「沈んだ顔をしているね。」
それは、彼がこの数日間ずっと望んでいた声だった。
弓と矢が奪われた後、虹村形兆は空条承太郎、というよりはスピードワゴン財団の監視下に入ることとなった。
虹村形兆が人を殺したのは事実であるが、いかんせん凶器が件の弓と矢である。唯一の証拠であると言っても、それを警察に提出することも出来ない。
そのために、警察に引き渡すことも出来ず、暫定的な処分として決まったことだった。
結局のところ、形兆をふくめた虹村の一家は杜王町に腰を落ち着けることとなり、仗助たちと同じ学校に通うこととなった。
けれど、今となっては形兆にはすべてがどうだっていいことだった。
彼の今の関心は、唯一の願いの手がかりである少女の事だけだった。
承太郎に聞いても、知らないらしく情報も無い。今すぐにでも探し回りたい気分であったが、監視の目がありそれも難しかった。
そうして、ぶどうヶ丘高等学校に通うようになってから数日が過ぎた。といっても、高校で友達が出来るような玉でもなく、望んでもいないために傍から見れば静かな生活を形兆は営んでいた。
その日も、家に帰るための家路を急いでいた。
形兆自身がスタンド使いにした人物に関してはすでに承太郎に伝えてある。彼らもまた、監視下に入っている。
といっても、形兆自身、顔しか知らないという存在もあり、全てに監視が行っているのかまでは知らないが。
形兆もまた、レッド・ホット・チリ・ペッパーの本体である音石明をおびき寄せるための囮であるのだろう。
といっても、音石も馬鹿ではない。この罠にやすやすとかかる気はないようだった。
苛々としていた。今すぐにでも、なりふり構わずに探し回りたい気分だった。そんな時、唐突にかけられた、聞き覚えのあるそれに形兆は固まった。
何の思考もなく、形兆は振り返る。
そうして、そこにいたのは、目が覚める様な空色のキャスケットを被った少女。
「何か、嫌な事でもあったのかい?」
「てめえ!!」
形兆は、感情のままに己のスタンドを出現させた。そうして、ふーふーと獣の唸り声のような息を吐く。
ぐちゃぐちゃな感情の中で、必死に形兆はそれを抑える。戦うべきではない。目の前の存在がどんなものか分からないなら、今の所は少なくとも友好関係を築いておくべきだろう。
そうなのだろう。
けれど、自分でも処理しきれない感情ががちがちとその理性を壊そうとする。
(・・・忘れるな。俺のスタンドとこいつのスタンドは相性がわりいんだ。)
空色のキャスケットを被った女は、己の前に並んだ小さな軍隊を前にのんびりとしている。そうして、何を思ったのか持っていた茶色の紙袋を差し出した。
「話したいこと、少なくとも君にはあるんでしょう?ちょっと、そこで話さない?君の話もちゃんと聞くからさ。」
にっこりと、そう言って。まるで親しい友人に話しかける様な仕草で言った。
形兆は、自らに差し出された手に、ごくりと喉を鳴らした。
ついて行っていいのか?
目の前の存在は本当に父親を殺す方法を知っているのか?
自分に何を望んでいるのか?
監視がある状態で行っていいのか?
他にも幾つもの、疑念が頭をよぎる。けれど、それよりも、形兆自身の中にやけっぱちと言えるものが芽生えていた。
弓と矢も奪われた。取り返せるかもわからない。
ならば、今、ここで確かに存在する希望にかけてみようと、そう思って。
彼は、ゆっくりとそれに手を伸ばした。
「はい。」
形兆が連れてこられたのは、彼も知らなかった奥まった場所にある小さな公園だった。木が茂っているせいか、やたらと影が差していた。その公園にちょこりと置かれた小さなベンチに二人で隣り合って座る。
公園は、なんでも人払いが施されており、監視もまた気絶させていると言われた。
そうして、何を思ったのか、その紙袋から出てきたのはタイ焼きだった。
形兆は茫然として、思わずそれを受け取る。
そうして、どこから取り出したのかペットボトルの緑茶を二本取り出した。
「はい、これも。」
それもまた、形兆は固まりながら受け取る。己の手の中にある温かいタイ焼きと、緑茶を見て形兆の中には疑問が溢れる。
「いやあ、日本の食べ物って美味しいですよねえ。私は、特にこちらの和菓子が好きで。タイ焼きも、形が愛らしくていいですよね。あ、どうぞ食べてください。」
そう言って、少女、クララと先ほど名乗ったそれは持っていた自分の分を頬ばった。形兆は、ふざけるなという言葉が出る前に、自分の周りで起こるふわふわとした空気に混乱の方が先んじてタイ焼きを頬張った。
タイ焼きは、なるほど、餡子がしっかりと詰まっており確かに美味だ。
何故、自分はこんな所でタイ焼きを片手に謎の人間との交渉をしようとしているのだろうか。
何かしら、相手に言おうと思うのだが、疲れ切った精神と怒涛のようにやって来る意味不明な現状になんだか思考がうまくまとまらない。
「それでね。君の願いの話だけど。」
唐突に始まった話に、形兆はまた固まって勢いよくクララの方を見た。クララは、すでに一つを食べ終え、二個目のタイ焼きを頬張っていた。
「君さ、お父さんを殺すため何でもするの?」
何のためらいも無く、平然と言われたそれに形兆は瞬時に頷いた。
「・・・ああ、何でもだ。」
おそらく、それに対して望まれるのは彼らの目的である矢と弓を取り返すことだろう。音石は、形兆を殺し損ねたために現在逃げ回っている。
もしかすれば、杜王町から逃げ出している可能性もある。
もしも、そうだとするならば、形兆はどんなに確率が低かろうと一生をかけて音石という存在を追い回すのだと決意する。
けれど、クララの口から語られたそれは、ひどくあっさりとしている。
「うん、まあ。条件としては三つあって。クウジョウジョウタロウに繋ぎを取ってほしいことと、私たちの情報を渡さないこと。そうして、もう一つ、半年間ほど待つことだよ。」
「そ、それだけでいいのか?」
掠れた声に、クララは三つ目のタイ焼きに手を伸ばす。口の端についた餡子を拭った。
「まあね。方法があるなら、殺すっていうのはまあ私たちからすれば低コストで行けるしね。まあ、遺体の処理を考えないといけないけど。それに、まあ、君を助けたこと云々に関しては私の我儘も入ってたし。矢と弓は、手に入ればまあいいかぐらいの感覚だから。」
「ふざけるな!」
形兆は苛立ったように、そう吐き捨てた。勢いよく立ち上がった彼は、見下ろす形でクララを睨む。力んだ手によって温かい何かが潰れたような感覚がした。
ぎろりと、不信感に塗れた目をしてクララを睨む。
「俺を助けた上に、俺の願いをかなえるための条件がそんなことで済むと本気で思ってるのか?いいか、どんなものにだって対価が必要になる。俺は、目的のために代価を支払って来たんだ!」
対価を言え。どんなことだって聞き入れてやる。
決意に満ちた、その目にクララは小さくため息を尽き、そうして足を勢いよく振って立ち上がった。
そうして、不躾とも言える仕草で、びしりと形兆を指さした。
「いいですか!」
それに形兆は体を強張らせて、やってくる本当の条件に身構えた。
「私があなたを助けたのは、許可が出たのもありますが。あなたのことを助けたいというエゴイスティック極まりない理由からです!だから、正直に言います!」
私たちの目的に、矢と弓を失ったあなたと交渉する理由は殆どありません。
「・・・・なら、どうして俺にそんな交渉を持ちかけた?」
思わずそう問いかけた形兆に、クララはなんの動揺も無く平然と言った。
「私が、そうして私の御主人が君を助けたいと思ったから。君は、良い人だったから。」
形兆にとって答えになっていない返答に思わず顔を歪めた。形兆は、その助けた理由を欲しがっていたのだ。
「・・・・・ふざけるな。」
口から飛び出た、その声は、次の瞬間、遠吠えに変わった。
「ふざけるな!!」
形兆の周りにバッド・カンパニーが現れる。戦闘態勢に入った彼らを前に、クララは変わることなくじっと形兆の言葉に耳を澄ませた。
「良い人だと?いい、人だと?下らねえこと言ってんじゃねえ!俺はな、ヒトゴロシなんだよ!父親、そいつをたった一人殺すためだけに、何人も殺したんだ!俺はな、地獄に落ちる覚悟をしたんだよ。いつか、どうあったって裁かれる覚悟をしたんだよ!そんな俺が良い人だと!?馬鹿にするのもたいがいにしやがれ!!」
それは、まるで血を吐くような声だった。血を吐くほどに、壮絶で、苦しい声だった。
形兆は、父親のために人を殺すと決めた時、どんなことがあっても成し遂げると誓った。
そうでなければ、成し遂げられなかった。
確かに、虹村形兆は、異常だ。
父親という存在を殺すために、十年もの間、国を渡り歩き、裏の世界に潜った。それもまた、二十にもならない少年がだ。そうして、目的を遂げるために人を殺すと誓える人間を、異常だと言わずに何だというのだろうか。
けれどだ。
形兆のその異常さというのは、彼に元より備わっていたわけではない。人にも相談できない父という怪物、そうして幼い弟と共に生きて行かねばならないという重圧が彼の歪さを作り上げた。
だからこそ、虹村形兆は当たり前のように思っていたのだ。
自分は地獄に落ちるのだと。
それが分かっていてもなお、止まることのできなかったのが彼の歪さだった。
悪であろう。
そうであっても仕方がないことをするのだから。
だからこそ、止まることは赦されない。もしも、目的を果たすことなく放棄してしまえば、虹村形兆の足もとに転がる死体とは、何だったのだろうか。
だから、いつか、自分が裁かれる側であるという自負を持つことが、何もかもを失っても目的を遂げると誓うことが彼にとって唯一の誠実さだった。
だからこそ、目の前の存在の、良い人という言葉が鼻についた。
そんな言葉で語られてたまるものか、自分という存在の何かを、そんな、そんな、あっさりと判断されてたまるものか。
虹村形兆は悪である。弱者を踏みにじる、悪である。
それだけが、彼の語れるものだったから。
けれど、クララはどうしてか苦笑して、形兆の頭をとんと撫でた。予想外のことに形兆がそれを振り払おうとしたが、それよりも先にその手は離れて行ってしまう。
「すいません。そんな途方に暮れた様な顔しないでください。」
向かい合ったその眼は、澄んだ青の目だった。
そうして、困ったように肩を竦めた。
「・・・・・私があなたを助けたいと思ったのは、まあ、あの時も言いましたけど。君がいい人だったからですよ。」
「俺は、良い人じゃねえ。」
ふわりと、香ったタイ焼きの甘い匂いに、なんだか夢から醒めた様な脱力感を感じる。
力のない掠れた声の反論に、クララはまるで聞き分けのない子どもを見るような目をした。
「だからですねえ。良い人とか、悪い人って結局のところ個人の価値観によるんですよ。」
クララはそう言って、くるりと己の指先を回した。
「善と悪って結局のところ価値観なんですよ。だから、個人によって尺度も何もかも変わって来る。犯罪者と悪人って、似ている様で違うんですよねえ。犯罪者はあくまでルール違反。悪人は判断する者にとって間違いを犯した者、だと私は思っています。ええ、もちろん、反対意見はご自由に。先ほども言いましたが、私が思っていることなので。」
クララは、癖なのかくるりとまた指を回した。
「君は確かに犯罪者であり、タブーを犯した。人が社会の中で円滑に生活していくために犯してはならないルールを破った。でもね。私は、正直そこら辺はあまり気にはしてないんだよ。何故か、それは、死んだ人間は私にとってあまりにも遠い部外者だからだよ。人は、己から遠いことを所詮は絵空事のように感じる。私にとって、その死んだ人間は、ただの数としてしか判断できていない部分がある。それよりも、私には優先させるべき価値観がある。」
クララは、じっと形兆をじっと見た。その瞳は、まるで海のように深く、何かを含んでいるように見えた。
その少女は、形兆の目を見て穏やかに微笑む。
「君は、弟を守ったね。君は、父親のことを背負い続けたね。だから、君は、良い人だ。」
それは、まるで空が青いと、カラスは黒いと、そんな当たり前を語るかのように揺るぎない。
「ねえ、形兆君。私はね、何と言うか、そんな大仰に何かを語れるような経験だとか、断固たる哲学じみたものはないけれど。それでもね、思うんだよ。君は、良い人だって。」
クララは申し訳なさそうに苦笑した。
「妹がいるんです。生きてるんですけどね。もう、二度と会えません。それでもいいから、生かしたかったし、どんなことをしてもいいと思った。形兆君。君は、確かに犯罪者だ。でも、それでも、君をいい人だと私は言う。君が、本当の意味で悪党だというならば。君は、どうして、父のことも、弟のことも見捨てなかったんだい?」
それに、形兆は何も言い返さなかった。
それは、確かに存在はしていたが、選択するという思考に至らなかったものだ。
「見捨てられたでしょう?父君の話を調べるほどのお金や能力があるなら、そうですね。海外に高飛びするだとか。いっそのこと、あなたが生きている間だけでも父君を誰にも知られない場所に閉じ込めることだって不可能じゃなかった。それでも、君は背負い続けた。それでも、君は手を握り続けた。家族を、君は助けようとした。見捨てなかった。それだけが、私にとって何よりも善だと肯定できることです。」
虹村形兆君。この世界の誰もが、君を悪だと言おうとも私にとって、君は肯定すべきよきひとだ。
意味が分からなかった。
何を言っているんだと思った。
形兆は、まるで狂人を見るかのような心境でそれを聞いた。
理解するような思考さえ、上手く回ってくれない。
クララはそっと、形兆のほうに手を伸ばした。クララは、形兆が握りつぶしてぐちゃぐちゃになったタイ焼きがある方の手を取った。
あーあ、もったいないなんて言いながらその手を叩いた。そうして、お茶が入っていたらしいビニール袋を取り出した。
「ほら、食べないなら捨てちゃいますから。気持ち悪いでしょう?」
その言葉に、鈍った思考の中で確かに手に広がる気持ちの悪さに固く握ったそれを解いた。クララは、まるで子どもにするようにその手についたタイ焼きを取り、持っていたハンカチで拭う。
まだ少しべたついていたものの、綺麗になった掌をじっと見た。
そうして、自分の手を拭った指先を見た。
それに、形兆は何となしに思った。
この、まるで何も知らない少女のような顔をした落ち着きはらった存在も、ヒトゴロシなのだろうと。
その、一見綺麗な手が、己と同じように汚れきっていることを何となく察した。
何かを言おうと思った。何か、反論を。
けれど、それよりも前に、目の前の存在は堂々と、己がそう思っているだけだと断言してしまっている。
その声は、自分の意思と同じように揺らぐことはない。
放っておけばいい。放っておいて、その条件を飲めばいい。誓ったじゃないか。
何をなしても、願いをかなえるのだと。だというのに、どうして、こんなにもざわざわとするのだろうか。
その言葉を否定しなくてはいけないと思うのだろうか。
「あなたはどうしますか?私たちの提案を受けますか?」
「てめえは、てめえ達は、俺に同情したからこの提案をしたのか?」
「・・・・・それは、ちょっと違いますね。」
その声は丁度、形兆たちが話し込んでいたベンチの向かい。つまりは、向かい合った形兆とクララの真横からした。
二人がその方向に視線を向けると、そこには、一人の女が立っていた。
いや、一瞬だけ男のようにも見えた。
黒いスーツに、黒い髪。肩には黒いコートを羽織り、そうして黒い手袋をしていた
形兆よりも少しだけ背が低い。太陽に当たっていないのか、不健康そうな青白い肌をしていた。
そうしてまるで夜を背負っているかのように黒い髪を長くのばしていた。
その女は、平凡だった。
確かに、その真っ黒な衣装自体は変わっていると言えた。けれど、女自体は優しそうな顔立ちと言えたが特別な何かがあるわけではない。
ああ、ただ、一つだけ、その黒と白に支配された色彩の中で唯一、はっきりとした色。
(赤い、瞳。)
まるで朝焼けのように、鮮やかな色をした目だけが人目を引くと言えば引いていた。
形兆は、とっさにバッド・カンパニーに構えを取らせる。
(・・・・おいおいおいおい!!俺は、確かにこの女との会話に夢中になっていた。だが、な。油断していたわけじゃねえ。)
だというのに、目の前の女は気配すら感じさせずに、形兆の横に立っていた。形兆は女も又スタンド使いであることを察した。
生い茂った木々の影に立つ女は、まるで影が人の形をしたかのように暗い。激しさと言える激情はなく、ただ、穏やかだった。
「・・・・ご主人、出てきていいんですか?」
「こういうことは、直接交渉したほうがいいかと思ったんです。それに、直接、話がしたかったというのもありますが。」
そう言って、女は、ゆっくりと形兆に近寄った。形兆はそれに警戒する様に構えるが、自分の肩に触れるクララの手にそれを止めた。その手が制止のものであると察したためだ。
自分の前に立った女から、くんと何かのにおいがした。形兆は、てっきりその女からは香水か何かのにおいがするのだと思っていた。けれど、香った匂いはまったくの別物で、その正体を理解することが出来なかった。
その匂いが何なのか考えようとするが、それよりも前に、声が割り込んだ。
「・・・・あなたはどうされますか?父君を殺す、それを私は叶えることが出来ます。あなたは、その条件をのみますか?」
「信用できねえんだよ。」
女の声は、静かで穏やかだった。
陽だまりの中に聞こえる、誰かの他愛も無い鼻歌のような、そんな声。
それに、なんだか形兆はくらくらとした。
何かを、思い出しそうになる。似たような感覚を、知っている気がした。
それを振り切る様に、形兆は言った。
「俺の願いっつうのは、簡単に叶っちゃいけねえんだよ。簡単に、一瞬で叶えるには、払い続けた代価が重すぎるんだよ。あんた、裏の人間だろうが。いいか、同情なんてもんで叶って良いことじゃねんだよ!?分かるか?」
叫ぶような、その声に、女は苦笑した。困ったような、そんな顔をする。
「同情なんて、ものじゃないですよ。私が、あなたを助けたのは。」
「なら、何だっていうんだよ!?」
「選択すら許されない人はいます。私の周りにいて、いつか、地獄に落ちるだろうなって子もたくさんいる。彼らを、一言に不幸な子だと憐れむ気はありません。でも、選ぶこともかなわずに、おちていく子のなんと多いことかと。」
女は、笑う。どうしようもないのだと、そんな諦めに満ちた目で、どこか遠い場所を見る。
「私は、ただ、助けてあげられなかった誰かの影をあなたに見ている。どうしようもなく、共に落ちていくことしか出来なかった誰かの影を見る。だから、あなたにはせめて、選んでほしい。私はね、助けてあげられなかった誰かを、あなたを助けることで、助けた気になって。救われたいだけですよ。」
女の手が、自分の方に伸ばされた。己の手をするりと握った、少しだけがさがさとしたそれ。
くんと、香る、におい。
形兆は、その匂いが何であるのか、ようやく分かった。
それは、夕焼けの匂いだった。
それに覚る。自分が感じる、それは。強烈な、懐かしさだった。
夕焼けの匂いなんてない。ただ、形兆が夕焼けを思い出すにおい。
日本人ならば、誰だって、夕方の道を歩いただろう。どんな理由か、遅くなって、もうすぐ夕飯だという時刻に家に帰ったことが。
その女からするのは、そんな匂いだった。
何故か腹がすくような、家々の中から匂う夕飯の、におい。
何となしに料理の匂いだと分かるが、具体的な料理名が浮かんでこない。ただ、どこかで嗅いだことのある、懐かしく腹の空く匂い。
形兆にも、あった。
まだ、母親が元気だったころ、自宅に帰ったその時に、急いだ家路。
腹を空かした自分を、母さんが、待って。
「虹村形兆君。」
そこで、ぶつりと思考が途切れた。それに、ようやく自分の前の前にいる存在に目が向いた。
真っ黒な髪に、柔らかな微笑み。懐かしい、におい。
形兆は、くらくらとする。何か、何かが自分の中で噛みあいそうになる。それから、目を逸らせと自分の中で何かが喚くが、女の声に意識が向く。
「誰もあなたを赦すことは出来ない。あなたが殺した誰かは、あなたを罵倒し、あなたによって大切な誰かを失った人はあなたに刃よりも鋭い憎しみを向けるでしょう。そうして、誰もその罪を背負ってあげることは出来ません。あなたは、これから、それを一人で背負っていく。ですが、一つだけ、忘れないでください。あなたは、確かに間違っていたかもしれない。ですが、あなたが前に進みたいと、救われたいと願ったことは間違っていなかったと、私は思います。」
女は、まるで、曇り空から射す太陽のように微笑んだ。
優しくて、穏やかな、そんな笑みだった。
ああ、そうだ。似ているのだと、思い出すのだ。
微かな記憶の中にある、母のことを。
「自分を、救うということは、進み続けるということです。ですが、それは困難だ。変わることは難しい。あなたはそれを選び続けた。辛くとも、苦しくとも、背負って歩き続けた。私は、それを素直にすごいと思います。私は、どこにも行けない人間だから。」
「半年間、という期間を置いたのは、ただ、考えてほしいんです。本当に、殺すことを自分が望んでいるのかを。悩んでほしいんです。選ぶことの叶わなかった私には、あなたに悩んでほしいんです。虹村形兆君、どうか、救われてください。私には、それが叶わないから。誰かが救われることで、ほんの少しだけ、救われるような気分になる。」
それに、形兆の中で生まれたのは、苛立ちだった。
こんなにも、あっさりと、叶っていいはずのものではないはずだ。こんな、こんな、ふうに叶うならば、自分の今までの背負って歩いた苦しさはどうなるのだろうか。
助けなんていらない、救世主なんていらない。
一人で、全てを、全うして見せる。
そうでなければ、そうでなければ、今まで殺した誰かのことも、誰にも頼れなかった幼い己があんまりにも理不尽で、惨めではないか。
そう思って、その手を振り払おうとする。
理性と、感情がぐちゃぐちゃに混ざり合う。
助けを求めろと声がして、一人で何とかなると叫ぶ自分がいて。
ただ、今は考える時間が欲しくて。その手を振り払いたかった。
けれど、それよりも前に、自分の腕に抱き付くような形で温い何かが飛びついて来た。
「頼ればいいじゃないですか。」
そう言って、肩からひょっこりと顔を出したのは見慣れた空色、青い瞳。
「私だって、妹のことを一人で背負い続けるのはきつかったですよ。あなたは、きっと、もっときつかったはずです。形兆君。君は、確かに頑張ったんですよ。例え、それがものすごい、間違いを招いても、だから、少しだけ、よっかかっていいと思いますよ。」
そう言って、にやりと、大型犬のように笑った。
というか、頼りなさい。命の恩人の言葉ですよ。素直になりなさい。
にっしっしと、そう言って笑った。
形兆は、何かが、何か、どろりとした甘い何かにむしばまれるような感覚がした。
逃げなくてはと思った。そうしなければ、いけないとそう思ったのに。
自分の肩の温度に、とんとんと叩く肩のリズムに、動けない。
心地いいと、そう思った。何故だろうか。そう思って。
自分の頬にするりと、革の肌触りがした。
「・・・・・形兆君。」
止めろ。その声を、その言葉を止めろ。止めてくれ。そう思って、母とダブる女の声に、形兆は無視できない。
「あなたはすごい。今まで、二人も背負っていたんですね。誰にも頼らず、ただ、一人で。でもね、もういいよ。」
あなたはまだ子どもだよ。だから、大人を頼っていいんだよ。
頭を、撫でた。真っ黒な髪の、優しそうな女が、自分の頭を撫でた。
(母さん。)
腹の減る匂いがした。懐かしい、匂いがした。
「よく頑張ったね。形兆君。あなたが、罪人であることは変わりはないけれど。それでも、地獄に落ちるのは一人ではないよ。」
ぐらりと、形兆の膝が折れた。握られた手を両手で掴み、そうして祈る様に頭を下に向けた。
一人で成し遂げるのだと、助けなんていらないのだと、自分一人で背負うのだと、そう思っていたのも本当だった。
けれど、弱かった、幼い子どもが形兆のどこかで泣くのだ。
きっと、ずっと言ってほしかった。きっと、心の奥で、助けてくれる人を求めていた。
それでも、弱さをさらけ出すのは怖いから。必死に、押し隠した。
だから、いつか、忘れてしまった。
どうしてだろうか。どうして、今更だというのに。
もういいよと、言ってくれる誰かに、今、出会うのだろうか。
父が魂を売った、DIOという存在を、誰かが悪の救世主と言ったそうだ。
その時、自分は、それを鼻で笑った。
悪が救いを求めた末路を知っていた。だから、嗤ってやった。
悪に救いもなにもないだろう。救いを求める資格もない。
(・・・・親父は、どんな気分だったんだ?)
DIOという存在に初めて会った時、あの男は何を思っていたのだろうか。
こんな、気分だったのだろうか。
溺れていて、必死に水面に手を伸ばした、その時に胸いっぱいの空気を吸い込んだかのような、そんな感覚。
己の頭と、肩を撫でるその温度に、形兆は歯を食いしばった。
群体型は欠けてるらしいですが、重ちーとは違って形兆は生きていく上で欠けて行ったイメージです。
原作で見るには、形兆は一応、自分がやってること自体間違ってる自覚はあるけど、それ以上に目的を遂げるとためにそれを押しのけた、理性が足りない人のイメージなんですが。
というよりも、八歳から父親があんなんになってるのを見るに、たぶん大人に頼ったことも無いんだろうと思っているんですが。誰か、助けてくれる大人がいればよかったんですかね。