あの夏、確かにあなたはここにいました。



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どこにでもあるような夏の一日、あなたはそこにいた。

「あっついな……」

 

 

 

 

 

 八月ももう終わりだというのに、やけに暑い。デパートなんかで飾られてあるテレビでは、やれ猛暑だやれ熱中症だなどと言っているが、びっくりするほどに実感がわかない。これも何かの病気なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 そんなしょうもない考えを振り捨てるように、空を見上げる。ギラギラと光る太陽を隠すように、夏の終わりを感じさせない入道雲が、もくもくと僕らに襲いかかろうとしていた。

 

 

 

 

 

 手にずしりと感じるアンプの重みを確かめながら、僕は人々が行き交う道の端っこに座った。

 

 

 

 

 

 

 

 ここは四条大橋の端、絶えず足を止めることなく歩いていく人々からはぐれた者達の憩いの場所である。

 

 

 

 

 

 比較的涼しい木陰に座った僕は、背負っていたギターをアンプに繋ぎ、音を確かめた。

 

 

 

 

 

 

 

 夏のじめじめした空気をギターの音が切り裂く。その残響に、信号を待っていた数人が振り向いたが、すぐに信号が青になり歩いていった。

 

 

 

 誰も見向きなどしない。だが、それでいい。目を閉じ、集中力を高める僕の耳には、何の音も入って来ない。

 

 

 

 

 

 人々の話し声、革靴が地を叩くどこか心地よい音、信号の向こう側で何かを叫んで宗教勧誘をしている若者達。

 

 

 

 

 

 

 

 全てを切り離した僕は、徐に目を開き、ギターを弾き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 喧騒を切り裂き響き始めたギターの音色に、多くの人がちらりと横目で見ていくが、すぐに何も無かったかのように目を元に戻す。しかしその中の数人は、立ち止まって僕のギターを聞き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 予めセットしていたマイクに近づくと、僕は、あの空に漂っている入道雲にまで届くようにと願いを込めて、歌い始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーー別あなたを愛していたわけじゃない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーーそれでも、何故かあなたに会いたいんだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーーこの気持ちはなんだろうか……それがわかる頃には、もうあなたの事など忘れてしまっているのだろうか

 

 

 

 

 

 

 

 ーーー今でもまだ、あなたのことを思っている。別にあなたは僕のことなどどうも思っていないのだろうけど

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーーあなたは気にしなくてもいいんだよ。これはただの、僕のひと夏の間違いなんだから……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーーそれでも、ふと僕のことを思い出した時に、歌って欲しいんだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーー君を忘れられない、愚かな男へのアンサーソングを……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 柳の木の葉が作り出す斑模様を肌の上に描きながら、僕は歌った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恋の歌、なのだろうか。何も考えずに作ったこの歌は、したこともない初恋を潰すためのものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 恋なんてしたことがない。けれど、世の中は恋をしなければ恋の歌は書けないなんておかしなことを言いやがる。

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことはない、恋なんてしなくても、書けるものは書けるのだ。

 

 

 

 そう意固地になって作った曲。歌ってみれば、なるほど、どこかおかしい歌詞である。

 

 

 

 どうやら僕には、恋の歌なんて作れないようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 曲が終わったことで、集中力も切れてしまったようだ。先程までシャットアウトされていた喧騒が、崩壊したダムから溢れ出した水のように僕の耳の中に吸い込まれ頭の中で響き渡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――ぱち、ぱち、ぱち。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 喧しさに顔を顰めながら、帰ろうかななどと考えている僕の耳に、騒がしい喧騒を突き抜けて小さな音が飛び込んできた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 拍手だった。小さく、そしてか細い音だが、確かに拍手をしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぐるりと見渡し、視線が四条大橋の看板辺りまで行った時、見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな女性が、目に涙を溜めながら、それでも笑顔で手を叩いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その泣き笑いは、どこか…………もくもくと真っ白く明るい姿を見せながら、その下で雨を降らせている、入道雲に似ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女を見ながら、僕はそんなことを思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「歌、上手いんですね」 

 

 

 

 黒く艶やかな髪を真っ直ぐに伸ばしたその女性は、涙を拭う素振りも見せないまま僕に話しかけてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 咄嗟のことに反応できない僕だったが、やっとのことで口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、ああ。ありがとうございます」

 

 

 

 

 

 

 

「なんだか、感動しちゃいました」

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、ずれ落ちた大きな丸メガネをくいと元に戻すと、柔らかい笑みを見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その笑みを見た瞬間、僕の体に何か雷に打たれたかのような衝撃が走った。

 

 

 

 

 

 

 

 夏の太陽すらも霞んでいくような笑みに魅せられて、僕は息を呑むのも忘れて立ち尽くしてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし目の前の彼女は、それだけ言いたかったのか、お辞儀をしてすぐに人混みの中に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――喉元すぎれば暑さを忘れる。夏を忘れ始めた季節の中で、それでもまだ、何か忘れてはいけないものがあるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 僕は、何も出来ないまま、ただ呆然と人混みを眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 別に、自分が器用だなんて微塵も思っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 いや、逆に僕は不器用なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 音楽をするために大学を休み、そのくせ才能がないと分かっているからオーディションを受ける度胸なんてない。人目に付くところで演奏して、誰か音楽関係者に声をかけられるのを待っているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 夢を描くのではなく、夢に描かれるのを待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 わかってる、僕は屑なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな、屑な僕が見たひと夏の夢、希望、そして入道雲。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、見る人によっては、初恋と言われてしまうものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は、少し気温が低い。夏が引っ越す準備を終えてどこかへ行き始めた京都の街は、なかなかに快適である。

 

 

 

 

 

 街行く人々は、涼しくなった気温を喜び合うかのように楽しそうな笑みを浮かべている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(馬鹿な奴らだ)

 

 

 

 

 

 僕はそんな人々をアンプの上に腰掛けながら、見るともなく見ていた。

 

 

 

 

 

(どうせ冬になった途端に、声を揃えて夏が恋しいなんて言い出すんだろう。本当に、愚かしい奴らだ)

 

 

 

 

 

 自分だって同じようなことを考えているというのはわかっている。しかし、こうでも考えていないと、僕の肩に乗っている絶望と自己嫌悪のせいで潰れてしまいそうなのだ

 

 

 

 もう数ヶ月の間、ほぼ毎日バイトをしながら路上ライブをする生活をしている。しかし、一向に歌を聴いてくれる人は増えないし、音楽関係者が声をかけてくれるなんてこともない。ただいたずらに時間だけが過ぎていき、僕の寿命を削っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 焦ったところでもう遅い。何も変わらないのだ。大学に出席したところで、授業についていけるはずもないし、今更就職をしようなんて、恥ずかしくて出来るわけもない。

 

 

 

 

 

 

 

 ポケットに入っている、親からのメールにうんざりして地面に叩きつけた携帯はもう動く気配はない。

 

 

 

 

 

 

 

「本当に…………愚かしい奴だ」

 

 

 

 

 

 

 

 果たして誰に向けての言葉か、僕はそう呟くとギターを手に持った。

 

 

 

 

 

 

 

 もう後戻りなんて出来ない。なら、行くとこまで行けばいいだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気温は下がっても、湿度は高いままなので、暫くじっとしていただけでもシャツが汗でぐっしょりと濡れている。

 

 

 

 

 

 

 

 服をパタパタと扇ぎ、涼をとる。これだけでも幾分かはマシになるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭の中でとぐろを巻く陰鬱な気持ちを吹っ飛ばすために、僕は指をギターの上で滑らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曲が終わるや否や、湿っぽい空間で乾いた音が響く。

 

 

 

 

 

 

 

 視線を滑らすと、そこにはまた、入道雲のようなあの女性がいた。

 

 

 

 

 

「今日も、良かったです」

 

 

 

 

 

「ありがとうございます。ありがたいんですが、いつも来て大丈夫なんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初めてあった日から、数日経った今でも彼女は僕の路上ライブに参加している。

 

 

 

 

 

 

 

 歌っている曲はいつも同じ、名前などない僕の手作りソングである。

 

 

 

 

 

 

 

 僕の言葉に、さっと顔を曇らせる女性。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(しまった。これは一雨来るかもしれないな)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最近の楽しみは、彼女の表情を天候で表すことだ。驚く程に表情を変える彼女は、見ているだけでなんだか楽しくなってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、雨を降らすわけにはいかない、早く話題を変えなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「最近、めっきり涼しくなってきましたね」

 

 

 

 

 

 

 

「そう、ですね。なんだか季節の変わり目が年々薄くなっているような気がして、少し怖いですね……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先程までの暗雲はどこへやら、そう言う彼女の表情は太陽のように明るい。

 

 

 

 

 

 

 

 その顔を見るだけで、僕の体は、気温が下がったというのに熱くなってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 熱を追い出すかのように頭を降ると、僕らは一緒に足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 橋を降り、川辺を歩く。

 

 

 

 

 

 

 

 水面が、太陽の強い光を跳ね返し、彼女の漆黒の髪へと吸い込まれていく。

 

 

 

 

 

 

 

 暑さを紛らわすように髪を耳にかける際に、ふわりと良い匂いが僕の鼻腔を擽った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そういえば、あなたがいつも歌っているあの歌はなんて曲名なんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

「あれですか? あれは僕が適当に作った曲ですから、曲名なんてないですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏だというのに、何故か春を思い出させる彼女の優しい声音を聞きながら、僕は川を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 暑いのに何故か身を寄せあって泳ぐ鯉の群れに、それを見て笑うカップルたち。

 

 

 

 

 

 

 

 傍から見れば、僕らもそう見えるのだろうか、なんて考えるだけで、僕の顔は太陽が住み着いたのかと錯覚してしまうほどに熱くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな一人芝居を演じている僕のことなどまったく知らない彼女は、楽しそうに笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「勿体ないですね。あの曲、凄くいいのに」

 

 

 

 

 

 

 

「そんなことないですよ。どこにでもある有象無象の曲です」

 

 

 

 

 

 

 

「そんなこと、ないですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不意に、まだ名も年齢も知らぬ彼女は、少し沈んだ表情でこちらを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は、あなたの曲に救われました。応援歌じゃなくても、ただ失恋の曲だったとしても……私は、あなたに助けられたんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、曇り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 太陽の下で、顔を曇らせた彼女は、それでも気丈に振る舞い、笑みを見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だから、今度はあなたの力になりたいんです。私を助けてくれたあなたを、何か助けたいんです!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それに答えることなく、僕は歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 砂利を踏む音だけが、僕らの少しあいた間を埋めていく。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、僕らの間は完全に埋まることはなかった。時間が来たのか、入道雲の女性は僕に礼を言い、階段を上って視界から消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(助けたい、か……)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先程、彼女が話した内容をよく噛みしめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(そんなことしなくても、僕はあなたに助けられているのに)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 疲れた日々の中で、唯一の癒しが路上ライブと、あの入道雲な彼女なのだ。彼女が拍手してくれるだけで、僕は満足できるのだ。生きていてよかったと思えるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は彼女の名前を知らない。それどころか、年齢も、住んでいる場所も、何故泣いていたのかも、なぜ僕の歌を聴いているのかも知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 彼女が入道雲なら、僕はすっぽん。雲とすっぽんというわけである。笑えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし神様は僕の笑みなど見たくはないようで、ポケットに入れていた携帯が震えた。あれだけ強く叩きつけたのでてっきり壊れたかと思っていたのだが、どうやら最近の携帯は丈夫らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 罅が入って見づらくなった画面に目を凝らしてみると、母からのメッセージだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(はぁ、しょうもな)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昂っていた気持ちが、一気にすとんと地に足を付けたような気分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 見なくたってわかる。どうせ、大学はどうなんだとか、就職はしたのかとか、結婚はどうするんだとかだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 本当に、しょうもない。僕の人生、僕に生きさせてくれや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな怒りの炎は、すぐに悪感情に燃え移り大きな怒りとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 身をくすぶる怒りに身を任せ、携帯を鴨川に放り投げる。

 

 

 

 

 

 

 

 ぼちゃんという間抜けな音を聞いた瞬間、急に攻め寄せて来た後悔の念に、僕は頭を抱え川辺に座り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(またやってしまった。すぐに癇癪になるのが僕の悪い癖だ……携帯を投げるのは流石にまずいだろう)

 

 

 

 ため息をついて、立ち上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 したくはないが、しょうがない。靴を脱ぎズボンの裾を上げ川の中に入っていく。生ぬるい川の水が足を撫でていく感触と、足裏をちくちくと刺す小石がどこかこそばゆくて、自然と滑稽なステップを刻んでしまう。小石があった場所より少し深い場所、ずるずると滑りそうになる苔の群れを踏みつけてさらに進むと、川底に沈んであった携帯を見つけた。電源をつけてみるが、当然のごとく反応はない。今回こそ壊れてしまったようだ。

 

 

 

 

 

 まあどうでもいいさ、と心に押し寄せてくる後悔の波をかき分けながら、自嘲気味に呟いた。どうせもう使う予定もないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 後で金属ショップかなんかで売ろう。そう決意した僕は、びしょびしょに濡れた携帯を、ポケットの中に押し込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は比較的に天気がいい。どこかへ出かけようか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 憎らしいほどに明るい町並みを眺めながら、僕は目を覚ました。どうやら昨晩は京都をフラフラ歩いた後シャワーも浴びずに寝てしまったらしい。汗もたくさんかいていたので、些か……というよりかなり気持ち悪い。流石に風呂には入っておいた方がよかっただろうか。

 

 

 

 

 

 不意に、幼少期の頃を思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思えば、僕は小さい時からよくずぼらだと色々な人から言われてきた。

 

 

 

 親が作ってくれた弁当を食べ終わっても流しに出すことはしない、勉強の存在なんて朝まで忘れる。そんなしょうもないことばかりをしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 しかしそれでも、小学生の頃はまだ言い訳ができた。

 

 

 

 

 

 

 

 高校生になったら頑張ろう。成人したら自分を変えよう……。

 

 

 

 

 

 

 

 大丈夫、まだ何とかなるだろうとばかり思っていた結果がこれである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人生一度限り。自分の生き方は自分で決めなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 もっと大人になってから? まだ大丈夫?

 

 

 

 

 

 

 

 そんな甘ったれた言葉、この世界にはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子供と大人の違いなんて、全くない。

 

 

 

 

 

 

 

 子供の時自己中心的だった奴は、大人になっても自己中心的な奴なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 一定の年齢を越したらマジカルパワーで変身なんてファンタジーなこと、この世界ではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 結局、自分を変えるのは自分自身だ。それに気づけなかった僕は、こうなってしまった。やり直せることならやり直してみたいが、ずぼらな僕ならまた同じ過ちを犯してしまいそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間は変わらない、本質的なところ、根底の部分は全く変わらないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕の視界に入っている全ての人は、自らを取り繕うことのできる者達。そこから追い出された僕は、言わば夏の空に一つだけぽかんと浮かぶ小さな雨雲だ。味方なんて誰もいない。自分で白い雲にならなければ、生きていくことなど不可能なのだ。

 

 

 

 

 

(朝から嫌なことを考えてしまった。最悪だ)

 

 

 

 

 

 こんなに快晴だというのに、僕の心には重く暗い暗雲が立ち込めている。こんな時は、散歩をするに限る。

 

 

 

 

 

 

 

 今日はライブなしだ。頼まれてやっている訳では無い。一日くらい休んだって、誰にも文句は言われないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 ちらりと、あの女性の顔が思い浮かんだが、僕がいつもの時間に来ないとわかったらすぐに帰るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 胸をよぎる一抹の不安には見ぬ振りをして、靴を履き外に出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やはり、夏はいい。

 

 

 

 

 

 

 

 ジリジリと、アスファルトが焼ける匂いを楽しみながら、地を踏みしめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、散歩といっても行くところなど特にない。

 

 

 

 

 

 

 

 鴨川をぶらぶら歩くのもいいが、やはりどこか観光地に出かけてみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 動く足に身を任せて歩いていると、京都駅まで来ていた。雑踏の中、ふと見上げると突き抜けるような空……を遮る大きな天井。

 

 

 

 

 

 

 

 京都道を歩くのもいいが、どうせなら外を歩こう、ということで京都タワーの近くを散歩することにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕が思うに、観光地として一番最悪なの場所は京都タワーである。生まれてこの方京都から動いたことがないので、他の都道府県のことはわからないが、とにかくこの京都タワー、面白みがない。

 

 

 

 

 

 大きなタワーかと思いきや、地盤はよくわからないビルである。タワーの下から入りたいと思っても、まずはビルに入らなければならないのだ。興ざめにも程があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 いや、もうそろそろ自分が住んでいる地域を悪く言うのはよそう。京都タワーにだっていいところはあるさ。不定期で夜に色が変わるとか、見た目はかっこいいとか。

 

 

 

 

 

 少し高いビルの上に聳えるように立つ紅白のタワーを見つめながら、足を進めていく。

 

 

 

 

 

 

 

 すると不幸なことに、上を向きながら歩いていたので誰かとぶつかってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 反射的に謝ると、ぶつかった相手は僕の顔をまじまじと見て、目を見開いた。

 

 

 

 

 

 

 

「あれ……〇〇やんけ!」

 

 

 

 

 

 

 

 最悪だ。目の前の男が僕の名前を呼んだ瞬間、僕の散歩日和は音を立てながら崩れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 男はそれに気づいた様子もなく、楽しそうに僕の肩を叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前、何でこのごろ学校に来てへんねん! みんな心配してたぞ?」

 

 

 

 

 

 

 

 男の言葉で、僕の心の中が怒りで少しざわめいた。

 

 

 

 

 

 

 

 こいつらは、僕のことなんてなんとも思っていないのだ。よくもいけしゃあしゃあと心配してるぞ、なんて言えるものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 男は僕の顔色なんて気にせず、言葉を継いだ。

 

 

 

 

 

 

 

「てか聞いたんやけど、お前、路上ライブしてんの? やったら見せてくれへん?」

 

 

 

 

 

 

 

「……今日は休み」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 返す僕の言葉は、びっくりする程に沈んでいる。好きでもない相手のことを気遣う理由なんてないさ、好きなように返してやる。

 

 

 

 

 

 

 

 男は、僕の態度を不思議がって少しだけ沈黙した。やがて笑みを戻そうと口元を歪めていたが、引き攣った笑みしか浮かび上がっていない。そうだ、そのままどこかへ行ってくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし僕の願いなど知りもしない男は、未だに気持ちの悪い笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあさ、連絡先だけくれよ。もしもの時、必要やろ?」

 

 

 

 

 

 

 

「携帯、壊れたから無理。ごめん、用事あるから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕の言葉を嘘だと思ったのか、男はあからさまに眉を顰めて、何も言わずに僕を通り越した。怒ったのだろう、その後ろ姿は怒りで溢れている。

 

 

 

 

 

 

 

 だが僕だって、話しかけてほしいなんて一言も言っていなかった。あの男が勝手に話しかけてきて、拒絶されただけで怒るなんてあいつはどれだけ馬鹿な奴なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ最悪だ、折角のお休みがパァである。この怒りをどこにぶつければいい?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 辛い、苦しい。言葉に出来ない、未来に対する漠然とした不安が僕の頭を掠めていく。折角忘れようとしていたのに。今だけ考えて生きていこうとしたのに。

 

 

 

 

 

 

 

 けど結局、逃げたところで最後に涙を流すのは自分だ。

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、分かってる。分かってるけど出来ないんだよ。出来てたら最初からやってるよ。できないから逃げてるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 今怒っているあいつ。あいつは勝ち組だ。いずれ堕ちる所まで堕ちた僕見て、せせら笑うのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 許せない、許さない。

 

 

 

 

 

 

 

 僕はなぜこんなところに来てしまったのだろうか。どこの道を間違えたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

「道を踏み外す……か」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自嘲気味に放たれたその言葉は、シャボン玉のようにふわふわと宙を漂い、つかむ相手もいないまま破裂した。

 

 

 

 

 

 

 

(道を踏み外す……)

 

 

 

 

 

 

 

 下を向くと、小さな蟻がコンクリートの縁に登ろうとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 この足元の蟻……彼は今、間違った道を歩んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 しかしどうだろう、まるで見えない糸に引っ張られているかのように、蟻は足早に去っていき、巣穴に帰っていった。

 

 

 

 

 

 蟻でさえ、自分がどこに行くべきなのかを知っている。

 

 

 

 なのに、僕はどうだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 行くアテも、帰り道さえも分かっていない。どこがゴールなのか、どれが正しい道なのか……何もかもわからない。いや寧ろ、今僕がスタートラインを越えているのかすらも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嫌な気持ちを忘れるために、空を見上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 遥か彼方でむくむくと広がる入道雲を見つめながら、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(入道雲になりてぇ)

 

 

 

 

 

 人は変われない。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、変わりたいと願うくらいなら許されるだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 生まれ変わったのなら僕は、入道雲のようにおおらかで謙遜な人間になりたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……けどそれは、叶わない夢なのだろう。人生一度きり。僕はもう、カードを使ってしまったのだ。

 

 

 

 

 

「帰ろう」

 

 

 

 

 

 もう今日は色々疲れてしまった。さっさと家に帰って惰眠を貪ろう。行きとは違い、重くおぼつかなくなった足取りで我が家を目指す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 楽しさ、幸せ、希望の全てがなくなった僕の心の中には、何故だろうか、あの入道雲の女性のことしかなかった。

 

 

 

 あの女性は、今何をしているだろうか。それだけが気がかりで、他のことを考えられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、今の場合何も考えられないということは逆にありがたい。今だけは何も考えずに、雲のようになろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 我が家の前に到着し、ドアノブに手をかける。その瞬間、僕の脳裏に花火が咲いたかのように、彼女の優しい笑顔が鮮明に浮かび上がって、消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、本当に帰ったのだろうか。もしかして、あの四条大橋の上で僕のライブを待ち続けているのではないか。

 

 

 

 

 

(それはないか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 馬鹿な考えを振り払うように、僕は頭を振った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(こんな名もない路上ミュージシャンのために、時間を割いて待つわけないさ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、一抹の不安とも期待とも言えぬ感情は、僕の頭にこびりついてなかなか離れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドアに手を置いたまま、僕はひたすらに考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(散歩として、四条大橋に行けばいいだけではないか。ライブとかそんなの関係なく、ただ気になったから、それだけでいいじゃないか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まるで誰かに言い訳をしているかのような気分に浸りながら、ドアノブから手を離した。

 

 

 

 

 

 あくまで散歩。あの女性のことは二の次だ。

 

 

 

 

 

 

 

 炎天下、立っているだけでクラクラしそうなほどの暑さの中に再び飛び込んだ僕は、今度は確かな足取りで、目的地へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蝉時雨をかき分けながらたどり着いた橋の上に、果たして彼女はいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まるで暑さにやられたかのようにしなだれる柳の木の下で、空を見上げながら柵にもたれかかっている彼女に近づくと、僕に気がついて微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よかった。今日は休みかと思ってました」

 

 

 

 

 

 

 

「……今日は休みですよ。そんなに待たなくてよかったのに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 にこにこと純真な笑みを見せる彼女の額には、たまの汗が浮いている。その汗が僕の視界に入る度に、何故か自責の念が僕の心を襲った。

 

 

 

 

 

 

 

 僕の言葉を聞いて、入道雲のように白く清廉で、柔らかそうな彼女は悲しそうな目をした。

 

 

 

 

 

 

 

 滑らせるように視線を動かした彼女は、多くの観光客が歩く四条大橋と、その下の鴨川をゆっくりと見つめた。

 

 

 

 

 

 

 

「この場所って、酷いと思いませんか?」

 

 

 

 

 

「酷い、ですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕の質問には答えず、まるで逃げるかのように呟く彼女の横顔は、哀愁に満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

「橋の上は活気に溢れているのに、少し階段を降りただけでまるで天地の差……この数メートルに、なんの違いがあるんでしょう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の言葉を聞いて、僕は初めてそのことに気を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 確かに、四条大橋はいつも人で溢れている。人の海という言葉がぴったりと当てはまるほどに。

 

 

 

 

 

 しかし数メートルの階段を降りただけで、人の数はぐっと減る。

 

 

 

 

 

 

 

 しかしまあ、その違いといえばただ単に四条大橋の知名度なのではないのだろうか。鴨川の土手を歩くより、四条大橋の上から眺める方が乙なのだろう。

 

 

 

 しかし彼女はその事を言っているのでは無いはずだ。多分、彼女が言いたいことは、二つともほぼと言っていいほど一緒なのに、なぜ差が出るのだろうか、なぜ人は差をつけるのだろうか、ということである。

 

 

 

 

 

 

 

 そして多分、これも推測だが、彼女は四条大橋や鴨川のことを言っているわけではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その本質は、もっと汚れていて、人間臭いものだ。そしてそれこそ、僕が毎日思っていたことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕も、同じことを考えていました」

 

 

 

 

 

 

 

 誰に言われるでもなく、僕の口はひとりでに動き始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「画面の向こうにいる人物と僕は、一緒の人間です。しかし、なぜ彼だけが評価されるんだろうか、なぜ僕はこんな所で燻っているのだろうか。そんな行き場のないしょうもない怒りだけが僕の心を渦巻いていて、どうしようもないんです」

 

 

 

 

 

 

 

「本当に……その通りですね。私と彼女は何が違うんでしょう。どうやったら……同じになれんでしょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 その声に一瞬、恨めしさが混じっていたことに僕は気がついた。

 

 

 

 

 

 

 

 入道雲の彼女が言っている人物が誰かはわからない。しかし確かに、僕は彼女の心の、そのまた下の本当の気持ち……入道雲の下の、雨を見たのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その雨に滑りやすくなってしまった僕の口は、やめておけと冷静に指示を下す頭を無視して動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕の話を……聞いてくれますか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女からの答えを待たずに、僕は喋りだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕は、まあまあ裕福な家庭に生まれたんです。小さい頃から大した不自由はなくて、自由気ままに生きてきました。しかしそれも小学生までで、中学生になってからは少しずつ、違和感を感じてきていたんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 入道雲の女性からの返事はない。彼女の漆黒の瞳だけが、真っ直ぐに僕を射抜いていた。

 

 

 

 

 

「何か違うのではないか。なぜ僕はここにいるんだ。ここは、僕の居場所なのだろうか……そんな馬鹿みたいな考えは、夏場の雨雲みたいに急速に大きくなって、僕の心を支配したんです。高校生に上がって、自分は他人より下なんだと思い知らされて、せめて何か他人より上手くできることをしたいと思って、大学まで休んで路上ライブを始めたんです。いつか僕を見下していた人たちを見下すために……誰かが僕の人生を変えてくれるとそう信じて、やってきました。そしてその結果が、これです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地面を指さしながら、僕は言った。自分でも気が付かないうちに、声は自分への悲しみと怒りで震えていた。

 

 

 

 

 

 まだ何か出来たはずだ。あの時頑張っていれば、こんなことにはならなかったはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな、子供の言い訳みたいなわがままは、今先程目の前の女性が言った言葉によって、完全に壊された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕は結局、努力をしなかったんです。全てを中途半端なままに投げ出して、必要なものは全て他人を頼って……あなたみたいに他人を目指さなかった。自分自身……オリジナルになりたがりすぎたんです。そのせいで、僕は自分自身すらなくして、ここにいる」

 

 

 

 

 

 

 

 そう、僕はスタートを切ることが怖くて、スタートラインの目の前で右往左往しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分が屑だなんて、とっくに気がついてる。だが屑だからと諦めたら、それで終わりだ。変わろうと……変われなくても、表面だけでも変えようとするべきだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 臭いものがあれば、それに蓋をする勇気が必要なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は、それをしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話しているうちに、後悔が僕の心を満たして、僕の未来やら希望やらを全て呑み込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕の人生はもう、終わったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空を見上げた。今日は、随分と近くに入道雲が来ている。もう少し近づけば、雨が降るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 全て話した僕は、まるで他人事だったかのような態度で全てを放り出した。もういい、もういいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は、そうは思いません」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな、諦観の色を濃く映していた僕の表情を変えたのは、目の前で泣きそうになっていた彼女の簡単な一言だった。

 

 

 

 驚いて彼女の顔を見ると、それに連動するかのように、彼女の瞳からつぅと涙が一筋落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「確かにあなたは、スタートラインの前にいるのかもしれないです。けど、人生一度きり……自分の好きなように生きるべきなんです。だから、スタートなんていつ切っても大丈夫だと思いますよ」

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の言葉の意味がわからない。

 

 

 

 

 

 スタートをいつ切ってもいい?

 

 

 

 

 

 一体、彼女はなぜそんなことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一瞬にして、僕の頭の中は色々な思考でこんがらがってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、彼女の、ふわりと春の匂いがする声が、その思考のわだかまりを、一つひとつ、解いていく。

 

 

 

 

 

「あなたは、誰かと競走をしているんですか? そんなことありません。ならスタートなんていつでもいいんです。今からでも、じゅうぶんに遅くない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はらり、はらり、無駄なものを全て取り払った頭の中にはただひとつ、幸せという感情しか残っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ぽとり、雨ではない何かが、僕の足元に数滴の染みを作った。

 

 

 

 

 

 思い出したかのように熱くなる目頭を抑えながら、僕は声を出さずに泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の言葉を聞いて、僕は理解した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(僕は誰かと違う存在になりたかったんじゃない)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ずっと、自分自身になりたくて頑張ってきていたと思っていた。そのために全てを放り投げて、がむしゃらに突っ走っていたのだと勘違いしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、そうか、そんな簡単なことだったのか。

 

 

 

 

 

 

 

(僕は……誰かから、認められたかったんだ。偉かったねって、よく頑張ったねって……褒めて欲しかったんだ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 涙は全てを洗い流してくれるという言葉があるが、あれはどうやら嘘のようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全てを洗い流したであろう涙が去った後、僕の心は幸せと感謝の気持ちでぎゅうぎゅうになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕が泣き終わるまで待っていた入道雲の彼女は、静かに、言った。

 

 

 

 

 

 

 

「それに……私はあなたに助けられました。私にとって、あなたはなくてはならない存在、最高のオリジナルなんですよ?」

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、りがとう、ございます…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 涙声で、僕は礼を言った。しかしその言葉を聞いた彼女は、何故か、悲しそうな顔をして笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 入道雲の下には雨がある。それに気が付かなかった僕は、不用意に彼女に近づきすぎたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 そのせいで、僕は彼女の変化に気が付かなかった。気がつけなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を開くと、見慣れた天井が広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 じりじりと、部屋に迫ってきていた熱気を、エアコンをつけることで退治する。

 

 

 

 にわかに涼しくなってきた部屋の中で、僕は一枚の紙を見つめた。

 

 

 

 

 

 

 

 ミュージシャンになるための、オーディションへの申請用紙である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 志望動機や、今までの経歴を書かなければならないらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 氏名や住所を書き、今までの経験の欄には大きく路上ライブと書いた。実践経験があれば、なかなか期待は高まるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、そこまではスラスラと流れるように動いていた鉛筆が、ぴたりと止まった。

 

 

 

 

 

 ひとつの欄、その上に小さく書いてある「好きなこと」という言葉に、僕の腕は止まった。

 

 

 

 

 

 

 

 今まで、無我夢中に進んできたせいで、好きなことなんてない。路上ライブは確かに好きかもしれないが、あれは関係者に目をつけられるためにやっていたことだ。本当に好きなことではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今までの僕なら、ここで挫折してこの用紙をぐしゃぐしゃにしていただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、今の僕には、好きなことがある。昨日、あの入道雲のようにのびのびとした女性の言葉を聞いた時、僕の心には確かに喜びがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 鉛筆をきつく握り直した僕は、少々強ばった字で、それでも力強く「人に褒められ、喜ばれること」と書いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 興奮か、そのまた何かの感情か、少し震える指を無理やり動かし、他の欄も書き終わった。これであとは、この用紙を提出するだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深呼吸をして、立ち上がる。大丈夫だ、大丈夫だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は、変われるんだ。今からでも始められるんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドアを開けると、八月ももう終わりだというのに、まだ衰えを感じさせないほどの暑さが頬を撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 靴を履き近くのポストまで歩いていく。僕の背中は、暑さとは別の汗でぐっしょりと濡れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 小さな赤い箱に申請用紙を入れた瞬間、僕の肩から、なにか重いものが落ちたような気分になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胸に溜まった疲れを追い出すために深呼吸をして、踵を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、歩きだそうとして、ふとやらなくてはいけないことを思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家に帰ろうとしていた足の方向を変更し、僕はむっとする暑さの中を、軽やかに歩いていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 軽快な音を立てて、店のドアが開く。

 

 

 

 

 

 

 

 メタリックな機械がずらりと並ぶ、清潔感のある店に入った僕は、他の商品に惑わされることなく真っ直ぐにカウンターまで歩いていく。

 

 

 

 

 

「いらっしゃいませ! 携帯の機種変更ですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 僕の存在に気づき、店員の男が明らかに作り笑いであろう笑みを見せてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(これだから、携帯ショップは嫌いなんだよな。この腹に一物あるような喋り方が癇に障る)

 

 

 

 

 

 なるべく手短にすませたいとだけ伝え、安い携帯を買う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何やらプランやらセットやらとしつこく勧めてくる店員を一蹴し、新しく買った携帯を握りしめて店を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷房に慣れた肌を、刺すように照りつける太陽を睨みながら、僕は携帯を開き流れるような動作で電話をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくのコールの後、懐かしい声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、母さん? 僕だよ、僕。携帯壊れちゃってさ、変えたんだ。それで話したいことがあるんだけど……え、大学の授業? 大丈夫だから、ちゃんとするから。それよりさ、話したいことがあるんだーーーー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 通話を終えた僕は、いつの間にか日課になっていた鴨川の散歩をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自らの寿命の短さに気づいているからなのかはわからないが、やけに躍起になって飛び回る蚊を追い払いながら、土手を歩いていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、遠くに見知った顔が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俯いたまま川を見つめているが、すぐにわかる。あれは入道雲の女性だ。

 

 

 

 

 

 

 

 見えたついでに話しておこうと近づいていくと、だんだん彼女の様子がおかしいことに気がついた

 

 

 

 

 

 

 

 それでも気にせず近づいていった僕は、彼女がとった行動に、思わず足を止めてしまった。

 

 

 

 まだ僕に気がついていない彼女は、大きく振りかぶって、何かを川に投げたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キラキラと、太陽光を跳ね返しながら弧を描いたそれは、重力に従って水中に吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 軽く小さい水音が響いて、水面に波紋を描いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫しの間、溶けていくように消えていった波紋を見つめていた彼女だったが、不意にこちらを向いた。

 

 

 

 

 

「……あ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その顔を見て、僕は目を見開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、大粒の涙を流しながら泣いていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あの……」

 

 

 

 

 

 

 

「っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 声をかけようとした僕だったが、彼女の動きの方が早かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕が何かを言うより先に、雨雲を蓄えた彼女は、踵を返して走り去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 入道雲に魅せられて、近づきすぎてしまった僕は、見事に雷雨に当たってしまったというわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、今はそんなこと考えている場合ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(彼女が投げ捨てたのは、あの飛び出た岩の右らへん……)

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の捨てた何かは後で拾うとして、今は彼女を追いかけなくては。

 

 

 

 幸いなことに、僕の方が足は速かったようで、案外すぐに追いついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「待ってください!」

 

 

 

 

 

 息を切らしながら、尚も走ろうとする彼女の手を握り、無理やり止める。

 

 

 

 

 

 

 

 肩を上下させながら、涙を流すその姿に、僕の心は抉られていった。一体、誰がこんなことを。

 

 

 

 

 

 落ち着いてきたのか、綺麗な黒髪を乱した彼女は、力なく笑いながら涙を拭った。

 

 

 

 

 

 

 

「すみません、なんだか見苦しいところを見せてしまって……」

 

 

 

 

 

 

 

「いえ、それは大丈夫です。それより、何があったんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 震える声で、涙を見せまいと踏ん張る彼女に心を痛めながら、僕は尋ねた。

 

 

 

 

 

 彼女の身に何が起こったのだろうか、それだけが知りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、入道雲な彼女は、髪を整えながら、小さく首を振っただけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんでもないですよ。ただ、そんな気分だっただけです」

 

 

 

 

 

 そのまま歩き去ろうとする彼女を、僕はぼんやりと見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 彼女のために、何か出来ないだろうか。彼女は僕を助けてくれた。なら、僕が何かをすべきではないのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 溜まりに溜まった感情は、僕をつき動かした。

 

 

 

 

 

 もう、止まれない。

 

 

 

 いや、別に止まる必要などないのだ。やれるところまで、やってやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 勢いをつけるために大きく息を吸った僕は、吐くと同時に言葉も出した。

 

 

 

 

 

 

 

「僕と、遊びませんか!?」

 

 

 

 

 

 

 

 ぽかんと口を開け僕を見る彼女を見る僕の心臓は、バクバクと破裂しそうな程に動いている。

 

 

 

 しばらくの間呆然としていた彼女だったが、すぐに目に涙を溜めながら、それでも笑顔で頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は、彼女のことをどう思っているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 映画館の、やけに柔らかいシートに身を沈めながら、僕は隣に座っている女性をちらりと盗み見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 映画に夢中になっている彼女には、先程見せた涙の欠片も残っていない。しかし、あの涙は僕の心を酷く抉った。それほどに悲しく、身を引き絞るような泣き声だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 だからなのだろうか、彼女か気になるのは。保護欲を掻き立てられているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 あいにく、そういう類の話には疎いのでそれが正しいのかどうかはわからない。

 

 

 

 だが今はそんなことどうでもいい。目を閉じ、全てのものをシャットアウトさせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は、横に座っている彼女によって助けられた。なら、僕は何をすれば良いのだろうか。何をすれば、彼女の中に潜む、雨雲を取り除けるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 まず、僕は彼女が何故悩んでいるかもわからない。その状態で、何が出来るのだろう。

 

 

 

 

 

 ちらりと、再び彼女の整っている横顔を横目で見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、答えは出なかった。そうだ、忘れていたが、僕はすっぽん。地にいるものが、天にあるものを触ることなど、出来ないのだ。猿猴取月、手が届く範囲で動くべきなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、彼女のためなら、僕は何だってやってやる。例えそれが最悪な結末だったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 地にいるから天に手が届かない?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蝋で翼を作り、飛び経てばいいだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕の全てで、彼女の暗雲を取り除く。それが、屑の僕にできる唯一のことなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今日はありがとうございました。なんだか落ち着けたような気がします」

 

 

 

 

 

 

 

 僕の決意など知りもしない彼女は、相変わらず天真爛漫な笑みをしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 対する僕の表情は、自分でもわかるほどに固い。

 

 

 

 

 

 

 

 だがそれに気づいていないのか、彼女は、挨拶とともに風のように去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 辺りは既に暗くなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 いつもとは違うルートの帰り道を歩きながら、僕は誰にも気づかれないようにため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(まさか、こんな短期間で二回も川の中に入ることになるとはな……)

 

 

 

 

 

 

 

 夜の川は黒く、まるで奈落へと続く大穴のようだった。

 

 

 

 

 

 水のせせらぎがどこからともなく聞こえてくるだけで、後は何も見えない。携帯の懐中電灯で照らしてみるも、意味はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(しょうがないか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 携帯を、先程コンビニで貰ったビニール袋の中に入れ、口をきつく縛る。

 

 

 

 

 

 

 

 川の深さを入念にチェックしてから、僕はゆっくりと水の中に入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 昼とは打って変わって、体の芯が凍りついてしまいそうな程に冷たい水の中を、一歩、また一歩とゆっくりと進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………っ!! あぶっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 足を進めていると、不意に一箇所だけ深い部分に足を入れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 仰け反るような姿勢になってしまい、 派手な音を立てながら僕は水の中に倒れた。

 

 

 

 

 

 

 

 打ち付けるような川の流れに流されないように地をしっかりと掴もうとするが、ぬめぬめしている苔のせいで上手く掴めない。

 

 

 

 

 

 やっとの事で立ち上がるが、体は完全に冷えていた。携帯をビニールに入れていてよかったと言うべきか、滑ってしまって最悪だと言うべきか。

 

 

 

 

 

 今はどちらも言うべきではない。ただ、彼女が捨てたものを拾いたいんだ。

 

 

 

 

 

 水をかき分けるようにして進んでいくうちに、目印にしていた岩を見つけた。手を突っ込んで探っていると、すぐに指先に石ではない何かがぶつかった。

 

 

 

 

 

 

 

 拾い上げると、何かのアクセサリーだった。これが今朝彼女が投げ捨てたものだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アクセサリーをビニールに入れ、来た道を戻る。今度は慎重に行ったおかげで、倒れずにすんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 だが、一度水に浸かったのは紛れもない事実で、先程から体の震えが止まらない。早く家に帰って、シャワーを浴びなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 小走りで家に帰り、風邪を引かないようにと祈りながらシャワーを済ませた僕は、手のひらにある小さなアクセサリーを眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鉄製のそのアクセサリーは、ハートの形をしている写真入れだった。

 

 

 

 

 

 

 

(開けた方がいいのだろうか)

 

 

 

 

 

 

 

 僕は、小さな窓から見える雄大な星空を見上げながら、ふと思った。

 

 

 

 

 

(見られたくないから捨てたのなら、やはり見ない方がいいだろう。しかし、なぜ泣いていたのかも気になる。どうするべきか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがやはり、気になってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 気がつけば、僕の腕は吸い込まれるようにアクセサリーに伸びていて、ゆっくりと写真を隠している、銀のハートをスライドさせようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 頭の中のどこかで、冷静な僕がやめておけと忠告しているが、知ったことではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハートがするすると、小さな音を立てながら開き、中に入っている少し古ぼけた写真が顕にーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かちり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、三分の一くらい開いたかというところで、蓋が開かなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(なんだこれ、何かが詰まっている?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 壊れてしまっているのか、スライドで開くタイプのアクセサリーは、ある一定で開かなくなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 壊れてしまったアクセサリーの中を見てみると、幸せそうな笑顔を浮かべている彼女が辛うじて見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後も開けようと何度か試みたが、結局開かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は小さくため息をついて、アクセサリーをビニールの中にしまった。まあいい、別に見て得するものでもないさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 酸っぱい葡萄を食らった僕は、ごろんと寝転がり、天井を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は何故、あんなにびしょびしょになってまで、彼女のために動いたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女が僕を助けてくれたから?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本当に、それだけなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その疑問について考えようとすると、なんだか頭が痛くなってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なるべく考えないようにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水に濡れて、ヘトヘトに疲れていたからだろうか、布団に潜り込んだだけで、僕の意識は暗闇へ呑まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だいぶんと、涼しくなってきた。もう夏というよりかは、秋に近いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでもまだ、気温は三十度前後を行ったり来たりしているらしい。なんとも往生際の悪い季節なのだろうか。

 

 

 

 

 

 起き上がり外を見てみると、なかなかにいい天気である。気温は高くはないが、太陽は出ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は、ライブをしなくてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギターを担ぎ、アンプを手に持って外に出ようとすると、玄関の郵便入れポストに何かが入っているのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ポストを開けて見てみると、それはオーディションに関する紙だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 急いで封を切り中を読んでみると、どうやら一週間後に行われる実技オーディションの案内らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここで上手く行けば、僕はミュージシャンになれる。路上で誰かに見つかるまで待つ必要なんかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高鳴り始めた心臓を無理矢理抑えて、深呼吸をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(今から焦ってどうするんだ。もっと冷静に行かないと)

 

 

 

 

 

 

 

 心臓をじゅうぶんに落ち着かせてから、僕は外に出た。

 

 

 

 

 

 

 

 少し暑く、だがどこかひんやりとした空気が肺の中を満たしていく感覚を楽しみながら、僕はいつものように、四条大橋へと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

「一週間後に、オーディションがあるんです。それに受かったら、もう路上ライブはしないかもしれませんが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よかったですね! 応援してます!」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして僕達は、いつものようにライブ後に駄べっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ただし、その足取りはどこか重く遅い。昨晩のことを気にしているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 ポケットの中に感じる鉄の感触を確かめながら、僕は横をちらりと見た。

 

 

 

 

 

 

 

 先程から彼女の表情は、笑顔になったり寂しそうな顔をしたりと、まるでにわか雨のように忙しなく変化している。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな彼女の暗い顔を拭いさりたくて、僕は彼女の目を今度はしっかりと前から見ながら、アクセサリーが入っているポケットとは逆のポケットから鉄塊を取り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 いきなり鉄塊を取り出した僕を、何なのだろうかと首を傾げて見つめる彼女。

 

 

 

 そんな彼女を傷つけぬよう、言葉を選びながら、僕は口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

「僕は、子供の時からよく癇癪を起こす性格で、そのたびに色々なものを壊していたんです。これは、この間親に説教された時に、反射的に地面に叩きつけて川に放り投げた携帯なんです」

 

 

 

 

 

 手に持った鉄塊の重さに、入道雲の彼女の顔がさっと曇った。彼女も、同じようなことをしていたのだから当たり前だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 だが別に、僕は彼女を責めたくてこんなことを言っているわけではない。

 

 

 

 

 

 

 

 彼女が雨を降らす前に、僕は言葉を継いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「けど大体、壊してから後悔するんです。ああ、なんでこんなことしちゃったんだろうって」

 

 

 

 

 

 

 

「……わかるような、気がします」

 

 

 

 

 

 

 

 立ち止まった彼女は、力なく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「私も、何度も後悔しました。なんであんな馬鹿な事しちゃったんだろうって。過去に戻れるなら戻ってやりなおしたいって」

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉は、おそらく彼女が今悩んでいることに関してだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 その悲しそうな表情と、微かに震えている腕を見るだけで、僕の心は何か細く固い糸で締め付けられているかのように苦しくなるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「本当に……なんで人間って、こんなに愚かなんでしょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 吐き捨てるように言った彼女のその言葉からは、諦めの色がにじみ出ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉を聞いた僕は、ゆっくりと、しかし以前の僕からでは考えられないほどに、力強い声で言った。

 

 

 

 

 

 

 

「後悔した後、僕はいつも諦めるんです。もういいやって、あれは僕にとって害のある、無駄なものだったんだって。だから別にいいんだって自分に言い聞かせて、いつもやり過ごすんです。けどそんな言い訳をするたびに、僕の心はいつも痛んで、辛くなるんです。あなたには、そんな思いしてほしくない。だから……」

 

 

 

 

 

 

 

 言いながら僕は、ポケットに入れていたアクセサリーを取り出して、差し出した。驚きに目を見開き、すぐに涙で瞳を揺らす彼女の顔を見て、ああ、水の中に入ってまで取った甲斐があったなぁという不思議な達成感に襲われる。

 

 

 

 アクセサリーを受け取った彼女は、ぎゅっと手を胸に置いて、目を瞑った。

 

 

 

 

 

 

 

「このアクセサリー、捨てたとしても……思い出が詰まってるはずなんです。だから、大事にしてあげてください」

 

 

 

 

 

 

 

「はいっ……ありがとう、ございますっ……!」

 

 

 

 

 

 

 

「それに、あなたは今、戻れることなら過去に戻りたいって、言いましたよね」

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉に、アクセサリーを握りしめた彼女は涙を流しながら頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

「僕もそう思ってました。過去に戻りたい。戻ってもっとマシな人生を送りたいって。けど、そんな非現実な考えより素晴らしい答えを、あなたが教えてくれたんじゃないですか」

 

 

 

 

 

 

 

「私が……?」

 

 

 

 

 

 

 

 心当たりがないのだろう、涙を流し、薄く施されていた化粧が取れてしまった彼女は、首を傾げた。大人っぽい顔つきをしている女性だと思っていたが、化粧を取ってみたら案外子供っぽい顔つきだった。

 

 

 

 

 

「そうです。人生は一度きりで、いつでもスタートを切れるんだって、あなたが教えてくれたんじゃないですか。人生短いようで長いです。道を間違えるときだってあるでしょう。けどそんな時には、引き返してスタートしなおせばいい。誰もあなたを責めないし、責める資格もありません。だってあなたの人生なんだから」

 

 

 

 

 

「私の人生……ですか」

 

 

 

 

 

 

 

「そう。あなたの人生。過去に戻る必要なんてない。遅すぎることなんてないんです。だから、間違えたと思った時はやり直せばいいんです。あなたが今悩んでいることだって、直せるはずなんです。だってあなたは、僕にとって唯一の、大切な存在なんですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思っていること、考えていたことを全て言い切った。言い切った後の、言葉にできない爽快感を味わいながら、僕は止めていた足を踏みだした。少し開いた僕らの間は、数歩で埋まるほどに狭く近い。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし後ろで何かを考えこんでいた彼女は、結局僕らの間を埋めようとはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 何かを決意したであろう彼女は、ぐいと目元を拭って、笑顔で頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとうございます。なんか色々悩んでいた自分に蹴りをつけられそうです! じゃあ今日はこれくらいで!」

 

 

 

 

 

 

 

 言うや否や、彼女は反対方向の、四条大橋に向かって走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 その背中を見ていると、不意に強い風が吹いた。

 

 

 

 

 

 

 

 目も開けられないほどの秋風は、夏の名残を全てかっさらっていったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 目を開けた時、その涼しい風を頬に受けて、僕は夏の殆どを忘れてしまった。頭にあるのは、これからの秋や冬のことだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 だが何故だろうか、じめじめしたしつこい暑さも、寝苦しく寝返りばかり打っていたあの夜も忘れたというのに、僕は入道雲だけ覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 あの純白で、雄々しいすがたが、脳裏に焼き付いて離れないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 目を上げると、大きく柔らかそうな入道雲が、風に吹かれ形を変えているところだった。

 

 

 

 

 

 

 

 今まで悠々とそこに浮かんでいた入道雲が潰れる様を見て、不意に僕は押しつぶされそうなほどの不安に襲われた。

 

 

 

 

 

 

 

 もしオーデションに落ちて、全てが夢のままで終わってしまったらどうなるのだろうか。もし就職も出来ずに金が尽きて、野垂れ死んでしまったらどうなるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 祈るように目を閉じると、僕は不安を消すために強く願った。

 

 

 

 

 

 

 

(夏よ、どうか終わらないでくれ。このまま僕に、にわか雨のような、激しい夢を見させ続けてくれ)

 

 

 

 

 

 目を開けると、消え去った入道雲の代わりに、秋の随分と涼しい太陽が僕に笑いかけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(あと三日でオーデション……えらく実感がわかないな)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギターを背負いながら、僕は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 家に帰るために足を動かす僕の隣には、誰もいない。

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の笑顔を見たのが四日前、時間が経つのは随分と早いものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、彼女は僕の路上ライブに来なくなった。なにか問題が起きたのか来れないのか、はたまた問題が解決したから来なくなったのか……どちらが正しいかわからないが、今はとにかくオーデションに集中すべきだ。他のものはシャットアウトしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、脳の命令とは裏腹に、瞼を閉じる度にあの特徴的な丸メガネと、白い肌が浮かび上がってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 おかしい、前まではシャットアウトしようと思ったら簡単に出来ていたはずなのに。なぜ今はできないのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 彼女が路上ライブに来なくなってから、僕はどこかが変になり始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 何が、と聞かれたら詳しくは説明できないのだが、はっきりと分かる。僕は変わった。

 

 

 

 

 

 

 

(なぜ、彼女のことが忘れられないのだろう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すっかり秋の色に染まってしまった鴨川を眺めつつ、ぼんやりと考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、当然の如く答えは出てこない。

 

 

 

 

 

 

 

(よくわからないけど、とにかくオーデションが第一だ。それが成功してから、じっくりと考えよう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 玄関に到着し、靴を脱いで中に入った僕は、すぐに床に転がった。

 

 

 

 

 

 

 

 床に転がると同時に、近くにあった扇風機の電源入れる。すると当たり前だが、涼しい風が僕の肌を撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 いや、この時期に扇風機は涼しすぎる。むしろ寒い。

 

 

 

 

 

 

 

 こういうところは、未だに夏が抜けきれていないのだ。季節の境目が薄いせいか、こういう動作が身についてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

(こういうところ、夏を忘れきれてないんだよな)

 

 

 

 

 

 

 

 扇風機の電源を消し、改めて天井を見る。染みのついた天井を見上げながら、考えるのはオーデションのことだ。

 

 

 

 

 

(やってやる。今度こそ、変わってやるんだ。)

 

 

 

 

 

 

 

 心の中でそう誓った僕は、眠気によって意識が闇に落ちるその瞬間、ふと彼女のことを思い出した。

 

 

 

 

 

「オーデションの前に会って、話したい」

 

 

 

 

 

 無意識のうちにそんなことを呟いて、僕は眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここ数日で、めっきり寒くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 ギターの弦を確かめるその指は、寒さで微かに震えている。

 

 

 

 

 

 しかし、休んでいる暇はない。今はギターの練習と、曲名を作らなければならないのだ。

 

 

 

 

 

 実技をするにあたって、やはり演奏するのは自作のあの歌だろう。しかし、曲名がないのは致命的だ。明後日のオーデションまでに作っておかなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 焦る心を落ち着かせ、僕はいつものようにギターを演奏し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぱち、ぱち、ぱち。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 演奏を終えた僕の耳に、懐かしくも、暖かい拍手の音が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 その拍手の音に、心を満たされながら振り返ると、案の定秋だというのに入道雲を思わせる彼女が笑顔で立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ひさしぶりですね」

 

 

 

 

 

 

 

「そうですね。今日はなんで、僕のライブを聞きに来たんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

「うーん……気分です」

 

 

 

 

 

 

 

 僕の質問に、少し大人びた顔つきをしている彼女は困ったような笑みを浮かべて言った。

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、路上ライブなんて気分で参加するものか、と結論づけ僕は歩き出した。いつものように、一緒に歩くために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかしその前に、入道雲の彼女は腕時計をちらりと見て、あっと声を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すみません、もう行かなくちゃならないんです!」

 

 

 

 

 

 

 

 そのまま急いで踵を返す彼女を見て、僕の心は何故かざわめいた。

 

 

 

 

 

 (このまま彼女を行かせると、もう二度と会えないような気がする)

 

 

 

 

 

 

 

 根拠なんてない。しかし何故だろう、その考えがむくむくと膨らみ、僕の胸を圧迫した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 圧迫された胸から追い出された、名もない感情は、食道を通る際に言葉になって、口からついて出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「好きです!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間が止まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分が何を言ったのかわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 いや、頭では理解しているのだろうが、心が認めたがっていないせいでうまく処理出来ていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(僕がびしょびしょになってまで彼女を助けた理由は、それだったのか?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分の心が、感情が理解できない。今まで、僕は何を思って彼女に接していたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 理解できないのは彼女も一緒なのだろうか、僕の言葉に固まった彼女は、僕を見たまま、困ったような表情をしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれくらい、その格好のまま固まっていただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 肌寒い秋風で、僕の熱くなった心が冷めるくらいの時間がたった後、彼女は静かに微笑んで、走っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後ろ姿を見るともなく見ていた僕は、不意に空を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しんと透き通るような、真っ青な空だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その透明な青を見て、僕はやっと気がついたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――ああ、僕の夏は、終わったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日をもって、彼女は僕の前から姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 別に、寂しいとは思わなかった。多分、こうなることは最初からわかっていたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうして僕の、見る人によっては初恋だと言われるような、不思議な体験は幕を下ろしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それでは14番の〇〇さん。前に出て演奏をどうぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 審査員の声で、僕は現実に引き戻された。

 

 

 

 

 

 

 

 見ると、全て会場にいる審査員の目が、僕を向いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その視線の波に恐れることなく立ち上がった僕は、ゆっくりとマイクの前まで歩いていき、ギターを構えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月日を重ねる度に、僕は夏を忘れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、僕は色々なものを忘れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 風鈴の涼し気な音。

 

 

 

 

 

 

 

 昼とは違い、ひんやりとしている朝。

 

 

 

 

 

 

 

 じめじめと暑く、寝苦しい夜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 けどこれだけははっきりと覚えてる。

 

 

 

 

 

 

 

 あの透き通るような青空を覆い隠す、強く優しい入道雲(あなた)のことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの日。

 

 

 

 

 

 

 

 あの夏。

 

 

 

 

 

 

 

 あの季節。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あなたは確かに、ここにいたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして僕は、今でもあなたの返歌を、待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「14番、〇〇です。曲名はーーーーーー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 梅雨はやがて姿を変えて、夏になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ステージに立ちながら僕は、ぼんやりとそんなことを考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 周りからは、割れんばかりの拍手と叫び声が聞こえてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれからミュージシャンとして歩み出した僕は、幸いなことにそこそこ有名になり、今ではライブも開けるようにまでなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、鼓膜がちぎれんばかりのこの拍手も、あなたが鳴らす拍手には遠く及ばない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空を見上げると、徐々に夏へと近づいている季節が、真っ青なキャンバスに入道雲を描いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの雲を見る度に、僕の頭にはあの光景が浮かび上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『それでは最後の曲、聞いてください』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マイクに通された声は、拡大されて辺りに広がった。その言葉を聞いた人々は、悲しそうな声を上げてアンコールを求める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それに応えることなく、僕は笑みを漏らして口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『この曲は、僕がまだ名前もなかった頃に、友人と二人で作り上げた曲です。歌手になることを諦めかけたこともあるし、色々と悩みました。しかしその度に、僕の友人は僕を励まして、助けてくれました。これはそんな僕の、友人のための曲です』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 過去に戻りたいなんて思わない。あなたは今もどこかで、僕のことなど忘れて笑っているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 だがもしも、少しだけでも僕のことを思い出したのなら、今からでもいい。歌っておくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 未だにあなた(入道雲)が忘れられない、愚かな男に対するアンサーソングを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『それでは聞いてください。『入道雲とアンサーソング』』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空に輝く入道雲が、微かに微笑んだような気がした。

 

 




夏が恋しいですね。

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