TwitterのFFさんからラストシーンの原稿を受け取って書いたものです。感謝を。
挙式の日取りが決まった。
◇
窓の外の鳥の鳴き声で、自分の手元が陽に晒されていることに気がついた。
ここ最近で白くなった肌がやけに白く見える。
カーテンを閉めようと思ったけれど、たまたま太陽を見てしまって目が眩む。
カーテンに伸ばしていた手で反射的に陽を遮ると、指と指の間が赤く染まった。
細めていた目を再び開くと、先程まで鳴いていた鳥が何処かへと飛び去っていくのが視界に映った。
「……もう」
左手人差し指を栞代わりにしていた文庫本。
他の指で挟んでいた栞で丁寧に閉じる。
押し花の栞が飛び出している。
中に閉じ込められた花は枯れることはない。
西日が強くなったということは、もうかれこれ二時間ほど字を読んでいたことになる。
「もう、こんな時間だったのね」
特に動こうという気持ちにもならなかったので、そのまま椅子にもたれ掛かる。
日に焼けると言われるが、私は元々陽の元が好きだ。
一〇分くらいなら許してくれる。
そして、大体一〇分くらいなのだ。
「……ああ、暑いわ……」
振り子時計の秒針が緩やかに時間の移ろいを示し、じわり、じわりと、陽の熱は体を侵していく。
五月も半ばに差し掛かるこの頃は、もう夏と言っても差し支えないほどに暖かい。
一〇分程といいながら、僅か三分ほどで椅子から立ち上がる。
ああ、暇。とっても退屈。
けれど待たなきゃいけない。
待たなきゃ、彼は迎えに来ないのだから。
ふらふらと、私一人が生活するには大きすぎるほどの部屋を歩き回る。
以前よりも随分と小さくなった足音にも慣れた。
二人、あるいは三人でも入れそうなベッド。
友人の来客用にと整えられたテーブル。
つい数ヵ月前に買ったばかりの、窓際のロッキングチェア。
そうして、窓から一番遠い部屋の一角。
小さな、小さなダークブラウンの机。
いつも陽の光が当たらないそれは、この時期にあってもひんやりと冷たい。
小さな机ゆえ、乗っている物は少ない。
数本のペンとそれを納めるペン立て。
それと、たった一枚の招待状。
数日前まで何十枚とあったそれは、今テーブルの上に散りばめられているこれだけしか残っていない。
そのこれだけが、全く進まないのだけれど。
ふと思い立ってペンを取る。
小さなペン立ての中で、カラカラと音を立ててペンが揺れる。
十分にインクが乗ったペンを持って。
そこで止まってしまう。
なんと書けばいいのだろう。
本当は、送る招待状は少しだけが良かった。
じっとテーブルの前に腰掛けたまま、数秒だけ秒針を意識して、また意識を招待状に戻す。
そんなことを繰り返していた。
コン、コン、コン。
リズムの整った三回のノック。それからきっちり二秒。
ああ、もうそんな時間。
「お嬢様、いらっしゃいますか」
落ち着き払った声の、家の黒服では一番若い人。
私の傍についてから、一年程になる。
「ええ、いるわ。入っていいわよ」
「失礼いたします」
返事からもきっちり二秒。
彼はいつも、私の返事を聞いてから行動をする。
ガチャリ、とドアノブが回る。
ダークブラウンの木造のドアが、軋むような低い音を立てて開いていく。
扉の端から覗く、よく見慣れた黒服とサングラス。
段々と光を帯びて彼の肌が明るくなる。
丁寧に、静かに扉を閉める。
その顔がこちらに向き直ると同時に、私も彼の方を向く。
真っ黒なサングラスのせいで、相変わらず表情は読めない。
そのうち、彼は私に一歩も近づかないまま声を掛けてくる。
そう、大体一〇分くらいなのだ。
「お嬢様、そろそろ庭園のお手入れのお時間です」
貴方が、私を呼びに来てくれるまでの時間が。
◇
彼を傍に連れ立って、玄関の外へ。
個人が持つには大きすぎる広大な敷地。
玄関からゆっくりと歩いて大体二分ほど。
元々は黒服の人たちが手入れをしてくれていたのだけれど、ここ最近は専ら私が手入れをしている。
そうしたいと、お願いしたのだ。
バラに、アヤメに、ラベンダー。その他沢山。
彩り鮮やかに、初夏の花が咲いている。
「あら、新しくバラが咲いてるわね」
「……ああ、赤色だったのですね」
「綺麗」
「お嬢様の、日頃の手入れの賜物かと」
周りに私たち以外の人影は無い。
元々は、彼が一人でこの花たちを手入れしていて、私がそこに加わっただけのこと。
だから、この花畑を歩くときには彼と二人きり。
数少ない、そして短い時間だった。
「一本摘み取って、プレゼントしてほしいくらいね」
「……お嬢様」
「ふふ、ごめんなさい」
貴方は、そういうのを気にする人だったわね。
そう誤魔化して、彼に笑う。
からかえば、困ったように眉をひそめる。
もちろん分かってやっている。
私はとても、我が儘だ。
「ほら、向こうにも行きましょ? まだまだ回ってない場所の方が多いわ」
「……ええ、行きましょう」
軽く跳ねる足音に続いて、規則正しく、硬く響く足音。
時折吹き付ける横風。舞い上がるのは千切れた花弁。
いつも丁寧に洗っている長い髪が、さらさらと風に吹かれる。
風が止むのを待つうちに、チューリップが咲く花壇にまでたどり着いていた。
赤、黄色、白、紫。
彼が丁寧に植えたチューリップが、綺麗に、その色を混ぜ合わせながら咲いている。
振り向いても、彼がさっきと変わらぬ様子で三歩後ろに立っている。
「そういえば、貴方に出会ったのもチューリップ畑だったかしら?」
「……そうですね」
ああ、懐かしい。確か今日みたいな、花が少し揺れる程度の風が吹く日だった。
ちょうど。
ちょうど、一年と少しだけ前だった。
最後の見合いを終えてから、一週間とか、二週間とか。
家にいることが多くなってから、家の周りの、普段は見向きもしないところへ足を運んでいた。
やけに綺麗に咲く花たちに、今までなぜ気がつかなかったのだろうと不思議に思った。
そういえば、もっと目立つところに桜があったのだと思った頃には、その花畑に吸い込まれていた。
─……お嬢様?
目の前に並ぶチューリップをしゃがんで見つめていた。
後ろから掛かった声に気がついたのは、彼が私のことを呼んだ、その三回目のとき。
そのときも、彼は私から三歩だけ離れた場所にいた。
─貴方が、この花壇を?
土を擦ったようにくすんだ手と、その手に抱えられていた如雨露を見て、私はそう聞いた。
─ええ、まさかお嬢様が来られるとは。
声色からして、彼は心底驚いている様だった。
でも、サングラスの奥が見えない。
─とっても、綺麗ね。
指先でチューリップの花弁を弄ぶ。
冷たくて、やけにつるりとしていて、それで少しだけ湿っていたのを覚えている。
彼はまた驚いたように表情を硬くして。
でも私が瞬きをした後には、口元が若干緩んでいるように見えた。
─光栄です。
そう言って、今度はしっかりと笑った。
真っ黒なサングラスの奥が、少しだけ柔らかくなったように見えた。
そんな出会いだったと思う。
やけに彼の姿が焼き付いていたのを思い出す。
それから私はこの花壇をよく訪れるようになった。
桜の咲く日でも、たまには寄るようになった。
部屋で一人だった私に、彼の作る花たちはとても鮮やかに見えていた。
しばらくもしないうちに花の図鑑を買った。
がらんどうだった本棚が、ほんの少しだけ埋まった。
本を読むようになったのも、そのときからだったと思う。
少しずつ、少しずつ。本が並べられていった。
図鑑で見た知識を彼の前で披露する度、彼は驚いてくれた。
それが、おもしろかった。
少しして、彼が私のお側付きになったのには驚いた。
お父様が「彼なら大丈夫だ」と言っていたらしい。
今になって、私は彼の心に居られないのだと、そういう意味があったのだと理解できた。
彼が傍に付くようになって、私が喋ることも変わっていった。
久し振りに電話で話した友人には、変わったね、と言われた。
あの後アルバムを覗いて、私は変わりつつあるんだと理解した。
そうして、半年前。
私の薬指に指輪が嵌まった。
相手は、世界に名が響く大企業だの、街頭で見かけていたチェーン店だのを傘下に置く持株会社の長、その御曹司らしかった。
私が何の反論もせず受け入れたのは、もちろんここまで大切に、自由に育ててくれた両親への恩返しがしたかったから。
かねてより、両親には私は見合い婚をする、と何度も言っていた。
両親は優しかった。
恋だの、好きな人だの、この先まで自由にしてくれようたしていたから。
それでも、両親は優しかった。
お見合いにやって来たその人を一目見て、ああ、優しい人なのだなと思った。
見るからに細いし、どこか気弱だし、けれど会社だとか、私のことついてはやけに熱くなるし。
きっと皆のために頑張れる人なんだなと、そう思えた。
婚約までに時間は掛からなかった。
式を挙げる、というのは私からの願いだった。
個人的な友人を呼ぶのは、彼も同じだった。
大きな式場を取るのに時間が掛かった。
変わったとするなら、ただ視点が高くなっただけのことだと思う。
ただ、世界を笑顔にするために、私が一番近い方法がこれだったと、それだけのことだった。
多分、私は幸せになれる。夢だって、もしかしたら生きている内に叶うかもしれない。
恐れるものは、ただ。
「…………お嬢様?」
視界に光が戻ってくる。
ぼーっとしていたようで、隣から彼の声が響いてきた。
「ごめんなさい、少し考え事をしていたの」
「……体調などは」
「大丈夫よ、式には問題ないわ」
彼の、心配そうな目線が痛かった。
「ねえ」
「はい。なんでしょう」
近い内に、清算が来る。
最後に整えるのはドレスでも、式場でもない。
「式の日、花を送りたい人がいるの」
「……それは」
「一本だけ、いいかしら?」
彼は考えている。
彼は頭が冴える方だった。
そして絞り出すように、言葉を間違えないように、彼は呟く。
「お嬢様の、お好きなように」
「ええ、ありがとう」
にこやかに、ただ笑って、そうお礼を言う。
「感謝されることではありません」
ああ、そう。恐れるものは、ただ。
「水やりも終わりました。戻りましょう、お嬢様」
恐れるものは、ただ、この恋慕。
膨れ上がる心に細く、そして脆く突きつけられた針の一本。
挙式は近い。
ブーケトスは誰が受け取るだろうか。
◇
今になっても、両親に「これで良かったのか」と聞かれることがある。
私がお見合いを希望して、私がこの人と結婚すると決めて、指輪を嵌めたのに。
それでも、両親は「これで良かったのか」と聞いてくる。
ああ、もしかしたら。
見え透いた嘘だと思われていたのかもしれない。
焦る様子が、何かに追われているように見えたのかもしれない。
でも私は決まって、こう言う。
「大丈夫よ、私が望んだことだから」
それはほとんどが真実で、でも嘘にも見える。
お見合いを希望したのも、この人と結婚すると決めたのも、指輪を嵌めたのも、私が望んだことだ。
だから、あの人への愛は真実なのだ。
でも、どうしても。
傍で花の話をする時間が愛おしい。
彼と二人で花の世話をする時間が愛おしい。
あそこまで道を狭めたのに、道外れの彼が愛おしい。
だから、彼への恋も真実なのだ。
この愛とこの恋は共存できない。
私は、恋を捨てることにした。
押し花にはしない。栞にもしない。
忘れるべきページとして、枯れゆくのを待つ。
だから、花を送る。
ただ枯れゆく、ただ忘れゆく想いとして、私が育てた花を送る。
─どうか、このチューリップを枯らしてはくれませんか?
「……これで、いいかしら」
ペンをペン立てに戻す。
ペン立てと中のペンたちがカラカラと音を立てて静かになる前に、手元の紙を覗く。
書けていなかった招待状。最後の一枚。
陽の当たらない机。
暖かく光る電灯が手元を照らして机の上に影を作る。影は呼吸に合わせてゆらゆらと揺れる。
外に響く鈴虫の声と紙の擦れる音だけが、広い部屋に木霊している。
「……最後、やっぱり思い付かないわ」
どうにもぱっとしない出来映え。
やはりと思って、もう一度ペンを取ろうと手を伸ばす。
コン、コン、コン。
ノックの音が聞こえて、すぐに時計を確認する。
ああ、もう一日が終わる時間だ。
それを確認したところで、やっと彼の声が聞こえてくる。
「お嬢様、そろそろ」
「ええ、わかっているわ」
言ってから、しまったと口を押さえる。
相手の言葉を遮るなど失礼極まりない。
「それでは、おやすみなさい」
そんな思考の間に、彼が部屋の前を離れていく音がした。
「待ってちょうだい」
思わず声を掛ける。足音が止まった。
「……何か、ございましたでしょうか」
静かに、部屋の前へと戻ってくる彼。
相変わらず足音は規則正しく、丁寧で。
「大丈夫、すぐに終わることよ」
彼からの返事はない。
私は一度くすりと笑ってごまかす。
ちょうど、彼に訪ねたいことがあったのだ。
「大切な、大切な人に思いを伝えるとき、あなたならどうやって伝えるのかしら」
私の声が響いて、残響が抜けてゆく。
二秒間の静寂。鈴虫の声すら響いていなかった。
「……お嬢様は」
答える彼の声は、いつもよりゆっくりだった。
そう感じた。
「お嬢様は、花に随分と詳しくなられました」
手元には、花の図鑑がある。
本棚に並べられた、最初のそれだった。
「本も多く読まれたようで、さまざまな言葉を学ばれました」
視界の端に映った本棚には、ほぼ一杯に本が並べられている。
私はその全てのタイトルを知っている。
「ですから、だからこそ」
手元のメモには、さまざまな花言葉が並べられて書かれている。
「そのまま、お嬢様の気持ちを伝えればよいのでは、ないでしょうか」
例えることなく、ただ純粋に、お嬢様の気持ちを書くのが、よいと思います。
彼はそう続けて、それきり言葉を発しない。
「……わかったわ。ありがとう」
「お役に立てたのなら、幸いです」
「十分よ。おやすみなさい」
「おやすみなさい、よい夢を」
足音が離れてゆく。
その足音が聞こえなくなってから、私はもう一度ペンを手に取った。
書くのは、一文だけ。
丁寧に封筒にしまい、封をする。
二度とこの封が切られないことを祈って。
◇
「……お早いですね、お嬢様」
硬く封をした手紙と一本のハサミを持って、花壇にいた。
今は朝だ。式場に向けて出発するのはもう少し遅い時間になる。
夏が近いとはいえ、まだ朝は冷える。
こんな時間に外に出るのも初めてだけれど、目はとても冴えている。
遠くで鳴いている鳥の声が、やけに響いて私の耳に届いていた。
「とても早く目が覚めてしまったの。式があるからかしらね」
少しだけ、嘘だ。式があるからではない。
彼は少しも息を切らさずに、私から三歩だけ離れた場所にいる。
私を探すまでもなく、花壇に来たのだろう。
「ね、綺麗ね、やっぱり」
「……お嬢様の、日頃の手入れの賜物かと」
変わらないやりとり。
でも彼の声色はいつもと変わっている。
「もう、送る花は見繕ったのですか」
「ええ、今さっき。元々考えていたから」
今日は霧が濃い。
「ねえ」
これから私は幸せになるのだろう。
式を挙げて、家族を築いて、子供を授かって。
でも、今はその幸せから目を背けていたい。
「これ、受け取ってくれるかしら」
右手に隠し持っていた手紙。真っ白い封筒が、陽に照らされて眩しい。
添えられた黄色のチューリップ。もちろん、色は選んだ。
叶ってはいけない願いの、最後の清算。
白いドレスを着る前に捨て置かなければならない私。
彼は押し黙っている。
「この手紙の封は絶対に切らないで、今ここで破り捨てて頂戴」
「………………」
「開けてしまったら、貴方は私を今ここで拐わなきゃいけなくなる」
お尋ね者として追われるのも、また楽しそうと少しだけ思ってしまう。
それは、絶対にできないこと。
私は、彼にどうか拒んで欲しい。
私は、彼に手紙を読んで欲しい。
身を引き裂く想いは溢れんばかりに。
身を燻る思いは刃の如く。
「こっちのチューリップは、出来れば枯れるまで持っていて欲しいわ」
手紙を破り捨てて、花は枯れるまで。
私の、貴方への恋慕が潰えるまで、消えるまで。
貴方に送る黄色が、貴方に残していく私の欠片だから。
彼はさっきからずっと黙ったまま、三歩先に立っている。
今日も、サングラスの奥は見えない。
最後に彼の目が見えたのは、いつだったかしら。
「……わかりました」
彼は言い、私に近づいた。
彼が自分から三歩の距離を縮めたのは多分初めて。
「どちらも受けとりましょう」
私の手から、手紙と花が離れてゆく。
彼の暖かな指先が近づいて、けれど触れることはなく離れてゆく。
「チューリップの方は枯れるまで、とのことですので、このまま部屋に飾らせていただきます」
彼はそのまま手紙に目を向ける。
「手紙は、破きません」
ああ、それなら。
「貴方は、私を──」
「ですが」
彼が私の言葉を遮るのは初めてだった。
「封を切ることも、致しません」
「……え」
それは、それは。
「私は、お嬢様の想いに応えることはできません」
なんて、卑怯で。
「でも、想いを受け止めることはできます」
なんて、優しい選択なのだろう。
「ですから、私は、お嬢様の想いを抱えたまま、生きていきます」
彼が言いきる頃には、向こうから吹いてきた風が私のワンピースを揺らし終わっていた。
朝の冷たい風。
それに混じって、するりと心に冷たい感触が走った。
唇が震えている。
目頭が熱くなっていた。
「……最後に一つだけ、お願いしてもいいかしら」
「ええ、どうぞ」
彼は優しく答えてくれる。
ずっと。
ずっと彼は、私をお嬢様と呼んでいたから。
「最後に、私の名前を呼んでくれるかしら」
一度だけでも、貴方に。
愛しい貴方に呼んで欲しかった。
ああ、酷く掠れた声だろう。
なんて聞き取りづらい声だろう。
途切れ途切れに混じる嗚咽、涙を堪えようと息を止めるほどに肺は苦しく悲鳴を上げる。
でも、彼は受け取ってくれるのだ。
彼は一度息を吸った。息の音が聞こえるくらいに。
ふわりと口角はつり上がって、そのまま。
「こころさん、ご結婚、おめでとうございます」
ああ、ああ。
涙が溢れる。
視界が揺れる。
思いが、想いが。
溢れて、零れて、地面で砕けていく。
「……行きましょう、お嬢様。そろそろ朝食の時間です」
彼の温もりが離れていく。
想いが離れていく。
ああ、手紙を受けとるとは、なんて優しくて、彼らしくて。
なんて残酷な、仕打ちだろう。
想いは消えない。
彼が手紙を持ち続ける限り、私の想いはそこにあり続ける。
貴方が私に残してくれたものは、あまりにも暖かくて、尖りなど一つも無くて。
だからこそ、私は貴方を恨めなくて。
ここまでの充足感を得ていた自分に腹が立って。
──振られた時にチクリと刺さった、あなたからの冷たい針。
それだけでは、心の
それだけでは、心に穴を空けるには脆すぎた。
──針じゃ、死ねない。
──針じゃ、
「ねぇ、私を殺してよ」
──涙と共に、言葉は砕けた。
さようなら。もう、もう夜だから。
──身を焦がす陽は、もうどこにも見当たらない。