艦これと水曜どうでしょうのパロディです。どうでしょうパロは前半に集中しています。
~注意~
・キャラ崩壊
・オリジナル提督
以上のことに注意して頂き、温かい目で暇潰しに読んで頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。
ついにこの日が来た。
艦娘になって早五年。私はこれまで数多の基地を転々としてきた。本来ならば配属が決まれば、戦力外通告をされない限り異動など滅多にないのだが、私は異動ばかりしていた。大体の理由は戦力過剰による解雇、つまり私がいなくても戦力が足りているため、そんなところだ。稀に、私がいるせいで良くないことが起きるから、という理不尽な理由でクビになったのもあった。おかげでそんな私は所属がなく、本部の派遣隊員として活動している。
だが、そんな私にも正規配属のチャンスが舞い込んだ。そもそも私の"型"は適合者が少なく、"姉"のほうはもっと希少だ。故に声がかかれば十中八九配属が即決定するのだが、私だけは解雇され続けた。一体全体どういう運ならこんなことになるのか教えて欲しい。艦娘を続ける理由も目的も、とっくの昔に見失ってしまったから次でダメなら辞めるつもりでいる。これといって後悔もないし、強いて言えば活躍したかったが、もうその気も風前の灯。退役願を鞄に入れ、私は今、最後の採用試験へと向かう。
募集の紙に記載された住所を目指し、取り敢えず東京までやって来たのだが、ここまで来ることだけで相当疲れた。先程言ったように、私は所属がないため本部に仮所属させて貰っている。そしてその本部は横須賀にある。横須賀はご存じの通り神奈川県である。対して募集のかかった基地は"宿毛"と呼ばれる場所にある。さてここでクイズです。"宿毛"ってどこ?そして何て読むでしょう。答えはこの後すぐ。正解は、高知県である。読み方は「スクモ」。しかしこれでもピンとこないであろう。実は私もそうである。ちなみに東京から高知県まで高速道路を利用すると、その距離なんと約七八〇キロメートルである。つまり百キロマラソンを七回往復し、フルマラソンを二回走るくらいの距離だ。この例えも分かり難いかもしれない。この基地を受験しにいく、と私が所属している艦隊の司令官に通知した際、「スクモ?wどこそこw」と返されてしまった。宿毛の市民に謝れコノヤロウ。話を戻そう。地理の勉強をした人なら分かると思うが、神奈川から高知までは遠い。飛行機で行こうにも、たかが面接程度の理由では出してもらえない。仮に出してもらえても予算が足りない。船など敵と遭遇する可能性が高いから尚更だ。ということは自ずと移動手段は限られる。車か電車の陸路。私は普通免許を持ってはいるが、マイカーは所有していないので、公共のものを利用する。司令官には自転車か徒歩で行けと言われたが、そんな修行みたいな真似は控えたい。またどうせ四国に行くなら、八十八ヶ所巡礼して厄払いでもしてこいとも言われた。それ以上彼の話は聞かなかった。まず私は電車や新幹線を利用して関東を脱出した…、かに思えたが、その夜、東京まで来て優雅に一人ご飯を堪能し、知った衝撃の事実は、岡山行きの新幹線がトラブルで運休になっていたという事実であった。なぜこんな時に…。復旧の目処がたっていないのと、私もあまり余裕が無かったので、急ぎ別の手段を探した。そこで見つけたのは、偶然にも高知直行の便、到着は午前中。これならギリギリではあるが時間までに着きそうである。私は藁にもすがる思いですぐに予約し、出発地点へと向かった。……変だ。大体駅から出た時点で気づくべきなのだ。出発まで残すところ五分。ようやく首の皮一枚繋がり、私の目の前にやって来た、
プシューッ!バシーッ!という音を響かせたそれは、バスであった。
肩の力が別な意味で抜け、鞄を落としてしまった。バスのドアとトランクが開き、他の乗客は荷物を運転手に荷台に入れてもらっていた。私もスーツケースを入れてもらい、指定された座席に座る。幸いにも乗客も少なく、これなら指定席でなくてもいいようにも思えるが、一応ルールには従おう。それに私の席は後列の窓際で、隣に人はいない。予定外ではあるが、最近の夜行バスは乗り心地もいいと聞くし、これなら優雅とまでいかなくても、ゆったりとした旅が出来そうだと、座席に身を預けていると間もなくバスは出発し、アナウンスが始まった。
「〜宿毛駅到着は、八時五分。〜」
あれ?聞き間違いか?八時と言ったかな?今出発したのが八時半だぞ?もし到着が八時なら十二時間近く乗ることになるぞ?冗談やめてよ。そう思って車内前方のモニターを恐る恐る確認すると、"宿毛駅 8時05分"という文字が。私はまたしても、身体の力が抜け、空気を抜かれたバルーンのように萎んだ。
長時間の旅が始まって十分。私は早くもこの旅に飽きていた。景色を見ようにも今は夜間で真っ暗。夜景が綺麗かと思っても、見えるのは追い抜いていく車のライトと、遠くに見える点々とした明かりだけ。買っておいたペットボトルのお茶を飲み、それを置こうとした時、違和感を覚えた。バスの座席にはアレが付いているはずだ。アレとはご存知、飲み物を置くホルダーである。前の座席の背面に付いているホルダー。だが私の席にはそれが無かったのだ。隣の席を見ると畳まれているが、あるのは確認できた。さらにその奥、私の反対側の席にもついていた。これはもしや私の席だけ無いのでは?ともう一度私の席のものを見ると不自然なネジ穴を発見。これはあったんだけど、取っ払ったということだろう。何ということだ。私は飲み物を置くことが出来ない。運転手さんに一言言おうと、手を揚げるが華麗にスルーされてしまった。悩んだ結果、膝で挟むことにした。幸先悪いなと思いつつ、暇をもて余した私は事前にまとめておいた面接対策シートを読むことにした。入室の仕方から質問への返しなどを確認していく。こうしていると学生時代を思い出す。私は学力が決して良いとは言えないので、高校は委員長の肩書きを使って推薦で受けた。その受験前日もこうして対策シートを読み、鏡を見て声に出しながら練習したものだ。懐かしさに浸りつつ、バスの中で一人、声を出さずに練習していた。
十分後。紙をクリアファイルに戻し、一息つく。そして気付いたことがあった。
酔っちゃった。
私に緩やかな吐き気の波が寄せては返す。車内で何か読むということ自体数年ぶりであったため、忘れていた。私は乗り物に弱いことを。弱いとはいっても揺られるだけで酔う訳ではない。映像を視聴するとか、文字を読むと酔うのだ。そう、つい先程まで私がしていたこと。それこそが酔う条件を完璧に満たしていたのだ。お茶を飲むも、私の膝の抱擁を受け続けていたせいで、かすかに冷たくて大体温い、これでは酔いを助長させる。もうこうなってしまってはどうしようもない。時間経過で治るものでもない。仕方あるまい、寝よう。幸いにも後ろには誰もいない。私は腰かけているシートを倒し、ハンドタオルを顔に、ブランケットを膝にかけて瞼を閉じた。
ブレーキの反動で目が覚め、同時に酔いも少し覚めたことに安堵しつつ、口元の涎を拭って携帯電話の電源を入れる。どうやら一時間位寝ていたようだ。目的地まではまだまだ遠い。酔うという事実を再確認した今、文字を読む行為は控えねばならない。持ってきていたイヤホンを携帯電話のジャックに差し込み、音楽でも聴きながら暇を潰そう。と、思ったのだが、音が右側からしか聴こえない。イヤホンを外して、右耳を塞いでみるも、ちゃんとバスのエンジンの駆動音と走行の低い音は聴こえている。つまりこれは、イヤホンの左側のスピーカーが壊れている。しかしこの程度でショックなど受けたりはしない。なぜならこのイヤホンは七年ものだ。私が高校生の頃から使っている。それ故に一昨年あたりから調子は悪かった。だから片方しか聴こえないのは今に始まったことではない。五回使えば一回はこうなる。だが今日はすでに本部から東京駅に来るまでに二回壊れている。これはこれまでにない事態だ。いよいよヤバイ。壊れてくれるなよ、こんなところで。まだあと十時間以上あるんだから。しかし私の願いは、さもバスの排気ガスのように闇に溶け、胸に虚しさという不純物を残していった。
読書することも、音楽を聴くことさえままならず、あと残り十時間をどう過ごせというのだろう。さっき寝てしまったから目はギンギンに冴えてしまっている。降り積もって溶けない虚無感は、私の胸中を重くしていく。もうどうしようもないほどに暇で暇で仕方がない。私は窓から追い越していく車を数える遊びを始めた。ただただ暗闇を走る光を数えていた。百台を超えたころ、私は考えるのをやめた。
虚無に包まれた時間も終わり、気づかぬ間に着いていたサービスエリアで、少しの休憩のため停車した。扉が開いたのと同時に立ったのはいいが、膝が固まってすぐには歩けなかった。椅子に掴まりながら足を進める。バスを降りるとそこは名前もよく知らない道の駅で、夜中というのもあって小さなお土産屋は閉まっていた。ご飯処もあるようだが、休憩時間に余裕はない。それにお腹が空いている訳でもないので、私はお花を摘みにいった。その帰りに自販機で飲み物を買って、バスに戻った。しかしそこで感じたのは、戻ろうとする私の足はとても重く、まるで足枷をつけられているように思えた。どうやら私が最後であったようで、席に戻るとすぐに出発した。
第二回戦、開幕。
気がつくと時刻は日付を跨いでいた。いつの間に四時間ほど経過していたらしい。イヤホンが壊れて私も無の境地になっていたからだろうか。それにしても四時間で休憩が一度とは何だそれは?拷問か?普通二時間に一度だろう。しかし私が無に堕ちている間にあったのかもしれないし、一概には言えないのかな。あと8時間。私の途方もない戦いは、まだ、始まったばかりだ。
あれから一時間経ち、私はどうしようなく他愛のない下らない妄想をして過ごしていた。内容はというと、女の子が主人公のバトル系ストーリー。私は少女マンガのようなキラキラした恋愛のよりも、バトルマンガのような命を懸けた日々のなかでの儚い恋が好きで、私が暇潰しにする妄想の大半はそうだ。そもそも私は少女マンガがそんなに好きではなくて、思春期の男子が好きそうな恋愛シミュレーションの方が好きだ。時々男子の夢や理想が垣間見えておもしろい。今度クラスの男子にやってみようかと企ていたこともよくあった。程度の軽いシチュエーションであれば試したこともあった。そんなことをしているうちに私は陰で「悪女」や「魔女」と呼ばれていた。特に何をしたというわけでもないのに。そんな思い出も懐かしい。こんな私だから少女マンガの純愛モノの妄想をしても、ある程度仲良くなっちゃうとすぐにベッドシーンに移り変わってしまうのだ。さっきまで一緒に買い物していたのに、突如ホテルに行くことになって気がつくと、ベッドにバタッ!となる。私の脳内は十二分に腐っている。私の妄想は暇なときほど捗る。その分随分と呆けてしまうがこの場において私を咎めるものなど居はしない。ストーリーも終盤に差し掛かり、最終決戦を前に抱き合ってキスをしたところで、バスはサービスエリアに到着し、恐らく三度目の休憩となった。
ふと歯磨きをしていないことを思い出したので、トイレの洗面台で歯磨きをすることにした。鏡に映る自分の姿を見ると、後頭部が抉られたように凹んでいる。私は癖毛持ちである。特に後頭部から襟足は顕著に出ている。いつもは外に緩やかに、そして強かに巻いている私の髪が、今は濡れたようにぺったんこである。一瞬座席に後頭部を置いてきてしまったかと思ったほど。手櫛で撹拌してみるも、素直に直ってくれなかった。ここまで私の髪が負けるのは珍しい。よもや恐ろしい乗り物である。あとは向こうに着いたらするとして、歯磨きを済ませよう。歯ブラシをケースから出した時、ある事実に気付いた。うがいするためのコップがない。蛇口に口を近づけてするか…、しかし二十歳超えた女がサービスエリアのトイレの水道に口付けているという図は、周囲からはどう映るだろう。酔っ払っているのだろうと思うのだろうか。
……………………。
………………………………。
……………………………………………。
迷った末、手で掬うことにした。
三分も磨いている暇はなかったため、二分ほどの間にまんべんなく磨いて終わらせた。そして私は戦いへ戻る。また二時間後にお会いましょう。
「……うわあぁぁ…」
背後から聞こえた呻き声に妄想に浸っていた身体は思わず跳ね上がり、隠れるように顔を半分だけ覗かせ、後部座席を見渡した。車内は薄暗く、空席が目立つ。ただ車内の最後部で、それも私の真後ろの列にいた人が何度も寝返りをうっていた。私もあれから寝られていないので、苦しそうだと同情しながら見ていた。すぐに覗きをやめて、姿勢を戻すと携帯で時間を確認した。最後の休憩からまだ一時間程度しか経っていない。ある意味一時間も経ったとも言えるが、戦いはやっと折り返しを過ぎたばかり。残り時間を考えてはいけない。経過時間だけを考えるんだ。………しかし経過時間を考えると、この六時間私は何をしているのだろうと考えてしまって、かえって辛くなった。本当はこんな筈ではなかった。私の人生は初めから普通ではなかったけれど、それでも十分まともに過ごしてきたつもりだ。私は結構遊んではいたけど、それでも人並み以上に努力はしてきた。運がないのは幼い頃からなんとなく分かっていた。それでもその不運を打ち消す程努力をしてきた。…この短時間で何回「それでも」を使うのだろうか。不運の例を挙げれば、新しい服を着て出掛けた時に限って雨が降るなどの悪天候。また天候の良い日であっても、鳥のふんや、洗車の際に使用していたのであろう、高圧洗浄機をくらったことも。印象的なのといえば、アイスクリームを持った子どもが躓いて、よりによってアイスクリームから私にダイブしてきたことがあったのだ。当然私の服はアイスでベトベト、子どもは泣き出し、周囲の視線を一心に浴び、その子の親は服の代金を弁償すると謝罪した。転んだのはわざとでは無いのだから怒れないし、弁償させればこちらが何か申し訳ないし、何よりも恥ずかしいしで、気持ちだけでとその場は済ませた。そのやりきれない思いはゲームセンターのパンチングマシンにぶつけた。新記録を樹立したのは良い思い出…、いや良い思い出ではないだろうな。
あまりにもここで空虚な時間を送ってしまったがために、自分の存在意義や価値について考えてしまったが、思い出に上手いこと逸れて気を落ち込ませずにすんで良かった。あまり気にしていなかったが、車内が少しだけ蒸している。冷房も効いてはいるようだが、それ以上に身体が慣れすぎてしまったようだ。着替えはキャリーバックに積めてあるけれど、それ自体下のトランクに預けてしまったため、着替えることが出来ない。ジャケットはとっくに脱いではいたが、以後なにもしていなかった。とりあえずブラウスの第2ボタンまで開けて、足元を涼しくしようか。私は静かにウエストを緩めてストッキングを脱ぐ。脱ぎ終わるとふと誰かに視られているような気がした。下着を脱いでいると思ったのだろうか、この暗い車内で幽かな音だけで脱衣していることが分かるとか、それは大層な変態だぞ。まぁ私を視姦しようとはいい度胸だ。少しくらいなら相手してやってもいい。手だけで三千円、口なら五千円、あとは(以下自主規制&自重)。ふと横を見ると誰もいない。なぜか落胆している私がいた。ふと脳裏をよぎった。それはさっき魘されていたあの人。興味本意でまた頭を半分だけ出して覗いた。暗い中目を凝らすとそこにはさっきの人が、こちらをじっと見ていた。
私は即座に戻って状況を整理した。あの人が起きている?何を見ていたんだ?モニター?いやモニターはついていない。フロントガラスから外を見ていたのか?前方を窺うもカーテンで仕切られている。じゃあやっぱり……。
恐る恐るもう一度覗くと、こんどはばっちり目があった。やっぱり私を見ていたんだ。私が面白半分で覗いているから怒ったんだ。次の休憩の時に謝ろう。あぁ、何ていう気持ちだ。胸に何か重たいものが引っ掛かったようだ。次の休憩まで寝よう。
そしてパーキングエリアに到着し、私はバスから出て自販機のエリアへと向かった。そこで買ったお茶を一口飲んで一息つく。
もうね、寝れないんだよ。あの後寝ようとしたけど、身体の節々の痛みの方が前に出てきて、向かってくる睡魔を悉く粉砕するんだ。どうにか寝ようと身体を「く」の字に曲げてみたり、前の席に凭れてみたり、丸くなってみたりしたけど全く寝られなかった。一種のヨガみたいな格好をしていたせいで身体の節々が痛いんだよ。それに二時間おきに休憩があるのは良いようで悪いんだ。やっとの思いで寝そうになっても、休憩の停車や物音で起こされるんだ。着いてからすぐにさっき魘されていた人に謝罪のために会いに行ったが、その人も寝られなくて、仮に寝れても寝苦しく、とても眠れたものではなかったという。さらに女性であることも謝罪の際に知って、目的地のことや仕事のこと、恋愛のことなど語り合った。
バスまで戻ってきたとき、バスを視界に入れた途端に力が抜けた。
このバス。
嗚呼、バス。
この響き、バス。
我々を地獄へと誘う「B」「U」「S」の響き、バス。
どんなに嫌でも乗らなければ着かない。覚悟を決め、私はバスに乗り込むのだ。覚悟を決めなきゃいけないバスって何よ…。
ついに戦いは佳境に差し掛かり、空も夜明け前の綺麗な瑠璃色。長かった戦いにも終わりも見えてきた。モチベーションも多少は戻るが、身体の痛みは増すばかりだ。何せ戦いといっても私は一方的にやられてばかりだからだ。どんな抵抗も無意味。一言物申そうにも声が喉で詰まってしまう。言いたいことが上手く言えないなんて、学生時代の本気の片想い以来だ。尻込みしていたら相手が彼女作っちゃって破れたっけ…。懐かしい、あれ以来まともな恋はしていない。遊んでばっかり。あれくらいの恋はもうできないだろうか。「遊び人」とか「悪女」と呼ばれるくらいだし、望みは薄いだろうな。
さて、二時間後の私がどれ程やられているか、お楽しみに。それではおやすみなさい。
ここは四国…某所のサービスエリア。宿毛まではまだまだだ。現時刻は午前五時過ぎ。最後の休憩から一時間経過した。なぜここで休憩したのかというと、他の乗客の要望である。そのためここで降りたのは例の乗客だけであった。さて空もすっかり明るくなり、窓をこっそり小さく開けると、小鳥の声と朝のひんやりとした風が心地好い。私はというと、お尻の肉がボロボロ取れる夢を見た。確かにお尻は昨日の時点で結構痛かったのだ。そしてお尻に何か違和感を覚え、手を添えると何かが手に乗ったのだ。結構な重量感と生暖かさ。気味が悪くなって手を見るとそこには赤く濡れた物体。裏返すと薄橙色。感触は柔らかく、覚えがある柔らかさであった。もしやと思いもう一度お尻に手を当てるが、右だけ足りない。何かが足りない。その何かとはつまりは肉である。焦った私は左手で左の尻肉に触れた。すると今度はハッキリと「ずるり」と何かが落ちる感触が分かった。そして左手には先程と同じ様な重量感。恐る恐る左手を見ると、ぐずぐずになった私の尻肉が乗っていたのだ……。
あぁ夢で良かった。起きてすぐ尻に弾力があるか確認し、かれこれ二十余年付き合ってきた肉が付いていることが分かるやいなや、胸を撫で下ろした。安堵し過ぎて涙ぐみさえした。私は正直な話、恥ずかしいのではあるが、カラダには割りと自信があり、それが自慢でもある。出るとこは出ていて、引っ込むべきところは引っ込んでいる。さらには同年代の平均より高い身長と、シミの無いきめ細かな美肌。お陰で男女問わず人気はある、特に男性から。しかし女性の中には私に嫉妬する人もいる。それだけの……、言いたくはないが、あえて言わせてもらえば「美貌」の私から尻肉が無くなろうものなら、嘲笑されて、急いでシリコンを詰めなければならない事態になりかねなかった。あぁ本当に夢で良かった。大事な面接の矢先に危うくこの「罪深き美貌」とサヨナラするところだった。
バスは朝の道路をひた走る。車窓から望む昇った朝日に照らされた木々は、まるで待ちわびていたかのように緑色に輝いていた。一方で私はバスでの長時間に及ぶ戦いと、先程の夢のせいでもはや生きる屍と化していた。今の私を倒しても「消えかけのソウル」しか獲られないだろう。だがこんなことになっているのはきっと私だけではないはずだ。何となく感じる。この名称し難い何かに押し潰された車内には、どことなく一体感を感じるのだ。---さぁ、待ちわびた目的地ももう目と鼻の先。思えばよくもまあ半日近くも乗っていられたな。私自身よく頑張ったものだ。あの魘されていた人も。そして何よりも運転手さん方、安全運転で運転してくださってありがとう。今回このバスに乗車した全ての皆様へ、簡単ではあるが労いの言葉を。お疲れ様でした。
するとバスは停車し、アナウンスが響く。
「ただいま、交通事故により渋滞が発生しております。そのため到着は少し遅れる恐れがございます。ご乗車の皆様には大変なご迷惑をお掛けしておりますが、今しばらくお待ち下さい」
……………………。
若干の遅れが生じたものの、運転手の機転で道を変えたため、何とか無事に到着した。駅からギリギリで乗り継いで、乗れそうなタクシーを探して書類に記された集合場所を目指す。目指す基地は一般人立ち入り禁止であるため、可能な限り近づき、そこからはその基地の人に送迎してもらうことになっている。時間も差し迫っている。これが最後のチャンスなのだ。ここまで来て、こんなところで逃すわけにはいかない。その理由が”深夜バス”といのも納得いかない。昨日までの弱気だった私が嘘のように、気力に満ちている。集合時間まで十分を切った。
およそ集合場所に近づいたとき、二人の人影が見えた。リクルートスーツを纏った女性二人。この人たちが私と競い合うのだろう。彼女たちの姿を見て、私は自分の身嗜みを整えていないことに気づく。バスを降りてそのままだから、遠目から見れば違和感は無いが、実際髪はボサボサ、スーツは皺くちゃ、下は生足、挙げ句の果てに素っぴん。ボタンを閉めることは容易に出来たが、それ以外はうまくいかない。今から急いで直したいが、タクシーが到着したため、会計を済ませて降りてしまった。そして直すまもなく彼女たちの奥で待機していた自動車からつり目でおさげの若い女性が降り、「試験に向かう人はこの車に乗ってください」と案内をした。各自の荷物をトランクに積ませてもらい、またしても整える間もなく車に乗り込んだ。五人乗りのありふれた乗用車。運転席には若い男性が、助手席には先程の女性。後部座席にはスーツ三人組。私は左端に座った。何やら前の二人が喋っているなと思うと、つり目おさげの女性がこちらに向いて、
「今更ですが、受験者の確認をします」
と今回の試験に臨む人の確認をした。三人しかいないから正直な話、意味はないようにも思えるが、重要なのは本人確認ではない。”艦娘”であることと、募集の対象であることだ。うっかり紛れ込む人なんて早々いないだろうし、艦娘になるならまだしも、配属先を決めるのだからそこら辺の素人には決して声はかからない。私たちは各々の隊員(艦娘)証明書を提示し、募集の対象であることを証明した。
車に乗って十分ほど経過した。
酔っちゃった、また酔っちゃった。
てっきり平坦な一般道を通って行くのかと思いきや、まさかの山道だった。折角だから景色も見て欲しいという、運転手の計らいらしい。初めのうちだけだった。午前の日差しを鏡のように写す海面や、緑が萌える山々というとても美しい絶景の車窓で喜んでいられたのは。だが山道というのは畝っている。それが一度や二度で済めばいいが、時にはヘアピンカーブの何連続もある。こうもうねうね道ばかりだと、ただでさえまともな休息をとれていない私のリンパは、あれよあれよと狂ってしまう。余計なお世話してくれるよ全く。まだ軽度なのが不幸中の幸い。外は絶景。眺めていれば治るだろうか。
―――五分経過。
飽きちゃった。もう絶景は懲り懲りだ。そしてさらに信じがたい一言が発せられた。
「近道しましょうか」
その言葉のあと、車はそれまでの二車線の道路から逸れ、側道へと入り込んだ。そこは車幅ギリギリ一方通行の山道。まだ午前中だというのに薄暗く淀んでいて、何やらモノノケが現れそうな道である。正直嫌な予感しかしない。それは運転手以外の同乗する全員が感じていた。不安でいっぱいの車内。女四人に男一人という状況で、まさか強姦ということはないだろうけど、いや絶対にさせん。それよりもこの道は本当に近道なのだろうか。助手席の人も何度も同じことを聞いているが、答えは決まって「大丈夫」。信用ならん。
車窓が明るくなり、外を見ると、再び二車線の道路に出たようだ。この何の篇鉄もない道路がこれほど輝いて見えるとは、まさか思いもしなかった。あとは二車線の道路だろう。車内で嘆息が重なった。
――しかし。
あっという間にまた一方通行の山道に突入した。運転手もさっきに比べて明らかに口数が減っている。登っていくにつれて不安感は増すばかり。それを払拭するように運転手は「大丈夫」と呪詛のように繰り返し唱えている。薄暗い山道の先に光が指し、ようやく抜けられるかと思われた。だがその光を抜けるとそこは、片側が崖であった。下は青々とした底の見えない樹海が広がる。なのにガードレールも何もない。相変わらず車幅いっぱいの道で、少しでも右にハンドルを余計に切ろうものなら、崖下に真っ逆さま。私たちは一生見つかることはないだろう。眼下の樹海の彼方には広い道路が伸びていて、あそこへ出るのだろうか。だがこの獣道である。スピードなんて出せない。事実現在徐行の最中である。自転車の方が全然速いほどの徐行である。正直それでも危険なのだ。私は幸い崖側の座席ではないが、その座席に座る女性は固く目を瞑り、胸で手を組んで何かを呟いていた。かわいそうに、私は高い所も平気だから、代わってあげても構わないのだが…。
ガタン、という大きな音とともに、一瞬車体が傾いた。同時に手を組んでいた女性が甲高い叫び声をあげ、頭を抱えて涙を流し始めた。どうやら脱輪したようである。私も驚きはしたが、泣くほどには及ばなかった。さすがに前の二人も焦っているのが分かった。それもそうだろう。一般道における脱輪ならまだしも、この崖っぷちでだ。それは何を意味するのか、お分かりであろう。私たちは危うく本日の高知県のワイドショーのトップを飾るところだったのだ。
それでも尚走り続けることたった数分。気がつくと車が一定のリズムで揺れていた。モーターの震動にしては遅すぎるこの揺れ。車が好きな曲に合わせてビートを刻んでいるのだろうか、などと馬鹿なことを考えていると、やはり前の二人も気づいたようで、少し広くなった道で停車して、つり目おさげの女性が降りて様子を伺いにいった。
「――あ゛っ」
という声が朗報ではないことは明確だった。運転手の問いかけに彼女は答える。
「右後輪がパンクしてるよ」
車内全員が声を出さず、同じ表情を浮かべていた。それは、”絶望的”。
すぐさま車を出来るだけ左側に寄せ、タイヤ交換が始まった。受験者全員車から降り、それぞれの荷物も一度降ろして路肩に待機している。免許を持っている私は手伝おうとしたものの、つり目おさげの女性が「コイツの責任なので、私たちで片付けます。ゆっくり休んでいてください」と、気遣いとともにやんわりと拒否された。そんな私は崖からこの絶景を眺望している。
……………………………………。
確かに絶景。呼吸を忘れるほどの。ただこの呼吸を忘れるのは何か別な意味でもあるのかもしれない。おそるおそる淵まで足を伸ばし、そっと崖下を覗く。
私の体重で崩れた砂利が、小さな音を立てて勢いよく底へ吸い込まれていった。あぁ、確かにこれは怖くもなるな。もうこれ以上は足がすくんで動けない。もし自分が落ちたらどのように復帰するかという空想をしたら、どれも結果は同じだった。今になってあの時タイヤだけが犠牲になって良かったと確信した。これは泣きたくもなる。
「――うわっ!あっぶな!」
「急ぐのも分かるけど、焦ってそれ折ったら元も子もないからね!」
つり目おさげの女性の大声が気になったので、作業中の彼らを窺うと、どうやらジャッキアップに手間取っていた。ハンドルが固くなっていたようで、力を入れすぎたあまりに滑ってしまったらしい。焦るのも分かるが、お願いだから落ち着いてほしい。女性の言うとおり、それさえも壊れれば私たちはおしまいなのだから。
一呼吸おいて冷静さを取り戻した彼は、ジャッキアップを完了させた。そこからは迅速で、手順を素早く無駄なくこなし、あっという間に交換をしてみせた。つい称賛の声を漏らすと、つり目おさげの女性も、
「へぇ、やるじゃん。やっぱ工厰担当は違うね」
と感心しながら微笑んでいた。
なるほど、彼は工厰の作業員だったのか。この手の道具の扱いに長けていたのにも頷ける。今初めて彼の存在に感謝した。……というか、彼が近道するとか戯言を抜かさなければ、パンクもしなかった。
「修理、完了!」
と彼は最後に指差し呼称をして私たち全員で確認し、再び荷物を詰め、車に乗り込んで出発する。
もう何なのだろうか、この仕打ちは。私は何か悪いことでもしたのだろうか。どうして四国にいくと決まってからというもの、こうも良くないことが起きるのだろう。そういう思い込みなのかも知れないが、このアクシデントのミルフィーユをたらふく食ったせいで、心なしか四国が”地獄”に空耳するのだ。このまま試験に行ってもまた何かしらアクシデントが起きて、落ちるだけだろう。それならいっそ退役願をそのまま提出した方が早いし清々しい。私のモチベーションは遥か深淵へと沈み行く。
気分は黄泉比良坂を行くこと数分。二車線の道路にようやく出た。対向車の存在に気付くと、車内の雰囲気がやっと軽くなった。よもやここは既にあの世で、私たちはさっきの場所で死んでいたというわけでもないようなので、無事に獣道を抜けられたようだ。
「――予定より一分くらい早い…」
という運転手の呟きが聞こえ、
「近道成功!」
とガッツポーズをした。しかし近道に関して喜んでいるのは彼だけで、他の全員は、同じことを思っていただろう。そしてそれはつり目おさげの女性が代弁する。
「いや、お前が近道しなければ、もっと早く着いたでしょ」
「でもあのまま正規のルートで行って、パンクしようものならアウトだったぞ?」
「正規ルート行ってればパンクもしないでしょ」
あっさり論破され、彼女の反論に拍手をしてしまいそうになった。
気が付くと高速道路でもないのに、料金所の様なところに着いた。奥には大きな建物が二棟見えた。運転手がそこの職員と何やら喋っている。内容は聞こえないが、僅かな会話でまた動き出したため、大した会話ではなかったのだろう。車が発車してすぐ、助手席の女性がこちらに顔を向けた。
「ここからは基地の敷地内です。敷地内に入るにはこちらの許可証が必要です」
彼女の手にはラミネートされた免許証サイズの紙があった。それにはただ単に”入場許可証”としか書かれていなかった。
「この証明書には偽造防止のために、コピーしたら縁の模様が消えるように加工してあります。あと背景に偽造という文字が浮かび上がるようになっています」
なんという技術だろうか。まるでパスポートばりのセキュリティである。尤も仮にも国家機密の塊であるから、これぐらいは当然であろう。
門を超えると周囲に青々とした鮮やかな芝生が広がる。その先に先ほど見えた建物があった。手前の建物の玄関に車を停め、ドアが開けられる。
「では中にお入りください。――――靴は空いているロッカーに入れ、スリッパに履き替えてください。―――――入ってすぐ左手がロビーです。そこで―――――しばらくお待ち下さい」
自分の荷物を受け取りながら、説明を聞いていたため、若干おぼろげになってしまった。取り敢えず先の二人に着いていけば間違いはないだろう。スリッパに履き替え、靴を空いていた適当なロッカーにいれ、ロビーへ向かう。戸を開けてロビーに入ると、冷風が雪崩れ込んできた。身体にまとわりついていたじめじめした暑さが一気に払拭されるのが分かる。クーラーを効かせてくれていたらしい。これはありがたい。中は多くのテーブルと椅子が並んでいた。ロビーというより食堂であった。部屋の片隅には大きなテレビと高級感を醸し出すテーブルとソファーがあった。あそこに座ってもいいのだろうか。柔らかい椅子に座りたいという欲が私を迷わせた。この背もたれもクッションも無い丸椅子より、向こうに座りたい。足は自然とそこへ向かっていた。図々しくもソファーに遠慮無く腰掛けた私は、自然と大きなため息を吐く。眼前のテーブルには吸殻が残ったままの灰皿と、テレビのリモコンがあった。凄まじい生活臭をたたせている。きっとここの司令官と二十歳を越えた艦娘が、ここで毎日テレビを視ながら一服しているのだろう。その姿を思い浮かべると少しおもしろかった。テレビの下へ目を落とすと、台の中の数枚のディスクを発見した。ソファーから離れ、それらを手にとってみると、昨年公開されたアニメーション映画と、同じ監督の過去作品であった。こういった娯楽が堂々と置かれているということは、ここの雰囲気はとても明るく和気藹々としているのだろう。そして司令官の雰囲気も良さそうだ。近年巷では艦娘はどこの企業よりもブラックと囁かれていたが、ここは稀にみるホワイトなのだろうか。数分前に比べてだいぶモチベーションが上がってきた、というより急上昇した。ここなら今までの灰色艦娘ライフから脱却できそうだ。何としても面接を成功させてここに配属になろう。
「お待たせしました。準備が整いましたのでご案内します」
どうやら時は来たようだ。運命を決める戦いへ、いざ参る。
何か忘れているような気がした。それが何かを考え、廊下をただ黙々と着いていきながら、窓の外に目をやる。整理された中庭だ。木や花が植えられていて、中心部には東屋があり、思わずそこにいないのに和んでしまうほど心安らぐ中庭だ。ここの艦娘たちにとっての憩いの場所なのだろう。私も配属になればここにも入れる。そのためにも頑張らねば。
日陰に入り、それまでの自然的で柔らかく暖かな明かりから、人工的で無機質な明かりへと変わる。窓に薄く映った自分の姿を見て、今まで何を忘れていたのかが、目の前に映し出されていたのだ。
身嗜みを整えてない‼
焦る私など知ったことかと、私たちは会議室の前で停止した。取り敢えず出来ることはやるしかない。
「…あの、お手洗いはどちらに」
苦肉の策、トイレで時間稼ぎ。
許可は無事得ることができ、幸い道は今来た道を戻れば着く。うまく職員から離れることができるだろう。早足で向かう途中、上着も皺だらけなのを思い出した。とはいっても全て替える暇はない。スカートだけでも替えよう。幸いジャケットは目立つほどついていないし、現場では畳むことになるだろうから、放っておいても大丈夫だろう。トイレを通りすぎ、荷物まで戻って代わりのスカートを取り出す。しかしどこで着替えたものか。刻一刻と時間は迫る。そもそも私のせいで待たせている。やむを得ん、用は足さないがトイレまで戻って履き替えるしかない。もしかしたら、誰かが入ってくる可能性を危惧し、個室で迅速に着替えた。最後に髪を手櫛で整え、ブラウスの皺を多少伸ばし、自分自身を見回して不備がないかを確認する。足がさっきより涼しいと思ったら、スカートの丈がさっきよりも短いものを履いていたようだ。以前裾を飛び出た釘に引っ掛けて破けたことがあり、その破けたとこに合わせて裾を切った。さらに裾あげもしたため膝上十センチ以上はいっている。私服なら当たり前の丈だが、仮にも面接でこの丈はまずい。よりにもよってこのスカートを持ってきてしまうとは…。捨てるつもりで置いておいたらそのまま忘れていたのだろう。気付かず持ってきた私はバカだ。自業自得のお陰で私は今コンパニオンのようになっているのだから。しかもさっきストッキングを履こうとしたら焦りのあまり伝線させてやぶけてしまった。しかもちょうどスカートの裾から丸見えのあたり。仕方なくもう一度脱いで生足に戻した。履いていないのは遠目からなら分からないが、近くでは案外気付かれてしまうかもしれない。どうかここの司令官が変態かつ視力があんまりよくありませんように。
先ほどの会議室に到着し、私が着いたことと、受験者が揃っていることを確認し、先頭の一人がドアを三回叩く。
「………」
お取り込み中かな。もう一度。
「…………………」
んー、何かあったのだろうか。もう一度。
「………………………………」
引率の女性に言葉無く、疑問の視線を浴びせると、笑顔で会釈を返してきた。その顔には変な汗を浮かべていた。そして携帯端末を取りだして、鬼の形相で素早く画面を操作した。どうやら連絡を取っているようだ。しばらくかかるように思えたが、それは杞憂で、女性の鬼面はすぐに解け、嘆息を小さく吐いた。気を取り直してもう一度ノックをすると、今度はちゃんと返事があった。声から察するに若い男性のようだ。先頭から順に、失礼しますと一礼し入室していく。その一語一句が聴こえるごとに私の心音は大きくなる。二番手もすぐに入っていき、あっという間に私の番。深呼吸を一つ。……いざ参る。
「失礼致します」
噛まずに言えた。取り敢えず胸を撫で下ろして、室内を見た。正面に並べられた三つの椅子。その奥には長机に私たちの履歴書を眺める、士官服を着た男性と、長い黒髪を頭の横で束ね、潔白さを顕すかのような白い羽織姿の若い女性がいた。男性がここの司令官で、隣の人はおそらく艦娘で秘書であろう。どの艦を背負っているのかまでは分からないが、タブレットを器用に操作しているその姿は、『デキる女』を思わせる。司令官の彼はどこか見覚えのある顔で、どこかで会っただろうかと考える半分、似た人はどこにでもいると割り切っていた。私たちは彼らの前に並べられた椅子の前に立ち、左端の人がこちらを窺うようにちらちらと視ていた。言いたいことは察しがつく。しかし「せーの」と言えない手前、意外と難しい。私たちが迷っていると、秘書さんが腕をくんで、下側の手で支えている肘を指でとんとんと叩いている。その焦らされている表情には、思わずこちらも忙しくならざるをえなかった。その直後、間の一人が口火をきり、
「よろしくお願いいたします」
と多少前後してしまったものの、言い切り無事この場はやり過ごした。司令官が言い終えた私たちを一通り眺め(性的ではなく履歴書の写真と照らし合わせていた)、一つ頷いたあと、
「自己紹介は後程…ということで、ではお掛けください」
と聞いて、失礼いたしますと一言言って椅子に腰掛けた、その瞬間、下から小さく「こきん」という音が鳴り、私は勢いよく尻から落ちて尻餅をついた。同時に鳴った「がじゃん」という椅子が放られる音で、この場にいる全員の視線が私に集結する。訳が分からず呆けた私を見た司令官が少し身を乗り出して、私を見て何かに気が付いた秘書さんが彼の頬を叩いた。横の二人のうち、手前は目を丸くして固まっているし、奥は反対側を向いて肩を震わせていた。未だに状況を飲み込めない私に、司令官を叩いた秘書さんは言った。
「とりあえず、脚を閉じなさい」
言われて見てみれば、私は尻餅をついた拍子に、膝を立てたままであった、今の私の姿勢を分かりやすく言うならば、M字開脚に近しい。八の字に開いてしまっていた。諸々のことを一気に理解した私は、すぐさま脚を閉じて倒し、スカートの裾を引いて押さえる。顔が一気に熱くなるのが分かった。鼓動も秒針を追い越し、周囲がゆっくりに見えた。まさかここに来てクロックアップを習得するとは…、とか言っている場合ではない。幸いにもタイトスカートであったため、ずり落ちることはなかったが、丈が短かったたのと、司令官が私を見下ろせる位置にいたことがあり、もしかしたら見られたかもしれない。…いや、多分見られた。でなければあんな反応はしなかろう。そのあと頬に紅葉を作った司令官が新たな椅子を持ってきて、秘書さん自ら座って確認して、私の元に持ってきてくれた。
「ごめんなさいね。こちらの確認不足だったわ」
突然謝られたため、そんなことはないとこちらも謝罪した。彼女は去り際に、
「わ、私のところからは、あんまり見えてないわ」
と、余計に不安にさせることを吐き捨てていった。
もう一度椅子に腰掛け、呼吸を整えようとするが、心臓を未だ吐きそうなまま、面接は始まる。左から自分の名前と配属、艦娘歴(隊員になってからの年数)を訊かれ、私の番となる。
え、はじめの人まだ正規になって一年目。一番緊張する頃だ。懐かしい、私にもその頃は当然あって、あの時はまだ厄も薄かったっけ。二人めは三年目か、ちょうどいいくらいにキャリアを積んできたとみえる。ちなみに私はもう五年目に突入しましたが、何か。それでいて特に何も成果を残せていない、基地の穀潰しですが、何か。
それぞれの名前と配属歴を語り、次の質問へと移行した。
「…では、皆さんの艦娘になッた動機を教えてください。ではあなたから」
はい、と言い彼は手を向けた。私に。
「は?」
と無意識に漏れてしまった。どうせまた左からだろうと油断して、全くの無防備であったため、質問の答えが用意できていない。思い出せ、答えは予め紙に書いておいた筈だ。落ち着け、深呼吸して。ひーひーふー。これは出産だぁぁぁっ!
「あの、どうされました。動機を教えてください?」
「は、はい!あ、あの…その…」
「大丈夫ですか?呼吸が乱れているようですが」
待たせてしまっている時点で減点は確実。さらに言葉も詰まっているから尚更。と自分の持ち点は今何点なのか考えているせいで脈動が爆震し続けている。お陰で呼吸は乱れ、変な汗が吹き出し、シャツが肌に張り付いて気持ち悪かった。
「す、すみません。動悸がおかしくって。ははは」
司令官は首をかしげ、秘書さんは失笑した。なぜ笑っているのか疑問である。私は何故か苦し紛れに自分のことを言っただけ。すると司令官も気になったのか、彼女に尋ねていた。しかし教えてもらえなかったらしく、押し退けられ、彼女は依然くすくすと肩を震わせる。ここで司令官は合点いった顔をし、悩ましい表情を浮かべ、
「あの、動機というのは身体に関する『動悸』ではなくてですね」
と言った瞬間、私もやっと分かった。私はなんて馬鹿馬鹿しいことを言ってしまったんだ。それも面接の場で。この場にいる私以外、全員笑っている(本当に笑っているのは一人だけで、あとは苦笑い)。
「す、すみません!そんなつもりはなくて。動機ですよね。え、えー…と」
「あー、先にお二人に聞きましょうか。あなたはまず落ち着いてください」
その言葉を言われた時、私は目の前が真っ白になった。私はただ、はい、と言うだけで、それは私がこの場に来て最も落ち着いた声で発されたものだった。
面接は終わり。ここはロビーの一角。私は窓から束の間の平和な水平線を眺めていた。あの後、心は落ち着いた、諦めという意味で。もう記憶もほとんど残っていないが、ただ散々だったことは覚えている。定型文を淡々と口にしていた、その口の動きの感触の余韻が幽かに残っていた。質問があるかと訊かれたときも、私だけが挙手をしなかった。
もう終わりだな。この先どうしよう。仕事も住む場所も探さないと。あーめんどくさい。もう、今すぐ敵がここに大群連れて攻め込んできて、この場を滅茶苦茶にして、ついでに私も殺してくれないかな。
不運なことにはなれたつもりだった。小さなことから大きなことまで。それは私が幼い頃からずっと続いてきたことだったから、これとどうにか折り合いをつけつつうまくやっていくしかない。そうやって今まで生きてきて、艦娘になって、大人になった。艦娘になってからも良いことなくて、行く先々私がいるだけで「良くないことが起きる」とか「妖怪厄女」とか言われてクビにされ、最後の頼みの綱さえも………。いや、私は今までもこうやって、嫌なことがある度にこうして「不運」のせいにして逃げてきた。今回のは不運は関係ない。新幹線の運休やバスの遅れとパンクは仕方ないが、今回のは間違いなく関係ない。こんなのは自分の落ち度だ。スーツも、面接の受け答えだってちゃんと出来た筈なのだ。それを放心状態になったままで、立て直そうともせずに諦めたのは私の覚悟の甘さだ。だから今日のことはちゃんと受け止めねばならない。これから先も生きていくのだから、同様の困難が待ち受けている。ならば同じ過ちを繰り返さないように、胸に刻んでおこう。もう後悔はやめだ。とりあえず次の仕事はどうするかを考えねば。艦娘を辞めれば収入どころか住む場所も失う。どうにか次の宛が見つかるまでいさせてもらえるように頼まないと。鳳翔さんのお店なら、人手不足だと言っていたしいいかもしれない。だけどあまり迷惑をかけたくないな。
――あー仕事辞めるとやること多いなぁ。仕事って続けるのは当然面倒だけど、辞めてからも面倒なことばっかり。どっちにしても面倒ならやっぱり…。
外にちらりと見えるこの基地の小型船舶が、波に揺さぶられていた。
「お待たせしました。本日の採用試験の合格者を発表します」
タブレットを持った秘書さんの言葉で、この場は静寂と共にはりつめる。面接が終わってから三十分。長いようで短かった待ち時間が、今ではほんの少しだけ名残惜しく思えた。
「合格者は三番の、………あなたです」
周囲の視線が私に集まる。私は彼女らを見渡した。その決して祝賀だけでなく、別な感情も混じった視線を浴びたことで、私は状況を飲み込んだ。思わず立ち上がって、手を顔に当てて涙を溢す。……のではなく、ただ唖然としていた。
「三番のあなたよ。おめでとう。さっきの部屋で提督が待ってるわ」
そう言った彼女も、他の二人も揃って同じ顔をしている。「納得いかない。どうしてコイツが」と言葉なく言っている。その証拠にこの空間に一度たりとも、手を叩く音がなっていないのだから。――そこは納得いかなくても叩くでしょ、普通さ。社会人として恥ずかしくないの?――と些か憤りを覚えた。胸に突き刺さるそれを受けながら、さっきの会議室へと向かう足は無意識に早くなる。それと同時にこの食堂の出口が、どんなに進んでも遠退いているように感じた。始めに私が陣取った位置が元々遠かったからか、それともこの空間の空気がそうさせているだろうか。出来れば前者であることを願っている。そしてやっとの思いで出口にたどり着き、戸に手をおいた時、どうしても気になる背後の形のない痛みにそっと横目で振り返る。すると背後から降り注ぐ矢の雨が槍に変化し、痛みがより一層強まった。さきほどの行動をひどく後悔しながら、脱兎のごとく部屋から去った。
息の詰まるような食堂から脱し、面接が始まる前に眺めた中庭を、今度は別な位置から眺めていた。日が射す向きが変わって、前とはほんの少し違った表情を見せている。また、場所も変えたお陰か、さっきの廊下からは茂みの陰になって見えなかった、色とりどりの花が覗いていた。まさかまたこの中庭を眺められるとは、正直絶対落ちたと思っていたから本当に驚いた。しかしこれではあのハプニングありきで受かったみたいで、どうも複雑だ。パンツ見せて合格したなんて、あんまりにも馬鹿すぎる。こんなこと誰にも言えないよ。そういう職業でもないのに。
「会議室はそっちではないわ」
唐突な声に振り向くと、そこには秘書さんが立っていた。落ち着いてから改めて彼女の全身を見ると、私と同じくらい身長が高く、服の上からでもハッキリと分かるほどの大きい胸囲と腰の括れ、そして最も目を引いたのは、(スカート風の)袴の短さと、絶対領域をありありと見せつける黒ニーソックス。短すぎるだろこの丈は!今の私のやつと同等かそれ以上だ。面接の時は机で隠れて見えなかったが、こんな格好で男性のとなりに座っていたと考えると、この女…ヤりおる。そして柔らかそうな太ももまで見せつけるとは、完全に狙っているな。
「なにをジロジロと視てるの?」
という声に私は即座に目をそらした。どうやら私が退室してから、残りの二人に帰ってもらうまで一悶着あったようで、その顔にはすっかり疲労の色が出ていた。せっかくの美人が台無しである。彼女は一つ、大きな嘆息を吐いた。
「…良かったわね。首の皮一枚繋がって。提督の悪趣味に感謝しなさい」
「悪趣味」のところだけ無駄にハッキリと、皮肉を漏らすと踵を返して足を進めた。
彼女の話では私の合格は実力ではないようで、あのハプニングのお陰らしい。やはり素直に喜べない。ある意味では運に恵まれたのだろうが、嬉しさと情けなさが競合していた。
会議室に到着し、入ると一人で机の整列をしている司令官がいた。
「あ!来ましたね」
元の配置に戻された机、彼は一度背伸びをして私のもとへと歩み寄り、大きな封筒を手渡した。
「この中に手続きの紙とその説明書、その他諸々書類が入ッているので、今日中に記入して提出してください。分からないことがあれば、気軽に尋ねてくださいね」
返事を返したが、正直このことに関しては分からないことなどない。これまで散々書いてきたのだから、多分彼らよりもこれの書き方は知っている自負がある。なんなら書き方セミナーの講師なってもいいくらいだ。…なんて、誇れることではないけれど。
ふと時計を見ると十一時を回っていた。すると彼がそうだと手を叩き、
「折角ですし、少し早いですがお昼でも食べに行きましょう。ここのご飯は他のとこに負けないくらい美味しいですよ」
と彼が提案すると、秘書の彼女も、
「そうね、それがいいわ。勿論提督の奢りで」
と企むような笑みを浮かべ、それに彼は少したじろいだが、咳払いを一つして、
「ま、まぁいいでしょう。合格祝いも兼ねて、俺が出しますよ」
決して嬉しい表情ではない。私は思わず、
「申し訳ないので私も出しますよ」
と進言すると、大丈夫よと彼女は言った。
「彼は提督だもの。私達よりは貰っているだろうし、お金だけあっても特にやることもなく、もて余しているから。なのに全然奢ったりお出かけとかないんだもの。ケチくさいわよね。こういう時こそ使い時よ」
と毒づいた。それが彼の癪に触ったのか、
「散々奢ッてるじゃないですか。月々の俺の食費よりもそッちの方が多いくらいなのに。もう加賀さんは連れていきません。じゃあ二人で行きましょう」
と拗ねて、私の手を引いた。すぐに彼女は彼の腕を掴んで引き止め、
「…なーんて、冗談よ。いつもありがとう」
と微笑んだ。結局三人で食べに行くこととなって、この場は収まった。
部屋を出て、私にとって本日三度目の廊下。私の前に司令官と加賀さん(司令官がそう呼んでいた)が並んで歩いていた。二人とも私に聞こえる程度の声量で喋っていた。
「……とまぁそういう感じで、結構強かッたですよ」
「そう、今度私も相手してみたいものね」
聞こえるといっても、全て聞き取れる訳ではなく、まばらであった。特に興味はないが、内容からして戦闘と感想だろうか。最近日本の南方では敵の発生率が高まっているらしく、戦力の増強を急いでいるらしいし、だからこそ今日戦艦の採用試験があったのだろう。
「…そんなに強いんですか?」
と遠慮がちに尋ねると、二人とも振り向いて答えてくれた。
「はい。中々の腕なんですよ」
「えぇ、特に地上から空中へのコンボがね」
最近敵も強くなっているとは聞くが、まさか空中を飛行できるタイプも出てきているとは。
「もう嵌められたら最後……ですよね」
「そうね、緑色のゲージが瞬く間に真っ赤だもの」
ゲージが真っ赤?どういうことだろうか。
「あの、先ほどから何の話を?」
「ゲームですよ?」
「お仕事の方ではなくてですか?」
「はい。ゲームです。」
仕事の話かと思いきや、まさかの遊びの話。呆気にとられ、少し歩みが遅れた私に加賀さんは横目で、
「何か言いたいことでもあるの?」
と静かに高圧的に言われてしまい、彼女の冷ややかな視線に背筋が冷え、
「い、いえ、何でもないです。ごめんなさい」
と何故か謝罪してしまった。ん?どうして私が謝らなきゃならないの?なんか納得いかない。
ちょっと、と彼が口を挟んだ。
「別に責めるようなことでないですよ。俺らが遊んでる方がおかしいんですから」
とフォローをいれてくれた。というか、分かっていて言ったのか。この人たちの前では真面目にいる方がおかしいのだろうか。
玄関まで来ると、「そうだ」と言って彼は足を止め、こっちに向いた。
「服、そのままで大丈夫ですか?」
気にしていなかったが、一応確認する。このままご飯を食べても特に問題は無さそうだが……。もしかして…!
「え?見えてませんよ?確かに短いとは思いますけど」
見えてるんじゃないかとスカートの裾を引き下げて押さえたが、杞憂であったらしい。安心するのも束の間、また加賀さんの冷徹な視線が刺さる。
「何?あなた提督のこと、常に女の太ももを舐め回すように眺める変態だとでも思ってるの?」
と今度はさっきの行動を批判された。私は俯き、
「すみません。思ってました」
と正直に述べると、彼は鳩が豆鉄砲くらったような顔をしていた。彼は加賀さんのお叱りを期待するように見つめた。加賀さんは、
「その通りだけど」
とまさかの裏切りをしてみせ、
「何でよ!そこは違うッて言うとこでしょ!」
彼は突っ込んでいた。突っ込まれた途端、彼女の顔は楽しそうな表情へと変貌した。
「だって事実でしょう。日に百回以上は胸や脚を視てるじゃない。バレてないとか思ってるのかも知れないけど、バレバレだからね。今日に至ってはすでに百回オーバーしてるわよ」
「し、知りませんねぇ。なんのことだか。俺は目視で健康状態を見ているだけですよぉ~」
明後日を見ながら口笛をすかしている。図星だ。
「へぇ。あなたは見るだけで私達の健康状態が分かるというの?一体何を見て判断しているのかしら」
「た、体温とか?」
「ふーん。あなたの眼球にはサーモグラフィーが内臓されてるの?」
「え、えぇ勿論。もう一目で分かりますよ。一目で」
「目に写るもの全てが、青や緑、オレンジや赤色なの?あなたは随分と可哀想な世界で生きているのね」
「…ごめんなさい。まじまじと視ていました」
彼が根負けしたところで、このように、と加賀さんが話の矛先を私へ向けた。
「提督は超弩級の変態だから、あなたを視姦したことは私も謝るから、許してあげて」
「…すみませんでした」
と彼女に続いて彼も頭を下げた。謙遜して返したが、それにしても彼は加賀さんに翻弄されていて、見ていて楽しい。からかわれている男性を見ていると、学生時代に私も、似たようなことを男子にしていたことを思い出した。
その後彼がどういうヘンタイなのか考えながら例のお店へと向かう。基地から出ると、昇った太陽の日差しが私をジリジリと焼く。朝方は気持ちよかったが、季節はもうすぐ夏を迎えるのもあり、日中の日差しは厳しさが顕著になりつつあった。てっきりこの基地の食堂で食べるものだとばかり思っていたので、外に出る準備をしていない。移動距離次第で少し日焼けしそうだが、我慢しよう。
岸壁に打ち寄せる波の音を聞きながら歩いていた。この広大な敷地内には大きな四つの建造物があり、その中で基地は二つあり、間に挟まれてドックであろう建物がある。基地自体は綺麗な寮のような印象を受ける建物だが、ドックは灰色でとても頑丈そうな無骨な建物だった。二つ目の基地を越え、その後方には運動場が広がっており、動きやすい服に着替えた艦娘たちが各々に体を動かしていた。トラックを走る者、バレーボールを楽しむグループ、何やらダンスをしている者も、片隅の日陰では寝転んでいる人もいた。そこから聞こえる声は、疲労に満ちた悲壮感漂うものではなく、楽しそうにはしゃぐ黄色いものであった。この敷地の端まで来ると、建造物が二つ。手前にあるのはこの泊地の酒保らしい。その外観は見覚えのあるコンビニエンスストアで、店内には数人の少女がいて、商品を物色したり、立ち読みをしたりしていた。まさかご飯を食べるというのは、この酒保で買うというのだろうか。正直なところ、酒保のご飯は特別美味しいわけではない。お店の外観通りの、街で妥協すれば食べられる味だ。とはいえ懐に優しいのは確かだ。コンビニ飯程度ならという彼の物差しだろう。
しかし彼らの足は店の前では止まること無く、隣の建物の前で止まった。ついに敷地の端まで来たようで、ゲートやフェンスが先に見える。最後の一つは例の食堂で、ここの食事の提供と、食材の発注と備蓄を担っているらしく、これも中々な大きさであった……、かと思いきやそうでもなく、木造の古き良き大衆食堂という外観で、端から見れば基地設置にあたり、立ち退いてくれず、取り壊せもしなかった一般民家のようでもあった。
「着きました。ここです」
と彼が立ち止まる。
その懐古さを漂わすお店の暖簾には大きく、”間宮”の文字。そして戸に掛けられた”商い中”の札。さらに軒先に下げられた灯りのない赤提灯。
「時間もちょうどいいくらいですね。ね、加賀さん」
加賀さんは左手の腕時計で時刻を確認した。女性用の細く小さな時計だが、私の所有する時計とは風格が違った。きっといいお値段の時計なのだろう。稼いでいる証拠でもある。ブランドものの時計を付けているだけでこうもオーラが違うとは。私もブランドものをつけられるようにならば変わるだろうか。
「何?何か気になるの?」
と視線に気付いた彼女が私を窺う。
「い、いえ。その時計。高そうだなー…と」
恐る恐る尋ねると、
「それほど高くはないわ。そうね、目安としては一年目の年収でギリ買えるわ」
絶句した。金額よりもそれを涼しい顔で淡々と言う彼女の、豪胆さに。そして隣の彼もあんぐりしていた。
しばらくの沈黙。日に当てられた私達は少し汗ばんでいた。そこへ加賀さんの「入らない?」という一声で、私達はやっと活動を再開し、いよいよ入店となる。彼が引き戸を開けると、ドアレールのがらがらという懐かしい音がなり、そのあと、
「いらっしゃいませ」
と透き通るように綺麗な女声が店内に響く。奥の厨房から出てきたのは、綺麗な黒く長い髪を後ろで束ね、割烹着を着た女性。大人しそうで可愛らしい人とという印象を受ける。そして彼女も私の知人にそっくりであった。その知人というのは私が所属していた基地にあった、居酒屋の店主鳳翔さんで、彼女は鳳翔さんから大人っぽさを可愛らしさに変換したようであった。まるで姉妹のようで、よく似合う割烹着の襟元からは朱色の和服が覗いていた。
「空いています。お好きなお席へどうぞ」
と微笑みながら案内された。彼と加賀さんはしばらく店内を見渡し、席をどこにするか悩んでいるようだ。二人であっちこっちと言っていうちに、二人の視線がこちらに向いた。
「お好きな席へ…どうぞ」
と困惑の色を浮かべた表情で、私に選択が委託された。言われてから店内を見渡すと、まだ開店して間もないからか、二人・四人掛けテーブル席と小上がりの座敷も、全てが空席であった。座敷に座るのもいいが、私は敢えて窓側の四人掛けを選んだ。日向じゃないし、外の様子も眺められ、会話が詰まった時もそれから話題を拾えるからだ。席は窓側に私と加賀さんが向かい合って座り、加賀さんの隣に彼が座った。間も無く先ほどの店員さん(朱色の和服の女性)が、おしぼりと氷水の入ったグラスを三つずつ持ってきて、しなやかであり落ち着いた手つきで、それぞれを私たちの前に置く。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
ぺこりと頭を下げて、彼女は踵を返して厨房へと戻っていった。その流れるような所作に、つい私は、
「一般の方も勤めているんですね。珍しい」
と声が漏れてしまった。実際ここに限らず、全ての基地は、関係のない民間人の立ち入りを固く禁じている。それなのに民間人がいるということは、何らかのやむを得ない理由があってのことだろう。
「彼女も艦娘よ。私たちと同じ艦隊のね」
加賀さんは私の予想を涼しい顔と言葉であっさりと打ち砕いた。その傍らで彼は立ち上がって何処かへ向かう。私は加賀さんに出来る限りよって、彼や厨房から出てきた店員さんに聞こえないように囁きかける。
「え、あの人艦娘なんですか?どうしてこんなところで」
「彼女がしたいからでしょ。彼女に限った話ではないわ。他にも二三人いるみたいよ」
加賀さんは店員さんに目を向けながら頬杖をついた。そして声のトーンを落とすことなく、依然として涼しげに語った。
「むしろ当然ともいえるわよ。私たちはこのお店にとてもお世話になってるし、社会を知らずにこの仕事に就いた娘たちにとっての、社会勉強の場にもなるしね」
「……そういうものなんですね」
私は何となく府に落ち、囁きをやめ、元の姿勢に戻る。
「……まぁ、彼女だけは他に理由があるのだけど……」
と加賀さんが最後の最後に気になる置き土産を落としていく。それについ食いついてしまい、私は自然と大きな声で反応してしまう。
「何ですか⁉聞きたいです!」
「ちょっ!…声大きい」
加賀さんは私の声に反応して、一瞬頬と手が離れた。そして聞こえはしなかったが、彼女が舌打ちをしたことが口の動きから分かる。
「遡ること一ヶ月ほど前。私たちはある海域の敵の殲滅を命じられていて……」
突如語り始めた。相変わらず淡々とした口調ではあるが、先程よりは少し熱を帯びているように感じた。――話すのが好きなのだろうか…。
「――しかしここの艦隊は結成して日の浅い、それに戦力も比例して少ない。戦闘経験のある者はほとんどいなかった。しかし、上に『戦力が心許ないので、できません』と言って通じるわけがない。――」
加賀さんの語りはさらに熱を増す。一方で私はもう飽きてきていた。要点だけをかいつまんでくれればいいのにと、水をちびちびと飲みながら、彼の行動を眺めていた。
彼はあの朱色の女性と喋っていた。内容までは聴こえないが、彼は微笑を含んだ口調で語り、女性は表情を崩すことなく相槌と返答をしていた。楽しく歓談しているようで、社交辞令程度の会話にも見える。それは彼女の表情があまりにも変わらないからだろうか。あの微笑みは私たちが来店した際に見せた、所謂”営業スマイル”とそっくりだ。感情を含んでいるようで、その実無感情。彼との会話など面倒くさい単なる作業と同レベルなのだろうか……。などと勝手に想像を意味なく膨らませていた。しかしあの”話し手の機嫌を害わせない表情”と”話を親身に聴いてくれていると感じさせる絶妙な相槌”には感服させられた。私も見習わなければ。
「……聞いてるの?」
という加賀さんの声とともに、袖を引かれて我に帰った。
「それでどこまでいきましたっけ?戦力が足りないとか」
と尋ねると、加賀さんは大きなため息を吐いて、
「もういいわ」
と水を飲んだ。どこか寂しそうな切ない表情を浮かべて。
それっきり加賀さんは語らなくなってしまった。どうにか謝罪して話の続きを望むが(本当は望んでいない)、彼女は背凭れに身を預けたまま、携帯電話をいじっている。カンペキに拗ねてしまったようだ。しまった、見習うとか言っておきながら、さっそくやってしまった。
「ごめんなさい、真面目に聞いていなくて。要点だけでも教えてください。加賀さんのお話聞きたいです」
とご機嫌をどうにかとろうとするが、
「私の長話なんて聞くだけ時間のムダよ。聞かなくて結構」
と決して揺るがなかった。そうこうしているうちに彼は帰って来て、「よいしょ」と小さく呟いて椅子に座った。
「加賀さん?どうしたんですか?」
と彼が尋ねても、加賀さんは何も言わない。彼の視線が私に向くと、私は気にしないフリで水を飲む。コップに付着した水滴が表面を伝って、テーブルに雫となって落ちた。
彼も来たところで、加賀さんがテーブルの端に今か今かと立っていたお品書きを手に取り、それを中心に置いた。丁寧に私に対して見えやすいように置いてくれた。てっきり先ほどまで私が彼女にした仕打ちの、仕返しをされると思っていた。
「ほら、早く決めなさい。水?水ね、水でいいわね」
やっぱり許してくれていない。こちらの意見など全く聞く気がないようだ。私が驚いて一言いう前に、彼は彼女に言った。
「こらこら、加賀さん。そんなイジメみたいなマネはいけませんよ」
と彼の落ち着いた口調。すみません、と彼は代理で謝罪した。
「加賀さんも新しい仲間が増えて嬉しいんですよ。言うなれば愛情の裏返しみたいなものです。決して悪気があるわけではないので、ですからあまり気になさらないでください」
彼は微笑も交えて弁明した。言い終えると同時に、加賀さんの鋭い視線が彼の横顔を貫かんばかりに刺している。
確かに彼女の言葉は少し毒を孕んでいるが、それらは私に不快な思いにさせようというものではない。現に私がそう思っていないからだ。彼の言う通り悪気を感じなかった。私のメンタルが強いのもあるかもしれないが、むしろ彼女自身が楽しんでいるかのような、そんな気がする。彼女は咳払いを一つし、
「まぁ、嬉しいということは、否定はしないわ」
と彼女は言い終えると水を飲んだ。その顔に仄かな紅を浮かべ。
さてここへ来て十数分。彼女との会話と、彼の言葉を基に、その性格を私独自に判断した。つまり彼女の性格を一言で表すならば、
「加賀さんって、クーデレなんですね」
すると彼女は首を傾げて、さらに不服そうな表情を浮かべて、
「はあ?私は確かにこの社会に不満はあるけれど、だからって力による政変を起こそうとは思ってないわ」
と言った。何を言っているのかよく分からず彼を覗くと、私と同じ顔をしていた。店内の壁掛けのテレビに目をやると、丁度お昼のニュースが放映していた。ニュース……。社会……。不満……。から連想されるものを頭上に並べる。次に浮かんだのは、反発であった。その時、不意に繋がった。その際、「あ」と口にだしてしまったので、二人の目は私に向く。
「クーデター……。ですね、それ」
するとまた彼女は、「はあ?」と言って、
「今更分かったの?鈍いにも程があるわよ。あんまりにも返してくれないから、言ったこと後悔しそうになったわ」
と先ほどよりは柔らかい表情で述べた。私も彼女のボケを突っ込むことが出来て、胸を撫で下ろす。しかし、
「え、二人とも、何のこと言ッてるんですか?」
と彼だけは分かっていなかったようだ。さすがに解が導き出せなかったわけではなかろう。私でも出来たくらいだ。この調子を見ると恐らく、「元々聞いていなかった」のだろう。そんな彼を彼女は軽くあしらって、話に関することは全て無視していた。
色々と寄り道をして、やっと本線である、料理選びへと戻る。A4のラミネートされたお品書きには、空白の方が少ないほどのメニューが記されている。そしてどれも安い。大体のメニューがワンコインで食べられる。ご飯・麺類大盛無料、さらに付け合わせが千切りキャベツの品は、キャベツおかわり無料という太っ腹さである。ふとこんな小さなお店でこれだけ破格の値段で提供出来ることが不思議になった。
「どれも安いですね。こんなこと言うのは失礼かも知れませんが、よく続けられますね」
と言うと、何の反応もしてくれなかった。二人を見るが、相変わらずお品書きに目を奪われている。
「ね!」
と大声を出すと、彼はビクッと肩を上げた。彼女は特に驚きもしていないようだが、こちらを睨む眼光の鋭さが増した。思わず背筋に寒気を感じ、引き下がりそうになるも、どうにか持ちこたえる。二人はどちらが回答するか、互いに目配せをしており、それはやがて火花を散らし始める。ぶつかり合う閃光は加賀さんが圧倒的に強く、さながらレーザービームのようで。反対に彼のは細く儚さを彷彿される、いわば線香花火のようであった。レーザービームと線香花火の勝負は、あっという間に線香花火がレーザーに圧されてしまい、彼は顔を真っ黒焦げにされてしまった。そして負けた彼は小さく唸って考えてから語る。
「――材料のほとんどが隣の基地の艦娘の実家から良いものが安く大量に仕入れられるんですよ。主に米や麦といッた穀物が主ですね。勿論ウチの艦隊にも実家が農家の娘はいて、その娘たちからもたくさん頂いているのですが、いッぱい食べる方が何人もいらッしゃるので、あまりこちらには回せていないんですよね。それにここは泊地の端にあッて、敷地の中では一番市街地に近いんですよ。それでも最寄りの町までは五キロは軽く離れていますけど…。ここも始めは他基地の例に漏れず、関係者以外立ち入り禁止だッたのですが、ある時日頃のお礼にと市民の皆様が門のところまでわざわざいらしたのです。それから何度も多くの食材を頂いたものですから、こちらもお礼に来てくださる皆様に少しでもお礼がしたい。そこで曜日限定で、このお店を一般開放したんです」
「それって大丈夫なんですか?!本来基地は特別な許可がなければ、一般市民の立ち入りは出来ない筈ですよね」
「そうですね。勿論許可は貰ッています。立ち入れるのはこのお店が営業する、月火水金土日の昼間、居酒屋になる金土の夜だけ。そして隣の酒保までしか立ち入ることはできません。今日はまだ来ていないみたいですが、休日の昼間になればもうオープンから満員御礼ですよ」
何故か納得してしまったが、果たして本当に大丈夫なのだろうか。土日も営業するのなら、親子連れも来るだろう。すると子どもは普段は入れない土地、そして新鮮な土地に踏みいるわけなのだから、興奮して外へ冒険に出てしまう。そうなれば禁止領域まで足を伸ばして、さらには基地に侵入することだってあるわけだ。もしそんなことになればそこの司令官が”管理不足および機密情報漏洩(していなくとも)”として最悪懲戒免職だ。
「でも大丈夫よ」と加賀さんは言った。
「本当の自衛隊基地なら戦車や戦闘機、艦船とかあるけれど、艦娘の基地なんて見ても面白くなんかない。端から見ればただの寮だもの」
「そうですね。それにそういうときは皆さんに遊び相手になッて貰ッていますからね」
なるほど、基地に侵入される前にこちらから打って出るというわけか。それに昨今話題の艦娘とふれ合えるとなれば、それだけで一大イベントである。艦娘と一時だけでもお友だちになれるというのは子どもたちにとっても嬉しいことだろう。
「でも」と彼は顔を曇らせる。
「なんか最近子どもより、大人というか青年?が多くないですか?あれ絶対疚しいこと考えてますよ。みんな可愛い娘ばかりだからッて。ここの娘からボディタッチが多いッていうクレームもありましたし。艦娘とのふれあいは”そういう意味”のふれあいじゃねぇわ、キャバクラじゃねぇんだぞ。イチャつくのが目的なら帰れ。……ッて思いません?」
“大きいお友だち”が悪いことをしているようだった。艦娘は若い娘が基本だから、それにこぎ着けて群がる血気盛んな”お友だち”があわよくば関係を築こうとしているのか。
それに対して加賀さんは、
「それは自己紹介かしら」
と、彼を彼の言葉ごと切り捨てた。それに彼は、ぐぬぬ…と苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。
……否定しないのか。
三人の視線はテーブル中央に置かれたお品書きに集中砲火する。丼もの、定食、麺類、どれも美味しそうで目が移る度に決定力が低下していく。もはや決められないので、ここに慣れているであろう二人に助言を求めた。
――オススメはなんですか?
「全部です」
「全部ね」
私はフードファイターではないのですが……。もう少し具体的に……。
「アイスクリームですかね」
「アイスクリームね」
いきなりデザートでフィニッシュですか。確かにこのお品書きの中でも、アイスクリームは色枠で強調され、イチオシ!とさえ記されている。もう聞き方を変えよう。
――お二人はよく何を注文されるのですか?
「定食ですかね」
「いつもの」
いつもの?
「私がいつも頼むセットメニューよ」
「じゃあ、私もそれに」
「いいんですか?」
「はい?」
「ご飯はマンガ盛り、しょうが焼きに付け合わせのキャベツ大盛、でかいエビフライが二つ、トンカツ一枚、麺類大盛一品、アイスクリームの、通称”加賀さんセット”ですけど」
話を聞いているだけでお腹が膨れてしまう。
「やっぱり釜玉にします」
「それがいいですよ」と彼は微笑んで、注文のため店員を呼んだ。
「――しょうが焼き定食、並盛で。あと食後にアイスクリームを一つ」
「釜玉うどんの並で、卵は溶かずにお願いします。あと私もアイスクリームを食後に一つ」
「いつもの」
朱色の店員さんは言われるがまま、気持ちのよい返事で伝票を書き込む。しかしいざ目の前で、「いつもの」と言われると言い様のない迫力に気圧される。あのお子さまランチの大人版のようなメニューを本当に食べるというのだろうか。見た目、太っているわけでもない、むしろ日本の女性としては理想系のような身体にも見えるのに。あれか、カロリーが全部胸に行っているとか、そういうやつか。
「空母は疲れるのよ。他の艦と違って頭を酷使するから、それに耐えうるだけの栄養を摂らないと」
「…すみません。酷使させてしまッて」
と説明する彼女の横で彼は謝罪していた。これはまた毒を吐く流れかな、と期待したが。
「謝らないで。私がしたくてしてることだもの」
と口調こそは淡々していたが、最後に見せた微かな笑みで、言葉に仄かな温かさと柔らかさが生まれた。
料理ができるまでの間、汗をかいたコップから落ちた水滴を指で広げていた。雪舟のようにはいかず、私の指で拡大された水滴は、いびつな形をしていた。「そういえば」と彼が声を出した。
「俺たちの自己紹介がまだでしたね」
「さっきからしているでしょ。”視姦常習犯”だの”セクハラ目的の大きなお友だち”だの」
「何も俺はセクハラ目的でここにいるわけではないです!」
加賀さんの間髪入れないツッコミに彼の返しは、もはや阿吽の呼吸と呼んでよいものだろう。しかし彼は”視姦常習犯”については否定しなかった。
「――では気を取り直して、先ほどから言葉巧みに俺たちを見事に嵌めてくるこちらの方は、正規空母の加賀さんです。通称”青い方”」
彼がいい終えると、加賀さんは「最後のは余計よ」と彼に言って、私によろしくと頭を垂れた。それに合わせて私も、こちらこそと頭を下げた。彼女が加賀さんであることは知っていた。しかし然り気無く彼女に弄ばれている被害者に私も入っている。ならいっそここで”加賀さん被害者の会”でも立ち上げようか。
「――で、俺がここ宿毛湾泊地、月潟艦隊司令官の月潟です」
「通称、ド変態よ」
見事に仕返しされ、分かりやすい三文字でまとめられた、そちらの方がすっと入ってくるので、そちらで覚えようか。
「よろしくお願いいたします。変態さん」
「ちょッと加賀さんが余計なこと言うから!」
「あなた、ふざけるのも大概にしなさい。”ド”が抜けているわ」
「すみません、ド変態さん」
「そう、それでいいわ」
「よくないですよ!ドは必要ないですよね」
変態は取らなくてもいいのか。気になったので、割って入ってその事について尋ねると、彼も今更気付いたようであった。
「変態は必要よ。ないとアイデンティティーを消失することになるもの」
「俺のアイデンティティーは変態なんですか?」
「それ以外に何があるの?」
彼はどうにか何か見つけようと、手のひらや周囲を見渡して自分の存在を模索している。内心激励して彼を見守った。十秒ほど粘ったのち、彼は肩を落として大きく俯いた。
ウソ?!諦めちゃう?そこ諦めちゃうの?
すっかり意気消沈した彼を元気付けようとすると、
「放っておいて大丈夫よ。いつものことだから」
日頃からアイデンティティーを消失しているというのは、一般的に大丈夫とは言い難いと思ったが、彼女の言うことに意見しないようにした。でも、
「……あの、月潟さん?」
と私は彼に声をかけた。顔をあげた彼の表情は暗かったが、まだ生気はあった。
「私も月潟さんのこと”提督”って呼んでもいいですか?」
「構いませんが、俺の階級はそこまで高くないですよ?」
ありがとうございます、と頭を下げた。呼び方を変えたことに特に意味はなく、加賀さんがそう呼称しているのと、私がこれまでの艦隊でそう呼んでいたからという単純な理由である。会話も区切りがついたところで、窓から景色を眺めて一息ついていると、店員さんが、やってきた。
「お待たせしました。釜玉うどんの並盛でございます。ごゆっくりどうぞ」
と、いち早く店員さんが持ってきたのは私が注文した料理だった。黒い器に純白のうどん、その上にのっけられた卵は輝いていて、よく卵は月見などその色から”月”を連想させるが、今回のは月というよりは”太陽”であった。それも真夏のさんさんと照らす太陽のようである。その卵黄はぷっくりと膨れて立っていて、新鮮であることを誇示している。すぐにでも食べてしまいたい衝動にかられるが、だが私だけ先に食べるのは申し訳ない。二人の分も待っていると、
「何をしているの。早く食べなさい」
と、加賀さんが言うので、私も理由を説明した。すると、
「気にしなくて結構よ。それより早く食べなさい。料理は出来立てが美味しいのよ」
最後に、ほら、と付け足してより強く私に促した。念のため彼の方も窺うと、彼も手をこちらに差し出して、どうぞどうぞ、としてくれている。見方によっては「頂戴」にも見えるが、せっかくなので先に頂くとしよう。
いただきます。
可愛らしい卵黄を速攻で潰し、つゆをかけてかき混ぜる。全体が淡い橙色に絡まったところで、いよいよ口に運んだ。
うん、うまい…!
私が食べ始めて間もなく、彼の料理も出来上がったようだった。一枚肉を均等にカットされたしょうが焼き。そしてお皿の半分を陣取る千切りキャベツの山。私はこれだけで充分なのだが、おかわり無料というから凄いコストパフォーマンスだ。赤字にならないのだろうか。
彼が食べようとした矢先、ついにやってきた。加賀さんの料理。しかし、届いたのはご飯とお味噌汁とお新香だけ。何故それしかないのだろう、と聞いてみようと声を出しかけた。やってきた、本命が。
これまで応対してくれた店員さんとは違う、もう一人の店員さん(小豆色の髪を後ろで短くまとめた女性)が大きなお盆を持ってやってきた。
「はい、加賀のね」
と、お盆ごと置かれ、加賀さんはお礼を述べた。私は手が止まった。彼の五倍はあろうかというキャベツの山脈。皿から大いにはみ出したエビフライが二つ。そして成人男性の手ほど大きなトンカツ。それらが大皿に盛られていた。そしてその隣に茶色の大きな丼ぶり(私のうどんのものがすっぽり入ってしまう位)にはラーメン。量もさることながら、それよりも思ったのは、
「あー重かった」
そうだろうな、と思った。その店員さんは肩を回している。
「いやー、ホントにいい筋トレになるよこれ。それにしてもよく食べるよね」
「これくらいがちょうどいいのよ」
店員さんは呆れ気味に笑って、「ごゆっくりどうぞー」と軽く言うと伝票を置いて戻っていった。加賀さんは箸を手に、
「いただきます」
と静かに力強く言って食べ始めた。
美味しさのあまり、手を止めることなくうどんをあっという間に食べ終えた。その頃彼は全体の半分を食べていた。一方加賀さんも半分をすでに平らげていた。彼女も一切止まることなく、箸で口に運ぶ、咀嚼、箸で口に運ぶ、咀嚼…をただただ繰り返している。一見すると単なる作業だが、彼女の表情はどこか高揚感に満ちている。私は食後のアイスクリームを待ちながら、二人の食べっぷりを眺めていた。こう二人を並べて見てみると、運ぶスパンは同じくらいなのだが、一口の量が全く違う。彼は本当に一口サイズしか取らない。咀嚼に手間取らない程度の量で食べている。だが加賀さんは倍以上はあった。だから彼女が口に入れるときは喉の奥まで見えそうなほどに開けている。しかしそのちらりと覗く咽頭には食べ物は残っておらず、飲み込んでから運んでいる。ちゃんと噛まないと体に悪いと聞くが、大丈夫なのだろうか。
二人が食べ終わるのに然程時間はかからず、二人とも一口だけ飲むとコップを置いた。こん、という小さな音が静かな店内に響く。すると朱色の店員さんが、食後のアイスクリームを持ってこちらに来た。小さなグラスに盛られた真っ白な半球、添えられたミントの葉っぱが爽やかな清涼感を感じさせる。銀色のスプーンでその美しい丘陵を削り、口に運ぶ。口の中に一気に広がる冷感と甘すぎない優しい甘さ。そして口の中ですうっと溶ける滑らかさ。なるほどこれは非常に美味しい。このお店のオススメというだけはある。
私たちがアイスクリームを食べ終わると、今度は綺麗な黒髪の、モデルのような高身長の優しそうな女性が来て、食器を下げるついでに、
「そういえば、今日からかき氷を始めたんですよ。無料で小さな器でご用意できるとのことです。お一ついかがですか」
と店員さんはかき氷のメニューが記された、小さな紙をこちらに見せる。お馴染みのいちごやメロン、レモンやブルーハワイといったシロップのほかに、いちご練乳や抹茶小豆といったものもあり、これもまた迷ってしまう。
「いいですね。頂きますか」
と彼の言葉に加賀さんが即刻同意し、私は先ほどアイスクリームを食べてしまったから少量ならと同意した。加賀さんから注文を開始した。
「私、いちご練乳で」
「じゃあ私は抹茶小豆で」
「俺は」と彼が言い出した途端、加賀さんが動き出す。
「ただの氷で」
聞いた彼は驚きのあまり彼女を見つめ、目を見開いたまま、硬直していた。そして数秒の沈黙の末、
「は?氷?ただの氷?」
「えぇ、そう言ってるわ。あなたは味なんかなくても大丈夫でしょ。ねぇお試し用の小さな器じゃなくて、ジョッキに氷をぎゅうぎゅうに貰える?」
まあ、そんな注文が通るわけがない。彼もそれを見越して特別反応を返していない。
「かしこまりました。いちご練乳と抹茶小豆とプレーンですね」
現実は非常に非情であり無情である。
「いやいやいやいや!ちょッと待ッて!」
私もまさか通るとは思っていなかったので、先ほどの彼と同じ顔をしてしまった。店員さんも顔を伏せて笑っている。加賀さんは声を圧し殺した大爆笑で、そのおへそは沸騰してしまっている。
茶番の末、彼は結局ブルーハワイを注文した。
「もう、加賀さんいい加減にしてくださいよ」
「ごめん、ごめんなさい」
と未だに継続中の彼女は、笑いすぎて呼吸が出来なくなったのか、時折大きな咳を交え、なおも笑っていた。同時に厨房の方からも笑い声が聞こえた。
加賀さんが笑い終えた頃、奥から朱色の店員さんと一緒にもう一人、加賀さんのメインディッシュを持ってきてくれた女性が現れる。朱色の店員さんが私と加賀さんのかき氷を配り、もう一人の店員さんが、彼のを配る。そしてその時彼女は言った。
「はい、月潟さんの。ただの氷ね」
二人出て来た時点で何となく気付いてはいたが、まさか本当に持ってくるとは。そのキンキンに冷やされたジョッキに、ぎゅうぎゅうに入れられた氷。それを見た、やっと落ち着きを取り戻した加賀さんの腹筋は再び崩壊した。彼は目の前に置かれたジョッキに目を奪われて、丸くしている。それを持ってきた店員さんは言った。
「もうね、作んのも大変だったんだよ。もう入らないってのに鳳翔や筑摩がさ、もっともっとって言うもんだから、手で押し込んで入れたんだからね」
「伊勢さん、『もう入らないよ』、なんて言ってましたね。面白かったです」
その場は黄色い笑い声で埋め尽くされた。ただ彼だけは笑ってはいなかった。どうすればいい、と苦悶していることが表情から見てとれた。
「まあ、お代は頂かないからさ。ちゃんと食べてね」
「え?食べんの、これ」
「当たり前でしょ。作っちゃったもん」
「作んなよ。いらないよこんなもん」
「こんなもんじゃないでしょ!わざわざ私が作ったんだから!やっぱ残したらお代貰うからね」
とその伊勢さんは戻っていった。
「頑張ってください」
と朱色の店員さんも激励し、シロップの入ったお猪口を彼の前に置いて戻っていった。まるで蒼穹をそのまま掬ったようなそれは、言葉が出ないほどに綺麗で、だけどその人工的な色合いはどこか空しさを感じさせた。
そのジョッキ氷は三人で協力してなんとか完食した。とは言っても私が食べたのは僅かで、彼が全体の三分の一程度、残りは加賀さんが片付けていた。お会計は来る前の通り彼が全て持ってくれた。その際に小豆色の店員さんが、ちゃんと食べたのかを確認し、それが証明されると、大声で笑いだした。
「まさかホントに食べるとはね。約束通りタダにしときますね」
無料にしてもらえて安心している彼の横で、どこか落ち着きがなく神妙な顔の加賀さんが、
「ごめんなさい。先に帰ってるわ。ごちそうさまでした。提督、ありがとう」
とぺこりと頭を下げると、足早に店を去っていった。その様子を見た私以外の皆は、
「あの加賀さんがおみまいされるなんて……」
と、皆一様に開いた口が塞がらないでいた、のと同時に半分呆れていた。店を出ると、熱を増した日差しが私たちの肌を焼いた。基地へと帰る途中、彼は懐から士官の帽子を取り出して被った。しわくちゃになった帽子を被った彼からは、不思議なほどに威厳を感じない。きっとそれは帽子が無下に扱われただけではない筈だ。
「あの月潟さん。気になることがあるんですけど、いいですか」
「はい、なんですか」
「年齢はおいくつですか」
「数えで二十四の、二十三です」
足を止めて、しばらく波の音と小さく響く運動場の黄色い声が包む。吹きすさぶ風に乗った潮の香りが、私がこれまでいたところとは僅かに違うように感じた。そこでやっと心が私の中に戻ってきた。
「えっ!若っ!二十三⁉冗談ですよね」
「マジですけど」
と彼が出した免許証の生年月日欄には、確かに二十三年前の日付が記されていた。
「え、ホントだ。……まさか、超エリートですか」
「違います」
と彼の返事は音速で返ってきた。しかしエリートでもなければ、こんな若年で司令官などは務まらない。
「じゃ…じゃあ、本営に賄賂でも」
「んなわけないでしょう」
今度は光を超えた。
「俺は深海棲艦のことを深く知りたくてこの業界に入ッたんです。本当だッたら研究室に入る予定だッたんですけど、様々な理由があッて士官学校に通うことになッたんですよ」
深海棲艦のことが知りたいという人は多く、石を投げれば当たるほどにいる。その道の人は彼が言った通り本営直属の研究機関に入ることが多いようだが、艦娘の司令官になるという人はそういない。艦娘の司令官になる人は、過去に自衛隊や特殊部隊に所属していた人が多いが、最近では未経験者も僅かにいると、尤も面接試験で大いにふるい分けられるため(ハーレム目的は当然落とされる)、噂程度にであるが聞いたことがある。しかし何故彼はこちらへ来てしまったのだろうか。様々な理由とは言っていたが、一体全体どんな理由なら文字通りの"お門違い"になってしまうのか。
彼の目的や理由よりも、引っ掛かったところは他にあった。それは、
「……ていうか提督、私とタメなんだね」
「ええ、そうですね」
彼はこれといって驚いた様子を見せない。艦娘歴には当然本人の現住所や生年月日、さらには本名まで記されている。彼が面接の前に、今日受験した全員のを見ただろうから、この反応は妥当と言える。そして相手が同年代と分かった途端に、私は言葉遣いが変わってしまったことに気付いた。そのことについて謝罪すると、
「いえいえ、事実ですし、何より俺なんて飾りみたいなものですから。実際基地内でも艦娘にペコペコ頭下げてますから。威厳皆無です」
と、自嘲しながら最後に、「ですからタメ口で大丈夫です」と許してくれた。良い人なのか、かわいそうな人なのか、どっちつかずであるが、私は前者であると思いたい。
「なら提督も私にタメ口でお願い」
と言うと彼は、いいんですかと確認をとってから、微笑を浮かばせて言った。
「じゃあ、これからよろしくね。陸奥」
彼の言葉への返事は勿論。
「こちらこそよろしく。月潟提督」
挨拶の最後に握手を交わした。大きな手のひら、細くて長い指。男性と握手をしたのは久しぶりだ。これまでお世話になった提督の何人かとしたことはあったが、その中でも彼の手は、どこか安心感を覚える温かさ。私の好きな”手”だ。この人とならうまくやっていけそうだ。
基地へ戻ると、後回しにしていた諸々の手続きをすることとなった。場所は面接の前後に待合室として使用していた食堂。今度はテレビの前ではなく、出入口から一番近い机で行う。クーラーから放出される機械の冷たさを体現するかのような風の中、書類を書き進める。配属変更や装備、部屋の登録、途中にあることを思い出した。
「荷物は持ッてきま……持ッてきた?」
と態々直してくれた彼の言葉で書類を書く手が止まる。勿論荷造りは済ませてあるが、発送していなかったのだ。普通は異動先に発送を専属の業者にお願いするか、全て持参(後者が多い。前者はお金もかかるし、すぐに来ない)してから試験を受ける。しかし今回私はモチベーションが底辺を削ってしまうほど低下していた。結果、落ちるだろうと諦めていた私は発送しないまま、あろうことか持参さえもせず、この試験を受けて合格した。百々のつまり、私の不手際でこの場に荷物は届かない。
「あちゃー」
と彼が右手を頬に当てた。すると「失礼します」と女性が一人入室する。長い黒髪に青いカチューシャ、細い黒縁のメガネをかけた細身の女性。彼女はバインダーを手にしていて、いかにも事務職らしかった。
「どうかされましたか」
とこちらの状況を察したのか、彼に問い掛ける。彼も私の不始末を丁寧に説明した。
「あらら、困りましたね。これでは制服で生活することになりますよ。そちらの方は長門型でしたよね。これからしばらくの時期は涼しくていいかもしれませんが、冬場はさすがに寒いと思いますよ」
私は年中制服での生活を余儀なくされるらしい。というより、休日に買いに行くという考えはないのだろうか。彼女の言う通り冬も制服だけは厳しい。それは風の子を通り越して、"脳内がお天気な子"だろう。吹雪の中を制服だけでいようものなら、警察より先に病院に連れていかれてしまう。尤も、その制服さえも置いてきてしまったわけだが。
「じゃあちょッと連絡取ッてみるよ」
彼はポケットから携帯電話を取り出した。
「横須賀だよね」
と、彼の問いに頷いて返した。「第五司令室です」と伝えると、彼も小さく頷いて携帯電話を耳に当てた。彼が連絡を取ってくれている間に、書類を片付けるべく机に向き直ると、彼女が私の傍らに立った。
「初めまして、陸奥さん。私はこの艦隊の事務など多くの諸々を担当している、大淀と申します」
丁寧な挨拶にこちらも畏まってしまい、椅子を下げて立ち上がって挨拶をした。私の慌てる様が可笑しかったのか、小さく笑っている。
「すみません、堅くって。それでですね陸奥さん、お部屋はどうされますか」
と彼女はタブレットを私に見せる。ここの宿舎の間取りと、部屋の内装が写し出されている。
「どこでも構いませんよ。一人使用でも相部屋でも」
という補足を受ける。埋まっている部屋は疎らで、まるで蜂の数が少ない蜂の巣のように、空いている方が目立つ。この基地には私の知人や撩艦はいない。よって相部屋は選択肢から外される。さすがに他人の部屋に割って入るほどの度胸は持ち合わせていない。とりあえず両隣が不在の部屋を選んだ。無難な選択だ。
「了解しました」と微笑を浮かべて、彼女は一度会釈をすると立ち去った。彼女が踵を返したとき、仄かにタバコの匂いがした。
大淀さんが退室するのと同時に、彼も電話が繋がったようだ。
「……あ、もしもし月潟です。お疲れ様です。あのそちらの第五司令室の……………………。あ、もう出したんですか?……………………………どうせッて何ですか、俺はちゃんと見て………………………。違いますッて!……………………………分かりました、ありがとうございます。え、………………………。はい、………………………。は……はい、分かりました。では、また」
最後はトーンが落ちて切れたようだ。私は自分が書くべきところをすべて埋め、書類をまとめて横にどけた。
「荷物はもうこッちに向かッてるみたいだ。今日中には届かないかもだから、我慢してね」
と言った彼の微笑みはどこか暗く淀んでいた。その表情に疑問を抱き彼に尋ねた。
「あー、陸奥がいた艦隊の司令官から伝言を預かッたんだけど……。それが……」
とても言いにくそうにしている。あの人が私に伝言とは珍しい。何か荷物以外に忘れ物でもあっただろうか。
「やッぱ言わない」
と突然やめてしまった。万が一重要なことだったらいけない。私はどうしても聞きたいと、彼の袖を引いて駄々を捏ねた。彼は驚いた後、すぐに少し嫌そうな顔をした。その表情をされても退くわけにはいかない。そもそも過去の経験もあって慣れている。彼の口はゆっくりと開いた。重たそうな唇から出た言葉は。
「『荷物を置いていくなんてバカだな。帰ッてくんな』……だッて」
その言葉が突き刺さる手前で止まる。私は改めて彼に尋ねた。
「それを私の提督が」
彼は一度だけ、はっきりと頷いた。私の顔は自然と下に向いた。それを見た彼が狼狽し、私を慰めようとしてくれている。しかし、私はダメージを受けたわけではない。完全に無傷と言えば嘘になるかもしれないが。
私は知っていた。転々とし続けた五年間で、私を最も長くいさせてくれた彼のことを。戦力は足りていたため、私を使うことはほとんどなかったが、事務や庶務を私にさせることで(半分押し付けられていた)私を留めてくれた。そしてその彼は、私に対して事ある度に罵声を浴びせてくるのだ。心に掠りもしないような些細なものから、焼きながら抉るようなものまで様々。それが彼の一種の愛情表現なのだ。勿論時には私も言い返して、ケンカになったこともある。三日以上口を聞くこともなければ、目も合わせることもなかった。でもしばらく置けばまた彼は私を罵る。それに私が対抗することで、離れた距離も戻って行く。彼との罵倒によるやり取りは、私たちにとっては一般的な挨拶と同様のコミュニケーションなのだ。多少曲がっているし、歪んではいるけども。
彼の元を離れてからまだ一日も経過していないのに、夏の夕暮れのような懐かしさか、雨が止んだ後の晴れ間のような安心感か、私の口許は緩んだ。
私を窺う心配げな彼に、私は強がりでなく笑ってみせる。
「大丈夫よ。彼はそういう人だから」
手続きは完了し、私は先ほど決めた部屋に入った。月潟提督からは夕食の時に皆に紹介するので、それまで自由にしていいと言われたので、ベッドに飛び込んだ次第だ。部屋の施錠はバッチリ。窓は私が部屋を決めた段階で、大淀さんが開けて換気してくれていた。開け放った窓からは時折心地よい風が入ってくる。外では昼食を終えたのだろうか、数人の艦娘(中学生くらいの年頃の女の子たち)が、ジュースを飲みながら歓談しつつ散歩していた。
自由にしていいと言われて、何かすることはないかと模索した。やったことといえば、ケースから服を取り出し、ジャケットやスカートをふりさばいてハンガーにかけ、洗濯物を選別。ゴミをまとめて捨てられるようにした。最後に見つけたすっかり温い中途半端に残ったお茶は、一気に飲み干して空いたペットボトルはゴミのところに投げた。
荷物の整理は私の愚行もあって十分もせず終わった。着替えなんて一日分の下着と、ブラウスとスカート一着ずつしかない。余計に皺をつけるのも嫌だし、とりあえずこのままの格好でベッドにダイブし、現在に至る。
柔らかくも丁度いい反発のあるベッド。布団は清潔な匂いがして、埃も少ない。部屋も綺麗だしクローゼットもあって居心地もいい。色々あったがこれはいいところに着けたかなと、今さら思っていた。
寝転がる私の顔を風がそっと撫でていく。目を閉じてゆっくりと寄ってくる微睡みに身を委ね、自分の身体から力が抜けていくのと同時に、ベッドに沈んでいく。
「たらこっ!」
という大きな寝言で目を覚ました。寝言の意味を考えても分からない。どうして魚卵を叫んだのか、きっと夢の中で迫り来るたらこに襲われたのだろう。もう忘れてしまったけど。
時計を見ると午後五時になろうとしていた。外の景色は少しずつ橙色に金色が混じってきている。身体を起こして背伸びをすると喉に痛みが走った。どうやら口を開けて寝ていたらしく、窓も開いていたこともあって渇いてしまったらしい。とりあえず寝起きで重たい身体を無理矢理動かして、洗面所でうがいをした。少しだけ楽になって今度はトイレを探した。宿舎のトイレは基本的に全員共用で、部屋にはないのは知っている。ここのは来るときに見かけた程度で、まだうろ覚えだ。散歩ついでに覚えることにして、寝癖をさっと整えて部屋を出た。
面接前に使ったところまでいくかと思ったが、部屋を出てすぐ左前に見つけ、冒険もなにもなく終わった。部屋に戻って外を眺めていた。夕暮れのオーシャンビューで、一人黄昏ている姿を、客観的に見れば良い画になると自惚れた私は、窓枠に左手を置いて頬杖をつき、誰に見せるわけでもなくカッコつけていた。ついでにイヤホンで音楽を聴けばミュージックビデオ風になるのでは、と加速した私は携帯電話と鞄からイヤホンを取り出す。片っ方聴こえないイヤホンを耳にいれて、携帯電話に接続した。自動再生で流れた曲は二番のBメロ手前という半端極まりない所から始まった。そして脳内の画の通に外を眺めた。ゆっくりとしていてしっとりとしたメロディーにのせて、脳裏に浮かんだのは昨晩のバス。蒸していて、決して良い臭いでなく、息苦しい車内。時間と景色が過ぎるのをただただ待っているだけの不毛な時間。そして酔うという。今なら言える。昨晩から今朝にかけて絶望の深淵の底を掘削していた私に激励を。
――あなたの不幸貯金は無駄じゃないよ。
二曲過ぎたところでメロディーは途切れ、ピーピーという喧しい機械音が片耳から脳を刺した。携帯電話を見るとそこにはこう記されていた。
充電してください。
イヤホンを耳から引っこ抜き、携帯電話ごと布団に向けて放った。まだまだ不幸貯金の真っ最中だ。天を仰ぐと一番星が煌めいているのを見つけた。私は手を伸ばして、「大きくとは言わない、ただ少しでもいい。運気を上げてくれ」と願った。しかしその直後、私が願った星はどこからか流れてきたはぐれ雲に、あっさりと隠されてしまった。
私から力の抜けた笑い声が小さく漏れていた。
部屋の内線電話が鳴った。相手は月潟提督で内容は、6時から晩御飯だからその時に挨拶を頼む、というものだった。了解すると電話が切られた。受話器を戻したついでに時計を見ると、六時まであと十分もなかった。私は焦った。なぜもっと早く言ってくれないのかと憤りを覚えるが、思い返せば通話の始めに「今更だけど」と言っていた気がする。言葉の通りだよ、早く挨拶を考えないと。これ以上の恥はかいていられない。
時間は悉く過ぎていき、時刻は六時を回った。今私は食堂の扉の前にいる。中では今日の任務を終えた艦娘たちが和気藹々と盛り上がっている。さらにご飯ということもあって、シナジーを産み出していた。私は提督から呼び出しがあるまで待機を命じられた。準備が整い次第呼ぶとのこと。彼はそう言って入っていったが、かれこれ十分以上経過した。磨りガラスの隙間から覗くと、多くの艦娘らが準備を済ませて席についていた。ほとんどが四人で一グループで固まっているが、グループの間に空席はほとんど見られず、この艦隊の協調性の良さが窺えた。彼以外の男性もいて、工厰の作業員だろうか。女性の比率が圧倒的に多いため、男性諸兄は端っこに追いやられ、楽しそうにしてはいるが、どこかいづらそうだった。提督が前に立って、手を叩いて皆の注目を集める。声は微かに聞こえる。今日の報告と明日の予定のようだ。それらが終わると、提督の顔つきは変わって、同時に室内が沸き立った。彼の楽しそうな顔がこちらに近づく。そしてついにドアが開けられた。
明るい室内に目が一瞬眩む。香辛料の香りが私の鼻腔を刺激した。すぐに慣れた目に入ってきた光景は、何十もの女の子と視線の集結。今日のお勤めを無事終え、そのままやってきた制服の子、早めに終わって余裕があったか、それとも今日は非番だった私服・部屋着の子まで姿も様々。中学生から社会人までの女子の視線は多様で、驚きや羨望、嫉妬まで感じられた。提督に連れられて皆の前に立つ。数十人が私を見ているという圧迫感に、背筋は伸びきる。
「――こちらは本日付で配属となッた新しい仲間だ。では挨拶を………」
と彼は私を見て、こちらに振る。
深呼吸して、噛まないように気を付けて、ゆっくりと声にだそう。
「……初めまして。陸奥です。本日付でこの基地の配属となりました。皆さんの足を引っ張ることの無いよう頑張りますので、これからよろしくお願いします」
言い終える室内は拍手喝采となった。ちゃんと言えたことに安堵していると、一番前にいた少女が元気よく手を挙げた。「ちょっといい」と言った彼女は癖のある茶髪でボブヘアー、そして八重歯が特徴的な中学生くらいの少女だ。察するに駆逐艦だろうか。
「陸奥さんはどこから来たんですか」
私に向けられた質問だが、もしかしたら彼が代理で回答するかもしれない。ちらりと彼を覗くと、彼も私と同じことをしていた。
「横須賀です」
と自分で答えると、ざわついた。そんなに驚くことなのだろうか。確かにあそこは厳しいし実戦もあるけれど、それ以外は他の基地と変わらないのに。それに実戦の多さでいえば、最近は日本の南西の方が多いらしいから、佐世保の方が忙しいとも聞く。よってそれほど驚くことではないが、特に駆逐艦の子たちが顕著で、自ずとこのあと来る質問にも予想がついてしまう。更なる盛り上がりを見せようとした矢先、彼が手を叩いた。
「まぁ質問があッたらあとで本人に直接訊くこと。とりあえず今はご飯を食べよう。折角のご飯が冷めちゃうし。じゃあ陸奥はあそこの空いてるところに座ッて」
と彼に従って空席を探すと、すぐそこの駆逐艦のグループとグループの間に、ぽっかりと一人分の空席があった。さっきから気になってはいたがここだったようだ。両隣に挨拶をすると、笑顔で軽く拍手をされて迎えてくれた。歓迎されたことに再び安心して席に着く。今日のご飯は中華料理で、麻婆豆腐と春雨サラダ、黄金色のスープと白飯。どれもお店のもののように美しく、美味しそうだ。
私たちと入れ替わりで前に出ているのは、四人の女子。駆逐艦くらいの子(私に質問をした子と同じ制服を着た銀髪の子と、長い黒髪に切り揃えられた前髪のおとなしそうな子)が二人、軽巡クラスの黒髪ツインテールで、胸の大きな子、最後の一人も長い髪を後ろでまとめ、前髪が切り揃えられている、また太眉が特徴的。しかし私には分かる。部屋着であろうシャツでは隠せないプロポーションの良さ。そして彼女の笑顔から溢れる、優しいオトナの雰囲気。私も二十歳を超えた大人として、彼女に注目し、対抗心が芽生えた。同時に憧れも。
「それでは、いただきます」
という四人の揃った声に皆が続く。
ご飯食べ始めて間もなく、周りの子からの質問の応酬が始まる。何歳ですか?どこ出身ですか?好きな食べ物は?趣味は?音楽聴きます?好きなジブリ作品は?好きなマンガは?アニメも視ましたか?好きな曲はなんですか?好きなバンドは何ですか?ほかにどんなアニメ視ましたか?シイタケ食べられます?ライブ行ったことありますか?その作品だと誰が好きですか?今彼氏いますか?初恋はいつですか?過去に交際経験は?何人と?どこにデートにいきましたか?ABCでいえばどこまでいきましたか?ズバリ、ヤったことありますか?ラブホ行ったことありますか?気持ちいいんですか?何回しましたか?
突如私の周囲の四人は、提督に頭を軽く叩かれた。
「こら。ご飯中だろ。質問は食べ終わッてからもできるんだから、まず食べてしまえ。陸奥も食べれないだろ」
尤もな彼の言葉に異議は無かった。私も彼女たちの質問攻めにあって、箸で摘まんだ春雨が乾物に戻ってしまうかと。このままでは美味しい料理が堪能出来ない。だが彼女たちに悪気などない。ただ新しい人に興味があるだけなのだ。可愛いじゃないか、後半の熱気には思わず引いてしまったが。そしていつの間にか私の麻婆豆腐のシイタケが増量しているのだが、それに突っ込むのは止めよう。
それからは質問のスパンにも余裕が見られ、質問に答えて私が何か食べ、飲み込んだら質問し、答えてから食べて……、を繰り返した。およそ九割の人が食べ終えて、食器を返却口に戻したところで、提督が立ち上がる。
「……ほとんどの人が食べ終わッたようなので、……ごちそうさまでした」
と彼が手を合わせて大きな声で言うと、他の食べ終えた人たちも続いて言った。その後は仲間内で集まってここに残る者、そそくさと部屋に戻る者、食事中の人は継続して、各々自由になった。私は周りの子たちと食事を続ける。食べ終えた子たちも寄ってきて、私への質問タイムが再開する。歓談と食事をゆっくりと楽しんでいると、時計はとうに七時を過ぎてしまっていた。それが分かると居残りの箸は自然と速くなり、十五分に達する頃には全員が完食した。
食事の後は自由時間。お風呂や洗濯は時間が決められており、それに合わせて各自自由となる。私は部屋に戻って、ベッドに倒れていた。戻る際に脱衣場に行って、洗濯の時間を見てきたところ、戦艦と重巡が一緒の二十一時以降らしく、余裕があった。下着以外の着替えを持ち合わせていない私は、寝巻きをどうするかという問題に直面していた。解決策を大淀さんに尋ねたところ、酒保(コンビニ)に安価だが質もそれなりのシャツなら売っているとのことだったので、背に腹は代えられない私は迷わず即購入してきた。来客用のスリッパ(履き物も無いため借用)をパカパカと鳴らしながら、宿舎に戻り自室へ向かうと、私の部屋の前に両手に荷物を抱えた人影がある。こちらの足音に気付いたようで、
「陸奥さんですね。少しよろしいですか」
と淡々と言い、私を急かした。
長くて艶のある美しい黒髪。切り揃えられた前髪(提督は黒髪ロングのパッツンが好みなのだろうか)、頭の左右の白くて細いリボンが特徴的な童顔の女性だ。風呂あがりらしく肌は潤っていて、花のような香りがする。
「こちらは余ったジャージです。荷物が無いとのことだったので、差し上げます」
と私に数着のジャージを受け渡す。予想以上の重さに腕が下に引っ張られるも、すぐに持ち直す。あ、という彼女の声に耳を傾ける。
「申し遅れましたが私は月潟艦隊の軽空母、飛鷹です。資材、備品の管理も担当していますので、よろしくお願いします」
と丁寧にお辞儀をしたので、私もこちらこそとお辞儀で返した。彼女の所作はしなやかで無駄がなく、それでいてとても綺麗。育ちのよさが窺えた。
「このジャージは月潟艦隊結成当初、艦隊指定のジャージを作るというバカげた企画があって、それは試作段階であっさりと終息しましたが、これはその際の試作品です。歓迎の印としては安っぽいかもしれませんが、どうぞ」
受け取ったジャージを適当に眺めてみる。紺色と黒があり、胸に三日月模様の刺繍が入れられているものや、背面に満月と艦影のプリントがされていたりと種類があるようだ……上着だけは。下はそれぞれの色が一着ずつあるだけ。サイズをみたらメンズのLのようなので、私には少し大きいかもしれない。
「提督が試着で着てしまったので、もし匂いとか気になるようでしたら処分しますが……」
と表情を一切変えずに言い放った。提督の威厳のなさがこうも丸分かりとは、悲しいものである。
一応念のため匂いを確認すると、柔軟剤の香りで安らかな気持ちになれた。六着も要らないため、上下一着ずつだけもらった。私が貰ったのは三日月の刺繍が入った黒のジャージ。部屋に戻って鏡の前で早速試着。袖を通すと薄手のわりには裏地は柔らかく、着心地もいい。だが時期が時期であるため、このまま寝ると寝汗をぐっちょりかきそうだ。結局、上はキャミソールを着て、下は下着という格好で寝ることにした。臨時の寝巻きを決めたところで、時刻は二十一時を回ったので、入浴を済ませることにする。
入浴を終えて、時刻は二十二時をとうに過ぎていた。入浴時に何人かの仲間と鉢合わせてあっさり意気投合し、そのメンバーで風呂あがりの一服をした(私もビールを貰った)。その時にさっきとは違う子たちの歓迎の意を込めた質問タイムが始まり、なんだかんだで結構時間がかかった。一緒に飲んだのは山城と比叡。二人とも髪が短いため、ショートヘアー仲間みたいな感じで集った。実はもう一人、霧島もいたのだが、彼女は都合が合わず、私たちと入れ違いでお風呂に入っていった。彼女たちと解散してからはすぐに部屋に戻り、入浴前に決定した臨時の寝巻きに着替えて(というか脱いで)ベッドに横たわった。充電が完了した携帯電話の電源を入れると、画面のライトに目が眩んだ。ホーム画面から通話アプリを開いて、ある人物に電話を掛ける。八回ほどコールを鳴らし、「もしもし。なに」と低く冷たい対応の彼が出る。
「もしもし、私、陸奥だよ。お疲れ様、提督」
「あ?陸奥?知らないな、どちら様」
彼は今日も相変わらずだ。
何だよ突然、という彼の言葉は明らかに不機嫌であるが、少しの心配も混じっている。
「いや特にね。ただ無事合格して、この基地に配属になったから、その報告をしにきたの」
彼はノイズがかかるほどのわざとらしいため息を吐く。
「それはもう月潟くんから聞いてるよ。あらためて合格おめでとう。良かったな、彼なら使ってくれるだろう」
言葉は終盤に差し掛かるとボリュームが下がっていく。
「どうしたの?私がいなくなるのがさみしい?」
と彼を煽ると、やはり「バカ野郎」と返される。
「俺が今寂しいとか一言でも言ったか?逆だ逆。お前みたいなお荷物を手放せてよかったと思ってるわ」
通常運航の毒舌を浴びせられるが、数年間それを大小問わず浴び続けた私の心はびくともしない。
「またまた、そんなこと言っちゃって。実は寂しいんでしょ、強がってるんでしょ。素直になっていいんだよ。三十路過ぎの男のツンデレなんて誰も得しないんだから」
と逆に煽って見せる。ただ火に油を注いでいるだけなので、より一層燃え盛るのは分かっている。
しかし彼の答えは意外なものとなる。少しの沈黙の後、このまま切られるか、火勢が増している最中なのか、どちらだろうと面白半分、怯え半分で待ち構えていた。
「……まぁお前くらいだったからな。素で言い合えるのは。捌け口がなくなるのは少し寂しいかもな」
その言葉は嬉しかったが、同時に背筋が凍えた。
「三十路のデレは需要ないよ。きもちわる」
「うるせぇな、お前がこういう答え求めてたんじゃねぇのかよ」
それからも互いを罵りあって、私が去ってからの艦隊の様子など話していたら十数分が経過した。時計を見るともう間もなく二十三時になろうとしている。ここの消灯時間は二十三時らしいので、ドアの向こうからは消灯前の自由時間を有意義に過ごす声が聞こえる。
「…………それじゃあ、もうすぐ消灯だから、切るよ」
「あぁ、さっさと寝ろ」
おやすみ、という前に彼に言っておきたいことがあった。
「私、あなたの下で働けて良かった。口は悪いけど。二年もありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃない。お前の引き取り手がいなかったから、置いといただけだ」
「わかってるよ。それでもありがとう。仕事は大変だったけど、楽しかった。私はここでうまくやっていくから」
「………こちらこそ楽しかったよ。ありがとう、お疲れ様」
「あとね最後に伝えたいことがあるの」
「なんだよ」
私は大きく深呼吸して、高鳴る鼓動を整える。そして、
「提督」
「……….…何だよ」
彼の返答も少し遅れる。緊張しているのは同じであるらしい。私は整うのを待つ。刻々と秒針は刻んで、ついに消灯を迎える。ドアの向こうも大分静かになった。私の呼吸と鼓動の音が静かな部屋に大きく聞こえる。私はもう一度彼を呼ぶ。
「あのね」
「何なんだよ」
「バーカ」
通話を一方的に断ち切る。切る寸前で「はあっ?」という声が聞こえたが、問答無用に切った。直後彼からメッセージが届く。そこにはこう記されていた。
あーほ。
思わず失笑してしまった。なんて稚拙な返しだろうか。尤も"バカ"への返答としては妥当ともいえる。彼とはこれっきりではないし、連絡もしたい時にできる。そもそもお涙頂戴な別れは私には似合わないし、こんなバカな感じでいい。
メッセージに返信はせず、アラームを六時半にセットして電源を落として枕元に置いた。カーテンを閉めるついでに窓の外を眺めると、誰もいない沿岸部は時が止まったようで、一定のリズムで大小様々な濤声が鳴る。真っ暗な部屋に目が慣れて、火災報知器の小さな緑色のランプが、この空間に大きな存在感を発している。近隣の部屋に住まう、新たな仲間の女子トークに盛り上がる声を子守唄に私は瞼を閉じる。
睡眠中の私の耳を貫くアラーム、同時に部屋の内線電話が鳴った。私は瞼を半開きで携帯電話が表示する時刻を確認する。
七時十五分。
え、見間違いか?瞼を擦ってもう一度見ると、七時十六分。
寝過ごしてるやんッ!
体から嫌な汗が吹き出した。私はいつもスヌーズを使って短時間の二度寝をしている。そのツケが今回ってきてしまった。狼狽している間にも電話の嘶きは部屋に響いて、私をより一層焦らせる。電話の相手は月潟提督で、
「朝食の時間過ぎてるけど、体調悪い?」
と遅刻の報告と私の状態の確認だった。私は謝罪と無事であることを伝えると彼は、
「そッか、良かッたよ。着替えたら食堂に来な」
と優しく明るい口調で言った。私を咎めない彼の優しさに、胸を撫で下ろしたのと同時に罪悪感も芽生えた。
着替えは昨日貰ったジャージを着て、顔を洗って髪型をさっと整えて部屋を出た。素っぴんで男性の前に出ることに、一瞬だけ躊躇するも、そんなことよりこれ以上彼の優しさを無碍にしないことの方が、今の私にとっては重要だった。スリッパは走り難い。ぱったぱったと大きな音を立てて食堂に向かう。急ぎ足で食堂に入るとみんなは先に食べ始めていて、入ると同時に視線を集めた。いくつになっても遅刻者に向けられる視線には慣れない。一斉に放たれた蔑み混じりの矢を受け、胸は絞められる。
小さく頭を下げて謝りながら席を探す。昨日の子たちを見つけたが、彼女らのグループの隣は別なグループで埋められている。すると昨日私の隣に座っていた大人しい子と目があって、申し訳なさそうな顔をして周りを見渡していた。あの子に気を遣わせてしまうとは……。私は大丈夫、と小さく彼女に手を振って微笑みを見せる。だが実際大丈夫ではない、現にまだ席を見つけていないのだから。未だに背中に刺さる矢の雨。一刻も早く座りたくて奥の方へと進むと、二席に食事が完備された空席を見つけた。やっと見つけた隠れ家に私の顔は思わず綻び、足早に向かった。しかし私の足は止まる。なぜならそこの空席は、必ずしも空席ではないからだ。誰かが席を外しているだけかもしれない。二つという点から多分あそこも仲良しな人が座っていたに違いない。ようやく見つけたが、ここは保留にして別なところを探そうか。踵を返すと背後には提督が、水の淹れられたコップを二つ手にしていた。彼に挨拶をすると、彼も挨拶を返して、
「何してるの」
と怪訝な顔をして尋ねてきた。私は席をどこにするか迷っている、と答えると彼は言った。
「俺の隣でよければ、空いてるけど」
何それ新手のプロポーズ?……ではない、しかしそう感じてしまったのは否めない。
「あ……ごめんごめん。冗談だよ。ただ俺の隣の席にご飯は準備できてるから、好きにして。もし良い席あッたらそこに行きなよ」
と私があまりに冷めた顔をしてしまったことを気にして、彼は笑顔を見せて先の言葉の意味を説明しているが、改めて見渡してみても空席があるところは、テーブルが丸々空いていて孤島と化している。
「……じゃあ、提督の隣でいい」
折角だし、彼の近くで食べてみよう。昨日のお昼だってそうだったんだから。
彼は少し驚いた顔をした後、口元が緩んでいた。
「あ、陸奥さん。おはようございます」
「あれ、山城?おはよう」
彼の隣に腰を下ろすと、向かいに座っている寝癖をつけた山城に挨拶するついでに周りにも挨拶をした。
「随分とよく寝ていたようね。任務のない人は朝がゆっくりで羨ましいわ」
といきなり隣の女性から毒を浴びせられ、因果応報とはいえカチンときてしまった。それを笑顔で隠し、彼女から眼を背けた。
……でもどこかで見た顔だし、聞いたことある声だ。あの毒にも覚えがある。それにご飯は丼に山盛りだ。なんかモヤモヤする。もう一度横目で彼女を覗くと、彼女も私に背を向けて隣の女性と喋っていた。その会話が偶然にも耳に届き、モヤモヤは晴れる。
「………あ、あなた加賀さんだったんだ」
すると加賀さんはこちらに向いて、うっすらと眉間にシワを寄せて言う。
「だったって何よ。私は今も昔も加賀よ。それよりもたった一日で人の顔忘れるあなたの頭はどうかしているんじゃないの?」
さらに毒が降りかかる。が、相手が加賀さんと分かってしまえば、それもどうってことない。ここに来る前に散々食らってたのだから、人一倍強い抗体ができている。
加賀さんだと分かっても、どこか拭いきれない違和感がある。何だろうか、メガネか?いやメガネは昨日のお昼の時も外していた。なら何だ。化粧か……。
「何よさっきからジロジロと」
怪訝な顔で私を睨み付ける。私も負けじと眼を細めて彼女の不足した部分を探す。頭部のパーツが足りないのは分かったのだが、果たして何が……。何か昨日より頭が小さいような……。
合点いった私は思わず、「あっ」と声を上げてしまう。
「尻尾がない」
「は?尻尾?何のこと……。まさか髪のこと言ってる?」
彼女の目線は冷酷さに変貌するが、そんなことはお構い無しに私は彼女の肩を叩いた。
「なぁんだ加賀さん。髪下ろしてるから気づかなかったぁ」
ばしばしと肩を叩かれる加賀さんは、四度目に振りかぶられた私の手を掴んで止める。
「やめなさい」
と静かに冷酷な蔑視で底冷えする声色で言った。私の背筋に冷ややかな電流が走って、行いに後悔して彼女に謝罪した。私が謝罪すると掴んでいた私の手を、怒りあからさまに私に投げて返した。
空気が少し淀んだところにさっき加賀さんとお喋りをしていた、隣の女性が頭をひょっこりと出して、
「おはようございます。あなたが陸奥さんね」
と声をかけてくれた。艶のある綺麗な長い黒髪。見た目大人っぽいが、笑顔はとても可愛らしく、子どものようなあどけなさもあった。私も挨拶と自己紹介をすると、
「私は赤城です。これからよろしくね」
赤城さんは右手を差し出し、私も右手を出して、互いに握手をした。なんと柔らかくも力強い手のひらだろう。そして彼女のご飯を見てみると加賀さんと同等かそれ以上の山盛りだった。
気が付くと食堂の前には昨日とは違う女の子が数人立っていて、いただきますの号令がかかった。遅れて手を合わせてから箸を持つ。周りからは食器を鳴らす音や、お喋りな子の話し声が聞こえる。ふと加賀さんたちのほうを見ると、一切言葉を発することなくただただご飯を食べ進めていた。まるで食するためだけに生きているようで、みるみるうちに減っていく丼のご飯が恐ろしかった。
私は自分のペースでゆっくりと、時折提督や山城と話ながら食べ進めていた。
提督が食べ終えるのと同時くらいに私も食べ終え、食後の小休止と洒落こむ。一方隣の大食らいの方々は、まだまだ白飯を掻き込んでいる。
早い子たちはもう片付けて、部屋に戻っていく。私は提督にこの後のことを尋ねる。
「早速任務……と言いたいとこだけど、制服ないからね。とりあえず基地を見て回ッてなよ。あと他の子の手伝いとか、天気も良いみたいだし暇なら運動しててもいい」
窓を見ると、日除けに遮られた日光が室内に差し込んでいる。
「まぁ何をするかは陸奥に任せるよ。運動するならちゃんと水分と休息はとるように」
そう言うと彼は、ご馳走さまと言って立ち上がり、食器を片付ける。
山城と話していると、ことあるごとに"扶桑"という名前が出てきた。どうも彼女の隣にいた、提督と向かい合って食べていた女性がそうらしく、私は山城が紹介するのに続いて自己紹介をした。
「・・・・・・扶桑です。よろしくお願いします」
消え入るかのような細やかな声。ここに来てから長い黒髪は幾度となく見ているが、彼女のそれはこれまで見た誰よりも長く、綺麗ではあるが、どこか重々しい印象を受けた。彼女の顔にはうっすらと隈ができていて、体調を懸念してしまいそうになるが、笑顔はとても繊細で、儚く、そして美しかった。
彼女も含めた三人で語らっていると、提督のボリュームを増した声と柏手が響く。
「じゃあ今日の予定について説明します。主な任務は今のところ遠征だけです。でもいつ要請が来てもいいように第一部隊は準備をしておいてください。次は遠征についてですが、呉に資材が届いたそうなので、それをここまで運んでもらいたいんだけど、那珂ちゃんたちは今日ライブの予定があるようなので、如月、第二班にお願いしたいんだけど、大丈夫?」
「はぁい、了解しました。編成はどうするの?」
「ありがとう、それはあとで相談しよう。それじゃあ今日も暑くなるようだから、訓練や運動するときは怪我や熱中症に十分注意すること。気分や体調が悪かッたら休むこと。あんまりお金の無駄遣いしないこと。以上、今日も頑張ッていきましょー!」
彼がいい終えると、みんなが「おー」と返した。尤も隣の大食らいは未だに食べることに夢中なようだった。私は山城と扶桑と共に食器を片付けて自室へ戻った。
そのままお昼までやることがなく、訓練をしている駆逐艦たちの監督役をしたり、運動場でバレーボールとかしたり暇を潰しつつ、サボっていると思われないように努力していた。シャワーで汗を流してから、お昼はバレーボールのメンバーと朝ごはんの残りを温め直して食べて、午後は自室で休息した。昼の間は洗濯もできるようなので、私の汗で濡れたシャツも一緒に洗ってもらった。結果、上の着替えがまたなくなって、洗濯が終わるまでの間は長袖のジャージを羽織ることとなり、発汗を抑えるためにクーラーの効いた食堂に籠ることとなった。
食堂でまだドロドロな展開をしていない昼ドラを視ていると、食堂の扉が開く音と私を呼ぶ声が聞こえた。私を呼んだのは大淀さんで、どうやら届いたらしい。
私はすっと立ち上がって、大淀さんと荷物の受け入れ場(裏口)へと急ぐ。
荷物は私がここに来る前にまとめておいた、大きな段ボール二つ。ラベルを見るとどちらも衣類と記されていた。部屋に上げるのは大淀さんも手伝ってくれた。部屋に着く頃には二人とも息が上がってしまい、大淀さんには申し訳ないことをしてしまった。心付けをいくらか渡そうとしたが断られ、それでも退かなかった私は彼女の胸ポケットに突っ込んだ。彼女は愛想笑いを浮かべて、お礼を言って戻っていった。
それにしても量が多い。圧縮袋にいれてペッタンコに圧縮してこの量なのだ。元々転属の多い質であるため、荷物は最小限にしてきた。でなければ荷物の多さで辛くなるのは自分なのだ。だから私がいるもの、いらないものをハッキリ分けて淘汰し、最終的には大きめのキャリーケースとボストンバックに収まる程度にまとめていた。横須賀の第五司令室に就くまでは。あそこにいた二年半で、これだけ増えてしまった。昔から着ている服だけでなく、そこの仲間と遊びにいった時に買った服、初めて彼と出掛けたときに買ってもらったもの。その後も何度も仲間と買ったり、彼に買ってもらったものがたくさん。ふと荷物を整理していたときのことがフラッシュバックして、目が熱くなった。そして同時にこの場にあることに安心した。
捨てられないよね。一番付き合い長かったんだから。
感傷に浸っていると、部屋の戸がノックされたので返事をすると、大淀さんが、
「すみません。もう一つありました」
と、レターパックを持っていた。受け取ると彼女は去って、私は怪訝に思いつつも封を開けてみる。中に入っていたのは色紙が一枚。翻して見てみると、いつかの第五司令室の宴会の際に撮影した集合写真を中心に、同司令室の仲間からの寄せ書きが記されていた。色ペンを使ったそれは、色紙の空白を埋め尽くす放射状に伸びた色鮮やかな虹のようで、内容はどれも似通ってはいたけれど、胸の奥がとても暖まった。一人一人の言葉を呼んでいると、共に過ごした日々が綺麗な輪郭でよみがえる。高校の卒業式でもここまで暖まらなかったのに、あそこでの時間は私にとってとても輝かしいものとなっていた。
レターパックを潰そうと中身を確認すると、まだ小さな箱が残っていた。その箱は尻尾のような紐が一本出ていて、まるで白いネズミである。箱の一面には彼の字で"紐を強く引け!!"とオレンジで書かれていた。怪しさしかないが、開けようにもどこも厳重に封をされていて、紐しかない。彼の言うとおり紐にをつまむと、手が震え、呼吸も荒くなった。
絶対何かあるよね、爆弾?だったら私死ぬよね。
三分ほど経ち、決心がつかないのであるメロディーを口ずさんだ。
「……そしてー、輝く……」
紐にぎゅっと力をいれ、
「ウルトラソオッル!」
ハァイッ!!と同時に引き抜いた。すると、
ピリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ!
と甲高い電子音が大音量で鳴り響いた。私は焦ってどうしたらいいか分からず、狼狽した。
どうしたらいい、とりあえず止めなきゃ。でも止まらない。壊す?壊せば止まる?でも何で壊す。あ、スリッパ、スリッパで叩こう。
ピリリリリ、バシッ、リリリ、バシッ、ピリリリリ…。
鳴り止まないよ、どうしよう。投げれば壊れる?投げてみよう。
ピリリリリ、ガシッ、ピリリリリ…。
ダメだ!どうしよう、かくなる上はお尻で潰すか、でもお尻痛めるのはイヤだ!あ、キャリーバッグ!キャリーバッグで潰そう!必殺!ボディプレス・ウィズ・バッグ!
ピリリリリ、どっせーい!
ガシャ、という音を最後にネズミは泣き止んだ(死んだ)。キャリーバッグを退けて、恐る恐る小箱を開けると、中には粉々に砕かれた防犯ブザー。
こんな下らないイタズラを仕掛けるのは、ただ一人。彼だ。昨日彼を罵声した時には既に発送されていた筈だから、これは罵詈雑言の報復ではなく、私が荷物を置いてきてしまったことに対するお仕置きだろう。それにしても性悪なことをするものだ。おかげで私の部屋の前に人だかりが、数人ばかりだが出来てしまっている。なんだなんだとひそひそとしたざわつきが、強く耳に残った。
「なんかすごくうるさいなと思ッたら、めちゃめちゃハッスルしてたけど大丈夫?」
彼に一部始終を説明したが、動揺のおさまらない私がちゃんと説明できていたかは分からない。その証拠に野次馬の顔は変人を見る顔そのもの。
「つまりイタズラで送られてきた防犯ブザーを消すために、バッグで潰したと」
なんとか分かってくれたようであるが、表情に雲がかかっている。
「ケガはない?あと床とか大丈夫?もし壊れてたら自分で直してね」
と私と床の心配をすると彼は、周りの野次馬の子達を連れて去っていった。さっきとは正反対に静かになった部屋に一人残った私は、白いネズミの残骸を封筒に戻してゴミ箱へ投げた。
それからはこの基地にある新たな陸奥の装備を、これまで私が使ってきた装備と同じになるようにチューニングを施す。思った以上に手こずり、それだけで午後を費やしてしまい、若干の頭痛に見舞われつつ夕食の時間となった。
夕食は金曜日ということもあって、カレー。仕事終わり、そして週末ということもあってか、みんなの雰囲気はどこか明るい。昨日よりも少しばかり賑やかだ。座席は今朝と違って、比叡に誘ってもらったので、金剛型のみんなと相席になった。今日のカレーは金剛型の片言長女・金剛こだわりの一品らしく、具の形が小さくどの具なのか分からなくなるまで煮とけている。見た目はまるで懐かしいサービスエリアの安いカレーのようであるが、私がこれまで食べたカレーでは無かった芳醇な香りがあった。そして問題の味であるが、美味しかった。煮とけてレトルトにさえ見えるそれに、私は正直なところ期待していなかった。どうせちょっとお高いものと同等なのだろうと思っていたが、意外にも煮とけた具材が良い出汁になっているようで、スプーンすいすいと掬っては口に運んでしまい、一杯では足りないとさえ思える。私は金剛に「美味しかった。今まで食べた内で一番」と感想とともに賛美すると、「ありがとう」と恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。
結局私は二杯おかわりして満足したところで食事を終えた。食器を片付けていると、おかわりを取りに来た提督と鉢合わせた。
「そういえば制服届いたんでしょ」
と彼に問われて、荷物が揃った報告と、手間をかけさせてしまったことのお詫びをした。彼は謝らなくてもいいと言ってくれ、私は胸を撫で下ろす。
「それじゃあ制服も届いたことだし、制服の御披露目といこうか」
私は思わず、「は?」と返してしまった。目も普段よりずっと見開いていたと思う。
「なんでまたしなきゃいけないの」
「そりゃあ、昨日はスーツだッたから。顔は分かッても仕事着が分からなかッたらダメじゃん」
彼の言い分はよく分かるが、それでも私は任務以外での制服姿を極力控えている。だが彼は半ば強引に渋る私に着替えてくるように指示した。もうセクハラとパワハラで訴えてやろうかと思えるほどに。
結局負けた私は自室に戻って制服に着替える。この姿になるのは二週間ぶりだろうか、先程のジャージ姿に比べて随分と過ごしやすい、そして動きやすい。私はこそこそと食堂に戻った。
恐る恐る扉を開けていると、私が来たことを感ずいた彼が、
「さぁ、陸奥さんの登場ですッ」
とまるで特別ゲストを扱うように扉を開け放ったため、私の隠密は悉く無に帰した。私の制服姿が晒され、皆の視線は一気呵成に私に集結した。そして同時に目を見開き、食事中の人は吹き出して噎せている。ごめんね噎せちゃった子。
「な、ななななななんて格好してんのーッ!」
金剛が立ち上がって大声で指を指している。彼に至っては私の頭から爪先まで舐めるようにまじまじと視て、「え、え」と戸惑いの声を漏らしている。私は上から下への往復を繰り返す彼を、頬をつねって停止させる。この反応にも慣れた。何故このような反応をさせてしまうのかというと、私の制服は標準の長門型のものではなく、私が勝手に手を加えて改造したものだからだ。ジャケットは丈を短くしヘソ出しにして、ノースリーブに。スカートは本来の長さの半分以上短くしたので、膝上十センチ程(もしかしたら以上かもしれないが)。私はこの格好が好きだ。好きじゃなければこうはしない。だが傍目にはこの格好はこう呼ばれる、"露出狂"と。
狂乱する金剛に掴みかかられ、私までパニックに陥る。さっきまで食事をしているときはあんなに優しかった彼女が、物凄い圧力を私にぶつけている。
「アナタがそんな露出狂だとは思わなかった」
気が付くと側に来ていた加賀さんから、その言葉をとともに冷徹な眼差しを浴びる。
この格好は随分と不評らしい。私はもう色々慣れてしまっているので、今更動じたりしないが、それでも胸の内は少し傷みを帯びている。元はというとこの服は、同型であり私の姉貴分にあたる長門のために考えたファッションであり、私の制服を試作品として制作した。勿論全部私の趣味で裁て、長門の注文はほぼ聞かなかったため、本人からはかなり怒られたが、何だかんだと着てくれている……とありがたい。実はこの制服は長門のためというよりは、異動する彼女への餞別として渡したプレゼントなのだ。離れても世界に一組しかない同じ制服を着ているのなら、それは大層素敵なことではないだろうか。……そうでもないか。
私を中心の喧騒に包まれる。でも、と提督の静かな声が彼女たちを静粛にさせる。彼の続く言葉にこの場の誰もが注目した。
「似合ッてるよ。可愛いじゃん」
と適当な言葉で私を評した。それは誉め言葉なのか、単なるお世辞なのかは問わないで、とりあえず誉め言葉として受け取っておく。彼に一言、ありがとうと言うと、
「まんざらでもなさそうね」
と加賀さんが睨み付ける。そもそも嫌とは言っていない。嫌だったのはこの格好をみんなに大々的に晒すことだ。せめて私のペースで露にしたかった。
彼から好評を受けたところで、私は簡単な挨拶をみんなに済ましてさっさと部屋に戻った。すぐにジャージに着替えて部屋でまったりとベッドで寛いでいた。寛ぎついでで防犯ブザーの件のクレームをいれるために横須賀の方へ電話をかけた。赤っ恥をかいた、新しいキャリーバッグを要求する、などもう過ぎたことだがやんややんやと彼に申し立てると、彼は楽しそうに大きく笑って、
「大成功」
と言い切った。私も負けじと反論するが、段々とその気も失せていき、やがて私は大きく溜め息をついて退いた。私が引き下がったのを察すると、彼の話声は楽しそうな陽気なトーンから、何かを怪訝するような小さく優しさを感じるものへと変化した。
「……昨日の今日でまた言うのもあれだが、……ま、頑張れ。からかう相手がいなくなるのは物悲しいけど、お前が選んだことだしな。大人ならちゃんと責任をもって果たせよ。月潟くんに迷惑をかけないようにな。お前はその場時々の雰囲気で流されやすいから、また同じ失敗を繰り返しそうで心配だよ」
小さく激励してくれた彼の一語一句とともに、今日までの日々を反芻してしまって胸が揺さぶられる。少しずつ目が熱くなっていった。
「ありがとう提督。大丈夫よ、私も頑張るから」
うん、という彼の返事で通話は終了した。通話を終え、それまで彼の名前が表示されていた携帯電話の画面は、既に待ち受け画面に戻っている。携帯電話の電源を切って枕元に放ると、私は体育座りをして膝に顔を埋めた。改めてもうここは以前の基地ではないこと、もう顔見知りの仲間がいないこと、そして彼がいないことが豪雨のように身体に降り注ぎ、のし掛かる。早く気持ちを切り替えなければと急げば急ぐほど雨足は強くなり、重さは増すばかりで一層深くなっていく。部屋を暗くしていたせいもあって尚更だった。外では夜戦の演習をしているようで、平和とは対極の音が響いていて、夜の静かな海を慌ただしくさせている。
突然ノックが響いた。顔を脱ぐってドアを開けると、四人の女子がいた。その内三人は扶桑と加賀さんと金剛。もう一人は十五歳くらいの少女で、名前は知らないが今朝の朝礼において、遠征の件で提督に声をかけられていた娘だ。何用かと尋ねる前に金剛が前に出て来た。怖い顔つきで腕を組んでいる様は金剛の名に恥じない。彼女の覇気に気圧されて無意識に後ろに下がってしまう。彼女だけじゃない、よく見ればここに来た四人全員が、表情は違えど同じく覇気を纏っている。
「あなた長門型の陸奥よね」
と金剛が今更確認をとる。
「アナタの制服、長門型のにしては随分とcoolよね」
一見誉められているようだが、それは違う。これは皮肉だ、明らかに侮蔑を感じられる。
「あーやって男の人を落としてきたってコト?」
咄嗟に否定した。勿論そんな筈がない。あの格好で寄ってくるのは肉欲に飢えた駄犬だけだ。男の人の気を引きたいならもっとちゃんとした格好をする。TPOに合致し、尚且つ周囲よりも少し綺麗な格好をしてこそ、勝ち組への第一歩へと繋がるのだ。
「正直に言っていーよ。前の基地でもあの制服で男の人を落として、艦隊の風紀を乱してたんでしょ?」
「そしていられなくなってここに来たんでしょ」
ついに加賀さんまでも加わる。気付いてはいたがこの場には味方がいないようだ。二人の言いがかりを否定するが信じてもらえない。
「テートクのことも狙ってるのかもしれないけど、そーはいかないよ」
狙ってなどいない。確かに彼は優しいし、顔もそこそこ良い。だがそれとこれとは話は別だ。狙うかどうかはもっと喋って仲良くならないと。ここで黙っていた少女が口を開く。
「まぁ司令官も経験豊富じゃないから、陸奥さんがそのつもりでも勘違いして意識しちゃてるかもね」
さらにアダルト三人の目は鋭くなる。女の子は楽しそうに悪い笑みを浮かべていた。すると金剛の手に触れる扶桑。ついに私の味方をしてくれるのだと淡い期待に安堵した。しかし、
「でもね陸奥さん。あなたがそのつもりはなくても、外から見れば誘っているように見えるの。それに聞きましたよ。あなた、面接の時にわざと短いスカートを履いて、下着をチラチラと見せたんですって」
もう出回っているのか、それも誤解を招く形で。間髪いれずに加賀さんが訂正と補足をいれてくれたが、それでも彼女の目付きは変わらない。
「そう、なら偶然の産物だったのね。でもスカートのことは否定しないのね」
否定しなければならないのだが、誤解を解くのが面倒になっていたのが本音だ。どう足掻いても向こうの都合の良いように捉えられてしまう。確かに短いスカートを履いていたのは事実だし、そこからチラチラ見えていたのかもしれない。提督の趣味とそれの合せ技で通ったようなことを、発表の直後に加賀さんが行っていたし、今日のことを聞けば誰だって私は提督とそういう関係を持ちたい女と思われても致し方ないことだ。
「残念です陸奥さん、あなたとはどこか似たようなところがあるから、仲良くなれると思っていました」
もうあなたと絶交なの?いくらなんでも時期尚早じゃない?
「まさか、あなたまで提督の恋人希望とは」
あれ、まだ誤解されてる。そこはさっき訂正したはずなのだが、聴こえていなかったのだろうか。
「陸奥さんは綺麗だし、体型も理想です。そして性格も良さそう。もう私に勝ち目など」
「ま、扶桑が無理ならこの金剛がテートクのハートをGETするまでよ」
「は?何言ってるのかしらこの英国かぶれは。あなたよく提督に絡みに行ってるけど、その時の提督の顔見てる?嬉しくしてると思ってる?」
「嬉しいに決まってまーす!私が傍にいるだけでテートクは日々の疲れを癒せているのです!」
「そう思えて幸せね。実際は愛想笑いを浮かべているだけよ。あなたが立ち去ったあとは大体ため息ついて、安堵してるもの。まるでお荷物ね」
「な!誰がお荷物よ!それを言うなら扶桑だっていつもため息ばっかりで、いるだけで空気がドンヨリするのよ!それこそテートクの疲労のほとんどは扶桑のローテンションの所為でしょ!」
なんかもう二人の喧嘩になってしまった。蚊帳の外に出られそうだし、隙を見て出てしまおうか。ふと加賀さんを見ると昼間のように、声を押し殺して笑っているようだ。その横の少女は大きく溜め息をついて、一石を投じる。
「もう二人とも醜いわよ、これだから年増はヤダヤダ。二人みたいなドロドロした大人になんて司令官は任せられないわ。やっぱり若くてピッチピチで髪もサラサラなこの如月が相応しいわ」
投げ入れたのは石ではなく、油だった。
「Shut up!身体も出来上がってないチビッ子が何生意気なことを!」
「そうよ、第一あなたに手を出したら犯罪なんだから、提督があなたに向くわけがないでしょ」
「それは今の話でしょ。あと二年もすれば結婚できる年になるし、身長も胸も順調よ。二人の年になる頃には追い越しちゃってるかもね、色々と」
扶桑の顔が小面のように静かかつ、どこか恐怖と威圧を思わせるものになった。金剛もきーっとなって耳まで真っ赤にしている。如月という少女も大人二人に全く気圧されずに歯向かっている、中々の度胸の持ち主だ。一方加賀さんは相変わらず楽しそうだ、何しに来たんだこの人……。
彼女らが喧嘩に勤しむ傍ら、私は少しずつ後ろに下がって部屋に戻ろうとしていた。気付かれないように私はドアノブに手をおいて、ドアの稼働範囲内に私しかいないことを確認すると、
「それじゃあ夜も遅いですし皆さんおやすみなさい」
と笑顔でいってドアを閉めた。一瞬気付いた金剛が抑えようとしたが、その手は届くことなく、ロックが効くのに間に合わなかった。閉めてしばらく外が騒がしかったが、五分も経つ頃にはそれも収まった。念のためドアスコープから外を窺うと、そこには廊下だけが写し出されている。ようやく取り戻した平穏に胸を撫で下ろし、寝る支度を済ませるため歯を磨く。いつの間にか夜戦の演習も終わっていて、海もすっかりおやすみしていた。さざ波の音に耳を傾けていると、背後でガチャンという音が響く。振り向くとそこには髪の長い白い服を着た女性が立っていた。
何が起きているのか理解できなかった。呆然とするあまり落としてしまった歯ブラシ。女性はこちらに歩み寄っている。本能的に叫び声を上げた途端、女性は一気に距離を詰めて私の口を手で覆った。そのままベッドに押し倒されてしまう。まさか幽霊に押し倒される日が来ようとは、抵抗しようにもびっくりし過ぎて身体に力が入らない。ただ目を固く閉じて消えろと念じた。
「……陸奥さん、私です」
聞き覚えのある声。ゆっくりと目を開けて凝らして見るとそこにいたのは扶桑だった。一気に肩の力が抜けて、それを察した扶桑も手を放した。
「すみません。叫ばれると彼に怒られてしまうので。合鍵を勝手に持ち出すなと」
依然マウントをとられた状態で話が続く。彼女は私を真剣な眼差しで見詰める。
「一応確認させてください。あなたは彼と関係を持ちたいですか」
未だに彼女の威圧に気圧されていたのか、驚き過ぎた余韻なのか、声が出せない。首を横に振って答えとした。
「ほんとうに?」
今度は縦に。
そのまま彼女に見詰められる時間が少しばかり続いた。明かりのない静寂の部屋にこの状況。もし彼女が男だったらこのあとめちゃくちゃ…。
「……安心しました。陸奥さんにはどうやっても敵う気がしませんでしたから」
彼女は微笑みを見せて私から放れた。
「先程はすみませんでした。これからも仲良くしてくださると嬉しいです」
「私も誤解を招くようなことして、ごめん。これからもよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
彼女はぺこりと頭を下げると、ゆっくりと出口へ向かう。部屋から出てドアを閉めようした彼女の手が止まり、「そうだ」と閉まりかけのドアを顔一つ分だけ開ける。
「もしこの先彼を略奪しようものなら容赦はしませんので、覚えておいてくださいね。それではおやすみなさい、また明日」
最後の最後に楔を打ち込まれた。やっと一人になれたというのにまだ視線を感じる。あの提督親衛隊のせいだろうか。明日からイジメられたりしないだろうか。「また明日」がこれ程怖く寒気のするものだとは。これからやっていけるか不安で不安で。まるで身体に重りをつけられて海に放られた気分だ。一秒ごとに不安は重く、深さを増していく。もうここでやっていける気しないよ、こんな夜中に合鍵を使って不法侵入してくる人がいるところなんて怖い。やっぱり帰ろうかな。しかし不幸の次には必ず幸運が待っている、世の中バランス良く出来ているのだ。とりあえず前を向いていこう。私はベッドから起き上がって落とした歯ブラシを探す。発見し拾おうと歯ブラシの傍に寄ると、突如左足が滑り、体勢を崩した私は床にドスンと落ち、尻を強打した。痛みと同時にこうも不甲斐ない自分が情けなくて、真っ暗な部屋でしばらく一人泣いていた。
ここまで読んで頂けて嬉しいです。ありがとうございます。またよろしくお願いします。