恋する赤鬼   作:鯉庵

19 / 23
失恋

一.

 

 暗雲の中で燻っていた雷が弾ける。青い閃光に遅れて、轟音が響き渡った。その煌めきが、闇をほんの数瞬照らす。

 ほつり、ぽつりと音がする。

 白い指から滴る“それ”は、赤い色をしていた。

――垂れた髪の隙間から。

――黄金色の瞳が覗く。

「ひっ」

 女の声だった。雷鳴迸る闇の中でもよく通る声。それは、徐々に狂気を孕む。

「あひっひひ」

 鮮血を吸った赤い髪がゆらり、ゆらりと揺れ動く。

「あっひひ、ひひ、ひひひひひ」

――気狂い鬼の声が響く。

――人の“容(かたち)”をした鬼だ。

――美しい貌がひどく歪んで。

――白く光る牙が覗く。

 鞘を滑る白刃の音が一つ。

 空を斬る。

 青い閃光を浴びて、銀の刃がてらてらと妖しく輝く。

「死に晒せぇぇぇぇ!」

 女の絶叫が、弾けた。

 狙うは頸。鋒は、逸れることなく一筋に。

 白刃が、喉笛を穿つその刹那。けたたましい音が鳴り響く。無骨な体躯から大きく“ノ”の字に鮮血が迸る。男の眼球がぐるり、と上を向く。白い歯の隙間から赤い血が滴って。

 刀の鋒が、簀子へ突き刺さる。男が、片膝を付いて荒い息を吐いた。滝のように流れ落ちた血が簀子に赤い花を咲かせる。

 生きている。まだ、息をしている。

 殺そう。刀を振り下ろせば、頸が落ちてそれで終いだ。男の視線が、魅琉鬼へと移る。

「どうした。早く頸を落とせ」

「黙れ。リクオ様の仇――死ね」

 刀が天高く上がった。袖が垂れ落ちる。金色の双眸は、ひどく冷たい。

 

――そいつは随分と薄情じゃねぇか。

 

 魅琉鬼の瞳が大きく見開かれた。その声は背中から聞こえてくる。唇が震える。耳に届くのは、男の声。彼女が愛してやまない唯一。

「勝手に殺すんじゃねぇよ。俺はまだ生きてるぜ?」

「――リクオ、様……」

 金色の瞳が濡れる。頬に流れる涙の粒が赤い血と混ざり合った。くるりと回って、リクオの胸に頬を埋める。まだ暖かい血が、リクオを生きていると実感させた。

「リクオ……」

 牛鬼がリクオを見つめる。

「牛鬼、てめぇ……わざと急所外しやがったな」

 リクオの問いに牛鬼は答えない。目を閉じて無言を貫く。

「俺も舐められたもんだな……まぁしかたねぇか……こんな様じゃよぉ」

「リクオ、私を斬れ」

 リクオは、溜息を漏らして“寧々切り丸”を方へ担いだ。

「嫌なこった。てめぇは殺さねぇ」

「何故だ! 何故私を斬らない!? かくなる上は……」

 両膝を付いて、刀の鋒を腹に突き立てる。両手で柄を握り、刀を突き刺すその寸前で、耳を劈くような金属音が響く。折れた刀身が宙で旋回して柱に突き刺さる。

「莫迦。だから、死なせねぇよ」

 魅琉鬼は顔を見上げて、リクオを見つめた。

「愚か者め。裏切り者は生かしておけば碌な事にならんぞ」

「その時は、俺に見る目がなかったんだと諦める」

「リクオ様!」

 今まで無言だった魅琉鬼が咎めるようにして叫ぶ。ぎゅっと固く握った拳が震えている。頭の後ろに掌をやって髪を撫でた。

「お前が組を想う気持ちはしかと受け取った。俺が魑魅魍魎の主に相応しくないと思ったときはまた斬りに来な……ま、返り討ちにするがな」

 そう言って、不敵な笑みを浮かべ闇に消えた。魅琉鬼がさっと振り返ると、祢々切り丸を鞘に収めるリクオの姿がそこにあった。

 鯉口が小さな音を立てる。リクオが、肩に掛けた羽織を揺らしながら、扉へと歩む。

「……敵わんな、流石に総大将の血を引くだけはある」

 リクオが、ぴたりと足を止める。

 唇の端を釣り上げて、にたりと笑った。

「爺には黙っておけよ魅琉鬼」

 

 

二.

 

 空の上を自由に形を変えながら、白い雲が流れてゆく。優しく吹いた風が、しだれ桜の枝を揺らす。桃色の花びらが、耳心地の良い音を奏でた。鹿威しの乾いた音が響く。

 無骨な岩に囲われた池には、澄み切った水が照りつける光を揺らしている。河童が顔を出した。皿から水がこぼれて、音を立てている。視線を左右へと配り、再び池に沈んでいった。

 掛け時計の厳かな音が、奴良組本家の屋敷に響きわたる。時刻は正午。リクオが安らかな寝息を立てて眠っている。

 ぴしゃり、と音がした。固く絞った布をリクオの額へ乗せてやる。もうこれで何度目になるだろうか。牛鬼の一件から二晩がたった今も、目覚める気配はない。華奢な体躯に巻かれた包帯が戦いの壮絶さを物語っている。魅琉鬼は、リクオの横に正座しながら、膝の上に置いた両拳を握る。金色の双眸に影が落ちる。目尻に浮かんだ涙が煌めいている。

「リクオ様……」

 魅琉鬼声に応えてはくれない。白い手が、リクオの頬へと伸びてそっと触れた。二人の顔が近づく。彼女の涙が、リクオの鼻の頭に落ちた。

 ほつり。

 ほつり。

「――う、うっ」

 細い眉が、微かに動いて、眉間に皺が寄る。瞼が徐々に上へと上がる。茶色の瞳に魅琉鬼の顔が映り込んだ。リクオの手を掌で包み込んで胸元へ引き寄せる。

「魅、琉鬼……」

「リクオ様! わかりますか! 私はここにおります」

 強く、強く手を握る。その両手は震えている。リクオは唇を釣り上げて笑って見せる。

「痛いよ、魅琉鬼」

 そう言って身体を起こす。

「いてて」

「お身体に障ります!」

 そう言ったあと、堰を切ったように魅琉鬼が泣いた。リクオはただ、“困ったな”という顔をして。

 一頻り泣いたかと思えば、今度はリクオを睨みつけた。

――そして。

――乾いた音が部屋に響いく。

 リクオは、唖然とした表情で、魅琉鬼を見つめた。遅れて、頬がひりひりと痛む。掌で触れると微かに熱を帯びていた。

「馬鹿! どうして……どうして!」

 力なく、リクオの胸を拳で叩く、蹲り叫ぶ彼女の姿に心が軋む。

「ごめん、ごめんよ……」

 リクオは呟いて。

 魅琉鬼を強く抱きしめた。

 

 時計の秒針が、沈黙の中音を刻む。それ以外の音はない。魅琉鬼は、リクオに背を向けたまま動かなかった。怒っている。それも、かなり。リクオは頬を指で掻きながら時が過ぎるのを待つ。下手に言葉を紡いでも今の彼女には、届かない。

 故に、沈黙。

 一秒がとても長く感じられる。

「……頬、痛みますか」

「う、ううん! 平気だよ」

「あら、もっと強くひっぱたいておくべきだったかしら?」

「……え゛」

 リクオが引きつった声を上げると、顔を横へ向けてくすり、と微笑んだ。きゅっと締まった血管が緩む。

「冗談です」

 彼女が今日初めて見せる笑顔であった。

 

三.

 

 白線で簡易的に描かれたサッカーフィールドの土を蹴り、砂の粒子が飛ぶ。蹴り上げられたボールは、見事ゴールネットを揺らした。ホイッスルの甲高い音が鳴り響く。それをかき消すように、黄色い声援が飛び交った。

 背の高い男子生徒が、赤いゼッケンの襟を掴み、汗を拭う。一緒に持ち上げられた白いTシャツの裾から、鍛え上げられた腹筋がのぞき見える。

 ゴールを決めた選手の周りにチームメイトが駆け寄り、笑顔で彼を褒め称える。首の後ろに腕を回し胸元へ頭を寄せ頭をくしゃりと撫で回す者、背中を叩いて喜ぶ者、憧れの視線を彼へ向ける者。それらを一身に受け止めた彼は、頭上で燦々と輝く太陽のような笑顔を浮かべた。

「やっぱお前スゲーよ! 越前! ハットトリックなんて」

「だよなー。お前に助っ人頼んで正解だったわ」

 照れくさそうに頭の後ろを掻いて、苦笑した。健康的な小麦色の肌が越前涼介のトレードマークであった。端正な顔立ちも相まって女子生徒の間でも人気は高い。それはフェンス越しに声援を送る者たちを見れば一目瞭然だった。

 試合終了のホイッスルが鳴り響きフィールドの中心に選手達が整列した。黄色いゼッケンを着た選手たちは、皆悔しそうにしていた。

 その一番端で奴良リクオが気まずそうな貌をして立っている。

 今日は、クラス対抗の球技大会であった。相手チームのエース、越前涼介は運動部には所属していないものの、その類まれない運動神経で、各運動部から助っ人として引っ張りだこの生徒であった。

 運悪く、島が病欠。主力を失ったチームは成すすべもなく敗戦したのであった。午前のプログラム終了を告げるチャイムが、校庭に鳴り響いた。

 

 木陰に敷いたアウトドア専用シートの上で、魅琉鬼が水筒を傾け茶を注ぐ。コップに落ちた氷がかちりと音を立てた。

「ありがとう、魅琉鬼」

「いえ」

 そう言ってリクオが乾いた喉を冷たい茶で潤した。

 魅琉鬼の体操着姿に息を呑む。白と黒のコントラストが彼女の美しさを引き立たせている。黒のハーフパンツから伸びる白い足を木漏れ日が照らしていた。健康美溢れる太腿は、肉付きがよくすらりと引き締まっている。

「残念でしたね……試合」

 突然の声に吹き出しそうになる。魅琉鬼の顔には陰りが浮かんでいた。

「あはは……そう、だね。頑張ったけど、負けちゃったよ」

「でも、あの越前くんからボールをカットするなんて凄いじゃないです……とても素敵でした」

「はは、ありがとう」

 乾いた笑いを漏らし、耳頬を指で掻く。膝の上に置かれた包を解くと中から青い弁当箱が顔を出す。はやる気持ちを抑えずに蓋を開けると、中にはびっしりとおかずが詰められていた。

 ただ詰めるのではなく、綺麗に彩りよく並べられたそれは、栄養が偏らぬように詰められていた。

 感嘆の溜息を漏らすリクオに気を良くした魅琉鬼が箸で美しくカットされた“たこさんウィンナー”を摘み、口元へ運ぶ。

「リクオ様、どうぞ」

「う、ん」

 多少は躊躇したものの、すぐに貌がゆるみほお張った。嬉しそうに味わうリクオを見て、魅琉鬼が微笑む。誰にも邪魔されない至福の時を噛み締めながら、魅琉鬼はお弁当をリクオの口へ運ぶ。

 

――“僕と付き合ってください!”

 

 突如、聞こえてきた声に二人が、顔を付き合わせて目を丸くした。

 足音を殺し、声のする方へ近づいてゆく。リクオの蟀谷(こめかみ)に滲んだ汗が、頬へ流れて顎の先から乾いた土に落ちた。魅琉鬼と顔を合わせる。アイコンタクトのあとに静かに頷きあって、そっと物陰から顔を出した。

 二人の男女が、少し距離を保ったまま対峙していた。男は腰を折って、女に手を突き出している。一方の女は、ひどく困惑した様子で、瞳を泳がせていた。典型的な告白の場面を目撃したリクオは気まずそうにして魅琉鬼へと視線を移す。

 リクオが“ぎょ”っとした貌になった。

 興奮状態の魅琉鬼が、その漆黒の瞳を輝かせ、握り拳を固くしていた。しかし、状況に変化はなかった。長い沈黙を破ったのは、女の方であった。

『ごめんなさい』

 玉砕の瞬間である。腰を追っていた男が顔を上げた。

 端正な顔立ちに小麦色の肌。身体を起こすと、相手の頭三つ分ほどに背の高い男子生徒であった。先ほどリクオのクラスを破ったチームのエース“越前涼介”が、頭の後ろを掻いて、俯いた。

『……えっと、理由聞いてもいいかな? カナちゃん』

 越前涼介の告白の相手は、リクオのクラスメイトでもあり、幼馴染でもある“家長カナ”。ショートヘアの髪の先を指に巻きつけながら、気恥かしそうに言った。

『……私、好きな人がいるんです』

『そ、そっか……』

『はい、だからごめんなさい』

 深々と腰を折って叫んだ。そのあとすぐに踵を返してさってゆく。

 涼介は、虚しく腕を伸ばして空を掴んだ。

 リクオ達に向かって、カナが走ってくる。瞬く間に彼方へ走り去るカナを、リクオは呆然と見つめるだけだった。

「気になるんですか? リクオ様……家長さんの意中の人」

「そ、そそそそそそんなわけないだろ!」

 心臓の血管が、きゅっと音を立てて締まる感覚をリクオは覚えて、慌てて否定する。

 ジト目で見つめる魅琉鬼に思わず苦笑を漏らした。

 

 

四.

 

ネオンの光が、漆黒の空に広がる星達の輝きを霞ませる。鉄筋コンクリートの上を踵の音が行き交っていた。雑踏のなか帰路へと急ぐ、家長カナの姿が。前方に注意を払い腕時計に視線を落とす。時刻は午後七時を指している。左腕に掛けたサイドバッグが、忙しく揺れている。

 と、少女に鈍い衝撃が走った。

 勢い良く後方に倒れ込んでしまって、尻餅を付きバックの中身がコンクリートの上にばらまかれた。

「ってーな、どこ見て歩いてんだよ」

気だるそうな声が上から降りかかる。顔を上げると金髪の髪を逆立たせ、チェーンピアスを揺らしながらカナを睨みつけていた。

「ひっ」

 小さい悲鳴を上げ、肩を竦ませる。男がいやらしく目を細めて口笛を鳴らした。

「ひゅー、君可愛いじゃん。今から俺とデートしてくれたら許してやってもいいぜ」

 無骨な男の手がカナの細い手首を鷲掴む。

「っや、離してください!」

 必死に抵抗するも、男の力は強く振りほどくことはできない。

 周りに助けてと必死で目を配るが視線が重なった瞬間に俯かれてしまう。

 絶望し、叫ぼうとしたその時、男のくぐもった声が聞こえた。

 固く閉じた瞳を開けると、ナンパ男が仰向けになって腹を抑え倒れ込んでいた。

「大丈夫?」

 聞こえてくる声は、凛々しく美しかった。黒いスーツに身を包んだ女性が優しい眼差しでカナを見つめていた。耳にかかった黒髪を指で弾く。その仕草にカナの鼓動が高鳴った。

赤いルージュの唇がすうっと横へ伸びている。

「さ、警察を呼んでおいたから今のうちに行きましょう」

 そう言って、彼女の手首を掴みヒールの音を響かせて走った。

 

 カウンター席に腰を下ろした二人の前には、ブレンドコーヒーが注がれた純白のカップが並んで置かれて居いる。ブラックが苦手なカナは少々恥ずかしそうに脇に置かれたミルクピッチャーを手にとって、コーヒーへ。白いミルクが螺旋を描きながら混ざり合った。

 店内に流れるジャズのBGMが店の雰囲気を確立させていた。カウンターに並べられた椅子はどれも背が高く、カナのつま先が申し訳程度に触れるほどであった。カップに触れさせて傾ける。視線だけを横へ。

 カナを助けた黒髪の女性は、銀の灰皿に煙草の灰を落とした。

「あの、先ほどはどうもありがとうございました」

 おずおずと言うカナに、妖艶な笑みを浮かべた女が言った。

「気にしないで、私も特に予定があるわけじゃないから」

「あの、これ以上遅くなるとお母さんが心配しますから、失礼します。お礼はまた後日必ずしますから」

 席を立つカナの手に、女性の白い手が重なった。その手は、ぞくりとするほどに冷たかった。

「――待って」

「……え」

「貴方私の名前と連絡先聞いてないじゃない」

 言われて“そういえば”と気づく。

 女は煙草をもみ消して、隣の席に置かれたバッグに手を入れる。紫煙がゆらゆらと立ち上り溶けて消えた。吸い口には、赤いルージュの跡が残っていた。

「私の連絡先はここよ」

差し出された名刺には明朝体の文字でこう書かれていた。

“ノザワ芸能事務所”と。

「実はねカナちゃん。私、モデルの娘を探してたのよ……ねぇ、貴方読モやってくれない?」

 突拍子もない話に目を丸くする。

「実は、事務所がすぐそこなの」

「で、でも」

 

――不意に、女と視線が重なる。

――その双眸がが赤く染まって。

――カナの瞳から光が消える。

 

 

五.

 

 長卓の前で座布団に星座をして白いノートにペンを走らせるリクオの姿があった。障子に淡い橙色の明かりが映る。リクオは今日も、クラスメイトの宿題をせっせと片付けていく。最近では、一人一人の筆跡を完璧にコピーして教師陣にそのことがバレることもなくなった。

 魅琉鬼が知れば、卒倒しかねない。リクオは順調に人の道を外れつつあった。

 長卓に小さな振動が奔る。充電器に置きっぱなしにしてあった携帯電話のサブディスプレイが断続的に点滅していた。

 慣れた手つきで携帯を開くと、メインディスプレイに見慣れぬ文字が映っていた。“巻 沙織”。リクオのクラスメイトで清十字怪奇探偵団のメンバーである。

 珍しい相手からの着信に、訝しげな貌をして、通話ボタンを押した。

「もしもし?」

『あ、奴良? 良かった! 出てくれて! あんたカナから電話かメール来なかった?』

 電話越しに聞こえる声は、ひどく焦っているように思えた。車のクラクションの音。足音。人の声。様々な音が遠くの方から聞こえてくる。

「え? カナちゃんから? いや、僕のところに連絡は来てないよ?」

『……そっか』

「どうかしたの?」

『実は、カナの奴、まだ家に帰ってないみたいなのよ。携帯に連絡入れても連絡取れなくて』

「え」

 長卓に置かれた時計に視線を移す。時刻は午後七時を指していた。まだ遅すぎるという時間帯では無いが、連絡が付かないのはおかしい。

「ちょっと変だね……」

『でしょ? だからアンタも探すの手伝って頂戴』

「分かった」

 一旦、通話を終了して、溜息を漏らした。

 

『リクオ様、夕飯の準備が出来ましたよ』

 障子に映る人影一つ。

魅琉鬼が正座しているのが見て取れた。リクオは罪悪感を感じながら障子の戸を開ける。

「……ごめん、魅琉鬼。ちょっと急用が出来ちゃって……」

 彼女を見つめるその瞳は、どこまでも真っ直ぐであった。

「……私にお手伝いできることはありますか?」

 リクオは静かに首を振った。

「大丈夫だよ……それより早く用事を終わらせて来るから待っててよ」

 魅琉鬼は、柔らかく微笑んで。

「――畏まりました。いってらっしゃいませ、リクオ様」

 

――リクオの姿かたちが変貌する。

――長い白銀の髪がたなびいて。

――真紅の瞳が、漆黒に煌く。

 

「大百足、出てきな」

 声と同時に、長い首を擡げてリクオを見下ろす赤色の瞳が二つ。

 その長い首をリクオの方へ。

 百足の頭蓋に飛び乗った。両肩に掛けた羽織が、音を立てて翻る。頭上で胡座をかいて、愛刀“祢々切り丸”を方へ担いだ。

「行ってくる」

 

 

六.

 

 音が聞こえる。

 それは、何かを擦る音だった。

 しゃっ

 しゃっ

 しゃっ

 断続的に、音は続く。

「……んっ」

 家長カナの瞳が開いた。

 けれど、視界には何も映らない。

「うぐっ」

 声を出そうとしてもくぐもってしまう。

 身体が動かない。

 何かで固定されて、口には猿轡をくわえ込んでいた。

 僅かな隙間から唾液が滴り落ちる。

 しゃっ

 しゃっ

 しゃっ

 音が響く。何処かで聞いたことのある音だった。

 それは、包丁を研ぐ音。

 石の上を、白刃が滑る音。

 その音は、自分のすぐ近くから聞こえてくる。

――ぞわり。

――背中に怖気が奔る。

『あら、起きたのね』

 女の声だった。

 それはつい先ほど自分を助けてくれた女の声。

「んぐっ! ぐぅ……ぐ」

『もう仕方ないわね』

 ヒールの靴音が、近づいてくる。やがて闇に覆われた景色に一つの色が浮かんでいた。

 赤い色だ。

 それは、瞳だった。

 蛇のような目。

 闇に炯々と光を放っている。

 その僅かな灯りが女の肌を照らす。

――異形。

――それが、人の“容”をしていても。

――それが、人の言葉を紡いでも。

――それは、人ではない。

――にたりと口が大きく裂けて。

――鋭い牙の先から涎が滴っている。

「ひっ」

 身体が強ばった。異形の鬼は加虐に満ちた瞳で怯える少女を見つめていた。出刃包丁の刃に長く、赤い舌が這いずる。

『私はね? カナちゃん。貴方みたいな可愛い娘を見ると、憎くて、憎くて堪らない気持ちになるの』

 包丁がカナのセイラー服を切り裂いた。白い肌が、震えている。

『綺麗な肌ね……憎たらしい』

 鋒が白い肌を滑ってゆく。目尻から流れ落ちた涙が包丁を濡らした。

『この白い肌を赤く染めてあげる……きっと綺麗よ』

 胸元で止まった包丁の鋒が、皮膚を破る。

 痛みは小さかった。けれど。

 赤い血が臍へと流れ落ちた。

 『ほら、綺麗』

 ひどく、扇情的で。

 ひどく、妖艶な声。

『もっと綺麗にしてあげる』

 

――その辺にしときな腐れ外道。

 

 声が聞こえた。

 涼やかな男の声だ。

 姿は見えない。

『誰だ! 誰だ!』

 鬼の貌が醜く歪んだ。

「てめぇのような妖怪に名乗る名はねぇな……」

 長い耳が動く。素早く振り返ると、黒い髪が円を描いた。

 姿は見えない。

 

――ここだよ。阿呆。

 

声が、耳元を掠めた。

――それと同時に。

――けたたましい音がして。

――赤色が迸る。

 

 懐から白い布を取り出して、白刃に付いた血を拭う。リクオは物言わぬ骸を見下ろして、踵を返した。

 雪駄の擦れる音がカナに近づいた。既に気を失っている。

 羽織で彼女の身体をくるんでやると、両腕で抱き上げ、そのまま闇に溶けていった。

 

 

七.

 

 

 青白い月の中心に、黒い影一つ。白銀の髪が、月光を浴びてたなびいている。高く聳え立つ摩天楼へひと蹴りで飛び移っていた。

「ん」

 カナの薄い瞼が開く。茶色い瞳に伊達男の顔が写りこんだ。

「よう、目が覚めたかい?」

 唇の端を釣り上げて嗤う姿に、時を忘れて見惚れた。

「……あなた、だれ?」

 男は応えない。

――かわりに。

――赤い唇に笑が点った。

 不意に、襲ってきた浮遊感が意識を覚醒させる。

「って、空!? ななな、なんで私、空飛んでる!?」

「今頃気づいたのかい?」

 意地悪く言うと、貌を赤くして、それきり黙り込んでしまった。

「見てみなよ。月が綺麗だぜ」

 間近で見る月の美しさに息を飲んだ。

 空の旅を満喫したカナは、窓から自分の部屋へ降り立つ。

「じゃあな、風邪ひくなよ。カナちゃん」

「え」

 視線を下に。殆ど裸同然の格好に言葉を飲み込んで驚愕する。茹でた蛸のように顔を赤くしてその場へ座り込んでしまった。伊達男がからかう様な笑みを浮かべて、飛び立とうとした時、カナが袖を引っ張った。

「待って、もう少し一緒にいてください」

 男を見つめる瞳は潤んでいる。袖を掴む手も微かに震えていた。

「悪いな、大事な女を待たせてるんだ」

 それだけ言って夜の闇に溶け込んでいった。

 

 

八.

 

 掛け時計の厳かな音が鳴り響く。大広間の食卓で正座をしながら魅琉鬼がリクオの帰りを待っていた。立ち上がり、暖簾を潜って台所へ。味噌汁の入った鍋をもう一度温めなおす。もうこれで何度目になるだろうか。あれから二時間あまり過ぎている。

――もしや。

 先日の光景が脳裏を過ぎる。

 頭を振って、払い除けた。

「待たせちまったな……」

 背後からリクオの声が聞こえた。振り返るまもなく、後ろから腕を回し抱きしめられる。

「腹減った。何か食わせろ」

 魅琉鬼は、唇に手を添えてくすりと微笑んだ。

「おかえりなさい。リクオ様」

「ああ、ただいま」

 

 遅めの夕食を平らげたあと、リクオ達は広間で晩酌を楽しんでいた。少し大きめの羽織を二人寄り添って纏っている。赤い盃に、酒が満たされて、それを傾ける。魅琉鬼は幸せそうに頬を染めて、リクオの胸に顔を埋めている。

「酔ったのかい?」

「もう、意地悪……」

 やんわりと言ってまた寄り添った。

 ぬらりひょんの声が聞こえてくる。どうやら晩酌の相手を所望らしい。

「はーい」

 そう言って立ち上がった魅琉鬼の手をとってぐいっと引き寄せた。

「きゃ」

 小さな悲鳴の後にリクオが魅琉鬼を抱きとめた。

「お前は俺の隣で酌してな」

「――困った人」

 言葉とは裏腹に彼女の貌は幸福に満ちていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。