影浦雅人は廊下を歩いていた。モニター越しで見ていても分かった。あのバカ、菊地原の存在を忘れてたな、と。瓦礫を落としただけでトリオン体を倒せるわけがないのに。
こんなアホな負け方したライバル、煽らずして何をすれば良いのか。といった具合である。目の前で笑い転げてやる、とほくそ笑みながら移動していた。
風間蒼也と三上歌歩も、同様に廊下を歩いていた。メダルゲームとスーツに加え、そもそも歌川を落とした後、すぐに追撃して来ていれば戦闘の結果はどうなっていたか分からない。
要するに、舐められていたのだ。勿論、殴り合いにおいては真剣だったが、戦闘は直接の斬り合いだけではない。今日はこってり絞ってやるつもりだ。
黒江双葉は、廊下を走っていた。バカ師匠が負けた。というのは割と負けることも多いので置いておいて、あの負け方は弟子として情けない、というのでも無く、試合中に試着していたスーツ姿がカッコ良かっただけである。双葉的には。
だから、とにかくそれに関して何か言おうと思っての行動だった。
で、風刃組のブースで四名は鉢合わせしたわけで。影浦、風間と三上、双葉の三組は三者三様の感情を海斗に向けて集っていた。
「あ?」
「む?」
「ん?」
声を漏らすなり、風間と影浦は海斗のサイドエフェクトで言う、赤色のオーラを出した。要するに「俺の要件が先だ、お前らは引っ込め」という事だろう。
唯一の女の子であり中学生の双葉が黙り込むしかない程度には空気が悪かった。
「三上」
「了解です」
名前を呼ばれただけで指示を理解した三上は双葉の方に歩み寄り、頭を撫でてあげた。
「お疲れ様、双葉ちゃん」
「み、三上先輩、お疲れ様です」
「ごめんね、風間さん。陰山くんに用事があるみたいだから。後でも良いかな? 飲み物奢るから」
と、上手い具合に懐柔する三上を他所に、風間は影浦を睨む。
「そういうわけだ。お前も下がれ」
「あ? そりゃ意味が分からねえな。俺の方が早かっただろ」
「いや同時だ。そもそもお前は明日、試合だろう。今のうちに作戦室に戻りログでも見直しておいた方が良いんじゃないか?」
「そりゃこっちのセリフだ。入隊して一年経たないバカ相手に随分手こずってたじゃねぇか。連携の見直しでもして来たらどうだ?」
「戦闘直後にやった所で疲れで頭に入らない。歌川と菊地原には休ませてある。むしろ、休んでいる間でなければ、バカに割く時間はない。譲れ」
「なら、お前も一緒に休めば良いじゃねえか。20超えたオッさんにはかなり疲れが響いて来てんじゃねえのか?」
お互いに譲らない。なら、話は簡単だ。二人はお互いに拳を引き、眉間にしわを寄せた。
「「最初はグー!」」
そう、ジャンケンである。
「「ジャン、ケンッ、ポ」」
「うるせえええええ‼︎ 人が恥ずかしさに悶えてんのが分かんねえのかあああああああああ‼︎」
生身の海斗のドロップキックが二人の顔面に炸裂した。トリオン体でなければ即死だった。
壁に叩きつけられる二人だが、トリオン体なのでダメージはない。しかし、顔面を蹴られれば腹立つことに変わりはない。
「何しやがんだクソがコラァッ‼︎」
「先輩に向かってその態度か。覚悟出来てるんだろうな、陰山?」
「うるせーよ! 人が余裕かまして負けた試合の後にわざわざご挨拶に来る腐れ外道どもが態度だなんだと説教すんじゃねえよ!」
「俺は説教じゃねえよ! 煽りに来てやっただけだボケ‼︎」
「尚更悪ぃんだよクソチリチリ頭が‼︎」
と、一気に三つ巴になる三人。その様子をぼんやりと眺めるのは、ブースの中でぼんち揚を呑気にボリボリと齧る迅悠一だ。こうなる未来は見えていたが、海斗を止める手立てが一切、無かったため、逆に落ち着いていられた。
海斗と影浦はともかく、風間が言い争いをするのは珍しいので、もうしばらく見学していることにした。
「大体、お前が悪いだろう。戦闘さえ真面目にやれば良いというわけではない。模擬戦は動きの一つ一つ全てが重要になる。メダルゲームやらスーツの合わせやらやってる場合ではない」
「うるせえよ! んな事ァ、俺が一番わかってんだよチビ!」
「……また教育が必要か? 先輩に向かってその口の利き方を何度、矯正されれば気が済む?」
「アア⁉︎ いつまでもテメェが上だと思ってんじゃねーぞコラ。目線はいつまで経っても下の癖によ!」
「……良い度胸だ。ブースに戻れ」
「待てコラ! 海斗と先にやんのは俺だ!」
「いや、お前との戦闘は禁止されてんだろ」
と、肉体言語に移りそうになったので、流石に口を挟むことにした。戦うのは勝手だが、唯一、戦闘にならない用事の子がいたので、そっちに回してあげることにした。
「あれ? 黒江ちゃんも海斗に用事?」
「! は、はい!」
それにより、海斗の意識はスパルタチビでもチリチリライバルでもなく可愛い弟子に移った。
「おう。どうした双葉! お師匠さんに何か用かい⁉︎」
さっきまでの喧嘩相手を、突然のガンスルーによって挑発しようと、口調を変えて双葉に接した。風間と影浦の額に青筋が立つが、そんなのどこ吹く風。完無視を決め込んで双葉に接した。
すると、双葉は頬を赤らめながらポツリと呟くように言った。
「その……界王様のスーツ姿、とてもカッコ良かったのでまた見せて欲しいです!」
「はぁ? ……あ」
スーツ、から連想されたのは、余裕をぶっこいて負けたという事実だ。しかもそれを無邪気な弟子に言われてしまった。
他意がないのは分かっているが、恥ずかしい事には変わりがない。元々、ドロップキックをバカ二人にかましたのはあまりの恥ずかしさに悶えている時にピーコラピーコラ喧しくされたからだ。
気が付けば、風間も影浦も笑いを堪えている。
「界王様?」
「……」
不安げな表情で海斗を見上げる双葉。それがまた辛かった。もうこうなったら、一刻も早く今日の記憶を消すしかない。
そのための最終手段に出た。双葉の両肩にガッと手を置いた。
かつてない力強さに肩を震わせた双葉は、少しドキッと心臓の音を鳴らしながらも、恐る恐る目の前のバカな師匠に聞いてみた。
「あ、あの……界王様? 何か……」
「…………れ」
「へ?」
「……加古さんの炒飯、食わせてくれ……‼︎」
「⁉︎」
唐突にありえない頼みがきて、今度はあからさまに狼狽えてしまった。頭がどうかしてしまったのだろうか? と不安になる程度には狼狽えるしかない。
「か、海斗先輩⁉︎ どうかしたんですか⁉︎」
「界王様だ!」
「か、界王様……あの、どうかなさったのですか?」
「いいから早く! この気持ちが狼狽える前に早くあのキチガイ炒飯モンスターの元へ連れて行け!」
「いくら界王様でも、私の隊長をそう言う呼び方は許しません」
「アッハイ」
なんかイマイチ、冷静なのか冷静じゃないのかわからなかったが、とりあえず了承しておいた。自分の作戦室で、師匠とご飯を食べるというのは悪くないシチュエーションだからだ。
「分かりました。では、行きましょう」
そう言って、二人で移動を始めた。何があったのか分からないが、キチガイ炒飯モンスターとまで揶揄した相手の炒飯を食べるなど正気ではない。今度でいいやと思う事にした。
×××
加古隊作戦室に向かう途中、海斗は異様にウキウキしていた。この恥ずかしい記憶を削除出来ると思えば、加古の炒飯だって食戟のソーマである。
そのためにも、加古には激烈クソマズ黒魔術を披露してもらわねばならない。リクエストとか聞いてくれるのだろうか。その辺は双葉に確認したいが、今はまださっきの敗北の恥ずかしさが勝ってしまっていて、下手に口は開けない。何を言ってもさっきの試合の話をされてしまう気がするからだ。
「……」
というか、師匠として情けない姿を見せてしまった。まさか負けるとは思わなんだ。あれだけ優勢に戦っていたのが、コイたお陰であっさりと形成逆転されてしまった。いい加減、調子に乗る癖を治したいものだ。
この癖が弟子に移らないか心配だが、まぁ双葉はコくタイプではないので大丈夫だろう。
とにかく、今は加古の黒魔術炒飯を楽しみに待つしかない。
「……」
一方、双葉は。海斗の隣を歩きながらソワソワしていた。今日の試合の話をしたいが、何故か話しかけづらいオーラが出てしまっている。
しかし、それはご飯中にとっておけば良いだろう。今は、炒飯のことを考えなければならない。別に、胃薬を用意しておくわけではない。眠ってしまった時のための毛布の準備でもない。デリカシー皆無師匠の口から飛び出す暴言を抑える口実づくりでもない。
今回の炒飯は、自分も一緒に作り、海斗を助けると共に、ご褒美にスーツを着てもらうつもりだ。
そのための、炒飯の具を考えておく必要があった。なるべく変なもの、ジャムやらフルーツは入れないようにし、何なら海斗のリクエストも受けるつもりでいないとダメだ。
「……ふふっ♪」
なんだか色々と楽しみになって来て、思わず笑いが漏れてしまった。何がどうして炒飯を食べたいなんて言い出したのかわからないが、せっかくなら美味しいと言ってもらいたいし。
各々が全く通じ合っていない望みをかけながら、作戦室に足を踏み入れた。中に入ると、加古が食材を揃えていた。
「あら、双葉と……陰山くん? どうしたの?」
「加古さんの炒飯が食べたくて」
「あら! 本当に⁉︎」
ただでさえモデルに見える美人な顔が、さらに綺麗に咲き誇った。とても嬉しいことを言われてしまった。堤や太刀川にご馳走することもあるが、自分から食べたいなんて言ってくれた事はなかった。
まさか、こんな所に可愛い後輩がいるとは。影浦のようにファントムババァとまでは言わないまでも、生意気な子だと思っていたが、そんな事はなかった。炒飯好きならみんな友達である。
「嬉しいこと言ってくれるわね! じゃあ、今日も腕をふるっちゃおうかしら♪」
「是非頼む。意識どころか記憶も正気もなにもかも一発でお持ち帰りテイクアウト出来そうなのを」
「それほど美味しいのを作れってことね? 任せなさい」
悲しいほどに噛み合った会話だった。双葉もウンウンと頷いている。自分の隊長と師匠が仲良くしているのを見るのは、やはり嬉しいものだ。
「じゃ、すぐに作っちゃうから。待っててね?」
「あ、加古さん。せっかくなんでリクエストとか良いですか?」
「もちろんよ? あるものならなんでも良いわ」
更に予想外の言葉だったが、考えてみれば当然な選択だ。加古の炒飯の腕前はかなりのものだ。具がアレなだけで。
つまり、海斗は美味いものが食いたいのだ、と双葉は解釈した。それなら、むしろ自分は手を出さない方が良いのかとさえ思った。
そんな双葉の気も知らない海斗は、顎に手を当てて、まず一つ目の食材を声に出した。
「焼きそば」
「……はい?」
食材ですらなかった。まさかのセリフに双葉どころか加古も一瞬、口が止まるが、海斗は続けて言った。
「それから味噌汁」
「汁物?」
どうやって炒めるというのだろう、本気で頭おかしくなったのかな? と双葉が割と本気で心配し始めているにも関わらず、海斗は最後のリクエストを答えた。
「あとはー……あれだ。鯖缶」
「良いわよ! 面白そう! 全部あるから!」
「……」
海斗の凶行の理由は分からない。しかし、これだけは分かる。この人、ヤケになってる。
でも、これだけウキウキしちゃってる隊長に「普通の炒飯にしませんか?」とは言えなかった。
「じゃあ、机のとこで座って待っててね。ちゃちゃっと作って来ちゃうから」
「あーい」
そう言って台所に引っ込む加古の後を、双葉はひょこひょことついて行った。
まるでピ○チュウ版のような双葉に気付いた加古は、同性からでも見惚れてしまうような笑みをこぼした。
「あら、どうしたの? 双葉」
「私もお手伝いします」
「良いわね。頑張って界王様のご飯、作りましょうか」
「はい」
そう言って、二人で料理を始めた。双葉の目論見はもちろん、美味しいとまで言わないまでも、それなりのものを作って海斗に何があったのかを聞き出す事だった。
「……頑張ります……!」
「ふふっ……♪ そうね、頑張りましょうか」
×××
会議室では、忍田が戦闘の記録を見直していた。風間隊vs陰山海斗の戦闘だ。
今回の遠征選抜メンバーの選抜試験は他に狙いがあり、陰山海斗がどれだけ黒トリガーを使いこなせているかを見る為のものだ。
そして、それを見極めるのに、風間にも陰山のテストを見てもらうため、わざわざ選抜試験を作って二人をぶつけたわけだ。ちょうど、二ヶ月ほど前に遠征選抜試験を実施したが、二宮隊の狙撃手が人を撃てなかったため合格を取り消しにし、遠征部隊を選び直しになっていた所だ。
戦闘の様子を眺めていると、ノックの音が室内に響いた。
「風間です」
「ああ、待っていた。入ってくれ」
「失礼します」
今日の報告を待っていた所だ。とりあえず、椅子をすすめて向かい合うように座らせ、まずは労いの言葉をかけた。
「戦闘終了直後だというのに済まないな」
「いえ、問題ありません」
短く端的に答える風間を見て、相変わらずタフな奴だと感心する。目の前の小柄な男が疲弊しているところは、ここ最近見ていない。
しかし、表に出さないだけで疲れてはいると思うので、話は早めに済ますことにした。
「それで、早速だが……どうだった? 陰山の風刃は」
「そうですね……戦闘力そのものは驚異の一言でした。風刃はブレードの性能もかなり高く、それを最大限に活かした上に、遠、中距離にも対応可能になり、サイドエフェクトにより一度遭遇すれば無限に敵を索敵出来るため、抜群の相性と言えるでしょう」
風間にここまで言わせるとは、やはり相当激しい戦闘だったのだろう。実際、風間も最後は落とされ、瓦礫の中でバッグワームを羽織った菊地原がギリギリトドメを刺して勝利した形だ。
しかし、そこから風間は「ですが」と言葉を継いだ。
「圧倒的に頭と精神力が足りません。それ故、退屈になれば遊び始め、敵を思うように蹂躙できれば調子に乗り、結果、逆転負けする。菊地原の存在を忘れていたにしても、忘れるのが早すぎます」
「君も、そう思ったか……」
「はい。ハッキリ言えば、思慮の浅いものに強大な力を与えるのは危険と言わざるを得ません」
厳しい意見だが、全くその通りだ。忍田も同じような事を考えていた。
「……では、結論は出たな。陰山は、風刃候補から外す」
「どの道、迅が手放すような時は来ないでしょう。次期風刃候補に関しては、しばらく保留にしましょう」
「私は、君が候補となっても良いと思っているが?」
「いえ、自分はまだ風間隊を解散するつもりはありません」
はっきりとした拒絶だった。まぁ、忍田としてもそこまで強制するつもりはない。また1から決め直しになるだけだ。風間の言う通り、今すぐ決めなければならない問題でもない。
さて、それと共に問題児の所属先も決まった。圧倒的に頭が足りないのなら、頭を補えば良い。
忍田はスマホを取り出し、海斗のスマホにかけた。
×××
加古隊作戦室では、炒飯が完成していた。用意されているのはどういうわけか海斗の分だけだが、今の海斗にはそんなもの関係ない。この美味そうなのが逆に怖い炒飯を食べ、記憶も何もかもすべてダストシュートに流星のダンクをぶち込めればそれで良い。
「いただきまーす!」
「どうぞ、召し上がれ」
元気良く一口食べると、海斗は目を見開いた。
「……え、美味い?」
ドユコト? と、眉間にシワが寄る。なんで普通に美味いの? みたいな。
「あら、ほんと? 良かったわ」
しかし、元々美味いものを作るつもりだった加古はニコニコ微笑んでいる。とても嬉しい一言だった。
「え……あの、なんで? 味噌汁入れたんだよね? もっとグッチャグチャになるんじゃ……」
「双葉がね? お味噌汁ってお味噌汁の素って意味なんじゃないかって解読してくれたのよ。それなら、ベチャベチャになることもなく、お味噌汁の風味を出せるでしょ?」
「焼きそばは? 炭水化物に炭水化物な上、米と一緒に炒めたりなんてしたら……」
「双葉がね、ご○盛りのカップ塩焼きそばは脂が濃すぎて単体で食べるには異様に喉乾くから、あれを湯ギリしてから一緒にって」
「……鯖缶は? あんなもん炒めたら生臭さで……」
「生姜を加えれば臭みを消せるのよ」
見事に。見事に海斗の選んだ食材のウィークポイントを潰していた。それと共に、海斗は双葉に視線を移す。どういうわけか、ニコニコと嬉しそうに微笑んでいた。
まさか、自分が気絶しようとしているのを止めてくれた、とでもいうのだろうか? 確かに、冷静になってみれば、コいてた自分が悪いってだけで、別にここまで大袈裟に恥ずかしがる事はない。
そもそも、あの風間隊を相手にコいてる状態で半壊させてやったのだ。次はキッチリと作戦を考えれば確実に勝てる。次があるのかは知らんが。
下手をすれば致死性すらある加古の炒飯を食べるとという自殺未遂を止めてくれたのだ。なんて師匠思いな弟子なのだろうか。
感動のあまり、炒飯を勢い良く口の中にかっ込み、空になった皿を机の上に置いた。
「……双葉」
「? なんですか? 界王様」
「お前は最高の弟子だ」
「な、なんですか急に⁉︎」
頬を赤く染める双葉だが、海斗は話を聞くタイプではない。双葉の頭に手を置き、撫でてあげながら力強く宣言した。
「蹴り技を教えてやる」
「本当ですか⁉︎」
「ああ。マジだ。だから……」
何かを言おうとしたところで、不意に海斗の身体はよろめいた。後ろにひっくり返るように倒れ込み、そのまま目を閉ざした。
「界王様⁉︎」
驚きのあまり体を揺するが、微動だにしない。急にどうしたのだろうか? まさか、不味さが後から回る炒飯だった? まさか、誠凛高校バスケ部監督でもあるまいに?
ふと加古の方を見ると、ニコニコ微笑んだまま毛布を運んできた。
「疲れで寝ちゃったのね」
「加古さん……あの、もしかしてリクエストされたもの以外に何か入れました?」
「ええ。面白い食材があったから隠し味に使ってみたの」
そう言って加古が机の上に置いたのは、マーマイトだった。マーマイトはビールの醸造課程で増殖し、最後に沈殿堆積した酵母、つまりビールの酒粕を主原料とした、ビタミンBを多く含む食品である。
本家はイギリス製のものだが、イギリスが本家と言っている時点で味はお察しである。
「……おやすみなさい、界王様」
諦めて、眠った海斗の頭を撫でてあげると、海斗のズボンのポケットからゴトッとスマホが落ちた。ヴーッと震えており、メールを着信しているようだった。画面に表示されている名前は「忍田のおっさん」だった。
「加古さん」
「どうしましょうか?」
「運んであげた方が……」
「うーん……でも、流石に本部長に呼ばれているのに、寝たままっていうのは……」
「そうですよね」
「起こす?」
「いえ、それはやめておきましょう。可哀想なので」
加古の隠し味と言う名の毒を盛られて完食して気絶した上、起こして本部長のお説教(おそらく)を受けるのは可哀想だ。
しかし、上司からの呼び出しを無視するのもマズイ。いや、実際は呼び出しなのか内容を見ないと分からないが、連絡がある事には変わらない。
「仕方ないわね。私から忍田さんに連絡しておきましょう」
「それが良いですね」
そう言うと、加古は忍田にメールを送った。
『お疲れ様です。
陰山海斗は私の横で眠っているので連絡出来ないため、私がメールさせていただきました。
用件があるのなら私が伝えますが、どうしましょう?』
×××
会議室。風間が立ち去り、代わりに沢村が入ってきた部屋の中で、メールを開いた忍田は、思わず半眼になった。
珍しいその表情に沢村は思わず尋ねた。
「どうしました?」
「いや……何か卑猥な事に……隊員達のプライベートを……いやしかし……」
どうしたものか悩んだが、まぁ深くは聞かない事にした。加古望は勝手に人のメールを見るような人ではないし、画面に表示された件名から自分に連絡して来たのだろう、とすぐに推測出来た。
まぁ、起きたら見てくれれば良い内容のため、加古にはお礼のメールを入れておいた。
「ふぅ……これで、一件落着か」
「でも、よろしかったのですか? 何かと揉めそうな気がするのですが……」
「問題ない。彼も引き受けてくれたし、陰山にとっても礼儀や戦術、戦略を学べるだろう」
「いえ、それはそうなのですが……これだと、B級の他の部隊が色々と苦労しそうな気もしますが……」
「それは……そうかもしれないが、それを乗り越えるのもランク戦だ」
そう言いつつも、沢村は不安げに、もうメールを送ってしった忍田のスマホを見た。
『君の所属部隊が決まった。
B級一位 二宮隊
既に隊長には話を通してあるから、近いうちに挨拶に行くように。
それと、明日以降の黒トリガーによる戦闘は迅と天羽のみで行うため、休みで構わない』
簡潔な移動通知と、S級のクビ通知だった。