鬼滅の刃 ──逆行譚──   作:サイレン

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第7話 出会いと別れを繰り返して ④

「……おせぇッ」

 

 灯りの消えた部屋の中で一人起きていた実弥は、呟くように小声で愚痴る。それはこの闇の中で否応無く蓄積された不安から来たものであった。

 

(お袋の帰りがここまでおせぇのは初めてだ……)

 

 普段から夜更けに帰宅することが多かった母親だったが、深夜を超えても戻らないのは明らかに異常であった。

 あと数刻で夜も明ける。心配が募って眠気など何処かへ吹き飛んでいた実弥は、悪いとは思いつつも次男の身体を揺すった。

 

「……玄弥、玄弥」

「……ぅぅん? どうしたの、兄ちゃん?」

 

 眠気まなこを擦って上体を起こす玄弥に、決して異常事態だということを気取られないように実弥は表情を和らげる。

 

「お袋がまだ帰ってこないからちょっと探してくる。入れ違いになったら夜明け前には戻るってお袋に言っといてくれるか」

「う、うん。分かったよ、兄ちゃん」

「頼んだぞ」

 

 ガシガシと乱暴に玄弥の頭を撫でて、実弥は家の外へと出て行った。

 

(とりあえず病院だな)

 

 夜闇を照らす月明かりを頼りに実弥は慣れた道を駆け足で進んでいく。

 徒労に終わるのならばそれでいい。少し本気で母親に説教をかませば終わる話だ。

 自身の生活を母に見つめ直してもらう良い機会かと実弥は口角を上げながら思い、人っ子一人いない道を走っていった。

 

 その考えが心の奥底に淀む嫌な悪寒を見て見ぬ振りするための逃避だとは気付かずに。

 

 

 

「えっ、日が暮れる頃には帰ったんですか?」

「えぇ。そう聞いてるわよ」

 

 病院に辿り着き、夜勤担当の看護婦に母の所在を尋ねた返答がこれだった。

 嘘を言っている様子は無い。そもそも嘘を吐く理由がないならば、本当に母は帰路に着いたのだろう。

 

 問題なのは帰宅した姿を見ていないことだ。

 

「……ッ、すいません、ありがとうございました!!」

 

 実弥は即座に身を翻して来た道を引き返す。

 その顔には既に余裕は無く、最悪の想像を打ち消すように集落への道を駆け抜けて行く。

 

(何かに巻き込まれたのか!? 親父に恨みを持つ誰かかっ!?)

 

 他人に刺されて殺されるような男だ。方々で恨みを買って、その怨恨が母や自分たちにまで波及する可能性は零ではない。

 真っ先にその事態を想定した実弥の行動は迅速だった。一度家に戻って武器を手にしたかったが玄弥を起こしてしまった以上その選択肢は外し、身一つで集落の端へと歩を進める。

 家がある中央地帯は比較的安全なのだが、其処から離れた外周部は治安が良くない。破落戸や浮浪者が多く、暴力が物を言うような場所で、よく父親が入り浸っていたと実弥は知っていた。

 

 そんな場所ではあるが、流石に人々が寝静まるこの時間帯では物静かだ。道の端や軒先で眠りこけている如何にも近付いてはならないような人間は多く見かけるが、昼夜には聞こえるだろう喧騒や怒声は一切耳に入らない。

 

(何処だ、何処にいるお袋っ!)

 

 声を出して散策したいのは山々だが、不興を買うことは確実だ。目覚めた住民に絡まれ身動きが取れなくなっては元も子もない。

 実弥は自分で思うより相当に焦っていたのだろう。焦燥が冷静な判断力を失わせて、手かがりが無い状態で闇雲に探し続けてしまい、無為に時間だけが過ぎていった。

 

 気付けば玄弥と約束した夜明けも近くなっていた。

 

(一度戻らねぇと……っ)

 

 どうしてだろうか。

 その時になって、甚大な悪寒が背筋に走った。

 

 最悪を超える絶望的な妄想が頭からこびり付いて離れない。

 行方の知れない母だけでなく、守ると誓った家族全員の身にも何か起こるのではないかという不安。

 

 汗を垂れ流して全力疾走する実弥は視界の先に帰るべきを家を見つける。

 いつもと変わらない、何事もない様子に安堵して。

 

 直後、戸が破壊されるのを見た。

 

 

 

 

「母ちゃん戻ってこないね。大丈夫かな?」

「大丈夫だって。兄ちゃんが探しに行ってくれてるから」

 

 寝そべっていた寿美の言葉に、就也を抱きかかえていた玄弥は当たり前のように返答した。

 実弥が出て行った後に起きていたのは玄弥だけだったのだが、何かおかしいことに全員が寝た状態でも感知したのだろう。時間を置かずに続々と下の子たちが起き出してしまい、家族総出で母と兄の帰りを待つ状況になっていた。

 

「でも……」

「今までこんな遅くなることなかったのに……もう夜が明けちゃうよ」

 

 今にも泣き出しそうなことに続いて、障子窓を開けて外を眺めていた貞子が隠せない不安を言葉にする。

 玄弥も薄々と感じていた。嫌な予感が拭えず、母が何かに巻き込まれてしまったのではないかという胸騒ぎが止まない。

 それでもこの場に残っている年長者として、弟妹たちを安心させなければならない。それが兄との約束だから。

 

「大丈夫だよ。疲れてるだろ、眠れって。起きたら母ちゃんも兄ちゃんも戻ってるよ」

 

 自分にも言い聞かせるようにそう言って、下の子たちに寝るよう促したその時だ。

 ドンドンッ! と、部屋の戸が外から強く叩かれた。

 音に反応した子供たちは狭い部屋の中を一気に駆け出した。

 

「母ちゃんだ!」

「かあちゃん!」

 

 ことと寿美が真っ先に戸へと近付く。

 追って寿美と弘が戸に向かう中、玄弥は深刻な違和感に囚われていた。

 

(母ちゃんや兄ちゃんはあんな風に戸を叩かない!)

 

 淑やかな母親と家族想いな兄だ。あんな乱暴に戸を叩いて帰宅を知らせるなど、万に一つもあり得ない。

 

「待て!! 開けるな!! 母ちゃんじゃないかもしれな……」

 

 玄弥の言葉は最後まで紡がれない。

 それよりも早く、事態が動き出したから。

 

 次の瞬間、()()()()()()がほぼ同時に轟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここだよ! 珠世さんが言ってた大きな病院がある町に隣接する集落は!」

「止まれ!」

 

 夜闇が薄れ、もう半刻もせずに東方から日が昇るだろう頃合い。

 浅草からここまで一心不乱に走り続けていた義勇と真菰は、一度息を整えるために集落の境界線近くで脚を止めた。

 

 静かな空間だ。悲鳴は聞こえないし、人々の営みすら感じない。

 夜明けも迎えていないのだから当然なのだが、どうしてかこの静寂が不気味に思えてしまう。

 

「真菰、何か分かるか?」

 

 鬼狩りとしての強さだけが取り柄の義勇では役に立てない場面。

 このような緊急事態には鋭敏な嗅覚を備え持ち、鬼の痕跡を少ない手かがりから辿れる真菰にほぼ全権を委ねている。

 くんくんと鼻を鳴らす真菰は、苦々しげに表情を曇らせる。

 

「何となくそれかもっていう残り香はあるけど、薄れてて追えない。件の病院の方なら分かるかもしれないけど……」

「一先ずは此処だ。鬼舞辻無惨が用を終えた後にわざわざ足を運んだのなら、何か事が起きていてもおかしくない」

 

 珠世からある程度の話は伺っていた。

 病院への視察が終わり夜も更けた時間に一人でここまで移動したのだと。その場で誰かを鬼にした形跡は見れなかったそうだが、鬼舞辻無惨の心を動かす何かがあったのだろうと推測は立つ。

 

「仕方ない、一通りこの集落を周る」

「うん、それがいいと思う」

 

 鬼による被害が無いならそれに越した事はない。真菰がいれば鬼の気配は察知可能であり、同時に鬼がいないことも確認出来る。

 もう太陽も昇る朝方近くだから鬼の活動も無くなるだろうと、義勇と真菰はほんの少しだけ肩から力を抜いて軽めに走り出した。

 

「にしても、空間を操る血鬼術って本当かな?」

「あり得る話だ。これまで奴の足取りが追えなかった理由としては尤もだ」

 

 珠世によると、この場を訪れた鬼舞辻無惨は突如として消えたのだという。まるで地面の下に落ちるように、唐突に。

 

 義勇はその正体に覚えがあった。

 この世界で目覚める前の、二十一まで生きた鬼狩りとしての記憶。その最終決戦と称すべき戦いの舞台のなった場所が恐らくそれだろう。

 

 上下左右が滅茶苦茶になった空間。

 無限にも思える広大な城。

 

 珠世からの情報も加えて考えるならば、出入り口を神出鬼没に出現させられるのだろう。

 殺傷能力という点では上弦には及ばないだろうが、その有能性は鬼舞辻無惨の部下の中でも随一である。

 

 この鬼を殺さない限り、鬼舞辻無惨を捉えるのは至極困難だ。

 

「結構キツイよね、それ」

「ああ」

 

 真菰も義勇と同様の結論に至って苦虫を噛み潰したような表情をする。

 匂いで追えても逃げられては意味が無い。

 鬼舞辻無惨の追跡に役に立てるかと思っていた真菰は軽く凹んだ。

 

「聞く限り出入り口は無条件なうえに無制限に出せるっぽいし、本当に──」

 

 厄介だよね、と続けようとした真菰が、いきなり脚を止めた。

 

「どうした?」

 

 伴って停止する義勇が真菰を見ると、その瞳はあらん限りに見開かれていて即座に異常事態だと気付く。

 

「え、嘘……まさか……」

 

 くん、と真菰は鼻を鳴らす。間違いであって欲しいという願いとは裏腹に、嗅覚に訴えてくる情報に変わりはない。

 

「真菰、どうした?」

「……今、たった今鬼として目覚めた人が……」

「なっ!?」

 

 驚天動地の思いを抱き、然れど義勇は一瞬で沈めた。

 

「どっちだ!?」

「あっち……」

「走れ!!」

「ッ!?」

 

 怒声にも似た義勇の大声に真菰は我を取り戻し、ダンッ! と地を蹴って遮二無二に駆け出す。寸分の遅滞無く義勇が並走して、二人は集落の中を疾風となって走り抜ける。

 義勇は真菰を一瞥し、声を荒げないように気を付けながら喉を震わした。

 

「真菰、落ち着け。お前だけが頼りだ。状況を説明しろ」

「っ、うん!」

 

 焦りに支配されていた真菰は、義勇の言葉で平静を取り戻す。今まで遭遇したことが無い最悪の瞬間を嗅ぎ取り、茫然自失となってしまった先程の自分を悔いていたのだ。

 今ので十数秒を失った。これが明暗を分けるかもしれないのに。

 

 だが、諦めるのは論外だ。まだ本当の最悪には陥っていない。

 決然とした眼差しで、全ての雑念を排除した真菰は前を向いた。

 

「鬼は目覚めてすぐに移動してる! 私はそのおおよその進行方向に進んでる!」

「人間を襲っているか?」

「ううん、無視してる! 目的があるんだと思う!」

 

 真菰の言葉を飲み込んで義勇は状況を把握。

 これまでの経験とありったけの知識を総動員して、刹那の間に最悪の展開を思い描いた。

 

「狙いは家族か!!」

「っ!?」

 

 義勇の思考の帰結を耳にして真菰は息を飲む。

 あってはならない。その結末だけは阻止しなければならない。

 止める。絶対に止める。止めてみせる。何が何でも。義勇がいるのだ、不可能だなんて考えない。

 

 その為に己が成すべきことを真菰は瞬時に理解した。

 

「私が絶対に家族を嗅ぎ分ける! 集中したい!!」

「──来い!」

 

 真菰の意図を察した義勇は即座に応答し、義勇を信じていた真菰は返答の前に舵を切り、体当たりする勢いで義勇の脇下に飛び込む。

 義勇は片腕で真菰を脇に抱えて、その状態で速度を一切落とす事なく疾走。

 

 これで真菰は嗅覚だけに集中できる。

 

(鬼になって匂いが変化してるけど、衣服に染み付いたそれはまだ変わってない……)

 

 身体の支えを全て義勇に委ね、真菰は己の内へと埋没する。瞳を閉じて光を消し、耳に入る音を削ぎ落とし、全神経を嗅覚に集めて研ぎ澄ます。

 

(違う、違う、違う、違う……これだ!)

 

 鬼の服の匂いを特定し、無限にも等しい匂いを一つ一つ取捨選択して家族の居場所を洗い出す。

 自分たちとの位置関係、目的地までの障害物、建物内の何処にいるか。

 義勇に託すべき全ての情報を選出し終えた真菰は、瞳を見開いて真っ直ぐに正解への方向を指差した。

 

「この方向、此処から家の連なりを五つ超えた、左端から七つ目の二階の部屋! 行って、義勇っ!!」

「任せろ!!」

 

 真菰の最大限の尽力に、義勇は力強く応えた。

 抱えていた真菰を放り、激烈な踏み込みで義勇は宙へと跳ぶ。その類稀なる身体能力は、一息の跳躍で遥か先の家屋の上へと辿り着く。

 

(一つ目、二つ目、三つ目、四つ目!)

 

 一度も止まる事なく疾駆と跳躍を繰り返す。

 鬼が今どうなっているのか義勇には分からない。もしかしたら、もう手遅れになっているのかもしれない。それでも止まるわけにはいかない。不安や焦燥の全てを押し殺して、自身の最大速度を緩めない。

 五つ目の家の連なり。屋根へと足を付けた義勇は視界に映る光景を瞬時に認識。

 真菰の指示を元に飛び込むべき部屋を定めて、素早く日輪刀を引き抜いた。

 

 刃で見立てるは戦場を撃ち抜く鏃。

 空気抵抗を最小限に、宙を奔る一本の矢。

 屋根瓦が割れ砕ける踏み込みで、義勇は真っ直ぐに跳んだ。

 

 ──水の呼吸

【漆ノ型 雫波紋突き・翔】

 

 蒼き流星が、宙を翔け抜ける。

 音を置き去りに蒼の軌跡を残すその威容は、まさしく天空に煌めく雷。

 

 瞬きの間に、義勇は目的の部屋の窓枠へと到達した。

 

「ふっ!」

 

 研ぎ澄まされた感覚で窓枠近くには誰もいないことを察知し、切っ尖が触れると同時に斬り払って部屋へと侵入。

 数瞬遅れて聴こえたのは破砕音。

 床へと片足着地して、確認した前方。

 

 視界に飛び込んできたのは、黒き影が小さな者たちへと凶爪を振るうまさにその瞬間だった。

 

 ──絶対に、守り抜くっ!!

 

 誓いを力に。

 思いを刀に。

 

 意志の強さが奇跡を起こす。

 その瞬間、義勇は誰よりも早く動けた。

 

「っ!」

 

 小柄な影を縫って義勇の突きが鬼の左肩を貫く。これで左手の攻撃を中断させた。

 鬼は態勢を崩すも止まらない。

 振り抜かれる右手。義勇は己の左手を犠牲に、子供の前へと射し込んで爪ごと鬼の手を掴み取った。

 掌の肉が抉られ血飛沫が部屋に舞おうとも、義勇は痛みを感じさせない形相で眦を決する。

 

(放さないっ!!)

 

 紅に濡れようと、五指繋がった左手に宿る力は絶大だ。成り立てとはいえ身体機能が格段に向上した鬼とも互角以上に張り合い、一瞬の硬直が生まれる。

 

「ガァッ!!」

「っ!」

『うわぁっ!?』

『きゃあっ!?』

 

 焦れたように鬼は踏み込んで天井へと跳ね、灯りとなっていた電球がパリンと音を立てて割れた。

 巻き添えを喰らい壁に激突する義勇だが左の拘束は決して解かず、右に持つ日輪刀は肩を貫いた状態を保つ。

 

(ここでは不用意に動けないか!)

 

 状況が悪過ぎた。民間人が、それも子供が六人もいるこの小部屋では鬼を斬るなんてまず不可能だ。

 必要とあれば家族の前でも刃を振り抜く覚悟はあるが、義勇だって出来るならばしたくはない。

 

 この()はまだ、一人も殺していないのだから。

 

「おらぁあああああああッ!!」

「っ!?」

 

 切羽詰まった窮状に現れたのは自分たちに突っ込む第三者。

 新たに部屋へと入ってきたその襲撃者は包丁を片手に、躊躇い無く義勇たちへと突貫してきた。

 豪胆な行動に驚嘆を禁じ得ない。押し飛ばされる立場であるが、そのお陰で状況が最悪からまともな戦況へと好転した。

 

 窓から飛び出る三人。

 地面へと堕ちていく最中で、義勇は襲撃してきた少年だけを技を用いて弾き飛ばす。

 

 ──水の呼吸

【陸ノ型 ねじれ渦】

 

 上半身と下半身の捻りで鬼と一体となって回転。少年が怪我をしないように細心の注意を払いながら、逆らえない遠心力の理でもって少年を地面へと放った。

 義勇はそのまま両足で綺麗に着地して、鬼から日輪刀を引き抜くと同時に卓越した体捌きで鬼の両手首を左手のみで背中側に拘束。ぬるぬると自身の血で滑るのを強力な握力で無理やり固定して、その場から走り出した。

 

「テメェらぁ、待ちやがれぇえええええっ!!」

 

 背後から聴こえる少年の怒声に義勇は苦渋の表情を刻む。出来れば追って来てほしくは無かった。

 家族の前で頸を断つ光景も、陽の光に晒して焼け死ぬ姿も、見せたくはないから。

 それでもやはり、家族だからこそ顛末だけは知っておくべきなのかもしれない。

 

 日の出までに陽光を遮れる場所を目指して、義勇は視界の先に映る森林を目指して走り去って行った。

 

 

 

 

 鬱蒼とした葉によって太陽の光が届かない、朝の輝きで視界だけは確保可能な森林の中。

 足を止めた義勇は追走してきた少年と向き合う。

 

 その顔を見て、心底ぽかんとしてしまった。

 

「不死川……」

 

 相手に聴こえない声で名前を漏らす。

 方々に跳ねた白髪の髪に鋭い目付き。身体や顔に傷はないが、見覚えのあるその容姿。

 

 記憶に残る風柱──不死川実弥に相違ない。

 

「テメェ、俺の家族に何をして……」

 

 途中で止まるあの頃より少し幼い声音を聴いて、そうだったのか……と義勇は微かに俯く。

 左手で拘束したその人。落ち着ける状態で確認して、三十路近くの女性だと判断は付いていた。

 義勇の推測と真菰の割り出した答えは正解であった。この女性は間違いなく、あの場にいた子供たちの、目の前の少年の血縁者。

 

 ならばもう、正体は知れていた。

 

「お、お袋?」

「ウグゥゥッ!! ガァァッ!!」

 

 実の息子の呼び掛けに返るのは、人とは思えない唸り声。

 血管が幾筋も浮いた面貌は完全に正気を失っており、瞳孔はまるで猫のように縦に長くなっている。唾液が零れる口から覗くのは、肉食獣のように尖った牙。いっそ獣だと言われた方が納得出来る、変わり果てたその姿。

 母親の変貌に、実弥は縋るように歩き出した。

 

「お袋……どうしたんだよお袋! なんで、どうして、一体何がっ……ッ!」

 

 その矛先が義勇へと向かうのは、仕方のないことだろう。

 

「テメェッ!! お袋に何しやがったァッ!!」

 

 実弥は義勇に襲い掛かろうと猛然と足を上げるが、義勇の行動の方が遥かに早かった。

 

「動くな」

「ッ!?」

 

 日輪刀を女性の頸に添えて、実弥の動きを封じる。

 冷静でいられるわけもないが、せめて話が可能な状態にする必要があった。

 

(すまない、不死川……)

 

 鬼殺隊はいつも間に合わない。

 鬼の存在が情報網にかかる頃には、もう被害が出た後だ。

 今回は奇跡的に情報を事前に手に入れられた。

 真菰という稀代の逸材がいたから子供たちは救えた。

 

 だが、母親は護れなかった。

 

 怒りの捌け口になるくらいしか、義勇には出来ない。

 

「俺の仕事は、鬼を斬ることだ。勿論、お前の母親の頸も刎ねる」

「なッ!? ふっ、巫山戯るなァッ!!」

 

 淡々とした義勇の言葉に、実弥は感情のままに怒鳴り散らす。

 

「お袋は鬼なんかじゃねェ!! お前が、お前がお袋に何かしやがったんだろ!?」

「違う。俺は鬼を殺す組織に属している。そして、お前の母親は鬼になっている」

「そんなわけがねぇ! お袋は人間だ! ずっと、ずっと一緒に暮らしてきたんだぞッ!!」

「なら、簡単な話だ。昨夜のうちに、鬼の始祖の血が体内に入って鬼となった。人喰い鬼は、そうやって増える」

 

 いつか何処でしたようなやり取りだ。

 あれ以来一切の進歩が見られない自身の不器用さを不快に思う。

 

「お袋は人を喰ったりしねぇ!!」

「先程家族が襲われた場面を見たばかりだろう」

「ち、違ぇ! そんな、そんなわけが……っ!」

「……どんな善人であろうと、鬼となれば理性を失い人を喰らう。だから俺たち鬼殺隊が存在する」

 

 鬼を斬る仕事。

 頸を刎ねる。

 鬼を殺す組織。

 鬼殺隊。

 

 実弥は鬼という存在を知らない。噂話程度には小耳に挟んだかもしれないが、自分たちには関わりがないと興味関心が皆無であった。

 

 だけど、見て分かったのだ。

 今なお声を荒げ暴れ続けている母親が、人から別の生き物に変化してしまったことを。

 鬼と呼ばれる人非ざる何かに、変えさせられたことを。

 

 目の前の、実弥と年の頃が変わらない少年は、母親を斬ると言っている。鬼だから頸を刎ねると。

 母親を人質に取られている以上、実弥が取り得る手段は一つだけだった。

 

「俺が必ずお袋を人間に戻す! 絶対に治すッ!!」

「……鬼がこの世に生まれてから千年経つとされているが、()()()()()()()()鬼となった者が人間に戻ったことはない」

「探す! 俺が必ず人間に戻れる方法を見つけ出すから、殺さないでくれッ!!」

 

 必死に言葉を並び立てるも、義勇の双眸はしんと冷えたままだ。

 何を言い募ろうと淡白な反応しか返らない為に、実弥は段々と焦りに苛まれる。

 

「お袋を鬼にした奴も必ず見つけ出すからッ!! お袋に人を喰わせなんかしないからッ!! 家族も絶対に守るからっッ!! 俺が全部ちゃんとするからッ!! だから頼む、止めてくれッ!!」

 

 如何にその言葉が空っぽなものかを、実弥は知らない。

 未来に於いては定かではないが、今の実弥は余りにも無力。自覚が無い分、法螺吹きよりも性質(たち)が悪い。

 決して実弥が悪だという訳ではない。人々の平穏という視点から見れば、害悪は異論なく鬼であり、元凶たる鬼の始祖である。

 

 それでも、護るべきものがある義勇は選択するしかないのだ。

 

「甘えたことをぬかすな、この愚か者!!」

「ッ!?」

 

 荒々しい激情の発露。迸る威圧感だけで実弥の身体をビリビリと震わせる。

 冷静沈着然としていた義勇からは想像も出来なかった怒声に、実弥は容易く気圧された。

 

「今この場で母親を見逃せば、一体のどれだけの死者が出ると思っている!! 俺が間に合わなければ、お前の母親は子供たちを殺していたんだぞ!!」

 

 容赦の無い事実を突きつけて、義勇は左手に込める力を強くする。

 

「お前の言葉は空虚に過ぎる! 奪うか奪われるかの時に主導権を握れない弱者が、鬼となった母親を制御し、剰え救うなど……笑止千万!!」

 

 母親を前へと突き出し、義勇は実弥の双眸を真正面から見据えた。

 

「母親を、家族を護りたいというのなら、生殺与奪の権を他人に握らせるな! 俺を納得させる力を証明してみせろ! その手で俺から、母親を取り返してみせろ!!」

 

 義勇の言葉に、どくんと実弥の心臓が跳ねる。

 弟と約束したばかりだ。

 これからは、これからも、二人で家族を守ろうと。

 例えそれがどれだけ理不尽なものだとしても、実弥が屈するわけにはいかない。

 胸の内から溢れるのは使命感か。

 何も為せない自身への怒りか。

 

 その様子を見て、義勇は刀を構える。

 

(……すまない)

 

 (おもて)には出さない謝罪をもって、義勇なりの誠実とする。

 何も知らない少年を、言葉で無く力で屈伏させる方法しか、義勇には分からない。

 

(俺には、こういう導き方しか、出来ないんだ)

 

「やっ!?」

 

 慌てた声を出す実弥を無視して、義勇は日輪刀の切っ尖で母親の左肩を突き刺す。

 

「ギャアアアッ!?」

 

 血の匂い。母から溢れる紅い命の雫。

 

「やめろォおおおおおおおおおッ!!!」

 

 鮮血を噴き出して絶叫する母親の姿を見て、実弥の箍が外れた。

 

「お袋ォおおおおおおおおおおッ!!!」

 

 悲痛と怒りと愛と願望と、万感の思いを孕んだ声音で実弥は母を呼びながら義勇へと肉薄する。

 包丁を構えているものの、どう見てもそれは感情に任せた単純な突撃だ。

 

 愚かと断ずる他ない。

 

 意識を奪うのを躊躇ってはいけないと義勇は日輪刀を振り上げる。

 その時、何の因果か、母が息子の叫びに呼応するように変化した。

 

「なっ」

 

 ズズズズッと身体が大きくなる。常であればその程度の変化には動揺を示さないが、今だけは勝手が違った。

 成長途上で義勇の手の大きさが心許なかったからか。

 掌から流れる己の血で滑り易くなっていたからか。

 

「ガァッ!!」

 

 僅かばかりに大きくなったその手首。

 切迫した状況では充分以上の変貌であり、不意を衝かれる形で左手の拘束を外されて、鬼の鋭い蹴りが義勇を撃ち抜いた。

 

(しまった!?)

 

 地面と平行に蹴り飛ばされた義勇は即座に空中で体勢を整えて着地するも、陥った状況は最悪だ。

 鬼が自由を取り戻しために発生した予断を許さない三つ巴。

 ()()()同じ失態を犯してしまった義勇は己自身に忌々しげに舌を打ち、猶予の絶無さに日輪刀の握りを強くする。

 

 次の瞬間、義勇目掛けて包丁が飛んできた。

 

「っ!?」

 

 咄嗟に刃を振るって弾くも、生まれた間隙はあまりにも致命的。

 

「お袋ォッ!!」

 

 武器を投擲して無手となった実弥は不用意にも母親へと走り寄り、全身全霊の力を込めて母を抱き竦めた。

 

「ウグゥッ!!」

「お袋! 頑張れお袋! 鬼になんかなるな!! 頑張れ、頑張ってくれ、お袋ッ!!」

 

 実弥は母の口元を自身の胸板に力付くで押さえ付けて噛み付かれるのを防ぎ、鋭利な爪に引き裂かれないように空いた片手で両腕の動きを封じる。

 本当に命懸けの抱擁であった。たった数秒ほどてあったが、只の少年が成し得たとは信じ難いその行為。

 短くともいい。強く優しい母が鬼に負けるなんてあり得ないのだと、実弥は必死に思いの丈を打つけて──現実は無情にも牙を剥く。

 

「ガァッ!!!」

 

 鬼は実弥の拘束を無理矢理に引きちぎる。

 弾かれた実弥はよろけるように後退して、振り抜かれる凶爪に反射で反応してみせるも完全には避けきれなかった。

 

「ッッッ!?」

 

 顔に灼熱の如き激痛が襲う。顔面の右側、額と頰から鼻にかけて二筋の裂傷が刻まれて鮮血が噴き出す。

 致命傷には成らずとも、実弥の動きは既に精彩を欠いていた。次の攻撃はどうあっても避けられない。

 

 ──ここまでかッ!!

 

 此処で実弥を死なすわけにはいかない。

 いつか未来の鬼殺隊として戦力などという点を度外視に、義勇は無辜の民である少年を護らなければならないから。

 義勇の心から日輪刀を真一文字に振りきる躊躇が消え失せた。

 

 ──水の呼吸

 

 迫る母の魔手。

 その背後で刃を振るわんとする鬼殺の剣士。

 

【壱ノ型──

 

 絶望的なその光景を前に、実弥は最後まで奇跡を願っていたのだろう。

 

 

 

「──母ちゃんっ!!!」

 

 

 

 気付けば、そう叫んでいた。

 実弥自身が大きくなったからか、思春期になって恥ずかしかったからか、下の子たちへの示しが付かないと思っていたからか。いつの頃からか呼ばなくなった母の呼称。

 子供が生まれてから一番慣れ親しんだその呼び方が、もしかしたら人としての理性に届いたのかもしれない。

 

「アっ……ゥあッ……」

 

 刹那、彼女──不死川鈴の動きが完全に止まった。

 

「っ!?」

 

 目を見開いて驚愕したのは義勇だ。

 頸を斬らなければ絶対に間に合わなかった。実弥が、人が殺されるならば家族の前でも躊躇いなく鬼へ刀を振るう覚悟でいた。

 実弥の血については勿論知っている。動きが鈍ったのは稀血の効能なのかもしれない。

 

 だが、理由は何でもいいだろう。

 奇跡が起きたことに違いはないのだから。

 その一瞬の猶予が、義勇の振るう手を変えさせた。

 

「ふっ!」

 

 右の刀ではなく、左の手刀。

 女性の首裏に落とした一撃は容易く意識を刈り取る。

 

「あっ……!?」

 

 崩れ落ちてゆく母を支えようと実弥は手を伸ばすも、あと一歩が届かない。

 

「……すまない」

「かっ……ぁ……」

 

 背後に回り込んだ義勇は、同様の手段で実弥の意識を奪う。

 ドサリと、音を立てて前へと倒れる二人。

 投げ出された二人の姿勢は、奇しくも大事な人と繋がるように手を重ね合わせていた。

 

 

 

 

「義勇っ!」

「真菰か……」

 

 慌てたように駆け付けて来た真菰に一瞥だけ向けて、義勇は傷の処置を終えた実弥と鬼となった女性を近くの樹に腰掛けさせた。

 真菰は少年と女性を順々に見つめた後に、匂いを嗅いで安堵の溜息を吐く。

 

「死者はいないんだね」

「あぁ、この()は誰も殺していないし喰っていない」

 

 義勇のその言葉に真菰は微かに瞠目する。

 鬼殺隊士である義勇が鬼に対して人という言葉を使うのを初めて聞いた気がした。その心根は誰よりも優しいと知ってはいるが、義勇の中のそれにはきっちりと区別があった筈。

 何か心変わりする原因はあっただろうかと真菰は思考を巡らせ、然程時間を置かずに思い当たる。

 

 そして、義勇が何を考えているかを察して時を止めた。

 

「義勇、まさか……っ」

 

 その後を続けようとした真菰は咄嗟に口をつぐむ。

 後ろから迫って来た別の隊士の匂いを嗅ぎ取ったからだ。

 

「義勇様、真菰様!」

「お前は、先日会った……」

「あの時はお世話になりました。それよりも、無惨らしき気配を察知したと報せがありましたがどうなりましたか!?」

 

 やって来たのはつい数日前に出会った青年隊士であった。唯一生き残った少女を身を呈して庇った傷は重度のものでは無かったためか、もう前線へと復帰していたらしい。

 二人はこの場所に急行する前に報せを撒いていた。その内容は『鬼舞辻無惨と思われる強大な鬼の気配を察知、近隣の隊士は至急東京府京橋區へ馳せ参じよ』というものだ。

 緊急時であり二羽しかいない烏による情報伝達だった為に間に合ったのは義勇たちだけであったが、青年の様子から相当に急いで駆け付けてくれたと見える。

 義勇と真菰は青年の逸る声に、沈痛な面差しで答えとした。

 

「無惨は逃したようだ」

「……そうですか。もしやその方たちは……」

「今回の被害者と、その子供だ」

「っ!?」

 

 鬼となった女性と顔面を包帯で巻かれた少年を見て、青年は苦渋を飲まされた表情を浮かべる。鬼に殺されなかったのは幸いではあるが、家族の人の尊厳が強制的に奪われた苦痛は想像すら出来ないものだ。

 

「真菰、ほかの家族はどうなった?」

「怪我した子はいなかったよ。なんとか落ち着かせて、窓から外に飛び出たお兄さんが戻るまで絶対に此処から動かないでねってお願いしたけど……」

 

 萎んでいく声を樹に凭れかける二人に向ける。

 鬼となった女性の姿を見て、真菰はこの家族の関係性を把握していた。父親らしき存在は部屋から匂いすらしなかったので、子供たちの境遇に悲哀を感じずにはいられない。

 状況をまとめ終えた義勇は沈思黙考に移り、どう後始末するかに段階を移すと。

 

「義勇様、この場は俺に任せて頂けないでしょうか?」

 

 黙っていた青年がそう発言した。

 進言自体に不自然はないが、この特殊な現場を見られている義勇としては青年の意図が掴み切れなかった。

 何が問題なのかは単純明快で、気絶した鬼をまだ斬っていない現場を見られたことだ。咎められたとしても藤襲山に連れて行くという一応の建前は用意出来ているが、誰にも目撃されないのが最良であった。その他にも子供たちの保護など、やらなければならないこと数え上げればキリがない。

 義勇は静謐な眼差しでもって青年へと視線を合わせ、何かを感じ取った青年も真摯に向き合ってみせた。

 

「説得してみせます。母親について、鬼殺隊について、今後について、説明事項はたくさんありますから。それに、義勇様と真菰様には他に為すべきことがあるでしょう?」

 

 明鏡止水の心の水面に一滴の雫を落とされたような、そんな面持ちで義勇は青年を見返す。

 流石に何をやろうとしているかを察している訳ではないだろうが、断言に近い物言いには少々の焦りを覚えた。そこまで見抜かれ易い表情をしていたのだろうかと思う。

 もしその懸念が筒抜けになっていたとしたら、真菰は鼻で笑っただろう。つまり義勇の鉄面皮はいつも通りである。

 青年の瞳は真っ直ぐに義勇を見ていた。そこに宿るのは優しさや慈しみといった善良な感情のみ。

 己の直感に従い彼なら大丈夫だと即断即決して、義勇は女性を横抱きにして持ち上げた。

 

「この場は任せた。この女性は、俺が()()()()

「畏まりました」

 

 片膝をついて頭を下げる青年に、真菰が家の場所や家族構成などの詳細を伝えていく。

 

「それとですね、これは恐らくになるんですが……」

 

 続く真菰の言葉に青年は瞠目した後に、仔細理解したと首肯する。

 

「もし俺の言葉が届くようなら、すまないと伝えてくれるだろうか?」

「はい、勿論です!」

 

 残る理由が無くなった義勇は最後に実弥を見て、呟くように言伝を口にする。青年はいつか出逢うだろう太陽のような少年みたいに、快活に了承してくれた。

 

 森の奥深くへの進路をとって、義勇と真菰は歩き出す。

 青年は二人の姿が消えるまで見送るつもりだったのだが、不意に義勇が振り向いた。

 

「名を聞き忘れていたな」

 

 目を合わせて問う義勇に、しばしキョトンとしてしまった青年は盛大に慌てふためいた。

 

「これは失礼いたしました!」

 

 まさかそんな基本的なことを疎かにしていたとはと深く反省し、青年は静々と胸に手を当てる。

 

「申し遅れました。自分は──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの場を立ち去った後、義勇と真菰は森の中をしばらく移動し続けた。

 人の営みからそれなりの距離を置いて、頃合いだろうと判断した義勇は脚を止める。

 

「真菰」

「なーに?」

「珠世殿の遣いはこの場に居るだろうか?」

「うん、ちゃんと着いてきてくれてるよ」

 

 集落までは途中から私が持ってたんだけど……という呟きを濁して半ば予想していた問いに真菰は即答して、ここまでずっと寄り添っていた血鬼術の匂いの側へとすすっと動いた。

 その返答に義勇は数秒の間だけ沈黙し、決意を新たにして真菰が示す場所へと向き直る。

 

「音は届かないと思うけど……」

「それでも、俺には声に出して伝えるしか出来ない」

「……分かったよ、義勇」

 

 珠世を見逃している時点で真菰も同罪であり、義勇と共に命を懸ける覚悟は既にしてある。今更一人二人増えたところで変わらないというわけでは当然ないが、ここまで来たらとことんまで付き合うつもりだ。

 一歩離れて真菰が見守る中、選び抜いた言葉を頭の中で反芻し終えた義勇はゆっくりと口を開く。

 

「珠世殿、愈史郎殿。どうか聞いてほしい」

 

 この場にいない者たちの名前を呼び掛け、義勇は真摯に思いを紡ぐ。

 

「貴女方に危害が及ぶ可能性が増すことは重々承知している。無理強いはしないし、断られたからといって貴女方を裏切ることは決してしないと誓う。ただ、それでも願わせてほしい」

 

 横抱きにした女性を前へと出し、義勇は言葉少なく願いを口にする。

 

「この人の理性と記憶を、取り戻してはくれないか」

 

 まるで天上の世界に住むとされる神への祈りのように、陽の差さない薄暗い森の中で義勇は片膝をついて姿勢を低く取る。

 義勇には見えないが目の前にいる協力者の遣いを通して、この女性の顔が良く見えるように。

 

 義勇に出来るのはここまで。

 あとはもう、待ち続けるしかない。

 側に寄り添い義勇と同じ姿勢を取った真菰と共に、虚空へと視線を投げかけた。

 

 実際の時間としては十秒も経っていないだろう。

 永遠にも感じられる沈黙の中。

 

 不意に、さらさらと目の前の空間が波打つように揺らいだ。

 

 現れたのはくりっと可愛らしい瞳を持った一匹の仔猫。今日出会ったばかりの、見覚えのある模様の四足獣。

 珠世から聞いた内容ならば、この仔猫が現れる合図は鳴き声だったはず。

 だが、今回は唐突にその姿を現した。

 

「愈史郎くんが血鬼術を、意図的に解いたみたい……」

 

 真菰の嗅覚はその事実を捉え、義勇の直感もそう訴えかけてくる。

 

 仔猫の意思ではなく、愈史郎もとい珠世の決断。

 

 ぱちくりと瞬きしていた仔猫は、ぐぐっと身体を伸ばした後にとある方向へと歩き出す。

 主人の意向を汲み取ったのだろう。停止していた義勇と真菰へ一度だけ振り返り、まるで着いて来てと言わんばかりににゃーっと一鳴きした。

 

 その様子を見て、義勇と真菰の間に小さくも確かな笑みが溢れた。

 

「ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 側に誰かがいる。目を瞑っているのに、意識は闇に落ちているのに、何故かそう確信していた。

 その人は暗闇の中で、倒れ伏している自分の耳元に顔を寄せた。

 感じるのは限り無い愛情と、ただただ心苦しいという想いのみで。

 

「いつも迷惑ばかりかけてごめんね、実弥」

 

 耳を擽るその声の心地良さを覚えている。

 いつも側で家族を守り支え続けてくれた、優しく強い人の声。

 

()()()()()。それまでみんなのこと、お願いね」

 

 目覚めると同時、勢い良く起き上がった。

 

「母ちゃんッ!?」

 

 実弥は髪を振り回す勢いで辺りを確認する。

 いない。気絶させられる前には目の前にいた筈の母の姿が何処にもない。同時に、自分が集落から程近い森林地帯の端っこにまで運ばれていると気付く。

 

「起きたか」

「っ!?」

 

 聞き覚えのない声にびくりと反応し、培われた危機管理の経験から実弥は発生者から距離を取るように動いた。

 樹の陰にいて見えていなかったのだろう。目線を走らせると、実弥の反応に瞬きして驚いている青年がいた。

 見覚えはないが、先程まで母の頸を斬ると言っていた少年と同じ服装をしている。

 

 実弥にとっては、それだけで敵として認識するに値するその姿。

 

「テメェ、お袋をどうしやがったッ!?」

 

 激情に駆られた実弥は条件反射で殴り掛かろうと動き出し、術理の理の無い我武者羅な拳を振るう。

 対する青年は、迫り来る攻撃に一歩も動くことは無かった。

 

「なッ……」

 

 ゴッ、と嫌な音を立てて実弥の拳撃が青年の頰に突き刺さる。それなりの威力が込められていた一撃に、青年は派手に殴り飛ばされた。

 その成り行きに茫然と止まったのは実弥だ。躱されることも況してや防がれもしないとは、微塵も思ってもいなかったから。

 

「いててっ……流石に無防備に受けるもんじゃないな」

 

 青年は赤く腫れた頰に手を寄せて立ち上がり、真っ直ぐに実弥と視線を合わせた。

 

「君の気持ちは分かる。俺を殴って気持ちが晴れるなら全部受け止めるよ。だから頼む、その後で構わないから俺の話を聞いてくれないか?」

「…………ッ!?」

 

 青年のその言葉に、一瞬だけ収まった怒りが一気に燃え上がった。

 

「何が俺の気持ちは分かるだッ! ふざけんな、ふざけんなよお前ッ!! お袋が、母親が鬼なんて意味分かんねェもの変えられた俺の気持ちがッ、分かってたまるかよ!!」

 

 怒声を吐き散らかして実弥は青年に吠える。

 実弥はもう理解してしまったのだ、母が人外に成れ果ててしまったことを。

 

 そして、この場にもういないということは、()()()()()()なのだということも。

 

 実弥だって、これは夢だと思いたい。

 家に帰れば何事も無くて、弟妹たちが笑っていて、母が優しく微笑んでおかえりと言ってくれる、そんな妄想に閉じ込もりたい。

 でも、もう取り戻せないのだ。

 今までは当たり前だった幸福に過ごせた日常はもう、永遠に失われたのだ。

 

 爆発する感情の奔流に、実弥の瞳からは気付けば涙が零れ始めた。

 気安く気持ちは分かるなんて、吐き気がするような慰めだった。

 この赫怒に任せて再び手が出そうになったところで、青年の囁きが耳朶を打つ。

 

「俺の家族は全員、鬼に殺された」

「ッ!?」

 

 思わず、脚が止まる。

 目を大きく見開いて、まじまじと青年の顔を見てしまう。

 黒の短髪を逆立たせた、左頬に二筋の傷痕を刻んだその面貌は、深い悲しみに彩られていた。

 

「父さんも、母さんも、年の近かった弟も、みんな殺された。一人も守れないで、俺だけが生き残った……っ」

 

 悔やんでも悔やみきれない後悔が滲んでいる。それが嘘ではないことなんて、一目見ればすぐに分かった。

 

「そして、今回も俺たちは間に合わなかった」

 

 実弥の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ後に、青年は両膝を地面に付ける。

 両手を前に、上半身を頭ごと下げ、土下座の姿勢になって。

 

「君の母親を守れなかった。義勇様に代わり、鬼殺隊を代表して謝罪する。すまない」

「ッ!?」

 

 何の躊躇いも無く地に跪いて謝罪する青年に実弥は息を飲んだ。

 怒りも悲しみも困惑も全部が全部どうしようもなく暴走する感情の荒波に、訳が分からなくなってくる。

 

「あ、謝って、どうにかなるもんじゃねェ……ッ! アンタに謝られたって、お袋はッ……もうッ!」

 

 実弥にだって分かっていた。

 初対面のこの青年は何も悪くないことを。先程の少年──義勇が弟妹たちを守ってくれて、母が人殺しへと、家族殺しという最大の禁忌へ触れて堕ちるのを止めてくれたことも。

 自分が何も出来ずにただ八つ当たりに喚いていることも。

 全部、全部、分かっていた。

 

「……クソッ、クソォ……ッ!」

 

 両眼から溢れて止まらない滂沱の涙を流しながら、実弥は地面へと蹲る。

 暴力ばかりを振るう父親がいなくなり平穏が訪れて、弟妹たちに心細い思いをさせないように長男である自分が家族をこの手で守っていくと誓ったのに。

 自らの手が傷だらけになるのも厭わずひたすらに拳を地面へと叩き続けて、己の無力さを呪う。

 

「クソッ、クソッ、クソッ、……クソォッ!!」

「…………」

 

 自責の念に潰れそうになる実弥を見て青年は立ち上がり、側に寄り添って優しく背中を撫でる。

 実弥が泣き止むまでの長い間、彼はずっとそうしていた。

 

 

 

 

「君たち家族は鬼殺隊で保護したい」

 

 目蓋を泣き腫らしつつも落ち着いて話が可能な状態となった実弥に、地べたに並んで座っていた青年はいの一番にそう告げた。

 

「そいつはありがてェが……」

 

 ほぼ無意識のうちに実弥の言葉が濁る。

 見聞きしたこともない鬼殺隊を今の段階で信じるなど無理だ。家族の命を預ける以上、いくら金銭面の憂慮が大きかろうと慎重にならざるを得ない。

 青年も実弥の懸念については察していた。

 

「鬼殺隊には同じような境遇の子が沢山いる。孤児院があるから其処預かりになるか、藤の花の家紋を掲げた鬼殺隊に協力してくれる家の里子となるかが一般的だな」

「……衣食住は?」

「その点はバッチリだ。絶対に不自由をさせないと誓う」

 

 力強く言い切られて、実弥の心情が微かにだが揺れ動く。

 鬼殺隊は信じられなくとも、目の前にいるこの青年は信じられる。直感だったが、間違っていないと思っていた。

 その後も勉学の環境や将来取り得る道についてなど、弟妹たちにとっての幸福を最大限に考えられる要素を聞き取っていく。

 最終的には彼奴らに聞くしかないと実弥が考えを纏めたところで、青年は僅かに顔を歪めて重苦しく切り出した。

 

「出来れば安全が確保しやすい孤児院に入って欲しい」

「……理由は?」

「確定情報ではないと前置きさせてもらうが……」

 

 青年自身はあの方が言うのだから確実だと思いつつも、直前に真菰から伝えられた情報を口にする。

 

「君を含めて、君の家族は鬼に狙われやすい体質をしているからだ」

「なっ……!?」

 

 聞き捨てならない発言に実弥を驚愕を露わにする。

 

「察していると思うが、鬼の主食は人間だ。そして人間の中には鬼にとって栄養価が非常に高い者たちがいるらしい。そういう人たちを稀血と呼んでいるんだが……」

「俺の家族は全員、その稀血ってことか……」

 

 ふざけやがってと、実弥は拳を強く握る。

 それではもう取れる選択肢など無いに等しい。

 

 ──母親を、家族を護りたいというのなら、生殺与奪の権を他人に握らせるな!

 

 脳裏に焼き付いて離れない義勇の言葉。

 出逢いが最悪だったためにいけ好かないという気持ちしか抱けないが、言っていることは真理である。

 

「なぁ……鬼殺隊には孤児院があるって言ったよな」

「ああ」

「鬼ってのは、そんなに多く存在しているのか?」

「そうだな……。被害が無い夜なんてないだろうな」

「そうか……」

 

 湧き上がったのは、許せないという憎悪にも近い怒りだ。

 母親を鬼に変え、家族の運命を無遠慮に踏み躙った者がのうのうと生きているなど、腑が煮えくり返って仕方がない。

 そして尚も家族の命を脅かすというのなら。

 

「俺が家族を守る。鬼殺隊に入って、鬼共を殲滅してやる……ッ!」

 

 確固たる決意を胸に、実弥は己が進むべき道を定めた。

 

「いいんだな?」

「あぁ、今度は俺が絶対に守り抜くんだ……あの野郎みてェに」

「ははっ……義勇様を目標にするなんて、随分と大きく出たな」

「義勇様ァ?」

 

 土下座された時から気になっていたことを今更ながらに思い出す。

 

「アンタの方が年上だろう。なんで敬称なんか使ってやがる?」

「鬼殺隊は実力至上主義でな。冨岡義勇様は鬼殺隊最強格の剣士である柱の一人にして、史上最年少でその地位まで上り詰めた時代の麒麟児なんだよ」

「……そんなにすげェのか?」

「当たり前だろう。……はっきり言うが、義勇様と継子の真菰様……義勇様の愛弟子みたいな立場の方だと思ってくれればいいが、その二人でなければお前の家族は守れなかっただろうな」

「…………」

 

 精一杯の感謝をしなければならないのだろう。一生掛かっても返せない恩があるに等しいのだろう。

 それでも、実弥は憮然とした表情を浮かべてしまった。

 

「……いつか礼はする」

「そうだな、大事なことだからな」

 

 よっと一声上げて、青年は立ち上がる。

 

「それじゃあまずはお前の家族に会いに行かないとな。説得は手伝うさ」

「恩に着る。……なぁ」

「ん、なんだ?」

 

 見上げて、実弥はぼそりと呟く。

 

「アンタ、名前はなんていうんだ?」

「あぁ〜……悪い悪い、まだ名乗ってなかったな」

 

 またやってしまったと青年は頭をがりがりとかく。名乗る丁度いい機会が無くてここまで流れたことに快活に笑う。

 

「俺は粂野(くめの)匡近(まさちか)だ。お前は?」

「不死川実弥だ」

「そうか。よろしくな、実弥!」

 

 実弥と青年──粂野匡近は、二人並んで集落への道を歩き出す。

 今後も肩を並べて戦うことになる二人は、こうして出会ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「珠世殿、愈史郎殿」

「お待ちしておりました、義勇さん、真菰さん」

 

 夜も静まった浅草の一角で、義勇と真菰は珠世たちと合流を果たしていた。

 屋敷へと案内された二人は珠世たちに付き従って階段を降りて行き、現れた地下牢に眼を見張る。

 

「すごーい」

「元からこういう屋敷だったのですよ」

 

 感嘆する真菰に簡単に説明して、珠世は神妙な顔で大きな籠を背負った義勇へと振り返った。

 

「義勇さん、早速ですが……」

「あぁ」

 

 人一人が入れるだろうその籠を開けて、義勇は丁寧に女性の身体を持ち上げる。

 見覚えのあるその姿に、珠世は全身を震わせて駆け寄った。

 

「鈴さん……っ」

 

 義勇に横抱きにされた鈴に縋り付いて、珠世はさめざめと泣く。

 

「申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません……っ!」

 

 己の罪を告白するように、珠世は鈴に謝り続ける。

 痛ましいその姿に愈史郎は目を伏せて、義勇と真菰はまさかの可能性に驚く。

 

「知り合いだったのですか?」

「はい……鬼となって初めて出会えた、友人と、思っています……」

「そうか……」

 

 深く聞くことはしない。双方共に傷付くことが分かりきっているから。

 義勇は余計な勘繰りを打ち消して、必要なことだけを伝える。

 

「この人の理性と記憶を取り戻してほしい。頼めるだろうか」

「……お任せください」

 

 珠世は顔を上げて、決然とした眼差しで義勇を見る。交わる二つの視線に様々な想いが乗って、それだけで意思疎通となり得た。

 

 何の問題もない。珠世なら必ず、この不可能を覆して成し遂げてくれる。

 

 義勇は心から安心して任せられた。

 

「感謝する」

「いえ、感謝は私からしたいです。こうして、友人を救う機会を得られたのですから。本当にありがとうございます」

 

 一度は見捨てたのだ。

 道半ばで斃れる訳にはいかないという自分可愛い言い訳を盾に、友人だと思っている人が危機に陥る可能性があったのに、手を差し伸べることすらしなかった。

 この身に背負う業は甚だしい。人を殺し、人を見捨て、ただ私怨の為に醜くも生き長らえている自分は、死ねば確実に地獄に堕ちるだろう。

 

 それでも、手の届く場所に救える人がいるならば、珠世は全身全霊を尽くせる。

 唯一残った医者として矜持が、珠世の心を最後の一線で踏み留めて人間たらしめている。

 

 鈴を見詰める珠世は、力強く言い切った。

 

「私が、必ず」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







不死川家過去編を含んだこの章はこれでお終いです。
本誌読んで決めたんだ、実弥さんは絶対に幸せにするって。



というわけで派手に予告するぜ!!

いつか絶対にこの展開やります。


【挿絵表示】


【挿絵表示】





……自分で描いといてなんですが、ロリお母様の破壊力がヤバイ……
ちなみにこの状態のお母様は、長男のことを「さねみ、さねみ」って呼ぶよ!

ここで明治こそこそ噂話
義勇さんは左手の傷を珠世さんに治療してもらったために、「これなら蝶屋敷に行かなくても大丈夫だな」という結論に至り、後日『負傷したのに来なかった』という事実が胡蝶姉妹にバレて、しこたま怒られたらしいですよ。

次回 第8話「最終選別、再び」

つづく



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