ゴッフ料理長は今回はお休み
それは古いベンチだった。
魔術協会、アトラス院と並ぶ魔術研究における三巨頭の一角、彷徨海。唯一残された神代の海に浮かぶ孤島。海を突き刺すように聳え立つ黒き山嶺は何物をも触れさせないような排他と尊厳を刻み込む。山肌に草木が萌えることはなく、濡れたように黒く濃く冷たい山肌と固く崩れることのない岩肌のみが島を形作ている。その様は生物の生存を許さないような、存在を認めないような、人間であることすらも許さない、そう神々の問いかけのようにも思える。カルデアを失い、新たな拠点となったノウムカルデア、その工房から少し離れた一角、尾根道の途中、わずかに平たんになった鞍部ともいえない猫の額程度の小さな平地にそのベンチは置かれていた。
いつ、だれが置いたのかすらも分からない。元の色すらも分からないほどのベンチに腰掛けるとしかして思いのほか丈夫に作られているらしい。微かな軋む音を立てはするものの壊れる様子もない。背持たれに体を預けゆっくりと息を吐く、昼間から続く熱気を絞り出すように大きく長く、そして深く吐く。体中に力を入れ、そして一気に弛緩させるとこわばっていた体中の筋が緩み血が通い始めるのがわかる。閉じていた目を啓けばゆっくりと視界が戻ってきた。半ば朽ちているような古臭い木製のベンチだけが置かれあたりには何もない。人工物も、人影も、そして文明の光すら見えることはなく、
ただ
雲一つない明るい満月が昇っていた。
「まったく、俺の手には余るっていうに」
「この状況で出てくる言葉がそれとは叙事詩に語られるような輝きの兜の名が泣くのではないか」
背後から聞こえてきたその声に振り返れば小さな童話作家の姿が見えた。少年のような姿をした彼がそのままどかりと隣に座りこむ。ところどころ白衣にはしわが寄り、目の下にはクマが濃く表れどことなく黒い雰囲気を漂わせていた。
「作家先生は厳しいねぇ。これじゃおちおち弱音も吐けなくなっちまうな」
「批評家の言葉など気にしていれば創作活動などできるわけがあるまい。もとより自身の作品をこき下ろすのはその作者の特権だ。一瞬前の自分が綴った一文字すらも嫌悪し非難するからな。最も厄介な批評家が付いて回るのだ。作家という生き物ほど度し難いものはない」
嘲笑するような壊滅的とも感じる彼の皮肉に軽く笑いを返すことにした。
「それにしても随分と荒れたご様子で、今日は調査班の担当でもなかっただろうに」
漂白化された地球、文明を白く押し流された地表。その原因調査とサンプルの回収、遺留物の調査、そして生き残りの人類の発見のため数日に一度ほどの割合で各地へと戦闘能力の高いサーヴァントを中心とした調査隊が派遣されている。長く、広く、何もない白い大地を眺めながら無数の地平線を超える作業でもあった。
「馬鹿め、もとより誰があんな刺激も題材も落ちていないような外出をするものか。もとより俺が役に立つときなど平時ですらないというのに緊急事態に戦闘能力皆無のお荷物を抱えていくようなもの好きなどいるとしたらすでにこの世にはいないだろうさ」
「相変わらず自己評価が正しく低いことで」
「俺にできることなどインクを無駄に減らすことだけだ。それ以上の労働などごめん被る」
童話作家はとりだしたハンカチで黒く汚れていた指をぬぐっていく。
「それにしては一仕事中って感じに見えるけど、締め切り間近って感じの風体じゃないか」
「締め切り前なのだから、そう見えるのは当然だろう」
その言葉に彼は少し驚いたように目を丸くした。
「このご時世で締め切りがあるのか」
「無ければだれが書くものか。版元からも編集からも印刷所からもせっつかれるようなせわしない胃薬の手放せない日々に進んで陥りたいと思うやつがいるならばそいつは書かずにはいられない精神異常者かよほどの阿呆に違いあるまい」
耳をすませば遠くから彼の名を呼ぶ声が聞こえてきた。マスターとカルデア職員の声、どうやらこの小さい毒舌家は締め切り前の現実逃避をしているらしかった。
「しかし、作家というものは書かなければ死んでしまう。誇大な妄執と虚構が作家自身の意識にまで手を伸ばそうとしてくるからな。物語を記すことはその怨念のようなキャラクター達を自分から切り離すようなものだ。死に至る病を性懲りもなく抱えた生き物だ。わがことながらあきれ返るほかはない。そのうえに間に合わなければどこぞの牛女との相部屋が待ってるそうだ。まったく我がマスターながらいい趣味をしている。良き編集者になるだろうさ。作家の死に至る境界線を簡単にまたぐとはな」
苦渋に満ちた彼の表情には嫌悪だけではない感情も含まれているようにも思えた。しかし、言葉にすることはなく、代わりにただくたびれた煙草に火をつけた。ゆっくりと肺にくゆらせ、血液へと煙を流し込む。血の中に流れる異物を、体の内側を泡立たせるような化け物をなだめるように。
そして、満月の浮かぶ空に小さな雲を揚げる。
「あれだけ目障りだった光輪が懐かしくなる日が来るとはね」
人理を焼却しようとした魔術王の計画、すべての熱量を、人間の営みをすべて集めた光。
しかし、すでに暗い夜空には欠片も輝くことはなく、冷たく青い月が凍えるだけ。
「まったく、世界を救ったというのに今度は世界を滅ぼす側に回るとは、神というやつも随分と性根の曲がったことを考えるものだ。脚本としても掃いて捨てるほどあふれている。陳腐、凡庸、廉価、子供産僧のほうが幾分ましだ」
異聞帯、誤った歴史の枝葉、それ以上進展することは無い行き止まりの人類史。有り得たかもしれない未来。
カルデアの新たなる敵
漂白化された汎人類史の敵
滅ぼされた汎人類史の敵
「負け戦は何度も覚えはあるけど負けた戦というのは存外応えるな」
トロイアの時も負け戦には変わりなかった。事実トロイアは負け、自分の亡骸もあの阿呆に引きずり回されたらしい。しかし、あくまでそれは自分が死んだ後のこと。負け戦ではあってもあの時は負けていなかった。そうあるようにと仕掛け、勝つことはなくとも負けはしない、そのように戦ってきた。悔いはなく、後悔はない。しかし
「マスターが生きてる今を守れなかったその落とし前はつけさせてもらうとするかね」
「負けない槍兵が勝つというか、矛盾をはらんだ言い回しではあるが神代の英霊を見るのも一興というものか」
「そういうのはあの阿呆の領分だろうよ。あくまで俺はただただ負けないだけさ」
口元に携えるのは短く、灰と化した煙草の煙が昇っていた。
「なに、もうこれ以上何物にも踏み込ませない。それだけの話ってことよ」
作家はつまらなそうに鼻を鳴らすと返答に小さな小瓶を投げつけてきた。
「新所長殿の新たな秘蔵品だ。黄金の林檎など市井にでも流せば値千金はくだらないだろうが秘蔵していればあの阿呆が休むことなく走り続けるからな。代替消費研究の産物というやつだ。猫に小判どころの話ではないがな」
投げつけられた小瓶に入っていたのは金色の液体、よく見た林檎酒のようだった。
「黄金の林檎を酒にするとはうちの新所長は随分と剛毅なお方なこって」
「名君には程遠く、暗君には臆病すぎる。魔術師だというのに常識を持った一般人にもほどがある。あれが王であったのならあんな物語など書くことはなかっただろうよ」
「確かに彼には弾圧なんてできそうもないな」
彼ならば騙され全てを剥がれ歩いたとしても多くの者が毛布を手に近寄ってくる。その姿が容易に想像できる。
「案外、彼みたいな人間が王になるべきなのかもしれないな」
「喜劇、いいやスケッチコメディーにしかなるまいよ」
小さな笑いにつられ手の中の黄金もちゃぷんと揺れた。
全ての元凶となった黄金の林檎。多くのものを知り、多くのものを失うこととなった知恵の果実。
苦く、あまりにも苦く彼はそれでもゆっくりと笑い栓を開けた。
「景気づけだ」
小さく、そして甲高い壜のぶつかる音が聞こえ、ゆっくりとあおる。
「次は負けられんのさ」
月だけがまだ空には輝き、ベンチは小さく鳴いた。
本編ではあまりからみがないので書いてみた
彼にはシードルが似合う気がする
誤字訂正を行いました
報告ありがとうございました