「まったく、天才って言うか馬鹿なんじゃないの」
その声が聞こえたのは既に深夜一時を回ったノウムカルデアの食堂だった。
既に食堂の明かりは消され、微かに冷蔵庫たちの稼働する低い駆動音だけが残されているはずだった。
「人間にとって睡眠がどれほど大事か、など子供の頃から教わるだろうに。それを全くあいつらと来たら」
にもかかわらず聞こえるのは一人の男の声と低い機械音、そしてガスコンロと小鍋の煮立つ小さな音だった。
新たな拠点の入手によって退去していた英霊たちも少しずつ戻って来つつある。襲撃によって残ったのは二十名弱、そして戻って来た英霊も又二十名程度。今後も増えていくことを予想されるために新設されたこの厨房も又それなりの広さとなっている。しかし、今明かりが点いているのはその一角のみ、丁度蛍光灯一本分程度の明るさの場所だった。
「しかし、また伝説の彷徨海にも小麦粉はあるのだな」
目の端に映るのは幾重にも重ねられた小麦粉の袋、表面には品種のみが記載されており、市場に流通するような情報などは記載されていないことがここでの消費のみを考慮されたものだとわかる。シオンに確認すればどうやらここで作られたものであるらしい。一年中海のそこに沈んでいるような陰気な場所で作られた得体のしれないものとみるか、それともここの住民も又パンを食べる人間であると喜ぶべきか。気持ち的には少しばかり気が引けるに軍配が上がるだろう。そして何より眉をひそめたのはその調理器具の真新しさだった。
「明らかについ最近作った奴じゃないか、しかも、用意されているのは最低限の調理機器だけ、仮にも時計塔と並ぶ魔術研究の最高峰ならもっとマシなのないのか」
以前そうシオンに詰め寄るとどうやらこれでも随分と余分な物と認識されてたようで、彼らにとって食事とはあくまでカロリーの摂取のみ、パンだけあればいい、そんな風に考えているものも少なくないらしい。
「いくら魔術師が神に背くものだとしてもだ、人はパンだけに生きるにあらずという言葉知らないのか奴らは」
本来の意味とは少し異なるがそう愚痴を言うことくらいは許されるだろう。深夜の厨房には自分しかいない、呟くことくらいはトゥールも見逃してくれるだろう。
そう言われてみればこんなにも無いもの尽くしなのは十一歳の春を思い出す。魔術の訓練だと言って半年間無人島に放り込まれた時だった。渡されたのはナイフ一本とバケツ一つ。魔術も十全に使えないあの頃では、いいや今考えてもあの所業は些かネグレクトとも思える。思い出すのは夜の狼の目と融ける様な日差し、そして肉にあり付けた夕暮れ、そして広がる星空。今考えてみればよい思い出にも…
「いや、駄目だろう。私じゃ無かったら死んでるんじゃないか。って言うか私でも半分死にかけてたじゃん」
父上にもさすがに諫められ、良い思い出になるとごまかそうとしていたトゥールの雄弁無表情に騙されそうになり一瞬末恐ろしいものを感じる。
「おっと」
そうこうしている内に背後に置かれた大きなオーブンから焼き上がりを告げるブザーの音が聞こえた。丁度、小鍋の中の蜂蜜も沸々と泡立ち、焦がしたような甘い香りが広がって来た。
「まだ改善の余地があるか」
オーブンから取り出したのは薄く切られた林檎とオレンジだった。皮目にうっすらと焦げのあとがつき、蜜からは甘い匂いが漂ってくる。ここの林檎とは言えその味に外と遜色はない、ならば必要なのは料理人の腕のみ。
「まったく、本当にあいつらと来たらこんな時間まで働きおって」
一人つぶやくのは二人の天才の姿だった。
一人は薬物中毒のいけ好かない優男、自分のしたくない事にはとことん無頓着なくせに、今は異常なほどにのめり込んでいる偏屈な私立探偵。もう一人はこれまでカルデアを支えてきた今は子供の姿である世界一の芸術家。
「英霊とはいえもともと人間ならば睡眠というのが大切かなんて簡単に分かるだろうにまったく。それに上司が休まないと部下が休めないなんて簡単に分かるだろうに。まったく天才どもは凡人の気持ちなんてわかりゃしない」
人類の最後の砦であり、今現在もそうであることは間違いない。だからここの職員たちは良く働く。働きすぎる。六時から始業して三十分程度の昼休みを挟んで日付こえ、丑三つ時を回ってようやく床に就く。ワーカホリックとしか言えない。
「この危機のために生きるんじゃない、この危機を乗り越えて生きるためなんだというのに」
やらなきゃいけなかった、やるしかなかった、だからそうならざるを得なかった。分かっている、分かっているとも、しかし、休まねば人は死ぬ、休んでもいずれは死ぬがともかく生きるためにはそうでなくても人は休まねばならない。
新所長として始業を八時、終業を遅くとも十一時と定めた。ようやく守るものも増えてきたものの、どうやら今でも守らない不届きものが二人いるらしいことなど火を見るより明らかで、しかし、彼らの頭脳に代わることは出来ない。だから
「よしこんなものか」
目の前に置かれたのは焼いたオレンジと林檎の乗せられた全粒粉のクラッカーと自分が隠し持っていたアールグレイを使ったミルクティー、そしてクラッカーには生姜と蜂蜜を煮詰めたソースが添えられていた。
「まったく、本当に世話の焼けるバカ者どもめ」
片付けられた厨房から小さなトレイを持って男が出て行った。パチンという音と共に電気は消され、そしてくらい厨房には柔らかな甘い匂いだけが残されていった。
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