自分の体が存在するという感覚が、全くなかった。
手も。
足も。
服の感触を感じるはずの肌でさえも。
なのに、五感は確かに存在していた。
匂いも。
音も。
光も。
むしろ、いつもよりも、鋭敏になっている気さえする。
これは、矛盾だ。
おかしい。
(何もおかしくはないわ)
声がした。ベルベラの声だ。
どこから聞こえているのだろう?
いや、そもそも、私は今、どこにいるのだろう?
(どこでもないわ。私とあなたは今、空間という矮小な概念で語れるような関係性にはいないの。今、私はあなたで、あなたは私なのよ)
意味が分からない。
そもそも、どうして、今こういう状態にいるのだろう。
私が最後に覚えているのは、虹色の卵を破って視界を覆った、モスラと呼ばれる存在の巨大な姿だけだ。
(記憶がショックで混乱しているのね)
そうかもしれない。目の前で父親が自殺して、ショックを受けない人間の方が、きっと珍しいだろう。
と、その時になってようやく気付く。
父が死んで、私は泣き叫んでいたのに、今の私は、心中が穏やかだ。
自分の心に対して、初めて疑問を抱いた。
(何も心配することはないわ。あなたは今、大いなる存在の一部となっているのよ。悲しみや怒りなんて苦痛を感じないのは普通のことよ)
大いなる存在。
・・・・・・モスラ?
(そうよ)
思い出した。
あの時、父が死んだあの地下室で、誕生したばかりのモスラの体から無数の糸が出現して私をとらえ、モスラの中へと引きずりこんでいく記憶を。
私は今、モスラの中にいる?
(少し違うわ。今、正確には、あなたという存在が有していた物理的肉体は、この宇宙のどこにも存在しない。今のあなたは、あなたという存在が存在する前、誕生以前の状態、モスラの一部であった、はるか昔と同じ状態にあるのよ)
……死?
(無知で不遜な輩は、きっとそう呼ぶでしょうね。でも私に言わせれば、今のこの在り方は、死という言葉がまとっている悲惨さとは程遠いわ。だって、こんなにも温かくで、穏やかなのですもの)
それは、認めざるを得ない事実だった。
今、私は、これまでの人生の中で一度も感じたことがないほどの、安心感の中にいる。
何故か、懐かしい感覚があった。
ずっと昔、確かに私は、前にもこんな状態の中にいたことがある。自分を脅かす存在のことなど考える必要さえ感じない、
これは、きっと、そう。
(母親の胎内にいた時と、同じ感じでしょう?)
そうだ。
でも、なんで?
なんで今、私はこういう状態になっているのか、わからない。
私が、「モスラの巫女」という存在だから?
(そうよ。モスラに選ばれた存在として、真っ先に、その慈愛に包まれる幸福を与えられたの)
真っ先に?
じゃあ、ほかの人たちも?
(ええ、全人類が、そう遠くない未来に、今の私たちと同じ状態に置かれることになるわ。そのために、今モスラが行っていることが、あなたにも見えているはずよ)
その通りだった。
こうやって、コミュニケーションを行っている間も、私には、今地球という星で起こっている出来事が、ずっと見えている。聞こえている。嗅げている。
映像のように、一つの画面の中で、一部の場所で起きている出来事を、見ているようなのとは、根本的に違う感覚として。
私は今、地球のすべての場所で起こっている出来事を、視野というくくりさえ放棄された状態で、見ている、聞いている、嗅いでいる。
感じている。
最初に聞こえるのは、悲鳴。
逃げ惑う人たちの、悲鳴。
無数の悲鳴。
彼らは、限界まで足を酷使して、都市を貫く道を走り続けて逃げ続けている。
何から、逃げている?
モスラからだ。
都市の大地を這い、立ちふさがる建造物を、車を、その巨体で押しつぶしながら進撃するモスラからだ。
銃撃が聞こえる。
兵士たちの放つ銃弾の音だ。
それはモスラの皮膚に当たる。
だけど、モスラの肌に対して、傷の一つもつけることはできていない。
兵士たちもまた、モスラによって、押しつぶされる。
会話が聞こえる。
「全滅だ! 全滅だ!」
「さようなら、お母さん!」
「いやだ、死にたくないいい!」
「逃げろ、逃げるんだ!」
飛行する戦闘機が見える。
モスラと同じように、キャタピラで道路を這う戦車が見える。
爆発。
都市の空に、激しい爆音と、爆炎と、黒煙が彩りを与える。
だけど、どんな種類の攻撃も、モスラには効果がなかった。
「ごめん、わたし、もう、むりかな。ほっといて、先に行ってくれない?」
「パパー!、ママー!」
「息子が、息子があそこにいるの! 行かせて!」
「あきらめろ! もう手遅れだ!」
「この恩知らず! 私を置いていくのか! 待て! 待てええ!」
「もうすぐお父さんのところへ行けるのよ、行けるのよ・・・・・・」
「お前も道連れだあ!」
「みなさん、この放送ももうおわりです。さようなら、さようなら・・・・・・」
男性。
女性。
子ども。
お年寄り。
いろんな人たちの、色んな姿が、私には見えてしまっていた。
いろんな叫びが、色んな怒りが、色んな悲鳴が、聞こえていた。
スーツを着て、綺麗な部屋の中にいながら、叫んでいる人たちの姿が見えた。私はその人たちを、テレビで見たことがあった。
「国民などどうでもいい! 私を優先的に助けるんだ! お前らはそれが任務だろう!」
遠く離れた国の光景でさえ、私には認識することが出来た。大統領、と呼ばれている年配の男性が、電話を通じてだれかに命令をしていた。
「黄色いサルどもが何匹死のうが構わん。あの化け物を確実に殺せるように、ありったけの核をトウキョウに打ち込むんだ! わかったな!」
東京の空に、大きな音とともに、不思議な形の雲が、生まれた。
キノコ雲だ。
かつて、この国で二つの町の空に生まれた雲の形を、私は写真で見たことがあった。
その雲の下でも、モスラは生きていた。
生きて、這い続けた。
大地に降り続ける黒い雨に濡れながら、這い続けた。
都市の残骸を、その巨体で押しつぶしながら。
方々で聞こえる、弱弱しい生存者(のこりかす)の声を、BGMにして。
モスラは、這い続けた。
何を、目指して、モスラは這い続ける?
その答えは、その進路にあった。
東京タワー。
その、東京という都市を象徴する赤い塔は、核の洗礼を浴びてもなお、ぼろぼろの肉体を、世界にさらしていた。
モスラが、やってくるまで。
モスラは、その巨体を、東京タワーに絡みつかせ、上り始めた。
ゆっくりと。
(天に届かんとする塔は、人の傲慢さの象徴よ。唯一の神がそれを打倒すのは、当然のことだわ)
ベルベラの、言葉と共に。
東京タワーは、モスラの重量に耐え切れず、崩壊した。
生じた土煙が、世界を一瞬、その色で覆う。
後に残ったのは、無残に散らばる東京タワーの残骸と、そこにたたずむモスラのみ。
今、モスラは動きを止めていた。
卵を壊してこの世界に生誕してから初めて、モスラは動きを止めていた。
頭部の大部分を占める大きな二つの眼が、世界(はいきょ)を見つめる。
その体から、白い光が生まれ始めた。
黒い、土のような肉体から生まれていく、無数の輝き。
その輝きは、糸だった。
巨大で、長い、糸。
それは徐々に量を増やしていき、ついにはモスラの全身を覆った。
モスラの肉体が、徐々にその姿を隠していく。全身から出てくる輝く光に包まれていくとともに。
そして。
かつて、東京タワーと呼ばれる塔が存在した地に、巨大な白い塊が、鎮座した。
それは、蛹だった。