恋する赤鬼   作:鯉庵

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嫉妬

 妖怪世界は夜が本番。

 奴良組本家は今日も今日とて、自由気ままに大騒ぎだ。

 箸で酒瓶を叩いては景気の良い音を鳴らし、裸踊りはお手の物だ。

 人間社会にありながら妖怪達は柵に囚われることなく夜を謳歌する。

 とはいえ、こんな真夜中に飲めや歌えやの大宴会を開いていてはご近所様に迷惑なのは明白である。

 事実、此処にも一人、甚大な被害を受けている少年の姿があった。

「五月蠅いなぁ……こんなんじゃ、勉強に集中できないよ」

 茶色い髪を掻き毟りながら、奴良リクオがぼやく。

 背の低い長卓の前に胡坐をかいて、小さく淡い橙色の灯りを頼りに教科書を開く。

 身長も幾ばくか伸びて、顔つきも少し大人びて見えた。

 悪戯ばかりして、氷麗を困らせていた頃が嘘の様である。

 白い長襦袢の襟元はしっかりと整っている。

 眼鏡のズレを正す仕草は正に“優等生”そのものだ。

 数式をを一つ一つ丁寧に大学ノートに書いては解き、書いては解きの繰り返し。

 脇に置かれた複数のノートにはリクオの名は無い。

 全て性別も名前も違う物だ。

 そう、これはリクオが“都合のいい奴”として扱われている証拠。

 魅琉鬼を悩ませる要因の一つである。

「リクオ様、まだ起きていらっしゃるのですか?」

 障子の向こう側から聞こえて来る声にリクオの心音が高鳴る。

 慌てて長卓に置かれた教科書とノートを閉じる。

「う、うん! ちょっと寝れなくて本を読んでたんだ。でも、もう寝るから」

 言いながら鞄に教科書とノートを押し込んで、手近にあった文庫本を開く。

「失礼いたします」

 彼女が了承も無しに部屋へ入って来るのはとても珍しい。

 初の覚醒から早くも五年の月日が経ち、魅琉鬼の体つきも成長を遂げている。

 主に思春期真っ盛りのリクオを悩ませる方向に。

 まだ、冬が終わりを告げて間もないというのに、彼女の格好はとても 簡易的で風通しの良さそうな浴衣であった。

 襟元を繋ぎとめるのは、なんとも頼りない腰紐一つ。

 藍色の朝顔の柄は涼しさを演出する。

 普段は“さらし”によって抑圧されているたわわに実った二つの果実が、その重量感と柔軟さをアピールしていた。

 気のせいか、赤い髪から甘い香りが漂ってくる。

「リクオ様、先程鞄の中に仕舞った物を私に見せて下さい」

 リクオの前に正座する魅琉鬼が笑顔で言った。

「な、何のこと? 僕は本を読んでただけだよ」

 彼女の黄金の瞳がすぅっと細くなった。

 蛇に睨まれた蛙の心境を味わう羽目になったリクオ。

「お忘れですか? 私は“耳”がとてもいいのですよ? 嘘はいけません……先程から心音がどんどん高まっておりますよ?」

 ここで、『君に見つめられているから』と洒落た台詞が吐けるリクオではない。

 有無を言わせぬ笑顔のまま魅琉鬼の顔が迫った。

 駄目だ。

 この貌をしている時の彼女に逆らってはいけない。

 リクオの勘がそう告げている。

 ここに“妻の尻に敷かれる夫”の絵図が完成した。

「――はい」

 観念したのか、鞄からノートを取りだして魅琉鬼に渡した。

 紙が捲られる音だけが木霊する。

 一通り目を通し、ぱたりと閉じられるノート。

 あからさまな溜息がリクオの胸を締め付けた。

「全くもう……あれほど、不正に加担してはいけませんと申したではありませんか……」

「で、でも……」

「でも、じゃありません」

 リクオの言い訳は即座に叩きおとされ、此処から非の打ち所のない正論攻撃が始まる。

 気のせいか、段々とリクオの身体がしぼんで行くように見えた。

「――……ですから、宿題は自分でやらなければ意味がないのです! いいですか? 今後、このような不正には手を貸してはいけません!」

 言いたい事は全て言い終えたのか、もう一度深い溜息を漏らす魅琉鬼。

「ごめんなさい」

 そう言って、肩を落とし、魅琉鬼を見つめる眼差しは捨てられた子犬を髣髴とさせえる。

 其れが彼女の嗜虐心に火を灯した。

 魅琉鬼は鳥肌が立つ程の艶笑を浮かべる。

 齢十五歳でこれほどの妖美さを秘める女はそう易々と御目にかかれまい。

 猫が擦り寄る様に、魅琉鬼は己の身体を押し付ける。

リクオの理性を根こそぎ奪ってしまう程に“柔らかな肉”が大きく歪んだ。

 仰け反りながら視線を落とす。

 少し顔を出し始めた喉仏が大きな音を鳴らす。

 二つの膨らみが鬩ぎ合って出来た“谷間”に汗が伝う。

 甘美な香りがリクオの鼻孔を掠めた。

「み、魅琉鬼……? ちょーっとこれは近すぎないかな? 其れにほら、あたってるし」

「当てているのです……それに何か問題でも?」

 形のいい薄桃色の唇が鼻先三寸まで迫って来る。

 甘い吐息が、熱を帯びる。

「リクオ様が、何度言っても聞き分けがないのがイケないのですよ?」

 耳元から聞こえる囁きはひどく蠱惑的で、リクオの背中を震わせる。

「ほ、本当に拙い事になってますよ? 魅琉鬼さん」

 敬語に変るのは彼が本当に混乱しているようだ。

「何も拙い事に事などありはしません……リクオ様も十と二つ……私も十五になりましたわ……そろそろよろしいのではなっくって?」

 言いながら、魅琉鬼の白い指先が襟元へ伸びる。

「よろしいって何が……うぅ」

 ひんやりと冷たい指がリクオの肌を滑る。

 語尾は弱くなり、防戦一方だった。

「女の口から“其れ”を言わせたいだなんて……少々野暮ではありませんこと?」

 魅琉鬼の瞳は獲物を前にした獣の其れだ。

 標的は舌舐めずりをしたくなる程の可愛い兎。

 小刻みに震えてされるがまま。

 こんなにも容易い狩りはない。

「かぷ……ぢゅる」

 濁音交じりに耳たぶを甘噛みして、啜る。

 溝をなぞる度、肩を強張らせるリクオ。

 紅くねっとりした感触の舌が首筋を滑る。

 滴り落ちる水滴が、橙色の灯りに照らされて光る。

 あっけなく肩から落ちた長襦袢はリクオの肢体を露わにする。

「魅琉鬼、本当に駄目だったら! 反省したから! 本当にもうしないから許してくれ!」

 夜中だということも忘れ、リクオは叫んだ。

 魅琉鬼の両肩を掴んで、無理矢理に引き剥がした。

「いけず……」

 魅琉鬼はそれだけ呟いて裾の乱れを整えた。

「はぁ……ぜぇ」

 リクオは二百メートル走を全力で駆け抜けた時並みに汗を垂らしながら、呼吸を整える。

「まぁ、すごい汗……これでは風邪をこじらせてしまいますわ。御背中をお流し……――」

「いいから! 一人で大丈夫だから」

 魅琉鬼の背中を押して、半ば追い出す様に彼女を部屋の障子を締めた。

 凭れながら、力なく落ちてゆく。

 両手で顔を隠しながら、深い溜息を漏らした。

「わぁぁ! 寝れないよぉー!」

 悩める性……いや、青少年の叫びが夜空に溶け込んだ。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 空は雲一つない快晴。

 日差しが容赦なく照りつける。

「太陽が黄色いや……ははっ……あははは」

 リクオの渇いた笑い声が青い空に響いた。

 学蘭の下に赤いパーカーを着こんで、第二ボタンまで開いている。

 浮世絵中学校は比較的、校則が緩い。

 それというのも学生会長である魅琉鬼が校則緩和に尽力したからである。

「リクオ様、どうなさったのですか? 笑い声に悲壮感が漂っていますよ」

 その原因の一端である魅琉鬼の声が横から聞こえて来た。

 セーラー服に学校指定のセーターを着込んでいる。

 白く長い脚を覆うのは黒いパンツストッキング。

 人間へと変化し、黒く染まった髪は両脇を編み込んで後ろで一括りにしている。

 其処には、幼き日にリクオが贈った簪が挿されている。

 彼女が歩く度、リクオの鼻孔を甘い香りが擽った。

「な、なんでもないよ! それより、魅琉鬼は上機嫌だね」

「ええ、だって……久々にリクオ様と一緒に登校できるんですもの……こんなに嬉しいことはありません」

 頬を染める魅琉鬼。

リクオの背中をむず痒さが襲った。

 今日は、全校集会がある。

 学生会長である魅琉鬼は一般の生徒よりも早く学校へ登校せねばならない。

 普段ならば、朝食の片づけやら何やらでリクオと登校時間がズレてしまうのだが、先も言ったに今日は違う。

 時間が早いせいもあってか、周りに人は居ない。

 桃色の空気を撒き散らしながら、二人は歩く。

 遥か後方で、嫉妬にも似た視線を送られていることにも気づかずに……。

「なんなのよぉ~! 私は若に隠れて護衛しなくちゃいけないのに、どうしてあの女は公然と若の隣に居れるわけぇ~!」

 野太い電柱を齧りながら、冷気を纏う氷麗。

 青み掛かった黒髪が宙に浮かぶ。

 それを、見下ろす一人の男。

 特執すべきは、その屈強な、まるで岩を思わせるその肉体と“顎”。

 生きる伝説のプロレスラーにも見劣りしないその顎は、消して砕けることはないであろう。

 腕まくりした学欄に、全開釦という“いかにも”な風袋の彼は、奴組特攻隊長を務める青田坊である。

「そりゃ、お前、あの女が“化ける”のが上手いんだろう」

「私たちだって、ちゃんと化けてるじゃないのよぉ~!」

 悔しげに言う氷麗にため息を漏らす青田坊。

「俺が言ってるのは、そういうことじゃねぇ……あの女、“椿の鬼姫”はもっとトンでもねぇ“化けの皮”を被ってんのさ」

「何、カッコつけて浸ってるのよ……青ったら」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 規則正しく、電車が揺れる。

 朝方の通勤ラッシュと重なって、席に座る事ができずに居た二人は吊革を手に対面しながら揺れていた。

 リクオは、無言のまま魅琉鬼を見上げて漫然と見つめる。小説を片手に佇んでいるだけだが、それでも彼女に見ほれてしまう。

リクオの視線に気づいた魅琉鬼がやわらかく微笑んだ。

顔が熱くなる。

 込み上げる羞恥心のせいか、視線を逸らすことしか出来なかった。

 絶妙な頃合で電車が大きく揺れた。

「きゃ」

「わぷ」

 小さな悲鳴とくぐもった呻き声。

 予定調和だと言わんばかりに起こった出来事。

 サラリーマンとやわらかい“饅頭”との板ばさみにありながら、リクオの心境は穏やかであった。

 この柔らかい肉に埋もれながら死ねるならと思いながら、意識は彼方へと飛びそうになる。

「やっ……あまり激しく動かないでください……んっ」

 漏れる嬌声は、周りの男共を遍く前かがみにするほどの魔力を秘める。

「ん~! ん~!」

リクオはそれに加え、直接的に弾力と、重圧を味わっているのだ。

その衝撃は、他の比ではない。

 

 車掌のアナウンスが車内に流れる。

 どうやら目的の駅へ辿りついたようだ。

 空気が抜ける様な音が鳴ったかと思うと、津波の様に人が押し寄せた。

 惚けるリクオの頭からは、蒸気が上がっている。

 天国の様な、地獄の様な時間は、瞬く間に過ぎてゆくのであった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 形式的な行事というのは、ひどく退屈なものだ。

 事実、全校生徒が収容できる程のだだっ広い体育館で、校長の話を真面目に聞く者など殆ど居ない。

 念仏にも等しい持論と形式的な式の挨拶。

 そんなモノよりも彼らにとっては、連休中何処へ行っただの、新しいゲームを買った。

 宿題をやっていないなどの話の方が、重要な様だ。

『続きまして、生徒会長からの――……』

 その瞬間、館内の喧騒がピタリと鳴り止む。

 一瞬にして空気が変わった。

 皆の視線が壇上へ移る。

 息を飲む程の美少女に一往にして口を噤んだ。

 響き渡るのは、鈴の鳴った様な美声だ。

 絹の様な黒髪に、其れと対をなす白い肌。

 見る者を虜にする魔性黒い瞳。

 少女の一礼と共に拍手喝采。

 指笛まで跳びそうな勢いだった。

「やっぱ、椿会長はいいよなぁ……」

 一人の男子生徒が頬を緩めながら呟いた。

「そうだなぁ……」

 隣に立つ生徒も賛同する。

「はぁ……あんな人が嫁だったらなぁ」

「お前知らねえの? 会長にはもう“そういう相手”がいるって話だぜ」

「なん……だと」

 顔が真っ青になり、砂の粒子が風に舞うが如く、少年の心は儚く散った。

「おーい……だめだなこりゃ」

 放心状態の友人に手を振りかざしても、反応は無かった。

 

「リクオくん。鼻の下、伸びてるよ」

 そう言って、リクオの脇腹を突きながらジト目で睨みを利かせる少女はクラスメイトで幼馴染の家長カナである。

 まだ幼さは残るが、顔立ちは整っていて間違いなく“美少女”に分類されるだろう。

 魅琉鬼には劣るが、胸の成長具合も目を見張るものがある。

「そ、そんなことないったら」

 一瞬、怒鳴りそうに鳴ったのを必死で踏みとどまって、声を殺し耳打ちする。

 彼女は訝しげな顔で、リクオを見つめ言った。

「ほんとうにぃ? 誰が見たってデレデレしてたけど」

「ほんとだったら! ほら、先生にも睨まれてるよ! 前向こう」

「はい、はい」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 昼休憩のチャイムが校内に響き渡る。

 教室の扉が一斉に開かれた。

 轟音とも言える地響き。

“購買組”が一階を目指し、直走る。

 その中には、奴良リクオの姿もあった。

 可笑しい。

 彼が購買部へ走る理由はないはずだ。

 魅琉鬼手製の弁当は、しっかりと鞄の中に詰められている。

 なのに、誰よりも早く廊下を駆け抜けている。

「奴良~! やきそばパン頼むぞー」

 背後から届くなげやりな声援に手を掲げて応えた。

「まかせといてくれよ!」

 笑顔だ。

 とびきりの笑顔。

 使いっぱしりにとして扱われて居る事など微塵も気に掛けていないのだろう。

 いや、寧ろ進んで使われて居ると言ってもいい。

 階段を降りて、滑らかに角を曲がり最後の直線を駆け抜けて、突きあたりで急停止。

 乱れた息を整える。

 そして、彼は驚愕した。

 視線の先にあったのは、人、人、人の群れ。

 男も女も関係ない。

 成長期真っ只中の彼ら若人は宛ら檻から放たれた猛獣の如く、獲物に手を伸ばす。

 リクオは目を閉じて、深呼吸した後、ゆっくりと瞼を開き、頬を叩く。

「あんまり使いたくなかったけど……」

 そう呟いて、人混みの中に飛び込んだ。

 

 両手一杯に“戦利品”を抱えて階段を上がる。

見ていて危なっかしいが、どうにか躓く事なく、踊り場まで辿りついた。

「ふぅ……昔みたいに爺ちゃんの技は使いたくなかったんだけど」

どうやら、祖父直伝の食い逃げ技術を応用したらしい。

「でも、これも“いい人間”に成る為の一歩だ」

 拳を握り鼻を鳴らす。

 完全に目指すべき道から足を踏み外していた。

「リクオ様!」

 背後から聞き慣れた声が、届く。

 声の主は、魅琉鬼であった。

 何故だか分からないが、黒い瞳の端に涙が浮かんでいる。

「ど、どうしたの? 魅琉鬼」

「お弁当に不満があるなら、何故そう仰ってくださらないのですか……」

「うえ!?」

 予想外の言葉に、素っ頓狂な声を上げる。

「お味が御気に召さなかったのですか? それえとも嫌いな食材でも?」

 魅琉鬼の秀麗な貌がずいっと迫る。

 其れはもう、吐息が感じられるほどに。

「ち、ち、違うよ! これは……その……」

 言葉に詰まり、言い淀む。

「それは……」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「はい、あーん……」

「あ、あーん」

 リクオは頬を赤らめながら、差し出された卵焼きを食べる。

 隣では満面の笑みを浮かべた魅琉鬼が、瞳を輝かせている。

「お口にあいますか?」

「うん、文句無し! 美味しいよ」

 いっそう笑顔の花が咲く。

 誰も居ない空き部屋で二人きりの食事。

 彼女にとっては至福の時だ。

 いち早く昼食を済ませた学生たちが校庭でドッジボールやサッカーに勤しむ。

 結局、あの後観念したリクオが、事の事情を話昨晩と同じ説教を受け、苦し紛れに魅琉鬼を食事へ誘った。

 普段は照れもあってかなかなか、学校内で顔を合わせないようにしている。

 勿論、其れだけではないのだが、今は割愛しよう。

「ところで、魅琉鬼……斎藤君達に何かしたの? 物凄い怯えて居たけど」

「ふふ、只の“厳重注意”ですわ……ふふ、ふふふふふ」

 魅琉鬼の笑い声に、背筋を凍らせるリクオ。

 余り深く追求するべきではないと思ったリクオは咄嗟に話題を逸らす。

「そういえば、今日、清継君達が“旧校舎”に妖怪探しに行くって息巻いてたよ」

 魅琉鬼の眉が微かに動いた。

「全く、妖怪探索なんて危なっかしいたらありゃしない」

 リクオは、不満げに言いながら、差し出されたおかずを口に入れる。

「だから、僕も一緒に行くことにしたよ」

「……そうですか。では、私も」

 リクオは、その言葉に笑って返した。

「魅琉鬼が一緒に来なくたって大丈夫さ……どうせ家の小妖怪達が悪戯してるだけだろうし」

 魅琉鬼は不安げな表情でリクオを見つめた。

 漆黒の瞳に自分の頓狂な顔が映り込む。

「そ、そんな顔しなくたって平気だよ……魅琉鬼は美味しいご飯作って待っててよ」

「ですが……」

 リクオは、少々困った様に指で頬を掻く。

「うーん、あ、そうだ! 魅琉鬼、手出して」

 徐に差し出された小指。

 魅琉鬼は、瞳を丸くしたがすぐ笑顔に変わった。

「約束! 怪我もしないし、危ない事もしない!」

 歯を見せて、笑うリクオ。

 魅琉鬼は口元に手をやり、上品に微笑む。

「指きり、げんまん嘘付いたら針千本の―ます指切った」

 二人の声が木霊する。

 ぴとり、と額を合せて笑いあった。

 

 夜、リクオの自室には緊張の糸が張り巡らされていた。

 お互い対面するように正座をして無言の時が悪戯に過ぎる。

 口火を切ったのは魅琉鬼の方だった。

「リクオ様、申し訳ありません……急にお呼び立てしてしまって」

「ううん! 大丈夫! 大丈夫! それで話って」

 顔中に汗を滲ませながら言う。

 リクオも年頃の男児である。

 まだ陽も沈んで間も無いが、リクオを緊張させるには充分な局面だ。

「実は……」

 魅琉鬼の視線が下がる。

 其れと同様に長く、紅い睫が落ちた。

 憂いに帯びた女の貌とはこうも美しいものか。

 心音が加速する。

「どうしても、雪那がお供に付いていきたいと聞かなくて……」

「へ?」

 その間の抜けた声で、硬い空気が一気に和らいだ。

 リクオは、湧き上がる羞恥心を咳払いで誤魔化した。

「雪那って、いつも一緒にいるあの猫の事?」

「はい、あの娘がこんな事を言うのは初めてで……」

 魅琉鬼の表情から戸惑いが消えない。

 リクオは上を向いて少し考えてから言った。

「仔猫の姿なら皆も驚かないだろうし、いいよ」

「よろしいのですか!」

 リクオの両手を握りしめて顔を近づける。

 反射的に身を仰け反らせてしまった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 リクオが屋敷を発って数時間が経過した。

 いつものように騒ぎはしゃぎ回っているはずの小妖怪達の姿が見当たらない。

 気のせいか、其処彼処からカタカタと小刻みに震える音が聞こえて来る。

「リクオの奴、何やらかしおったんじゃい」

 そう言いながら、広間で湯呑みを傾けるぬらりひょん。

 お付きの納豆小僧の姿がない。

 片目を開き、台所の方へ視線を送る。

 絶え間なく聞こえて来る俎板を叩く音と、薄気味の悪い女の笑い声。

「魅琉鬼ちゃん。どうしたのかしら? 私に声を掛けられても全然気付かないし」

 ぬらりひょんの隣に正座する若菜は首を傾げるばかりだった。

 

『ただいまー』

 玄関先からリクオの草臥れた声が聞こえて来る。

 魅琉鬼の長い耳が、上下に動いた。

 何時もなら此処で、すかさず玄関へ走るが今日は違った。

 リクオもその違和感に気付き、出迎えた黒田坊に問うが、返ってきた返答は……。

「若、ご武運を……」

 肩に手を置かれ、青ざめた顔でそういうと艶やかな黒髪を翻し立ち去ってゆく。

「若、私もちょっと気分がすぐれないので、失礼します!」

 其れは正に脱兎の如く。

 氷麗は白い顔を更に真っ青にして走り去った。

 どうも、おかしい。

 屋敷に帰ってから数分。

 違和感が拭えない。

 耳を塞ぎたくなるような乱痴気騒ぎも聞こえて来ないし、何より屋敷の妖怪達が何処か余所余所しいのだ。

 頭に疑問符を浮かべながら、リクオは台所の暖簾を潜った。

――ぞくり。

 と、背筋に悪寒が走る。

 思わず歩を止める。

 聞こえて来るのは、俎板を叩く規則正しい音だけ。

 魅琉鬼は振り返る事も無く、ただただ俎板を叩く。

 何かに取りつかれた様に。

 キャベツの千切りが文字通り山の様に積み上がっている。

 酷く喉が渇いて、堪らず唾を飲み込んだ。

「あの……魅琉鬼、その、ただいま」

 尖った耳が蠢き、俎板を叩く音が鳴り止む。

 一拍間を置いて、魅琉鬼が振り返った。

「おかえりなさいませ……リクオ様」

 笑顔。

一点の曇りもない、完璧な笑顔だった。

 しかし、リクオは知っている。

 この眩い笑顔の奥に滾る感情を。

“怒りを覆い隠す”為の笑顔だと。

「うん、ただいま……あの、僕……魅琉鬼を怒らせるような事したかな」

「ふふ、どうなやさったというのです? お顔が汗でびっしょり」

 怖い。

 リクオは、ただそう感じた。

 不意に裾を引っ張られる。

 視線を動かすと、其処にはスケッチブックを片手に頬を膨らませる雪那の姿があった。

【にぶちん】

 白い紙にはそうあった。

 鈍った頭を何とか回転させえも、答えは出ない。

「それにしても、驚きましたわ……リクオ様にあんな甲斐性があっただなんて」

 リクオの身体が石の様に硬直した。

「私とは手を握ることさえ躊躇う貴方が、家長さんとはああも簡単に出来てしまうのですね」

 石像と化したリクオに小さな亀裂が走る。

 魅琉鬼は構わず続けた。

「怯える彼女に身を寄せながら、優しい言葉を囁くリクオ様……ああ、なんて素敵なんでしょう。ええ、構いませんとも……“浮気は男の甲斐性”ですもの。私の事など放って、別の女に感けて頂いて結構ですよ? 私は貴方様が御戻りになると“信じて”おりますもの」

 それはある種の警告だった。

“裏切ったら許さない”という意味が込められた言葉である。

「あら? どうしたのですか? そんなに震えて……」

 魅琉鬼は、硬直しているリクオの顎を指でなぞって。

「きっと、忘れないでくださいな……私の“かわいいあなた”」

 




ヒステリックに泣き喚いたり、暴力を振るうヒドインよりも、作者はこういう女が一番怖いと思います。
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