鬼滅の刃 ──逆行譚──   作:サイレン

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閑話1 真菰がんばります!

 

 その日、新しい家族ができた。

 

「今日からお前たちの弟弟子になる子だ」

「……冨岡義勇だ、よろしく頼む」

 

 親代わり兼師範の鱗滝左近次に紹介されたのは、兄弟子の錆兎と同い年の少年だった。

 烏の濡れ羽色のような漆黒の髪を一つにまとめた、深い海を想起させる静謐な瞳が綺麗な少年。それが第一印象だった。

 ここ数年は三人で暮らしていたが、今日から四人に増える。周りの環境の変化に敏感な年頃の少年少女であった錆兎と真菰だが、義勇のことは盛大に歓迎した。

 

「やったー、弟弟子だー! 末っ子からの脱出だよ錆兎!」

「そうだな、真菰。では姉弟子としてまず礼儀を覚えるべきだ」

「礼儀? 姉弟子の礼儀なんてあるの?」

「普通に自己紹介をしろ」

「……ふふっ」

 

 いつものノリで錆兎と話していたら、微かな笑い声が聞こえた。

 錆兎と揃って発声者へ視線を向けると、義勇がとても柔らかな表情を浮かべていた。

 微笑んでいるとしたら下手くそで、それでも口元は確かに綻んでいて。

 郷愁に駆られたような、嬉しいことがあったのに喜ぶのを我慢しているような。

 そんな不思議な表情をしていた。

 

 どうしてだろうか、その時真菰はふと思ったのだ。恐らく錆兎も同じで。

 

 ──あぁ、義勇と出逢えて良かった。

 

 何故か自然と、そう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 義勇は凄かった。ちんけな表現しか出来ないくらい凄かった。

 育手である鱗滝の元に来た以上、鬼殺隊に入るべく修行するのは当然だったので早速始まったのだが、義勇は初見で教えの全てを熟せていたのだ。体捌きや刀の素振りといった基本は勿論のこと、全集中の呼吸も水の型という奥義を含めて全て。追い付いていないのは身体だけ。

 

 真菰は目が点になった。

 感心するのを超えて危機感しか募らなかった。

 

 弟弟子に負ける?

 姉弟子としての尊厳が失われる?

 ──否、断固として認められない! そんなことはあってはならない! 姉より優れた弟などあってはならないのだ!

 

 真菰は燃えた。錆兎も燃えた。ぶっちゃけ錆兎の方が熱くなっていた。同性で同い年の弟弟子だ。真菰以上に内心焦っていただろうことは冷静になった時に気付いた。

 思えば、この時に無意識に残っていた最後の心の壁が爆散したのだろう。友達として、家族として、真菰と錆兎は積極的に義勇に絡んでいった。

 

 それに加えて、義勇は大人びていた。錆兎も年に似合わない落ち着きを持っていたが、義勇のそれはもはや完成されたものであった。

 何が起ころうと動じることは無く、そんな義勇の新しい一面を見たくて真菰が絡み、決して相好を崩さないがそれすらも微笑ましそうな雰囲気で受け流される。ムキになっても暖簾に腕押しもいいところ。

 錆兎や鱗滝からは完全にお兄ちゃんに構って欲しい妹にしか見えなかっただろう。幸い真菰がその事実を知ることはなかったが。

 

 ともかく、そんなこんなで楽しくも刺激的な毎日を送っていた。

 

 ……いたのだが、真菰にはただ一つだけ不満があった。

 

(義勇が笑っているところを見たことがない!)

 

 元々そういう気質なのだろうが、義勇は表情を変えることが極めて少なかった。変化を見せたのは邂逅したあの時だけ。

 あとは能面、鉄面皮、表情筋が死んでる。この点については大人びているでも子供らしくないでもなく、ただただ異常だった。

 物理的に天狗の面で顔を隠している鱗滝の方がまだ感情の動きが分かるというのに、義勇は偶に顔を見ても何を思っているのかさっぱり分からないのだ。

 

 出会った頃は緊張しているのだろうと錆兎に窘められた。

 しばらく経った後はそういう子もいるからと鱗滝にお小言を貰った。

 

 そして三ヶ月経った。

 この間、義勇は一度も笑わなかった。

 

 最終選別への試練すら除け者にされた真菰の不満は遂に爆発した。

 

(絶対に笑顔を見る!)

 

 真菰の中でこれが至上目的となった。

 手始めに鱗滝を質問攻めにした。何故義勇がここに来ることになったのか、義勇が何故あんな強いのかと一度は聞いてはぐらかされた義勇の過去についてそれはもう問い詰めた。決して八つ当たりではない。

 

 教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えてって言ったら教えてもらえた。

 

 側で見ていた錆兎は鱗滝に合掌していた。錆兎は偶に奇天烈なことをするので真菰は気にしない。

 そういうのを天然と言うらしいと義勇に教えてもらった。普通の人とはちょっと変わった感性を持つ人のことで、指摘しても意味がないと。他の人はともかく俺達は普通に接してあげようという義勇の提案に、「そうだね!」と大きく頷いたのは記憶に新しい。

 

 話が逸れた。義勇の過去の話だ。

 聞いたときはそれはもう驚いた。鬼相手に生き残るどころか姉すらも救ってみせたなんてとんでもない偉業だろう。鱗滝が口を割ったのも、義勇の過去が悲劇ではなかったからだと後になって気付き、軽率な行動だったと真菰は反省した。

 ただこれで義勇には配慮しなければならない過去は特に無いんだと知れたので、真菰は人知れずほくそ笑んだ。

 

 翌日になって、全員揃っての夕餉の時間。

 

「今更だけど、義勇は好きな食べ物とかないの? 前によく食べてたとか?」

 

 鬼殺隊志望の者に対して思い出は禁忌。理由は言うまでもない。義勇が自分から話を振ってくる場合は別として、これまで真菰と錆兎は極力触れないように弁えていた。

 しかしその問題は昨夜解決したばかりだ。突貫せずしてなんとする。

 

 真菰の唐突な質問に対して義勇は一瞬だけ固まるが、ゆっくりと焼き魚を嚥下した後、わざわざ箸を置いて宙空を眺めた。

 

「姉が作ってくれる鮭大根が一番好きだ」

「義勇にはお姉さんがいるんだね」

「あぁ、最愛の家族だ。時間ができたら、みんなにも会ってほしい」

 

 愛おしそうに語る義勇。姉の話をする時は、出会った時と同じくらい口元が綻んでいた。

 真菰はそこに突破口を見出した。

 

「私も会いたいなぁ。どこに住んでるの?」

「ここからは普通なら一週間ほどは歩くが、俺達なら二日とかからない」

「そうなんだ。じゃあ私行きたいなぁ。錆兎も行きたいよね?」

「……そうだな。俺も義勇が太鼓判を押す鮭大根も食べてみたい」

 

 真菰の意図を察したのだろう。錆兎は真菰の提案に肯定を示し、後押しする立場へと便乗する。

 仲間の同意を得られた真菰の行動は早い。

 ささっと身体を動かして鱗滝へと近付いた。

 

「鱗滝さん、四日……ううん、三日間だけ私たちの鍛錬お休みにしちゃだめかな?」

 

 お願いします、と真菰は誠心誠意頭を下げる。これは我が儘だという自覚があるのだ。

 真菰……と義勇が止めようとするのを錆兎が遮る。長い間真菰と一緒に暮らしてきたが、これは初めてと言っていい真菰の個人的な我が儘だ。兄弟子としてせめて助力したいという錆兎の思い遣りだった。

 義勇はそんな錆兎の行動を訝しんでいたが、やがて諦めて成り行きを見守る態勢に入る。

 

 長くも短くもない沈黙の後、鱗滝が口を開いた。

 

「一週間」

「え?」

「一週間鍛錬を休みとする」

 

 厳かな声音でそう言われ、最初は言葉の意味が分からず真菰は放心する。

 だが時が経って許可が出たのだと理解すると、真菰は満面の笑みで鱗滝に抱き着いた。

 

「ありがとー! 鱗滝さん大好き!」

「……迷惑を掛けるんじゃないぞ」

「うん!」

 

 ……こうして、真菰たちは一週間の自由を勝ち取った。

 事態の展開について行けてない義勇だったが、鱗滝から「家族に顔を見せてきなさい」と後押しを受け、(かすがい)(からす)を借り受けて蔦子へと連絡を飛ばす。

 後日、問題無く返信が来て、いつでも来て良いと言われたので、真菰達は迅速に蔦子の家へと走っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかえりなさい、義勇。そしていらっしゃいませ、鱗滝様、錆兎くん、真菰ちゃん」

「ただいま、蔦子姉さん」

「突然の訪問、申し訳ありませぬ」

『お、お邪魔します!』

 

 柄にも無く真菰は錆兎と共に緊張していた。友達の家に遊びに行くというありきたりなことが、二人には初めてだったのだ。

 出迎えてくれたのは綺麗な女性だった。白磁の肌が映える義勇と同じ黒髪を三つ編みでまとめた、お淑やかな大和撫子。義勇の姉である蔦子を見た時の偽らざる真菰の感想である。

 

「何もないところだけど、ゆっくりしていってね」

 

 微笑をたたえた蔦子を見て、真菰は母の姿を幻視する。物心つく頃には孤児だった真菰にとって父親は鱗滝だが、母親はいない。どうにも表現できない温かさに気恥ずかしくなって、つい俯いてしまった。

 そっ、と頰に手拭いが当てられる。

 

「えっ⁉︎ あ、あの⁉︎」

「ふふっ。真菰ちゃん、義勇の家族になってくれて嬉しいわ。私、ずっと妹が欲しかったのよ?」

 

 頰に付いた汚れを優しく拭う蔦子と至近距離で目が合う。全てを包み込んでくれるような優しさの匂いに記憶の奥底に眠る郷愁がかりたてられ、何故か真菰は瞳が潤んでいく。

 咄嗟に、真菰は蔦子に抱き付いていた。

 蔦子は少しだけ驚いたようだが、すぐに真菰の背へと手を回す。

 

「可愛い妹が出来て嬉しいわ」

「…………っ」

 

 意識しないように心を押し殺していたのだろうか。気付けば真菰は声を上げずに泣きじゃくっていた。

 心が安らぎを思い出していく。

 

 ずっと、この温もりが欲しかったのだ。

 

 

 

 

 

「恥ずかしくて死にたい」

「真菰が勝手に暴走したんだろ」

「錆兎だって、蔦子お姉さんに抱き締められてたのに」

「……気持ちは分からないでもない。俺も、もう顔も思い出せない母を感じた」

「……うぅ〜〜〜っ」

 

 座布団に顔を埋めてうつ伏せになった真菰に錆兎は苦笑する。余程恥ずかしかったのだろう。錆兎もまさかあそこまで真菰が取り乱すとは想定外であったが、知らぬうちに溜め込んでいたものが吐き出されたのであれば良い事だ。

 今この場には真菰と錆兎の二人のみ。義勇は蔦子の手伝い、鱗滝は買い出しで席を外している。

 当初の予定では保護者役として同道していた鱗滝は三人を送り届けたらとんぼ返りするつもりだったのだが、蔦子との「いえいえそんな」合戦に敗北して残留が決まっていた。義勇曰く、あの勝負で蔦子姉さんに勝てる人はいないとのこと。

 

 声にならない唸りを出し続けてしばらく、真菰はガバリと顔を上げた。

 

「もう忘れた! ……いややっぱり忘れないけど気にしない! 錆兎も分かった?」

「そういうことにしておこう」

 

 真菰はそのまま仰向けに寝転がり、部屋を照らす灯りをぼんやりと眺めて顎に手を寄せる。

 

「でもなぁ〜、やっぱりおかしいよね?」

「何がだ?」

「義勇だよ義勇。義勇がいつも無表情なのは、私はてっきりお姉さんもそうだからって思ってたのに……。何をどうしたら蔦子お姉さんに育てられてあんな風になるの?」

「……どうなんだろうな」

 

 右へ左へごろごろと回転しながら真菰は再び唸る。どうやら錆兎も疑問が深まったらしく明確な答えは出ていないようだ。

 あんな仏のように優しそうな蔦子と一緒に幼少期を過ごしてどうしてああなるのか。さっぱり分からん。もしかして実は怖いのだろうか。

 いや、真菰には匂いで分かる。蔦子は絶対にあれが素で、義勇も蔦子に対して恐怖といった感情は無縁で親愛しか抱いていないのだと。

 

 なるほど、やっぱりさっぱり分からない。

 

「錆兎くん、真菰ちゃん。お夕飯の用意が出来たわ。居間に来てくれるかしら」

「はい」

「すぐ行きます!」

 

 蔦子に呼ばれ二人は移動する。

 着いた場所には既に鱗滝が座っていて、義勇が皿をせっせと配膳しているところだった。

 

「来たか。もう少しだから座って待っててくれ」

「そうか、すまないな」

「手伝おっか?」

「それには及ばない。みんなはお客様だ、ゆっくりしてくれ」

 

 そう言われては強く出れない。根底は似た者同士な義勇と蔦子だ。手段は違えど、どうあっても手伝わせることはさせない気がする。

 というわけで大人しく真菰と錆兎は鱗滝の隣に座って、雑談に興じることにした。

 

「ねぇ鱗滝さん」

「何だ?」

「さっき外に行ってたけど、そのお面って取ったの?」

 

 ゴホッ! と錆兎がお茶を吹き出しそうになって咳き込んだ。

 

「……どうしてそんなことを聞く?」

「私たちは見慣れてるから何とも思わないけど、此処に来るとき凄く見られてたから。薄々思ってたけど、街でお面は普通じゃないのかなぁって」

「……そうか」

 

 鱗滝は答えを言わなかった。

 

「準備ができた。義兄さんの分はどうする?」

「ありがとね、義勇。今日も実家のお手伝いで帰りが遅いらしいわ。先に食べちゃいましょう」

 

 義勇と蔦子が揃ってやって来る。

 あの後決して追求の手を緩めなかった真菰であったが、どうやら時間切れで無言を貫いた鱗滝に軍配が上がったようだ。

 錆兎がまたしても合掌している。錆兎は天然なのだ。

 

「お口に合うか分からないけど……」

「ううん、全部すごくいい匂いです!」

「ありがとう、真菰ちゃん。では、頂きましょうか」

 

 全員が手を合わせ、頂きますと唱和する。

 並んだ数々の品の中で、本命は既に決まっていた。

 

「これが義勇が言ってた鮭大根?」

「ああ、絶品だ」

「義勇、恥ずかしいからやめて」

 

 弟の絶賛に蔦子が顔を紅くする。最愛の弟に褒められて嬉しいのは嬉しいが、お客様の前では羞恥が上回るらしい。

 そんなことは露知らず。真菰たちは一斉に鮭大根を口に運んだ。もぐもぐごっくんと飲み込んで、笑顔の花が咲く。

 

「美味しい!」

「これは……美味いな」

「うむ、美味い」

「ありがとうございます。……恥ずかしい……」

 

 まるで言わせたような状況に蔦子は静かに頭を下げる。勿論三人が本心でそう言ってくれているのは分かっていたが、これは気持ちの問題だ。

 ぱくぱくと箸を進める三人を見て、蔦子と義勇も口許を和らげて手を動かし始める。

 

 その様子を、真菰は横目で凝視していた。

 

(義勇が鮭大根を食べる義勇が鮭大根を食べる義勇が鮭大根を食べる……)

 

 しっかりとご飯を噛みながら決定的な瞬間を見逃すまいと真菰は気を張った。なんだかんだあったが、今回の実家訪問の一番の目的はあくまで義勇の笑顔を拝むことなのだ。

 真菰は此処に来て、蔦子と触れ合って、鮭大根を食べて確信していた。これは鉄壁の牙城を突き崩す一撃になり得る、と。

 果たして、義勇が鮭大根を口にした。

 

 ──その瞬間、真菰たちに衝撃が突き抜けた。

 

 口角が確かに上がった。決して大笑いというわけではない。どちらかといえば微笑みに近いだろうか。だがしかし、今までとはまるで異なる表情の変化だった。ぱぁああっと、周りまで明るくなるような、そんな顔。

 

 人はそれを、笑顔と呼ぶ。

 

「ぎ……」

 

 真菰の言葉が詰まる。呆気に取られているのは真菰だけではない。錆兎も、鱗滝すらも固まっている。

 

 それでも、誰かが言わなければ。

 

 この気持ちを声を大にして発散しなければ。

 

 そしてその役割は、この状況を作り出した真菰にこそ相応しい。

 

 三人の変化にポカンとする姉弟を置いて、真菰の喉が張り裂けんばかりに震えた。

 

「……義勇が笑ったぁあああああああああああああああああああああああああああああああっっっ⁉︎」

 

 ぶっちゃけ近所迷惑だった。

 

 

 

 

 

「大変申し訳ありませんでした」

「弟子が申し訳ありません」

「妹弟子が申し訳ありませんでした」

「姉弟子がごめん」

 

 ご近所へのお騒がせ謝罪回りを終え戻ってきた蔦子に、真菰は完璧なる土下座を決めて頭を下げた。続くように鱗滝と錆兎と義勇が土下座を決める。

 

「近所迷惑という言葉を初めて知りました。言われてみればなるほど、夜に煩くするのはいけないことですよね。本当に申し訳ありませんでした」

「儂の教育が足りぬばかりに」

「いいのよ、真菰ちゃん。そういうこともあるわ。鱗滝様たちも顔を上げてください」

 

 珍しく引き攣った苦笑を浮かべる蔦子。蔦子としては、口調ががらりと変わった真菰に対する動揺の方が大きいくらいだ。

 四人とも足は崩さずに頭を上げ、やっと話が進められるとホッと一息ついた蔦子は小首を傾げた。

 

「それで、その……何がどうしたのかしら?」

 

 当然の疑問だった。

 

「えーとね、実はね……」

 

 代表して真菰が経緯を説明する。

 義勇がこの三ヶ月一回も笑わなかったこと、蔦子の話をした時だけは表情が和らいだこと、鮭大根を食べたら何か動きがあるのではないかと企んだこと、まとめると義勇の笑顔が見たかったのだと諸々の事情を洗いざらい喋り尽くした。

 

「そうだったのね……」

 

 難しい顔をする蔦子と義勇。義勇は義勇で、まさか真菰がそんなことを思っていたとは知らなかったのだから然もありなん。

 

 しかし一転、蔦子は笑顔を浮かべて真菰に詰め寄り、ガシッと両手で真菰の手を取った。

 

「協力するわ、真菰ちゃん!」

「……ふぇっ?」

 

 突然の展開に真菰も呆けた声を出すが、熱が入った蔦子はそのまま思いの丈を伝えるように話し始めた。

 

「実はね、私も心配していたのよ。半年くらい前までは義勇はよく笑う子だったのに、本当に急に……本当に急にこうなってたの! 最初は反抗期なのかなって思ったのだけれどそんな様子ではないし、でも愛想がちょっと……ちょっと足りないし、会話も言葉がちょっと……ちょっと足りなかったりね。家にいた時はちゃんと微笑むくらいはしてくれたから大丈夫かなって思ったけど、真菰ちゃんの話を聞く限り悪化……ちょっと悪くなってるみたいだし……。でも、でもね! 義勇は本当に良い子なのよ! 心根は誰よりも優しいし、言葉にしないだけでいつも周りのことを考えてるのよ。勘違いされやすいのかもしれないけど、義勇は本当にね──」

 

 余程心配を溜め込んで心労を募らせていたのだろう。蔦子はしばらく止まらなかった。それだけで蔦子がどれだけ弟を愛しているかが伺えるくらいだ。

 真菰たちの責める瞳が義勇に突き刺さる。三者三様の熱視線に居たたまれなくなったのだろう義勇は無言のまま、決して目を合わせまいと俯き続けていた。

 

 誰がどう空気を読むべきなのか。

 きっと鱗滝や錆兎だったら、自分たちは義勇のことをちゃんと分かっていると蔦子を安心させる模範解答を導いただろう。

 

 だが、協力を要請されたのは真菰だ。

 

 天然で脳筋で、自分がやりたいと思ったことは割と強引にでも貫き通す性格をした真菰だ。

 

 真菰はキラリと瞳を輝かせて、空いていた手で蔦子の両手を握り返した。

 

「任せて、蔦子お姉さん! 姉弟子として、私が責任持って義勇を立派な人にするから!」

「本当に! ありがとう、真菰ちゃん!」

 

 ひしと抱き合う真菰と蔦子。

 猛烈な悪寒に震える義勇。

 合掌する錆兎と鱗滝。

 

 義勇育成計画はこうして始まりを迎えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 端的に結論を言うと、相手が悪かった。

 

「義勇、試しに鮭大根無しで笑ってみようよ」

「……いや、その、俺は……」

「私からもお願い。義勇、これは大事なことなのよ?」

「姉さん……心配させていたのは謝る。だが……」

「──いいからやって」

 

 短い滞在期間中は真菰と蔦子が手を組んで義勇を追い詰め。

 

「大丈夫だよ義勇! あの時は笑えてたもん。じゃあ心の問題じゃない、やる気の問題だよ!」

「そんな簡単な問題ではないと思う」

「大丈夫だよ義勇! 一回出来たんだもん。もう出来るって分かったもん。じゃあ頑張ればいつでも出来るようになるよ!」

「だから……」

「大丈夫だよ義勇! これも鍛錬と一緒だよ! 死ぬほど練習すれば出来ないことなんてないよ!」

 

 狭霧山へ帰ってからはより一層熱心になった真菰が一切の反論を許さず。

 

「錆兎」

「すまない、義勇。俺にはどうすることもできない」

「……鱗滝さん」

「義勇、頑張れ」

「……………………真菰」

「はい義勇笑ってー」

 

 義勇に味方はいなかった。

 知ってはいたが真菰は容赦というものを知らないらしく、うだうだと逃避に走る義勇を力付くで抑えつける酷烈仕様な育成法だった。

 

「義勇、会話は投げられたら投げ返すものなの! 受け取って返さないとか、頓珍漢なことを投げるとか、伝えなきゃいけないことを省いて投げ返さないの!」

「俺はちゃんとやっている」

「やってないから言ってるの! ……ちなみにさ義勇、私がこうやって頑張ってるのはどう思ってる?」

「……時間の無駄だ」

「……それはあれだよね? 私や蔦子お姉さんの努力が無駄って意味じゃなくて、徒労に終わるから私の時間が勿体無いと思ってて、それなら早く諦めて別のことに時間を割いた方が良いって、そういう意味だよね?」

「……? 今そう言っただろう?」

「言ってなぁああい‼︎」

 

 三ヶ月間、真菰は頑張った。とにかく頑張った。遮二無二頑張った。

 

 成果は出なかった。

 

 真菰はブチ切れた。

 

「あ゛ぁぁぁあああああああああっ!」

 

 鱗滝の教えを忘れ心に荒波を立てまくりながら真剣をブン回す真菰と、それを後ろから羽交い締めにして抑える錆兎。

 そんな二人を見て、義勇はようやく反省の気持ちを抱き始めた。もう少し此方から歩み寄ってもいいのではないかと。

 というより、歩み寄らないと殺されると。

 

「真菰、義勇、やり方を変えるべきだ。ひとまずだが、会話能力は置いておこう。これはもう積み重ねるしか無い」

 

 今までは様子を見守るだけだった錆兎だが、傍観者でいられる時期はとうに過ぎ去ったと本格的に参加することになった。

 

「はっきり言おう、ただ笑えと言われて義勇が笑うことは一生ない」

「俺もそう思う」

「義勇、お前は黙れ」

 

 錆兎も錆兎で手厳しかった。

 

「あとこれは個人的な意見だが、義勇が大笑いする姿がまず想像できないし、したとしたらそれはそれで最早気色悪い」

「それはそうだけどさー」

 

 無邪気に義勇の心を抉るのが真菰の専売特許。

 

「目指すなら鮭大根を食べたあの時の笑顔、微笑むくらいで丁度いいだろう。あれなら違和感なく……は無いが、そこは慣れだ」

「……ふんふむ、分かった。それでどうするの?」

「蔦子さんを想像すれば表情は綻ぶんだ。鮭大根を追加すればいい感じになるだろう」

 

 酷い結論に落ち着いた。

 

 しかし効果は覿面だった。

 

「義勇、今こそ蔦子お姉さんに成果を見せる時!」

「……蔦子姉さん、これでどうだろうか?」

「凄いわ義勇! カッコ良くて可愛いわ!」

 

 錆兎が加わってから一ヶ月で、鮭大根微笑みをモノにした義勇を蔦子が抱き締める。

 本当に姉が喜んでいるのだと分かって義勇は釈然としない想いを抱いていたが、口には出さなかった。

 

 段階は最終戦に入る。

 

「あとは感情の動きに微笑みが付いてくれば完璧だね」

「ああ、だがここが最難関だ。ここを突破しなければ全てが水泡に帰す」

「私たちの精神的にも良くないよね。今後義勇が笑ってたら鮭大根しか浮かばないし、義勇には鮭大根しか浮かんでない。こんなのヤバイよ」

「ああ、ヤバイ」

 

 言いたい放題だった。

 

 とりあえず頑張る三人だったが、何とかしなければという思いとは裏腹に成果は一向に表れなかった。

 

 嬉しい時や楽しい時に笑うことが出来るようになる。

 

 言葉にすると何処から突っ込んでいいのか判断付かない目標に対して、何をどうすればいいのか分からないのだ。

 真菰や錆兎にとってはそれは当たり前過ぎて、何故出来ないのかが分からない。義勇にとっては長年この状態で過ごしてきた感覚が抜け切れず、今更感情の起伏を豊かにしろと言われてもどうすればいいのか分からない。

 そもそも、鱗滝の教え的には義勇の方が正しいのだ。心に水面を浮かべる。つまりは何があっても乱されない強く静謐な精神を保つことこそが水の呼吸の真骨頂。だからこそ義勇も最後の最後で躊躇いが生じていた。

 

「もうムリだな」

 

 錆兎の言葉が重苦しく響き渡った。

 

「えぇー、まだまだ頑張れるよ?」

「確かにそうかもしれないが、医者でもない俺たちでは限界がある。最終選別も近い、一度切り上げるべきだ」

 

 最終選別までは残り一ヶ月といったところ。錆兎と義勇は最後の調整に入る段階で、集中して精神と肉体を研ぎ澄ます期間に突入していた。それが分かるからこそ真菰も引くしかない。

 頰を膨らませて唇を尖らせる真菰の頭に錆兎が手を置く。

 

「義勇も人間だ。閉じこもったこの空間から出て外の刺激を受ければ、自然と笑みを浮かべられるようになる。俺はそう信じてる。そうだろう、義勇?」

「……あぁ、力を尽くす。家族の願いだ、踏み躪ることはしない」

「……分かった」

 

 拗ねた様子のまま、それでも二人を信じる。

 真菰たちは意識を鍛錬一色へと切り替えて、最後の一ヶ月を駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして遂に、その日がやって来た。

 朝から身支度を整え、腰に日輪刀を差し、頭に鱗滝から授かった厄除の面を付けた錆兎と義勇が外で立っている。

 

「準備は万端か?」

「はい」

「問題無く」

 

 鱗滝の言葉に二人は力強く頷く。体調は完璧で、気概も充ち満ちていた。

 錆兎と義勇の眼差しを正面から受けて、鱗滝は二人の肩に手を乗せた。

 

「最終選別、必ず生きて帰ってこい。儂も真菰も、此処で待っている」

『──はいっ!』

 

 二人の返事に満足した鱗滝は身を引いて、側に立っていた真菰へと場を譲る。

 前に一歩踏み出した真菰。

 試練に赴く二人を前に、真菰の中で駆け巡るのは濃密な思い出だ。

 朝早くから山を駆け回ったこと。

 刀の素振りを一緒にしたこと。

 水浴びと称して滝に打たれたこと。

 馬鹿やって鱗滝に叱られたこと。

 どれも大切な思い出で、掛け替えのない日々。

 

 大丈夫だ、二人は強い。最終選別の場にいるような雑魚鬼に遅れを取るわけがない。

 

 ……そう信じているのに、思ってしまう。二人が帰って来なかったらと。これが今生の別れになってしまわないかと。

 過去に最終選別へ挑んだ兄弟子と姉弟子は、二度と帰って来なかったから。

 

「錆兎、義勇……」

 

 こういう時こそ笑顔で送り出さないといけない。

 だけど上手くいかなくて。昨日までは平気だったのに、今日になって急におかしくなって。

 それでも伝えたい想いがある。伝えなければならない願いがある。

 

「っ!」

 

 真菰は力一杯二人に抱き着いた。

 潤んだ瞳を見られないように。

 零れる涙を悟られないように。

 

「絶対に……絶対に、帰って来てね……っ!」

 

 真菰の背に、二つの手が回された。

 

「ああ、絶対に帰って来る」

「必ず、二人一緒に」

 

 二人の温もりが背中から全身に伝い、真菰の心を落ち着かせてくれる。

 

 心配は消えない。不安は残る。

 

 でも、涙は引いた。

 

 名残惜しむように最後だけギュッと抱擁を交わした後、真菰は身を離す。

 

 そして、精一杯の笑顔を浮かべた。

 

「行ってらっしゃい、錆兎、義勇!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回、最終選別


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