一つの線が走る。
流れるような軌跡はただ美しく闇の中を割いていく。
人の技ではなく、自然の中に生まれた積なる美、人の手の届くことはないほどの柔なる流れ。
ただ美しいその流れはしかして、触れることなど叶うことはない。
刹那なる一閃に触れることはすなわちその割断を意味する。
誰かに説明されたわけでもなく、ただこの体が、頭が、心臓が、そしてその魂が理解する。
あれは人の命へと触れるものであると。
不用意な接触をすれば死へと運ぶ技であると。
覚悟をもってしても冥府へと誘う業であると。
しかし、その光から目を離すことはできない。
暗闇の中の灯を見つけた蛾のように離れることはできない。
近づけばその身を焼く死であったとしても。
それが例え死であったとしても、感じたのだ
風のように緩やかに
火のように輝かしく
水のように途絶えることなく
そして願いのようにただ純粋な
きっとそれは
遠くのほうで声が聞こえる。
誰ががしゃべっている音だ。
一人、二人、いいやもっと多く、十数人ほどの音が聞こえる。聞けば物の揺れる音、いいや誰かの走る音も聞こえてくる。せわしなく出ていっては戻り、そして出て行っているらしくその音が微かな揺れとなり音となり迫ってくる。微かに聞こえる小さく甲高い音は何か硬いものをこすり合わせたようなものだろうか。大声を張り上げているそれはどうにも鉄火場の様相を呈しているらしい。怒号にも似た伝令のような声が聞こえる。
このノウムカルデアも又そんな火急の事態とも無関係とはいえない。シンへと赴く契機となったコヤンスカヤの侵入、先日の大奥騒ぎの根も乾いてはいない。しかし、だからこそ新たなる侵入に関しては万全の体制をとっている。確かに表では職員たちが何やら急いでいるらしいものの真っ先に鳴らすべき緊急警報もそして指令系統のトップである自分への伝令がないということは大したことでもないのだろう。昨夜は大量の焼き豚の仕込みで忙しかったのだ。何よりいつ危険な事態に遭遇するとも言えないこの状況、仮眠は取れるときに取っておかねばならない。
微睡の中、二度寝の決意を固めた。
「いい加減起きるでち」
聞こえたのは鉄のたわむような、銅鑼をたたいたような音それとともに頭には走る鈍い痛み。
「起きてるのはわかっているでち、余暇ならまだしも今回は二度寝などまかり通りまちぇん」
少しばかり舌足らずな彼女の声を聴きならが痛みと耳鳴りを腹の底にしまい込み寝ぼけ眼を強引に押し上げる。
視界に広がるのは大きな大きな厨房だった。小さなホールほどはあろうかというほどの厨房、木造のあちらこちらに赤い唾根の衣装と飾り棚が拵えており、時を経た木の亜麻色が密のようにそれらを輝かせ、同時にその厨房の古さを語っている。多くのかまどから湯気が上がり、広い木製の調理台の上には一抱えほどはあるような大笊にうずたかく積まれた野菜たちが置かれていた。湯がたち、米がたき上り、野菜に火を入れ、魚を捌き、そして肉を焦がす。聞こえてきた怒号もよく聞けば人間にしては高い雀のさえずり。火と食材たちと、そしてどこか漂ってくる微かな硫黄の香り、少しだけ久しいその匂いはそう簡単に忘れられるものではなかった。
「ここはどこ、いいや野暮だったな」
「物分かりのがいいのは説明が省けて楽なので大歓迎でち」
それは閻魔亭、
舌切り雀こと紅閻魔女将率いる地獄の温泉旅館であった。
彼が目を覚ましたのは厨房に敷設された六畳ほどの小さな和室、部屋の端には無数の段ボールと壁には何やら挟まれている紙の端が少しくたびれたクリップボードやいくつかの張り紙が見える。見慣れた指令服ではなく以前来ていた番頭服であることにはすぐに気が付いた。
「一年分の幸福はきちんと集め、この旅館の負債も解決しそれで充分手打ちとなったとは思うのだが」
出された茶をすすりながら毅然とした態度で彼女へと問いかける。以前特異点としてレイシフトを敢行した際にこの閻魔亭の意義ともいえる旅館の顧客たちの幸福の気持ちを彼が放出させてしまったために集めなおさなければならない事態となった。さらにはこの閻魔亭が抱えていた負債も帳消しにしたためにいうなれば彼らがこの旅館を救ったともいえる。しかし事の発端となった彼はトラウマなのかよく見れば彼の手元は震えている、しかし彼女もその揺れに気付いてはいても気にすることはない。
「今回はそれとは別件でち」
その言葉に彼は少しだけ安心したように一息つくと、すぐにまた慌てたように取り乱し始めた。
「いや別件とはいっても、現に今私はカルデアから離れてここにきているのだが何が起きているのだ、またしても以前のように洗脳だのなんだのされるのはこりごりなのだが。連絡手段はないのか、ジュネーヴ条約にのっとった捕虜の適切な扱いを要求するっ。これを逸脱した場合には戦後に重大なバツがあることを覚悟してもらおうか」
「落ち着つくのでち」
またしてもフライパンの甲高い音がする。少しばかりの脳震盪から復帰しながら彼が言葉を言う前に彼女が口を開いた。
「今お前の体はカルデアのベットで寝ている真っ最中でち。寝ている幽鬼の状態で閻魔亭に逆召喚させただけでち、もとより経路自体とおっていまちゅ。あまり難しいことではありまちぇん」
以前の邂逅から縁自体はつながっている。そのために時折紅閻魔自体がカルデアに来ていることは知っている。特にこれは良い機会だとヘルズキッチンの出張版が開催されているときなど一部から阿鼻叫喚の悲鳴も漏れてくる程、新たな講習生となった源頼光ですら根を上げていると聞く。
「それに時々マスターも手伝いに来てくれているでちよ」
彼女の指さした先、従業員ロッカーの端には藤丸の名札がかけられている。どこで買ったのかわからないファンシーなシールまで張り付けてあった。確かに全職員の行動は把握しているものの夢の中までは把握できない。
「いつの間にっ。というか一応ここは地獄であるから、そこへこうも簡単に呼ばれるっていうのは、一時的に死んでるってことにも…、え、大丈夫なの、これこっちでものを食べたら戻れなくなるとかないの、本当に大丈夫」
「この前も朝昼晩とちゃんと食べていたでち。チャンということを聞いている限りそんなことはありまちぇん」
「いうことを聞かなかったら」
「チャンと正社員として雇用してやるでち」
甲高い悲鳴が響き、またしてもフライパンの打撃音が聞こえてくる。
「今回はマスターの発案もあってのことでち」
「して結局いったい私に何をさせようというのだね」
赤い大きなたんこぶをこしらえながら彼は威厳たっぷりにそう聞いた。
「道すがら説明するのでちょっとついてきてくだちゃい」
ようやく回復した頭を抱えながら、紅閻魔につらられ厨房の裏口から外へと出る。迷い家としてそびえる閻魔亭はその名に恥じぬほどの大きな本館別館含めた全体が深い山間に鎮座している。周りにはもちろん人工物などなく、流れる清流と青く茂る木々、そしてあたりを囲む霊峰が美しくそびえる。そんな閻魔亭の裏、従業員たちのみが入ることのできる小さな小道を抜け裏山の端へといざなっていく。
「ゴルドルフ所長さんは無宗教なのでちか」
道すがら紅閻魔はそんな風に訊ねてきた。
「魔術師だからな、教会とはもちろん折り合いが悪いのは間違いないのだが、代行者や仏門ならば僧侶でありながら魔術師であったりするのだからそうなのだろうがな。私もそして私の家もそういった宗教というものは持っていないな」
「そうならよかったでち」
「まさか、日本の地獄に別の宗教の人間が入るとまずいことでもあるのだろうか」
「そうならば英霊の皆様も来れてはいないのでち。確かにそれぞれの地獄があるので死後はそれぞれの地獄へいくのでちが、今はグローバルの時代、英語しかしゃべれない日本人という子も出てきているのでちからちゃんと勉強しているのでち。ぬかりはありまちぇん」
彼女はそう言って懐から駅前留学のロゴの入っている単語帳を見せつけてきた。
「まぁどこぞの加護がないならばかち合うことものないでしょうしちょうどいいでち」
「何か言ったかね」
「なにも」
彼女のつぶやきは彼に届くことはなかった。
「マスターから聞きまちた、ゴルドルフ殿は料理人ほどの腕前を持つと」
「たしかにそれなりという自負はあるがな」
「ちょうど、次の団体様がイギリスの方たちなのでち」
「なるほど、それで私に調理法など聞きたいということか。しかし、ほかの英霊たちもいるならばそちらに聞いたほうが良いのではないか、料理の英霊というのもいないわけではないだろう」
紅閻魔は彼の言葉にゆっくりと首を振った
「英霊や亡霊、迷い子たちはみんなお客様でち。だから彼らからの供与というのはあまりよろしくありまちぇん。しかし、現世の人間であるマスターやゴルドルフ殿ならば獄卒として一時的に閻魔亭の職員にできるのでちょうどいいのでち」
山道を抜け小さな桟橋を渡った、谷川が流れているのか微かに水の涼しさが肌に触れる。谷川のすぐそばを歩いてゆく。
「なるほどそれで、その団体客というのはいつ来るのだ」
「今度のお盆でち、仕込みにもあまり時間がありまちぇん」
「確かにそこまで時間があるわけではないがワインを一から作るわけでもあるまいし大げさではないか」
「聞きまちたよ。先日大奥でいともたやすく敵に言い込められたと」
途端に彼女の口から出た単語に、彼の口は閉じる。自分の不出来、失態。弁明しようにもとっさには言葉が出ない。
「いきなりの襲撃でもあり、第六天魔王の策略ならば確かにそのなんというか、あれなのだが、どういうので、そうだ、運悪く、はい」
「情けないとはいいまちぇん。今が異常事態なのは重々承知でちから、しかし、その精神の弱さは改善しなければなりまちぇん」
少し冷たくなったような彼女の言葉に少しだけその小さい背中を見つめながら彼は言った。
「一体私はどうなるのでしょう」
「お盆で人も増えるので新しい料理人も欲しいと思っていたのでちょうどいいのでち」
ゆっくりと留まった彼女の背中、そしてゆっくりと振り返ったその表情は笑みが浮かんでいた。
「私も久しぶりの弟子取りでこようちてしれまちぇん。しかしその分気合後の技は期待ちてかまいまちぇん」
「弟子取り?いったい何が、え」
笑みの彼女の裏にはちょうど切り立った崖となっている。これまで隣を流れていた河が流れ落ち、滝と化していた。その落差は百メートル。瀑布といっていいほどの轟音がここまで聞こえてくる。
「みんな第一歩はここからでち、私も最初は無理だと思ったものでち」
「話の先が見えないのだが」
「獄卒は地獄で死ぬことはないのでちょうどいいでち。夢の中ならば現世との時間も解離して何倍も余裕を持たせられまちゅ」
「だから一体なに」
しかしその先を紡がれることはなかった。小さく感じた襟元の違和感。
、いつの間にか彼女に崖から放り出されていたことに気が付いた。
「閻雀裁縫抜刀術、第一業 滝割 はじめっ」
ゆっくりと遠くなっていく彼女の姿を見ながら笑みは本来肉食獣が威嚇に用いていたものの名残だという。彼はそんなことを思いながら彼女の笑みを見つめ、そして落ちていった。
「それで今所長はあの滝つぼの中で滝を切ろうとしているわけ」
藤丸の言葉にはいささかのあきれたような響きが含まれていた。橙の仲居の様相をした彼女、正月以降、本格開業したはいいもののまだ従業員の数が足りていなかった閻魔亭で期間従業員をしていたのだ。
「確かにいい料理人がいるっては言ったけど、あそこまでする必要あるの。もう点にも見えないけど」
桟橋の上から見下ろしてなおその姿は見えない。それ以上に何も持たない状態で瀑布のような滝を切ることなどできるはずもない。
「ヘルズキッチンの時も厳しかったけどあれはレベルが違いすぎるんじゃないの紅ちゃん」
「ヘルズキッチンは料理教室、これは弟子取り、いうなればヘルズガーデンでち。閻雀洋裁抜刀術の神髄を叩き込むならばこれでもまだ序の口でち」
「おてやわらかにね」
地獄の窯の蓋が開くお盆それは同時に閻魔亭の繁忙期を意味する。再開した閻魔亭に足りないマンパワー、仲居はある程度確保できたのだが、料理人の確保が難航していた。もとより専門職、一朝一夕で仕込めるわけはなく、ならばヘッドハンティングを行わなければならない。
そこで白羽の矢が立ったのがかの男だった。
「それにいかに基本が出来ているとはいえこのあたりの獣には通用ちまちぇん」
「それにしたって何も持っていないうえで滝割って」
苦笑だけが洩れ地の底の彼には同情を禁じ得ない。
「マスターは私がお櫃を持っているときに何で敵を打ち倒していると思っているのでち」
「そういわれてみれば、しゃもじしか持っていないのに」
驚いた彼女の顔に紅は得意げに笑いかけた。
「閻雀抜刀術は決して殺しの技ではありまちぇん。食材を捌きお客様に提供し、そして悪人を捌き、適切な罰を与え新たなる旅路へと導くための活人剣でち。ただ人を思いやるためだけの剣、彼ほどの担い手もそうそう見つかりまちぇんよ」
「それならうちの所長は世界一に決まっているもの」
笑いあう少女たちの声が流れる水音に取り込まれていった。
川岸に倒れこむ
夜の闇が広がる。滝つぼのほとり、無数の星空へと焚火から立ち上る煙が唯一の雲となっていた。
水の砕ける轟音が遠く聞こえる。夜鳥の鳴き声と梢の揺れる小さな音そして枝の弾ける小さな音色。串に刺さっている猪肉から脂が垂れる。照るようなその炎と久しぶりの星空だった。もはやどれほどの時間がたったかなど覚えてはいない。時間の流れが違うのかすでに三十二の夜までは数えていた。途切れることのない水の奔流。時を止めるとまではいかなくとも魔術を使えば一時より短いその刹那ならば留めることはできるだろう。しかし、どうやらこの谷ではその魔術を封じられているらしかった。
「おかげでまぁ随分と懐かしいことを思い出させてもらっているがね」
それはまだ十にも満たない頃、数回放り込まれたのは誰もいない無人島。刻印の移植も行っていない頃、ナイフ一本で食いつないでいたあの虐待ともいえる訓練を思い出す。
「あれはトゥールⅡのころだったか」
ムジーク家、そしてゴルドルフの教育係でもあったあのホムンクルスたち。姉のような、妹のような師の様な、弟子の様な彼女たちのことを思い出す。無表情のくせに芯が強く、そして好奇心の旺盛だった彼女たちのことを。
「まったく、主人を主人とも思わない奴らだったがな」
眠るように、微笑むように止まっていった彼女たちのことを。
「あいつらも限度を知らんからな、最初の時なんて刻印どころか魔術の一つも教えてもらってはいない頃、」
違う、それは違う。
トゥールⅡが初めて来た際の一番最初の仕事が魔術刻印の移植だった。ならばこの記憶の中の最初の星空はそれよりも前。
それはつまり
「もう顔も思い出せんというのにな」
数か月だけの生活だったというのに
もう二十年も前だというのに
それでもまだいてくれているのだろう
『わたしたちは知識を教えることはできる、しかし経験を授けるには時間が足りなさすぎる。料理なんてその最たるものだ。レシピがあっても経験とそれによって育まれた技量がなければおいしいものは作れない。だから次はお前がその目と耳と肌と、そして舌で経験した世界を食べさせてもらうとしよう』
ぶっきらぼうに頭を撫でつけてきた不器用な褪紅の瞳をした彼女のことを。
より長く
より元気に
ずっと多く笑っていてほしい
原初の願いから握ったその包丁のことを思い出す。
「まったく、みんなして言葉で言えばよいものを」
貴方はそんなことじゃ身に沁みないでしょう、そんな彼女の言葉が聞こえるようだった。
「確かに」
懐から取り出したのは小さなナイフ。
人を傷つけるためでなく
人を生かすために綻ばせるために鍛えられた刃。
それだけで十分だった。
「夢の中で仕込むとはあの女将もなかなかに侮れんな」
そう小さく笑い、軽く振る舞った。
「閻雀裁縫抜刀術、一の型、褪紅滝割」
音もなく、滝は割れた。
「思いのほか早かったでち」
「それはそれは厳しく教え込こみましたからね、これでも遅いくらいです」
「きびしいのでちな」
「駄目な子ほどかわいいというやつですか、まぁあの子なら出来て当然ですけど」
「親ばかでち」
「まぁ今日のところはこのくらいにしておいてあげましょう、この後もまだあるんでしょう」
「基本十二、亜種六、派生五、総計八十の技全てを教えるにはまだ時間がかかるでち」
「どうか、あの子のことをよろしくお願いします」
「まかされたでち」
「いやむりだって、ナニコレ、なにこのでかい鯉っ、幻想種じゃないのっ、頭のあたり半分龍だしっ、気持ちわる、ああぁっ、言ってません、言ってません、気持ち悪いなんて思ってませんからっ。滝割ったら出てくるってなしじゃないのっ、こんなの果物ナイフで切れるわけないだろうって、ジュネーブ条約をっ、責任者をだせぇ、あ」
はるか下のほうで小さな影が大きな魚影に飲まれて消えていった。
「しまらないわね」
「まったくでち」
彼女たちはため息をつく、しかしその表情は少しだけ笑っているように見えた。
面白いといいな