 

フーゴの無反応さにしびれを切らしてか、くおんはクラクションを鳴らしながら文句をたれた。

 

 

「ねえ、ボクたちチームなんだよ?もっと打ち解けようよ」

「…どうせこの任務だけじゃあないか。だったら必要ないだろう」

「でも同じ組織だよ?それに、情報技術チームに君を勧誘するってのもかねてるの。頭いいんだよね?きみ」

「パソコンはあまり触ったことないんだ」

「むいてると思うよ!…いや向いてないかな…キレてぶっこわしそう」

 フーゴはくおんを思いっきり睨みつけた。それをみてくおんはにゃははと笑う。どうしてか、彼女が組織のものだとわかった途端、正面切って怒ることができない。

 

「思ったよりはキレないね。遠慮はあるんだ。前はそうじゃなかったでしょう?ブチャラティの隠し玉だったもんね」

 こいつは心を読んでいるんだろうか?

 さっきから、フーゴを怒らせたいのかとしか思えないほど的確な言葉を投げてくる。

 

「…もう彼はいない」

「仲間がいないのはかなしい?」

「うるさいな」

「わかるよ。ボクも大事な仲間いっぱい死んだから」

「じゃあ聞くまでもないだろう」

「えー?じゃあボクと一緒の気持ちなの?パンナコッタくんは。だとしたら…相当“かなしい”だよ!手首切っちゃうくらい!」

「運転に集中してくれないか。あんたの与太話に付き合うのは疲れた」

「つれないなー」

 

 フーゴは目を瞑り、これ以上会話をする意志がないことを示した。くおんは今度はその意図を汲んで黙ってまたアクセルを踏みスピードを上げた。掴めないやつだ。

 単調な景色に目を奪われるなんてことはなく、フーゴはいつの間にかうとうとしていたらしく、気づけば車は高速を降りて一般道を走っていた。

 

「パンナコッタくんパンナコッタくん」

「その呼び方やめてくれないか」

「ほら見て」

 

 くおんの指差す方向には海が広がっていた。そしてその手前に煙がいくつも上がっていた。道を照らすライトに沿うようにオレンジ色の光に黒い煙が照らされている。街全体で交通事故が同時多発的に起こったかのようだ。

 

「…一体どこを目指しているんだ?」

「シチリアだよ!オルティージャ島!すてきー!これから港でボートをかっぱらいますー」

 

 くおんは双眼鏡を手渡してきた。フーゴはそれで事故の起きた場所を見る。一番近い現場は何が起きているのかなんとか視認できた。車が一台ガードレールにつっこんで大破している。

 

「さて…と。えっとー…どうする?走り抜けちゃおっか」

「まだ敵の攻撃方法も射程距離もわからないんだぞ」

「でも急がなきゃ。時間がないんだよ」

 くおんはフーゴの返事を聞かずアクセルを踏む。こいつには人の話を聞く気は一切ないどころか、ちょっと前の会話を覚えてるだけの集中力もないらしい。

 

「幻覚を見せる能力、麻薬を生み出す能力。この攻撃は幻覚を見せる方だろう。となると敵の攻撃のトリガーを慎重に見極める必要がある。事故ってる車がある以上スピード出して突っ込むのは得策じゃない」

「じゃあ足で走ろっか」

 

 くおんはすんなり納得して車から降りて屈伸し始めた。フーゴも同じく車から降りて、真っ暗な海を遠目で眺める。

「ぼくのスタンドは…あまり、使い勝手が良くない。無闇に突っ込んで敵と出会っても役に立たないかもしれない」

「何言ってんの。結局最後にものをいうのはフィジカルだよッ」

 そう言ってくおんはその場で宙返りをした。情報チームのくせに身体能力は高いらしい。驚いた顔をしたフーゴにニコッと笑いかける。

 

「ボクが抜擢されたワケをとくとごろーじろ。だね!」

 

 


 

 

「ねぇー…マッシモ。本当に、本当に?本当にあるの?」

「ああ。何度も確認しただろ。しつこいくらいに何度も。間違いない」

 

 アンジェリカは震える指先でシーラEを撫でた。シーラEは脂汗を浮かべて眠っている。ヴォルペの能力、マニック・デプレッションで生成された麻薬を打たれ昏睡状態に陥っているからだ。アンジェリカはアンジェリカで“血液がささくれだつ”痛みを緩和させるために麻薬を打ったばかりだ。二人共朦朧としている。

 ヴォルペはヨットを操縦している。真っ暗な海面を滑るようにして、目的地へ向かっている。

 

「でも、できるのかなあ…。何百年も、何千年も昔のことなんて、あたしにはなかったことと同じに思える」

「できるできないじゃあない。させるのさ」

 

 アンジェリカは夢うつつだ。それでも彼女の能力、ナイトバード・フライングはしっかり仕事をこなしている。はるか彼方、陸の方で煙が上がるのが見えた。誰かが幻覚に囚われ、死んだのだろう。

 

「この入れ墨…とってもキュート」

 アンジェリカが鼻をすすった。つう、と垂れる鼻血に全く構わない。ヴォルペは舵からちょっと手をはなし、それを拭ってやった。

 

「ねえ、ほんとに追手はいるのかな」

「さあな。コカキがやられて、ほんとうにオレたちだけ、孤立無援になってしまったな」

「それを手に入れたら、どこに行くんだっけ」

「忘れたのか?フランスに抜けて、それからシベリア、アラスカ、そしてアメリカ。長い旅になるぞ」

「ああ、そうだったね。楽しみだなあ。その頃には、もう体は痛くないんだもんね、マッシモ」

「ああ。だから安心して、お前はスタンドに集中しろ。誰の邪魔も入らないように…」

 

 アンジェリカは目を閉じた。シーラEと並ぶと姉妹みたいに見える。

 アンジェリカはナイトバード・フライングで追手と思われる自分たちの足跡を追いかけるものに無差別に幻覚を見せている。ほとんど自動で動いているとはいえ、“感じ取る”には集中力が必要だった。

 アンジェリカはこんな難病にさえなっていなければ、もっと瑞々しく、輝くような太陽の下で学校に向かう無邪気な少女になってたはずだった。

 

 生まれは、選べない。運命は、選べない。

 

 能力をソウルスティーラーに委ねればアンジェリカを然るべき医療機関へ預けるという話もあった。だがヴォルペはそれを飲まなかった。

 医療でどうにかならなかったから彼女は自分のそばにいる。それに、ボスの座をまんまと乗っ取った奴らの言うことなんて信用できなかった。

 麻薬チームの四人はその事実を知っていた。取引を飲んだとしても待っているのは終わらない、掃き溜めをさらうよりも惨めな日々だろう。

 そしてなにより、アンジェリカと引き離されることが自分にとって半身をもがれるほどの苦痛だということに気がついたからだ。

 

 自分なしで、アンジェリカがシラフでいる日々を耐えられるだろうか?誰よりも寂しがりなアンジェリカ。かわいそうなアンジェリカ。

 中毒になるのは麻薬だけじゃない。関係そのものだって毒になりうる。

 それを自覚してなお、崖っぷちに追い詰められればられるほど、手放しがたく思えて愚行に走ってしまう。

 

 “石仮面”という荒唐無稽な手段にすがるほどに。

 

 


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