ゴッフ料理長の厨房   作:廓然大公

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続いているのかいないのか
それは誰にも分らない


芳香

 本来、したためるべき報告書とは別にこの書簡を残す。

 

 規則通りであれば事の全容を報告書へと記し、それを提出すべきものであるが私はそれを行わなかった。事実司令部へと提出した資料にはあくまで客観的な事実とその前後関係のみを記すこととした。所感程度であれば許容されるべきものではあるがこと今回の場合においてはそれはおこなわれるべきではないと判断したための処置である。

 しかし、それによってこの事件自体が不明瞭になってしまうことは間違いない。それでは今回の事態に関して今後警戒することも、対策することもできない。もとより今回のような事件が今後再び起こったとしてもそれへの対策を講じることなど不可能にも近いのではあるが、それでも再び今後起こりうるための対応策、いいや代替策としてこの書簡を用意している。つまり、これは多くの私の主観を含むものであり、その感覚をいかなる計測器にて残すこともかなわなかったためにそれは証拠とはいいがたく記録として信頼するに値するものではないことを先に伝えておかなければならない。

また、これより語ることは私が記憶しているものではあるものの、私ですらそれこそが確かなる記憶であると断言することができない。確かに感じ、この身に記憶しているはずのものであるにもかかわらずその事実を信頼することができない。まるで現実そっくりに作られた悪夢のようなものであり、月を見ていたはずであるにもかかわらずそれは湖面に映ったように水面に揺れる偽物であるという感覚がぬぐえないのだ。現状、別側面としての私の影響なのか私はその出来事をまだ覚えておくことができている。健全なる精神を持った同輩たちはすでにその記憶の輪郭を失い、その出来事についての詳細すらも記憶できていなかった。ただ午後の微睡に多少の夢見が悪かった程度の漠然とした不快感を持つのみとなってしまっている。人間の持つ自己防衛本能的忘却なのかあれによる記憶的障害なのか、それとも私たちには想像もつかない何か永劫の力によるものなのか判別はつかないものの事実としてすでにあの出来事を語れるものは私だけになってしまった。その私もすでに記憶の崩壊が始まり刻一刻と思い出せなくなってきているという自認がある。そのために私は筆を執ることにした。

 そしてこの書簡自体がどのようにかしてあの事件ともつながりを持ってしまうことは何よりも避けなければならない。そのためにできる限りこの書簡を手に取るものが出ないように、そして 事のあらましだけを知りたいのならばここに書いてあることなど全くの無意味であり、早々にこれを封印することを求める。

 

この事件など一言で表すならば『何もなかった』に過ぎない。それ以上の結果などなく、それ以下の原因などない。それでもなお、新たなる事態が発生した時のみこの書簡を開き事態の解決へと導く一助としてほしい。

 

 

事の発端はある朝のことであった。

第三の特異点を超え、第四へと向かう準備の最中、カルデアスによって発見された微小特異点の調査とその解決へと主も赴く事となったがそれ自体にさして特別性のあることではなかった。魔術王の人理焼却による弊害は特異点以外にも多く発生しており、そのノミ取りとでもいうべきこまごました修正を行うのは日常茶飯事であったためだ。

有限であるカルデアのリソースによって選定され召集され、赴くこととなったのは私と気高き女狩人、無垢なるデミサーヴァント、そしてマスターである赤毛の少女の四人。場所はニュージーランドより東に数キロほど、クック諸島に属する小さな小島のうちの一つであり、その反応自体も小さいことからこれまでと同様に人理焼却における余波として人理の影が形となり異形の有り得ざるべき敵性体の反応となっていることが十分に予想された。それに即するように作戦内容も困難なものではなく、既に所在の知れている敵性体の捜索、打破、離脱、そしてカルデアより特異点の消滅を確認するだけの計画が立案され、同様の作戦もすでに一人では数えられないほどをこなしてきた私たちにとってさほど気負う事もなく、レイシフトを行った。

果たしてたどり着いたのはさして大きくもない小島だった。全周は二キロメートルもなく猫の額ほどの小さな浜と南国特有の椰子類の森が小箱を埋めるように茂っている。外周の調査は数刻と立たずに終わり残された森の中に目標は巣くっていると考えられた。時刻は南中までいくばくかの猶予があり、探索にしても戦闘にしても十二分に対応できるだろうと判断した私たちは足を踏み入れた。

 果実や植物の円熟とも腐敗ともいえない発酵匂の林を抜けると我々の行く手を遮る壁へと出た。そこは南北に紡錘型をしているこの島を中央から二分するように走っていた断層が姿を現した。さほど広いともいえない雑木林の探索の末に敵性の様子は見受けられず、引き換えに人の背丈ほどの岩壁の一部に樹木に埋もれた人一人分程度の入れるような小さな洞の入り口を見つけるに至った。

 入口からは肉の腐ったような不快な臭気と鼻腔を襲うような微かな刺激臭が漂ってきていた。これまでの経験則より人理焼却のゆがみが生じた場合に発生する敵性はそのほとんどが実在の何かを作り替えたようなものであった。ただの猪が魔猪へと変じたように、獅子や蛇が混交しキマイラとなるようにもとよりある者たちが変質したような微少な改変が主であり、それは同時に生物としての形質を依然として有しているということであった。魔力だけではなく、その物理的な体の維持や混交前のルーティーンというように狩りを行うことや巣の確保、縄張りの主張といった動物本来の形質を持つものも多く存在しており、その点でいえばこの洞の中に討伐対象がいる可能性は大いに考えられる状態であった。

 洞の中は一日中日が当たらないらしく岩の表面は苔むしており、急な斜面となっていることも相まってに三度ほど体勢を崩しそうになりながらも降りていくとそこには声が響く程度の鍾乳洞が広がっていた。電灯の明かりに照らされるのは無数の歪な柱と天井と床面から対称的に伸びるつらら、乳白色に光る床面には天井から落ちてきた雨だれが集まり流れるためのような小さなくぼみが一筋ひかれている。電灯の明かりに照らされ時折虹色へと姿を変えてらてらと光るその洞は緩やかに下降しておりその先はまだ長く続いていることが見て取れる状態であった。

 体感にして数百メートルは進んだ頃に私たちは壁面から音が聞こえることに気が付いた。規則的に段々と大きく聞こえるようになった地響きのような騒音が聞こえ始めたのだ。あたりを探索した結果その反響音が聞こえてくるのは洞窟上部からだと判明すると女狩人は作成していた島の地図と洞窟へと下った後の進路を比較してみればその地点ではすでに島の範囲外となり既に海底の下へと続いていることが判明した。この島の近海は遠浅であるらしくその下へと潜り込んだために潮流が海底をこする音が規則的に聞こえているらしいと結論付けるに至った。

 再び進んだ先、そこは先ほどの入り口よりも広く開けていた。匂いはより一層強まり、先ほどよりも壁面からの音は大きく微かに地面すらも揺れているように感じた。手持ちの調査器を設置し探索を行おうとした時だった。それまでとは違った足音とともに暗がりから襲ってきた者たちがいた。洞窟の奥より狂乱したようにとびかかってきたのは人の腰丈ほどの大きさの物体であった。ぺちぺちと足音を立てながら走ってくる様には知性を感じることはできず、またピラニアのように首元を狙いとびかかってきたその者たちを狩人が三匹射落とし、私が二匹を切り伏せた。野良犬程度の物でありさして労もなく対処できたものの、その者たちの形質はいささか以上に異様という言葉に尽きるだろう。その全体像は小さな人間のように見えた。肌の色は白く、短い二本の腕と肥大した足の甲を持つ、それに首はなく、まるで魚のような醜い顔が上を向くように胴体から分かたれることなくつながっていた。本来首や肩に当たる部分には鰓のような切れ込みがあり、よく見れば手足にも水かきのような薄膜が指の間に張っている。しかし、魚人というには口の中には歯があり、頭部に当たる部分には幾ばくかの毛髪が残っており何より全身には皮膚がありうろこのかけらも見られなかった。

 人間とも魚ともいえない未知の敵性体ではあるもののカルデアにて観測されていた反応は六体であり、残りの一匹は近辺を捜索した時にあっさりと見つけることができた。先ほどの魚人とも違う大型の爬虫類のような昆虫類のような蝙蝠のような羽根をもった生物の死骸がそこにすでに置き去られていたのだ。外傷はなく、厳密な死因を調査することはできなかった。ただその死骸の体表が異様にふやけていることに気が付いた。人間の皮膚のようにも見えるがどれだけ水にさらしていたのかも分からないほどに水を含み風船のように膨らみつつある。本来の骨格と思しきそのシルエットすらもまるで骨すらも軟体化してしまったように硬さを無くしつつあるその体はどこか昆虫の蛹のようにも見えた。そしてそれの周りに散らばっていた小さな丸い物体もよく観察すれば先程私たちが切り伏せた魚人のように大きな足の甲が何とか見て取れた。元の形状よりこの水膨れのような蛹へと変ずるにはそれなりの時間が必要であるように思え、またカルデアスより発見された今朝からの時間程度では到底間に合わないように思えるほどの劇的な変貌、変性に見えた。

 それが何かの毒によるものなのか、果たして魔術によるものなのかの判別はつかなかった。いいやつけられなかった。見分するより早く私たちを襲ったのはひときわ大きな地鳴りとともに押し寄せた瀑布だった。私たちが入ったことによって洞窟のどこかに亀裂が入ったのか、それとも満潮の時刻にでもなったのかは分からない、ただ一つ言えることはその水はまったく塩辛くなかったということだ。

 

 

 次に気が付いた時にはすでに完全に水は引いていた。

 私は瀑布に飲まれ同行者たちとも完全にはぐれてしまい自分の居場所すらそこがどこなのかも見当がつかない場所へと押し流されてしまっていた。瀑布は洞窟の入り口から流入してきたためにそこはそれまでより深い場所のようだったが流される前の調査ではそれ以上の奥など存在していなかったはずだったにもかかわらず、そこはどうにも見覚えのないような奇異な香りが充満していた。体は何か丸いものに引っかかるようにして止まっておりまったく光のない空間では明確に視界を得ることは叶わない。魔術なりを使えれば確かにその部屋の中を子細にとらえることができたのかもしれないが私はあくまで一介の将に過ぎないために暗闇の中を這うように進むしかなかった。しかし、今となってはその幸運に感謝する、子細にあれを見ていたとすれば私は今ここで筆を執ることすら叶わなかった。

 暗闇の中で声をあげても返答は無く、大講堂で叫ぶように音が反射するのみであり、そこがこの洞窟内で最も広い空間であることと同時に私一人だけがそこへと辿り着いてしまったらしいことを表していた。手と足の感覚のみを頼りにあたりを探索するとそこは人工的にならされたように平滑な床が広がっており、私がいる地点よりも幾分も奥へと細長く続いている事が分かったために、前後不覚であった私にとってはそのどちらもが等価であったために試しに前進することを試みた。

 

 結果としてその魂胆は失敗に終わった。

 変化が起きたのは床面の石灰岩のざらついた床面がいつの間にか真珠層のように肌に吸い付くような感触へと変わったころだった。遠方に小さな光源が見えたのだ。暗闇に慣れたその目に大きく映ったのは焚火のような代々の炎の影とそれに付随するような何かの焼ける匂いに惹かれたのだ。どれほど暗闇の中で時間を過ごしたかわからなかった私にとってそれはまさに光明にふさわしく蠱惑的に私を誘った。光に寄せられる蛾のように、そこへと駆け出していたことに私は気が付かなかった。ただあの光へと進まねばならない、この香の辿る先へと赴かねばならない。それはまるで囁きのようだった。耳元ではなく呼吸するたびにその香りが私を苛むのだ。香しきそれは私の肺へと潜り込み、体をめぐりそして脳を侵していく。霊体であるはずのこの身であって尚呼吸が荒く、酸素を、いやその香を取り込もうと深く息を吸っていた。モルヒネなど比較にならないその麻薬のような酩酊と脳へと寄生虫でも入り込んだように私の意思などなく体を手繰っていく。しかし、たどり着いたのは光のない暗闇の中、そこには火の気配も光の気配もない。あるのは下品なほどにむせ返るようなその匂いだった。

 嗅覚というのは最も脳へと働きかける感覚器だと聞いたことがある。視覚が脳の処理のは七割を占有していて尚、人間へと最も簡単に、そして直接的に語り掛けるのはその香りであると。理論も感情も必要とせず、ただ知らしめる。その匂いは夢だった。映像ですらない。音ですらない、触覚ですらない。それが現実だった。夢、彼も見ている夢の中に私たちはいた。意志は必要なく身じろぎ程度で崩れ去る泡沫の夢の住人だった。微睡の中にいつ変わるともいつ目覚めるともしれない薄氷の上の世界を見た。

立ってなどいられない。この足がほどけない保証などない。

立ってなどいられない。この地面が溶けない保証などない。

立ってなどいられない。この惑星が崩れない保証などない。

立ってなどいられない。この宇宙が潰れない保証などない

立ってなどいられない。この世界が割れない保証などない

杞憂ですらない。

落ちてくる天を見た男のように揺れ動く世界を知ってしまえばそこになど立っていられない。

支えを求めた。

縋るものを探した

寄る辺を欲した

 

 

そして見つけた

 

 

見つけてしまった

良く知っている手だった

見知った少女の手だった

見知っているはずの手だった

なんの力もないはずのない赤毛の少女の手だった

そしてその時私は初めてその匂いの正体に気が付いた、いいや思い出した。毎週口にしていたその匂い、彼女がいつも上機嫌に作っていたその匂いだ。洞窟から入ってきてずっと漂っていた匂いだ。ようやくここまで臭気のも元へとたどり着いてようやくわかった。

しかし、そうならば、この考えが正しいのならば、なぜ彼女は分からなかった。誰よりも愛し、誰よりも望、誰よりもそれを願っていた少女がなぜこのにおいを分かっていなかった、わからなかった、わからないはずがなかった。

 

 

いいや、わかっていた。

 

 

一切の光のない闇の中で彼女は微笑んでいた。先に広がる祭壇を前に歓喜に濡れたようにただ微笑んでいた。耐え切れず私は彼女の手を振りほどき、騎士の誇りすらもかなぐり捨て少女へと切りかかった。しかし、その剣は空を切り、石灰岩の岩肌へと衝突する。微かな火花が上がり刹那の間あたりを白く照らした。それが最後だった。それに大きさなど持たない、それに強さなど意味を持たない、それに重さなど縛られることはない。ただそこにそれはあった。

 

奈落の大穴のような巨釜と、どこまでも続く壁のような包丁が。

 

それより先は思い出すことができない。

ただ何かに熱に浮かされるように洞窟を出て、いつの間にかそろっていた仲間たちとカルデアに戻ってきていた。他の仲間たちに話を聞こうとしても洞窟にて魚人を数匹倒してそのまま帰還したと口をそろえて言うのみであり、途中洞窟内に設置した観測系にも又何の異常もましてや私を押し流したような洪水も検知されてはいなかった。記録はなく記憶も定かではない。誰の記憶になくとも確かに私があの時見たのだ。あの赤毛の我らがマスターの姿を。知っているはずのない神殿を望む、知っているはずの知らぬ女の姿を。

 

 

今日は日曜日、またあの匂いが漂い始めるだろう。

私の世界を乱していくあの匂いが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あのカレーの匂いが。

 




特に意味はないけど一周年です

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