少女は旅を続ける。その果てに得たものを、いつか彼に語って聞かせるために。

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第1話

 男は、船乗りだった。

 幼いころに読んだ海洋冒険譚で海という未知の世界の魅力に取り憑かれ、年が十二を数えるころには港町に出てきて船乗りの見習いを始めた。いつかは大きな船を手に入れて、大勢の船員を率いる船長として不思議が蔓延る大海へ漕ぎ出していくつもりで、懸命に働いた。

「神話の英雄のような冒険を」

 酒に酔うと男はいつもその話をした。船乗り仲間の反応は笑い飛ばすか、海の危険を説いて諦めさせようとするかの二通りで、理解を得られることはなかった。男はゆえに港町では浮いた存在で、二十五になっても妻を娶らず、帰るべき家庭を持たなかった。

 とはいえ、周囲から迫害を受けていたとかいうわけではない。変人であるのは確かだが、船乗りとしての男はそこそこに優秀だった。勤勉で人一倍働き、周囲もそんな男に頼ることがしばしばだった。

 もっともそれは男自身が、真面目に働くことこそが夢を実現するための近道だと信じていたからだったのがだが。

 では、男は夢に向かって順調に歩を進めているのか。これには少し首をひねらざるを得ない。そもそもが曖昧な目標である。一口に冒険と言っても、どのような航海のことを指すのか、男自身にも具体的に分かっていないふしがあった。

 それに、もう十三年も港町で働いているけれど、男の身分はまだまだ下っ端で実入りは微々たるもの。船を手に入れるためにこつこつ貯めてはいるけれど、今のペースではじゅうぶんな資金が貯まるまでにさらに十数年はかかりそうな調子であった。

 だから、男には焦りがあった。このままでは夢を叶えられぬまま年老いてしまうかもしれない。そうなってから後悔はしたくないが、具体的にどうすれば夢に近づけるのかわからない。胸に淀んだもやもやに気づかないふりをして、その日の労働に励む日々。

「そうだ、焦ってもしかたない。勇み足になってこけてしまったら本末転倒だ。今は一歩一歩、確実に進んでいけばいい」

 自分に言い聞かせるようにそう呟きながら、その日も男は海に出て。

 ――そして、難破した。

 

 

 

 目を覚ましたとき、男は自分の身体が、どこかの浜辺に打ち上げられているのだと思った。

 爪先にちゃぷちゃぷと波がかかる感触があり、視界は一面の空。着ている服はうっすらと湿っていて、潮くさい。ぼうっとする頭を揺すって記憶をほじくり返すと、次から次へと嫌な記憶が襲いかかってきた。

 逆巻く雲、突然の大時化(しけ)、稲光と雷鳴、横殴りの大雨、そして、黒々とした海に投げ出された瞬間の、臓物がくすぐられるような感覚の記憶まで、鮮明に。

 男はあわてて、自分の胸元に手をやった。ごつごつとした金属の感触が掌に伝わる。安心して思わず、息を吐く。

 男の胸のポケットに入っていたものは、荒々しい海の男には似つかわしくない瀟洒な造りのメダルだった。ずいぶん昔に怪しげな露天商から購入した、男の思い出の品だ。珍しい金属で作られているらしく海風でも錆びることがない代物で、男が肌身離さず持っているお守りのようなものだった。中央には有名な海洋冒険譚の主人公である英雄の横顔が彫り込まれており、男はいつでもこれを見るだけで、少年期に港町にやってきたころの純粋な気持ちを思い出すことができた。

 安堵したのも束の間、男は現状を思い出して暗澹とした気分に包まれる。

「ちくしょうが……」

 男は天を仰いで、いまはすっかり快晴の、その澄み渡る青空に唾を吐く。命と、その次に大切なものが失われていなかったとは言っても、それら以外のものは軒並み海の底に沈んでしまった。辺りには自分が乗っていたはずの船は見当たらない。同乗していたはずの仲間たちも、ただの一人も。

 十三年間、真面目にひたむきに頑張ってきたその結末がこれというのは、あまりに報われないではないか。神の慈悲もあったものではない。特に敬虔な信者でもなかった男だが、今は神ぐらいしか八つ当たりの当てがなかった。やりきれなさを持て余し、男は立ち上がった。

 ぎしり、と音を立てて、足元が軋む。怪訝に思って、男はそこに目をやった。そこでようやく、男は自分の立っている場所が砂浜でないことを認識した。

 見ると、海水を吸い込んでふやけた木材のようなものの上に立っているようだ。はっとして周囲を見渡すと、目につくのは一面のごみの山。樽や、船の残骸と思しき板切れ、漁に使うであろう網や、衣服の切れ端なんかもあった。

 男は気づいた。どうやら自分は、どこかの大地に流れ着いたわけではない。地面だと思っていたものは堆積したごみの塊で、洋上にぽつんと孤立した漂流物の山に、たまたま引っかかっただけなのだ。

 恐らくは、この辺りの海域は周囲の海流の関係で、ごみが流れ着きやすいのだろう。船乗りたちの間の噂話で聞いたことがあった。曰く、海流が渦を巻くように集まるサルガッソーと呼ばれる海域では、ごみが集まってちょっとした浮島を形成することがある、と。

 自然のままだったならこんな浮島もできなかったのかもしれないが、人間が大勢で海に出てごみを捨て始めてから様子が変わったに違いない。航海の途中で人間が海に捨てる残骸物が少しずつ溜まっていって、いつしかちょっとした規模の陸地にまで成長してしまった。

 恐らく残骸のほとんどは、航海技術が発達し遠洋航海が盛んにおこなわれるようになった時代の、最初期のものだろう。技術が発達途上だったその時期の航海では、難破率は今よりもずっと高かったと聞く。いわばここは、海に夢を託して、海に散っていった者たちの、()()()()なのだ。

「……」

 男は一瞬、偉大な先達たちの報われない末路に自分の未来を暗示されたような気がして、首を振ってその妄想を打ち消した。そして、なるべく前向きなことを思い浮かべるように務めた。例えば、そう、神話の英雄も似たような状況に陥り、それを潜り抜けたのだと思えば、多少の慰めにならないこともない。

 男は気を取り直して、とりあえずこのごみ島を探索してみることにした。ぎしぎしと、一歩ごとに耳に不快な音を立てる漂流物を踏みしめながら、照りつける日光の下を歩く。日に晒されて温度の上がったごみの地面からはむうっと饐えたような臭いが立ち上ってきて、お世辞にも快適とはいえない。

 ざっと一周してみたところ、どうやらこの小島は大型船十隻分くらいの大きさがあるらしく、探せばいろいろな道具も見つかりそうだった。最初の探索を終えた男は、最初に自分が打ち上げられていたあたりまで戻ってきて、そこで奇妙なものを見つけた。

「ん?」

 最初は、海藻かと思った。海水に濡れててらてらと光る繊維状のなにか。色は高貴な銀で、このような海藻は今まで見たことがない。続いて陽光を不規則に反射する魚類の鱗が見えて、すわ食糧かと近づいてみると、そこに倒れていたのはひとりの女だった。

「――は?」

 裸の女である。若く、肌に張りのある美しい女。新種の海藻に見えたのは、女の頭部から生えた長い髪だったようだ。では、きらきらとした鱗は?

 男が視線を下半身に下げていくと、本来なら二本の足がついているべき部分に、代わりに青みがかった鱗と立派な()()がついている。ひれは腰のあたりに左右に一枚ずつと、人間でいう爪先の部分から尾ひれが一枚ついていて、光を透過してゆらめく様は踊り子のヴェールのようにも見える。

「まさか……人魚(マーメイド)?」

 男ははっと息を呑んだ。そこには恐怖と歓喜の両方が含まれている。

 人魚。若く美しい女の上半身と、魚類の下半身を持つという、伝説に登場する獣人の一種。

 幼いころ神話を読み耽った男にとって、空想の上では馴染み深い存在だ。特に、船に乗って旅をする英雄の物語においては定番とも言える登場人物で、神話の大系や著者によって幾通りにも描かれてきた、海の魅力の象徴。

 ただ、その実在を信じている人は多くはない。人魚を見たことがあるという人間が極端に少ないことが原因だった。男は神話への憧れから実在派を支持してはいたものの、それだって願望に近いものだった。

「人魚……まさか本当に存在したなんて」

 男は感動に打ち震えながら人魚を見やって、そこでなにやら様子がおかしいことに気づいた。見ると、倒れ伏した人魚は息が浅く、なにやら苦しげに表情を歪めている。

(怪我をしているのか?)

 血の跡は見当たらないが、人魚が人間と同じように赤い血を流すとは限らない。男は思わず抱き起こそうとして、そこではたと思い出した。

 物語好きにとっては人魚は魅力的な存在だが、船乗りにとっては別の側面を持っている。すなわち、不吉の象徴という側面だ。

 歌で航海者を惹きつけ、船を難破させる魔物として描かれる水妖精(ローレライ)水魔(セイレーン)の伝説。嵐を呼ぶとされる魚人(メロウ)のおとぎ話。人間と結婚するが、夫に正体を知られ夫のもとを去る水妖(メリュジーヌ)の異類婚姻譚。およそ人魚の類が登場する物語において幸福な結末を迎えるものを、男はひとつも知らなかった。

(人魚に関われば、俺も……)

 男の頭を、形のない不安がよぎる。人魚に向けて伸ばした腕が、行き場を失って立ち尽くす。

(だが、俺が放り出せばこの人魚は助からない……)

 周囲には人影も船影もない。男以外に、人魚を助けられる者がいないことも確かだった。

 男はいっとき相反する考えの間で揺れ動き、結局人魚を助けることにした。

 

 

 

 太陽が天頂を回ったころになって、人魚は目を覚ました。朽ちた船の残骸の影。男は太陽の光が当たらないところを見つけて、そこに人魚の身体を運んでいた。

 目を開けて、しばらく呆然とした後、上体を持ち上げてきょろきょろと周囲を見渡す人魚。少し離れたところから様子を伺っていた男は、彼女に近づいて声をかけた。

「やあ、起きたかい」

「ッ!!誰か!?」

 予想よりも鋭い声で、人魚が誰何する。瞳は警戒に染まり、眉間にはしわが刻まれていた。

(人間の言葉が分かるのか、すごいな。いや、伝説でも歌を歌ったりするから、そこまで意外でも無いのか?)

 呑気に構えながら、男はなるべく彼女を刺激しないように距離をとって足を止め、遠くから声を投げかける。

「こんにちは、人魚さん」

「そなたは……、なにか?」

(『なに』と来たか)

 人魚はどうやら、人間のことを知らないみたいだった。もしかしたら、人間にとっては人魚が幻の存在であるように、人魚にとって人間も未知の生物なのかもしれない。

「人魚と同じ上半身に、二本の足……もしや、ニンゲン?」

「おや、知ってはいるのか」

「ッ!!……本当か?」

「ああ、俺は人間だよ」

 もし人間を知らないのならば、いちから説明をしなければならないと思っていたので、これは嬉しい誤算のはずなのだが、何故だろう、と男は訝しんだ。自分が人間であると明かした辺りから人魚の表情に絶望の色が混ざり始めたのだ。美しい白皙の容貌はみるみる青ざめ、犬歯を剥き出しにしてなけなしの敵意を示している。

 唸る人魚に戸惑いながらも、男は交渉を試みた。

「あー、警戒を解いてくれると嬉しいんだが?」

「できると思っているのか?」

「できないのか?」

「わらわをどうするつもりか?」

「なんのことだ?」

「とぼけるな、知らないとでも思ったか。ニンゲンは人魚を捕まえて、生きたまま皮を剥いで肉に食らいつくというではないか」

 どうやら、人魚たちの間で伝わる人間のイメージというのは、だいぶ捻じ曲がっているらしい。いや、もしかしたら昔そういう人間が実際にいたのかもしれない(だとしてらその人間は相当な変態だろう)が、少なくとも男にはそのような意思は欠片もなかった。

「安心してくれ、俺にそんな()()()趣味はない」

「嘘だな。人間は狡猾で口が上手いとも聞いている」

「腹芸は得意じゃない。俺はただの船乗りだからな」

「フナノリ?……ふん、知らない言葉を使って煙に巻こうとしてもそうはいかん。だいたい、わらわの身体をこんな(おか)の上に運んでおるのが何よりの証拠ではないか」

「あれ?なにか問題があったのか?」

「白々しい。人魚は水に触れていないと、肌から水分が取り込めなくなってすぐに干からびてしまうというのを、知らないわけが無かろうが」

(なるほど、そういう性質があるのか)

 これは神話好きの男にも初耳の情報だった。どうやら人魚は自分の周囲の海水と取り込んで自らの身体の一部にしているようで、水場を離れると弱いらしい。となると、陸に上げられたいま、彼女は無防備な状態にあるわけだ。確かにそんな状況で、残虐だと信じられている異生物に遭遇したら、警戒を解けるわけはない。

 男は納得して、彼女にこう提案した。

「わかった。ならば、俺はこの場から一歩も動かないと誓おう。その間に君は海に入ってくれ。いつでも逃げられるように準備したら、俺の話を聞いてくれないか?」

 これには人魚もぽかんとした表情になって、両目を細める。男の意図が読み切れず、困惑しているのだろう。

「そなた、何を企んでおる?」

「強いて言うなら、君の信用を得ようとしている」

「わらわを騙したところで、人魚の国の場所など教えんぞ?」

(人魚の国!そんなものが存在するのか……)

 男はまさに目から鱗が落ちる思いだった。会話を交わすたび、伝説には描かれていない人魚の性質が次々と明らかになっていって、子供っぽい興奮を隠せないでいる。

「安心してくれ!全然そういうの興味ないからさ!」

「えぇ……嘘だろそなた、今のはわらわでも嘘だとわかるぞ……」

 実のところ、男の目的は別にあった。それはこのごみ島を脱出するために、人魚の力を借りようというものだ。人魚の遊泳能力がどれほどのものか男は知らなかったが、まさか人間に劣るということはないだろうし、他にも伝説上で人魚は様々な不思議な力を使うことで知られている。協力を取り付けることができれば、頼もしい味方になってくれるはずだと思ったのだ。

 訝しみつつも恐る恐る海の方へ近づき、人魚が身体を水面に投げ入れたのを見送ってから、男は人魚に近づいていった。

「まあ、もちろん人魚に興味がないってのは嘘だ。本当は興味津々。こんな状況でなきゃ、興奮で叫び出しそうなくらいにはね」

「……こんな状況とは?」

「ああ、つまり、漂流中ってこと」

「そなたがわらわをここに連れてきた訳ではないのか?」

「違う違う!どっちかって言うと俺は連れて来られた側さ。突然の大時化で、船の外に放り出されて、気づいたときにはこの島に流れ着いてた」

「そなたはわらわを害する意図はない?」

「そうだ」

「それを、証明することができるか?」

 男は弱った顔をした。ここで人魚の警戒を解けなければ、人魚は去ってしまうだろう。そうすればこのごみ島を脱出できる可能性はますます低くなる。そのためここで人魚の信用を得ることは男にとってまさに死活問題だったのだが、男には具体的な手立てが無かった。無害を証明しろと言われても、何をどうすればいいのかわからなかった。

 あの手この手を試した末に、男は最後の手段を取ることにした。

「……わかった。じゃあ、これだ」

 男はそう言うと、胸元から例の英雄のレリーフが刻まれたメダルを取り出した。

「これは、今の俺が差し出せる最も価値のあるものだ。これを、君に預けよう。君が俺のことをやはり信用できないと判断したときには、それを持ってどこへなりとも行ってくれればいい。その代わり、それまでの間は俺に力を貸してくれ。それで、どうだ?」

 それまで散々疑いの目を向けていた人魚だったが、男の真剣な眼差しに、今度ばかりは気圧されたようだった。人魚の目から見ても、そのメダルは価値のあるもののように見えたし、男の要求は人魚の側に損の少ないものだった。

 もしかしたら人間界ではありふれたガラクタだという可能性もあったが、それで人魚は折れた。

 人魚はそのメダルそのものよりも、それを差し出して来たときの男の表情を信じてみることにしたのだ。

 

 

 

 ――男は、十二のころに港町に出てきた。

 伝手も何もなかったが、少年だった男には夢があった。大海原に賭ける夢。まだ見たことのない新しい世界へ、偉大な冒険の旅に出るという夢だ。

 少年の夢を育んだのは、数多の神話伝承を綴った書籍群だった。幸いにしてその類の娯楽品を手に入れる機会に恵まれた少年は、昼夜を忘れて書物を読み耽り、物語にのめり込んでいった。奔放な神々と剛毅な英雄たちが紡ぐ、壮大なる幻想の世界。とくに、海という危険が蔓延る世界で、船を繰って仲間と力を合わせ、試練を突破していく海洋冒険譚は少年の心を釘付けにした。

 いつか自分も、こんな冒険をしたい。無垢な少年がそんな夢を抱くのは、ある種の必然だったと言える。

 ほかの有象無象の夢見る少年たちとこの少年に異なる点があったとすれば、それは彼の類稀なる向こう見ずさだろう。少年には、ほかの少年たちが大人になっていく過程で学ぶ、いわゆる「現実」と呼ばれるものが見えていなかった。現在を生きるのに精一杯だったせいで、未来を見据えて行動するという能力が未発達だったのだ。幼児的全能感が少年を駆り立て、彼を最初の旅に誘うまでに、そう時間はかからなかった。

「どうやったら船乗りになれますか?」

 そう言って、ある日突然港町の大人たちに絡み始めた少年を、大人たちは当初追い返そうとした。何を夢見ているのか定かではなかったが、少年が思い浮かべているほどに船乗りという職業が希望に満ちたものではないということを、大人たちは知っていたからだ。

 だが、追い返しても追い返してもまとわりついてきた少年は、次第に船乗りたちの間で可愛がられるようになった。

 根性のあるやつだ。そこまで言うなら船乗りにしてやろう。ただし、途中で音を上げるんじゃないぞ。

 少年は特に考えることもなく笑顔で頷き、大人たちから海のいろはを教わった。来る日も来る日もへとへとになりながら、船乗りに仕事を学び、一生懸命に働いた。

 やがて少年は「男」になり、少しずつ、磨り減るように現実に適応していった。今は準備期間なんだ。この頑張りがいつか冒険の旅に繋がるんだと、かつて抱いた夢に中途半端な折り合いをつけながら、男はやがて有象無象に埋没していく。

 ――そのはずだった。

 

 

 

 折り重なるようになっている船の残骸群から運び出した、保存食料の詰まった木箱を抱え、男はとりあえずの拠点に向かって歩く。木箱の重量はなかなかのものだが、男の歩みはすたすたと淀みない。

 拠点にたどり着くと、破れた帆を再利用して張った天幕の下に木箱を置く。その周辺にはすでに相当量の木箱や酒樽が積まれており、食糧の備蓄には不安はなかった。

 人魚と人間の奇妙な共同生活は、すでに十日目を迎えている。男の担当は、ごみ島の探索だ。残骸の山の中から使えそうなものを回収し、拠点へ運んだり、道具を作成したりする。食糧と水分の確保の他には、尖った金属片を組み合わせて銛をこしらえたりもしていた。

 人魚の担当は、周囲の海域の調査と漁だった。人魚の調査結果に基づいて男がサルガッソーの海流を読み、どのようにすればこの海域を脱出できるのか計画を練るのだ。幸いにして人魚の調査結果は詳細で、未だ解決策こそ見えないものの、サルガッソーについての情報は順調に集まりつつあった。

 保存食に心配はなく、無くなったとしても人魚が男の作った銛で魚を突いて来てくれるので、すぐに飢えるということもない。遭難したことは不幸だったが、状況は絶望的というほどでもない。男の胸にはじゅうぶんな希望があった。

(それにしても、彼女と出会えたのは幸運だったな……)

 男と人魚は、少しずつ打ち解けていた。共に焚き火を囲み、同じ夕食を食らううちに人魚の警戒が少しずつ緩んでいくのを、男は肌で感じていた。まだ出会って十日目だが、ごみの孤島という特殊な環境下ではその分距離が縮まるのも早いということだろう。

 とはいえ、男と人魚の関係はあくまでも契約関係だ。その気になれば海流の影響を受けにくい海の底まで潜って単身で島を出ていける人魚が、男の脱出に手を貸しているのは、ひとえに男が人魚を介抱したことへの恩義を返すためだった。

『生命を救われた恩義を、借りたままにはしておけない。わらわの流儀に反するでな』

 なんとか「ニンゲン」の誤解を解き、男と人魚の邂逅に至るまでの経緯を説明し終えた後、人魚は男にそう言い放った。

 人魚は男がごみ島を脱出できるよう力を貸すこと。そして、男が島を脱出できた時点で、二人の間の貸し借りは相殺とすること。二人の契約の内容は、そういうものだった。

 一通りの荷運びを終えた男は、海中の人魚に呼びかけて、夕食の準備をしようと言った。まだ日は登っているが、明かりのない孤島では日が暮れると本当に何も見えなくなる。早いうちに食事を済ませて、さっさと就寝するというのが孤島での男の生活スタイルだった。

 人魚が銛の先に獲った魚をくっつけて、水際まですいすいと近寄ってくる。男が魚を受け取り、焚き火で炙って焼き魚にしてから、二人でかぶりつく。

「「うまー!」」

 一口目を頬張って、同時に感嘆の声を上げる二人。

 焼き魚は調味料も何もない素材のままの味だが、そこは獲れたての鮮魚である。つい先ほどまで元気に海を泳ぎ回っていた身は生命力に満ち溢れて、それがそのまま旨味に転化したようだった。孤島サバイバルという状況自体がスパイスになっているということもあるかもしれない。ともかく、二人にとってその焼き魚は絶品だった。十日連続で食べても飽きがこないくらいに。

「やはりうまい!魚をこのような珍味に変えてしまう方法があるとは思いもよらなんだ。タキビというのは不思議なものだ」

「まあ、人魚は焚き火は知らないよな。人間はよくこうして、食材を火で熱して加工して食べるんだ」

「奇怪な風習もあるものだ……。世界は広いな」

 ほう、と、溜息を吐くように言う人魚を見て、男はずっと抑えてきた好奇心がむくむくと起き上がって来るのを感じた。つまり、人魚のことだ。

 彼女が言うには深海のどこかに人魚の国が存在していて、彼女はそこの出身らしい。国というからには集団で共同生活をしているのだろうが、彼女はどういう経緯でそこを出て、こんなごみの孤島にまで流れ着くことになったのか。

 警戒されているうちからそんなことを尋ねれば、やはり人魚の国が狙いかと誤解される可能性があったためなかなか口にできなかったのだが、恐らくは酒が入っていたせいもあったのだろう、男は今なら尋ねてみても良いのではないかという気持ちになっていた。

「なあ、お前は、一体なんだってこんなところに流れ着いたんだ?」

「急になんだ」

「いや、たんに興味が湧いただけだ。俺は船が難破してたまたまここに流されただけだけど、人魚が海の中で遭難するってのは、人間が遭難するのとはわけが違うだろ」

「……」

 人魚が魚を頬張る口を止め、俯いた。人魚の雰囲気が暗いことに気づいた男は、何か失敗したかと不安になる。

「いや、まあ、ほかの人魚が探しに来る様子もねえし、不思議に思った、だけ、なんだけど」

 しどろもどろになる男とは目を合わせず、人魚が言う。

「他の人魚は、来ぬだろう。そもそも人魚の国の国民は、浅い海にはなかなか顔を出さないものなのだ」

「そうなのか?」

「ああ、安全な海の底に一生こもっていたいと考えるような根暗どもだからな」

 人魚の口調には、棘が混ざっていた。予想外の反応に、男は返す言葉を見失う。

「人魚の国はお前が思っているような楽園ではない。変化を恐れ、安寧を貪るしか能のない人魚が暮らすだけの、つまらないところだ。だから私は、国を見捨てて外の世界に出た」

 忌々しそうに吐き捨てる人魚の言葉を聞きながら、なぜか男は罪悪感のような感情に包まれていた。

 変化を恐れ、安寧を貪る。

 人魚が故郷の仲間たちのことを称したその言葉が、男の胸に深々と突き刺さっていたのだ。

「それは、でも、仕方のないことじゃないか?」

 思わず、男は人魚に反論していた。考えて出た言葉ではない。反射的に漏れてしまった率直な感想だった。

「仕方がないとは?」

「だってそうだろう?誰だって変化は怖いものだ。自分のいる場所が安全なら、なおさら外に出たいという気持ちは薄くなる。お前は違ったのかもしれないけど、他の大多数の人魚が安全な人魚の国に留まりたいと思うのは、当然のことじゃないか?」

 無意識のうちに、男は見知らぬ人魚たちを弁護するような論を立てていた。

「ふん、そんなことは百も承知だ。わらわは別にそやつらの生き方が間違っているとは言うておらん。ただ嫌いだと感想を述べただけだ」

 人魚の言葉は端的で、それ故に説得力に満ちていた。男はますます居心地が悪くなったが、人魚に何も言い返すことができなかった。

「ただ無目的に生きて、生きることにだけ執着して、そして何事も成し遂げられぬままに死んでゆく。わらわはそんな一生はごめんだ」

「だけど、目的を達成するには我慢も必要だろう」

「我慢が何の役に立つ?それは結局、これは必要なことだと自分に言い聞かせて、安全地帯に留まろうとする『逃げ』ではないか」

「まず足元を固めなければ、新しいことに挑戦したって失敗するだけだ!!」

 我知らず、声を荒げてしまう男。

 二人は、いつのまにか人魚の国の話ではなく、自らの考えの正当性を巡って言い争っていた。人魚の言葉に自分の十三年間を否定された気分になった男は、酒で滑らかになった口を止めることができなかった。

「そなたが、一体何にそこまで激しておるのかは知らんが」

 人魚はあくまで冷静に、あるいは冷徹に言葉を紡ぐ。

「なぜわかる?」

「なに?」

「『足元を固めなければ失敗する』などと、なぜ挑戦しないうちからそのようなことが言えるのか?そなたは予言者か何かか」

「それは、違うが……」

「わらわは知っておるぞ。この世界には挑戦することでしか手に入らないものがあることを。それはどんな理屈を並べようとも、挑戦しないものには一生手に入らないものだということもな」

 自信満々に言い放った人魚に、男は二の句を継げなかった。反論の余地はいくらでもあったはずだが、今の自分がそれを口にしても、説得力は伴わない気がしたのだ。

 ああ、俺はこの人魚には敵わない。男には、逃げるように寝床に入ることしかできなかった。

 

 

 

 十日目の夜以降、男と人魚の関係は拗れたままになっていた。

 あの夜、二人は思想の違いから言い争いをし、男は人魚にこてんぱんに言い負かされた。ばつが悪くなった男は人魚となるべく素っ気なく接するようにし、人魚もそれに乗っかったのだ。

 男はひどく情けない気分だった。かつて英雄譚に憧れて、無謀にもたった一人で港町に住み着いて船乗りになろうとした自分が、まさか「足元を固めなければ失敗するだけ」などという台詞を吐くことになるとは。

 男の言葉は、決して男の本心ではなかった。男の本質はむしろ人魚に近く、挑戦することを礼賛する性質だったのだ。

 しかし、今の男は長年の船乗り暮らしで、牙を抜かれた猛獣のような状態だった。手堅さに溺れ、挑戦することを過剰に恐れるように飼い慣らされてしまったのだ。

 男はそんな自分に気づかないふりをして、誤魔化しながら船乗りとしてやってきた。神話の冒険だなどと言っても、周りに馬鹿にされるだけ。この歳になると流石に、周囲も子供の妄言で済ませてはくれない。真っ向から罵倒されたことも、一度や二度ではなかった。そんな苦境に耐え切れず、男は次第に自分を殺して環境に順応する道を選ぶようになった。

 男が人魚に吐いた言葉は、かつて男を罵倒した船乗りの受け売りだった。男はそのとき、言い返すことができず悔しい思いをした。だから男は、かつての自分に似たこの人魚の少女を言い負かすために、その言葉を流用したのだ。

 しかし、かつての男と違い人魚の少女はその言葉では折れなかった。それどころか見事に切り返し、逆に男をやり込めてしまった。

 男にはわかっていた。男があのとき少女に反論できなかったのは、男が自分の本心をぶつけていなかったからだ。薄っぺらな借り物の言葉では、強い心を持つあの少女にはかすり傷ひとつつけることも出来なかった。

「これでは道化だな……」

 男は自らの滑稽さを嘲笑った。いまは自尊心が許さず人魚の少女と距離を取っているが、この島から脱出するにはどっちみち彼女の力を借りねばならないときがくるのだ。自分は助けられている側なのに、一体なにを勘違いしていたのか。

 ぐるぐるぐると、頭の中で後悔と自己嫌悪が渦を巻く。やはりあの日、今ならいけると思って人魚に話しかけたのが間違いだったのだ。酒の勢いに任せてあんなことを聞かなければ……。

「……?」

 と、そこで男の意識に何かが引っかかった。決して無視してはいけないような、重要な何か。自分はあのとき、なんと言って人魚に話かけたのだったか、と男は記憶の糸を手繰り寄せる。

 そういえば、あの十日目の夜に人魚に聞こうとしたことが、まだ聞けていないままになっているのではないか。問いの答えを聞く前に言い争いになってしまって、すっかり頭から抜け落ちていたが、あの日男は一番最初に人魚に、こう質問したのだ。『一体なんだってこんなところに流れ着いたんだ』と。

 人間と似た上半身を持つとは言っても、人魚は深海に国を築くような種族だ。溺れた、なんていう間抜けな回答はあり得まい。人魚が答えたのは、国に愛想をつかせて出奔したというところまでだ。こんなごみ島を目的地にするとは考えにくい。

 男が思い出したのは、人魚と初めて会った日のことだ。ごみ島の水際にしがみつくようにして、ぐったりと倒れ伏す人魚の姿。彼女は明らかに、衰弱していた。まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「つまり、なにかが彼女をこの島に追いやった……?」

 すうっ、と、男の背中を冷たい汗が撫でていった。そういえば今日は、やけに彼女の帰りが遅い。十日目の夜以降、男と少女は最低限しか顔を合わせないようになっていたが、少女が漁を終える時間帯は毎日ぶれていなかったはずだ。

 何かあったのかもしれない。男はいてもたってもいられなくなって、余分に作った銛を手に少女を探しに出た。

「おい、どこだ!?どこにいる!?」

 島の外縁を走りながら、男は声を張り上げた。人魚からの返事はない。男は焦った。その焦りの理由が、人魚がいなくなったら島からの脱出が困難になるという利己的なものだけでは無くなっていることを、このとき男はまだ気づいていなかった。

「くそ!どこだ、返事をしろっ!!」

 そのとき、男の視線の先で水飛沫が上がった。

「そこか!」

 男は駆け出し、水際ぎりぎりにまでたどり着いて、そこで目を見張った。人魚が見たこともない必死の形相で、巨大な影から逃れようとしているのが見えたからだ。

 影の大きさは優に男の四倍はあり、剥き出しの歯茎に生え揃った鋭利な牙と、ノコギリのようなひれを備えている。

 鮫だ。それも、長く海で生活してきた男も見たことがないような、特大級の化物。

 その化物が、男よりも華奢な体格の人魚に一直線に襲いかかっているのだ。

 ぐわ!と大口を開け、鮫が人魚に噛み付こうとするのを見て、男は反射的に持っている銛を投擲していた。鈍い音を立てて、鮫の表皮に弾かれる銛。しかし、その一瞬で鮫の気がそれたのか、人魚は間一髪で死の牙から逃れる。

「なぜここにいる、人間!」

 男の姿を見とめた人魚が、焦りを隠さずに吠えた。

「そんなことはどうでもいい!早く逃げろ!」

 男は叫ぶが、すぐ後で気づく。

 逃げる?一体どこへ逃げられるというのか。彼女は人魚で、地上にいるだけで身体は弱っていってしまうというのに。

 この海に彼女に逃げ場などない。たった一人で見知らぬ世界に飛び込んで、彼女は今までもあの鮫のような天敵に追われ続けてきたのだろう。それらから逃げて、逃げて、逃げ続けてきたその果てが、このごみ溜めのような島だったのだ。

 ぎりっ、と、男は歯をくいしばる。もちろん、彼女が鮫から逃げあぐねているのは、たんにサルガッソー海域の影響を受けているというのもあるのかもしれない。だが、たとえその海流がなかったとしても、彼女には「逃げる」という選択肢では解決できない根本的な問題があった。

 孤独という問題。この広い海で、どこにも帰るべき場所を持たないという、絶望的な問題が。その彼女の過酷に比べて、己の悩みのなんと卑小なことか。

 いいや、彼女は俺とは違う。彼女は俺より強くて、勇気があって、だから、俺にはできないことができるのは当然なんだ。

 ――本当にそうか?

 男の視線の先。怪物から逃げ惑う少女の瞳には、隠しようもない恐怖が浮かんでいる。だがそれは、決して怯懦の証明ではない。眼前に迫る死の恐怖を堪えながら、一瞬一瞬を全力で生きようとする生命の発露だ。

 そうだ、彼女は強いのではない。()()()()()()()()()()()()()()()

 その解釈が頭に浮かんだ瞬間、すとん、と、納得がいった。男の胸に詰まっていた邪魔な何かが、あるべきところに収まったような感覚。

 男は頰を緩めて、そして、全力で駆け出していって、水際から大きく跳んだ。

「な、――にをしておるこの馬鹿者!!」

 泡を食って大喝する人魚。

 男は助走の勢いそのままに、天から鮫に向かって体当たりをかました。そのまま全力で鮫の身体にしがみつき、鮫の動きを阻害しようとする。

 ざらざらとした鱗が男の肌を切り裂き、海中に血を滴らせた。男は構わず指を食い込ませ、呆然としている人魚に向かって呼びかけた。

「ぼうっとしてんじゃねえ!こいつぶっ倒すぞ!」

 驚愕に目を見開く人魚。しかし、その意味するところを悟るとすぐさま行動に出た。鮫に弾かれた男の銛を掴み取ると、海中に身を潜らせたのだ。

 すぐさま後を追う鮫。男は全身に力を入れて、振り落とされそうになるのを堪えようとする。船の上で嵐に揉まれているよりもなお激しい恐怖が、男を襲う。海中では目を開けることも出来ず、男を押し流そうとする水の力が全身にのしかかってくる。

 くそが!男は胸中で怒声を吐いた。振り落とされてたまるものか。意地でもしがみついてやる。もうこれ以上、逃げてたまるものか!!

 そして、人魚は海中で鮫をぐんぐんと引き離していた。もともと一人でも鮫からぎりぎり逃げられるくらいの遊泳能力を持つ人魚は、男の妨害のおかげで今や鮫の速度を完全に上回っていた。

 じゅうぶんに引き離したと判断するや、今度は速度を落とさないように軌道を曲げ、その進路を反転させていく。そのままの勢いで鮫に向かって突っ込み、すれ違いざま銛を一閃させる。さながら馬上槍試合のごとく、水中で猛然と行き違う二つの影。

 深々と銛を突き立てられた鮫はもがき苦しみ、全身を痙攣させてのたうつ。その隙に人魚は、鮫の背中にへばりついた男を引き剥がし、担いで水面へと上がっていった。

 

 

 

「ぜえ、はあ、ぜえ……死んだかと思った……」

 陸に上がった男は、四つん這いになって口に入り込んだ海水を吐き出したがら言った。

「そなた、本物の馬鹿だろう」

 水面から顔を出した人魚は、呆れた視線を男に寄越す。

「鮫に飛び乗るなど、自殺同然の行いではないか。あれが狙っていたのはわらわ一人だったというに」

「うるせえな。鮫が食いたい気分だったんだよ」

 そう言って、ひとしきり笑う二人。ところが、男はそこでここ数日間の自らの振る舞いを思い出してしまった。途端に決まりが悪くなって、笑いを引っ込める男。

「あー、なんというか、その、すまな、かったな?」

 視線を明後日の方角へやりながら、途切れ途切れに、男が言う。

「なにが?」

「だから、その、言い負かされて、拗ねてたことだよ。ここ数日間、感じ悪かっただろ?」

 きょとんとする人魚に、男は自らの罪状を述べ挙げる。一層自分の情けなさが強調されるようで、男はむずむずと腹の底がかゆい気持ちになった。

「なんだ。そなたそんなことまだ気にしておったのか」

しかし、男の決意に反して、人魚の反応はあっさりとしたものだった。

「気にしてはおらんよ。子供のやったことだ。大目に見るのが大人の余裕というものであろう」

「子供、って、俺はもう二十五だぞ」

「だから、二十五なぞ小僧ではないかと言うておる」

「はあ?」

「はん?」

 どうやら二人の間には重大な認識の齟齬があるようだ。そのことに気づいた男は、恐る恐るといった面持ちで、禁断の話題に手を出した。

「……お前、一体何歳だ?」

「やれやれ、女に年齢を聞くとは。まあよい。わらわはまだまだうら若き百歳代だから、そのあたりは気にしない」

「ひゃくさいだい???」

 ――不老伝説、というものがある。

 人魚という題材をめぐる伝承群の中の一つで、人魚の肉を食らったものが不老長寿を得た、というのがその大まかなあらすじであるが、その結末は他の伝承と同様不幸なものとなることが多い。

 男はもちろんその伝承も知っていたのだが、人魚自身も長寿だというのはその伝承には載っていなかった。だが考えてみれば、人魚の肉を食らって人魚の性質をその身に取り込んだ者が長寿を得るというのならば、人魚自身も不老でなければおかしい。

 なるほど、この少女にしか見えぬ人魚が百歳代だということにも、根拠がつけられないこともないわけだ。

「へええ、すげえもんだな。人魚ってのは」

「む、その口ぶりからすると人間はそう長くは生きられぬ種族なのか?」

「ああ、大抵は百を数える前に死ぬ。二十五って言ったら人間の世界じゃ立派な大人だ」

「そうすると、人間の世界での百歳とは……」

「祝うレベルのババアだな」

「この痴れ者が!!」

「ぶげえ!!」

 気合一閃!!!

 尾びれによる薙ぎ払いが男の頰を捉えた!!!

 饐えた匂いを放つ樽に頭から突っ込む男!!!

 男は心に深い傷を負った!!!

「なに、を、しや、がる……」

「ふん、しばらくそこで反省しておれ!!」

 人魚はそう吐き捨てて海に潜っていって、男はがくりと気を失ったのだった。

 

 

 

 そんな一悶着はあったものの、人間と人魚の共同生活は次第に元の形に戻っていった。

 鮫の一件以来、男は何かが吹っ切れたかのように精力的に島の脱出に向けて行動し始めた。未だに脱出の糸口は見えないけれど、人魚の協力もあってサルガッソーについての情報は集まりつつあり、島での生活にもだいぶ慣れてきていたために、男の胸に不安はなかった。

(たしかに困難はある。解決しなければならない問題は山積みだ。でも、心は折れていない。諦めなければ必ず乗り越えられるはずだ)

 男の胸には、いつのまにかかつて抱いた夢の灯火が蘇っていた。島を出て、生きて港町に帰る。そうして俺は、ずっと諦めていた神話の冒険に出るのだ。その意思が、男に前に進む力を与えていた。

 いま男が取り組んでいるのは、ごみ島の再探索だった。ただし、今回の目標は食料や水分ではない。情報だ。

 いまはこの島の原材料に成り果てている、木造の帆船。これらも昔は、数多の船員を乗せて大海原を進んでいたはずだ。もしもこれらの残骸のどこかに、その当時使っていた海図などが残っていたとしたら、そしてそこにサルガッソー海域周辺についての情報が載っていたりしたら、それは脱出計画の大きな手がかりになるはずだ。

 男はそう考えて、ターゲットを情報に絞った探索を続けていた。と、熱心に木の残骸をひっくり返していた男の鼻頭に、何か冷たいものが当たった。俯けていた頭を上げて、空に目をやる男。見ると、今朝方から日光を遮ってとぐろを巻いていた黒雲が、ゆっくりと決壊を始めていた。

「雨か」

 漂流後初となる本格的な雨だった。肌を優しくなぞるような小雨。汗まみれだった男には、ほどよく熱を冷ます恵みの雨だ。

 男は水分を確保するいい機会だと思い、探索を切り上げて拠点に戻ることにした。

 水を貯めるために樽を上向けて並べていると、漁に出ていたはずの人魚が戻ってきて、なにやら興奮した様子で男に語りかける。

「人間、人間!なんだこれは!一体なにが起こっているのだ!?」

 いつもの高飛車ムーブを完全に放棄した人魚に、男は一瞬阿保を見る目を向けたが、次の瞬間にはなるほどと合点する。人魚の国は深海にある。彼女にとって雨は初体験の、未知の現象なのだ。

「これは雨だよ。空から水が降ってくる現象」

「なんだそれは!?なぜ空から水が降る!?どういう理屈だ!?」

「ごめん、わからん」

「あはははー!何にも分からんぞ!!雨すげえええ!!」

 全く予想外のはしゃぎっぷりに、男は軽く気圧される。雨の何がそんなに気に入ったのかはわからないが、きっと人魚だから水が好きとか、そもそも彼女が新しいものに目がないとか、そんなところだろう、と当たりをつけた。

(それにしても、本当に色んな表情をするやつだ)

 男は思い出す。初めて人魚にあったときの、苦悶の表情から、男を警戒する不安の表情、焼き魚を食らってご満悦の表情、人魚の国についての不満を語るときの恨みがましい表情まで。

 たった一月程度の共同生活の中で、人魚は男に心を許し、実に多様な表情を見せるようになった。それなりに苦楽を共にし、心を開き合った仲だ。男にとっても、彼女の様々な顔を見られるのは悪い気分ではなかった。

 ぱしゃぱしゃと水面を叩いて遊ぶ人魚に頰を緩ませて、男はいそいそと樽を並べる作業に戻った。

 よかった、これで懸念材料だった水分も手に入る。彼女も上機嫌だ。間違いない。天は俺たちに味方している。男は、そう信じて疑わなかった。

 

 

 

 それから数日間は、雨が降り続けた。

 男は寝床が冷えないように板を立てかけて仕切りをつくり、服の上から襤褸(ぼろ)を羽織って寝るようにした。寝て、起きて、しばらくそれを繰り返した。

 雨は止まなかった。太陽が何度か巡り、朝と夜が目まぐるしく入れ替わった。まだ雨は止まない。それどころか、次第に勢いを増していくようだった。

 はじめは水面を控えめにつつく程度だった雨足は、いまや地上を殴りつけるかのようだ。細目を開いて、地上に水柱を落とす天に目をやると、黒々とした雲が一面を支配して太陽の片鱗も見えない。

 男はこういう空を、今までに何度か見たことがあった。一番最近に見たのは、ひと月ほど前。

「嵐が来る」

 男は大急ぎで、風の被害を受けにくい場所を探した。残骸物が折り重なって、洞窟のようになっているところを見つけると、男は最低限の必需品を放り込んで、籠城の構えを整えた。嵐の怖さを知っているからこその、迅速な初動だった。

「人魚、お前もしばらく水の中に潜ってろ」

「何が起こるのだ?」

「嵐だ。強風と大雨で、色んなものが吹き飛ばされる」

「防ぐすべはないのか?」

「そういう次元の話じゃない」

 男が穴倉に潜り込んでしばらくすると、本格的な強風がごみ島を襲い始めた。

 圧縮された空気が残骸物の隙間を通って、怪物の唸り声のような音をあげる。がらがらと、どこかで何かが崩れる音がして、伝わってきた振動に男は身をすくませる。

 いま男が隠れているこの穴倉だとていつ崩壊するか分からない。もともとごみ島は残骸物が奇妙なバランスの上に固まっているものでしかないのだ。安全である保証などどこにもない。外には出られず、内でも危険。思い切って眠ろうともしてみたが、身体は緊張状態を解かず、五感は余計に昂るだけだった。男は真っ暗闇の中で、じっと耐えるしかない。

(大丈夫だ。一晩経ったら、嵐は過ぎ去っているはず……)

 根拠のない希望的観測を自分に言い聞かせながら、男は待ち続けた。

 予め運び込んでいた保存食を少しずつ口に運びながら、穴倉に溜まる闇を凝視し続ける。まるで時間がいまだけゆっくり流れているかのようにじれったく、男は苛立ちを抑えるのに苦労した。

 じっと見つめているうちに、闇の中から何者かがが手招きをしているように思えてきて、男は目を瞑った。いまや男の頭の中は、悲観的な想像で満たされている。胃腸がきりきりと痛み、自分はここから一生出られないのではないかという妄想が、あらゆる希望を押し流すよう。

(あいつは、無事なのか?)

 孤独に苛まれ、男は人魚のことを思った。いくら大規模な嵐とは言っても、深海を住処にできる人魚ならば、その脅威を免れることも可能だろう。少なくとも今の自分よりは無事だろうな、と男は見当をつけ、ほっと息を吐いた。

(……俺は、安心しているのか?)

 自分自身の命が危機にさらされているこの状況下で、人魚が無事であろうことに安堵する自分を男は不思議に思った。いつのまにか、人魚の存在が男の中で大きくなっていたことに、今更ながらに気づく。

 自らの夢のために、たった一人で未知の世界に飛び出した少女。今まで見逃していたが、彼女の道のりは男が憧れた神話の英雄たちと同じものだった。

 試練に挑み、恐怖を乗り越え、未知をその目に焼き付けて、世界を踏破していく伝説の主人公たち。

(ああ、そうか。俺が憧れていたのは海という冒険の舞台ではなく、あの主人公たちの心の強さだったのかもしれないな)

 結局、男はそんな主人公たちの一人にはなれなかった。恐怖に屈し、試練を避けて、既知の世界に閉じこもった。あの人魚がいう「変化を恐れ、安寧を貪るもの」とは、まさしく男のことだったのだ。

「……お前はすごいやつだよ」

 ぽつんとそう呟いて、男は今度こそ、眠気に身を任せた。

 

 

 

 穴倉から這い出ると、目の奥を刺すような陽光が男を貫いた。朝だ。

 嵐はすでに過ぎ去って、ごみ島の上空には以前と同じような碧羅の天が広がっている。

「これは……」

 男の目の前には、ごみ島の惨状が広がっていた。一晩中ごみ島を蹂躙し尽くした嵐の、災いの爪痕。

 もともと残骸物がドーム状に積み重なって形成されていたごみ島だったが、強風によって島の表面がごっそりとえぐられて残骸物はどこかへ吹き飛ばされていた。

 男が穴倉へ運びきれなかった食料や樽も全て無くなっていて、使用していた拠点は跡形もない。

 随分と体積の減らしたごみ島は身ぐるみを剥がされたように寒々しく、物悲しかった。

「……」

 男は呆然自失として、言葉も発せない様子だった。へなへなと全身から力が抜けて、その場に座り込んでしまう。

 大嵐の規模から考えると、島そのものが崩壊してもおかしくはなかった。だから、島が沈まなかっただけマシとも言えるのだろうが、いまの男はそこまで前向きにはなれなかった。

 漁以外で自給自足が出来ず、自前で水が手に入らない状況下での、今回の嵐。当初は天の恵みだった雨は一瞬で表情を変え、災厄としての側面をあらわにして、男から一筋の希望も奪い去っていった。

 もうだめだ。サルガッソーから脱出する手立ても整わないうちに、島で生きていく基盤を根こそぎ奪われてしまった。これ以上は本当にどうしようもない。もう、本当に、死ぬしか方法が……。

 暗い想像が、男の頭を埋め尽くす。

「……諦めねえぞ」

 自分自身に言い聞かせるように、男は呟く。せっかくここまで生き延びてきたのに、今更諦めるなどできるはずがなかった。何か手があるはずだ。

 男は心地よい絶望に浸ろうとした意識を切り替え、辛い現実に向き合って思考する。水分と食料が失われたと言っても、漁という手段が奪われたわけではない。銛を作る材料くらいならば、まだごみ島に残っているだろう。人魚に協力してもらって魚を獲り、焼き魚にするのではなく生で食べよう。血を啜れば多少の水分補給にはなるはずだ。

「そうだ、まだ何も終わっていない」

 男は自らを奮い立たせ、島を歩き始めた。まずは深海に潜っているはずの人魚からだ。顔を出したら状況を説明して、協力してもらおう。銛を作る材料を探しながら、男は同時に他に手立てがないか考えを巡らせ続けた。

「……ん?」

 だからだろうか。銛の材料を求めて動き回っていた男の双眸が、「それ」を捉えることができたのは。

 材木の下敷きになっている、古ぼけた紙の束。長い間放置されていたことをうかがわせるそれは、すっかり黄ばんでしまっていて、少し触っただけでも端からぼろぼろと崩れてしまいそうな様子だった。

 男はゆっくりと、慎重に紙束にのしかかっている材木を退けて、紙の束を手に取り目を通す。

 それは海図だった。嵐が来る前、男が島中を探し回って、それでも手に入れられなかった、かつての船乗りたちの航海の軌跡。サルガッソー海域についての情報が詰まった、脱出計画の大きな手がかり。

 嵐によって島の表面に堆積していた残骸物が吹き飛ばされたことによって、今まで島の底の方に眠っていたそれが、男の手の届く範囲に現れた。男は信じられないという面持ちでしばらくそれを眺めて、そのあと大きく破顔した。

「あはははははは!やったぞ、海図だ!やっぱりあった!残ってたんだ!ざまあみやがれ!諦めなければ道は開けるんだ!」

 興奮して、大声で意味のない言葉を叫ぶ。全身の血が沸騰したように熱くなっている。男は海図にかぶりついて、早速そこに記された情報を読み取り始めた。

 読み進めていくと、意外なことが判明した。男がどこか遠くの海の上にあると思っていたこのごみ島とサルガッソー海域は、実は男の港町からさほど離れていないところに位置していたということがわかったのだ。

 男は港町から出たあと難破して、遠くに流されたのではなく、逆に港町のあるあたりに押し返されて、サルガッソーの渦に捕まってしまっていた。

「もしそうだとすると、港町から出てこの近くを通る船があるかもしれない」

 男は記憶にある限りの港町から出る船の航路を思い出して、現在の日にちと照合を始めた。結果、男は十日後にサルガッソーの近くを通る船が存在することを思い出した。

 しかもそれはかなり大型の、外輪推進機構を備えた輸送船で、航行能力は男の乗っていた船の比ではない。この船ならば、いかだではどうにもできないサルガッソーの内向き海流も、物ともせずに突破できるはずだ。

 あとは、然るべき時間に、救難信号の代わりに狼煙でもあげれば、あとは救助を待つだけでいい!

「……助かる」

 男は地面に手をついて、深く息を吐き出した。

「俺は助かる」

 その言葉を、嘘じゃないと確かめるように、何度も何度もつぶやいて。しまいには残骸物の上にあおむけになって、空に向かって大声で叫んだ。

「俺はまだ生きられる!」

 爽快だった。全ての希望が奪われたと思った矢先に、それを帳消しにするほどの幸運が転がってきたのだ。まるで喜劇。気紛れな神が、戯れに運命を弄んでいるとしか思えなかった。

 男はひとしきり、このふざけた現実を笑い飛ばすことに専念した。しばらく全力で笑ったのち、男は重要なことを思い出した。

「そうだ、あいつにも教えてやらねえと」

 男はがばりと身を起こして、人魚のことを想起する。一月以上も共に過ごしたあの少女も、きっと男の幸運を喜んでくれるはずだ。

 嵐が過ぎ去ったあとは顔を合わせていなかったが、男は人魚の無事を疑っていなかった。

「探しに行くかあ」

 そんな呑気な声を上げて、男は腰を上げた。水際まで走ったりはしない。男の心は余裕を取り戻していた。足取りは軽く、ゆっくりとごみ島を歩いた。

 そして、いつも人魚が顔を出していた拠点近くまで戻ってきて。

 そこで男は、水面に浮かんで苦しそうに喘鳴する、彼女を見つけた。

 

 

 

「ん、……わらわは、気を失って、おったのか」

 太陽が西に傾き、もうすぐ水平線の向こうに隠れようというころになって、人魚は目を覚ました。身体は島の水際ぎりぎりに横たえられており、すぐそばには男が腰掛けて微睡んでいた。

「……!おい、お前、大丈夫なのか!?」

 人魚が起きたことに気づいた男は一瞬で眠気を覚まし、人魚に問いかけた。

「一体なにがあったんだ」

「わらわにも分からん。急に身体の具合が悪くなった。今までにこのようなことは経験したことがない」

「いまは、大丈夫なのか」

「ああ、さきほどよりはだいぶ気分がいい」

「そう、か」

 息をついて、地面にすとんと腰を下ろす男。

 横たわる人魚は心なしか顔色が悪く、常よりも覇気に欠けていた。高飛車で好奇心旺盛ないつもの調子がつゆほども見えないことに、男はなんとなく不安に駆られて、何か話をしようと思い立つ。

「……海図を、見つけたんだ」

 おもむろに、男はそう切り出した。

「カイ、ズ……?」

「ああ、人間が海水の流れを読むときに使うものだ。そこに、この近海の情報が描かれていた」

「では、見つかったのか?この島を出る方法が」

「ああ、そうだ」

「ふ、それは、良かったではないか」

「ああ、よかった」

「では、そなたとわらわの契約も、これまでだな?」

「ッ!!」

 そう、男と人魚が最初に交わした契約は、たしかにそういうものだった。人魚は男が島を脱出する手段を探すのを手伝う。手段を見つけるところまで行ったら、二人の間で貸し借りは無しだ、と。

「では、これも返さねばなるまい」

 人魚はそう言って、男に右手を差し出した。右手に握られているのは、英雄のレリーフが彫り込まれた、一枚のメダル。一番最初に二人が出会ったとき、男が人魚から信用を得るために、質として差し出した男の宝物だった。

 男はそれを受け取ろうとして。

「……いや」

 逡巡した末に、その申し出を断った。

「まだ、だめだ。それは受け取れない」

「なにが、不足だ?」

「契約は正確には、俺が島を脱出した時点で満了だったはずだ。俺が島を出るには、まだお前の力が必要だ。だから、それまではそれはお前が持っていろ」

「融通の利かんやつだな、お前も」

 人魚はそう言って、弱々しく笑った。

 実のところ、男には今はメダルのことなどどうでもよかった。夢の象徴である自分の宝物のことよりも、男には人魚の容態が気にかかっていたのだ。

(冗談じゃねえぞ。せっかくここまで生き残って、生きて帰る方法を手に入れたってのに、こいつをこんな状態で放り出せるかよ)

 男は別に、人魚を自分の家に連れて帰りたいとか、これからも共に生きて欲しいと思っているわけではなかった。自分とこの人魚は、この島でたまたま出会っただけの漂流仲間。それ以上でもそれ以下でもあり得ない。だから、いずれ別れることになるのは覚悟の上だった。

 だが一度命を預けあったからには、最後の別れは気持ちの良いものであって欲しい。俺がこの島を出るときは、この人魚もまた同じように元気な笑顔で旅立って欲しい。そんな風に思っていたのだ。

 だから、メダルは預けたままにした。まだ契約は終わっていない。お前だけ勝手にくたばるのは許さない、という意思表示のつもりで。

 だが、そこから日を重ねるに連れて、人魚の体調はどんどん悪くなっていく一方だった。男が釣ってきた魚を食べ、一日中横になって身体を休めていても、一向に回復する様子を見せない。原因は相変わらず不明。男はどうすることもできず、ただ夜毎人魚の話し相手に徹するほかなかった。

「……人間よ、起きているか?」

「ああ、起きてる」

「毎日、すまないな。付き添わせてしまって」

「いいって。謝罪するくらいなら早く元気になれ」

「はは、心配せんでも、わらわは問題ない」

(そんなわけねえだろ)

 男は、無理をして自分を安心させようとする人魚に苛立ちを覚えていた。

 辛いならば辛いと言って欲しい。もっと自分を頼って欲しい。身勝手とも言える感情だったが、男は人魚と対等な関係になりたかったのだ。

「眠れないのでな。少し、話をしていいか……?」

「ああ、そうだな。それじゃあ、お前がここへ流れ着くまでの話でも聞かせてくれ」

 男が振ったのは、いつか二人が言い争いをした日に、男が聞きそびれた話題だった。人魚がそれまでで最も激しい感情をあらわにした話題を振ったのは、男が弱々しい人魚の姿を見たくなかったからかもしれない。

「そうだな、どこから話したものか」

 仰向けになった人魚は、遠く空に輝く星々を眺めながら、記憶を辿るように話しはじめた――。

 

 

 

「わらわの国は、深い深い海の底にあった。切り立った岩の壁に取り囲まれた、悠久の都。最初は小さい集落に過ぎなかったそれが、国と呼ばれるまでに大きくなったのは、わらわが生まれる一万年も前のことだったようだ。

「わらわは、その国を治める王族の姫として生を受けた。長い間子供ができなんだ両親は、ようやく生まれた一人娘のわらわを大層可愛がって、甘やかして育てた。ただ、そんなわらわにも、許されていなかったことがあった。それが、海の上へ遠出することだった。

「わらわたち人魚は子供の頃から、海の上には厳しい世界が広がっていると寝物語で教えられて育つ。大半は地上に跋扈する醜い化物の内容で、それらは人魚を見つけると食べようとして襲い掛かってくるという筋書きだった。中でもニンゲンという化物は狡猾で、関わったら必ず不幸になるとまで言われておった。

「ふふ、変わり種だと、ニンゲンの肉を食った人魚はたちまちのうちに歳を取り、老いさらばえて死んでしまう、なんてのもあったかな。いま思えば滑稽な話だが、人魚の子供たちは真剣に受け止めていた。そうして、地上は危険なところだと、思い込むようになるのだ。

「ゆえに、多くの人魚は地上に出るどころか浅い海域に近づくことすら忌避する。海の上に出るな、などという忠告は、だから、大半が無意味に終わるのだ。

「だが、わらわは皆とは違った。ニンゲンに会ってみたいと思ったし、海の上に行ってみたいとも思った。なにより、太陽を見てみたかった。

「深い海の底にあるわらわたちの国からも、わずかではあるけれど確かな光を届けてくれる太陽。深海で暮らす人魚たちは、その本当の姿を見ることなく一生を終える。

「その太陽を、もっと間近で見てみたい。その暖かさを、もっと間近で感じてみたい。太陽の本当の姿を、記憶に焼き付けたいと、わらわは思った。

「だけど、人魚の一族をまとめる王族の姫であったわらわに、その願いを叶える自由はなかった。身分、慣習、両親の愛……あらゆるものがわらわの願いを押し潰そうとした。目に映る何もかもが、わらわに型にはまったお姫様の役を演じろと強要してきた。

「だからわらわは、逃げ出したんだ。圧力と戦うのではなく、誰の目にも届かないところへ逃げることで、その影響下から逃れようとした。地上へと続く上昇海流に自分から身を投げて、しがらみのない世界へ行こうと」

 そこで人魚は、一度言葉を切った。

 呼吸は浅く、額にはかすかに汗が滲んでいる。ただ話し続けることさえも、いまの彼女の身体には負担になっているということだろう。男は痛ましさに目を眇めたが、人魚の顔には苦悶の色は浮かんでいなかった。むしろ満天の星空を映し出す双眸はぞっとするほどに澄み渡り、神秘的でさえあった。

「太陽を見るという夢は、存外容易に叶った。人魚たちの手を逃れれて海の上に出れば、わらわと太陽を遮るものなど何も無かったからだ。

「初めて海の上を見たときは興奮した。太陽だけではない。この世界にはまだまだわらわの知らない未知があると思い知った。同時に、わらわがいままで囚われていた国が、どんなにちっぽけだったのかも。

「わらわは、わらわが知りうる限りの未知をこの目で見てみたい。そう思った。

「だが、そのためにはわらわは、世界の恐ろしさも知らねばならなかった。

「浅い海には、わらわの知らない脅威がいっぱいあったのだ。

「獰猛な鮫に始まり、山のように巨大な大烏賊(クラーケン)や、大海蛇(シーサーペント)に襲われたこともあった。

「怖くて、逃げたくて、死の恐怖に直面してはじめて、わらわは思い知った。あれほど疎ましく思っていたしがらみが、わらわの身を守るためにあったという事実を、今更ながらに理解していた。

「そして願ってしまった。安全だった海の底に帰りたいと、本心から望んでしまった。

「あのときほど我が身を恨んだことはない。無知で、臆病で、一人では何もできぬ小娘に過ぎなかったわらわの弱さを、あのときほど悔いたことはない。

「自分から国を捨てておきながら、いざ危機が迫ったなら、それに縋ろうとしてしまう自らの浅ましさが、わらわは許せなかったのだ。

「だから、国に戻るくらいならどこか知らない場所でのたれ死んでしまおうと思ったのかもしれない。

「わらわは波の赴くままに身を委ね、――そして、気がついたときにはここにいた」

 話し終えた人魚は心なしかすっきりとした面持ちだった。ずっと胸の内に秘めていた重荷を、人に打ち明けることができたからだろうか。

 弱味を他者と共有することは、リスクもあるが心身を安定させる効果がある。人魚は自らの過去を男に語る過程で、少しずつ毒を吐き出すようにして、無意識下で彼女を苛んでいた呪縛を解き放つことができた。

 男は、人魚の気持ちがよくわかった。人魚の抱いていた思いは、男がかつて抱いたものとよく似ていたからだ。男には、痛みを堪えるように胸に手を添えて一人きりで海を行く人魚の姿が、脳裏に浮かぶようだった。孤独が心臓を圧搾するようなあの感覚が、人魚を襲ったのだろう。予兆もなく不意に襲ってくる胸の軋み。孤独という病がもたらす不可避の症状。それは男にとっても、遠い過去の話ではない。

 自分の夢を理解してほしい。一緒に手を取り合って、夢を追いかけてほしい。男もまた、理解者に飢えていた。飢えて、飢えて、でも誰も手を差し伸べてはくれなくて、ついに耐えきれなくなって、男はそれを手放してしまった。

 人魚も男も、ともに孤独な夢追い人だった。ただ、男は理解者を得られず道半ばで諦めたのに対し、人魚はひとりきりでも追いかけ続けたというところが、両者を分つ境界だった。

「少し、疲れた。わらわは、もう休むことに、しよう。そなたも、あまり、無理をするで、ないぞ」

 人魚は息苦しそうにそう言って、まぶたを閉じる。

 男は歯を食いしばって、考えた。人魚は明らかに衰弱している。それもものすごい速度で。このまま何もしないでいたら、何日もしないうちに人魚は死んでしまうかもしれない。

 それだけではない。人魚の話を聞いて新たに明らかになったのは、人魚がこの先行く当てを持っていないという事実だった。彼女は半ば死に場所を探すつもりで、この島に流れ着いたのだ。

 男が勝手に抱いていた、別れは気持ちのいいものであって欲しいという願望は、前提から破綻していたのだ。謎の病をどうにかしなければ、人魚はすぐにでも死んでしまうが、それをどうにかしたところで、人魚の抱える根本的な問題を解決しなければ、彼女は遠からず自死を選ぶだろう。

 なるほど、絶望とはこういうものをいうのか。男は奇妙な納得を得ていた。

 病を癒し、人魚に生きる理由を与える。絶望を解消する手段ははっきりしていて、それゆえに困難さが際立った。

 未知の世界を旅したい。そう告げた彼女に、自分が与えてやれるものは何だろう。今にも海に溶けていってしまいそうな、儚い人魚の寝顔を見つめながら、男は思案にくれた。

 島に流されてからの人魚との会話と、自分が知りうる限りの人魚についての逸話の知識を総動員して考えを深めていくうちに、やがて男の頭に閃くものがあった。それは推測に推測を重ねた程度の、とても確かとは言えないような、か細く頼りない蜘蛛の糸のような考えであったが、男にはそれが唯一無二の希望であるように思われた。

 

 

 

 翌日、正午ごろになってようやく目を覚ました人魚に、男は面と向かって切り出した。

「昨日言っていたこと、あれは本当か?」

「昨日?」

「昨日の夜だ。お前が眠る前に言っていたこと。知らない場所でのたれ死んでしまおうと思って、ここに流れ着いたって話」

「ああ、そんなことを喋ったのか、わらわは」

「真実か?」

「そう、だな。間違いではない。わらわにはもう、行くべきところなどないという意味では、どこで死んでも同じことだ」

「なら、その命を使ってもいいか?」

「なんだと?」

「お前がいらないと言ったその命を、俺のために使ってもいいんだなと聞いている」

 人魚は困惑した表情を浮かべた。恐怖でも嫌悪でもなく、男の言っていることが心底理解できないという表情。

「なんのつもりだ」

「先に答えてくれ。お前の命を使ってもいいのか、どうか」

「……はぁ。何を考えておるかは知らんが、この身にもはや使い道があるとは思えないんだが?」

「いいや、あるぞ。人間なら誰でも思いつくとっておきの使い道が」

「なんだ、それは」

「肉だ」

「は?」

「肉だよ。人魚の肉。俺はお前の肉を食いたい」

 今度こそ、人魚の目が点になった。邂逅初日、人魚が人間に向けた疑念の言葉が蘇る。

『とぼけるな、知らないとでも思ったか。ニンゲンは人魚を捕まえて、生きたまま皮を剥いで肉に食らいつくというではないか』

「……そなた、あのときは俺にはそんな趣味はないと言うておったと記憶しているが?」

「趣味が変わったんだ。よく変わる」

 人魚の訝しむ視線を、飄々とした態度で受け流す男。

「……そなた、本当に何を考えておる?」

「せっかく人魚に出会えたんだ。不老を得ておきたいというのは、なにもおかしなことじゃないだろう?」

 ため息をつく人魚に、男は畳み掛けるように言う。

「もちろんただとは言わない。代わりにお前には、俺の肉をやろう」

「はあ?」

「人間の肉だよ。人魚が人間を食べたら、年を早く取ると言われているんだろう?どうせいらない命なら、伝説を実証してみるのも面白いんじゃないのか?」

 失望したというような表情の人魚は、もう一度大きなため息をつくと、男を睨みつけるような視線を送って言う。

「もうよい、好きにすればいいだろう。どうせ一度は捨てた命だ。肉でも皮でも、好きなだけ持っていけばよい」

 男はにっこりと微笑むと、人魚に手招きした。

 嫌々といった様子で近寄ってきた人魚の肩を両手で掴むと、少しずつ口を首元に寄せる。それに合わせて、人魚の口元も男の肩に近づく格好になった。

「同時に食うことにしよう。人間と人魚の食い合いは、たぶん世界初だろうからな」

「……」

 人魚は無言で、唇を男の剥き出しの肩に当てた。長年の船上生活で鍛え上げられた肩は、筋張っていてあまり美味しそうではない。

「いっせーの」

 で、二人は互いの身体の牙を突き立てた。男の歯に、痩せ衰えた人魚の肉が触れる瞬間、男の肩に人魚の細い牙が食い込む。

 ぶつり、と、肉が噛みちぎられる音とともに、身を竦ませる激痛が男の全身を襲った。ただし、それも一瞬の話だ。

 次の瞬間には、男の口の中には「海」が広がっていた。あるいは、そう錯覚させるくらいの衝撃。口に入れたそのときから原型を失い始め、咀嚼する間もなく溶けてしまったそれは、肉というよりはスープだった。

 人魚の身体は、そのほとんどが水分で構成されているという、彼女の説明が男の脳裏に浮かぶ。

 ほんの一口、男がおずおずと含むように噛みちぎった少女の肉片は、男の歯をするりとすり抜け、舌の上をなめらかに滑るように移動して、まるで抵抗なく喉の奥に吸い込まれていく。

 それはほんの一瞬の出来事だったはずだが、男の意識には、時間が延々と引き伸ばされているように感じられていた。

 永遠のような一瞬。

 人間の意識を時間の流れから切り離すほどの、それは未知の体験だった。意識を強制的に集中させるほどの、極上の美味。人間の魂まで惹きつけ、魅了してしまうような、()()()()()()()

 しばし、男は自分の目的も忘れて、その場で茫然自失としてしまう。

 たっぷりと余韻を堪能してから、男が忘我の境地から舞い戻ってみると、少女が食いちぎった男の肩の傷は、まるで何事もなかったかのように元どおりになっていた。不老長寿をもたらす人魚の肉をその身に取り込んだことで、男の身体が人魚の自然治癒力を獲得したのである。

 代わりに、人魚の身体はわずかに潤いを失っているように見える。人間の肉を取り込んだことで、人魚としての性質が薄れたためであろうか。

「もう、よいか」

 そう言って人魚が男の腕の中で身じろぎをしたので、男は両手を離して人魚を解放してやる。

「ふん、これで満足か?わらわの身を食らい、不老長寿になれてよかったではないか」

 蔑むような口調で、人魚が言う。男は神妙な面持ちで、返答する。

「……ああ、思った通りだ」

「ならば、わらわはもう用済みだな!」

 ヒステリックに叫ぶ人魚。しかし、男は眉ひとつ動かさずに言い放つ。

「いいや、まだだ」

「なっ!?これ以上わらわに何を望むというのだ!」

「まだ俺は満足していない。明日もお前を食う。そして、お前も俺を食え」

 男の意味不明な要求にいよいよ混乱が絶頂に達した人魚は、用意した罵詈雑言を忘れて口をぱくぱくとさせてしまう。

「いいな、わかったら寝ろ」

 それだけ言い残して、男は拠点に戻っていった。

 次の日も、そして次の日も、男は起きても漁にもいかずに、食事時になると人魚を呼びつけて人魚の肉を食らい、そして必ず人魚にも男の肉を食べさせた。人魚が抵抗しようとしても男は譲らず、病で弱っていた人魚は結局根負けして、いつも肉を食わされた。

 

 

 

 ――そうして、何度目かの夜が過ぎたとき、人魚の身体に変化が訪れた。

「なん、だ。これは」

 人魚が自らの身体を見下ろして言う。

 度重なる人肉の摂取で水分が失われ、かさかさになった肌。高貴な輝きを放っていた長い髪は質の低い麻糸のように硬く、身体は鉛のように重い。

 だが、人魚が驚いたのはそんな些細な変化に対してではなかった。その程度の身体の劣化は、死ぬ覚悟を定めていた人魚にとっては、気に留める価値もない変化だったからだ。

 人魚が驚いたのは、もっと根本的で、大規模な変化に対してだった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 腰とつま先から伸びていたはずの、ヴェールのようなひれがない。下半身を覆っていたはずの、銀の鱗がない。ほとんどが水で構成されていたはずの身体は重い筋肉を纏って、尾ひれは二股に別れて二本の足になってしまっていた。

 人魚は、もはや人魚ではなくなってしまっていたのだ。

「ああ、ようやくか」

 人魚は、いや、かつて人魚だった「彼女」は、はっとして声のした方を見る。そこには声の主である男が、身体を引きずるようにして横たわっていた。

「なんだ、何があった。なぜだ。わらわではなく、どうしてそなたが苦しんでいる!?」

「安心しろ。ただの水分不足だ」

 男はそう言って弱々しく笑う。見ると、男の身体の周囲には水分が染み出したような跡がある。それだけではない。男の身体は、明らかに人間ではなくなっていた。年頃の男にしては綺麗すぎる肌の艶。髪も光沢を発し、ぼろぼろのズボンから覗く足には芽のような鱗が生えている。

 男は、人魚になっていた。原因の心当たりは、少女にはひとつしかなかった。

「知って、いたのか。こうなることを知っていて、そなたはわらわに人の肉を食わせたのか」

 人魚の肉にまつわる、不老伝説。そして、人魚たちの国に伝わる、人間の肉についての伝承。

 人魚の肉を食らった人間が長寿を得て、人間の肉を食らった人魚が寿命を縮ませる。この奇妙な連関を説明するために、男はひとつの推測を立てた。

 人魚の肉を食うことで人は人魚に近づくことができ、そしてそれは、その逆もまた然り、という仮説だ。

「わらわの、ためか」

「……お前の、病の原因は、おそらく海水だ」

 彼女の問いには答えず、男は語り出した。周囲の海水を己が身に取り込む人魚の性質。彼女から聞いてそれを知っていた男は、人魚の不調はごみ島周囲の海水ではないかと推測した。

 周囲の海水を全身から取り込むということは、人魚という生物は環境に大きく依存しているということでもある。ごみ島周囲の不純物を多く含んだ海水が、彼女の身体を内側から蝕み、苛んだとしても、不思議ではない。

 そこまで考えて、男には気づいたことがあった。もし男の推測が正しいとするなら、「知りうる限りの未知をこの目で見てみたい」という彼女の願いは、彼女が人魚である限り叶えられないことになるということ。

「それなら話は簡単だ。お前が人魚ではなくなってしまえばいい」

 ヒントは、男が彼女と交わした会話の中にあった。男はすぐに人魚と人間が互いの肉を食い合うことで性質を交換できることに気がついた。理由をこじつけて人魚に男の肉を食わせることができれば、人魚を人間にしてやれるかもしれない。

 ただ、どれくらいの量を食えば人魚が完全に人間になるのかは、男にとっても未知だった。だから、人魚に人間の肉を食わせ続けるためには、男は人魚の治癒力を獲得するしかなかった。

 かといって男の方が先に完全に人魚になってしまっては意味がない。男は食う肉の量を調整し、自身の人魚化を遅らせながら、自分の肉を人魚に食わせ続けた。

 人魚にそのことを悟られるわけにはいかなかった男は、人魚化していく過程で陸に不適合していく身体を押して、あくまで陸の上に留まり続けた。全身から水分が失われ、干からびる寸前になるまで。

「なぜこのようなことをした」

「……」

「なぜだ、答えろ!!」

「助けたかった、からさ。お前を」

 息も絶え絶えになりながら、男の喉は辛うじて言葉を絞り出した。

 彼女は目を見開いて、二の句を継ぐことができない。

「孤独に耐えて、理想を追い続けるってのは、俺にはできなかった、偉業だ。お前は、それを成し遂げたすごいやつで、だから、そんなすごいやつが、目の前でただ死んでいくのを、見過ごせなかった」

 男は彼女と目を合わせて言う。

「お前は、俺の、英雄だ。神話でも、おとぎ話でも、ない。空想じゃない現実の、英雄」

 顔を真っ赤に紅潮させて、唇を震わせて、彼女は男に摑みかかるように叫んだ。

「ふざけるな!いつわらわが助けてくれと頼んだ!国を捨てたあの日から、野垂れ死ぬ覚悟はできていたのだ!そなた一人にいい格好をさせて、わらわにはのうのうと生き延びろと言うのか!」

「そうだ!!」

 彼女の怒声をかき消すほどの大音声で、男が吠えた。

「お前が死ぬ覚悟を持っていようが、そんなことは関係ない!お前自身がそれを望もうとも、俺が許さない!なぜなら!」

 乾いた喉が過負荷に耐え切れず、出血する。男は口腔内に広がる鉄の味にも構わず、咆哮を放った。

「お前は何を犠牲にしてでも生き延びる価値があるやつだと、俺は思うからだ!そのために必要だと言うのなら、俺のことなど忘れてもらって構わない!勝手だと罵るなら好きにしろ!気にくわないのなら、俺の屍を魚の餌にしたってかまわない!だが、いいか、俺が助けたお前の命を、勝手に捨てることだけは許さないぞ!!」

 男には、自分の言っていることが支離滅裂である自覚があった。勝手に命を救っておいて、死ぬのは許さないなどと、横暴もいいところだ。筋の通らない暴論である。

 だが、それこそが男の包み隠さぬ本心だった。溢れ出る衝動を、生のままにぶつけた本音。不細工で、不恰好で、だからこそその言葉にはほかのどんな言葉にも現れない説得力があった。

 いま、男は心からの自分の言葉を発することができているのだ。

「いいか、お前は生きろ!生きて旅をしろ!冒険の旅を!お前が見たことのないものをたくさん見て、知って、その果てに見つけたものを、いつか俺に語って聞かせろ!」

 はあ、はあ、と口の端から断続的に漏れる息が、男の命が残りわずかであることを告げていた。

 もう、彼女はなにも言わなかった。

 

 

 

 その夜、遮るもののない満点の星空を眺めながら、男は地面に横たわっていた。少女も陸に上がって、手に入れた膝を折りたたんで、その上に男の頭をのせている。

「……最期にひとつだけ、お願いがあるんだ」

 呟くように、男が言った。

「……なんだ。まだわらわの肉が食いたいとでも?」

「はは、いや、それも悪くはないが、そうじゃない。――歌が、聞きたいんだ」

「歌?」

「ああ、人間なら誰もが魅了されるという、人魚の歌声を、一度聞いてみたかったんだ」

「そう、か。歌、か」

「いやか?」

「いいや、よかろう。歌ってやる」

 人魚は柔らかく笑って、すうっと息を吸い込んだ。

 

 

 

 

 その日、輸送船の甲板で夜の見張りにあたっていた男は、睡魔との格闘の最中に、ふと意識を覚醒させた。海風の中に、かすかな旋律を聞きとめたのだ。

「なんだ、これ。……歌か?」

 ざあざあという細かな波の音の間を縫うようにして聞こえてくる、女の歌声。

 透き通る声音は祈るように一途で、音調は水面に浮かぶ泡のように儚い、哀しげな歌だ。歌詞はなく、明確が意味を持たないその歌は、だからこそ直接人の感情に訴えかけてくるようで、男の胸に迫ってくるものがあった。

 男は眠気も忘れて耳を澄まし、しばしの間聞き惚れてしまう。

 しばらくして我に帰った男は、自らの業務を思い出して動き始めた。この歌声はどこから聞こえてくる?予定では他の船とすれ違うはずはないから、声が聞こえるのだとしたら近くに遭難者がいる証しだ。

「あっちの方角か」

 男は見当をつけて、そのことを船長に報告した。そして、また甲板に戻ってきた。

「それにしても、いい歌声だな」

 輸送船はゆっくりと、進路を変えていった。

 

 

 

 その後、輸送船は残骸物の塊でできた島で二人の男女を発見し、保護した。

 歌を歌っていたのは女の方で、少々くたびれたところはあるものの、美女と言って差し支えない容姿をしていた。服はほとんどぼろきれ同然だったが、手にはなぜか瀟洒なメダルを握りしめている。

 男の方は、驚くべきことにまともな人間ではなかった。鱗やひれなどの魚類の特徴を併せ持つ亜人――魚人だったのだ。彼の身体はすでに水分を失い、干からびてしまっていた。痩せ衰えた腕は枯れ木のようで、閉じられた瞼が開くことはない。

 輸送船の船員たちは初めて見る異生物の奇妙さに驚き、次に魚人と女の取り合わせを訝しんだ。

「一体ここで何があったんだ」

「彼はわらわを助けてくれた。自分の命を捨ててまで、わらわを生かすために」

 女はそれきり黙り込んでしまった。船員たちも、それ以上何かを聞こうとはしなかった。彼らは男の遺体を手厚く葬り、女を港町まで送り届けた。

 港町で女は数日過ごしたが、人々が気づいたときには、姿を消してしまっていた。

 女がその後、どこへ行って何をしたのか、知るものはいない。

 




というわけで、オリジナル短編でした。最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

今回はプロットなるものを立てて、計画的に書いてみた作品になります。どうしても細部に粗が目立ちますが、一応完成までは漕ぎつけたので及第点ということで投稿しました。感想、評価などいただけましたらうれしいです。


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