――何故。何故。
頭蓋の中が螺旋を描く。
その問いに応える者はいない。
少年はただ、唖然としていた。
瞳に映るのは、美しい女だ。
椿の鬼姫と畏怖される女だ。
彼が焦がれてやまない唯一。
陽光に照らされた赤い髪が、枝垂れて落ちる。
鼻孔を擽る香りは思考を蝕んだ。
畳の上に散らばった氷が形を失ってゆく。
黄金の双眸が少年を見下ろしていた。
淀みだとか。
陰りだとか。
“これ”を表す言葉を彼は持たない。
「み、るき……」
震える唇で名前を呼んだ。
けれど、女は応えない。
かわりに、襦袢の腰紐がほどけて――……
緩やかに、肩からすべり落ちた。
細く、しなやかな女の裸体に少年は息を呑む。
白い柔肌に赤い髪が纏わり付く。
女は、薄い唇に舌を這わせて、ほくそ笑みを一つ。
――おいしそう――
ぞわり。
身体が震えた。
恐怖を抱いた。
四肢が強ばる。
汗が吹き出す。
瞳に映るのは、人の容(かたち)をした鬼だ。
「むぐ」
唐突に、其れは襲いかかった。
確かなぬめりとした感覚が口蓋に広がる。
彼の意を得ずに。
彼の言葉を無視して。
無遠慮に侵入してきた舌が、舐り、嬲り、犯し、啜り、絡む。
下品な音が跋扈する。
其れは劣情の音。
其れは色欲の音だ。
人の貌をして。
人の容をした。
赤い鬼の本性。
互いの舌先から伸びた糸が帆を張った。
てらてらと光るその糸は、酷く淫美である。
ひゅう、ひぃうと息が洩れる。
赤くなった頬は、息苦しさの所為ではない。
女の貌は、ひどく蠱惑的であった。
黄金色の瞳に、加虐の火が灯る。
赤い舌が上から下へ。
少年の体が、小さく跳ねた。
指の腹で鎖骨をなぞる。
熱を帯びた掌が、彼の薄い胸板を這い回る。
次いで、女の舌が追う。
汗と唾が混ざり合う。
臍に溜まった其れを啜り上げた。
空気を含んだ卑猥な音だけが響く。
女は満足そうな貌をして。
その劣悪な性が牙を剥く。
――するり、と。
――頸へ絡みつく。
――白い指。
真綿を締めるように。
徐々に。
徐々に。
軋む。
軋む。
声にならない音の羅列が響く。
あまりにも、容易く。
あまりにも、呆気なく。
――その頸が、鈍い音を鳴らした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
音を立てて、布団が翻った。
ひゅうひゅう、と息は荒い。
汗に濡れた赤い髪が胸元へ枝垂れる。
金色の双眸からは、一筋の涙がこぼれ落ちた。
頬に白い指が触れる。
「わ、わたし……は……」
顔を右へ、左へ動かして辺を見渡す。
誰もいない。
音も聞こえない。
「……夢」
声に出すと、ようやく悪夢から醒めたと自覚した。
布団の脇に置かれた桶の水面(みなも)には、小さな布が浮かんでいる。
漫然と障子の向こうを見つめる。
しだれ桜の影が、風に揺れていた。
『若! お待ちください! 看病ならワタシと毛倡妓がしますから』
『そういう訳にはいかないよ。僕のせいでもあるんだから』
二つの影が映り込む。
一つは、影を追う様に。
一つは、影を無視する様に。
『私が言ってるのはそういう事ではなくてですね! 今は――』
少女の声を無視して、障子の戸が開かれた。
少年、奴良リクオの表情が固まった。
魅琉鬼は、其れを見て目を丸くする。
一。
二。
三。
固まったまま動かない。
氷麗はといえば、頭に手を当てて天を仰いでいる。
“やっちまったな”という貌をして。
けたたましい音を上げて赤色が舞った。
「だから言ったのに……アンタも早くその“無駄に”でかい乳を仕舞いなさい! はしたない」
無駄にという部分をやけに強調されているのは彼女の持つ劣等感故か。
「え……きゃっ」
小さな悲鳴を上げて、襟の乱れを整えた。
「まったく、アンタって奴は……どこまで大きくすれば気が済むのよ! ワタシへの当て付けなの?」
頬を可愛らしく、膨らませてタオルをきつく絞る。
魅琉鬼は掛け布団で口元を隠しながら、恥じらう。
「苦労も多いのですよ? “さらし”は毎度、きつく締めないといけないけませんし……お腹には厚手の布を巻く手間が掛かりますから……」
彼女の言葉に、氷麗の青筋が濃くなった。
「嫌味? 嫌味を言ってるのかしら?」
「そんなつもりは……」
氷麗が溜息を漏らして、魅琉鬼の額へ布を置く。
すると、あまりの熱に湯気がたったではないか。
「魅琉鬼! アンタ、風邪にしたって熱すぎるわよ!? 私を溶かす気なの?」
「すみません……どうも体温が異常に上がっているらしくて」
「バカ! なんでもっと早く言わないのよ! 待ってなさい! 今、超特大の氷作ってきてあげるから」
早々に立ち上がって、台所へ足を向ける。
静けさだけを残して、魅琉鬼は天井を見つめた。
「ありがとう……氷麗さん」
呟いた声は誰にも届かない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
掛け時計の厳かな音が響き渡る。
時刻は正午。
「“椿の鬼姫”がなんとも無様だな」
布団に横たわった魅琉鬼を見下ろして、男が言う。
そのまま腰を落として、胡坐をかいた。
着物の袖を弄り、薄い和紙に包まれた薬をひょいと投げる。
「睡眠薬だ。気休めだが、ないよか、ましだろう」
「ありがとうございます。畜生の分際にしては、気が利きますね」
「てめぇは相変わらずで、俺は嬉しいね」
唇の端を釣り上げて嗤う。
蟀谷に青筋がくっきりと浮かび上がった。
顔色の優れないこの男は、薬師寺一派統領の毒鶴妖怪【鴆】その人である。
魅琉鬼とはご覧の通り、犬猿の仲だ。
「お前、何しやがった? こりゃ、風邪なんて生温いもんじゃねぇだろう……」
「あら、女の秘密を探ろうだなんて……無粋ね」
赤み掛った貌で頬笑みを浮かべた。
額には、夥しい汗が滲んでいる。
「貴方なんかに心配されるなんて……どうしましょう? 最大の汚点だわ」
「ああ、そうかよ! さっさと寝ちまいやがれ! この弩腐れのあばずれめ」
肩に掛けた羽織を揺らしながら足音を立てて襖の方へ向かう。
ぴたり、と音が止む。
魅琉鬼に背を向けたまま鴆が呟いた。
「……若にあんまり心配かけるんじゃねぇぞ」
「……承知しました」
ぴしゃり、と水音がする。
少し厚みのある布を片手に、リクオは生唾を飲み込んだ。
額から滴る汗が畳を濡らす。
悪戯に時が過ぎてゆく。
――何故。何故。
頭蓋を反芻する問いは意味を持たない。
唇は渇き、潤いを失う。
ただ、其処にある現実に魅入られていた。
「リクオ様?」
「ひゃい!?」
舌を噛んだ。
その痛みが、理性を呼び戻す。
さて、どうしたものか。
「み、魅琉鬼? こ、こういう事は……その……氷麗とかに頼んだ方が良いんじゃないかな?」
「あら、先程は私(わたくし)の為に出来る事は何でもして下さると仰ったではありませんか」
その声は、明らかに落胆の色が。
リクオが言葉に詰まると、魅琉鬼はさらに続けた。
「其れに、今この部屋に来たら氷麗さんが溶けてしまいます」
「た、確かに……」
部屋の中は、異様な熱気に包まれている。
その証拠に氷麗が作りだした特大の氷塊は形を失いつつあった。
熱源地である魅琉鬼も背中が汗でぐっしょりと濡れている。
しかし。
しかしである。
健康な青少年の前に、汗に濡れた女の背中があるのだ。
手を伸ばせば其処に、浮世絵中学校全生徒の憧れである美女の背中が。
之を前に、平静を装える男がいるだろうか?
いいや、いいや。
否である。
視界が霞む。
息は荒くなる一方だ。
震える手で、その柔肌に触れる。
「んっ」
小さく漏れた声は、リクオを動揺させるのには充分過ぎた.
「ごごごご、ごめん! 魅琉鬼!」
「いえ、少し擽っただけですから……」
お互いに黙り込むこと数分。
リクオが意を決したように。
「いくよ」
「……はい」
上から下へ。
布を優しく滑らせる。
始めは覚束なかった手の動きも、段々と落ち付いて来た。
魅琉鬼の悩ましげな声に苦悶しながらも、心の中で念仏を唱え続けた。
「ふぃ……とりあえず拭き終わったよ」
「ありがとうございます……次は“前”を――」
「自分で出来るでしょ」
「……いけず」
すかさず言ったリクオに少しばかりの不満を漏らす。
けれど、その表情は楽しげで穏やかな物であった。
襦袢に袖を通し、襟元をしっかりと閉じて腰紐を縛る。
リクオは正座したまま、背中を向けて、頬を掻いた。
「そろそろ夕飯の支度だね……後でお粥を持ってくるから食べてね」
そう言って、立ち上がろうとしたリクオの袖を魅琉鬼がきゅっと掴んだ。
「もう少し、一緒に……」
そう言って、視線を逸らす彼女にリクオの胸が高鳴った。
頬の赤みはきっと、熱の齎す物ではない。
「う、うん! そうだね! まだ時間はあるからもう少しだけ……」
魅琉鬼は嬉しそうに微笑んだ。
その光景を、障子の隙間から覗き見る六つの瞳があった。
「何なの、何なの! 何なのよ! あの桃色空間は! 只でさえ熱帯空 間なのに更に熱くしてどういうつもり!?」
「そう思うんなら何で覗きに来てるんだよ……って、おい! 氷麗! お前溶けてるぞ」
「青! 静かにしろ!? 若達が気付くだろう」
「ふふ、心配ないわよ首無し。ああなったら私達の事なんか完全に忘れてるわ」
三つの声は確かに二人には届いていない。
物理的に溶けそうな熱帯空間が氷麗の身体を蝕む。
螺旋を描く彼女の瞳は、高速で回転しながら地に伏せて枝垂れ落ちた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
蒼い月が、盃に映り込む。
桜の花弁がたゆたう水面を覗きこんで、ぬらりひょんがほくそ笑んだ。
縁側で手酌酒を楽しむその隣には人に化けた雪那の姿があった。
二人は、無言で時を過ごす。
虫の鳴き声に耳を傾けるだけで酒は旨くなる。
隣にいい女がいれば、其れは格別だ。
「どうだい? 魅琉鬼の様子は」
『もう大丈夫だって』
「おお、そうかい? そいつぁ良かった」
白い紙に筆を走らせた雪那の頭にぬらりひょんが手を置いてやる。
嬉しそうに、笑って返す。
「“餓鬼の業”というのも難儀なもんじゃな」
頸を振って言うぬらりひょんに雪那は、瞳を伏せた。
陰が落ちる程に長い睫が、月の光を浴びて輝いた。
『かわってあげたい』
「ほほ、お前さんは相変わらず優しいのう」
『そんなことない。ちくしょうにおちた悪い鬼』
そう言って両手の人差し指で角を作って頬を膨らませた。
「ぬはは、そうかそうか」
空になった徳利を脇へ置いて、懐から煙管を取りだした。
漆黒に、橙色の灯りが灯る。
紫煙が儚げに夜に溶け込む。
「リクオに言うつもりはないのかい?」
煙管を揺らしながら、ぬらりひょんが言う。
真新しい紙にまた筆を走らせる。
『心配かけたくないんだって』
「……なるほど、しかし相変わらず魅琉鬼もリクオには甘いのう」
雪那が袖元で唇を隠してくすりと笑った。
『おじいちゃんだって、リクオさまには優しい』
「くくく、こいつぁ一本取られたなぁ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
青い閃光に遅れて、雷鳴が轟く。
曇天の空の下、大木の影で蹲る若人(わこうど)が一人。
足を放り出して、落ち葉の上に尻をつけている。
どうやら足を挫いたらしく、其処から動かない。
上着の衣嚢(いのう)から煙草を取り出して、火を灯す。
「くっそ、ついてねぇな……アイツ等まさか俺を置いて帰ったんじゃ ねぇだろうな……雨も降ってきそうだし、最悪だぜ」
男が一人毒づく。
それに応える者など居らず、ただ、救助が来ることを祈るしかない。
こんな山の中で、飲まず食わず、一夜を過ごすなど真っ平御免だが、 それも仕方がない。
「お兄さん、こんなところでなにやってんだい?」
不意に、声が聞こえた。
顔を上げると、其処には十五六ほどの少年が佇んでいた。
男は、この幸運に感謝した。
けれど、すぐに訝しげな貌をして尋ねる。
「何それ? コスプレ?」
彼がそう言ってしまうのも無理はない。
今時珍しい、髷に袴姿の少年。
その腰には日本刀と脇差を携えて。
艶やかな黒髪は右目を覆い隠す。
純白の襟巻きが風にたなびく。
「――お兄さん、早く逃げなきゃ駄目だよ」
「へ?」
――喰っちまうぜ?――
ぞわり。
全身を這い回るのは、恐怖。
思考を蝕むのは、狂気。
軋む。
軋む。
音。
音。
――何だ。
――何だ。
――あの悍ましく、黒い。
――あの“爪”は一体何だ。
鋭く、硬いその“爪”は、巨木の幹さえ抉ってみせた。
カチカチと乾いた音が響く。
「あぎ、ぎ」
意味を持たない音の羅列。
「ん?」
少年が眉を顰めた。
よぉく目を凝らしてみれば。
男の頸に、細い糸が絡みついている。
「チッ」
「あぎ、あがが」
男の五本の指が蠢く。
男の躯が。
徐々に。
徐々に。
上へ。
上へ。
「あえ、え……」
男の口から泡が溢れた。
ぴんっと糸が弾けた。
全身の力が抜けてだらしなく垂れ下がる。
「ったく、おい馬頭(めず)! 獲物を横取りするんじゃねぇよ」
『へっへん! 鈍間なのが悪いんだぜ?』
――声。
それは、男の背後から。
馬の頭蓋骨が顔を覗かせる。
現れたのは、もう一人の少年。
長い髪と、馬の頭蓋で貌が隠れている。
総髪の男児だ。
馬の尾を思わせる髪を揺らしながら、高く手を振り上げて指を鳴らす。
若者の躯が、地に落ちた。
「チッ……行くぞ。“牛鬼様”がお待ちだ」
舌打ちをして、襟巻きを翻す。
そのまま闇に溶けてゆく。
――悲鳴はない。
――嘆きもない。
――其処にあるのは、男の骸ただ一つ。
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。