そんな世界で、絵を描けなくなった元画家と、ひとり花を植え続ける女性が出逢う。
ピピピピ。
アラーム音が鳴る。設定通りのその音によって、私、美綴みのりの意識は覚醒した。
カプセルが開き、体を起こす。
少し息を吐くと、白いもやとなって口元から霧散していった。
体が異常なく動くことを確認し、私は数ヶ月ぶりの朝食を摂りにキッチンへ向かった。
シャーベット状の栄養食を口にしながら、部屋の周りを見渡す。
壁中に掛けられた絵画は、先程の冷凍睡眠に入る以前と何ら変わることなく、私を取り囲んでいた。
ぼんやりと、姉の遺作たちを眺める。かつて賞賛を浴び、私の心をざわめかせつづけたその美しさは、今となってはこの家と共に凍りついて、私を静かに責め立てているばかりだった。
いや、責められていると感じているのは、甘えにも似たただの物寂しさでしかない。
今思えば私の〝絵を描く動機〟は、ましてや私の人生のほとんどは、姉を追いかけることに集約されていたとも言えるだろう。
原動力のすべてであった〝姉〟という〝生きる意味〟は、あらゆる情熱と共に、はるか過去に置き去りになったのだ。
味のしない朝食を半分以上残して、ふと窓を見遣る。すると、ぐるぐる繰り返すだけだったこの異常な日常に、ささやかな変化が訪れていたことに気づく。
真新しい人の足跡が、連綿とその寂しい道に刻まれていたのだ。
ガタリと衝動的に立ち上がる。その時初めて息をしたように、自分の呼吸が弾むのを感じた。
ざくざくと、白い軌跡を辿る。
期待で胸が膨らんで体が熱くなりかける寸前、思ったよりあっさりと、その足跡の主を見つけた。
「こんにちは」
躊躇い無く声をかける。勢い余って声が必要以上に大きくなってしまった。
シャベルを引きずり、ロングコートのフードを目深に被った左腕のないその人がこちらに振り返る。すこし驚いているのか、呆気にとられたようにじっとこちらを見つめていた。
私は慌てて、不意を付かせてしまったことを謝る。フードから僅かに覗く顔をよく見ると、察するに同年代ぐらいの女性だった。彼女は数度瞬きした後、フードを外してにこやかに挨拶を返してくれた。
簡単な一言だけだが、久しぶりに人と声を交わせて心が踊った。
熱に浮かされた私はその勢いのまま自己紹介を済ませ、あろうことかお茶をしないかと家に誘ってしまった。
さすがにいきなりこれは失礼だったかと、すぐに思い直して訂正しようとしたが、人と会えて嬉しいのは向こうも同じなのか、彼女は快く承諾してくれた。
〝相咲なずな〟それが数年ぶりに出会った、この街の住人であった。
「どうして、穴掘りをしていたんですか?」
出会った時に彼女がしていた作業について問いかける。体温が上昇するのを避けなければならない私達にとっては、推奨しかねる行為だった。
「あー、花を植えていたんですよ。ほら、目覚めている間ずっと雪だらけで寂しいじゃないですか。私達春の緑はもう拝めないし、寒さに強い花を植えて回ってたんですよ。……自分でも変なことしてるとは思うんですけど」
「いいえそんな、素敵じゃないですか。花かぁ……いいな。もう何年も本物を見てないなぁ」
アイスコーヒーが入ったマグカップを見つめながら、暖かな春の懐かしい色鮮やかさに思いを馳せた。つとめて、姉の絵たちを視界から追い出しながら。
「そういえば、壁中に飾ってるこの絵、みのりさんが描いたんですか?」
なずなさんが、キョロキョロと部屋の壁を見渡しながら口を開く。
「あっ……いいえ。これらは姉のなんです。私達画家だったので、作品がアトリエに収まりきらなくて、そこら中に飾ってるんです」
「へえ、姉妹で画家か! すごいですね……。みのりさんのはどれですか?」
「…………私のは、置いてないんです」
「えっ? どうして?」
「……描けなくなっちゃって。この病気になってから、イメージが湧かないというか……」
「…………そう、ですか」
ハッと我に帰り、なずなさんの表情が固いものになっていることに気づく。長い前髪から、凍りついた眼差しが覗いている。変な空気にしてしまったかと、慌てて別の話題を探り出した途端、なずなさんの方から口を開いた。
「みのりさん、良かったら今度は私の家に来ませんか? 是非みのりさんに見てもらいたいものがあるんです」
先程の表情とはうって変わって、なずなさんは明るく笑いかけていた。
「え、ええ是非! 何かあるんですか?」
「行ってからのお楽しみですよ」
なずなさんはくくくっと、いたずらっぽく笑った。
それから日を改めてなずなさんの家に招かれ、彼女の家の呼び鈴を押す。私の家からそう離れていない、質素なアパートだった。
ガチャりと扉が開かれ、胸を弾ませる子供のようにニコニコとした彼女が顔を出した。
「ようこそ、冬の花畑へ!」
そこには、一面の花があった。
カトレア。クリスマスローズ。サザンカ。その他数えきれないほどの花たちが、彼女の家中に飾られていた。
「すごい……! これ、全部一人で?」
「もちろん。他にこんな物好きはいないだろうしね。一部収穫したのをプリザーブドフラワーにしたんだ。乾燥しすぎてひび割れちゃったりしてるけどね」
数年ぶりに目にする植物の色鮮やかさに心底心が踊った。視界が色で溢れている。病に侵される前の日々が脳裏に過り、かすかに涙目になる。
「なずなさん、素敵なものを見せてくれてありがとうございます。……あの、もしよろしければ花植えの作業を、私にも手伝わせてくれませんか?」
なずなさんが驚いてこちらに振り向く。いつまでも変わり映えしない真っ白な冬に、変化が訪れたことが嬉しくて、彼女ともっと一緒に過ごしたいと思って出た言葉だった。この空虚感から、少しでも逃れられるかもしれない。
彼女はじっと自らの何も無い左腕の袖を握りながら、しばらく考え出した。やはり、迷惑だっただろうか?
「みのりさん。是非頼むよ。私はこの通り片腕の身だから、手伝ってくれる人がいるとすごく助かる」
彼女は、出会った時と同じように、快く右手を差し出してくれた。
「なずなさん、そういえばどうやって花を育ててるんですか?」
作業中、ふと気になった疑問を口にする。
「支給されてる飲料水も限りがあるから、水やりは難しいですよね。何かで代用しているんですか?」
なずなさんの手が一瞬止まる。彼女は背を向けたまましばらく間を空けて口を開いた。
「命の水を使ってるんだ」
「え?」
「私達の体温が上昇すると身体が液体となって溶けだす病。その液体には、豊富な栄養がある。命一個分の栄養素が凝縮された液体だからね。この厳しい寒さの冬でも、元気に花を咲かせる……」
──なんだって?
冷えた体が更に寒くなる感覚がした。いつまで経っても治療法が解明されることもなく、段々冷凍睡眠から覚めようとしなくなった人々。人気が全くない街並み。一人で花を植え続けている彼女。まさか──。
「なずなさん、あなた、人を……」
突然、彼女の何も無い左腕の袖を向けられる。
意味がわからず、私は少し後ずさりをした。
「実験は成功している」
彼女は空っぽの左腕を向けながら淡々と言う。
「命の水は、栄養素が豊富なんだ。たとえ一滴でも、大輪の花を咲かせられる」
「〝腕一本分〟で、私の部屋は花で満たされた」
……彼女は何を言っている?
自分の左腕を溶かして、花の栄養にしたというのか?
「なんで、そんなこと…………」
途端、湧き出してくるものを強く抑え込むかのように顔を強ばらせる相咲なずな。しかしそのブレーキから漏れだした強い感情が、彼女の表情に滲みだしていった。
「なんでって?」
「この終わらない冬に、この治る見込みのない病に一撃を食らわせてやるためだよ」
「体温が上がると水になる。そんな体で、どうやって生きていけと?」
「国は一向に何の発表もしない。希望を信じて待てといって冷凍睡眠カプセルを支給してから、どれ程経った?」
「どれだけの人が水になった?ただ歩いていただけなのに、ただ友人と語らっていただけなのに」
「一瞬で、この先の人生も何もかも消滅するこの悪夢から、いつ醒める?」
「私のやってる事は無意味なのかもしれない。でも」
「何もしないまま、何も出来ないまま病に殺されるのは、真っ平御免だ」
───────。
相咲なずなは、ゆっくりと、無言で作業を再開しはじめた。
一方で、そんな彼女を見た私は、
──ああ、この人を描きたい。
場違いな願望が、心の隅にひとりでに生まれていた。
「ちなみに、他の人には手出してないよ」
唐突になずなさんが口を開く。不自然なほどに自然な口調だった。
「自分の自己満足に、他人を巻き込む訳にはいかないからね……あ」
「ごめんみのりさん。つい熱くなっちゃって……嫌だったらやめていいからね」
彼女はいつものやわらかく、さっぱりとした笑顔で言う。
穏やかな笑顔に隠された、吹きこぼれるような強い怒り。
何年ぶりだろう。人の強い感情を目にしたのは。
……私は結局、作業を手伝うことをやめなかった。やめたいとも、思わなかった。
作業中、彼女の空の左袖が揺れる度、その細身にぐつぐつと満たされたものを思い描いて、それから目を離せなかった。
作業の日々がしばらく続いたあと、冬は終わりかけていた。
春が、足音を鳴らし始めたのだ。
冷凍睡眠カプセルに入らないと溶けてしまう気温に徐々になっていく時期に、なずなさんは私に会いに来た。
「みのりさん、今までありがとう」
「どうか、お元気で」
それだけ告げた彼女の手には魔法瓶が握られていて、そのまま去っていってしまった。
私は、本当ならその時彼女を止めるべきだったのだ。
彼女を呼び止めて、魔法瓶を奪ってその温かい中身を捨ててしまえば良かったのだ。
私は、冷凍睡眠カプセルには入らなかった。
私の意識にもう何も割り込むこともない程に、ひどく落ち着いていて、静かに高揚していた。
しばらく経って、雪が溶けだし、無彩色が薄れていく。
あんなにも寂しかった白銀一色の街は、今や色とりどりの鮮やかな花に覆われていた。
画材一式と、キャンバスを持って家から出る。
一面の命の色。
私はそれが眩しくて、それを逃したくなくて
一心不乱に、キャンバスに筆を走らせた。