耳を劈く少女の声が闇夜に響く。その声を聞く“人”の姿は何処にもない。
白い狩衣が裂けて、少女の瑞々しい肌が月光の下に晒された。小さな膨らみを腕で隠して石畳の上に尻を付く。少女は闇に広がる赤い瞳を睨み叫ぶ。
「あんたら、覚悟しとき! 必ず滅してやる」
それは虚勢か。いいや、違う。
陰陽師としての矜持が今の彼女を支えている。
異形の鼠がゆらの腹を蹴り上げた。胃が持ち上がる感覚に嗚咽し、胃酸が石畳を濡らす。
「おぐえ」
仰向けになった彼女の腹に革靴がめり込んだ。
一つ。
二つ。
三つ。
「がっ! うげ! おえ」
吹き上がった鮮血が狩衣を赤く染める。
「おい、お前ら“オイタ”はその辺にしとけ」
踵の音が響く。黒服の鼠達は列を成して道を空けた。
白いスーツの男。
襟の大きな紫色のシャツは胸元から肌蹴ている。金色の鎖が音を立てて揺れていた。男はゆらの前でしゃがみこんで、黒髪を鷲掴む。
「あーあ、かわいそうに……こんなに真っ赤になっちゃって」
ゆらの唇に笑みが点った。
「ぺっ!」
鼻の頭に唾が飛ぶ。男の蟀谷(こめかみ)に青筋が浮かぶ。
「がきだと思って優しくしてりゃ、調子くれやがって……てめぇをこれから輪姦(まわし)たっていいんだぜ?」
金色の前髪を掻き上げて嗤う。
――赤い瞳に加虐の火が点って。
――異形の鼠が牙を剥く。
大きく裂けた口には隙間なく牙が並んでいた。銀色の糸が伸びて、赤い舌がゆらの頬をすべる。生ぬるい熱が嫌悪を呼び、屈辱が腹の底から湧き上がってくる。己の無力さに唇を噛むと、その端から赤い血が流れて落ちた。
「おい、この女(あま)牢屋にぶち込んどけ! そこでねんねしてるかわいい子ちゃんと一緒にな」
牢獄に放り込まれ、鉄柵に頭をぶつけて視界が歪む。眼球を横へ向けると両手両足を荒縄で縛られ、猿轡を咥えたカナが寝息を立てていた。
「ごめんな……家長さん、うちが弱いばっかりに……」
力なく呟いた。
瞼が重い。
意識が闇に包まれた。
男は、少女二人を見下ろしながら懐に手を潜らせてシガレットケースを取り出すと煙草を一本咥えた。
脇に控えた黒服が銀製のライターで火をともす。紫煙がゆらりゆらりと闇に溶けてゆく。
金の装飾が施された玉座に腰を降ろし、頬杖を付く。左手で赤い葡萄酒が注がれたグラスを遊ばせている。鼻腔を通り抜ける香りを楽しみ、鮮血を彷彿させる酒に舌鼓をうった。
――ひどい臭いね。
声が聞こえる。
ひどく、扇情的で。
ひどく、妖艶な。
女の声だった。
漆黒の闇にぼうっと浮かぶ灯りが四つ。
ひとつは、金色(こんじき)。
ひとつは、赤色。
それは瞳。
赤い鬼と銀の化け猫であった。
黒い羽織が夜風に煽られてはためいている。腰に一振りの刀を帯びている。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
頭蓋の中で、甲高く警報音が響いている。
なんだ。
なんだ。
足が竦む。
背筋が凍る。
鋭く尖った牙がかちりかちりと音を立てた。
喉元が大きく盛り上がった。
「これは、これは……誰かと思えば“半端者”にご執心の赤鬼様じゃありませんか」
大げさに方を竦めて白い背広の男がいった。
組んだ足が震えている。
黒服の鼠達が爪を立て、牙を軋ませる。
その爪は容易に肉を裂くだろう。
その牙は容易に骨を砕くだろう。
――けれど。
――けれど。
赤い鬼を前にその爪と牙は意味を失う。
「あら、いけない……傘を忘れてしまったわ」
「あ? そんなもん、何に使うってんだ。雲ひとつありゃしねぇのによ」
――女の赤い唇が横に伸びた。
――雨が降りますから。
漆黒の闇に銀色の一閃が奔る。
白刃が鞘を這いずる。
鯉口が静かに音を立てた。
――それと同時に。
――血潮が舞い上がって。
けたたましく赤色が迸る。
白い背広が赤く染まった。
ぽつり、ぽつり。
石畳を叩く赤い雫。
はじめは弱く。
徐々に、強く。
石畳を濡らしてゆく。
ごちり、と鈍い音が耳に届いた。
眼球を左へ。
黒い塊が玉座の横に転がっている。
それは頭蓋。
それはつい数瞬前まで同胞だったはずの者。物言わぬ躯が崩れ落ちて石畳を赤く染めてゆく。
「――ほら、ねぇ降ったでしょう?」
赤い鬼が牙を覗かせて嗤った。
また音がした。
白い男の頬が赤く染まる。
「――え」
視線を右へ。
やはり頭蓋が転がっている。
「ひっ」
雪駄の擦れる音が聞こえてくる。
鬼の美しい貌が目の前にあった。
「鬼ごっこをしましょう」
「へ」
突拍子のない提案に間の抜けた声が漏れる。
「此処にいる鼠を一匹ずつゆっくり殺していくからその間、貴方は逃げなさい。けれど、覚えておきなさい。私(わたくし)、鬼ごっこは得意なの……追いかけるのは特に」
喉が震える。
「な、何言ってんだい? アンタ。こっちには人質がいる。この女どもがどうなってもいいのかよ」
鉄柵を指さした。
「ひ、ひ、ひ」
声。
女の嘲笑。
さらしの巻かれた腹を抱えて、鬼が嗤っている。
「ひひひひひひ、あはははは! あっははははは!」
狂ったように赤い髪を揺らして嗤い続ける。
天を仰ぐと枝垂れた髪が金色の瞳を覆い隠した。
「そう、この娘達は人質なの? あっは! あっははは!」
「何がおかしい!」
男は叫ぶ。けれど、赤鬼は気がふれたように嗤うだけで。
「だって、この娘達は私(わたくし)にとって“邪魔者”でしかありませんもの。けれど、リクオ様はきっと泣いてしまうわね……そうだわ。きっとそう。だから私が慰めてさしあげるの……ああ、素敵だわ! とっても! そうよ。リクオ様の瞳には私だけが映っていればそれでいいのよ。だから、こんな小娘達さっさと殺せばいいのに、貴方たちときたら」
白いスーツの股から染みが広がっていった。男は発狂し、叫び声を上げて背を向けて走り出す。
踵の音を掻き消すその声は、徐々に闇に溶け込んでゆく。
一拍の間をおいて。
「雪那、“食べ残し”はお行儀が良くないからだめよ」
猫の咆哮が轟く。右前足で鼠の頭蓋を踏み潰した拉げた骨から飛び出した脳髄と眼球を啜り、虫のように蠢く躯を加えて頭上へ放る。肉界が天高く舞って、落下してくる。
鋭く巨大な牙が肉と骨を砕いた。
骨をすり潰す音が聞こえる。
腸(はらわた)を引きちぎる音がする。
悲鳴もない。
嘆きもない。
ただ銀色の猫が赤い瞳を炯々と輝かせるだけ。
蜘蛛の子が散るように鼠達が逃げだした。
月明かりに照らされた巨大な影が鼠を覆う。頭上から齧り付いて腰から上を食い千切る。 赤い血が滴り落ちて石畳を濡らした。
猫の下顎が数度動いた。そのまま肉の塊を吐き捨てる。
唐突に烈風が吹き荒れる。螺旋を描く風の刃が鼠の身体を粉微塵へ変えてゆく。
絶望と悲鳴が跋扈する。轟音が鳴り止んだ。場を静寂が支配する。鼠の視線が一点に集まっていた。そこには白い着物に身を包んだ少女が佇んでいる。
赤い虎縞が浮かんだ耳が上下する。白い頬には赤い文様が浮かんでいた。
「あら」
赤鬼は、瞳を見開く。くすりと微笑を浮かべた。
「そう“まずい”のね……よかったわね……あなた達どうやらちゃあんと“地獄”へ逝けそうよ」
「何言ってやがんだ! 糞! 糞! くそったれが! こうなりゃ殺される前にやってやる」
乾いた音が響いた。それは鞘が石畳の上を転がる音。
月光を浴びて怪しく光る鋒(きっさき)は等しく赤い鬼に向けられていた。
数にして百。いいや、二百か。
どちらにせよ関係ない。
“やるべきこと”はすでに決まっているのだから。
腰に帯びた刀を抜いて、歩幅を広げる。足元に広がる血の赤が白い足袋を染め上げる。
銀の一閃が空を切り、石畳に亀裂が奔る。舞い上がった残骸が四方に散った。
白刃が鞘をすべる音が一つ。
赤鬼が血を蹴って、鼠の群れの中へ飛び込んだ。
ひい ふう みい よお いつ むう なあ やあ こお とお。
頭蓋が飛んだ。悲鳴は上がらない。その前に頸が飛ぶ。
吹き荒れる血潮の中を赤鬼が踊る。
袴の襞(ひだ)が円を描いて赤い髪がはらりと舞って、銀の白刃が赤色に染まる。
金色の瞳が横へ流れた。突進してくる鼠を往なして、逆手に持った刀を背中へと突き刺した。鋒から赤い血が滴る。そのまま引き抜くと、けたたましい音を立てて鮮血が漆黒の羽織を汚した。其れを目の前に放って、鼠の視界を塞ぎ、大きく開いた口に刀の鋒を通す。刃を返して峯に手を添え、突き上げた。
脳髄が刃に纏わりつく事を厭わずに斬る。
黒くうねる其れを振って払った。
踵を返す。赤い髪が揺れた。赤鬼の手が鼠の蟀谷を捉える。
「が」
めきり、めきりと音がする。
軋む、軋む、軋む。
音、音、音。
「がががががが」
意味を持たない音の羅列が漏れている。
――頭蓋がその形を失った。
赤く染まった手首に舌を這わせて嗤う。
「あら、もうおしまい?」
金色の瞳が鼠達を見据えている。そのすべてが絶望に満ちていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
猫の娘と赤い鬼が背中合わせに佇んでいる。其れを取り囲む無数の赤い瞳。異形の鼠達であった。遍くすべての殺意を一身に浴びてなお、赤い鬼の唇には笑みが点っている。
「きりがないわ」
猫娘の耳が動いた。腕を高く振り上げて交差させて振り下ろす。
――少女の腕からひどく無骨な刃が生えている。
――“それ”には洗礼された輝きも優美さもありはしない。
――それでいい。
――必要なのは、肉を裂いて骨を砕き、臓物を抉る形だけ。
瞬きひとつ。
それだけあれば、少女には充分だった。
鼠との距離が一蹴りで縮む。石畳を深く抉った刃が、頸を刎ねた。歪な断面から覗く肉と骨。そこから滴る赤色が鼠の骸を塗りつぶす。
奇妙にくねった躯(からだ)が地に沈む。猫の娘は天高く飛翔すると満月を描くように宙でくるりと回ってそのまま直線的に降下。
鼠の脳天に鈍い衝撃が走る。黒い躯が浮き上がって、石畳に叩きつけられた。頭蓋は拉げる。
元の形はわからない。
逆立ちして大きく開脚した足が螺旋を描く。
踵から生えた三日月状の刃が鼠の心臓を抉った。
鋒で力弱く脈打つそれは、やがて動かなくなった。
「まぁ、雪那ったら……裾が捲れてみっともないわ」
少女は答えない。
代わりに、鼠を狩ってゆく。純白であったはずの着物が赤く染まっていた。
女は、ほくそ笑みを浮かべて踵を返す。
鼠達の赤い瞳がひどく怯えていた。
「情けのない……たかが女と猫一匹、少しは殿方の甲斐性をお見せなさいな」
「ちょ、調子に乗るんじゃねぇよ! 糞女(あま)が」
鼠が吼えながら赤鬼に襲い掛かった。天高く振り上げた日本刀が赤鬼の頭上から縦に一文字の軌道を描く。
――けれど、赤鬼の唇には笑みが浮かんでいる。
――耳を劈く音がひとつ。
――砕けた刀身が宙で螺旋を描いた。
鋒が石畳の上に突き刺さった。
一拍の間をおいて、鼠の腕が横に“ずれる”。
鮮やかな断面から赤い鮮血が迸る。膝を付いて蹲り、呻き声をあげる。金色の双眸がそれを見下ろしていた。脳天から鋒を振り下ろす。美しい鬼の貌が赤く染まって。
身の毛もよだつ嘲笑ひとつ。
――赤い舌が、唇をなぞって。
――漆黒に赤色が迸る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
丑三つ時の街頭に踵の音が響いている。
それ以外の音はない。
満月が照らす影が一つ。
ひどく珍妙な男が闇の中を駆けてている。
男は“人”ではなかった。
人の容をしていても。
人の言葉が紡げても。
彼は人ではない。
異形。
人の容をした獣(けだもの)。
その爪は、容易く人の肉を裂く。
その牙は、容易く人の骨を砕く。
けれども、その獣は逃げている。
涙を浮かべて。
息を切らせて。
逃げるのだ。
血塗れた赤い鬼から。
――みーつけた。
足が止まった。
顎から流れ落ちた汗の音がぽつり、ぽつりと聞こえてくる。
踵を返して振り返る。
視線の先に赤と金の瞳が四つ、ぼうっと浮かんでいた。
街灯に照らされて、赤い鬼がその全容を晒す。
「ひっ」
悲鳴と同時に後方に倒れこんで、冷たい鉄筋コンクリートの上に尻をついた。
雪駄の擦れる音が迫っている。
「いやだ! いやだ!」
倒れこんだまま手と足を引きずって後方へ。
垣根に背を預て震える。
「だから、言ったでしょう? 鬼ごっこは得意だって……」
赤く染まった頬肉を吊り上げて鬼が嗤った。
「え、え、え」
意味を持たない声が漏れている。
赤鬼が腰に帯びた刀を抜いて構えを取る。
歩幅を広げ、腰を折り右手を柄の前へ。
「待って、待って!」
鼠は顔の前に手を翳して叫ぶ。
鬼の唇には笑みが点ったままだ。
ひゅん、と空を切る音がして。
鼠の膝から下の足が飛ぶ。赤い血がコンクリートを染め上げた。
「いてえ! いてぇよ!」
情けなく泣き喚いた。
恥も外聞もなく。
横に倒れこんで、身体を引きずって必死に逃げようとする。
けれど、赤鬼がその行く手を阻んだ。鼠を見下ろす金色の双眸はひどく冷徹であった。
手の甲に刀の鋒が突き刺さる。
「いぎっ」
赤鬼がその血塗れた手で金髪をつかんで、引き上げた。刀身に血が這いずる。
黄金の瞳と視線が重なった。
「――とてもお腹が空いているのよ」
「え」
鼠の頓狂な声が漏れた。
「一度“箍(たが)”が外れてしまうと、この子も私も歯止めが利かなくなるものだから今まで口にはしなかったのだけれど」
――鬼の口が大きく開いて。
――鼠の頸筋に牙が突き刺さる。
「あ、がががが」
分厚い肉が横へと伸びて。
鈍い音を立てた。
けたたましく血飛沫が上がって、鬼の貌をさらに赤く塗りつぶしてゆく。下顎が蠢くのと同時に赤いしずくが足元に広がる血の池に溶けてゆく。
「ぷっ」
赤黒い肉片を吐き捨てる。
一段大きな音がして其れが赤い池に沈んだ。
「まずい……雪那、途中でやめて正解だわ。こんなまずい肉を口にしたらお腹を下してしまうもの」
――けれどね、食べ残しははしたないでしょう?
だらんと垂れた腕を横に伸して捻った。肉の繊維が嫌な音を立てて、骨の付け根が砕け散る。
骨と肉を音を立てて啖(くら)う。
頭蓋がめきり、めきりと軋みをあげて骨が拉げる。飛んできた眼球が赤い頬を叩いた。
どろり、とうねる脳髄を下品に音立てて啜る。
足の付け根からでろりと赤い肉が垂れ下がっている。
頭上に持ち上げた其れを大口を開けて頬張った。
ごくりと喉が鳴る。
糞の詰まった腸(はらわた)を牙で食い破る。
口の中に広がるひどい臭いと強烈な嫌悪に嗚咽した。
「ひ、ひ、ひ」
鬼は嗤う。
腹の底がひどく熱い。
――赤い炎が天高く舞い上がった。
――赤く濡れた身体を抱いて天を仰ぐ。
――悲鳴はない。
――嘆きもない。
――ただ、美しい鬼は嗤うだけ
理想郷にすでに掲載してある『鼠狩り』の改訂版です