「―――それじゃあ、まだまだ寒いんだから暖かくしてね」
診察を終え今のところ最後の患者さんに、処方した薬を受け付けで手渡す。この診療所を開いたころと比べ、ずいぶんと患者さんに笑みを向けるようになった。
一礼してから出ていくお婆ちゃんに、またねと声をかける。あまり私らしくない台詞だと思うけど、見送ったお婆ちゃんは嬉しそうだった。
「……さて」
今日も忙しく、少しだけ疲れた。
それでも体の疲労と違い、心には充実感がある。我ながら、変わるものだ。
時間的に今のお婆ちゃんが今日最後の患者さんになると思うが、もしかしたら急患もあるかもしれない。もう少し診療所を開けておこう。
立ち上がって、診療所内の小さな給湯室に向かう。
珈琲でも飲みながら、カルテの整理でもしよう。
本当は、最初から整理の必要がないほどに整然としているのだけど。
あまり早く帰りたくはない。仕事を離れると、どうしても嫌な事をを考えてしまう。
カップを用意し、ケトルのお湯を使って珈琲を淹れる。
最初に少し練るといいとか、水も新鮮なものを使ったほうがいいとか、いろいろと、インスタントでも美味しく淹れられる方法を聞かされていたが、自分一人で飲むためのものに、そこまで手間は掛ける必要性を感じない。
こういうものは、自分よりうまく作れる人がいるから価値が出るのだ。
―――説明しよう
いつもは寡黙な彼が、唐突に珈琲の原産地から豆の特徴まで語りだした時の事を思い出す。この小さな給湯室で、びっくりするほどに美味しい珈琲を淹れてくれた。
おもわず、貴方そんなこと説明できる子じゃないでしょう? と、そう尋ねたら教えてもらったんだって、少し気恥ずかしそうに微笑んでいた。
その彼の顔を思い出し、少し笑ってからすぐに陰鬱な気分になった。
ダメだ。あまり考えないようにするため、仕事から離れないようにしているのに、患者さんから離れると、すぐに彼のことを考えてしまう。
ついこの間までは自分の心が、自分と患者以外に搔き乱される感覚を好ましく思っていたが、今は少しだけ……忌々しい。
カルテの整理は、予想通りというか、すぐに終わってしまった。少しでも他のことに埋没しようと、何度も読んだレポートや、患者の経過観察に目を通しもする。
それでもそろそろ限界だろう。時刻を確認し、診療所入り口の扉に、休診の札を掛けようと診察室から出る。
診察室から出ると同時に、診療所の扉が開かれるた。急患かなと思って見ていたが、どうやら違うようだ。
目が合う。
来訪者は、少し睨みつけるような私の視線にもまるで動じない。
初めてここに来た時より、少し背が伸びた。体格も厚みが増している。それでも華奢な印象は変わらないのは、私が最初に彼に抱いたイメージのせいかもしれない。
初めての治験の時に、渡された薬剤に難色を示していた。地元からこっちに来たばかりと言う、所在なさげな、少し不安そうだったあの頃が懐かしい。
「……ふぅん」
観察するように眺める。ずいぶんと図太くなったものだ。治験のせいで度胸がついたとしたら、私のせいかな? なんてことも思う。
ああ、そういえば。
異常が無いか、診てあげると言っていた事を思い出す。
少年院から出所したばかりなのだ。いくつか診ておきたい事もある。
軽く頭を掻くようにしてから、私以外と何人の女性とも付き合っていた彼に向け、閉じていた診察室の扉を招き入れるように開いた。
「……診察室にどーぞ」
◆
「……ちッ」
珈琲は、片付けておけばよかった。
デスクに置かれぱなっしの、黒塗りのマグカップ。彼に貰ったものだ。愛用しているだなんて、今は気づかれたくない。広げていたレポートと一緒に、少しだけ乱雑にデスクの隅に追いやった。
「それじゃあ、上着を脱いで」
動揺を、年下の彼に悟られたくない。手早く進めようと、彼を促した。
彼は上着を外して、着ていたシャツも脱いでいく。
ずいぶん慣れたものだ。最初の頃は、私に裸を見られる事に随分抵抗がありそうだったくせに。
すぐに上半身だけ裸になって、椅子に腰かける。
相変わらず、細身だが引き締まった身体をしている。数ヵ月ぶりに見るが、大きな変化はなさそうだ。
「背中、向けて」
彼の肌に優しく指先で触れながら、一つずつ確認していくように、ゆっくりと指を這わせていく。
よく目を凝らさないとわからないが、小さな傷跡がいくつも残っている。何時ついた傷なのか、私はそれを知らないし、どうして傷つくのかも、はっきりとは聞かされていない。
傷跡のいくつかで、指が止まった。
彼の身体に、私の知らない傷跡が増えていたからだ。
最後に二人で過ごしたのが、十二月の上旬。
そこから彼が居なくなるクリスマスまでに、負った傷なのだろう。
とんでもないことがあった気がする。世界が、変わってしまうほどの。それでも記憶に靄がかかったように、はっきりとは思い出せなかった。
彼が、怪盗が、それに関係していて、そして救われた。
それだけわかっていれば私には十分だ。それ以上は詮索しようとも、調べようとも思わない。
「もういいよ」
彼の背中を一撫でしてから、惜しむように指を離す。服を着直した彼に向けて、いくつか問診する。
どうやら今まで治験で使った薬の影響もないらしい。問題は無さそうだ。
少しだけホッとした。たった数ヵ月とはいえ、しばらく彼を診ていなかったせいで不安だった所があったからだ。
「―――さて」
脚を組みなおして、彼に向き直る。
医者としての不安が解消された。ならば今度は、恋人の不満の解消といきましょうか。
「元気そうだね。夜だからかな? 夜行性のモルモット君?」
浮気された経験は、これが初めてでは無い。
男と研究、どちらを優先するかと問われれば研究を取ってきたし、相手が浮気をしていたと知っても、ショックを受ける事は無かった。
―――じゃあこれで終わりだね。さようなら。
何時だってそれだけで終わりにしてきた。今回も出来ると思っていた。
なのに……出来なかった。
この一年、ずっと彼を診てきて、見てきた。
初めて会ったきは、肉体的に健康そうだ程度しか彼に対して思いを抱かなかった。普通の学生に見えたし、実際そうだった。
受験の為に薬が欲しいだなんて、わかりやすい嘘だと思ったけど、私にも彼を利用して治験を進めたい理由があったし、いい取引に思えた。だから騙されたふりを続けた。
そんな感じで取引を始めてしばらくしたら、彼に変化が起きた。
慣れない環境に不安そうだった表情はなりを潜め、強い意志のようなものを私に魅せるようになった。度胸が付いたと言うべきか。
急患の親子に、武見先生が治すなんて勝手を言って。
大山田相手に、武見は良い医者だなんて初めてここに来た時の貴方じゃ、言えない台詞だったよね?
大山田に美和ちゃんが死んだと聞かされた時。誰かに話を聞いてほしかった時。その相手に貴方を選ぶなんて、自分でも驚いてしまった。
貴方、いつの間にそんな甲斐性、身につけたの?
「……ふふ」
少し笑ってしまう。
あのモルモット君がいつの間にか何人もの女に手を出して、私を困らせるようになるなんてね。大した成長ぶり。
「さて、今日は何の用?」
頭の良い彼の事だ。こういう時は、最初の言葉が肝心な事くらい理解しているだろう。その上で私に何を言うのか、少し楽しみだ。
間違っても今までの男みたいに、ありきたりな台詞は言わないでよ? そう期待を込めて、ゆっくりと口を開く彼を見つめた。
「チョコが欲しい」
……なに、それ?
◆
呆然とした。
予想外というか、ありえないんじゃない? なんでそこで、チョコなの?
斜め上か、それとも下? まあでも、確かに今までの男たちは言わない台詞ではあるかな?
「……残念、もう捨てたよ」
どんな顔をするかな?
悲しむ素振りがあるなら、少しは可愛げがある。もう少し苛めてあげる。怒るようならここで話はお終いだ。お別れにしよう。
そう決めてから彼の表情を伺う。
悲しんでも、怒ってもいない。まっすぐに、私の瞳を見つめてくる。
捨てているわけがないって、そう確信している目だ。
わかっているんだ、私が貴方のためのチョコを、捨てたりするわけが無いって。
だから、どこからその自信はくるのよ?
「……そういえば、見覚えがある子もいたね。喫茶店のマスターの娘さんに、神宮で会った子も……そう、二人でデートって聞いても否定しないし。そのころには私とも付き合っていたのに、本当いいどきょ……」
言葉が、続かない。彼はまっすぐに、私を見つめている。その視線に、吸い込まれてしまいそうだ。
目を合わせ続けられない。視線が泳いでしまう。
……なんで私のほうが、動揺しなければならないのよ。
「……わかった。私の負けだよ」
白衣のポケットから小さな鍵を取り出して、デスクの鍵付きの引き出しを開ける。中から大事に仕舞い込んだチョコを取り出して、彼の前に差し出した。
彼が手を伸ばしてその私からのチョコに触れる前に、勇気を振り絞って尋ねてみた。
「……どうしてあんな大勢に、手を、……出したの? 貴方は、私じゃあ、……満足できなかった?」
声が震えている。こんなありきたりで女々しい質問を、したくはない。でも答えを聞いて納得できないと、このチョコは渡せない。
こんな私らしくない質問を予想してたわけじゃないだろうが、彼はすぐに口を開いた。
「妙は、美和ちゃんと今の患者さん、どちらかしか選べないとしたら、どうする?」
質問に質問で返さないで。そう思ったけど、考えてはみる。
どちらかしか選べない? 誰が決めたのよ、そんなこと。
「……両方選ぶよ」
あたりまえでしょうって続けて、気付いた。
まさか、それが答えなの?
貴方は私とあの子たち、全員を秤にかけて、全員を選ぶことを決めたの?
「……はぁ」
呆れて物も言えない。
そもそもどうして貴方の女癖の悪さと、私の患者さんが同列なのよとそんな事も思う。
「……この国じゃ、貴方のしていることが許されない事は理解している?」
「している」
まったく迷いがない。なにこの、手の施しようのない患者を見せつけられている感じは。なんでこんな事に、ここまで覚悟決めてるの、貴方は。
これはもう、何を言っても何をしても聞かない。
彼は私と別れるつもりがない。もちろん、私以外の彼女達とも。
本当にどうしてあの普通の高校生が、たった一年でこんな風になっちゃうのよ。
諦めて、項垂れた。
この変な風についてしまった度胸が私の治験のせいならば、最後まで面倒をみないといけないと、我ながら馬鹿みたいな覚悟を決める。
何度目かのため息をついてから、直接彼にチョコを手渡した。
「わざわざ海外から取り寄せたの」
彼が大事そうに受け取った。海外って言葉を、確認するかのように彼が漏らしてる。
ちょっと。いくらこの国で許されないことだからって、海外に移住するとか言い出さないでよ?
この一年で成長した彼ならば、どんなことをしでかすかわからない。これも私の治験の責任なわけ?
「これから、全員と話をしに行くの?」
「ああ」
「……ふうん」
椅子を回転させて彼に背中を見せる。ヒラヒラと手を振った。
「話し合いでどんな怪我しても、私が診てあげる」
生きてさえいたらねって続けて。
たぶん、四月の頃の彼が浮かべていた、懐かしいあの不安げな表情をしていると思う。少しだけ見てみたい。背中なんか向けるんじゃなかった。
まあでも。これからいくらでも見る機会はあるか。
……長い付き合いに、なるだろうし。
口元に、彼からは見えなくてよかった、微笑みを浮かべて告げる。
「それじゃあ―――」
―――お大事に。