慶東国の首都堯天にある凌雲山。
その頂点にはこの慶東国の王が住まう金波宮がある。
「主上、和州の今年の作物の収穫量に関してですが」
「ああ、今年は冷夏による被害の事か。
しかし、さっき地官長から話があった。
長雨のせいだろう、紀州において川が氾濫したというのだ。
この案件を最優先に諸事を進めてくれ、浩瀚」
金波宮の内殿にいるのはこの国の国主である景王中嶋陽子。
そして、執務机の正面に立つ男が冢宰の浩瀚。
赤楽2年の和州の乱を機に景王中嶋陽子が得た信頼できる臣下の中でも以前は和州侯として民に名君として名を知られた優秀な官吏こそがこの浩瀚だ。
浩瀚は蓬莱生まれで政治のことなど全くと言っていいほどに知らなかった景王を冢宰として支え、朝廷が安定してきた今をもってしてもその敏腕で景王を助けている。
しかし、いくら仙だからと言って全く問題がない完全無欠な超人というわけでもない。
「主上の仰せのままに」
「そうか、冢宰殿の合格が出たか。
それは良かった」
「というのは?」
「また、私を試したのだろう?
六官を取りまとめる冢宰ともあろう者がまさか地官長からの報告を聞いていないということはあるまい。」
陽子はこの冢宰のことは確かに真面目で優秀で政治家として非常に優秀だと思っている。
だからこそ冢宰にも任じたわけなのだが、時として思い切りのよい行動に出ることもあるのがこの冢宰なのだ。
今のようなやり取りは十数年共にこの国を治めてきて何度もあったことなのである。
しかし、陽子もこの行動は自分自身を、そしてこの国のためを思っての行動であることを知っているので何も言わない。
この世界において現代日本のように国主に任期などありはしない。
一度王として選定されたら例え疲れても死ぬまで王であり続けなければならない。
私が国主としてある程度やったら次は君が頼むよなんて悠長なことは言っていられない。
この世界において王が退位する、すなわち崩御又は譲位されるとその国は天変地異に見舞われ、町中であっても妖魔に襲われるというように民にとっては大ごとである。
そんな王の退位の一因として王の座にあることに飽きてしまうということがあるのだ。
そういうわけで何百年と王としてあるために王自身も官吏も王が政務に飽きることがないようにと行動を起こすのである。
浩瀚のそれもある種王が政務に飽きてしまわれないよう刺激を与えたに過ぎない。
それを陽子も分かっている。
しかし、浩瀚自身の憂さ晴らしとしての意味合いが1ミリたりともないとも言いきれないことも事実なのだが。
「では、地官長にまずは被害を受けた民の一覧を作るようにと言ってくれ」
「それでしたら私が既に伝えてあります」
「……事後承諾か?」
「主上でしたらきっとそのようになさると思っておりましたので。
優秀な王を持つと私は果報者ですな」
「全くだ。
事後承諾だけでいいとは優秀な臣下を持つと政務が滞りなく進んで楽が出来る」
赤楽17年の夏の終わり。
もう少しで即位してより16年となる。
三代にわたり短命な王が続いてしまったこの不運な国がたかだか十数年で隣の雁国に並ぶとまではいわないが豊かな国となるまでにはまだまだ時間がかかることだろう。
しかし、妖魔は見ないほどには減ったし、荒れ果てた荒野も田畑へと変わりゆくこの国は今活気にあふれている。
朝廷内でも初期の混沌とした宮中の政務も滞りなく進んでいる。
今、陽子は王としてこの国が蘇りつつあることを確かに感じている。
「それで?
私に用があるからわざわざここまで来たのだろう?」
「はい。
以前報告した蝕ですが現在少なくとも慶国にて数名の海客が発見されたと報告に上がっています」
その浩瀚の言葉に陽子は驚かずにはいられなかった。
「一度に複数名もの海客が現れたというのか。
それはただ事ではないな」
普通、海客というのは蝕が起こればやってくるというものなどではない。
蝕が起こればあちらから物が流れてくることもある。
決してそう簡単に人がやってくることなどないのだ。
現にこの慶国には多くの海客や山客がいるものの、海客は年に五人以上発見されるだけでも多い方なのだ。
それが複数名が一度にやって来たのだという。
「はい。
それでもう少し調べたところどうやら巧国にも流れた海客がいるとのことで」
「まだいるというのか!」
「……主上、少しばかり声大きいかと」
更なる海客の存在に思わず大きな声を上げてしまった陽子は一言謝ると浩瀚に先を促した。
「場所は巧国でも北東に位置する配浪で、二人の男なのだそうです」
「配浪……」
「はい。
……そう言えば、主上がこの世界で最初に見た人里がその配浪の町だったとかで」
浩瀚の言葉で陽子は当時の事を鮮明に思い起こす。
あの時はそもそもここが何処なのかも分からなかった。
そして巧国で人の世の世知辛さというものを味わい、自分の卑しさを知り、そして楽俊に出会った。
行き倒れたのが慶国の女王だとは思わないほどの苦難をあの場所で味わってきたのだ。
「あの時、私はここの言葉が分かったからこそどうにか生きていく希望を持てたのだろう。
巧国では私とは別の海客にも会ったが酷くこの世を憎んでいるようであった。
もしかしたら私もそのようになっていたのかもしれないな。
やはりその二人も苦労しているのだろうか?」
巧国では未だに王がいないこともあって十二国で協力して行っている荒民、浮民、海客に対してうまく協力できないでいる。
そんな国でしかも海客に対して差別意識のある国では大変な思いをしているのではないかと陽子は考えた。
しかし、その陽子の考えは浩瀚の言葉で覆された。
「いえ、報告によればその海客の一人である赤毛の男はこちらの言葉を理解していたとかで」
「は?」
日本人には赤毛の者などまずいないだろう。
だが、陽子の場合は素はこちらの卵果が流されたことで産まれた胎果であり、赤毛の海客というのもたまたま海客が胎果であっただけなのでないわけではない。
いや、問題はそこではない。
海客がこの世界の言葉を理解したという点だ。
最初から王としてこの世界にやって来た陽子は雁国の壁落人とは違って言葉に苦労したことがないからこの世界の言葉がどれくらい地球のそれと違うのかは分からないが、やはりよほどの事でなければ流れ着いたばかりの海客がこの世界の言葉を話すというのはありえない。
そう、陽子のように景王となった海客などでもない限り。
ふと陽子が目の前の浩瀚の顔を見るといつになく真剣な顔つきをしていた。
「まさか蓬山の塙麟が私の時と同じく蓬莱に渡って王を連れてきたのか?」
「もちろん蓬山にもそれは確かめますが未だに幼い蓬山公が自ら蓬蘆宮を出るということはないことと思います。
確かに延台輔という例外はございますが」
陽子はこの状況で最も適当な解を探した。
そもそも蓬莱とこの世界で何不自由なく言葉を話すことが出来るのは仙と王、そして麒麟だけだ。
そして、例え仙が蓬莱に行っていたとしても今回のようにまず海客とは間違えられまい。
それに余程の例外がない限り仙が蓬莱へ行ったということは聞いたことがなかった。
現在、最もあり得るのは王と麒麟だけだ。
陽子が知っている以上在位の王の中で蓬莱にフラッと遊びに行ったというのは聞かないし、それまた帰ってきたところで海客と間違えられることはないだろう。
麒麟もしかりだ。
では、空位の王や麒麟は如何か。
現在空位の国は巧国と芳国。
巧国の麒麟については今しがた聞いたばかりだ。
「峯麒なのか……?」
陽子のその言葉に浩瀚は同意するように静かに頷いた。
芳国の麒麟は今から17年前、陽子がこの世界にやってくる前に蝕によってその卵果が流れてしまったと聞いていた。
そして、今のところ蓬莱又は崑崙に流れ着いた胎果の麒麟は、他の麒麟にも協力してもらってその痕跡こそ見つけたものの一向に見つからなかったという経緯がある。
蓬莱育ちの麒麟は10年ほどしか持たない。
それもあって卵果が流れて17年もの時が流れた現在皆は峯麒の生損は諦めていたのだ。
「ということはもしかして今回のこの蝕は鳴蝕か?」
「恐らくはそうでしょう」
恐らくは峯麒が帰って来たと聞いて二人に笑みが浮かぶ。
これが嬉しくないわけがない。
統治者として今まで王のいなかった芳国にやっと麒麟が戻ってきてこれで王が見つかれば芳国の民は救われる。
峯麒は死んだものと考えて次の麒麟にかけるしかないと考えていたのだから。
しかし、陽子はここで喜んでばかりはいられない。
「確かに峯麒なのだろうがその海客が絶対に麒麟であるとは限らないだろう?」
「例えその海客が妖魔を操ると言ってもですか?」
「まさか使令か?」
「噂程度ですが」
これではもう決まったも同然だった。
この世界に流れ着いたばかりで使令を得たというのは驚くべきことだが。
「しかし、どうしたものか。
他国なれば大きく動くことなど出来ない。
それに頼りになる景麒も……」
「そう言えば蓬山へ行っているのでしたね」
今景麒はタイミング悪く蓬山へと行っていた。
呼び戻してもいいのだが。
もしかしてと思って陽子は浩瀚を見た。
「一応、知っているでしょうが雁国にもこの報告はさせていただきました」
「なるほど。
あの延台輔ならば……」
「お願いできますか、主上」
「ああ、分かった」
そして陽子は登極前から親交のある延王への文をしたため、蓬山の景麒にも同じような文をしたためた。
つまり、巧国に峯麒が現れた模様、捜索のため協力を求める、と。