ゴッフ料理長の厨房   作:廓然大公

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最終回です


ある少女と彼らの厨房

小さな足音が聞こえる。

 

スリッパを引きづるような軽いその音が良く響いていく。

リノリウムの床を小さくたたくようにその音は歩き回り、そしてまた戻ってくる。

昼時ならば耳にすら入ってこないようなその小さな音は午前三時の誰もいない厨房の中に響いた。

 

「よっ、こい、せ」

 

小さな声とともに鳴るのは甲高い金属音と低い衝突音。すぐに止んだその音を辿れば磨き上げられたステンレスの調理台の上に乗せられた大きな薄力粉の袋が目に付く。二十五キロの大きな袋を抱え上げ、そして調理台まで持ち上げたらしい。使いかけなのかすでに開けられていた口へと大きな手桶を突っ込み、そして中から白い粉を取り出す。手桶に山盛りとなった薄力粉を一抱えもあるほどの大きなボウルの中へと移す。

大まかに、そして手早く三度、そして段々と回り始めた重量計の針を睨みつける。少しずつ揺れが収まり、そして再び少しだけ大袋から山に追加する。二度の調整の後ボウルに覆いをかぶせ、幾分軽くなった大袋の口を再び堅く閉じる。足音は再び遠くへと去っていく。

 

次に響いたのはケトルの沸き立つしゅんしゅんという蒸気の音だった。

戻ってきた足音は手にしていたその卵の段ボール箱をやさしく調理台の上に置いた。

がちゃんというガスの消える音の代わりに小さな突沸を含んだ水音が聞こえる。大きめのボウルの中に注がれたその湯の中に入れられたのは透明な耐熱ボウル。中に入っているのは大きく、そして四角いバターの塊。拳ほどの大きさはあろうかという大きなバターが少しづつ溶けていく。白いヘラは少しづつ柔らかくなっていくバターをなでる。熱が通っていき、溶けだす。白い塊は綺麗な黄金色へと変じていく。香りが立つ。バターの溶けるその甘い香りが立つ。長く溜まるようなその香り。少しだけぬるくなった湯煎、代わりにすべてが溶け切ったそのバターのボウルを取り出す。

 

「よし」

 

彼はそろった材料を前に小さく息を吐いた。

 

「手際がいいね」

 

暗い部屋の端から声が聞こえた。最低限の明かりしかつけていない厨房、その人影が見えるだけ。

その声に彼はさして驚いた様子もなく、気にする様子もなく、段ボールから取り出した卵をより分け始める。大きな赤卵に傷がないか確認していく。

 

「やっぱり魔術師よりも料理人になったほうが大成したんじゃないかな」

 

「それだけ言いに来たのなら、帰ってもらって良いかな。衛生管理は料理人の基本なのだが」

 

彼は残った段ボールを保管庫へと戻しながらあしらう。その声は小さく笑った。

 

「まさか」

 

声は変わることなく、吐息を吐くように言う。

 

「夢を見ただろう」

 

大きなボウルが調理台に置かれる。かつん、と小さな音がする。

 

「お前が見せたというのか」

 

「余計なお世話だったかな」

 

「まったくだ」

 

声とともに軽い割れる音が聞こえた。

綺麗に拭われたボウルへと卵が滑り込んでいく。蛍光灯の明かりを受け、丸くゆがんだ光を綺麗に照り返す卵黄。

 

「じゃあ、なぜそんなことをしたのかとか聞かなくてもいいのかい」

 

「もう二年だ」

 

彼は大きくため息をつきながらそう言った。

 

「二年間、あいつらの素っ頓狂なイベントなりなんなりにも呼ばれたのだ、推測はつく」

 

「それはなんとまぁご愁傷様かな」

 

声は少しだけ苦笑したような色を含んでいた。

そして少しだけ懐かしそうに聞こえる

 

「あの街はよく似ているんだ」

 

その人影は確かに見ていた。

 

「あれが最初だった」

 

最初に見つかった特異点

それはただの町だった

どこにでもあるような普通の町

それは異国でもなければ、古代でも、紀元前でもない

ただの少女が暮らしたようなただの町

 

燃え盛る街

 

住民の姿などなく、無事な建物の形などなく、息づく生活の匂いなどない

 

焼け残ったような黒い焦げ跡と、倒壊し焼け落ちた残骸と、すすと煙の臭い

 

「この街が最初だった」

 

「そして、この町があの子の心象風景だよ」

 

 

 

 

 

 

 

街が燃えていた

 

赤い赤い炎が町の中を這いずり回っていく。

 

尾を引くようにその残火を残しながらその獣は街を歩く。

 

足跡には赤い炎の後だけがちらちらと揺らぐ

 

煙が天までも立ち上り空すべてを覆いつくす

 

雲よりも厚く、曇天よりも重いその煙によって日の光は微塵も差し込むことはなく

 

今が朝なのかそれとも夜なのかも知れることはない。

 

唯一の光源は視界の満たされる炎の赤色

 

しかし目の前の赤色があたりを照らす

 

あたりは色彩なく、いいや、その炎の赤にのみ染められた光景が広がる

 

揺れる色の風景の中広がるのは崩れ去った街の様子

 

路は燃え、家は崩れ、そして人は消えた

 

熱で崩れたのかあたりには倒壊しかけたコンクリートの破片

 

元の形もわからないほどに拉げ落ちた看板、

 

黒く焦げ、骨組みのみとなり乗り捨てられた自動車の山

 

臓腑を焼くような、焦がすような熱が入ってくる

 

そのくせに四肢から冷たさが這い上がってくる

 

背骨を削るような、肉を凍らせ剥ぎ取っていくような冷たさ

 

既にそれは終わった

 

既にそれは潰えた

 

既にそれは始まってしまったもの

 

街が燃えていた

 

 

 

 

 

 

 

卵が割れる小気味よい音が聞こえる。

用意していた卵を割り終え、傍らに置かれたゴミ箱の中には無数の殻が捨てられている。二つのボウルは卵黄と卵白に分けられ、中には何十人分の目玉焼きになりそうな卵が割り入れられている。彼は小さな菜箸でわずかに残った細かな殻とからざを取り去っていく。抱えるように持たれた大きなボウルの中を卵白が揺れる、そして彼に右手には大きな泡だて器が握られている。やがて聞こえてきたのは小気味よい泡だて器が揺れる音。透明だったその揺れはだんだんと白く淡く染まり始めていく。

 

「どうだった」

 

声は昨日の休暇を訪ねるように言った。

 

「最悪以外に言葉を持たん」

 

彼はこともなげに返す。

さも、見に行った映画がつまらなかったように、今日の髪型が気に入らなかったように小さな倦怠のみをその言葉に浮かべる。

 

「誰が好き好んで焼け野原を歩きたいと思うかね」

 

泡だて器とボウルがあたり規則的な音が聞こえる。チャカチャカと、こともなげにその音が響く。

 

「怨嗟と崩壊と死に満ちた焦土の世界など誰が見るに堪えん」

 

少しだけ苛立たように眉を顰め、泡だて器を振る。

 

「あの年頃の娘の世界だ、もっと化粧品なり、テレビなり、アイドルなり、恋人なりそんな他愛ないものでいいというのに」

 

いつの間にかボウルの中には分離のない綺麗なメレンゲが出来上がっていく。並々と揺れるその白は微かに蛍光灯の光を反射し、ゆらりとその影を映す。おかれた泡だて器の代わりに彼の手に握られたのは白い砂糖、三分の一ほどをまだ揺れている卵液の中へ落とす。

 

「一度世界を救ったんだぞ、何でもないただの女の子が耐えて耐えて耐えて救った」

 

再びの泡だて器の音はすぐに止まる。白い粉は卵液の中へと混ざり合い、すぐにその跡は見えなくなる。次は残りの半分を入れる。

 

「その上に今度は世界を滅ぼすと」

 

先ほどよりも少しだけ溶け残りそうになった砂糖はそれでも混ざり合う。先ほどより少し持ったりとし始めた生地に最後の砂糖を入れる。早く、そして少しだけ大きく動かされた泡だて器、だんだんとボウルの中は白く膨らんでいく。手早く、そして早く、そしてどこか優雅にも見えるように空気を含ませるように音を立てる。

 

「いいかげんにしろよ」

 

呟き、吠える。

 

低く、静かに

しかしすべてを飲み込んだように吠える

かすれた声が響く

 

 

 

 

 

 

 

『世界を救った』

 

燃え盛る街の中、声が聞こえる

それに音はなく、ただ言葉だけが浮かぶ

それだけが伝わる

その思いだけが入り込んでくる

その思いだけが満ちている

聞いたことのないような少女の声が聞こえる。

 

『怖くない時なんてなかった』

 

『いつも震えていて、それがみんなに知られないように押し込めて笑った』

 

『技術のあるエキスパートなんかじゃなくて思慮深い魔術師でもないただの凡人』

 

『ただでさえ人手なんて足りてなくて、運よく生き残ったの素人マスター』

 

『弱音を吐くことは許されない、震えることは許されない』

 

『それだけ人類の終焉は近づいて、その分だけ人間は追い詰められていく』

 

『必要なのは最後のマスター、そうあらねばならない』

 

『力がなくとも、覚悟がなくとも、進まなければならない』

 

『そうしなければ、その役割を果たさなければ』

 

『そうすれば』

 

『すべてが元通りになると信じて』

 

『異常の中で、日常を取り戻せると信じて』

 

『異常も日常も区別なんてなくて、それでも、夢みたいに漫画みたいに何もかもが元に戻るって思い込んで、縋って』

 

『そして、どこかの、顔も知らない多くの人たちの世界を救った』

 

『手の届く、私たちの世界を犠牲にして』

 

『助けてくれた人たち、あの人を犠牲にして』

 

 

 

『私は世界を救った』

 

 

 

 

 

 

ボウルいっぱいに膨らんだメレンゲは薄く、白く、そして緻密に詰まっていく。もたりとリボン状に落ちていく。泡だて器にから流れ落ちボウルの中へと戻ると形を残しゆっくりと崩れ塊へと戻っていく。カン、とボウルのふちに泡だて器を当てる。泡だて器についていた残り、小さな粒となりボウルの中へと散る、そしてやはりまた形を失っていく。

 

「生存競争に善悪などない」

 

彼はボウルの中央を開けるとそこへ卵黄と溶かした砂糖とバターを落としていく。優しく、流れるように。

黄色い卵黄の群れ、軽く裂かれた卵黄から流れ出た黄金はメレンゲへと少しづつ染み込んでいく。その境界は見えず、ゆっくりと薄黄色に染み込む。白と黄色のまだらは、だんだんと薄く優しく侵す。

 

「異聞帯を切り取ることも、そこに生きる人たちを切り落とすこともそれは生存競争にほかならず。その世界に生きる生命すべてを殺したという罪科などありはしない。もとより落とされ、なかったはずの枝葉。切り落とさなければ幹たる編纂事象、ひいては人類史すら枯らせかねないもの。それは背負う必要のないものだ」

 

声は無機質に彼に伝える

 

「それで割り切れるならば、私たちは人間ではなくなってしまうのだろうよ」

 

彼はメレンゲを崩さぬように切るように混ぜていく。音はなく、ただ彼のコックスーツの着ずれの音が少しだけ、それも機械たちの駆動音に紛れてしまう。

 

「これは背負ったものじゃない、溜まっていったものなのだよ。心の中に溜まっていく澱の様なものだ。それに真面目過ぎると言っても過言じゃない。全てに向き合うなんて。どう理屈を取り繕うとこれから我々が成すことはその世界を滅ぼすことに違いはない。それも一度失われ、剪定され、失った未来を」

 

全体を染めた卵黄の黄色は白かったメレンゲをきはだ色へと染め上げていた。抱えられるように支えられていた腕は離され、彼は小さく息をつく。疲労を感じたのか、小さく腕を振っている。ボウルから上げられた泡立て器の跡は角が立ったように小さく跳ね、そしてゆっくりと倒れていった。

 

「まるで自分が救った様な生きようとした世界をだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

焼け焦げた道を歩く

崩れた街並みを抜ける。煙の臭いが鼻を突き、肺を侵していく

靴の裏から這い上がってくる熱気とは裏腹に熱気を抜かれていく。

足は重く、しかし止まることはない。

 

『後始末だと思った』

 

『全てがうまくいったわけじゃない。でもこれで終わると思った』

 

『前みたいに何もかもがなくなったわけじゃなくて、旅で増えた仲間だっている』

 

『いつも耳元から聞こえていたあの人の声はもうなくなっていて』

 

『それでも管制室のみんなの声が聞こえてきた』

 

『少しずつ終わっていって、少しずつ日常が近づいてきて』

 

そして

 

『一度だけ』

 

焼けた町の中、ベルの音が鳴る。着信を知らせる公衆電話のベルの音が響く。辺りに彼以外の人影などあるわけもなく、彼は焼けた受話器を取った。

 

『もしもし、あ、母さん、私、立香だけど。うん、そう。大丈夫大丈夫。元気。そっちは。うん、うん。そうそう、それで詳しいことはもう少し後になるんだけど次の春前までには帰れそうだから。そうだ、中央公園の桜並木ってまだあるよね。新しく出来た友達も日本に来てみたいって言ってるの、そうそう、じゃあ、近いうちにまた連絡するから、じゃあね』

 

切れた電話の外、どこかで大きな音が聞こえる

何かが崩れたか、何かがきしんだか、何かが割れたか

その轟音はどこか叫び声によく似ていた

 

 

 

 

 

 

 

 

白い雪が舞う。

目に見えないほどの小さな雪が降り注ぐ。

辺りに広がるの柔らかく甘い小麦の香り。だまにならぬように篩から落ち、薄力粉の雪が小麦色のメレンゲへと積もっていく。少しづつ、積もらせては白いゴムベラで切るように混ぜる。もう一度、振るい、そして返す。出来た泡を崩さぬように、壊さぬようにそして薄力粉がだまにならぬように混ぜる。切り、そして返す。四度ほどの篩の後、次第に種は少しだけ白くそしてより滑らかに変性していた。

出来上がった種を前に彼が取り出したのはいくつかのケーキ型、大きさにしてみれば大きなもので言えば十二号は超えるほど大きく、一番多いのは六号だろうか。一つ一つもうには入念にバターが塗られていた。それぞれ同じ大きさの方が敷き詰められているのはオーブン用の天板。彼は出来上がったその型へと種を流し込んでいく。

 

 

「お前なら、ずっとあの子と共にあったお前なら気づかないわけないだろうに」

 

 

彼はつぶやくように言った。

押し殺したように

押しつぶし、殺したように言った。

 

「確かに結果論に過ぎない」

 

「あの時はあれ以外に方法なんてなかった」

 

「なんの覚悟も特別も持っていない女の子たちを巻き込むことも、彼女たちに重責を負わせることになることも、男が一人消えることも」

 

「そしてあの子たちにさらに重しを背負わせることになることも」

 

「それ以外に選択はなく、ほかに道はない」

 

彼の言葉は事実にほかならず、合理に相違なく、正義に違いない

彼は知っている。

その事実を、その顛末を、そしてその行く先を否応なく想像することができる。

それが最善だった。

それが最も被害が少なく、

それが最も多くの人間を救い

それが少女が目指した結果へとつながる唯一の路

それ以外に方法はなく、

その想像を超えることはなく、

下回ることすら考えられることを彼は知っている。

それでも

 

「失うことを何より嫌った普通の女の子が一番恐れることを、大切な家族を失うことを最も怖がる普通のあの子のことを」

 

種を入れた型を少しだけ持ち上げて軽く落とす。中に入っていた空気を抜いていく。型と天板がぶつかる高く小さな金属音がする。かたん

 

「それでもなお、お前はそれを裏切った。その身と引き換えにすべてを解決した」

 

かたん

 

「それで全てを救ったつもりか、それで全てを正したつもりか」

 

かたん

 

「それですべてが救われたつもりか」

 

かたん

 

型を握る白い手袋のしわが伸びていく。強く、強く握られたその型は少しゆがんだようにこすれる音を発した。生地の中から少しづつ気泡が浮かんでは割れていく。小さいものも、大きいものもゆっくりと浮かび上がりそして消えていく。

 

「それでも残されたものは生きてゆかねばならんのだ」

 

かたん

 

 

 

 

 

 

『世界を』

 

色のない世界が見える

 

『一つの世界を修正した。過酷な環境下でもなんとか生き残ろうとした世界を消した』

 

耳鳴りのような燃える音のみが聞こえる

 

『一つの世界を修正した。賢明なる女神が守ろうとした無垢なる世界を消した』

 

冷たい指先は触れたかどうかすらもわからない

 

『一つの世界を修正した。進むことと引き換えに苦しみから逃れた平穏なる世界を消した』

 

焼けた、喫えたにおいはいつものように鼻につく

 

『一つの世界を修正した。善良なる民が生きるすべて、正しくあることのできる世界を消した』

 

そして、砂を噛むように食いしばる

 

『その世界に生きるすべての人を殺して、

 

そして

 

『また、私は世界を救うのだろう』

 

風が吹く

冷たく肌を削るような冷たい風が灰を巻き上げる。

街の炎は大きく燃え上がり、踊り、這いまわる。

そして怪物をまだどこかへと連れていく

その道行は巡礼者のように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

「夢の中で何と言われたと思うかね」

彼はその手を止めること無く、片手間に問いかける。

 

「何だろうな、今日のご飯なに、とか」

 

「確かにそれもいいそうだが」

 

彼は少し笑った。

 

『お前がこなければみんな死ななかった、お前がいなければ誰も殺さずに済んだのに』

 

一度も聞いたことの無い様な声で、泣いているのか叫んでいるのか分からないような声を聞いた。

むき出したような目と噛み締められ、血のにじんだ唇は渇き裂けている。

振り乱され、伸び切った髪は獣のように荒れ狂い、黒く腐りかけた手が彼の首を絞める。

首に触れるのは死人のように冷たい指先、その指先に力などなく、殺したいという殺意もなく、殺せるだけの覚悟もない。小さく震えるその手は確かのこの少女の手。子供の癇癪というにはその手は傷つきすぎていた。

 

「心なんて何度折れたかなんて知れない、癒えてすらいない、ただ折れた意志に使命という添え木を施し無理やり立っているようなものだ」

 

「それすらなくしてしまえばあの子はもう戻ってこれなくなる」

 

「でも、まだ私を憎んでくれているなら」

 

たとえそれが中身のないただの八つ当たりだとしても

 

「それがあの子が生きるための薪となるならば」

 

「この身が灰になったとていとわんさ」

 

焼き上がりを知らせるオーブンのブザー音が聞こえた。

 

「私は不死鳥のゴルドルフだからな、灰からでもよみがえるのは得意なのさ」

 

 

 

「生クリームはたっぷりね」

「チョコレートももってきたよ」

「苺も万全です」

「今日はリソースなんて度外視で行こう」

「ラズベリーも用意いたしましたわ」

「何よラズベリー程度で気取っちゃって、こういう時はマーマレードって相場が決まってんのよ」

「トーストではないのだが」

「まぁいいじゃないの、ほれ、ネクタル」

「兄さん、神酒なんて飲ませたら死んでしまいますよ」

「ガレットに使おうと思っていたオレンジも良い出来の物がある」

「ミートパイなんてどうだ。ほれドラゴンの喉元だ」

「年頃の乙女に合わせる顔はないのですが、マスターならば話は別、魔猪の肉です」

「どっちも駄目に決まっているでち」

「材料が足りないならばそこの駄羊を焼けばいいじゃないか、私も手伝おう」

「姫、それは私怨がこもっていると思うの」

「西洋の菓子ならば門外漢ではあるが抹茶の菓子ならばいささかなりとも助力はできよう」

「マスターはカレーが好きだと聞く、カレー味はどうだ」

「流石にそれはねぇだろ、合わせ方ってもんがあるだろう」

「とりあえずターキー焼きゃあいいんだよっ、祝い事なんだから」

「マッシュしますか」

「キュケオーンをお食べよ」

「引っ込んでろっ」

 

 

 

食堂の扉が開く音がする。

小さな子供の歓声とそれを制する大人たち

持ち寄った贈り物の包装紙がすれる音

半べそかきながらエプロンを求める声

獣臭い匂いは誰かが猪でも狩ってきたのだろう

かすかに高まった厨房の気温

甘い匂いの広がる食堂に集まったのは万夫不当の英霊たち

争うためでなく

競い合うためでなく

世界を救うためでなく

 

 

 

 

「所長ー、変な時間に目覚めちゃって小腹がすいたからなんか作ってー」

 

「やばいっ、急げ、見られたらサプライズが終わりだぞっ、私が行ってとどめておくからこれを何とかしろっ」

 

蜂の巣を突いたように彼らは慌てて動き出す。

 

彼女へのケーキを飾るために

彼女への贈り物を彩るために

 

ただ一人の少女を生誕を祝うために

 

「やっぱり、あなたはただの人間みたいだ。怒り、悲しみそして喜んでくれるただの普通の人間」

 

だから

 

「あの子を、みんなを頼んだよ、ゴルドルフ所長」

 

カルデアの厨房に気勢が響く。

 

まだ早い冬の朝のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼がたどり着いたのは小さな丘の上だった。

街の中心部、少しだけ小高い丘の上、頭上には大きく黒い穴が開いていた。

ゆっくりとその穴より流れ出るその黒い泥は止めどなく溢れ、地表を覆っていく。

コールタールのようなそれが地表に触れれば赤く燃え上がり、再び町へと広がっていた。

どれほど流れ続けたのだろうか、眼下に広がる黒い海はその世界を焼き尽くす死の呪の沼。

頭を埋め尽くすような絶叫、足を折るような倦怠のただの少女が流した血と涙の湖

黒く濃く、深いその海を彼は見つめていた。

湖畔に腰を下ろしその腕の中には子供のように泣き疲れ眠る少女の姿。

橙色の彼と彼女の髪、子をあやす父のような背中があった。

 

「一つだけ聞いていいかい」

 

彼は問いかけた。

 

「どうして手作りにこだわるんだい。設備がないわけでもないんだからベーコンもチーズも機械を使ったほうが簡単じゃないのかい」

 

「そのほうがロマンがあるだろう」

 

彼は少し驚いたように、そして笑った

 

彼は少し誇らしいように、そして笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




あとがき

今回で『ゴッフ料理長の厨房』は最終回となります
七か月の間お付き合いくださりありがとうございました。
書き物の練習がてらの募ったお題から始まった本作がランキングに上がるまでになったのも皆様の応援のたまものでございます。
本作は終わりますが公式より『Fate/Grand Order 英霊食聞録』の連載が始まるそうですのでそちらを読んでみてはいかがでしょうか
感想を下さった方、評価をつけてくださった方、誤字訂正を知らせてくださった方、お気に入りやしおり登録をしてくださった方、そしてなにより本作を読んでくださった方、本当にありがとうございました

また運が良ければお会いいたしましょう

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