殺すくらいなら、産まなきゃいいのにな。
小さな居酒屋は、男たちの汗による熱気で満ち充ちていた。
アボースは地下への居酒屋へ続く階段を下りながら、その熱気に顔を顰めた。
暖簾をくぐると、汗の匂いに混じってアルコールの匂いがする。
埃とゴミが散乱している床を歩き、小さな椅子に座る。店員がアボースの顔をちらりと見て、眉をしかめた。
それもそのはず、今は平日の真昼間である。こんな時間に居酒屋に来る者など、職のない馬鹿者か不良くらいである。
しかしアボースの見た目は、服こそ少し汚れているもののきっちりと綺麗に上下をそろえており、年齢もまだ若い。昼間から居酒屋に来るような人間には見えなかったのだ。
「ビールを」
椅子に座ったアボースは、店員に短く伝えた。てきぱきと働く店員の背中を眺めていたアボースは、不意に誰かがすすり泣く声を聞いた。
見ると、店の端っこに一人の男が座って泣いている。
よれよれになったシャツを着て、泥だらけのズボンを履いた、清潔感に欠ける中年の男だった。
男は額を壁にこすりつけながら泣いている。一体何があったのだろうと思ったアボースは、立ち上がり彼に問いかけた。
「あんた。一体、何故そんなところで泣いているんだ」
アボースの声を聞き、男が顔を上げた。脂汗と涙と洟に塗れた顔は、とても見ていられないほどに汚れている。
男はしばらくの間アボースを見ていたが、再び顔をくしゃりと歪めて泣き始めた。
「一体何故泣いているのかだって? ああ、俺が泣いている理由なんて一つしかないさ! たった一つの問題のために、俺は真昼間からこんな居酒屋で泣いているんだ!」
「だから、その問題は何なんだ。一体何があんたをそんなに悲しませているんだ」
「現れたんだよ……俺の畑に、悪魔の子が現れたんだよ!」
男は悲痛にまみれた表情のまま、そう言った。
不意に、くすくすと笑い声が聞こえて来た。見ると、厨房にいる店員たちが男を見て笑っていた。
「おい見ろ、また泣いてるぞ」
「ほっとけ、きちんと確認しなかった自分のせいだろう」
その言葉は男にも聞こえていたのか、男は顔を怒りで真っ赤に染め立ち上がった。
「やい、貴様ら聞こえているぞ! 第一、あれは俺のせいじゃない! 俺に種を売った商人が悪いんだ!」
両手を振り回しながら喚き散らす男を避けるため、アボースは少しだけ横に移動した。男は一通り叫んだあと、再び力なく座り込んだ。
「おしまいだ……おしまいなんだ……」
「悪魔の子……か。俺も畑で仕事をしているが、それはそんなに恐ろしいものなのか?」
「恐ろしいものなのか、だって!?」
アボースの質問がおかしかったのか、男は目を見開いて彼を見た。
「どうやったらあれを恐れられずに生きれるか! 君、もしかして、悪魔の子について知らないのか?」
「ああ、名前を聞いたことがあるくらいだ」
「なら頷ける。君はまだ幸運さ。あんな恐ろしいものに出会っていないだけな」
ごとりと、アボースの前にジョッキが置かれた。手を伸ばしジョッキを持ち上げようとしたアボースだったが、その前に男がジョッキをかっさらい、勢いよく飲み始めた。どうやらこの酔っ払い、そうとう出来上がっているようだ。
「いいか、悪魔の子が最も恐れられている理由の一つは、そいつが急に現れるからなんだ」
ジョッキになみなみと注がれていたビールを飲みほした男は、口の周りに白い泡をつけながらそう言った。
「ある日、急に畑の土の中に現れてるんだ。前日には何も起きてない、何の変化もなかったのに、だ」
「それはまた不気味な存在だな。畑の土の中に現れるのか……」
「ああそうだ。種を蒔くときに、時折悪魔の子が生まれる種が混じっていることがあるんだ。もしそれを間違って蒔いてしまったらもう取り返しがつかん。生まれるまで待つしかないのさ」
アボースは再びビールを頼んだ。熱気のせいで頭がくらくらしてきたからだ。
今度はすぐさまビールが運ばれてくる。男に取られないように気を付けながら、アボースはジョッキに口をつけた。冷たいビールが喉を冷やしていく。
「種を蒔くときにきちんとチェックしておけばいいだけじゃないか」
「そう、その通りなのさ。きちんとチェックをしておけば、悪魔の子は生まれないんだ」
「じゃあ何故あんたはその確認をしていなかったんだ」
「その種を知らなかったんだ! 商人に新しい野菜の種と言われ植えてしまったんだ! そしてこの間、悪魔の子が生まれたのさ」
男はいきなり、机につっぷしてしくしくと泣き始めた。店内の温度が数度上がったような気がした。
アボースはだんだんと悪魔の子とやらに興味が沸いてきて、じっと男を見つめながら尋ねた。
「それで、悪魔の子が生まれたら、どうなるんだ?」
「どうもならないさ」
「どうもならない?」
「ああ、どうもならない。ただ成長して、土から出てくるだけだ」
「なら、何故あんたはそんなに悲しんでいるんだ」
「土から出て来たからさ!」
男の言っている意味がわからず、アボースは苛立たし気に机を指で叩いた。先ほどからこの男は何を言っているのだろうと、店内にいる人間全員がそう思っているだろう。
「土から出て来たって……別に関係ないじゃないか」
「関係ないわけあるか! 土から出て来た瞬間、悪魔の子の所有者は俺になるんだ! だから、俺にはそいつを養う義務とやらが出来たんだよ!」
「義務……?」
「ああ、義務さ! 誰かが決めたのさ、俺らはそうやって悪魔の子を育てなければならないっていう訳のわからんルールをな!」
アボースには、男の言っている意味がよくわからなかった。
悪魔の子と、初めてその名を聞いた時、アボースはとても恐ろしい赤ん坊を想像した。身体は真っ赤で、白目まで黒い、角の生えた悪魔を想像していたのだ。しかし話を聞く限り、その悪魔の子とやらは自分たちと何ら変わりない生物ではないか。
「なら、育てればいいじゃないか」
「育てるだって!? 君、よくそんなことが言えるな! 大して大きくもない農家をやっている俺の家に、他人を養えるほどの金があると思っているのか!?」
「しかし、あんたの畑で生まれたんだ。あんたの物だろう」
「だからといって、俺が育てなければいけないという義務もないだろう!」
男はとうとう声をあげながら泣き始めた。自分より年上が世間体も気にせず大声で泣いている光景は、アボースにとって新鮮なものだった。
そんな男を見て、厨房の奥にいた店員が半笑いのまま叫んだ。
「そんなに育てるのが嫌なら、始末すればいいだろう! お前のものなんだ、お前が好きにすればいいじゃないか!」
店員のその言葉に、男は勢いよく顔を上げた。
「俺だってそうしたいよ! 斧を振りかぶって、無邪気に笑うやつの頭を粉々にしたいさ! だが、他人がそれを許さないんだ!」
「お前のものだろう。何故他人があれこれ言うんだ」
「まったくその通りだ! 俺の物だというのなら、俺の好きにさせてくれればいい! それなのに、こいつも命を持っているのだ、殺すなんてトンデモナイなんて綺麗ごとを抜かす輩がたくさんいるのだ!」
「悪魔の子……か」
アボースはついそんなことを呟いていた。
男は涙で塗れた顔でアボースを見て、その肩を掴んだ。
「なあ青年。俺はどうすればいいと思う? どうすればいいと思う?」
「選択肢は一つしかないだろう。育てるしかないさ」
「しかし、始末するという選択肢もある」
「始末なんてとんでもない! 悪魔の子だって生まれたくて生まれたわけじゃないのさ。殺すなんてかわいそうじゃないか」
「俺だって、産みたくて生んだわけじゃないさ! 勝手に生まれてきて、俺らの食い扶持をつぶしているんだよ! なら殺すしかないじゃないか!」
ついに男は、殺すという言葉を使った。その言葉を使った瞬間、店内の空気が少し張り詰めた。
アボースは男の言い分を聞いて、少しばかり怒りを抱いていた。
(この男は、自分のことしか考えていないではないか。悪魔の子が生まれたのだって、自分の注意不足のせいだ。なのにその責任をすべて悪魔の子に負わせようとしているのか。なんて理不尽な奴だ)
じっと男を見つめると、男もアボースのことを睨んできた。その視線には怒りというより、悲しみの色が濃く映っていた。
「君はまだ見たことがないからわからないのさ、悪魔の子の恐ろしさがな……」
「そうかい。俺にはよくわからんな」
がたりと、わざと大きな音をたてながらアボースは立ち上がった。
そのまま会計を支払い、階段を上って地上に出る。店内の熱気で熱くなった肌を、風が優しく撫でた。
「悪魔の子……か……」
ぐっと伸びをして空を見上げながら呟いたその言葉は、やけに大きく響いた……気がする。
『本当に、人間ってのは恐ろしい生き物だと思わないかい? 兄ちゃん』
不意に、アボースの耳に甲高い声が届いた。黒板をひっかいた時のような、不快な音だった。
後ろを向くと、居酒屋に続く入り口の左隣に置かれてる大きな樽の上に、小さな生き物が座っていた。
赤黒い肌にぎょろりと大きな瞳。その瞳は死人のように色がなく、口にはにやにやと嫌らしい笑みが張り付けられている。
手には禍々しい槍を持っており、その矛先はアボースに向けてぴたりと伸ばされていた。
尻尾が樽の上でのたうち回っており、どこか不気味さを漂わせていた。
「誰だお前は」
『おいらは悪魔さ。イチイって名前してる悪魔さ』
悪魔イチイは、げらげらと笑いながら名を名乗った。
その耳障りな声に、アボースは思わず顔を顰め耳を覆った。しかし、耳を覆っても悪魔イチイの声ははっきりと聞こえた。
『なあ兄ちゃん、人間って怖くないか?』
「いきなりなんの話をしているんだ」
『人間の話さ。おいらは時々、どちらが悪魔かわからなくなるね』
そう言いながら、悪魔イチイはすっくと立ちあがった。アボースの膝までほどの身長のイチイは、それでもどこか恐ろしく見える。
イチイはじっとアボースを見る。その生気のない瞳で見つめられた時、アボースはまるで自分の心の中まで見通されているのではないかと思ってしまった。
『おいらは人間を誘惑して、悪の道に走らせるために日々齷齪働いているんだ。しかし、おいらが何もしなくたって、人間は勝手に自分から堕落していく。一人でに堕ちていくんだ』
「…………その通りかもしれない」
アボースは静かに頷いた。今目の前にいる悪魔の言葉が、何故か正しいと思えた。
先ほどまで話していた男とイチイは、アボースの目からすると何も変わらないように見えたのだ。
ふと、アボースは気になっていた質問をイチイに投げかける。
「そういえば、悪魔の子はお前ら悪魔の仕業なのか?」
その言葉を聞いて、イチイはとても嫌そうに顔を顰めた。
『あんなの悪魔じゃねえよ。なんの害も与えない生物を、人間が自分たちの益にならないから悪魔と言っているだけにすぎないのさ。文字通り、奴らの「悪」に「魔」が差した結果が悪魔の子なのさ』
「……本当に、その通りだな」
『お、なんだい兄ちゃん。あんたもそう思うのかい。本当に人間って馬鹿ばかりだよなぁ。殺すくらいなら、産まなきゃいいのにな』
「ああ、そう思うよ。自分のミスで蒔いた種を、全て悪魔の子のせいにするなんて間違っているはずだ。悪魔の子にだって、生きる権利はあるのだ」
興味津々といった表情でアボースを見ていたイチイだったが、アボースの言葉を聞いた途端、げらげらと腹を抱えながら笑い始めた。なんとも不快な笑い声だった。
「何がおかしい」
『いやいや、全くその通りで笑ってしまったのさ。なあ、人間ってのは悪魔みてえなもんだよな。だからこそ、おいらは時々どちらが悪魔なのかわからなくなっちまうのさ』
「ふん、見た目だけで言うのなら当然お前たちが悪魔だろう」
『ひひ、人間はすぐに見た目で判断しようとするねぇ。だがよく聞け兄ちゃん、一番大切なのは中身さ。見た目なんてどうとでもなる。おいらだって変身しようと思えば人間の姿になれるさ。けどしない。する必要がないからな』
「する必要がないだと?」
『ああ、その通りさ。だっておいらたち悪魔は他人の目なんて気にしないんだからな。十人十色万歳で生きているのさ。皆と同じになろうと頑張っている人間とは真逆にな』
樽の上で一回転をして、イチイは面白そうに言った。すると、彼の右手にあった大きな槍がジョッキに変化した。その中にはビールがなみなみと注がれている。
『本当に、最近はおいらたちもすることがなくて、困っちゃってるんだ』
「悪魔が何もしないということは、いいことだろう」
『おいらたちが何もしていないんじゃなくて、人間たちが勝手に何かをしているだけさ。自滅をするから、やることがなくって最近じゃ毎日酒に溺れる毎日さ』
「なんだ、悪魔も酒を飲むのか」
『ああ飲むさ。飲んじゃいけねえのかい? 悪魔だって酔っ払いてえさ、こんな腐った世の中にいたらな』
そう言って、イチイはぐいとジョッキを傾けた。その赤黒い喉がごくりごくりと隆起したり沈降したりするのを、アボースはじっと見ていた。
ビールを一息に飲み干したイチイは、美味そうにため息をついた後、アボースを見た。その瞳には、明確に揶揄の色が混じっていた。
『なああんた、さっき悪魔の子には生きる権利があるって言ってたよな? それは本当に心の底から思っていることか?』
「当たり前だ。悪魔の子だろうが何だろうが、関係ないさ。生きる権利は生物である以上誰だって持っているはずだ」
その答えを聞いて、イチイはくすくすと両手で口を塞ぎながら笑い始めた。その際に右手で持っていたジョッキが地面に落ち、大きな音をたてながら割れた。
『そうかい、そうかい。そりゃなんとも素晴らしいことだ。生物である以上……ね。じゃあ最後に一つ聞きたいんだが、いいかい?』
「ああ、別に構わない。どうせこの後は畑に行って少しだけ働くだけなんだからな」
『ああ、それはありがたいな。それじゃあ遠慮なく質問させてもらおう』
ふう、と笑い声をぴたりと止めたイチイは、次の瞬間その不気味な作り笑いを消し、無表情のままアボースに問いかけた。
『じゃあもしまだ生物として認められていない物体だったら、殺してもいいのかい?』
しんと、周囲の音が一瞬止んだ。
まるで耳に覆いを付けられたかのように、音が音として機能していなかった。
しかしそれも一瞬。少しすると、栓を抜いた風呂の水のように、ゆっくりと音が鼓膜を震わし、本来そうであるように音を取り戻していった。
その騒々しさに、アボースは目を瞑った。
耳が音に慣れるまでぎゅっと目を瞑っていたアボースは、目を開いた時、樽の上に誰もいないのを見て少なからず驚いた。
イチイは、いつの間にか消えていた。
「…………どういうことだ」
ぽつりとつぶやいた言葉は、虚しく宙に溶けて行った。
◆
自らが耕している畑へと続く道まで歩いている最中も、アボースは悪魔の子について考えを巡らせていた。
悪魔の子とは一体何者なのだろう。何故現れるのだろう。何故人々はそれを嫌っているのだろう。
しかし考えを巡らせても返ってくる答えはない。堂々巡りの思考だけが彼の頭の中でとぐろを巻いていた。
ふと横を見ると、畦道に一人の農夫が座り込んでいるのが見えた。
背をアボースに向けているので、何をやっているのかまでは見えなかったが、相当集中しているということはその背中を見るだけでも理解できた。
少し興味がわいたアボースは、農夫に近づいていく。足音に気がついた農夫は、ゆっくりとアボースを見た。
「おや、道にでも迷ったのかい?」
「いや、違う。今ちょうどここを通りかかったんだが、あんたが何をしているのか少し気になったもんで、少し近寄っただけさ」
そう言いながら農夫の手元を見るアボース。農夫は、何やら種を仕分けていた。
農夫はアボースの言葉に肩を竦めた。
「まあ、見ても面白いもんじゃないさ。ただ、今から蒔く種に悪魔の子の種が混じってないか確認しているだけさ」
「悪魔の子の種……か。居酒屋でもその話を聞いたぞ」
「ああ、地下にある居酒屋だろう。あいつは悪魔の子が生まれてからずっとあそこに通いっぱなしだよ」
どうやらあの男は地元ではかなり知られているらしく、農夫はおかしそうに肩を揺らしながらそう言った。
アボースは農夫の話よりも、彼の手元にある種が気になっていた。
「悪魔の子の種は、どんな見た目をしているんだ?」
「見た目はほかの種とほとんど一緒さ。少し大きいか否かって感じだな」
「だから、多くの人が間違えて植えるんだな」
「違いない」
笑いながら、農夫は一つの種をぽいと畦道に捨てた。
アボースはそれを拾って、まじまじと見つめる。いつも自分が蒔いている種より、少し大きいかくらいの種であった。
「もしあんたが悪魔の子の種を植えてしまったら、どうするんだ?」
「もし俺が? それはまた答えにくい質問だな……。けど多分、俺だったら棄てるね」
「棄てる? 悪魔の子をか?」
「ああ、そうだ。それ以外何がある。とっておいたって、役に立つわけでもなかろう」
じっと手元を見つめていた農夫は、アボースを見てそう言った。その言葉には、言葉にしなくてもわかりきっているだろうという感情が見え透いていた。
鎮まっていた怒りが、むくむくとアボースの中で膨れ上がってきた。
「だからといって、棄てるのはかわいそうだろう。悪魔の子だって生きているんだぞ」
「何を怒っているんだあんたは。育てれないなら棄てるしかないだろう。それとも、殺せというのか?」
口調が荒くなっていくアボースを見て、呆れ気味に農夫は窘める。しかし、アボースの怒りはそれだけでは収まらない。
「育てればいいだろう」
「育てるだって? はは、あんたは面白いことを言ってくれるな。何故俺がそんなことをせにゃならん」
「何故って、そりゃあんたの物だからだろう」
「俺の物だからって、俺が育てにゃならん理由にはならん。それに、俺の物だったら俺が棄てようが殺そうが俺の勝手だろう」
「悪魔の子だって生きている! 夢も! 願いも! 命も! 全部持っているのだ! それをあんたは自分のために踏みにじるというのか!?」
「それが俺の邪魔をするんだったらな。いいかい、自分に関係がないものの心配をすることほど愚かなことはないのさ」
がははと快活に笑って、農夫は再び種を捨てた。アボースの足元に転がってきたその種は、心なしか泣いているようにも見えた。
「俺には、その考え方が理解できないよ……」
「それはあんたがまだ悪魔の子に関わっていないからさ」
農夫は急に立ち上がった。どうやら、種の選別が終わったらしい。尻に付いた草切れを手で払うと、農夫はアボースをまっすぐ見た。
「人間はな、自分が中心に立っていないときは何でも言えるんだよ。自分の想いや感情をな。だがそんなものは自分が中心に立ったその瞬間に崩れてしまう。何故かって? 想いや感情など綺麗ごとでしかないからだ。だからあんたはそんなにも溌剌と間抜けなことが言えるんだ」
「これを間抜けな事と言うのか」
「ああ、間抜けだ。とんでもない道化だ。まずは自分が中心に立った時のことを思ってみな。そうすれば少しはその考えも変わるはずだ」
そう言って、農夫は畑へと歩いて行った。
その後ろ姿を見ながら、アボースは怒りに任せ怒鳴り散らす。
「この悪魔め!」
「はは、悪魔か。案外間違ってないのかもしれんな……蛙の子は蛙。悪魔の子は悪魔だな」
アボースが放った悪口も、農夫には全く意味がなかったらしく、手を振りながらどこかへ行ってしまった。
「なんて非道い奴らなのだろうか!」
アボースは感情のままに地団太を踏んだ。自らの掌が真っ白になるくらい強い力で握りこぶしを作っていた。
しかし怒っても意味がないと気づき、徐に自分の畑へと歩いて行った。その後ろ姿は、どこか疲れていた。
◆
アボースは自分の畑を見渡して、満足気に頷いた。
彼の目の前に広がるのは大きくないが立派に育った穀物が目立つ青々とした畑。彼の自慢の畑だった。
自らの畑に足を踏み入れたアボースは、近くにあった穀物をつまんでみる。しっかりと実った、立派なものである。
そのまま自分の畑の中を歩いていたアボースは、何やらおかしなものを見つけた。
ぴたりと乱れることなく屹立している穀物の中に、一つだけ短く太い草がある。
その草はどこか不気味で、まるでぴったりと文字が書かれている書類の中に一文字だけインクを垂らしたかのような、よくわからない違和感があった。
よくわからないが、近づいてみる。近づけば近づくほど見たことがない植物だった。
葉の裏を確かめてみようと顔を近づけたところで、アボースは妙な違和感を感じた。
この植物からは何の匂いもしないのだ。
植物というものはどんな種類であれ、ある程度匂いというものはあるはずだ。
しかしこの植物には、匂いといえるものが全くない。それが、アボースに形容し難い不安を与えた。
しかしその不安は、すぐに恐怖へと変わる。
とにかく葉の裏を見ようと植物を掴んだ瞬間、アボースは確かに感じたのだ。
人体のぬくもりと、わずかに動く生命の気配を。
「う、うわぁっ!」
思わず、アボースはしりもちをついた。
植物を触った手を確かめてみる。何も変わりはない。
しかし、確かに感じた。
植物にあるはずのない体温と、茎の中で胎動する何かの命を感じたのだ。
「な、なんだこれ……」
声が震えていた。
何もなかったはずの手が、何故かじんじんと痛み始めた。もう一度確認するが、やはり異変はなかった。
まさか、とアボースの中でむくむくと最悪の予感が起き上がってくる。
「ある日、畑に現れる……人間と同じ生物……」
しりもちをついたまま後ずさりながら、アボースは確信した。
これは、悪魔の子だ。
そう頭が理解した途端、恐怖が溢れ出してきた。
急いで立ち上がり、足がもつれさせながら走り去る。
先ほどの二人の農夫たちの言葉が、頭にちらついた。
「育てる義務がある? ふざけるな……畑から生まれた子供なんて、育てれるわけあるか!」
どこへ行くかもわからぬまま、アボースは走り続けた。
気づけば、自分の家にいた。
急いで納屋に入ったアボースは、ぴしゃりとドアを閉じ大きく息を吸った。
恐ろしかった。自分の知らないところで何か重要なことが起こっていることが。
しかしそれよりも恐ろしかったのは、自分の心であった。
悪魔の子を見た瞬間、アボースの中にとある考えが出て来たのだ。
このまま、棄ててしまおう。
このまま、殺してしまおう。
そんな悪魔にも似た考えが、アボースの頭を一瞬にして占めたのだ。そんな自分の心が、恐ろしかった。変わらないと信じていた自分があっけなく変わったことがおぞましかったのだ。
「どうしようか……」
アボースの言葉は、頼りない声音だったにも関わらず納屋の中にいやにはっきりと響いた。
すると、どこからか言葉が返ってきた。
『どうしたんだい? 頭なんか抱えて』
アボースが勢いよく顔を上げると、納屋の端っこに置いてあった木馬の上に、先ほどの悪魔イチイが座っていた。
「お、お前……」
『やあやあ兄ちゃん、また会ったね。どうしたのさ、随分と元気がないように見えるけれど』
「そう見えるかい」
『ああ、顔が真っ青さ。ま、真っ暗な納屋の中にいるからなんだけどね、ひひひ』
自分のジョークがそんなにも面白かったのか、イチイは腹を抱えて笑っている。
しかしすぐに真面目な表情に戻って、アボースを見た。
『それで、何が起こったんだい? 助けてあげれることなら助けてあげるけど』
「悪魔が人の手助けか?」
『おいおい、そんな非道いこと言わないでくれよ。おいらたち、友達じゃないか』
「うるせえ……、俺の畑に、悪魔の子が生まれたんだ」
何か文句を言ってやろうと思ったが、そんなことをしても意味がない。
アボースは素直に自分が置かれている立場をイチイに説明した。
イチイはその説明を聞いて興味深そうに木馬を揺らした。
『兄ちゃんの畑に悪魔の子が? そりゃまた大変なこった。けど、なんだってそんなに落ち込んでるんだい』
「どうすればいいのかわからないのさ……このまま育てるわけにはいかないし、かといって棄てたり殺したりするわけにもいかない……」
アボースは絶望に呑まれながらやっとのことでそう言った。
しかしイチイは特に大きな反応を見せない。ずっと、きょとんとした表情でアボースを見つめるばかり。
「俺は、どうしたらいいんだろうか……」
『始末すればいいじゃないか』
「は?」
『今のうちに始末すればいいだけじゃないか』
ゆらゆらと、木馬に揺らされながら、イチイはさも当然のように言い放った。
その生気のない瞳には、確固たる自信が見えた。
「始末って……そんなこと、できるわけないだろう。俺が居酒屋の男に言ってしまったんだもの。人の命を殺すなんてトンデモナイと……」
『ふむ、だから殺せないと……。兄ちゃん、あんた少し勘違いしてるよ』
ぴんと、人差し指をたてながらイチイはそう言った。やけに長い爪が目についた。
『あの男は悪魔の子とやらを殺せない。それは悪魔の子が既に生まれて地上に出てきてしまったからさ。しかしあんたは違う。まだ植物の中にいるんだろう? ならそんなの生物じゃないさ。自分の意志がないんだからな。自分の意志がないものを生物なんて呼ばんさ。だからこそ、あんたはそいつを始末していいんだ』
「な、なにを……」
イチイの甘い言葉が、アボースの耳に滑り込んで脳を溶かしていく。
何か言おうと口を開くが、それを遮るようにイチイが話を続ける。
『それに、誰も知りやしないさ。あんたは居酒屋で泣きわめいてもいないし、先ほどまで自信満々に悪魔の子を殺したり棄てたりするのはあり得ないと言っていた人間だろう。誰が始末したなんて思う? 誰も思わないさ。さ、早く始末してしまいな。誰かに見られる前に』
「そうした方が……いいんだろうか……」
だんだんと、アボースはイチイの言っている言葉が正しいように思えて来た。
確かに、植物の中にいる間は悪魔の子は自分の意思を持っていない。ならば、それは生物と呼ばないのではないだろうか。誰も彼を責めないのではないか。そんな考えが、アボースの頭の中に留まった。
『さあ、早く行っちまいなよ。ぐずぐずしていると悪魔の子が生まれちまうぜ! 生まれたらあんたの人生は終わりだ! さあ、早く行けよ!』
「……わ、わかった」
その声に背中を押されるように、アボースは立ち上がった。
立ち上がった際に、イチイが彼に向って何かを投げた。彼の足元で数回回転して動きを止めたそれは、納屋に置いていた斧だった。
『ほら、それで始末してきなよ』
「……恩に着る」
短くそう言うと、アボースは斧を持って走り出した。その足取りに、迷いはなかった。
悪魔の子を宿している植物は、心なしか先ほど見た時よりも少しだけ大きくなっているように思えた。
それを見るアボースの目つきは、人間のものとは思えないほどに冷めきっている。
「お前が悪いんだよ、お前が……こんなところに現れた、お前がな」
短くそう言って、斧を構える。植物は何も言わない。ただじっと、動くこともなくそこに佇んでいる。
当たり前だろう……『まだ生物ではないのだから』。
大きく息を吸って、斧を持ち上げる。ふと、心の隅にちくりと何かが覗いた。良心とか、そういったものなのだろうか。
しかしそんなこと、知ったことではない。
大きく息を吐きだしながら斧を振るったアボースは、心の迷いもろとも、植物を切り裂いた。
溢れ出したのは、真っ赤な血であった。
さて、この作品の中には悪魔がいます。
一体誰でしょう?