蛸の見た夢   作:藤猫

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ブローノ・ブチャラティと、弱くて醜い人


沈黙に孕んだ秘密

 

 

ブローノ・ブチャラティはその日、こっそりと学校を早退した。なんだかんだで実直な彼には珍しい行動だった。

けれど、仕方がない。プロシュートの提示した約束の日は今日だった。

少しだけ列車を乗り継いだ、離れた海に面した町だった。ブチャラティは恐怖のためか、緊張のためか、鳴り響く心臓を押さえて、教えられた道を歩いた。

そうして、ついたのは開けた見晴台だ。

人気はなく。海が一望できるそこは、ベンチが数個ぽつんと置かれているだけだった。

遠くで、鳥が鳴いている。

ブチャラティはぽつんと、そのベンチに座った。予定の時刻は曖昧で、下手をすれば数時間待つかもしれないと事前に伝えられてはいた。

それでも、ブチャラティは待とうと思っていた。

何時間でも、いくらでも、彼女に会えるのならば。どんなにだろうと待つ気だった。

ぷらんと、足を投げ出して、一心に海を見た。

それぐらいしかやることもないし、何かをする気も起きなかった。

潮風がブチャラティに吹いてくる。

そのまま、時間が過ぎて、日はどんどん傾いていく。もうすぐ夕暮れになるという時間にそれでも、彼は待ち続けた。

 

「・・・・待っていたんですね。」

 

突然かけられた声にブチャラティは飛び上がるように立ち上がり、後ろを見た。ブチャラティは、確かに子供だ。それでも、警戒をしていなかったわけではない。

それでも、真後ろに立った誰かに気づかなかった自分に驚いてしまったのだ。振り向いた先、そこにはスーツをまとった女がいた。

仕立ての良さそうとスーツと、少々大きめのコートを羽織った彼女は、会ったときと同じぼんやりとした目でブチャラティを見ていた。

 

「ポリプス?」

「ええ、約束でしたから。会いに来ましたよ。少年。」

 

彼女は変ることなく、穏やかな声でブチャラティにそういった。そうして、彼女はとすりとブチャラティの隣に座った。

 

「何か、話したいことがあるんでしょう?」

「あ、ああ。」

 

ブチャラティは突然現れた彼女に固まりながら、それでもようやく巡ってきたチャンスに歯をかみしめて、ベンチに座った。

彼女は、ぼんやりと傾いていく日と海を見つめていた。

ブチャラティはそんな彼女をちらちらと見つめながら、口を開いた。

 

「聞きたいことがあるんだ。」

「君を助けたことかな?」

 

直球過ぎる話題にブチャラティは少しだけ固まったが、それでもこくりとうなずいた。

 

「どうして?」

 

ブチャラティは、ただそう聞くしかなかった。それを聞くために、危険を犯し、ここまで来たのだ。

それに、彼女はやはりブチャラティを見ることはなかった。

 

「・・・・特別な理由はありませんよ。」

「なら、特別じゃなくても良いから、その理由を教えてくれ。」

 

ブチャラティはひるむこともなく言葉を紡いだ。それにポリプスはようやくのろのろとブチャラティの方を見た。赤い瞳には、やはりぼんやりとした色しかなかった。

 

「ブチャラティ、あなたはどうしてそんなことを聞きたがるんですか?」

あなたは、今満たされているはずだ。父も無事であった、あなたは何の咎もなく望んだ生活を送っている。何を、あなたはそんなにも求めているんですか?

 

じっと、赤い瞳がブチャラティを見ている。それに、ブチャラティは視線を下に向けた。

 

「・・・・納得できない。」

 

ブチャラティはぎゅっと拳を握りしめた。

 

優しい人は、報われるべきだとブチャラティは思っている。

それは、彼にとって己の父母であり、そうして町の全うに生きている人々のことだ。父は死にかけた。

何をしていたわけでもない。己の息子の未来をできるだけ広げたいと、そんな素朴な願いのために働いていたのだ。

それだけだ。何を、とがめも、報いも受けることがあるだろう。

なのに、父は死にかけた。

それは、運が悪かったと言えるかもしれない、悲運だったからだと言えるかもしれない。

けれど、ブチャラティの中に漠然とした何故だという疑問があったのだ。

何かが悪かった訳でもない誰かが、どうして咎を追うべき誰かの業に巻き込まれなくてはいけない?

父の何が悪かったのだろうか、自分の何が悪かったのだろうか。

ブチャラティは悪党だ。

何故って、人を殺してしまったから。

それにどんな理由があろうと、人を殺したその時点でブチャラティは何かの業を背負わなくてはいけない。

そうでなければ、ブチャラティは自分の感じた理不尽を肯定してしまうことになる。それだけは嫌だった。

自分はこのまま明日を当たり前のように生きていくのだろうか。この理不尽への疑問を抱えて。

納得ができない。納得が、どうしてもできない。

自分に理不尽を強いた誰かを自分が罰したというならば、目の前の彼女が罰したというならば、自分は一体誰に罰せられるのだろうか。

 

「特別な理由なんて、結局ないんですよ。」

 

静かな声がした。それは、まるで眠気混じりに呟かれたようにけだるそうだった。

ブチャラティはそれに、横を見た。

彼女は、どこかぼんやりとした眼で、やっぱりなんの感情も見えないそれで海を見た。

 

「私はあなたを救いたかったわけではなく、いつかの、どこかの、どうしようもなかった誰かを救いたかっただけの話です。それ以上も、それ以下でもない。」

 

ポリプスはそう言って立ち上がる。

ブチャラティに背を向けて、彼のことを見もせずに立ち上がる。

 

「話はそれで終わりです。私には、それ以外にあなたに語る言葉はないのだから。」

 

ポリプスはまるで話の腰を折るようにそう言い捨てて立ち上がる。

ブチャラティはそれをすがるように声をかけた。

 

「待ってくれ!そんなことで納得なんてできない!」

 

ポリプスはブチャラティに背を向ける。顔の見えないままの彼女は、そのまま彼に話しかけた。

 

「なら、あなたのお父さんが殺されそうになったことに意味なんてあったんですか?」

 

やたら、静かな声だった。かすかな潮風にさえも浚われていきそうなほどに、その声音はかすかなものだった。真っ黒な髪が、風の中で揺れている。

 

「人の死にも、人の生にも、意味だとかそんなものはありませんよ。ただ、全てが運命に従っているだけです。世界の果てで、くそったれの神様が幾千億とシナリオを書き綴っているんですよ。まるで、毎週連載されている、雑誌に載った漫画みたいに。」

 

彼女は、立ったまま動きもせずに、ブチャラティに背を向けてそんなことをうそぶいた。黒いコートがまるでマントのように揺れていた。

 

「私は、ただ、そんなドラマに泥をつけたいだけです。ただ、無意味でも、無価値でも、ただ。くそったれたその、神様に、つばを、私は吐きたい。」

私は、ただ、夢を見たい。

 

「理不尽は理不尽だと、悪は裁かれ、正しい誰かが笑って明日を進むような、そんな夢を見たい。」

 

震える肩が、その声音の強さが、どこかその願いの切実さを表していた。

 

「あなたは私の自慰に巻き込まれただけ。それだけの、話です。それ以上でも、以下でもなく、ただ、ただ、それだけ。話せるようなことなんてないんです。もう、お帰りなさい。そうして、ご飯を食べて、お風呂に入って、歯磨きをして、そうしてベッドに潜り込んで全てを忘れてしまいなさい。」

もう、こんな悪夢なんて忘れなさい。

 

それは、きっと優しい声だった。それは、ブチャラティにとって、大人が子供へかける声音そのものだった。

守るための声だった。怖いものから目を塞いで、何も知らなくて良いと、願うような声だった。

だから、だろうか。

ブチャラティは去って行く背中に、不完全燃焼の感情のまま、叫んでいた。

 

「なら、どうしてあんたは暗闇の中に一人でいるんだよ!?」

 

それに彼女の動きが止まった。ブチャラティは自分の言葉にようやく、理解した。

自分は、納得できなかったのだ。

 

 

優しい人になりたかった。

優しいものは報われるべきだと思う。

漠然とした感情はそのままに、薄暗い部屋の中で微笑みながら自分を見送った誰かにだって向けられていた。

 

それは、きっと悪い人なのだ。ギャングとはそういうもので。彼女はきっと、自分のようなものを殺したことだってあるはずだ。

それぐらい、わかる。わかっているのだ。

けれど、ブチャラティの不幸は彼女が作り出したものではない。

誰も助けてはくれなかった。誰にも、助けられなかった。

彼女だけが、ブチャラティを助けてくれた。

この筋書きが、もしも運命というもので、そうして恨むべきも、感謝すべきも神というものであるのだろうか。

いいや、違う。そう、思ったのだ。

だって、彼女は確かにブチャラティのために怒ってくれた。

彼に訪れた不幸を、理不尽を、善人が報われるべきという願いを。

彼女は共に憎んでくれた、怒ってくれた、願ってくれた。

それは、悪い人なのかもしれない。それでも、自分にしてくれたその善意について、彼女は報われるべきだ。

ブチャラティは、思ったのだ。

彼女はいつか、罰せられるべきなのかもしれない。

けれど、暗闇に一人だけ取り残されるのは、あんまりにも報われないじゃないか。

 

「この世に、神がいて。そうして、そいつの書いたシナリオ通りが嫌なら。なら、俺だってあんたがそのまま暗闇の中で、ただ、一人きりなんて納得できない!」

 

ブチャラティはそのまま、一歩彼女に歩みを進めた。

 

「あんたたちに巻き込まれただけだ。そうだ。でも、それでも、あんただけが俺のことを助けてくれた。なあ、なら、あんたはいつ、報われるんだ。」

 

彼女は何も言わなかった、ただ、立ち尽くしてその言葉を浴びていた。

自分は裁かれるべきだ。人を殺したその瞬間、自分は境を超えてしまった。名もつけられない、けれど、どこかで境を超えてしまった。

このまま生きてはいけないのだ。だって、だって、もう、父と同じ方向には行けない。超えてしまった境を戻ることはできない。

 

「一人でそこに行かないでくれ。なあ、あんただって、俺がこちら側だっていうんなら。あんただってそうだろう。罪があっても、それでも、あんただってこっちに。」

 

自分に何ができるというのか。その女を救う術なんてわからない。けれど、それでも、ブチャラティは納得ができなかった。

たった一人で、暗闇の中に、あんたは残るのか?

自分は、ここで笑っているのに。

どうすれば良いのかなんてわからない。ただ、ただ、ブチャラティはそのまま女に手を伸ばそうとした。

その腕を掴もうとした、その瞬間。

 

「お願いです、黙ってください!」

 

叩きつけるような声に、ブチャラティは動きを止めた。思わぬそれに、ブチャラティは彼女を見上げた。

辺りは、いつのまにか暮れかけた日に染まっている。振り向いた先女はぎこちなく、笑っていた。へしゃげた口元に、こわばった顔。

ブチャラティは、無理矢理に笑みの形を取った顔で、なんとなく女が泣いている気がした。流せもしない涙を幻視した。

 

「それ以上、私に正しさを願うのはやめてください。」

どうしようもないんです。もう、私は、どうしようもないんです。あなたでは、私に何もできないんです。

 

震えるようなかすれた声で、女は自らの胸元をつかんだ。

 

「帰りなさい。もう、私の前から、消えてください。」

「俺・・・・」

「もう、やめて!」

 

その時だ、ブチャラティはすっと浮遊感に襲われた。そうして、反転した視界で自分の体が吹っ飛ばされたことを自覚した。

 

(何が?)

 

目の前にはポリプスしかいない。誰も自分の体に触れていないというのに、吹っ飛ばされた事実にブチャラティはだらりと冷や汗をながした。

自分にとって理解のできないことが起こっている。その、未知に彼は恐怖を覚えた。

その時だ、動揺をしている彼にまた、叩きつけるような声が被さった。

 

「自分の立場がどれほど幸福か、わからないんですか?選択肢を与えられている自分の身が、どれほど幸福なのか!甘ったれるな!弱いあなたじゃ誰も救えやしないんだ!私は、あなたが羨ましい。でも、もう、どうしようもないんです。あなたじゃ、終わらせられない。あなたは、私の運命じゃない!」

 

意味がわからなかった。それでも、女は赤い瞳でじっとブチャラティを見ていた。ぎらぎらと、空虚と怒りを孕んだ、赤い瞳がぎらぎらと自分を見ていた。

 

「帰りなさい!!二度と、私の前に姿を現すな!全て忘れて、そのまま弱いまま、生きて死になさい!もう、二度と、ここに来てはだめ。」

 

ブチャラティは女の剣幕と、自分に起こった事への恐怖のままに走り出した。

振り返ることもできず、そのまま来た道を走り出した。

夕焼けが、ブチャラティを追いかけるように照らしていた。もう、帰る時間だと、終わってしまう時間だと、せかしているようだった。

ブチャラティは意味もわからずにただ、走るしかない。

パニックになった思考のまま、ブチャラティは走っていたがけれど我に返って立ち止まる。

すでにそこそこの距離を走ってきてしまった。

 

(どうする?)

 

走ってきた道を振り向いた。すでに、彼女の姿は見えないほどに遠くまで走ってきた。

まだ、いるだろうか。もう、いないだろうか。

ブチャラティは走ってきてしまったことへの罪悪感が腹の中でもたげていた。一歩だけ、道を戻ったけれど立ち止まって夕日に照らされた道を見る。

人影はない。しんと静まりかえった町中は、まるでどこか知らない世界に迷い込んだかのようだった。

 

(戻って、どうする?)

 

ブチャラティは見ていた。自分に何ができるというのか。

それは、その通りだった。

たとえ、助けたいと願ったとしても何をできるというのだろうか。

どうしようもないと、そういった。それは、その通りだ。

ブチャラティは、彼女の怒りを思い出す。

帰りなさいと、そういった、そこにあった怒りは確かにブチャラティのための怒りでもあった。

二度と、来るなと。ここに来てはだめだと、そういった。

彼女はブチャラティのために、そう言ったのだ。怒っていたのだ。

その時だ、その時。

ブチャラティは自分がまるで水に沈むような感触を覚えた。そうして、その後に、自分の視界が暗闇に包まれた。

 

 

「な、なんだよ!?」

 

ブチャラティは思わずそう言った。

辺りは、空も地面もない、ただ闇が深まるそこは浮遊感もない。水の中にでもいるような感触だった。

そうして、ちょうど、ブチャラティはある方向からは光が差していることに気づく。ちょうど、海に潜った折水面から光差すようだった。

そうしていると、ブチャラティは自分の足を何かがつかむような感触を得た。そうして、すごいスピードで引っ張られる。どこに連れて行かれるのかもわからない。ただ、遠くに、引きずられる。

 

「な、なんだよ!?」

 

絶叫をブチャラティは響かせれば、ばさりと顔に何かが張り付いた。それは、何かのノートの切れ端だ。それに、沈黙という言葉が書かれていた。

 

「どういう・・・・」

 

そうして、突然足をつかんでいた力が消え、ブチャラティはある光の下に放り出された。

ブチャラティは思わずその光の中をのぞき込んだ。

そこには、ポリプスがいた。

 

「え?」

 

ブチャラティはポリプスをまるで地面の下からのぞき込むような角度で見上げていた。彼は自分がどんな状態なのか混乱する。

 

(そういえば、この光、ベンチの形をしてる・・・)

 

そこでブチャラティは、ふと、光の形がまるで木の葉のような形をしている事に気付いた。周りを見ると、光の形は何かの影のような形をしていた。

ブチャラティは自分が影の中にいるのではないかという、不可思議な考えが浮かぶ。

ブチャラティはそこまで考えて、なんとか助けてもらおうとポリプスに話しかけようした。

口を開いたその瞬間、べしりとまた顔に何かが張り付いた。

引き剥がしたそれは、やはりノートの切れ端で。

 

沈黙せよ、破れば理解はできるだろう。

 

簡素なメッセージに固まるブチャラティに、上から声が聞こえてきた。

 

「・・・サバス?ねえ、いないの?」

 

それがポリプスの声であることに気づくのに、少しだけかかった。あの声はあんまりにも幼い声だった。

ベンチに座ったポリプスがそう言っていると、彼女の肩からずり落ちていた明らかにサイズの合っていないコートが独りでに動き出す。

それは、ベンチからふわりと動き上がり、ポリプスの前で揺れていた。

滑稽な言い方ではあるがその様はまるで透明人間がコートを着ているようだった。

ふわりと、ポリプスは揺れるコートを見ていた。

 

「あの子は、帰ったでしょうか?」

 

ポリプスはぼんやりとした声で、呟いた。

 

「・・・ねえ、私、間違ってなかったですよね?だって、だって、あの子は、何も悪くないから。だから、これで良かったんですよ。たとえ、運命でも。ええ、そうだ。きっと、正しかったんです。だって、私はこれで運命を、筋書きをねじ曲げたんですから。だから、これで、きっと。」

 

夕日が、彼女を照らしていた。茜色に染まった中で、そのコートは片手を後ろで組み、そうしてもう片方の手を彼女に差し出した。

 

「踊りたいんですか?」

 

ポリプスがそう言うと、透明なそれは彼女の手を引っ張って、そうして立ち上がらせた。

そのままに彼女の腰に手を回して、そうしてそのままくるりとターンをした。

広場の中で、スーツを着た女と透明な誰かが踊り出す。

ブチャラティはそれを下から見ていた。コートと女の影の中で、それを見ていた。

それは端から見れば、できの良いパントマイムのようだったけれど。

そうではないと理解ができたのは女はくるりと踊る中で、ささやくようにずっと何かを言っていた。

 

あの子は帰れたでしょうか。

ええ、ええ、きっと帰ったはずです。だって、こんな地獄を誰が望むんでしょうか。

ねえ、サバス。私、八つ当たりをしてしまいました。

大人げないですが。でも、仕方がないじゃないですか。

だって、だって、あの子は私の望むものを持っているのに。

 

「私だって、ヒーローに訪れて欲しかったなあ。」

 

子供のように無邪気な声だった。そうして、まるで全てを諦めたかのような諦観に包まれていた。

くるり、くるりと、彼女は踊っていた。それが、何というものかはわからないけれど。それでも、彼らは本当に楽しそうに見えた。

なのに、どうしてだろうか。

 

(なんで、こんなに悲しくなるんだろうか。)

 

「ねえ、サバス。もう、あと数年ですね。あと、数年で、私の運命がやってくるんです。そうしたら、ハッピーエンドです。素敵ですね、とっても、素敵ですね。そうしたら、私はね。」

ちゃんと死ぬんですよ。

 

ブチャラティはその言葉に固まった。だって、そんなことを言うには、あんまりにも彼女は清々しく笑って、子供が遊ぶ予定を語るように弾んだ声をしていたから。

だから、ちぐはぐとしたそれに固まってしまった。

 

「ええ、ええ!大丈夫、きっと、変わる事なんてないんです。みんなが明日を生きるんです。そうしたら、やっと、私は死ねるんです。ようやく、この罪を償える。罰を与えてもらえるんです。だから、ええ、よかったんです。あの子の犯す罪ぐらい、私が背負っても変わらない。そうでしょう、サバス?」

 

子供がはしゃぐような、甲高い声が広場に広がって、ブチャラティの耳に届いた。

彼女はそのまま、透明なそれを引きずるように、でたらめに踊り出す。不格好なステップで、まるで馬鹿騒ぎのように声を立てていた。

 

そうしたら、ねえ。

あの子たちだって大丈夫。きっと、私以上に価値を認めてもらえる。

メローネは少々どぎついけれど、探究心のある優秀な子です。ギアッチョも、真面目で実直な良い子です。イルーゾォは少々自信がありすぎるけど、できる子です。ソルベとジェラートも変わってるけど、能力だって高いです。

プロシュートは、ちょっと粗暴ですが誠実な子です。ホルマジオも、あの人には助けられてばかりで。

 

つらつらと、彼女は誰かのことを語り続ける。まるで、己の子を自慢する母のように、誇らしそうに、愛おしそうに。

 

「カラマーロなんて、本当にすごい子ですよ。文武両道で、自慢です。そうして、ねえ。リゾットは。」

 

そこまで言ってから、彼女は動きを止めた。そうして、じっと、透明なそれのおそらく顔を見ていた。

 

「りぞっとには、しあわせになってほしいなあ。」

 

いい人なんです。ねえ、だって、そうでしょう。正しさのために、彼は手を汚したんです。だから、だから、ねえ。私が死んでも、幸せになって欲しいんです。

え?

ああ、そうですね。だから、私はブチャラティを助けたいと、そう。リスクを冒してまでも、そう、思ったのかもしません。

 

「私は、死にたくなくて手を汚したけれど、誰かのために、手を汚すほどの覚悟を持った誰かを、美しいと、そう思って。」

 

赤い夕日が彼女を照らしていた、真っ白な頬を赤く染めていた。そうして、そのままコート袖をつかんで下を見た。

そのせいで、ブチャラティからは彼女がどんな顔をしているのか、よく見えた。

歯を食いしばって、目を見開いて、そうして、頬にたれた滴に夕焼けが反射していた。

 

「しにたくないなあ・・・・・」

 

かすれた声を、ブチャラティだけが聞いていた。

その涙を、彼だけが見ていた。少年だけが、それが流れるのを見ていた。

 

透明なそれは、彼女のことを抱きしめた。彼女はそれに、すがりつくように抱きついた。そうして、ぐずぐずと鼻をすする音が聞こえた。

 

「しにたくない。しにたくないんです。罪が怖くて、もう、生きることだって億劫なのに。それでも、幸せだって思うと、どうしても生きていたいって、そう。」

 

彼女は、幾度も、死にたくないと繰り返した。

生きたいと、幸せになって欲しいと願った誰かの生を見ていたいと、そう言葉を吐き続ける。

 

それでも、ねえ。

私の生で、たった一つの地獄で、誰かが地獄に落ちないなら。それでも、星を見上げたまま綺麗なままであるなら、私一人が泥に沈むだけが対価ならきっと、おつりが来ますよ。それだけが、私に残された救いでしょう。そうです、そのはず、なんです。

 

「怖い、あの人が怖い。私の正しさで、決まった結果が崩れ去るのが怖い。怖い、ねえ、サバス。私、ちゃんとできていますよね。ねえ、あの運命はきっと変わりませんよね。ええ、大丈夫、役者の欠員ぐらい埋めてみせます。運命が、やってきたら。風が吹いたら、私、死ななくちゃ。そうじゃないと始まらないから。悪は栄えるから、私は、悪だから。でも、しにたくないなあ。」

 

ブチャラティは、彼女を見ていた。こぼれ続ける、涙を見ていた。

 

「・・・・ねえ、ねえ、それでもね怖くはないんです。だって、ねえ、あなた。もう一人のあなた。死ぬときだって、一緒でしょう?」

 

彼女はあらん限りの力で、その透明な何かを抱きしめた。軋むほどに強い力で、抱きしめた。

 

「ブラック・サバス。ごめんなさい。でも、ありがとう。あなたがいるから、怖くないんです。あなただけは知っている。ねえ、誰にも言わないでくださいね。だって、あんまりにも情けなくて、醜すぎるんですから。」

 

 

彼女は、ぼたぼたと涙を流していた。夕焼けが、彼女を照らしていた。赤い夕焼けが、まるで安っぽい悲劇を照らすように、輝いていた。

 

ねえ、あなただけは赦してください。私のことを、どうか、赦してください。あなただけは、知っていてください。

ブラック・サバス。

すいません、私と一緒に死んでください。あなただけは、おねがいです。

 

「最期まで、一緒にいてください。」

 

ブチャラティは、その声を聞いていた。頬を流れた涙は、ぼたぼたと、彼のそれをぬらしていた。

 

「赦してくれますよね!だって、あなたは私のものだから。あなただけは、私だけの。私を赦して、私の、味方だから。だから、知っていて。」

私の弱さと、私の愚かさを。ブラック・サバス、あなただけは。

 

ブチャラティは、ぼたぼたと涙を流していた。

泣くことしかできなかった。何を言えば良いのかもわからずに、ただ、泣くことしかできなかった。

 

ブチャラティは、女の言うことの意味なんて欠片だってわからない。

女の言う、運命も、終わりも、死ななければいけない理由も欠片だってわからない。

 

(それでも、死にたくないと、そんなことでさえも言えないのは。)

 

たった一人、虚空にだけ真実を語るしかないのは、涙さえもろくに流せないのは。

ぼんやりと、ただ、思う。

 

(それは、悲しいことのはずだ。)

 

たくさんのことがわからなくて、意味がわからなくて。

それでも、それが悲しいということはわかるのだ。それを悲しいと思わなければ、なんだかやりきれないじゃないか。

その女の孤独の上に、己の安寧があるのなら。その女の嘆きの上に、自分の幸福があるのなら。

 

ブチャラティは気づけば、自分が立ち止まった場所にぽつんと立っていた。ブチャラティは、ぼたぼたと流れる涙に反射して、まばゆいまでの光で視界が満たされる。

赤い、光で視界が潰される。

かさりといつの間にか握り込んだノートの切れ端に目を向けた。そこには、目新しくメッセージが書かれていた。

 

望まれるのは、沈黙のみ。

 

ブチャラティは、それに、なんとなしに理解した。

自分は選択肢を与えられているのだと。

このまま、あるべきところに逃げるのも。このまま、己の沈黙を保ち続けるのも。

自由だ、そうだ、自由なのだ。

先ほど聞いたこと。

それを、黙っていれば、それでいい。

夕焼けが、自分を照らしている。

帰ろうと、もうおうちに帰ろうと。

さあ、お父さんが待っている。このまま、宿題をして、温かい食事を取って。そうして、温かなベッドに潜り込んで。

帰ろう、帰ろう。誰かが、頭を撫でているようだった。

赦されている。自分は、きっと赦されている。

このまま、安寧のままに惰眠をむさぼり、そうして一生を終えることだって。

そうだ、赦されている。

 

 

本当に?

涙が流れている。ぼたぼたと、まるで幼子のように泣いている自分がいる。

弱いままに、生きて死ね。

彼女はそういった。彼女は、怒っていた。

あれは、彼女のための怒りだった。けれど、それと同時に、あれはブチャラティのための怒りでもあったはずなのだ。

彼女は、ブチャラティの幸せを願ってくれていたのだ。

ぐいっと、ブチャラティは乱雑に涙を拭った。情けなくたれた鼻水をすすった。

 

自分の身に起こったことの意味は、わからない。わかりなんてしないけれど。

それでも、沈黙だけが望まれているのなら。

彼女の血を吐くような、醜さを墓場まで持って行くことだけが望まれているのなら。

ブチャラティは赤い夕日を睨んだ。

くれていく、夕日を見た。

それは、女の赤い瞳に似ているような気がした。

 

 

「・・・・やっぱり来たのか。」

 

プロシュートは、以前彼を見つけたギャングのアジトになっている建物の前にいた。彼は、出入り口の数段だけの階段に腰をすえていた。

ブチャラティは彼の前に立った。

赤くなった、乱雑にこすった目元にプロシュートは眼を細めた。

 

「俺に、仕事をくれ。」

 

プロシュートは、それに頭をがりがり掻いた。

 

「その言葉の意味、わかってんのか?」

「わかってる。わかってるから、俺はここにいる。」

 

プロシュートは、それに少しだけ沈黙した。そうして、おもむろに口を開ける。

 

「てめえが会った、メデューザっていただろう?あいつにゃな、年の離れた妹がいるんだよ。」

 

突然の話題に、ブチャラティは思わず顔をしかめた。

 

「良いから聞けよ。そんでな、その妹ってのがそりゃあ病弱でな。つって、あいつの家自体がろくでもねえ。そんで、妹のために金を稼ごうとギャングになったんだよ。」

 

まあ、金がある程度は稼げたんだ。頭が悪いわけじゃねえ。ただ、妹の病状がよくなることもなくってよ、もっと金が必要になっちまって。挙げ句の果てにうちの荷物にまで手を出したんだよ。

あとは、わかるだろ?

殺すはずだった。死ぬはずだった。

だがな、あいつは生きている。

 

「あの馬鹿が、生かしたんだよ。」

「それで?」

「その後は、お察しだろ。忠犬兼駄犬兼、狂犬のできあがりだ。」

 

プロシュートはゆっくりと、地面の方に視線を向けた。やたらと長いまつげが日の中で揺れていた。

 

「あいつはな、妹には二度と会えない。せいぜい、手紙で近況を知るぐらいだ。俺たち側になるって事はそういうことだ。それでも、そうする理由があいつにはあった。あの馬鹿は、足を洗っても良いと言いやがった。本心からだ。」

てめえにはあるか?

 

プロシュートは、最初にあったときと違うひどく静かな声でそういった。

それに、ブチャラティはゆっくりと瞬きをする。

 

「優しい人になりたかった。父のような、優しい人に、なりたかった。」

 

プロシュートはそれを黙って聞いていた。肯定も、否定も、彼はしなかった。

 

「優しいものは報われるべきだ。安寧の中で終わるべきだ。白と黒の間には境がある。なら、踏み越えなかったあり方は尊ばれるべきだ。」

 

けれど。

ブチャラティは、女のことを思い出す。夕日の中で、人ではない何かと踊っていた女を思い出す。

 

「このまま、昔と同じように生きていくことが正しいんだ。当たり前だ。その境を越えないことこそが、正しい。」

 

ああ、けれどだ。けれど、暗闇の中で女が立っている。自分を見送る、女のことを思い出す。

 

「それでも、“正しいこと”だけが正しいと俺は思いたくない。」

 

自分を助けた彼女はきっと悪い人だ。当たり前だ。けれど、それでも、優しい人だ。彼女だけが自分を助けてくれた。彼女だけが、子供でありなさいと頭を撫でて守ろうとしてくれた。

 

神様、神様、教えて欲しい。

悪党は裁かれるべきだ。けれど、それでも、悪党のなした善行はことごとく無視されるべきなのだろうか。

あの優しい人が、地獄に落ちるとしても、笑いながら死ぬなんて。その日を、一人で待ち続けるなんて。

あんまりにも、報われないじゃないか。

この選択は間違っている。それでも、思うのだ。

優しい人になりたかった。けれど、自分の思う優しい人はきっと、あの女を一人で暗闇に残したりはしない。

いつか、いつか、地獄に落ちるとしても。惨めに死ぬしかないとしても。

 

「あの人は、俺に誠実であろうとした。何も知らない、無知なる誰かへの、その清廉さに誠実であろうとした。あの人は、俺の味方であってくれた。」

 

組織に入ることは間違っている。けれど、ブチャラティはそれ以上に思ったのだ。

どうか、どうか、あの女の幸福を守りたいと。あの日、自分の幸福を。取るに足らない誰かの幸福を守ろうとした女のそれを。

あの人の幸福をせめて守りたいという正しさを、ブチャラティは選んだのだ。

 

「だから、俺は選ぶ。選択肢を与えられたからこそ、俺は選ぶ。あの人のために働きたいと、そう願う。」

 

青い瞳が、ブチャラティを見ていた。冷たくて、炎のように燃えさかる瞳がただ、見ていた。

プロシュートは重いため息を吐いた。

 

「・・・・どうせ、俺が断ろうがほかのところに行くんだろう。」

 

それにブチャラティはうなずいた。プロシュートは頭をガリガリと掻いてため息をまた吐いた。

 

「・・・・いいか、一つだけ言っとくぞ。」

「なんだ。」

「あいつに、何かを返せるなんざ考えるな。何も、望んでなんざいねえんだよ。だから、だ。くそガキ、てめえがこのまま生き残って、誰かに何かを与えてやれるようになった時は。てめえと同じように、どこにも行けねえくそ野郎にそれを与えてやれ。」

それが、きっとあいつが一番望む結果になるだろうよ。

 

ブチャラティはそれにこくりとうなずいた。それにプロシュートは頷いて、ゆっくりと立ち上がる。

「ついてこい。てめえの世話は俺がしてやる。」

「わかった、兄貴。」

「・・・・・カラマーロの気持ちが、少しはわかるな。」

「何がだ?」

「いや、なんだ。別に、そう呼ばなくて良いからな?」

 

プロシュートはそうぶつぶつと言った後、改めてブチャラティを見た。

 

「・・・・ともあれだ、ブローノ・ブチャラティ。」

地獄へようこそ。

 

皮肉交じりのそれに、ブチャラティは悲しそうに微笑んだ。

 

「気にしないでくれ。俺の手なら、とっくに汚れてる。どうせ、地獄行きだ。」

 

肩をすくめた彼に、プロシュートは皮肉気にあざ笑った。この世は地獄だと。

そのまま、ブチャラティは彼の後を追っていく。

 

父親への別れは済ませた。彼は、悲しんで引き留めたけれど。最後はその選択に頷いてくれた。嫌な話だ、納得なんてしてはいない。けれど、それでも、無理矢理にそれを押し通してしまった。

ごめんなさいと、幾度も謝った。それでも、この選択肢をとらなければブチャラティの心は少しずつ死んでしまう。少しずつ、終わってしまう。

 

(返せるなんて、考えてない。)

 

ブチャラティは知っている。終わるだけが望みだと、夕日の中で泣いた女を、知っている。

だからこそ、彼は願うのだ。

もしも、死んでしまうと言うならば。それこそが正しいというならば。

自分だけは側にいよう。その命がつきる、瞬間まで、ただ、ただ、側にいよう。

その最期まで、寂しくないように。その女が死んでも、会いに行こう。

その女の死を看取ること。

それだけが、ブチャラティに返せる恩であるはずだ。

 

 

暗い、カーテンの閉め切られた執務室にて。

黒い髪の女が書類を見つめている。

 

「・・・・ブラック・サバス。」

 

それに、ゆるりと影の中から人影が現れる。そのスタンドは、じっとポルポを見ていた。

 

「用か、主よ。」

「いいえ、用なんてありませんよ。ただ、ああと。」

 

ポルポは執務椅子の上で膝を抱えて、諦観の混じる眼で書類を見た。

そこには、ブローノ・ブチャラティ、ある構成員の情報が書かれていた。

 

「運命が変えられたなんて、そんな夢みたいな話ですね。」

 

筋書きなんて、変わるはずがないのに。

 






すいません、丈太郎さんの方が難航しておりまして。
以前書いたブチャラティの話の続きになります。
話の順番に関しては考えます。

蛇足として、
影は案外確信犯だったり。

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