夏のカラっとした日差しが容赦なく照りつける。蝉の合唱が耳に届く。物干し竿に白い布団を干して両端を摘みパンパンと伸ばす。
満足げに微笑み、額に伝わる汗を拭う着物姿の少女。魅琉鬼である。
家事に勤しむその姿はしっかりと板に付き初めは怯えるばかりであった妖怪達からも良妻賢母と称されるようになった。
「魅琉鬼ちゃーん」
遠くの方から彼女を呼ぶ声が聞こえて来る。長い耳がぴくりと小さく上下した。
其方へ視線を動かすと、屈託のない笑顔を向け紺の羽織を肩で揺らしながらリクオが一直線に走って来る。
魅琉鬼は思わず袖で口元を隠しくすりと微笑んだ。
「そんなに走っては転んでしまいますよー」
言うや否や、リクオはプロ野球選手も裸足で逃げ出す様な見事なヘッドスライディングを決めてしまった。
魅琉鬼は瞳を丸くして、リクオの元へと駆け寄った。
「リクオ様!」
「〜っ! ……いたた」
リクオは両端に涙を浮かべながら身体を起こす。顔面を強打し、砂利道であったがために鼻から一筋の血が伝う。
魅琉鬼は慌てて腰を屈め袖に仕舞っ純白の布で鼻血を拭う。
「もう、だから言いましたのに……」
「えへへ、ごめん……」
リクオは頭の後ろを掻きながら笑って謝る。魅琉鬼も『仕方がない』という苦笑を浮かべて微笑んだ。
「わぁ! せっかくいっぱい取ったのに」
和やかな雰囲気を払拭する驚きの声に魅琉鬼は一瞬肩を震わせた。何事かと思えばリクオの周囲に大量の蝉の抜け殻が転がっているではないか。
苦手な者が見れば、悲鳴を上げてしまう様な光景が広がる。
「まぁ、こんなに沢山……」
感嘆の呟き。リクオは胡坐をかいてつまらなそうに唇を尖らせる。
「ちぇ……これで魅琉鬼ちゃんを驚かせようと思ったのに」
リクオが漏らした一言にくすりと一笑してしまう。相変わらず悪戯好きなのは少々困ってしまうが、魅琉鬼は咎めようとはしなかった。
目の前で拗ねるリクオの顔をみて、彼女の中で愛おしさが膨らんでゆく。
「何やってんだリクオ」
背後から呆れた様子の少年が溜息を漏らす。短い鶯色(うぐいすいろ)の髪に空色の着流しを着崩した目つきの悪い男童であった。
「あ、鴆(ぜん)君」
リクオが振り返り声を上げる。薬師寺一派の跡取り息子である彼は、リクオと歳が近しい事もあり、よく山でかっけこや缶蹴りをして遊ぶ仲である。
しかし、その身に猛毒の羽を宿している為、身体は弱く短命であるとされている。
「あら、お出ででいらしたのですね。余りに生気を感じないので気づきませんでした」
「居るわ! というか、少し前に挨拶しただろうが!」
魅琉鬼は笑顔を崩さぬまま瞳を細めて言った。
「まぁ、それは申し訳ございませんでした。私(わたくし)リクオ様以外の殿方は全て風景と化してしまいますの。矮小で愚鈍な畜生風情がリクオ様にそんな舐めた口を叩いて一体どういう御つもりですか?」
その舐め腐った態度に鴆は青筋を立てる。
「んだとぉ。上等だてめぇ! おもてに……——ごふっ」
啖呵の途中で盛大に吐血し、片膝を付く。魅琉鬼はその事態を無視し、リクオに笑顔を向け手を差し伸べた。
「さ、リクオ様。今日のお昼は素麺ですよ? 沢山作りましたから一緒に食べましょう」
「う、うん。それはいいんだけど、鴆君は……?」
「烏天狗様が回収なされますわ」
リクオの手を引きながら屋敷へと戻って行った。
「ま、待ちやがれ」
◆◆◆
風鈴の音が涼しげに鳴り響く。リクオと鴆は素麺を勢いよく啜りがっついていた。何処か張り合っている様にも見てとれた。
「ごちそうさま!」
二人同時にガラスの小皿を置く。卓の中心に置かれていた山盛の素麺は見事に無くなってしまった。
流石、成長期といったところか。
「ふう、お腹いっぱいだー。もう動けない」
「あー……オレも食いすぎた」
二人とも大の字になって転がる。その様子を見て若菜が驚いた様子で笑みを浮かべる。
「あんなにあったのに、もう全部食べちゃったのね」
嬉しそうに言いながら空いた皿を台所へと運んでゆく。
「リクオ、オレちょっと寝て来るわ……また後で遊ぼうぜ」
「うん、そうだね……ボクも休憩するよ」
そういって鴆は重い足取りで居間を後にした。
「大丈夫ですか? リクオ様」
苦しそうに唸り声を上げる彼が心配になったのか魅琉鬼が正座をしてリクオの顔を覗きこむ。眼前に迫った美しい少女の貌(かお)。甘い香りが鼻を掠める。少し視線を下へ向けると薄桃色の艶やかな唇が目に映る。リクオの顔は瞬く間に紅く染まり慌てて起き上がると、お互いに凸をぶつけてしまう。
「ご、ごめん」
「いえ、お気になさらず……リクオ様? もし宜しければ縁側でお休みになりますか」
「うん。そうしようかな」
「はい……」
魅琉鬼は嬉しそうに柔らかく微笑んだ。
「頭の位置は高くはありませんか?」
「平気だよ」
のどかな風が吹き風鈴を揺らす。
魅琉鬼は正座をして、リクオの頭を膝に乗せて団扇をゆっくりと仰ぐ。彼女は愛おしそうに彼を見つめると瞼を 閉じて子守唄を歌い始める。二人の間には、優しい空気が漂う。リクオの意識がまどろみに溶けるのに、そう時間は掛らなかった。
魅琉鬼は、リクオのあどけない寝顔を見つめながら前髪を撫でる。
擽ったそうに小さな声を漏らすリクオ。彼女の胸の内に陽だまりの様な暖かな感情がこみあげてくる。
「かわいい……」
それから、数時間してリクオの瞼がゆっくりと開く、其処にあったのはリクオの頭を膝に乗せながら幸せそうな表情を浮かべ眠る魅琉鬼の寝顔であった。
普段の大人びた表情とはまるで違う。無防備な寝顔。リクオは、無意識の内に彼女の頬に手を伸した。
「ねてる……」
人形の様に整った貌に息を飲む。
「……んっ……リクオ様……」
呟きが漏れる。リクオの思考は瞬時に沸騰して顔は紅くなり、心臓が飛び跳ねた。
「……ッ」
自分の名を呟いた魅琉鬼の表情はとても優しく、幸せに満ち足りた表情であった。
長いまつ毛が微かに動く。どうやら目を覚ました様だ。金色の美しい瞳にリクオの顔が写り込んでいる。
「リクオ……さま?」
魅琉鬼のまどろむ意識は一瞬で覚醒し、瞬く間に紅くなる。
言葉を紡ごうにも声が出ない。鯉の様に口をぱく付かせ、急激に押し寄せて来る。
「やっ……私ったらいつの間に」
「おはよう。魅琉鬼ちゃん」
リクオは彼女にその日一番の笑顔を贈った。
「お、はよう……ございます……リクオ様」
◆◆◆
「は、入りずれぇ……」
襖の向こう鴆が気まずそうに溜息を漏らしていた。
◆◆◆
陽も沈み、空には星空に広がり蛍の淡い求愛の光が庭園を彩る。大広間で妖怪達が何時もの様に騒がしく夕食のおかずを取り合っていた。
「はい、どうぞ。リクオ様」
釜から温かいご飯をよそいながら花の咲いた様な笑顔を向けリクオに手渡す。何時もと変わらぬ光景だが、少し違うのは、リクオは何やら魅琉鬼の横顔を何度も盗み見ては恥ずかしそうに視線を逸らして居る事だろうか。
「? どうかなさいましたか? リクオ様」
彼女の問いかけにしどろもどろしながら、蚊の鳴くような声で『何でもない』と答えたがどうみても『何も』ではない。
氷麗の隣でご飯を掻き込んで居る鴆が声を顰めて聞く。
「おい、雪女。リクオは鬼姫に対していつも"ああ"なのか」
「え? まあ、大体はそうでございますね。全くもって腹立たしい……」
氷麗の身体の周りに黒い“オーラ”がまとわりつく。
「あ、けど今日の若はちょっと変ですね。いつもならもっと元気な筈なのに、今日に限っては妙に静かというか」
鴆はもう一度リクオ達の方へ視線を向けて、じっと見つめていた。
◆◆◆
「リクオ、義兄弟として言わせて貰う! お前は椿の鬼姫に対して甘い!」
リクオの自室で神妙な顔つきをして彼に言葉をぶつける。
言われた当人は何とも素っ頓狂な顔をして正座している。
静まり返る室内。鴆は乱雑に腰をおろし腕を組んで語り始めた。
「お前はあの鬼姫の伴侶になるんだろう? なのに、なんだぁ? あの軟弱とした態度は!? 男ならもっとどしっと構えろ 」
「え?」
何を言われて居るか、理解出来ないという顔でリクオは見つめていた。鴆は再度溜息を漏らす。
「いいか? リクオ。男ってのはな? 女に舐められちゃいけねえんだ。なのにお前はあの鬼姫にいっつも下手じゃねえか!」
「そ、そんな事ないよ……」
思わず言葉尻が弱くなってしまう。鴆は苛立った様子でリクオを叱咤する。
「いいか!? 男が女房に掛ける言葉なんて"飯"、"風呂"、"寝る"の三言で充分だ! 飯をよそわれれて礼を言う必要もなければ、後片付けを一緒にする必要もない! 家の仕事は女房が! 外でのシノギは男が! 之が基本だ」
あまりの覇気にたじろぐリクオ。
「でも……」
「でももへったくれもねえ! いいか! リクオ!今日から魅琉鬼“ちゃん”なんて呼ぶなよ!? 呼び捨てでイケ! そして“飯”“風呂”“寝る”だ! さんはい!」
ぱんっと両手を叩き。
「“飯”“風呂”“寝る”!」
「もうイッチョ」
「“飯”“風呂”“寝る”」
「腹から声出せー」
「“飯”“風呂”“寝る”!」
こうして、二人の亭主関白特訓は続いた。
◆◆◆
朝、大広間では妙な空気が流れていた。騒がしい朝食が一転、妖怪達が固唾を呑んで見守っていた。
「はい」
魅琉鬼がそっと茶碗を手渡す。いつもならここでお礼を言うリクオであるが今日は険しい顔つきのまま黙って受け取っていた。
美味しいの一言もなしに食事は淡々と進んでゆく。
「ん」
そういって茶碗を突き出す。意図を汲み取った魅琉鬼は黙ってご飯をよそい手渡した。曽野表情はどこか笑いを堪えているように見えた。
食事を終え、学校へ行く準備が整ったリクオは玄関先で靴を履き、手渡されたランドセルを背負って一言。
「行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ。リクオ様」
リクオは魅琉鬼の方へ振り返ることなく、学校へと向かっていった。
「ふふ、可愛い人……」
彼女は誰にも気づかれぬようにくすりと笑った。
◆◆◆
「ただいまー……」
陽が傾き、烏が鳴き始めた頃、しょぼくれた様子のリクオが帰ってきた。
「おかえりなさいませ、リクオ様」
「うん、ただいま」
どこか気まずそうに視線を落として言う。
さすがに様子が可笑しいと魅琉鬼が尋ねた。
「どうなされたのですか? リクオ様」
すると、大きな瞳に涙が溢れているではないか。
「……――ないで」
「え?」
よく聞き取れずもう一度、耳を傾けた。
「嫌いにならないで!」
リクオが魅琉鬼の背中に手を回して抱き寄せたではないか、混乱し、目を白黒させる魅琉鬼にリクオは言った。
「学校で、今日の話をしたらカナちゃんにしかられたんだ……女の子に冷たい男の子は最低だって、わたしだったら嫌いになるって」
リクオは、濡れた瞳で魅琉鬼を見つめる。彼女は優しく微笑んで……
「私が貴方様を嫌うはずなどございませんわ……今朝の事だって、気にしてなどおりません。それに、名前を呼び捨てて下さったときは堪らなく嬉しゅうございました」
「ほんと?」
「はい……」
「じゃ……ただいま、魅琉鬼」
彼女はにっこりと微笑んで……
「お帰りなさいませ、リクオ様」