もしも森鴎外が「魔法少女まどか☆マギカ」を観てから「舞姫」を書いたら 作:宇多川八寸
原作:魔法少女まどか☆マギカ
タグ:クロスオーバー 魔法少女まどか☆マギカ 舞姫 森鴎外 雅文体 キュゥべえ 変身 ドイツ 魔法少女 うたかたの記 文づかひ ふた夜 即興詩人
いとらうたき白き獣ぞ我にたづぬる。四方よりは、げに恐ろしげなる「魔女」の「結界」の我に迫り来つつあり。
是がわがインキュベヱタアとの出会ひにて、世にも稀なる「魔法少女」が物語の始なりき。
「いざエリス、我と契りて魔法少女となりてよ」
いとらうたき白き獣ぞ我にたづぬる。四方よりは、げに恐ろしげなる「魔女」の「結界」の我に迫り来つつあり。
あゝ、誰が知りけむや、「ヰクトリア座」の舞姫とて多少は
わが父は肺疾にてはかなくなりぬ。明日は葬らでは
この
この狭苦しき 巷 に面して、
後に知りぬ、すでにわが身の「魔女」が「結界」のうちに取りこまれたりけるを。
うちつけに甲高き女の笑声と「ピヤノ」の響起こりて、わが耳を
「もはやこれまで」と観念したるとき、訝しや、わが心のうちにあやしくも鳴り渡りたること葉あり。
「我と契りて魔法少女となりてよ」
是がわがインキュベヱタアとの出会ひにて、世にも稀なる「魔法少女」が物語の始なりき。
「魔法少女」とは「魔女」を殺すものの
すでにわが身の「魔女」が「結界」のうちに取り込まれたる上は、「魔法少女」となる
キュゥべえ――白き獣はかく 名告 りつ――曰く、「魔法少女」の契りには願ひごとが必要なりと。昔は知らず。今の我にとりて、願ひごとは問はれるまでもなく定まりたるべし。
「父を葬り、母を貧苦より助け、我を救ひ
キュゥべえと、神もまたわが祈りを聞き届け玉ふにや、暖かき光が
「
「案ずべからず、エリス、君が願いは必ず遂げらるべし。されど、今の憂ひは「魔女」なり。いざ、「魔法少女」の力を解き放ち玉へ」
物語りせしもつかの間、一弾指の間に四囲の「使い魔」ども、赤き黄なる
伽藍の大広間にては、「ピヤノ」のしらべに誘はれて国ぐにの軍服着たる士官の泥人形、金剛石の露
「そは「グリイフシイド」なり。わりなき「魔法少女」が
キュゥべえはさう言ひ掛けつるも、
「何故に泣き玉ふか。ところに
これなん太田豊太郎君、願ひに応へてインキュベヱタアのよこせし、わが救ひ主なりき。
2.
豊太郎の君はまことにわが救ひ主なりき。
彼は学生の身にて多くはあらざらむ
或る日、つねの如く彼がモンビシュウ街の官舎を訪ひし我の手をとりて、豊太郎君は涙をこぼしつ。
「何故に泣き玉ふにや? 一度窮地にありし我を救ひしはおん身なりき。こたびは我がおん身を救ふべきやもしれず。さはりなければ、わけをば話し玉へ」
なほも暫しの間、彼は口を
「公使はつひに我官を免じたり。彼が余にいひしは、おん身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らむには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。かくの如き論法をもって、彼は余にむかひて、一週日のちには
いひ
書院の窓下はいと静にて、ただ
今にして思へば、彼はこの時沈黙によりてわが憐憫を愛情と錯覚せしめ、「共に暮さむ」のこと葉の、わが口より出づるを待ち居りたりけむ。そは意思弱き彼の常套手段なれば。されど、あはれ、いまだ十七にしてもの知らぬ我エリスは、太田豊太郎君に甘きこと葉と愛の恍惚とを捧げにけり。
我と豊太郎君との交際を知りて、キュゥべえは喜びぬ。曰く「豊太郎との愛はエリスにとりて希望とならむ。魔法少女が希望の大きく育ちゆくは我らにとりても喜ばしきことなり」と。
これより先、豊太郎君はモンビシュウ街の官舎を出、クロステル巷の僑居にて我と母と共に暮らすやうになりぬ。彼は官を免ぜられしも、遠き東京の相沢謙吉なる朋友の斡旋にて、某新聞の通信員となり、ベルリンに留まるを得たりき。
朝の
その朝は日曜なれば豊太郎君も家にあれど、心は楽しからず。数日前より心地悪しく、もの食ふごとに吐きて、我は椅子に寄りて身を休めたり。母は
今は「日本国」の天方伯に仕ふるといふ相沢が招きなれば、郷里にては忘れられし豊太郎君の、再び世に出るたづきにもならんかと、やや放心せる彼を励まし、
「心許なしや? エリス。気がかりならば豊太郎が様子を垣間見すればよかるべし」
いつしか窓の側に坐したるキュゥべえが言ひぬ。
「如何にして。伯と相沢が身は「ホテル・カイゼルホオフ」にあらむを」
「君は「魔法少女」なり。魔法の力をもてすればいとやすきことなるべし」
その言にしたがひて、首に下げたる「ソウルジェム」に意を集むれば、遠き「ホテル」の一室、午餐の卓を前にせし二人の男の姿、やうやうわが眼前に像を結びぬ。一人は見紛ふはずもなきわが豊太郎の君、もう一人は豊太郎君と同年輩なる色黒く肥えたる男。かの男が相沢謙吉ならんか。
はじめ二人は豊太郎君が大臣より委託せられし翻訳のこと、郷里に残りし旧友の消息などを談じ合へり。相沢が快活の気象は
「ああ、彼は甚しき心得違いしつるかな。わが君とく言ひ分け玉へ」
魔法は像を結べども、声は届けず。豊太郎君は否とはいはず、ただ蒼然たる面持ちして、諾と、頷きぬ。
日課の「魔女」探しにと僑居を出しときはすでに夕暮れなりき。依然心地は優れねど、ここ数月わが「ソウルジェム」は濁りがちになりて「グリイフシイド」
激しき戦ひの最中にも思ひは千々に乱れて、脚はとられ、腕は振わず、涙は止めどなく流れ出づ。つひに我は戦ひ敗れて「魔女」が黒き触手に搦め取られたり。触手と見えしは美しき
ここで死なば、わが君は我を棄て玉はず。
「
かく声高く叫びつるは、こがね色の断髪を風に吹き散らしたる十七、八の少女。その顔ばせはヱヌスの古彫像を欺き、ふるまひには
「誰そ」「彼女はミュンヘンの「魔法少女」マリイなり。エリスの前に契約を結びし古兵にして、「グリイフシイド」狩るためならば手段択ばぬ癖者なれば用心せよ」
キュゥべえ顕れ出でて語りたる間も、少女は縦横に白刃を閃かせ忽ち「魔女」の辮髪十数束を尽く刈取りたり。露わになりし「魔女」の姿は
「人の胴に馬の面載れるとは、こは醜き
少女は、何処より取り出しけむ「コップ」を手に、中なる水を口に
噴掛けし霧は「魔女」を包み、眩き光を放ちて炸裂す。
光やみてのちわが前に立てるは「グリイフシイド」握りたる「魔法少女」マリイ一人なりき。
最早事は畢れりとばかりに、もの言はず立ち去らんとせしも、わが首より下げし「ソウルジェム」見てマリイは気色ばみぬ。
「汝の「ソウルジェム」は将に穢れ果てむとす。説明せよ、インキュベヱタア。この娘に何をさせしか」
「エリスは豊太郎の子を身籠り居りたり。新しき生命を育むにはより大きな活力を要する故に、力の消耗の激しくなるは道理なり」
キュゥべえの答へにマリイは眉根を寄せつ。
「豊太郎? そは何者なるか」
「太田豊太郎君は「日本国」の人にして、わが救ひ主なり」
「「魔法少女」が身籠るなどと、わりなきことをいふものよ。その男も所詮、異国の空に惑はされし心浅々しき人に過ぎぬべし」
「否、わが豊太郎が君は
「ならば汝は、その男に「魔法少女」が運命を打ち明け得るといへるか、つらき運命を知りて猶決して
「……」
我と問答せし間も、マリイが瞳はわが肩上のキュゥべえから決して離れず。その鋭きこと、あたかも「魔女」に対し居るが如し。
不意に悪阻の悪しき心地再び襲ひ来て、我は気を失ひて倒れんとす。血の気失せ、眼前には白き靄の広がりて意識の綱を手放さむとせし時、わが身を抱き止めしはマリイなり。彼女が手にしたる「グリイフシイド」をわが「ソウルジェム」に与ふると、俄かに眼底の靄は払はれ、わが心地も小康を得たり。わが身を横たへると、礼をいふ間もなく、マリイは大股にあゆみて去りゆかむとす。
「ベルリンの「魔法少女」よ、その豊太郎なる男とそこな穢らわしき白き
振りかへりて言ひ遺せしマリイが言は、不思議にも昼間聞きし相沢がこと葉とよく似通ひたりき。
3.
豊太郎君はやうやう伯に重く用ひられ、わが容体は日にけに深くなりまさりぬ。一月ばかり過ぎて、豊太郎君は伯に随ひ魯国に赴きぬ。しばらくは心細さに日ごとに文を書き、床に臥してわが君のベルリンにかへり玉はむ日を待つのみなりき。
年の瀬の押し詰まりたる或る朝、その日はめづらしく気分優れ、身体も軽く覚ゆれば、
足の赴くまま大路を過ぎ、獣苑を漫歩せし折、前より歩み来し婦人とわが肩は触れ合へり。咄嗟に頭を下げし我に女は紙袋差し向けつつ一言、
「マロオニイ、セニョレ(栗めせ、君)」
マリイは「魔女」が「結界」の内で見せし気勢にも似ず、上機嫌にて微笑みたり。されど、わが手に提げし玩具、布地を目に留むると忽ち面を曇らせぬ。
「さてもかたくななる女かな。未だにインキュベヱタアの妄言を信じつるとは。汝が身体は子などえ宿すまじ。おん身が孕むは胎児に非ず、「魔女」なり、「グリイフシイド」なり」
余りの物言ひに絶句したる我を、少女は誘ひぬ。
「ここには人目もあらむ。わが
マリイがベルリンにて投宿せし宿は「シュプレエ」川に面したる「ホテル」の一室にて、閉ざしたる窓を徹して寒風吹き込み、辻弾きの、「ヰオロン」の音もあはれに響きたり。
女主人は、客に中央に据ゑし「ゾファ」を勧め、自らは片隅なる椅子ひき寄せ、窓の下なる小机につら杖つきて語りいでぬ。
「まづ何事よりか話さむ。わがマリイが君の身に起きし、世にも稀なる悲しき遍歴の物語でも披露せむか?」
「否、戯れ玉ふな。先の
「「魔法少女」が孕むは「魔女」の卵、「グリイフシイド」なり。そのままの意なり。エリス、汝はインキュベヱタアが何故に我らに、「魔法少女」に力を与ふるか知れるや? かの獣どもの目的は、我らの希望の結晶たる「ソウルジェム」が絶望に染まり、「グリイフシイド」へ変じる瞬間、その瞬間に生ずべき膨大な
「されど、わが子は、我と豊太郎君との間に産れん子は如何ならむ?」
「インキュベヱタアは、第二次性徴期の少女の希望と絶望の相転移を食餌とす。「魔法少女」が身籠るなどあり得べからざることなり」
「わが身をさいなむ悪阻は」
「はかなき望みが身内にまことのさはりを生ずることもあらむ」
「嘘なり、
「なんとでもいふがよし。汝がクロステル巷の古寺にて初めて討ちし「魔女」を覚ゆるか、あれももと「魔法少女」にして、わがまたなき友なりき。月影に汝が手をすかして見よ、既に汝が手は指尖まで血に濡れたるらむ」
少女は暫らく黙しつ。我も継ぐべき
マリイは窓外に目を
マリイ再び口を開きて、
「我にもまた、汝と同じく救ひ主と崇めし男一人ありき。
マリイの
魯国より帰りし豊太郎君は、塞ぎがちになりて、うはの空なること、しげくなりぬ。
ニ、三日したる或る日の夕、
時刻は半夜をや過ぎたりけむ、室の戸のばたりと開く音して、振り返り見れば、変り果てたる姿にて、わが君立ちたりき。面色は蒼然として死人に等しく、髪は
「いかにかし玉ひし。おん身の姿は」
眸は視れども見えず、耳は聴けども聞えず。唇はわなわなと
あゝ、この時母のわが傍になければ、わが身は恐ろしき「魔女」に化してけむ。彼は人事を失ひ、わが精神は絶望の淵に臨みぬ。病床に伏せし彼の枕頭に立ちても、わが心の中ではマリイが言、首を振りし夫の像、葬りし「魔女」の姿など、轟々と渦巻きたり。わけをも知らぬ母の、かひがひしき献身によりてのみ、我らは辛うじて命をこの世に繋ぎ留めぬ。
数週の後、朝はやくから薬もとめにと、母が家を離れし日に、一人の男が戸を叩きぬ。「誰ぞ」と問ふに、「「日本国」天方大臣が書記官、相沢謙吉」と答ふる。その黒き瞳は光なく濁り、いつか見し快活の気象はなりを潜めて、ただ黙然と、陰鬱なる妖気を漂はせたり。
室に上がりし相沢は、我には一瞥もくれず臥床に歩み寄ると、伏したる豊太郎君を横ざまに抱へ上げ、そのまま戸外に拉し去らんとす。
「あなや、是は如何なることにや。何故にかくの如き狼藉をはたらき玉ふか」
わが君を返し玉へ、と腕を取りて追ひすがれども、彼は虚ろなる目をして、日本は普請中なり、日本は普請中なり、と繰り言を呟くばかり。つねの人とも思はれぬ怪力にて、わが細腕を振り払ひ、つひに豊太郎君を何処へか連れ去りぬ。されど、もみ合ふうちに我は見にけり。相沢が襟飾りの下に、忌むべき「魔女」の接吻のしるされたるを。我はこの時、始めてわが地位を明視し得たり。
「キュゥべえぬし、かくまでに我をば欺きしか」
「聞れざれば答へず。そればかりのことなるよ」
影より顕れたるキュゥべえ、ぬけぬけと言ふ。
「豊太郎が隠したる顚末は、わが預り知るところにあらず、彼の心の弱きが招きたる事態なり。それを欺くとまで言はれるこそ心外なれ。さてさてエリス、
「その必要はあらず。なべて「魔女」はわが獲物なれば」
室に三人目の闖入者入来て声を上ぐ。声の主はミュンヘンの「魔法少女」マリイなり。
「「しるし」もちたる男をつけてみれば、エリスが許にたどり着くとは思はざりき。かの「魔女」退治て「グリイフシイド」持て来るほどに、汝はここでしばし待て。さもなくば、そこなインキュベヱタアの思ふ壺ぞ」
かく告げて、急ぎ去らんとするマリイが背を我は呼び止めつ。
「待たれよマリイ。我もともに行かむ、我を
「今の汝が身にては変身さへも耐へかぬべし。「魔法」も為さぬ一介の舞姫に、何やせらるる」
「今はおぼつかなし。されど、豊太郎君はわが夫なり。彼を救ふべきは、我を措きては他にあらじ」
「さても呆れ果てたる娘かな。かくほどにたばかられても、なほかの男に執したるか」
マリイが声は怒気に震へしも、不思議とわが心は語るほどに落ち着きゆきぬ。
「我をたばからむとせしも豊太郎君なり。我を救ひしもまた豊太郎君なり。二つの顔はどちらが本性といふこともなし。いづれも洵の太田豊太郎なり。わが愛せし豊太郎君なりけり」
しばしがほど沈黙が流れ、竈の火のはぜる音のみすれど、ややあって、マリイは振り向きもせで、片手を背ろに差し出しつ。
「物狂ひの娘は為む方無し。いざ我とともに来よ。汝が恋ふるその人は「ホテル・カイゼルホオフ」にあり」
我は少女がこなたへ差しのばしたる右手をとり、指と指とをいとかたくからませたりき。
「カイゼルホオフ」が
「彼は「魔女」が「使ひ魔」なるか。襲ひ来る気配はなけれど」
「我らが心のうちなる、あだし姿を映して、惑さむとすべし。エリス、ゆめわが手をな放しそ」
マリイが前なる鏡には、清流の岸の
往きゆきて、廓の果ての奥の室は、六面の鏡が壁となりて六角を結びたる大広間にて、
わが叫びにて「魔女」は目覚めたりけむ。俄に黄蝋の火は燃上り、眩き熱波が我らを包みぬ。
「退がれエリス、「魔女」は我らを焼き殺さむとす」
弾指の間に「魔法少女」が姿に
「かくも囲まれてはやり切れず。さるにても、敵が本体は何処に隠れ居るにや」
いつしか広間にはそこひ知らぬ憂を帯びたる琴の音と、無窮の怨に満たる泣声が、かなしき旋律となりて響きたり。鏡に映る「ロオレライ」と「聖母」の幻が奏するしらべなり。聴くうちに我もマリイも心地乱されて、思惟もおぼつかなくなりゆく。鏡に映りたる幻像には、マリイの「冷たき接吻」も甲斐なくなりぬ。
「豊太郎ぬし。目を覚し玉へ、わが豊太郎ぬし」マリイが奮戦したる間、我は一心に豊太郎君が名を呼びつづけたり。思ひ窮まりて、まさに欷歔しながら幾度も、幾度も。始めは何事もなくてあれど、幾度目のことにやあらむ、彼が身体の横に垂らしたる腕、
「生きてあり、生きてあり。よろこべエリス、汝が君はなほ生きてありつるよ」
刹那、叫びて振り返りしマリイが脚を一条の光がつらぬきぬ。障壁も失せ、駆け寄らむとする我に少女は言へり。
「逃げよエリス。この室そのものが「魔女」の腹中にて、取り籠めらるれば一巻の終わりぞ。わが術もて「魔女」の目をくらます故に、その間に豊太郎を救ひて、おん身は疾く逃げ玉へ」
「されど、汝は如何せむ」
わが問ひには答へず、マリイはいま一度、口に銜みし水を、鏡に映りしおのが分身に向けて噀きかけぬ。霧は忽ち閃光に転じて、閃光は鏡に照りつけ、鏡は閃光を照り返し、満堂の広間を無量光が白く染め上げたりけり。光の中を亭に向ひて走るわが耳を、少女が高き笑声いつまでも聾しつづけぬ。「けふなり。けふなり。きのふありて何かせむ。あすも、あさても空しき名のみ、あだなる声のみ」
六角形の亭の中は、
ここに映るはわが心のうちなるあだし姿のみならず、豊太郎君が心に住める鬼なるらむ。彼が眼窩からは識らずして尽きぬ涙が溢れ出づ。我は穢れたる「ソウルジェム」に力を籠め、右手に彼の
「あはれ、わが君。もはや君が心を苦むるものはなし」
将にその時、天の鋼索切れて頭上の弔燭台落ちなむとす。
我は
わが絶望も、希望も、全ておん身とともにあり。
4.
石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、
ベルリン発ミュンヘン行の特別急行列車は沿線の小駅を黙殺しながら、鉄路を南へ南へと走りつつあり。停車駅の一つでもたらされし、ビスマルク侯つひに宰相を免ぜらるの報に車中はもちきりなれど、わが心を占むるは一年前の「ホテル・カイゼルホオフ」の夜のことなりき。
あの夜を境にベルリンを縄張りとせし「魔法少女」は消え、わが「グリイフシイド」狩りもはかどりゆくようになりぬ。脚の傷も癒え、獲物も狩りつくしたれば、もとの塒に戻るは道理なれど、わが心に深く彫りつけられたるエリスが面影のみぞ心残りなる。
さるにても許せぬは、彼女が命を賭して救ひし日本人、太田豊太郎なり。大臣の一行とともに日本に帰りし彼は、独逸での無節操を恥じることもなく高位の官につき、あらうことかエリスとの愛を自己弁護めきたる小説に脚色して、森某なる変名にて雑誌に載せ、国じゅうに知らしめたるとか聞けり。呆れ果てたる所業なり。されど、我を雛形に「ロオレライ」の画を画きし男もまた、国に帰りて、顚末を浪漫風の書きぶりにて小咄にかへ、出版したると聞けり。確か、その筆名も森某といったやうに覚ゆれど、こは如何なることにや?
否、考へても為む方無し。ことわりなの世にしあれば、かかる不思議もあるものぞ。確かにいへることは、唯一つ。
げに、世に誠ならぬは、インキュベヱタアと日本男児ほどはなし。
(終)