早朝。空には美しい朝焼けが広がっていた。
小鳥達が囀り始めるその頃、奴良屋敷の台所から俎板を叩く耳心地良い音が聞こえて来た。土鍋からは湯気が立ち込み、味噌の香りが食欲をそそる。
鼻歌交じりに葱を刻みしらすの盛られた小皿に振りかけ味噌汁のを確かめると向日葵の様な笑顔を浮かべ手際よく朝食を作る女性。リクオの母である奴良若菜であった。
彼女の作る食事は屋敷のぬらりひょんやリクオは勿論、妖怪達にもすこぶる評判だ。
「おはようございます若菜様」
凛とした声。若菜が振り返ると、会釈をして微笑む。
ただこれだけの動作が雅であった。
背格好こそ童であるが、少女と形容するのが躊躇われるほどの艶めかしさを漂わせている。
「おはよう。魅琉鬼ちゃん」
若菜の笑顔がより一層明るい物になった。
魅琉鬼がこの屋敷に来て数日、彼女が食事の手伝いをするのは日常となりつつあった。
袖を赤い襷で捲くり上げ、白くしなやかな腕を覗かせて、腰まで伸びた紅い髪は頭の後ろで三つ編み団子状に結われ、リクオが贈った簪が挿されている。
「若菜様、何かお手伝いできる事はありますか」
「んー、じゃ、切り身の鮭焼いてくれる?」
人差し指を下唇に押し当て悩んだ後、そう言った。
「はい」
滞りなく朝餉の支度は終わり、暫くすると毛倡妓や氷麗たちが台所へ顔を出し配膳を済ませると、若菜が魅琉鬼に声を掛ける。
「魅琉鬼ちゃん、リクオ起こして来てくれるかしら」
無意識なのだろうが、傍から見ても頬が綻ぶのが分かった。氷麗の眼光が鋭いモノへと変わる。今までリクオを起こすのは側近である彼女の役目であった。
其処へ突然現れたよそ者に其れを奪われれば、面白くないと思うのは至極当然だ。魅琉鬼は頬笑みを浮かべたまま動じない。両者の間で静かに火花が散る。
◆◆◆
障子から陽の光が差し込み、この部屋の主、リクオの頬を照らす。
布団は見事に捲れ上がり白い長襦袢は肌蹴て臍が見えている。
あどけない顔で眠る彼の横で魅琉鬼が正座しながら愛おしげな眼差しでリクオを見つめていた。
「可愛い……」
口元に手を添えて上品に微笑む。リクオの寝顔が彼女の悪戯心を刺激したのか彼の頬を人差し指で小突く。
「うー……」
小さく唸るリクオの姿に微笑ましく思いながら彼の方を優しく揺らす。
「リクオ様、リクオ様。朝でございますよ、 起きて下さいな」
「あと少しー……むにゃ」
なんともお約束な台詞である。込み上げる笑いを噛み殺しながら魅琉鬼が続けた。
「御爺様に朝食のおかずを取られてしまいますよ」
次の瞬間、冷や水を浴びたかの様に飛び起きるリクオ。
「爺ちゃんには渡すもんか」
辺りを警戒し、首を左右に動かす。
「あれ? ご飯は」
「おはようございます。リクオ様」
「み、魅琉鬼ちゃん!?」
驚きを隠せない様子で、声を上げる。肩を露出させた状態で顔を赤らめて口を開け惚けていた。恥ずかしかったのだろうか。
「ふふ、大丈夫ですよ。まだ、御爺様も起きて来られていません。リクオ様のおかずは無事です」
少し、からかう様な瞳をしてリクオに言う。
「ひ、酷いよ。魅琉鬼ちゃん」
「申し訳ありません、けれど、リクオ様が可愛らしくて……つい」
リクオは唇を尖らせて不貞腐れる。無理もない。幼いなりにも男児としての矜持はある。そして、"可愛らしい"と形容されることは屈辱的なのだ。
「僕は、可愛くなんかない」
「……」
魅琉鬼は無言のまま膝の上で拳を握った。
——―可愛い
そうやら彼女には、逆効果だったらしい。
「き、今日も"ソレ"付けてくれてるんだね」
そう言って、照れくさそうに笑みを浮かべて簪を指さす。リクオが初めて魅琉鬼に贈った品。あの日から片時も離す事なく、大事に扱っている。
「リクオ様が初めて私へ贈ってくださった物ですもの。宝物ですわ」
「そ、そっか……嬉しいよ」
頬を染めて照れくさそうに頬を掻く。
彼女の言動に一喜一憂するリクオの姿は屋敷にいる妖達全員の知るところとなった。
最も両手を挙げて歓迎、とはいかないのが現状である。"椿の鬼姫"とその名を聞けば、震え上がり恐れる妖怪が殆どだ。
「なぁにを朝っぱらからイチャついとるんじゃ、お前さんらは」
桃色の空気を払拭するかのように二人の間にずいっと顔を出すぬらりひょん。案の定、驚きの声を上げて魅琉鬼がリクオに覆いかぶさる様にしがみ付いた。
「きゃっ」
「うわっ」
リクオは顔からやかんが沸騰したかのような甲高い音を立て赤面する。悪戯が成功して満足したのか、顎を撫でてほくそ笑むぬらりひょん。
「どっから出て来たのさ! 爺ちゃん」
「やかましいのう。儂はさっきからずっと見とったわ。朝っぱらから乳繰り合いしおってからに」
乳繰り合うの意味は分からずとも、その言葉から何となく想像は付く。 リクオは紅い顔を更に真っ赤にして怒鳴り散らした。
ぬらりひょんは素知らぬ顔で部屋を出ていき、沈黙が訪れる。先に口を開いたのは魅琉鬼だった。
「御召し物は、其処に用意させて頂きましたから早く来て下さいね」
気のせいか、彼女の頬も桃色に染まっているように見える。リクオは取り繕う様にして返事をし、障子の戸が閉まる音が聞こえると、深い溜息を漏らした。
リクオが広間の戸を開くと、そこでは何時もの様に小妖怪達がおかずの争奪戦を繰り広げている。上座に腰かけるぬらりひょんがリクオを手招きする。
木製の長い食卓を大勢で囲み和気藹藹と朝食に舌鼓を打つ。リクオの隣で正座をし、茶碗にご飯を盛って頬笑みを浮かべながら手渡した。
頬を染め見とれる彼に斜め向かいに座っている氷麗が悔しそうに布を噛んで居た。
「(ポッとでの女のくせに〜! この前まで私の定位置だったのに! 若も若でデレデレしちゃって! 何よ! もう)」
大きな瞳の端に涙を浮かべながら行きどころの無い感情が冷気となって彼女に纏わり付く。近くに居た妖怪達はその冷気とは別の恐怖で身体を震わせていた。
ふと、魅琉鬼と氷麗の視線が合わさる。口元に手を添えて瞳を細めくすりと笑う。其れは勝ち誇った様なそんな貌(かお)だった。氷麗は甲高い声を上げて憤る。
そんな女の闘いが繰り広げられているとは知る由もないリクオは、無邪気な笑顔を浮かべ平らげて空になった茶碗を魅琉鬼に手渡す。
「おかわり!」
「ふふ、リクオ様、口の端に"お弁当"がついておりますよ」
人差し指で米粒を取り自らの口で咥えた。リクオは羞恥心で一杯になり下を向いてしまう。その光景を見ていた若菜が嬉しそうに口を開く。
「実はね、今日のリクオのおかずは魅琉鬼ちゃんが作ったのよ。早くリクオの味の好みが知りたいって。御台所のモノの置き場所もあっという間に覚えちゃって驚いちゃったわ」
魅琉鬼は恥ずかしそうに視線を逸らしながら……。
「……その、夫婦になるのですし、リクオ様の味の好みが知りたくて……お口に合いますか」
「う、うん。とっても美味しいよ」
二人してぎこちなく顔を逸らす。何とも初々しい雰囲気である。顔を綻ばせる者が多い中、味噌汁を啜りながら鋭い眼差しで魅琉鬼を見つめる者が居た。
「(拙僧の記憶違いでなければ、あの女……)」
奴良組特攻隊長を務める黒田坊だった。
笠帽子に黒い長髪が特徴の伊達男である。
彼の表情に只ならぬものを感じ取ったのは、黒田坊と同じもう一人の特攻隊長、破壊僧青田坊だった。
「黒、どうかしたか」
「いや、何でもない。拙僧のはやとちりだ」
「……はんっ! そうかよ。ま、安心しろ黒。万が一若に害をなす様な事があれば椿の鬼姫だろうと俺が叩き潰す」
握った拳が軋む音を立てる。その眼光は飢えた獣の様に爛々としていた。
◆◆◆
「ただいまー」
玄関からリクオの声が聞こえ、台所で夕飯の仕込をしていた魅琉鬼の耳がぴくりと動く。はやる気持ちを抑えながら暖簾(のれん)を潜り早歩きで出迎えに向かう。
「ただいま。魅琉鬼ちゃん」
待ちわびた人の笑顔。魅琉鬼の顔が自然と綻ぶ。
「お帰りなさいませ。リクオ様、お待ちしておりました」
「うん! あー、お腹減った! 魅琉鬼ちゃん、今日の晩御飯なに?」
期待に満ちた表情で魅琉鬼を見つめる。
「今日は豚の冷やしゃぶですよ」
晩御飯の献立を聞いてリクオは飛び跳ねる。そのまま部屋へ向かうリクオの手首を魅琉鬼ががっちりと握る。
「お待ちください。先にお風呂へ入って下さいな」
「えー! 後で良いよ! それより見たいアニメが……」
魅琉鬼は満面の笑みを浮かべると……。
「駄目です」
その笑顔に一瞬ひやりとした。リクオは力なく返事をするしかなかった。
◆◆◆
檜の香りが心を落ち着かせる。浴槽に溜まった湯船からは白い湯煙が立ち込めて視界を覆う。
リクオは木製の腰掛けに座り、魅琉鬼に背中を現れていた。白い長襦袢姿に紅い襷で袖を捲りあげてしっかりと泡立てた垢擦りを優しく彼の背中に滑らせる。
鼻歌を奏でながらリクオに奉仕するその表情は幸せに満ち溢れている。
「かゆい所はございませんか」
「う、うん!」
緊張で上ずった声が良く響く。頬が紅いのは熱気だけのせいではないだろう。
「泡をお流し致しますね」
そう言って桶に湯を汲んで肩からそっと流す。
「はい、終わりました。次は髪ですね」
「い、いいよ! 僕自分で出来るもん」
背中越しに悲壮感が伝わって来る。魅琉鬼があからさまに肩を落として居るのは、姿を見ずとも察する事が出来た。
「……わかったよ、魅琉鬼ちゃん。お願い」
「はい」
彼女の弾んだ声を聞くと心の中で苦笑しするリクオであった。