一.
闇の中で、蝋燭の火が揺れている。その灯りが照らすのは、厳かな貌をした一人の男。袖なし羽織を纏い女のごとく長い髪をした男だ。
書見台で開かれた書の頁を捲る。両の手を袖に潜らせて、眼球を上から下へ滑らせながら文字を追う。
一匹の蛾が、光を求めひらひらと舞う。暗雲の中で、燻っていた雷が弾ける。青い閃光がほんの数瞬ばかり闇を照らした。
ふと、男の顔が横へ動く。簀子が軋む音がした。障子の先に人影一つ。長い襟巻きがたなびいて。
轟音が迸る。障子戸に差した青い光で、その影の形がくっきりと浮かぶ。
「……牛頭丸か」
静かな声だった。けれど、よく通る低い声。
傅く影が応える。
「……はい。牛鬼様。手筈通り、リクオ様が捻目山(こちら)へ向かっております。ただ……」
「何だ」
「はい。余計な人間どもまでついて来ているようでして……」
「よい。捨て置け」
「……本当によろしいので?」
影が聞く。
「問題ない。全て私の目論見通りだ」
「はっ」
それきり声は途絶えた。障子に映り込むもない。
――遠くの方で音がする。
――空を裂く青い閃光と轟く雷鳴。
――男は静かに頁を捲る。
二.
列車が規則正しく揺れている。線路を走るその音は、さながら子守唄だ。奴良リクオが静かに寝息を立てて眠っている。
其れを上から見下ろす少女が一人。
車窓から注ぐ陽光を一手に浴びて、黒く艶やかな髪が煌いている。
少年を見下ろす眼差しはどこまでも優しげであった。
前髪を指の腹でなぞってやる。眉間に皺がより少し擽ったそうに声を漏らす。
ああ、なんて可愛らしいのだろう。
少女は思った。
「……んっ……魅琉鬼?」
リクオの瞼が上がる微睡む意識の中、瞳に映るのは美しい一人の少女。
影が落ちるほどに長い睫毛に整った顔。黒い髪が肌の白さを引き立たせている。
甘い香りが鼻腔を掠めた。リクオは漫然と少女を見つめる。数秒の間を置いて、彼の瞳が大きく見開かれた。
「み、魅琉鬼!? ななな、何で」
ひどく狼狽したリクオを見て、魅琉鬼は薄い唇に手を添えてくすりと微笑んだ。まるでささやかな悪戯に成功したときの童のような貌をして。
「あ、あっ、あのっ………えっと」
後頭部に伝わる柔らかな感触を楽しむ暇もなくリクオは身体を起こした。
「ご、ごめん!」
リクオは頭の中で状況を把握するより前に謝罪を口にする。
魅琉鬼はもう一度柔らかく微笑んで人差し指の腹を彼の唇に当てた。
「リクオ様? 車内ではもう少しお静かに……」
言われてから周りを見渡し、乗客の視線を独り占めしていることに気づく。
ある乗客は、嫉妬の眼差し、ある乗客は頬を染めて咳払いをし、ある乗客は後期心旺盛な瞳でこちらを見つめていた。
眼鏡のズレを直して頭の後ろを掻く。膝の上に握った拳を置き、背筋を伸ばして俯いた。
顔は茹で蛸のように赤くなっている。
「し、失礼しました」
消えそうな顔で言って押し黙った。そのまま視線だけを隣で座る魅琉鬼へと移す。普段の和装とは違い洋装に身を包んだ彼女に息を呑む。
裾の長い黒いシャツに赤いネクタイを少し緩めてしめている。襟から覗く鎖骨がひどく扇情的で、リクオの心拍数を乱すには十分であった。
下は股のVラインが際立つデニムのホットパンツに白い足を包むツートーンカラーのハイソックス。
芸術的とも言える絶対領域は、リクオのみならず数多の男を惑わす魔力を秘めている。
普段、和装の上からでは見ることのできない魅琉鬼のたおやかなボディーラインがくっきりと浮かんでいる。
「――クオ……――様――リクオ様?」
声に気付いて、我に還る。顔を上げると、心配そうにリクオを見つめていた。
「はっ! ……ごめん、ちょっとぼーっとしてて」
恥ずかしそうに、指の先で頬を掻く。
リクオは、両膝の上に乗せた拳を固く握った。手の中は汗で濡れている。
「………洋服、似合ってるね」
言えた! と心の中で叫ぶ。魅琉鬼は一瞬目を丸くした後、頬を綻ばせて微笑んだ。気のせいか少し顔が赤くなっていた。
元来人目を憚らず睦み合う男女というのは“目の毒”でしかない。これみよがしに甘い空間を作り出す二人を斜め向かいから歯を軋ませて睨みつける少女が一人。もうすでに暖かくなってきているというのに、首に長い襟巻きを巻いている。青みがかった黒髪が特徴的な少女。人間の姿に化けた氷麗だった。
彼女の隣に座っている少年、島 次郎は、両肩を抱いて震えていた。
「及川さん、なんか此処。異様に寒くないっすか?」
彼の言う通り、氷麗の周りは極端に低かった。白い息が見える。
車窓が凍っていた。しかし、そんな事は関係ない。
島の言葉に耳を傾けることなく、定席の端を歯で齧りながら睨み続けるのであった。
三.
一羽のカラスが漆黒の翼を羽ばたかせて茜色の空へと飛び立つ。鳴き声は、家長カナを怯えさせるには充分過ぎる程に無気味であった。落ち葉を踏む無数の足跡と枝が折れる音さえ鮮明に聞きとれる静寂の中、カナはリクオの服を摘み視線を左右へと配る。
リクオはげっそりとした様子で歩みを進めていた。
リクオの右隣で笑顔を絶やす事のない魅琉鬼。両手に花と言えば聞こえはいいが、リクオの心中は決して穏やかではない。一言も発することなく、仮面の様に貼り付いた笑顔はリクオの精神削ってゆく。毎度のこととはいえど慣れるものではない。
先頭を行く清継は彼の心中など知った事かという風に上機嫌で山を登っている。
「清継ー! 足疲れたー! やすみたーい」
そう言ったのは清十字怪奇探偵団のメンバー。巻 沙織長いブロンドヘアを枝垂れさせて、両膝に手を付き 肩で息をしている。
「そうよー。こんな山道もう歩きたくなーい」
隣で座り込んでしまった鳥居 夏実が片手で頬を仰いだ。
「何を言ってるんだ! もう少しで“妖怪博士”との待ち合わせ場所の岩場に……」
言いかけたその時、遠くの方から声が聞こえてきた。文字通り目の色を変えて清継が走る。それを尻目にだるそうな唸り声を上げて、渋々顔を上げる。座り込んでしまった鳥居に手を差し伸べる巻。
ようやく約束の待ち合わせ場所にたどり着いた清継一行は落ち葉の上にブルーシートを敷き水筒のお茶で一息をつく。清継はといえば、サラリーマンの部下が上司に酌をするかのように“妖怪博士”に茶を注ぐ。
リクオ達に対面して正座する壮年の男。髪と髭は伸びに伸びている。清潔とは程遠い人物であった。
頭を掻き毟れば頭垢が飛び、その度に鳥居と巻が顔を顰める。
「ところで、博士例の件は……」
「おっと、そうだったね。お茶も頂いたことだし、案内しよう」
「あの、清継君。さっきから思ってたんすけどこのおっさん誰ですか?」
島が訝しげな表情をして聞く。それは他の面々も同様であった。
「何を言っているんだい島君。この方は僕たち清十字怪奇探偵団のHPに特大の情報をお寄せくださった妖怪博士だ! SNSで知り合ったんだが僕の研究レポートを大いに評価してくださってね……―――」
高らかと語りだす清継を他所に魅琉鬼がリクオの左裾を指で摘み耳打ちをする。
「……リクオ様、どうやらあの男傀儡のようです」
「傀儡?」
「しっ! 視線を動かさないでください。そのまま話を聞いてください」
「う、うん分かった」
静止の声に一瞬肩を竦ませるが、顔を作って清継の話に適当な相槌を打った。
「恐らく、山に住む妖怪の仕業でしょう。この男の後について行くのは危険です」
「う、うん。そうだね」
「このままでは日が暮れてしまいますその前に何とか宿に全員を連れて行きましょう」
言葉を飲み込んで頷くリクオ。今なお夢中で話を続ける清継を遮るようにして声を上げた。
「あのさ! 清継くん! 今日は皆疲れてるし! 明日にしようよ! 山の天気は崩れやすいっていうし危ないからさ!」
「何を言うんだ奴良君! これからが」
此処でリクオと魅琉鬼の話を真後ろで聞いていた氷麗が助け舟を出した。
「賛成でーす! 私疲れちゃいました。清継君の自慢の別荘で休みたいでーす」
待っていましたとばかりに鳥居と巻がこれに援護を送り、清継は半ば強制的に折れるしかなかった。
「ありがとう。氷麗」
横へ並んだ氷麗にそっと耳打ちをした。心なしか彼女の頬に赤みがさしたのは夕日のせいだけではない。
「リクオ様………あとでお話があります」
声がした瞬間、リクオの心臓が大きく跳ねた。関節が錆びた人形のような軋みを上げながら後ろを振り返る。そこでは、大輪の花が咲いたような笑顔を浮かべた魅琉鬼の美しい貌があった。
四.
ベッドのスプリングが軋みを上げる。
掛け時計の秒針が、淡々と時を刻む。
リクオは目の前に迫る“果実”に喉を鳴らした。ネクタイが襟をすべる音が少年の心を惑わせる。大きく開いたシャツから覗くのは、窮屈そうに拉げた柔肉だ。
「みみみみ魅琉鬼! 落ち着こう! 取り合えず落ち着こう」
「ふふ、可笑しな事を申されますわね? 私は充分落ち着いておりますよ」
ひどく、蠱惑的で。
ひどく、扇情的で。
ひどく、加虐的な。
妖艶な女の貌がリクオへと迫り来る。形のいい唇が言葉を紡ぐ。
「女は皆嫉妬の鬼なのですよ? 私を妬かせて楽しむだなんて、ひどい人」
白い手が、すらりと伸びて。
白いシャツの釦をぷつり、ぷつりと外していった。鎖骨をなぞる指はひどく冷たい。リクオの身体が熱を帯び、吐息が荒くなる。首筋に這う汗を魅琉鬼の舌が掬う。吸血鬼が生き血を啜るが如く、強く強く唇で吸い上げた。
「ふふ、可愛い」
魅琉鬼の黒い髪が、赤く染まる。耳の形が徐々に変わって――
金色の双眸が、リクオを見下ろした。垂れた髪がリクオの躰に纏わり突く。甘く官能的な香りは毒のように浸透して自由を蝕んだ。
「ま、まずいよ……もう少しで夕飯なんだから」
「あら、でしたら私の手を振りほどけばいいではありませんか? 女一人の力など、殿方ならばたわいもないでしょう? それに――」
魅琉鬼の唇に薄く笑が点った。美しい貌が再び近づいた。
けれど、軌道は逸れて耳の横へ。
囁く声とともに吐息が掛かる。背筋に甘い痺れが奔った。
「扉の鍵は締めておきました」
――声と同時に。
『奴良君。ちょっといいかい?』
突如、響いたノックの音に彼の心臓がどくんっと大きく跳ねた。声の主は清継だった。予期せぬ事態に思考が追いつかない。二度、三度とノックがつづく。
魅琉鬼は艶笑を浮かべたまま動じない。そして、リクオの唇に人差し指を立てる。
『おかしいな。寝てしまっているのか?』
『きっとそうっすよ。アイツ女子の荷物全員分部屋へ運んで疲れたんっすよきっと』
清継の呟きに島が応える。どうやら二人一緒らしい。
『仕方がない……夕食が終わったらまた誘うとするか』
二つの足音が遠ざかった。リクオはそれと同時に、大量の息を吐き出す。
「危なかったぁぁ……」
心底安心した様子のリクオに、少しへそを曲げた魅琉鬼が意地悪く言った。
「……意気地なし」
声を無視してボタンをかけなおし、シャツの乱れを整える。シーツも綺麗に敷き直してベットへ腰掛けた。二人の距離は近い。
掛け時計の針がちょうど頂点を差して、厳かな音が鳴り響く。妙に気まずい空気の中、リクオは足の上で 指を絡ませながら言葉を探す。
「リクオ様」
沈黙を破ったのは魅琉鬼だった。彼女の纏う空気が変わる。リクオは肩を強ばらせて頷いた。
「この山は危険です。くれぐれもあの者たちと山へ出てはなりません。決してこの別荘からは出ないようにしてください」
「う、うん………分かったよ」
すうっと魅琉鬼の貌が綻び、リクオの緊張が緩んだ。
「約束ですよ」
そう言って、リクオの前に小指を差し出す。少し戸惑った貌になった後、リクオも笑顔で応える。
「約束だ」
五.
鹿脅しの音が夜空に響く。岩造りの露天温泉に浸かる乙女三人が星を見上げて声を漏らした。目の前に広がる竹林が夜風に揺れて、癒しの空間を演出する。
すだれ天井に映る水面が、ゆるゆると揺蕩っている。巻は囲いに寄りかかって足を伸ばす。ぴしゃりと音がして、白い足が露出する。
瑞々しいふくらはぎに水滴がすべる。彼女も魅琉鬼に負けず劣らずの美しいプロポーションの持ち主だ。カナと鳥居がバスタオルに包まれた慎ましやかな膨らみを掌で包み込んで視線を下へ。
「いいなぁ沙織は……」
「いいなぁ……巻ちゃんは」
二人が口を揃えていう。しかし、当の本人は女性らしいとはお世辞にも言えぬ仕草と声を出して“オヤジ臭い”を地で行く少女であった。
「胸なんて、でかくていいことなんてないったら! 重いし、邪魔だし、男子はエロい目で見てくるし、下っ腹にお肉付きやすいんだからね」
「持つべきものは、傲慢ね」
「……そうね」
どんよりとした空気が二人の間で、渦巻いていた。此処で彼女たちを谷底へ突き落とす“最終兵器”が現れる。
「あら、皆さんもご一緒でしたか」
白いバスタオルでその豊満な膨らみを隠した魅琉鬼が、ゆっくりと歩み寄った。黒く長い髪が、白い柔肌に吸い付いている。
鳥居やカナだけでえなく、巻までもがその姿に見惚れる。岩場に腰を下ろし、踝までお湯につかり、耳にかかった髪を指で払う。
「……ふぅ、気持ちがいいですね」
「……会長胸おっきー」
巻の一言に、二人もこくり、こくりと頷いた。
ばしゃり、と一段水が跳ねた一糸纏わぬ巻の裸体が露出し、鳥居とカナが唖然とした。そして、巻は徐に魅琉鬼の乳房を鷲掴む。
「ひゃん」
余りに突拍子もない出来事に、魅琉鬼が甲高く可愛らしい矯正が上がる。それと同時に、二つの乳房が弛む。ぐねりぐねりと掌の中で自由に形を変えて、余った柔肉が指の間からはみ出した。
巻は、何かに取り付かれたかのように揉みしだく。
「ちょっ、ちょっと巻さん! やめっ……やっ……ひう」
「おお、おおぉぉ…………やわらけぇ! めちゃくちゃやわらけぇ……」
「や、やだっ! 本当にやめっ! あんっ! ひぐぅ」
瞳の端から涙を浮かべて悶える。白い頬に赤みがさして、唇で指を噛む。
「助けっ……ひっ」
魅琉鬼の哀願虚しく。
「カナ! 私たちもご利益あるかもしれない!」
「う、うん!」
四つの手にひらが蠢き、迫る。
「ふ、二人とも…………イ、イヤーーー」
「リクオ様……私は汚されてしまいました」
ふらりと倒れ込んで、口惜しそうに呟く。横で気まずそうに頬を掻いて、両の掌を合わせ何度も謝る巻。悪乗りが過ぎたと、鳥居とカナも肩を竦ませて頭を垂れる。
「いやぁ、余りにもいいモノ持ってたもんでつい……もうしないから許してよ、会長」
「まったくもう、悪ふざけが過ぎますよ……」
「ほんっとごめん!」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「次はありませんからね」
魅琉鬼も徐々に怒りが収まったのか、唇に指を添えて微笑んだ。
――おい、“人”がおるぞ。
――本当だ。“人”がおるぞ。
――啖うてしまえ。
――啖うてしまえ。
――おれは“腕”がよい。
――おれは“足”がよい。
――わしは“腸”がよい。
――妾は“目玉”がよい。
――啖うてしまえ。
――啖うてしまえ。
声がする。
それは、人ならざる異形の声。
それは、人ならざる悪鬼の声。
黒い雲が空を覆う。
何だ。
何だ。
漆黒に浮かぶあの赤色は。
――それは、瞳。
――炯々と、獲物を見下ろしている。
めきり、めきり、塀が軋む。岩をが砕ける音がして。
ぐらり、ぐらり、大地が歪む。少女の悲鳴を咆吼が飲み込んだ。
「ちっ」
魅琉鬼の手刀が三人頸を打つ。悲鳴が途絶えて、数瞬の静寂が訪れた。
「雪那」
――声と同時に。
――白銀の猫が、姿を見せる。
「この娘達をどこか安全な所へ。邪魔する者がいれば食べておしまいなさい」
刹那が鋭い牙を剥き出しながら吼える。銀色の爪が石畳を抉った。空へ飛翔しそのまま闇に溶ける。
魅琉鬼の黒い髪が赤く染まり、金色の双眸が、異形の鬼を睨みつける。
くるりと回って着物を纏う。左手には、赤い番傘が握られていた。
「若い女の肌を覗き見るのがご趣味? 牛鬼組も堕ちたものね」
異形の腕が伸びる。
太く、無骨な腕は、岩さえも砕くだろう。
――けれど。
――けれど。
――無意味。
――無価値。
赤い鬼を前には全て意味をなさない。鋭い一閃が、鬼の腕を捉える。二つに分断された塊が地に転がった。平らな断面からは、肉も骨も赤い血も、悲鳴さえ上がらずに。
「……傀儡か」
短く舌打ちして、高く飛翔した。袴の襞(ひだ)がたなびく。異形の頸落ちる。
それは、椿の花が散る様に似ていた。
『へへ、莫迦な女だ……いくら斬った所で、意味なんてないのに』
太い木の枝からくすくすと嘲笑が聞こえる。一人の男童が腰をかがめて、鬼を狩る魅琉鬼を見下ろしている。馬の頭蓋が貌を隠していた。
「……随分と生意気な畜生ね」
ぞわり、背中に怖気が奔る。頬に汗が伝い、口の中がひどく乾いた。固唾を無理やりに飲み込んだ。
――なぜ。
――どうして。
頭蓋を反響する。目を離すことも、瞬きをすることもありはしなかった。つい数瞬前まで、傀儡を狩っていたではないか。
喉が震えて、声が出ない。
「私の質問にだけ答えなさい。動いたら腕を飛ばす。喋れば、舌を抜く。瞬きすれば、目を抉る。けれど、安心なさい。殺しはしない。殺す時は貴方の大事な主の前で殺してあげる……牛鬼は何処?」
『もう、遅いよ……俺を殺したって、牛頭がリクオを殺してるはずさ……ぎっ』
ごきり、と肩が外れた。
「余計な事は喋るな……次は、腕をねじ切る」
『へへ、動揺したな……』
瞬間、男童の姿が消えた。
「……リクオ様」
六.
青い閃光が弾けた。一拍遅れて、轟音が迸る。
闇を駆ける鬼が一匹。
赤く、長い髪が横へ靡いている。金色の瞳が闇夜に映える。袴の襞が、激しく揺れていた。赤い唇の端に、血が伝う。鬼の牙が、音を立てて軋みを上げた。
木々の群れが流れてゆく。一層高い木の枝に飛翔し、とん、とん、とん、と飛び移った。
視界の端に、一人の女が映り込む。長い黒髪に白い着物を纏った女だ。赤い血が、女の辿ってきた道を示すかのように草を濡らしている。
「氷麗さん!」
声に気付いて、女が顔を上げた。
「魅琉鬼……」
氷麗が、名を呟いて力尽きた。魅琉鬼は、腰を下ろし、氷麗を抱き起こす。
「ごめん……魅琉鬼、アタシ若を守れなかった」
「リクオ様は……」
「大……丈夫、生きて……おられるわ……けれど、足に怪我を」
「わかりました。私が必ず助けに行きます……雪那を呼びますから、休んでいなさい」
「若のこと……お願いね」
そう言って、氷麗は意識を失った。
松明の炎が、ばちりと弾けた。聳え立つ門の両脇には鎧に身を包んだ鬼が矛を片手に佇んでいる。
一陣の風が、炎を揺らす。ひゅっと短い音がして、異形の頭蓋が地に転がった。平らな断面から重く滴る赤い血。松明の炎が、其れをてらてらと照らしている。
門が軋みを上げながら徐々に開く。その先に、異形の群れ、群れ、群れ。その手には、刀、槍、斧、鎌、鎖、礫、弓。その全てが一匹の赤い鬼に向いている。
「邪魔ね」
音を立てて番傘が開く。
『誰だ!』
『誰だ!』
『でやえ』
『でやえ』
『殺せ!』
『殺せ!』
有象無象が、吼える。
白刃を這う音がして。
赤色が迸る。
七.
青い雷電が弾けて、轟音が轟く。
闇の中で、二人の男が対峙していた。
一方は、不敵な笑みを浮かべ、鋒を突き立てている。
一方は、目を閉じ、動かない。
青い、閃光が二人を照らす。白刃が妖しく煌めいた。
「牛鬼。貴様、部下の躾がなっちゃいないな……俺の側近に手を出すとは、どういう了見だい?」
男は、沈黙したまま答えない。
――かわりに。
――かわりに。
――鞘を滑る白刃の音一つ。
――銀の刃が妖しく光って。
「リクオ、貴様を殺して、私も死ぬ」
轟音が響く。
白銀の髪が揺れた。伊達男の貌に再び笑みが点った。
「――へぇ、そいつはいいや……やれるもんなら、やって、みな!」
耳を劈く音が響く。
一、
二、
三、
交わり弾けた、両者の足が簀子の上を滑る。
互の鋒を鼻先に突き立てた。
「せぇい」
「ふんっ」
刃がせめぎ合う。リクオの貌には、変わらず笑みが浮かんでいる。真紅の瞳が、牛鬼の顔を見つめた。
「流石、爺の片腕だった男だ」
「若造が……知ったふうな口を聞く」
八.
「リクオ様……どうか、どうかご無事で」
扉に一閃が奔る。数瞬の間を置いて、音を立てて崩れ去った。暗闇を橙色の明かりが照らす。
雷が、轟々と音を響かせた。白光に包まれるリクオと牛鬼。魅琉鬼は金色の瞳を見開いて、瞬間彼女は胸を撫で下ろす。
――魅琉鬼の左頬が、赤く染まって。
――けたたましい音が響く。
「え」
白い指で、頬をなぞる。
“ぬめり”とした感触が確かにあった。
金色の瞳をゆっくりと横へ。
――血。
――なんの。
――だれの。
「――いやぁぁぁぁぁぁぁぁ」
絶叫が、闇夜に溶けた。