蛸の見た夢   作:藤猫

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ブローノ・ブチャラティと優しいだけの人


間違えた優しさ

 

 

 

「少年、あなたは日の下にお帰りなさい。もう、二度とこちらに来ては駄目だよ。」

 

夜が人になったようだった。それは、あまりに詩的すぎる例えであっただろう。けれど、彼にとって、その人とはそんな色を持っていた。

その声と、その微笑みを、ブローノ・ブチャラティはきっと、ずっと忘れはしないのだと思う。

 

 

父が、麻薬の取引に巻き込まれ、その口封じにやって来た者を殺した日。

ブチャラティは、組織に通じていると公然の秘密とされている場所にやってきた。

本来ならば、彼のような幼子がギャングになれるはずもない。彼は、高々十二歳の田舎の少年だったのだから。

そんな彼が何故、その忠誠と奉仕をよしとされたのか。

それは簡単な話、彼が当時は禁忌とされていた麻薬に関わっていたためだ。

ブチャラティたちの立場は非常に微妙だ。

一応は、禁忌である麻薬に手を出した者たちが悪い。だからといって部外者のブチャラティたちを野放しにはしておけない。

彼らにとっては、当事者である彼が己から自分たちの側に来てくれたのは正直な話、ありがたかったのだ。

 

「・・・・まあ、あの人に見つかるよりも先にお前が来てくれてよかった。」

「どういう意味ですか?」

 

支部の一つであるらしいそこのリーダーの男はそう言ってほっとしたように息を吐いた。二人がいるのは、奥まった場所にある部屋だ。突然、ギャングにしてほしいと言って来た少年を彼らは邪険にすることなく、ともかくはと話を聞いてくれたのだ。ブチャラティは言葉に問いかけた。それに、男は少し悩む様な仕草をした後に頷いた。

 

「お前も身内になるなら知っといてもいいかもしれねえが。ここら辺をシマにしてる人は麻薬が嫌いでな。俺らも、お前のことを知らずに死なせてた日にはどうなってたか。」

 

そういって、ぶるりと背筋を震わせるような仕草をした。それをブチャラティが訝しく思っていると、部屋のドアが乱雑に叩かれた。

 

「メ、メデューザさん!!」

「うん?どうかしたか?」

「ポ、ポル、じゃなくてポリプスさんが!」

 

それにリーダーである男、メデューザはがたんと椅子を倒しながら立ち上がった。

 

「はあ!?なんであの人がこんなとこに?」

「そ、それがメデューザさんに用があるって。」

「ポリプス?」

 

はて、とブチャラティは不思議に思う。確か、ポリプスとはラテン語で蛸という意味だったはずだ。ギャングであるのだから、おそらく偽名であるのだろう。けれど、何故、わざわざ偽名をそれにするかについては大いに気になるところだ。

といっても、それはメデューザも同じで、確かクラゲという意味であったはずだ。

 

「どうします?」

「そ、そりゃあ会うけどよ。今日は、兄貴とか、姐さんは?」

「今日は、プロシュートも、カラマーロも来てませんよ。」

「うおおおおおおおおおおお!?」

 

男たちの野太い声に混ざって聞こえてきたか細いそれに、メデューザと部下の男の体が一瞬浮いた。

そうして、腰が抜けたかのように二人は床に座り込んだ。

 

「ええっと。そんなに驚かなくても。」

 

男の部下の後ろからひょっこりと現れたのは、彼らが驚くには余りにも場違いそうなひ弱な女であった。

長身のそれは、スタイルがいいというよりはひ弱さが目立ち、白い肌は不健康そうだ。白いシャツにジーンズというシンプルすぎる出で立ちが何とも地味な印象を受ける。

腰まで伸びた髪や、その身長を差し引いても人ごみの中にいれば埋没してしまいそうなほどその女は平凡であった。

ただ、一つだけ、その瞳だけが女に色をつけていた。

 

(・・・・朝焼け。)

 

それは、海辺の町で育ったブチャラティには馴染み深いそれだ。海を赤く染める、朝焼けのような赤い瞳。それだけが、唯一、女の特徴のように見えた。

 

「ポ、ポリプスさん!?」

「こんにちは、メデューザ。久しぶりですね。」

「は、はい。お久しぶりです。ポリプスさんも、その、元気そうで何よりです。」

 

メデューザの慌てようとは反対にポリプスと呼ばれた女はにこやかに微笑んだ。おそらくは、地位の高い人間なのだろう。ブチャラティは、一先ずは沈黙を選び部屋の隅に侍っておくことを決めた。

 

「まあ、私は相変わらずですが。そう言えば、あの子は元気ですか?」

 

その時、メデューザの顔の変化にブチャラティは目を見開いた。

 

「・・・・はい。元気です。」

 

その、横顔はまるで子どもの様だった。安堵できる保護者の元にあるような、そんな安寧に満ちた顔だ。

あの子とは誰だろうか、メデューザの親しい者のことのようだが。

 

「その、ポリプスさんに医者を紹介してもらったおかげで。」

「私じゃなくて、紹介したのはポルポですよ。」

「あ、はい。そうです。本当に、ポルポさんには感謝してます!」

「いや、そんなに大声出さなくても。あの、あと、今日ここに来たのは。」

 

苦笑交じりにメデューザを宥めていたポリプスの目が、部屋の隅にいたブチャラティに向けられた。そうして、何故か、彼女の目が大きく見開かれた。

ブチャラティは己が何故、彼女の意識を引いたのか分からずに肩を震わせた。なんと挨拶をしていいかもわからずに、無難に会釈であいさつを済ませた。

そんなことなど気にすることも無く、ポリプスはじっとブチャラティを見つめた。

そうして、おもむろに口を開いた。

 

「・・・・あなたが、病院でことを起こした?」

 

それに、ブチャラティは息を飲んだ。それは、メデューザたちも同じだった。ブチャラティは恐る恐る頷いた。

 

「・・・・・今日は、その件で聞きたいことがあったんです。丁度いい。少し、私と話をしましょうか。」

「話?」

「面接のようなものです。そう、硬くならなくてもいいですよ。」

 

そう言ったポリプスの笑みには、確かに警戒するようなものはなかった。それに、メデューザたちのことを伺おうとすると、彼らは顔を真っ青にしてブチャラティに近づいて来ていた。

 

「はははははははははは!ポリプスさん!ちょーっとだけ!ほんのちょーっとだけいいですかね!?」

「ええっと?」

「ほんのちょーっとだけなんで!!」

 

そう言ってブチャラティを引きずるように部屋の隅に連れて行った。

メデューザはずいっとブチャラティに顔を近づけて、こそこそと耳打ちをする。

 

(いいか、ブチャラティ!あの人は、怒ることはまずないが。それでも、失礼な態度は絶対に取るなよ!?)

(・・・それは、分かってるけど。どうしてそんなに必死になるんだ?)

(・・・別にあの人は絶対に気にしないが。あの人はな、俺たちの上司に当たる幹部の一人の、ポルポさんの部下なんだよ。あの人が知ることは。ポルポさんにも行くんだ。くれぐれも、失礼がないようにな!?)

「あの?」

「あー、はい!ポリプスさん!用はもう終わりましたんで!」

 

どーぞどーぞとメデューザはそう言ってブチャラティをポリプスに引き渡す。彼女はメデューザの様子に不思議そうな顔をしていたが、まあいいかと納得したらしくブチャラティの肩に手を置いた。そうして、今までブチャラティたちが話し込んでいた奥の部屋に連れていかれた。

それを見送ったメデューザと部下はほっと息を吐く。

 

「・・・・あの新人、失礼な態度取らないだろうな?」

「まあ、行儀の良い奴でしたから大丈夫ですよ。つって、あの人はそーとおのことがなけりゃあ怒ることなんてないですし。」

「・・・・あの人は、相当のことがあっても怒るのか。つーか、あの人はいんだよ。」

「ああ、メデューザさん、最初に生意気な態度取ってプロシュートの兄貴にぶちのめされたんでしたっけ?」

 

メデューザの肩が分かりやすく震えた。そうして、若干青い顔で部下を睨み付けた。

 

「俺の事は良いんだよ。あー、ほんとにあの人はいんだけどなあ。後ろの人たちがなあ。」

「ポルポさんは人がいいっすよね。」

「まあな。」

 

二人はまるで、何かを想い出すような顔をしてすっと目を細めた。けれど、その後にメデューザは言い含める様に言った。

 

「・・・・今は、ポリプスさんだからな?」

「ああ、すんません。」

 

 

 

 

「改めまして、こんにちは、君の名前を教えてくれないかな?」

「・・・・ブローノ、ブチャラティ。」

「ぶろーの、ぶちゃらてぃ・・・・」

 

ブチャラティの名乗ったそれを、女はどこか噛みしめる様に口の中で幾度か呟いた。それを無言で見つめていたブチャラティに、女は弱々しく微笑んだ。

 

「・・・・そうかい。私は、聞いていると思うけれどポリプスと呼んでほしい。」

 

苦笑交じりの女は、やはり平凡の一言に尽きた。

少なくとも、幹部の直属であるらしいというのにはっきりいってそれらしさというのは皆無に等しい。

いっそのこと、町のどこかですれ違っているのではないかという幻想さえ抱きそうになる。

だからこそなのか、今まで張りつめていた精神が少しだけ緩みそうになる。

 

「ええっと。そうだね。じゃあ、結論から聞くけれど。君が、口封じに動いた彼らを殺したんだね?」

「ええ。」

 

その穏やかな声音とは多いに外れて口から飛び出たそれに、ブチャラティは是と答えた。それに、彼女もまたさほどの動揺も無く、そうなのかいと一度だけ頷いた。

それに、ブチャラティは体をそろりと少しだけ動かした。少しだけ、動揺してしまった。

あまりにも、ポリプスが平然としているためだった。

彼女は、どこまでも平凡で。当たり前のように、日常の中にいるように見えて。血のにおいなど一切することも無く。

けれど、彼女は平然と、ブチャラティのよく知らない暗闇の中に平然と立っていた。

 

「安心して。咎める気は、ないんだ。ただまあ。厄介であるのは認めざるをえないんですが。」

 

そういって柔く、顔に笑みを湛えた。

 

「・・・厄介?」

「うーん、まあ。あなたが殺した彼ら。どこの人かは分かってるんですけど。彼らの上の人が麻薬の件で指示を出したかが曖昧なんですよねえ。おかげで責任の件でちょっとごたついてて。」

「というと?」

「・・・・組織は、この辺りをシマとしている私の組織は、麻薬の取引を禁止しています。もちろん、これを破ればそれ相応の処分が下されます。ですが、今回はことを起こした人たちが口封じに走り、死亡。彼らの上司は、部下が勝手にやったことだと否定していましてね。」

 

女は深いため息を吐いた。それから感じ取れる重い疲労にブチャラティは少し気づかわしそうな顔をした。

 

「心配してくれるのかい?」

「あ、いえ。その。」

「ありがとう。」

 

それに、ブチャラティはまるで自分が悪い夢を見ていたような気分になる。

そうだ、あまりにも、あまりにも目の前のことがブチャラティにとって違和感がなくて。

自分は、ギャングの場所になどいなくて友人の元に遊びに来ているかのような、そんなちぐはぐとした気分だった。

分かってはいるのだ。

会話の内容も、しっかりと理解している。ただ、覚悟を決め、暗闇の中で生きることを考えたために疲労した精神はどこかその柔らかな空気に飲まれかけていた。

 

「だからこそ、君に会えてよかったよ。少なくとも、彼らを殺した存在が誰か分かっただけこの件が処理しやすくなるね。口封じが起こった理由もこうして聞けた。」

 

安堵したように笑うと、ポリプスはすっとドアを指さした。その意味が分からずにブチャラティが彼女の方を見ると、それは相変わらず穏やかに微笑んでいた。

 

「ブローノ・ブチャラティ。もう、家にお帰り。」

 

その声は、本当に優しい声音だった。まるで、ベッドに眠る子どもへかける母の声音の様だった。

 

「・・・・それは、面接が終わったということでしょうか?」

「面接?ああ、そうか。君は、ここに入りたいのか。いや、そうじゃない。君は組織には入らなくていいんだよ。」

「な!?」

 

それにブチャラティは慌てて立ち上がり、己が庇護を求めていることを彼女に訴える。

少なくとも、組織の人間に対して牙を向けたブチャラティに何の憂いも無いはずがないのだ。

見せしめとして、口封じがやってくるはずだ。

 

「・・・ポリプスさん。俺は、まだ子どもです。ですが、命令を遂行する覚悟をもってここにきました。俺が、この世界に入る覚悟はすでに示していると思います。」

 

暗に病院での殺しの件を口にすれば、彼女はゆっくりと瞬きをした。そうして、少しだけ悲しそうな微笑を浮かべた。

少しだけ薄暗い部屋の中、その微笑を湛えた口元がやけに印象的だった。

 

「・・・・帰りなさい。」

 

その声は、やっぱり優しい。

ポリプスはそれに立ち上がり、そうして扉を無言で開けた。すると、メデューザたちがひょっこり顔を現した。

 

「・・・あの?」

 

扉が開けられたことに驚いたのか、その顔はだいぶ不思議そうだ。それにポリプスはすっと扉の方を指さした。

 

「・・・・この子を外へ。」

「何か、不快な事でも?」

「いいえ。ですが、この子にはまだ帰る場所があります。」

 

その言葉で全てを察したのか、メデューザは無言でブチャラティを扉の方へと促した。けれど、ブチャラティはそれを振り払うように女に叫んだ。

 

「待ってくれ!俺はこの組織に入らなければ!」

 

そんなブチャラティをメデューザは無言で抱え上げた。おそらく、自分を外に連れて行く気なのだ。それを察して、ブチャラティはその腕の中で暴れた。

 

「殺したんだ!俺は、俺は!あの時、それしかなくて、どうしようもなくて!父さんが!」

 

ああ、そうだ。父さん。父さん。

不器用で、それでも優しい、父さん。俺のために仕事を増やしたりなんかしたから。

そうだ、そのためにあんなことになって。

俺の、俺のせいで。

 

その時、ふわりと己の頭の上に何かが降りた。それは、彼女の手だった。

 

「少年、その責を君が背負う必要は欠片だってないんだよ。表には表の、裏には裏の最低限のルールと線引きがある。最初にそれを越えてしまったのは私たちだ。君は、君たちは被害者に過ぎない。それは、私が背負うから。」

 

暖かな、けれど少しだけ荒れた手がブチャラティの頬に添えられた。そうして、愛おしいもののように、その目じりをするりと撫でた。

 

「帰るべき場所で、当たり前の日々の中で生きていきなさい。ここは、帰る場所がない者たちが最後に行きつく成れの果て。安心してください。全て、こちらで滞りなく進めます。誰も、君たちを傷つけることなどありはしない。」

 

穏やかな声だった。優しくて、甘やかで。何もかも、もう大丈夫なのだと安堵を誘う声だった。くんと、香ったその匂い。

それは、母が夕飯時に香らせていた、腹の空く優しい匂い。

それと同時に、メデューザがブチャラティを抱え上げたまま部屋の外に出た。

ブチャラティの視界には、薄暗い部屋の中に取り残され、微笑みを浮かべたままのポリプスの姿があった。

それに、ブチャラティは思わず手を伸ばした。一人だけ、その薄闇に取り残された女に何と言えばいいのか分からずとも、どうしても手を伸ばしてしまう。

 

「少年、あなたは日の下にお帰りなさい。もう、二度とこちらに来ては駄目だよ。」

 

耳朶に滑り込んだその台詞と共に、ポリプスは小さく決別の意味を込めて手を振った。

 

 

 

建物の外に出たメデューザは、ブチャラティを労わるように置いた。

ブチャラティは下ろされると同時に、再び建物の中へと足を向ける。けれど、それよりも先にあっさりとメデューザに止められた。

 

「放してくれ!」

「いや、放したらそっこうポリプスさんのとこ行くだろ!?なんなくていいって言われたんだからさっさと帰れよ。な?」

「帰れるわけないだろ!?」

 

やけくそのように叫べば、メデューザは少しだけため息を吐いた。

 

「だからこそ、さっさと帰れ。」

 

聞いていると、思わず動きを止める様な重い声だった。今までのどこか情けない印象とは違い、どこか威圧感あるそれにブチャラティは動きを止めた。

少しだけ怯える様なブチャラティの様子に、メデューザは困り果てた様な顔でしゃがみ込んだ。同じぐらいの目線になった男は宥めるように言った。

 

「・・・・ともかくだ。一旦は帰れ。あの人が大丈夫だっつったんだ。なら、何もかもが大丈夫だ。」

 

その声音は、まるで親を信じる従順な子どもの様だった。

それに、ブチャラティは思わずというように皮肉を口にした。

 

「ずいぶんと信頼してるんだな。」

「そりゃあな。」

 

その、穏やかな声はまるで父親と似ているように思えた。

 

「救われたからな。」

 

ブチャラティは、思わず黙り込んでしまった。

その声が、その表情が、その眼が。

あんまりにも安堵に満ちた、澄み切ったものであったから。

その、大それた台詞にブチャラティは眉をしかめた。メデューザはそれにやはり苦笑すると、ブチャラティの頭を乱雑に撫でた。

 

「ま!そーゆことだ。別段、親父さんの件がないのなら入る理由もないんだろ?だったら、お帰り。あの人は、けして言葉を違えない。何の心配もないと言ったんなら、全部手を回してんだろ。」

 

帰れ、がきんちょ。俺みたいにならぬよう。

 

男の、祈るような言葉とその表情にブチャラティはのろのろと動きだした。これ以上食い下がっても無駄だと悟ってのことだ。食い下がったとして、自分に不利益しかならぬと分かった。

少年は幾度も、幾度も振り返っては男の様子を見ていたが。

メデューザは変わることなく、穏やかな笑みを浮かべてブチャラティを見送っていた。

 

 

ブチャラティは、その日父親の病院へと向かった。病院は、変わることなくどこか騒がしく、静かな雰囲気のままであった。病院に許可を取り、父親の病室で寝ずの番をする。

けれど、その日は、いつまでたっても静かな夜が続くだけだった。

 

朝日に包まれた病室で、ブチャラティは何もやってこなかったことを実感する。

だからといって、本当に安心することも出来ない。

ブチャラティは未だに眠る父親を見て、まるで己を慰めるように腕を擦った。父親は峠を越えている。もう、意識の回復を待つだけだ。

そんな時、病室の扉を叩く音がブチャラティの耳に飛び込んできた。

彼は、それにゆっくりと立ち上がり、持っていたナイフを手にかけた。

廊下からは微かに、看護師などの声がした。

ひと気の多い時間帯に殺しの任務をすることはないだろうが、警戒心を込めて彼はゆっくりと扉に近づいた。

けれど、ブチャラティの予想に反して病室の扉は無遠慮に開かれた。そこにいたのは、父の担当の看護師と、そうして見慣れないスーツ姿の初老の男だった。

ブチャラティの姿に気づいた看護師は、後ろの男を振り返った。

 

「彼が、ブチャラティさんの息子さんです。それでは、私はこれで。」

 

せかせかとした様子で看護師はその場を去っていく。後に遺された見知らぬ男をブチャラティは凝視した。

男は、子どもにするにはあまりにも恭しくブチャラティに挨拶をした。

 

「おはよう、ブローノ・ブチャラティ君。弁護士の、ラウロです。」

 

ポリプス様から、あなたたちの今後について任されてきました。

 

その言葉で、ブチャラティは男が何者なのか全てを察した。

 

 

病室内にて、向かい合って座った彼らは沈黙に包まれた。ブチャラティは緊張したように身構えていたが、ラウロはどこか気安げに彼に書類の束を渡した。

それにちらりとブチャラティはラウロのことを見つめた。

白と黒の混ざった斑の髪をオールバックにし、銀縁の眼鏡をしている。皺の寄った顔は、確かな年月を積み重ねていると察せられた。

受けとったそれに一応目を通したものの流石にブチャラティには分からない。

 

「・・・・さすがに、君にはその書類を理解することは出来ないだろう。」

 

柔らかな声音で始まったそれに、ブチャラティは少しだけ女の柔らかな声を思い出した。

 

「今回、彼女の、君の知るあの人の依頼でやって来たんだ。簡潔に説明すると、君のお父さんは病院を移ることになる。」

「は!?」

「安心しなさい。名医の紹介状を貰っているし、お父様が働けない間の生活についても保障されております。」

 

そう言って、ラウロは書類を片手にぺらぺらと話し始める。

ブチャラティの父親は、これから病院を移る。治療代やリハビリ代などはポリプスが負担するそうだ。そうして、保護者のいなくなったブチャラティの生活も保障するとのことだった。

 

「もちろん、十二歳のあなたが一人で暮らしてはいけませんし。誰か、面倒を見てくれる親戚等はおられますか?」

「ま、待ってください!」

「はい、何か分からないことが?」

 

温和そうにラウロは微笑み、ブチャラティに問いかけた。もちろん、ブチャラティは話をしっかりと理解していた。

まるで頭痛を堪える様に、彼は頭を押さえた。

少年はただひたすら困惑していた。

 

(理解できない。)

 

確かに、後のことは任せろとは言われた。けれど、こう言った意味での言葉なのだと思っていなかった。

ブチャラティには外傷における治療費の代金など分からない。現在の治療費も、微々たる保険金と父親が溜めていた貯金で賄っているが、それだけでも馬鹿にならない金額だ。

ブチャラティがギャングになろうとしたのは、この治療費等を稼ぐためということも含まれていた。

それに加えて、あちらは自分の生活も保障するという。

ただ、麻薬に関わったとはいえ、一般人の自分への手厚さは何なのか。

分からない。その理由が分からぬゆえに、恐ろしかった。

己の前に積まれた書類をブチャラティは凝視する。

その書類に、どれだけの嘘があるのか、どれだけのまやかしがあるのか。

それを判断する術を持たない。

いや、それよりもだ。

ここで、己に拒否権があるのか。

どうすればいい?

やって来た殺し屋を追い返すなんてシンプルさはない。

自分が今、どんな状況なのか。

それが分からない。

だらりと、頬に冷や汗が流れた。

そこでラウロの穏やかな声が囁かれた。

 

「恐ろしいですか?」

 

ブチャラティはそれに弱々しく顔を上げた。そこにいたラウロは、柔らかな微笑みを浮かべていた。その笑みの意味を、ブチャラティは分からない。

それは仮面としての笑みなのか、それとも幼子を気遣ってのものなのか。

けれど、自分たちを始末する上でここまでのことをする意味があるのか。思い悩む少年に、老いた男は柔らかに言葉を掛けた。

 

「どうして、ここまでのことをされるのか。恐ろしいですか?」

 

それは、どこまでも素直な問いかけのように聞こえた。疲れ切った幼子の精神は、すでに悲鳴を上げていた。

ブチャラティはそれに、素直にこくりと頷いた。

ラウロはくすくすと幼子のように笑った。

 

「気持ちはわかりますよ。」

 

私も同じでしたから。

 

ブチャラティは困惑しながら男の顔を見つめた。その、年相応の幼い表情に頷いて、そうしてゆっくりと窓から外を見た。

 

「どういう、ことですか?」

「・・・・私も、弁護士なんかをやっていてね。ギャングに関わって死にかけてね。終わると、思った。大事なものも守れずに、消えるのだと。」

 

そんな時に、彼女に会った。

 

それはブチャラティに話しているというよりは、どこか遠い昔を思い出すような声だった。

 

「泥のように這いつくばった私に、差し伸ばされた手を覚えている。」

 

吐息のような声と共に、ラウロはブチャラティに視線を向けた。

その眼を、その目を何と言えばいいのだろうか。

何か、見たことがある目だった。どこかで、見たことのある、眼だった。

 

「私も、彼女に問いかけた。何故、助ける。どうして、対価もなくここまでする。それに、彼女は平然と答えた。悲劇を、喜劇に変えるのが趣味だと。」

 

悪徳に染まった力で、誰かが笑顔になるなんて愉快でたまらないそうだ。

 

はは、と男は軽く笑った。

 

「笑ってしまうだろう?人にとって、人生のどん底から救われる理由が、趣味だという。けれど、それでも、救われた。助けられた。日の当たる場所に返してもらった。返したいと思った。何でもいいから。けれど、彼女は何も、私に望まなかった。だから、正直な話、君のことで頼みごとをされたとき本当に嬉しかったんだよ。少しでも、望まれることが嬉しくてね。」

 

安心しなさい。彼女は、私たちに何も望まない、望んではくれない。押し付けられた救いを君も甘受するといい。それだけが、私たちに赦されたことなのだから。

 

ラウロの柔らかな声が、ブチャラティを包んだ。自分をじっと見る、静かな目にようやくブチャラティは理解した。

その眼を、どこで見たことがあるのか分かった。

いつだったか、誰だったか、教会で祈りを捧げている、信仰を胸に抱えた者の眼がそれだった。

 

 

それから、ブチャラティの生活は特別なことなどない。

父は、その後移った病院にて意識を取り戻し、リハビリも順調に始まっている。

ブチャラティは、父親の知り合いの家に間借りしながら当たり前のように学校に行っている。

変わることなく、くるりくるりと、日常が続いている。

変わることなど、あるはずがないのだ。

それを、不幸なことだとは思わない。むしろ、きっと自分は幸福なのだとブチャラティは分かっている。

それでもなお、ブチャラティは、まるで刺さった棘のようにたった一つのことを、ふと思い出す。

 

薄闇の中、日の当たる場所に帰っていく己を見送った、柔らかな女の微笑みがまるで棘のように、ブチャラティの中で消えることはなかった。

 

 

父が意識を回復した後、ラウロはまたやって来て事の顛末を語ったらしい。

父は、ギャングからの見舞金を受け取ることを嫌がったが口止め料として、区切りという意味で受け取るように促されればどうしようもなかった。

何よりも、これからの生活を考えればそれを受け取らないというのは難しいことだった。

それっきり、ラウロは姿を現すことはなかった。

もちろん、連絡先は渡されているのだから接触できないわけではない。

けれど、こちらから行かなければ、彼らは頑なに姿を現さなかった。

全てが、戻ったかのようだった。

父は、襲われたことなどなかったかのように元気になっている。周りも、不幸な目に遭ったブチャラティ親子に同情し生活の世話をしてくれる。自分も、当たり前のようないつかで生活している。

けれど、ブチャラティだけが、たった一人だけ、たった一つに捕らわれている。

ふと、思い出すのだ。

例えば、宿題をしている時だとか、買い物に行っている時だとか、知り合いの家の網を直している時だとか、父親の見舞いへ行く途中だとか。

そんな時、考えてしまうのだ。

 

あの、真っ黒な女は、あの薄闇の中でただ一人、日の当たる場所を眺めているのだろうか。

 

 

(・・・・来て、しまった。)

 

ブチャラティは、来るなと言われた例の建物を物陰から見つめた。

父親の見舞いからの帰り道、ブチャラティはまるで白昼夢のように真っ黒な女のことを思い出していた。

無意識だった、誘われるように進んだ道の先には、来てはいけないと言われた場所の近くだった。

行ってはいけないのだ。関わっては、いけないのだ。

けれど、それでも、胸の内に孕んだ棘をずっと、ブチャラティは気にしていた。

あの、真っ黒な女の微笑を、覚えていた。

 

ブチャラティは、隠れるように建物の影にしゃがみ込んだ。

関わる理由も、会う理由も、ましてやこんな所に来る理由もない。

そうだ、ブチャラティの願いはすでに叶っている。

守りたかった人は、何の不自由も無く生活している。望んだものは守られた。

裏の世界で生きることなぞ、望んでいたわけではない。

望んでいたわけでは、ない。

けれど、納得できていなかった。

あの時、あの日、ブローノ・ブチャラティは確かに覚悟を決めたのだ。それは、裏の世界の人間からすれば鼻で笑われてしまう様な覚悟でも。

あの日、ブチャラティは底に落ちていく覚悟を決めたのだ。

この幸福に、ブチャラティは何を支払ったというのか。

何故、あの女は自分を救ったのだろうか。

趣味だと、あの弁護士は言った。

その一言で、これは片づけられるのだろうか。

日の当たるこの場所にブチャラティを返したあの女は、今も薄闇の中に。

 

そこで、騒がしい声に意識が途切れた。

声の方を向くと、建物からメデューザが一人の男を伴って出てきていた。

男は、美しい金髪の男だった。

すらりとした体躯に、遠目にでも分かる整った顔立ち。何よりも、男には人目を引く格のような、何かがあった。いっそ、どこかのブランドのモデルだと言われても納得が出来た。

その男を見送りながら、メデューザは哀れなほどにがちがちになっていた。

 

「それじゃあな。」

「はい!プロシュートさんも、どうぞお気をつけて!!」

「・・・・・プロシュート?」

 

その名前には聞き覚えがあった。確か、ポリプスの側近の名前であったはずだ。

メデューザに見送られて金髪の男は悠々と歩き出した。それに、ブチャラティは後を追った。

 

 

 

「よお、餓鬼んちょ?」

 

ブチャラティはまるで猫のように襟首を掴まれ、ぶらりとぶら下がった。

ぬかったとも思うし、判断を誤ったという自覚はある。

自分をぶら下げた男は、まるでいたずらっ子を叱りつける大人のように楽しそうに笑っていた。

 

ブチャラティは、男を追わずにはいられなかった。

どうしても、もう一度でいいから、ポリプスに会いたかった。

会って、会えたとして。

どうしたいのか、よくわからなかった。ただ、もう一度でいいから、会いたかった。

ブチャラティの中には、ただ、幾度も来た道を振り返る様な気にせずにはいられない何かがあった。

ただ、暗闇に一人立つ女を忘れられなかった。

 

そうして男を追った先で、ブチャラティは間抜けなことに捕まってしまった。

 

(・・・・・路地裏に入った時、時間を置いたといってももう少し警戒すればよかった。)

 

相手もまたプロなのだ。

その時、プロシュートを見上げていたブチャラティの顔に微かな風圧のようなものを感じる。風でも吹いたのかと思っていると、プロシュートというらしい男が思案顔で呟いた。

 

「・・・・・能力者じゃ、ねえな。」

 

その言葉の意味も分からずに、ブチャラティは思わず男を見上げた。

プロシュートは少し困り果てたような顔でブチャラティを睨み付けた。

 

「・・・・武器も持ってねえ、服装も別に悪くねえ。」

 

てめえ、どこの所属だ?

 

それにブチャラティは自分が他の勢力か何かだと思われていることを察した。思わず、ブチャラティは口を開いた。

 

「・・・・ポ、ポリプスに会いたいんだ。」

「・・・・名前は?」

「ブローノ、ブチャラティ。」

 

それにプロシュートは、はああとため息をついた。その後に、どうして自分のことを知っているかと問われ、メデューザたちの会話で知ったと言えばプロシュートの眉間に皺が一つ増えたのは割愛すべきだろう。

大きなため息を吐いた後、プロシュートは呆れたように言い捨てた。

 

「さっさと帰れ、クソガキ。」

 

憎々しく言い捨てると、プロシュートはブチャラティを放り出し、そうして歩き出した。

放り捨てられたブチャラティは食いつく様に、その後に声を上げた。

 

「待ってくれ!ポリプスに!」

 

何か、一瞬、殴られたようなそれほどの衝撃を感じた。

ブチャラティの動きが止まった。彼の体は、がたがたと寒さに震える様に慄いていた。

 

(・・・・ヤバい。)

 

頭の中に浮かんだのはそれだけだった。それだけしか、頭に入らなかった。

プロシュートから、発せられる圧。

それが、何か理解できなかった

いや、それは恐らく、殺気だとかそう言われるものだろう。裏の世界で生きているものと、ブチャラティの違い。

 

「失せろ。」

 

短い言葉だ。けれど、それに従わなければ殺されると理解できる何かがそれにはあった。

プロシュートはさっさとそのまま路地裏に進んでいく。

もしも、もしもの話だ。

彼が、ただの臆病な子どもでそこで逃げ出してさえいればブチャラティはただの凡人であれただろう。

その、胸に抱えた暗闇への寂しさを抱えたまま。

生きることへの違和感を抱えたまま。

それでも彼は、日常の中で当たり前のように平凡に生きていけただろう。

彼が愛した日々の中で。

けれど、悲しいことに、彼は唯の子どもではなかった。

守るために斬り捨て、殺し、そうして堕ちるという覚悟を持っていた。

 

だんと、ブチャラティは足を踏みしめる様にプロシュートへ目線を向けた。

 

「ポリプスに会わせてくれ!」

 

それにプロシュートは足を止めた。

 

「失せろと、俺は言ったぞ?」

 

静かで、そうして底冷えのするような声だった。それだけで、ブチャラティの体は情けなくも震えた。

けれど、ブチャラティはけしてプロシュートから視線を逸らすことなく、口を開いた。

 

「頼む、会わせてくれ!」

 

その言葉と共に、ブチャラティの体は宙を舞っていた。それを理解した後に、地面に叩きつけられ、体中に痛みが走った。

かはりと、肺の中から空気が漏れ出る。

危険であると悟ったブチャラティは急いで起き上がるが、それよりも前に転がった彼の首に手が巻き付いた。

ぎちりと絞め付けられた首にブチャラティは苦しみに喘ぐように息を吐いた。

 

「・・・・舐めるなよ、餓鬼。」

 

目を見開いた先に、悪魔がいた。

黄金の髪がきらきらと輝き、そうして青い目がまるで焔のように揺らいでいた。

ああ、美しく、そうして怒れる悪魔がいた。

 

「助けられただけのクソガキが、喚けば叶うなんざ思っていないだろう?」

 

これ以上関わるなら、殺されても文句ねえよな?

 

それは、何の飾りも無い真実だけの言葉だった。

けれど、ブチャラティは言葉を続けた。

 

「それでも、会わなきゃいけないんだ!会って、会って、俺は!」

 

何がしたいのか、とっさにブチャラティの口から言葉が漏れ出た。

 

「助けられた理由を聞かなくちゃいけないんだ!」

 

それにプロシュートの目がゆっくりと細まった。ブチャラティはただ、喚くことしか出来なくて、口からただ噴出するように言葉を続けた。

 

「助けるのが趣味だから?そんな言葉でどうして納得なんて出来るんだ?このまま、このまま、理由の分からない生活の上でずっと生きていくのか?そんなの、そんなの、間違ってる。」

 

何故か、最後に出たのは、間違っているだった。

怖いでも、不安でもなく、何故か、間違っているという言葉が漏れ出た。

それにプロシュートは一瞬だけ、表情を緩めた。そうして、囁く様に問いかけた。

 

「何が、間違ってるっつうんだよ?」

 

何故か、その声はひどく優しいもののように聞こえた。

ブチャラティは、極度の緊張により、それには気づかなかった。ただ、その問いかけに対して素直に考えた。

 

間違ってる?そうだ、間違ってるんだ、こんなこと。

 

「・・・・お前たちは運が悪かっただけだ。このまま、こちら側に来る必要なんざないだろう。お前の探す女は、ただ、ただ、お人好しなだけだ。ただ、誰かが救われることで、少しだけ幸福な夢を見ている、気狂いだ。その、辻褄の合わねえ生き方だろが、別に生きていけねえわけじゃねえ。それが代価だ。その違和感を抱えて、生きて行けばいいだろう。」

 

それを直視することと、それを無視すること。

平凡な日々と天秤を掛けてどうしてそれに傾くのか。

 

そうだ、そうなのだ。

分かっている。そんなこと、ブチャラティにだって分かっている。

このまま、何もかも見ないふりをすればいい。何もかもを忘れて、生きていけばいい。

ギャングになどなりたいわけじゃない。

 

ブチャラティは、そうだ、自分は漁師になりたかった。

漁師に、いや、それは語弊がある。ブチャラティは、漁師にではなく、父のようになりたかったのだ。父のように、優しい人に、なりたかった。

 

(・・・・・優しい人に、なりたかった。父さんのような、優しい人に。)

 

そこで、ふと、思った。

自分を助けてくれた、彼女もまた、優しい人なのだろうかと。

それに、ブチャラティの口から言葉が漏れ出た。

ようやく、自分の中で持った違和感が何なのか理解した。

 

どうして、優しいはずの彼女だけが、暗闇の中で一人でいるのか。

 

どうしてだろうか。

そうだ、それがずっとひどい違和感だった。

助けられたのは、事実だった。

なのに、彼女は何も求めなかった。何も、求めずに一人で、幸福などこかを見るのはそれは間違いであるはずだ。

 

「間違ってる!あの人が、優しいなら、どうして一人だけ暗闇の中にいるんだよ!?間違ってる、そんなの、間違ってるじゃないか!!」

「・・・・俺たち自体が、間違ってるんだよ。」

 

その声は、何よりも、何故か泣きたくなるほど優しかった。ブチャラティの首にかかった手の力は弱まってはいなかった。

けれど、何故か、その声はひどく優しくて、そうしてなんだか泣きそうなものに聞こえた。

 

「裏の世界で、俺らは死体の上で飯を食って、糞して、生きてんだよ。あいつが暗闇の中で生きていることは正しいんだ。表の世界で生きられない奴らの成れの果てが、あの場所だ。」

 

救えねんだよ、お前らと違って俺たちは泥にまみれちまってるんだ。

 

そうだろう、確かに、そうなのかもしれない。あの場所にいる彼女は、確かに汚れているのかもしれない。

けれど、だから何だというんだろうか。

救われたという事実は、変わらない。あの人が、救ってくれたことに変わりはない。

ならば、あの人だって、救えた誰かの分は、笑っていたとしてもいいじゃないか。

対価を求めてもいいじゃないか。

一方的な救済なんてごめんだ。

それは間違っている。

家族でも、身内でもない自分を助けたのはなぜなのか。

 

「・・・・それでも、俺は、あの人に会いたい。」

「会って、どうするんだ?」

「どうして、助けてくれたか、知りたいんだ。」

「あいつの本心なんざ、俺が語った以上のものなんてねえよ。」

「それでも、会いたいんだ。」

 

会って、どうするのだろうか。助けられた理由が聞きたいのかもわからない。ただ、会いたかった。

会って、もう一度だけ話をしたかった。

薄闇の中で微笑んだ、陽だまりのような女は今、どうしているのだろうか。

 

「救われねえよ。あいつは、あの人は、お前に何も求めても、与えてもくれねえ。あの人に、救いはねんだ。たった一つの望むものでさえ、お前に何も求めちゃくれねえよ。お前は、どうしてこのまま救われることを受け入れねえ?お前は、このまま日常の中に帰っていけるだろう?」

 

ああ、それでも。

ブチャラティはプロシュートを睨み付ける様に見返した。

 

「それなら、俺だって同じだ。俺の手だって、もう、血に濡れてる。人を殺した。このまま、俺はどこにもいけない。何の代価も無しに救われたことに、捕らわれ続ける。」

 

さあ、覚悟は決まったか?

ブチャラティは己に問いかけた。

優しい人に、なりたかった。優しい人に、父のように、誰かを守れる人になりたかった。

これから、自分が彼女に会うことは、間違っているかもしれない。もう、自分は、日常に帰れなくなるかもしれない。

それでも、ブチャラティは会おうと決めた。

だって、自分たちを救ってくれたのは、確かに間違い続けた悪党であったのだから。

会わなくてはいけない。

今でも、あの人は、薄闇の中で、誰かへの救済を眺めているのだろうか。

 

会わせてくれ、そう言ったブチャラティにプロシュートは静かに目を閉じた。

 

きっと、誰も救われない。

 

それでも、その、覚悟を決めた瞳が、前へ進むのだという意識はあまりにも眩しかった。

 





四部編をあんまりにむずかしすぎて、ブチャラティの話を一旦書いてました。
承太郎さんはむずいです。
話の順番については分かりにくくなるので、また整理します。
ちょっと長くなりそうなんで、二話に分けます。
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