一.
玄関広間(エントランスホール)で、一人の女と一人の男が対峙していた。赤い番傘を差した女。紅い髪に、尖った耳。黄金の双眸を持つ、大そう美しい女である。
その女がひどく妖艶な笑みを浮かべている。磨き上げられた大理石の床が、紅く染まって、女の美麗な貌が水面に映し出されていた。
「――まさか、本当に“椿の鬼姫”がカチコミ掛けてくるなんてよぉ」
男は、分厚い唇に舌を這わせ喉を震わせて、低く嗤った。
男の武骨で隆々とした肉の凹凸が黒スーツに浮かび上がっている。男は拳をこきり、こきりと鳴らして、それから首を左右に傾けた。小気味の良い骨の音が響く。
拳を軽く握って構えた。
足場は鮮血で濡れているが、問題にはならない。一蹴りで間合いを詰めることも容易い。
男は皓歯を覗かせて、もう一度笑って見せた。
“――ぴしゃり”と音がした。
男の視界が赤色に染まっている。
――傘。
鮮血を吸った赤い番傘が、眼前で広がっている。
おかしい。
瞬き一つ、儘ならない程の“間”であったはずなのに。
何故、どうして。己の前に女がいるのか。
女が傘の奥で、紅い唇に笑みを点した。仕込み刀が、男の頸に觸(ふれる)寸前。
男も皓歯を覗かせて嗤っていた。
甲高い音が玄関広間(エントランス)に響いた。
「――残念でした」
男は赤い舌を垂らして嘲笑を一つ。
その顔が、異形へと変貌していた。
――岩。
男の筋骨隆々とした体躯を岩が覆っている。
拳を振り下ろした。
「チッ」
女が後ろに飛んだ。
岩の拳が、大理石を抉ってみせる。それから、砕けた石が鋭く尖って、女に襲い掛かる。刀を旋回させて、之を弾く。
「ああ、使い物にならなくなってしまったではありませんか」
女が、ため息を漏らして、白刃を見つめる。
洗練された美が失われ、刃が欠けている。女が刀を放った。
「仕方がないわ。――雪那」
――声と同時に。
――白銀の毛並に覆われた美しき化け猫が姿を現す。
赫い眼(まなこ)で男を睨み、低く唸った。
「申し訳ないのだけれど、“アレ”を使うわ……」
雪那と呼ばれた猫が、瞠目して、それから大きく口蓋を開いた。
女は何を思うてか、その口蓋に腕をするりと入れて、何かを手繰り寄せている。
――取り出したるは、一振りの刀であった。
鍔も柄巻もない簡素な造りの刀。敢えて外装を語るのなら、その色。
紅い色をしている。
「今更、刀を変えた所で、どうするってんだ。鬼姫さんよ」
男が唇を釣り上げてせせら嗤う。
――刹那。
“ぴしゃり”と音がする。
「――え」
呆けた声が漏れていた。
何故、何故、何故。
頭蓋の中で、問いを繰り返す。
――何故、己の躯を見上げているのだと。
男の足元に、頭蓋が転がっていた。
その様は、椿の散り際にひどく似ている。
刀の鋒から、紅い雫が滴っていた。
漆の如き、艶のある黒い刀身が、鮮血を浴びて鈍く耀いていた。
――鞘を這う白刃の音一つ。
男の躯が炎に包まれた。
「この程度の相手に“この子”を使うだなんて……やはり今のままではリクオ様を護れない」
黄金の瞳に陰に陰を落とす。
憂いを帯びた女の貌は、かくも美しい。
雪那の顎下を軽く撫でてやる。気持ちよさそうに喉を鳴らして、女に頭をこすり付ける。
「こら」
柔らかく微笑んで咎める。
不意に、雪那の瞳孔が細く尖る。銀色の毛を逆立てて、低く唸った。
――噂に名高き“椿の鬼姫”がこの程度とは――
荘厳と傲慢が混じる声が、響いた。
その声は、女の頭上から聞こえてくる。視線を上へ向けた。階(きざはし)の先に構える扉の前に一人の男が、粛然と立っている。腰に帯びた刀の柄に手を乗せ、ぶらりと遊ばせている。
白髪白髭の翁。
顔に刻まれた皺は深い。
とん、と軽く鉄柵の上に乗り、舞い降りる。羽織の袖が宙でひらめく。
「その刀、刀匠“時雨”の“紫焔”か。――今の貴様にはすぎた刀だな」
女が唇に笑みを点す。それから、一際甲高い音が鳴り、波紋が生じる。屋敷全体が重く揺れる。二人は、鼻先が擦れ合う程近くで、睨みあった。
「――何方かは存知あげませんけれど、私と刀を切り結んむだないて、珍しい」
刃と刃が弾けて、互いに距離を取った。
翁が、女を穿たんと、地を蹴った。瞬く間に間合いが縮む。女が突きを往なして、身体を反転させ、勢いのままに翁の頸を刎ねようと、横薙ぎの一閃を放つ。倏忽(しゅっこつ)として、体躯を屈ませ之を回避。女の刀が空を裂く。
細い白髪が、数本宙ではらはらと舞った。屈んだまま体躯を翻し、下から突き上げる。刀の鋒が、女の眼前に迫った。けれど、女の貌には、笑みが浮かんでいる。刃が擦れ合う音が響く。鍔が鳴り、翁が刀を返す。そのまま横薙ぎの一撃に転換し、女の身体ごと払う。
壁に衝突して、砂塵が立ち込める。
「む」
翁が、小さく唸って頭上を見上げた。
雪那が、爪を尖らせ翁に重い一撃を見舞う。
頭の上に刀を翳して、受け止める。足元に蜘蛛の巣の如き亀裂が奔った。
「ちぃ」
翁が歯を食い縛って耐える。
「――なんじゃ、騒々しい」
女の声がした。
ひどく、透き通る冷たい声だった。苛烈な戦いの中にあって尚、その声が呑まれることは、なかった。
漆黒の髪を指で弾く。
死人の如き、白い貌をした女である。夜よりも深い黒い瞳が、すうっと細くなった。
「客人かえ?」
血の通わぬ唇に笑みを点して、女が言う。
纏う衣は薄く、白い肌が透けていた。嫋やかな身体は悉くを魅了する魔性。
「主! お下がりください!」
――叫びと同時に。
砂塵が切り裂かれ、赤い鬼が鋒を突き立てて飛翔する。軌道は逸れることなく一筋に、白い女の頸筋へ。
「ふむ」
白い女は感嘆して間もなく、金の尾が、背後に顕現した。
「――が」
鋭く尖った尾が、赤い女の腹に突き刺さる。
「おお、すまぬ。勝手に殺してしもうたわ。許せ、鬼童丸」
「っか……ごふ」
赤い女の唇から血が滴り落ちた。
「ほう、まだ息があるか……大した女子(おなご)じゃ――ん?」
主と呼ばれた女が、宙で串刺しになった女をじくと見つめた。
「紅い髪に尖った耳……それから黄金の瞳――ふむ。そちが“魅琉鬼”とやらかえ?」
女は応えない。
――代わりに、唇に笑みを点して、女の白い貌に血を吹く。
貌の半分が赤く染まった。
「気概も良いな」
女は、嫣然と微笑み、掌で血を拭った。
それから、手を叩く。
「そうじゃった。そうじゃった。そちに逢(お)うたら、聞いてみようと思っていたことがあるのじゃ」
宙に浮いた尾を、己の許へ誘い、魅琉鬼の耳元でこう囁いた。
――愛しい男の稚児(ややこ)を孕めぬとは、どういう気分なのじゃ――
「――ヒッ」
嗤う。
「――ひひひ、ひ」
嗤う。
「――あっは、ひ、ひひひ」
嗤う赤い鬼。
黄金の瞳が炯々と耀いた。
「――啖(く)うてやる。肉も骨も、皮も剥いで、目玉をくり抜いて、腑も引き裂いて、脳髄を啜って、最後にはその汚らしい魂まで啖(く)うてやる」
――赤い鬼の背後から、灼熱が迸る。
「――なに」
背筋に奔る感情(これ)は、なんだ。
忘れて久しい感情(これ)は、なんだ。
京の主たる己を慄かせるこの女は、一体なんだ。
女は、魅琉鬼を勢いよく放った。
轟々と音が響く。
「――末恐ろしい女よ。鬼童丸。止めを刺してやれ。生かしておけば、必ずや、“妾の悲願”を邪魔する者に化けるぞ」
「御意、この猫を斃し次第すぐに」
――はいはい、そこまでにしてね――
声が、響いた。
童、少年の声。
鬼童丸が瞠目する。声の主は、今尚、対峙する化け猫であった。
紅い双眸には、青い炎が点っていた。
『いやぁ……予想はしてたけど、相当弱くなってるねぇ……魅琉鬼ちゃん』
「貴様、何者」
『んー? 僕の事かな? えーっと“闘神阿修羅”って言えば通じる?』
鬼童丸とその主が戦慄していた。
『キシシ、その貌傑作だよー』
せせら笑う声が、玄関広間(エントランスホール)に響く。
『因みに、気配を探っても無駄だからね? 僕、今地獄にいるもの』
「なんだと? ではどうやって――」
『君、案外鈍いね。君の目の前にいる猫だよ。この娘の瞳を通して、現世を覗いてるのだ』
誇らしげに鼻を鳴らして言う。
『あ、そうそう。魅琉鬼ちゃんは殺させないよ? 僕の大事な大事な遊び相手なんだ。“今”は弱っちいけど』
一呼吸置いて。
『――本来なら、君らなんて相手にもならない』
息を呑んだ。
地獄の闘神にここまで言わしめるとは。
「ならば、尚の事――」
――刹那。
――青き灼熱が、迸る。
『だーかーらー。駄目だって、言ってるでしょ? 心配しなくても、君らの“悲願”は邪魔しないよ。むしろそっちの方が、“闘神(ぼく)”的に楽しいことになるし』
雪那が、気絶している魅琉鬼を咥えて空へ飛翔した。
『それじゃ、魅琉鬼ちゃんはもらってくねー。まぁ、精々楽しみにしてて』
二.
薄闇の中で鎖の音が響いていた。それ以外に響くのは、鞭の音。ひゅん、と鋭い音の後に続いて、鎖が揺れる。赤い炎が点っている。その炎が照らすのは、肌を晒す美麗な貌の男であった。
辺りに広がる闇より深く暗い黒髪に、鉄を打つ炎の如き、“赫眼”の男。
枝垂れた髪が、左目を覆い隠す。
四方を囲う石造りの“間”。
そこから伸びている鎖に、男の四肢は繋がれていた。
「クソッたれめ……何度味わおうがなれるもんじゃねぇな。こりゃ」
男は、一人ごちる。
両脇で鞭を振るうのは異形の鬼であった。
浅黒い肌に、骨が浮かび上がる程の痩躯。頭蓋は馬のように長い。唇は剥げて、歯茎から黄ばんだ牙が生えている。漏れる息は、腐敗しきって、悪臭をまき散らしていた。
瞼のない緑色の瞳が、じくと男を見つめている。
ひゅん、と鋭い鞭の音。男の体躯を“抉る”かのような痛みが奔って、熱を帯びる。
皮膚は破れ、少し焦げた臭いがしている。
けれど、その傷はすぐに癒えてなくなった。
『当然ですぜ。零様。痛くなけりゃ、意味がねぇです。地獄の亡者達は、この痛みを何千、何万、繰り返すのですから。あなた様の方がまだましだ』
「っせーよ。おら、さっさと済ませろ。あと何度だ」
『あと壱千弐百五拾八(せんにひゃくごじゅうはち)回ですだ。このあと、釜に丸一日浸かって、その後には快楽拷問で性を絞り切って、“八熱”“八寒”を順に廻ってもらいます』
零と呼ばれた男は、眉を顰めてため息を漏らした。
「――なげぇ」
男の背後に聳える門の方から声が響いた。
『零様!! ただ今伝令が! 闘神阿修羅“羅毘”様が!』
「弩阿呆が! 今俺はそれどころじゃねぇよ! あの糞ガキがなんだ! 心して言えよ? くだらねぇ要件なら、そくテメェを俺と同じ目に合わせる」
『そ、それが――あの』
声が震えていた。
「さっさとしろ」
『はっ。先刻、羅毘様が“椿の鬼姫”を地獄へ連れ戻したとのことです』
――あの糞ガキがぁぁぁぁ!――
零の怒号が闇に響き渡る。責苦を与えていた獄卒は黒い炎に焼かれ、灰燼と化していた。
叫び終えると、零は荒く息を吐いて、呼吸を整える。
「――おい」
『はっ』
「獄卒が燃えちまった……すぐ代わりをよこせ」
『――ですが』
「でもも、糞もねぇ……俺はどうあってもここから出れないんだよ。阿呆が。あの忌々しいガキめ! それ見越して連れ戻しやがったな。あのガキ戻ったら、殺す殺す殺す! ぶっ殺す!」
その声には、呪詛にも劣らぬ“怨み”が籠っている。扉の向こうで傅く兵は、股の間から小便を垂れ流していた。
「俺が戻る間、審判は予定通り“夜壬(やみ)”に任せる。乱痴気女はテメェら全員で何とかしろ! 獄卒も守備隊も使える奴はすべて使え。“十王”の爺どもは黙らせる」
『御意!』
それから、声と気配が消えた。
零は胸の内で燻る憤怒の炎を持て余していた。
「――ああ、煙管が吸いてぇな……」
三.
“ぴしゃり”と音がする。武骨な棘の先から、赤い雫が滴り落ちている。
雫が、女の白い頬を叩く。
冷たい岩盤の上に横たわる女は、ひどく美しい。形の良い眉が動いて、眉間に皺が刻まれた。薄い瞼が、ゆっくりと開いてゆく。視界に豁然(かつぜん)と広がるのは岩肌の棘。女は、微睡む意識のそのままに、細いく嫋やかな身体を起こした。
「――此処は……っ」
頭に、鋭い痛みが奔った。
辺りは深い闇に包まれている。それを茫(ぼう)っとした光が照らしていた。眼が慣れてくると、その惨憺たる風景に女が、ふっと紅い唇に笑みを点した。
漂う腐臭は、この世ならざる地獄の薫り。糞尿と躯の山。耳を塞ぎたくなる嘆き、叫び。それら全てが綯い混ざって、女に圧し掛かった。
――けれど。
――けれど。
――赤き美しい鬼は嗤っていた。
「――なるほど。“戻って”来たのね」
『にぃ』
小さき銀色の猫が鳴いて、女の手を舐める。
「――雪那」
猫又の愛らしい眼がじくと女を見つめている。
「大丈夫。怒ってなんか居ないわ。記憶も蘇った」
雪那が、眼を瞠って、魅琉鬼の肩に飛び乗る。
「さぁ、行きましょう“羅毘”様がお待ちかねよ」
――女がいるぞ。
――ほんとうだ、女がいるぞ。
――大そう美味そうだ。
――ほんとうだ、美味そうだ。
――啖うてしまおう。
――そうだ、そうだ。啖うてしまおう。
――いや、待て。
――いや、いや待て待て。
――なんだ。なんだ。
――あの女、識っているぞ。
――そうだ、識っているぞ。
――“椿の鬼姫”だ!――
――鬼さん、此方、手の鳴る方へ――
闇に美しい声が溶ける。
――それから。
――それから。
――醜悪な鬼の咆哮が、地を揺らした。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
視界で影を捉える。
そのどれもこれもが。
――人間以下。
――いいや。
――いいや。
――畜生にも劣る。
一閃が闇に奔った。
鬼の頭蓋が、ごとりごとりと鈍い音を立てて転がる。
その様は、椿の散り際にひどく似ている。
魅琉鬼は、赤い血が滴る刀の刃に舌を這わせた。
「相も変わらず、酷い味ね。舌が腐ってしまいそう」
鬼たちの黄金色の双眸が、赤色を纏う女を睨む。
襤褸と変わらぬ刀を構えていた。
『啖われる前に、啖ってやる! その猫も一緒になぁ』
それから、息を合わせて一斉に鬼が飛翔した。
鋭い爪と、牙が迫っている。
――魅琉鬼は紅い唇に、笑みを点す。
――いただきます――
“夜壬(やみ)”とは、インド神話の“ヤミー”が元ネタ。
閻魔様の双子の妹。たぶん本編では出てこないモブ。
閻魔様は年に一度釜茹でされないといけない日があったはず……。
活動報告にも書きましたが、何とかゲームデータを復旧させることが出来ました。
恐らく今年最後の投稿になりそうですが、これからもよろし鵜お願いします