柊弥はここにきてようやくこの場所が地球の何処でもないことを理解させられた。
そもそも日本にはもしかしたら野犬ならいるだろうが狼などここ百年以上日本国内で発見されていない。
それでもこの場所に小さいながらも狼がいることを知った時柊弥はもしかしたらここは日本国外なのかもしれないともしくはあの船の古さからみて過去にタイムスリップしてしまったのかもしれないと少なからず思っていた。
例え海中に星の輝く海があったとしても、と。
しかし、そんな柊弥の希望はその存在は粉々に砕かれてしまった。
(な、なんだ……これ……
どう考えてもこんなのが地球にいるはずがない)
サン
柊弥はここにきて自分が地球とは異なる場所に居ることを思い知らされたことによるショックもあって目の前の大きな怪物を前に動きがままならない。
しかし、そんなことはこのサン猊にとっては関係ない。
サン猊にとってこの目の前にいる人と小さな狼の妖魔は自らのテリトリーに侵入してきた煩わしい存在である。
わざわざ相手のことを慮ってやる必要もない。
柊弥はサン猊が不自然なくらい大きく息を吸っているのを見てすぐにその場から離れた。
周囲の狼は既に危険を察知して目の前のサン猊を前にして怖気づいてしまったもの以外は柊弥の事も忘れてそそくさとこの場から離れてしまっている。
化け物が大きく息を吸うようなモーションの意味を柊弥は即座に理解した。
ヒントは先程の火の粉の混じる鼻息で教えてもらっている。
現実世界では見たことなどないが彼自身はアニメやゲーム画面の向こうでよく目にしていたものだ。
つまり、ブレスまたは火炎放射。
すぐに逃げ出したはずの柊弥だったがこの世界のモノだけでなく空気さえも焼き焦がすそのサン猊の火炎放射はそれなりに離れていたはずの柊弥の背中を文字通り焼いてしまった。
既にボロボロだった柊弥の制服は周囲に焼け焦げたにおいを漂わせて背中の部分だけ焦がしている。
背中の火傷の痛みをどうにか我慢しながらサン猊のいる方を振り向いた柊弥は自分がさっきまでいた辺り一帯の土砂さえも削ってしまうサン猊の火炎放射に恐れおののいた。
「間違いない。
俺が近づきたくないと思った場所にあった正体はこいつか。
まったく、せっかくの直感も大事な時に役に立たないんだな」
火炎放射で一掃された場所にポツポツと狼のなれの果てである黒い塊がある。
サン猊の火炎放射は明らかに桁違い。
さっきの柊弥は直前に気付いてどうにか逃げおおせたがそれでも無傷で逃げられるとは限らないことを柊弥の制服の背中の焦げ跡が物語っている。
そして、逃げようとして柊弥がこの場を颯爽と逃げようとしても恐らく後ろから追ってくるかもしれない。
今のところ柊弥は目の前のサン猊の特徴を事細かに知っているわけではないが、今逃げたとしても逃げ切れないだろうことは十分に理解した。
「ふざけるな……」
なぜこんな目に合わなければならないのか。
その場を動くことはないと察したサン猊は確実に目の前のものを仕留めてしまうと確実に柊弥との間隔を埋めにゆっくりとだがしっかり歩を進めていく。
サン猊も竜生九子に数えられるだけあって脳なしのそこらの妖魔とは違うのだ。
どんなに弱弱しい相手であっても仕留めるまで油断はしない。
なぜこんな場所に流されなくてはいけないんだ。
柊弥は飛行機でハイジャック犯に運悪く遭遇してしまってからの事を考える。
こんな何処なのかも知れない場所で死にたくはない。
柊弥はこの絶体絶命の中で、尽く悪いことが起こるこの世を恨み、圧倒的な死を前にして今までどこに隠していたのかと知り合いだったらいいそうなほどの負けん気の強さ表に出してしっかりと目の前のサン猊を睨み返した。
ただ柊弥は化け物のどんな隙でさえも見逃さずに生に縋りついてやるという意気込みで睨みつけただけだった。
だが、これが柊弥にとって功を奏した。
サン猊は柊弥の捨て身の圧倒的な存在感を前に動きを封じられ、更に得意の火炎放射ができるほどの余裕を与えられなかった。
ここでサン猊も只人ならぬ柊弥を無視できずに睨み返し相手を威嚇するに至った。
ここから先、柊弥は自分でも何をどうしたのかよく分かっていない。
ただ、周囲が段々と暗くなっていって夜空に現れた月明かりもいつの間にかなくなったようでもと来た海の方から朝日の明るさが見えるということを感覚的に感じていた。
夜通し続いた睨み合いは突如夜明けと共に均衡が破れた。
目の前の化け物の隙を探してやろうと一晩集中していた柊弥にはその時目の前の化け物からの威圧が先程よりも減じていくのがなぜか分かった。
そこで待ってましたとばかりに柊弥は畳みかける。
柊弥は無意識にまるで天から力を分けてもらうかのように右手を天にかざす。
それこそ右手から力がそそがれているかのような感じを感じつつ、その時柊弥は額の辺りも熱くてまるで力が集中しているかのように思えた。
そこから、柊弥はサン猊に集中して疲れた脳が休み、身体も心も本能のままに動いた。
――従え。
身体中にみなぎる力を感じながら柊弥は目の前のサン猊に命じた。
――俺に従え。
サン猊も夜明けからの自らの力の低下と逆にみなぎる柊弥の力を感じて歯噛みする思いだった。
――従え!!
サン猊が屈したと分かった柊弥の脳裏にはある文字列が浮かんだ。
そして、何も考えず本能のままに心身を突き動かしていた柊弥にはこの後何をするべきかなどということは十分に理解していた。
「下れ、
今までになく鋭く迫力のある柊弥の号令は夜明けの朝日に照らされる松の林に響き渡った。
そうして柊弥は目の前のサン猊との勝負に勝利したことも理解できないままにその場に倒れ伏した。
ただでさえ慣れない徹夜をしたばかりか、見知らぬ世界を奔走した疲れが出ている中での初めての“折伏”を成功させたのだ。
柊弥が倒れるほどに疲れるのは致し方ない。
そして、前日までとは違って柊弥は頼もしい護衛を手に入れたのだ。
妖魔蔓延るこの林の中で寝てしまっても何の問題もない。
◇◆◇◆◇◆
柊弥は太陽が中天に差し掛かろうという頃にようやく目を覚ました。
ゆっくりと起き上がった柊弥だったが昨日とは違ってすぐに目が冴えた彼は昨晩のこと思い出して素早い動きでその場に立ち上がり辺りを見回した。
「んなッ!
な、何で……」
寝覚めの柊弥でも流石にその赤色の毛並みが綺麗な化け物の存在にはすぐに気が付いた。
それよりもすぐ近くにいたことに驚いた。
柊弥にとって昨夜の記憶と言っても、地球では決して存在しない異様な風体をしたライオンとは到底言えない化け物を前にして、ほぼ死が決定づけられた中で目の前の化け物を相手の隙を見てどうにか逃げおおせてやろうと考えて睨みつけて長いことそのままだったというところまでの記憶しかない。
柊弥にとってはよもや夜明けまで続けていたこともましてやその化け物を従者に下したことなど碌に覚えていないのだ。
それをある程度察していた爍繃はそれを察して自らの主をなるべく警戒させないようにしながら話しかける。
『主よ。
主は今朝、私を従えたのです』
「り、理解できない。
だが、お前は俺の敵ではないとそう言うことなのか?」
『その通りです』
目の前の背を低くしている爍繃にそう言われて柊弥は何故か知らないがこの化け物相手におびえる必要が亡くなったどころかどこかのゲームよろしく“テイム”してしまったようだということを理解した。
それと同時に柊弥は薄ぼんやりとだが目の前の爍繃を手なずけるまでの経緯を思い出した。
「そうか、爍繃か……
正直何が起こっているのか分からないが何となく理解できた。
しかし、どうしてお前は俺に従っているんだ」
普通に考えれば人間の小僧などに従っても利益などないはずと柊弥は人間的思考で考えた。
『それは御身が麒麟だからです』
「麒麟?
また訳の分からないことを。
それにしてもこのまま人里に行こうものなら酷く目立つな」
『それについては心配に及びません』
これから人前に出ようというのにこのままじゃ酷く目立ってしまうことを恐れた柊弥だったが、それは爍繃が柊弥の影に溶け込むようにして隠れたことで解決した。
「随分と便利だな」
そして、一連を通して爍繃が敵ではなく味方になったということを理解してようやく落ち着いたところで、柊弥は周囲の血の匂いに気が付いた。