鬼滅の刃 ──逆行譚──   作:サイレン

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第2話 最終選別

 

 夥しい薄紫が出迎えた。

 視界を染め上げる大量の藤の花。山の中腹へと至る階段を彩るように咲き狂うそれは、鬼を寄せ付けず、鬼を閉じ込める結界となっている。

 

「荘厳だな」

「ああ」

 

 錆兎と共にその景色を見上げる義勇にとって、この光景は二度目だ。

 この場所は変わらない。最初に訪れた時も同じ感想抱いたなと、義勇は一人懐かしい気持ちに浸る。

 

 このひと時だけが最後の静寂だ。

 階段を登り切り、門を模した紅い柱を抜けた瞬間、そこはもう試練の場へと様変わりする。

 

「皆さま、今宵は最終選別にお集まりくださってありがとうございます」

 

 義勇たちが最後だったのだろう。

 広場へと足を踏み入れると同時に、中央にいた女性が凛とした声を発した。

 

(あまね様……)

 

 白樺の木の精と見紛う現実離れした美貌を持つその女性に義勇は見覚えがあった。

 産屋敷あまね。鬼殺隊当主、お館様と慕われる産屋敷輝哉(かがや)の御内儀である。

 

 義勇が知っているあまねはもう少し年を経ていたが、まるで変わらぬ美貌だった。現にあまねの美しさに見惚れてる者も多い。

 ちょっと気になって隣をチラリと見てみると、錆兎は只々真剣な眼差しであまねを見ていた。相変わらずの成熟さである。

 

 義勇は視線をあまねへと戻し、あることに気付いて眼を見張った。

 

(身籠もられている……?)

 

 ほんの少しだけ腹部が膨らんでいる。まさかと思って凝視してみるが勘違いではない。

 記憶を掘り起こして義勇は思い出した。

 

輝利哉(きりや)様か……)

 

 今はあの決戦から八年前だ。年齢的に該当するのは長男である輝利哉しか考えられない。

 自分以外の時間もちゃんと流れているのだなと、義勇はこの不可思議な現象に対して改めて感心する。

 

(身重の身でわざわざ来てくださるとは……)

 

 最終選別には産屋敷家の者が出迎える。これは慣例であった。死をも恐れずこの場に集まってくれた、鬼殺の剣士志望の子供たちに対する最低限の礼節としてだ。

 お館様も体調が良ければこの場にいたのだろうが、居ないのであればそういうことなのだろう。

 

 産屋敷一族の心遣いに感謝を抱きながら、義勇はあまねの言葉を聞いていた。

 

「この藤襲山には鬼殺の剣士様方が生け捕りにした鬼が閉じ込めており、外に出ることはできません。ご覧の通り、山の麓から中腹にかけて、鬼共の嫌う藤の花が一年中狂い咲いているからでございます」

 

 知っている。変わらない条件に義勇の心が波打つことはない。

 錆兎も同様だ。師である鱗滝に事前に聞いていた内容と相違ない。

 補足があるとすれば、この山にいる鬼共は人間を二・三人しか喰っていない雑魚鬼しかいないということ。何体いるのかまでは定かではないが、参加者に対して桁違いの量がいるわけではないだろう。

 

「しかしここから先には藤の花は咲いておりませんから、鬼共がおります。この中で七日間生き抜く。それが最終選別の合格条件でごさいます」

 

 ピンと張った糸のような緊張が場に下りる。

 それは参加者が全員はっきりと条件を理解した証左であり、試練の始まりを感じさせるものであった。

 

「では、行ってらっしゃいませ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 最終選別初日の夜。

 今この瞬間から命の保証が無くなり、山内に蔓延る鬼共との邂逅が余儀無くされた。

 

 最終選別突破の条件は七日間生き残ること。

 

 それを踏まえた上で、錆兎はこう提案した。

 

「二手に分かれよう」

 

 義勇は無言で錆兎と視線を合わせる。

 錆兎がそう言うだろうことは半ば予想が付いていたが、義勇としては簡単には頷けない。

 

「……何故だ?」

「二人で行動すれば生存率は上がるだろう。事前説明から反則事項ではないとも思う。だが、それで本当にいいと思うか?」

「……思わない。鬼殺隊員として単独で任務に就くことも考えられる。雑魚鬼しかいないとされるこの試練の場で一人で生き残れないようなら、いずれ死ぬ」

「俺もそう思っている」

 

 ずっと自分に言い聞かせていたことだ。錆兎の意見を後押しする発言だが、既に自分で答えを導き出しているだろう錆兎に嘘を吐く意味が無い。そもそも義勇には、相手を口先で言いくるめる技量は皆無だ。

 錆兎の実力も把握している。過去の初陣であるこの舞台でも錆兎は鬼を殲滅していた。

 

 だが、それでも錆兎は死んだ。

 そして、その理由を義勇は知らない。

 

「義勇、お前は何の為に剣を振るう?」

 

 此処でその話を持ち出すのか、と義勇は諦観を覚えた。恐らく錆兎は、義勇が何かに葛藤していることを見抜いているのだ。

 義勇は正直に、語った誓いを反芻するしかない。

 

「俺は護るために剣を振るう。民を、仲間を、友を、家族を、もう二度と目の前で死なせないために」

「ならば尚更だ。俺たちが共に行動しては、救えたかもしれない仲間の命を取りこぼす可能性もある」

 

 反論は、出来なかった。

 

「大丈夫だ、義勇。俺は、俺達は死なない。生きて帰ると鱗滝さんと真菰に約束した」

「……分かった、二手に分かれよう」

 

 信じよう、錆兎を。あの時よりも強くなった親友を、家族を。

 

 突如、殺気が襲い掛かった。

 

『っ!』

 

 即座に散開する二人の間に何かが降ってくる。

 盛大な土煙が上がり視界が遮られる中で、義勇と錆兎は冷静だった。

 

「ゔうぅぅぅぅぅぅぅっ!」

「ガァッ!」

 

 煙幕から飛び出したのは人間に似た容姿を持ちながら、人間には無い角を生やした異形。

 人喰いの化け物、鬼だ。

 どうやら降ってきたのは二体らしい。二人に一体ずつ突っ込んでくるのを、義勇と錆兎は静謐な眼差しで見据えていた。

 

 ──水の呼吸

 

 何百体と鬼を屠った記憶を持つ義勇に恐れは無く、初めての実戦である錆兎にも戸惑いは無い。

 自分たちがこの日の為に、どれほどの修練を積んできたか。

 鬼は敵だ。滅殺対象だ。自分たちの幸せを平然と壊す悪なる存在だ。

 

 振るう刃に迷いなどあるはずが無い。

 

【肆ノ型・打ち潮】

 

 同時に繰り出された奥義が鬼の全身を斬り刻み頸を刎ねる。

 断末魔を上げる暇も無い。頸を斬られた鬼は、さらさらと空気に溶けるように灰となって消えた。

 

「なるほど、これが日輪刀か」

 

 残心の後に納刀した錆兎が呟く。初めての戦闘に対する感想ではなく、日輪刀の力に感心を向けている錆兎は流石だった。

 二人は静かに歩み寄り、真っ直ぐに目を合わせる。

 

「いけるな」

「ああ、問題無い」

 

 意思統一はもう済ませたのだ。

 これ以上は無意味と言葉少なに拳を突き出す。

 

「七日目に此処で会おう」

「……死ぬなよ、錆兎」

「お前もな、義勇」

 

 タンッと拳を叩き合わせて別れとする。

 交差するように互いの真横を通って、二人は真反対の方向へ駆け出した。

 

(……さて、どうするか……)

 

 暗闇の中を走る義勇は鬼の気配を探りながら考えを巡らせる。

 錆兎の説得には失敗した。真菰がいたら「いや義勇説得なんて一言もしてないから!」とどやされるだろうが、義勇的には態度で示した時点で説得なのだ。口下手此処に極まれりである。

 共に行動するのが錆兎を救う最善の手であったが、別れてしまった以上義勇に出来るのは、一体でも多くの鬼を殲滅して同期の仲間を護ることだけ。

 それが巡り巡って錆兎を救うことに繋がるかもしれない。

 

 そう思えばと、先程義勇は何の感慨も無く鬼を斃した。

 記憶にある最終選別で鬼を一体も斬れなかった自分が。

 

(変えられる。蔦子姉さんのように……)

 

「うわぁああああああああああっ!」

 

 行く先で悲鳴が響き渡った。

 思考を打ち切り一歩の踏み込みで距離を潰した義勇は刀を抜き放ち、視界に入った鬼へと肉薄する。

 

 ──水の呼吸

【弐ノ型・水車】

 

 仲間に迫っていた貫手を斬り裂いてすぐに反転。此方に気付いた鬼を無視してへたり込んでいる少年の元へ寄る。

 

「無事か?」

「う、うん! 助かったよ!」

「どうする、一人で斬れるか?」

 

 義勇はあえて問い掛けた。

 義勇にとって目の前の鬼を葬るのは造作も無いことだが、それではこの少年が成長しない。ずっと側で護れないのなら、せめて力を付けてもらうしかないのだ。

 幸い少年は軽傷だ。まだ十分に戦えるだろう。

 

 少年も一度の攻防で義勇と己の力量差を理解していた。同じ場にいることが不自然な程のその強さを。

 少年は立ち上がり、刀を構えてから気合いを入れるように一息吐く。

 

「大丈夫だと言いたいけど……」

「肉を寄越せえええええええええっ‼︎」

『っ!』

 

 理性を失っている鬼が悠長に会話することを許さない。真っ直ぐに突っ込んでくるのを二人は避けて躱し、すかさず義勇が刀を振り上げる。

 

「支援する、お前が頸を斬れ!」

「分かった!」

 

 ──水の呼吸

【参ノ型・流流舞い】

 

 変幻自在な歩法により、流れる水の如き足運びを生み出す回避と攻撃を組み合わせた型。義勇は鬼を撹乱しつつ、相手の両腕を斬り飛ばす。

 

「今だ!」

「はぁああああっ!」

 

 ──全集中・炎の呼吸

【壱ノ型・不知火】

 

 直線に突き進み一閃にて敵を両断する。宙に舞う鬼の頭が少年の勝利を物語っていた。

 灰となって消え失せるのを見届けてから、少年は義勇へと振り向く。

 

「ありがとう! 助かったよ!」

「いや、お前の力だ。冷静になれば遅れを取る程ではないだろう」

「……初めて鬼と向き合って、思わず手が震えたんだ。君がいなかったら死んでたよ」

「もう大丈夫か?」

「……うん、もう大丈夫だと思う」

 

 最終選別で死ぬ者は初戦で恐怖に打ち勝てなかった者が大半だ。だからこそ一度乗り越えられれば、自然と自信も付いてそれが力へと変わっていく。

 この少年の技量もまずまずだ。流石に知り合いの炎柱には劣るが、冷静ささえ保てれば一対一で藤襲山にいる雑魚鬼に負けることないだろう。

 

「そうか、死ぬなよ」

「本当にありがとう!」

 

 最後にそう言い残して義勇は足早にその場から立ち去る。

 鬼の気配は近辺には感じられない。優れた五感など無い義勇は、長年の慣れの賜物である鬼の気配を感知する感覚に頼って探し回るしか無い。

 

 一人でも多く仲間を救う。

 一体でも多く鬼を葬る。

 

 その誓いを胸に、義勇は初日の夜を走り続けた。

 

 

 

 

 打ち合わせた訳では無いが、義勇は東に、錆兎は西に進んでいた。

 最終選別の参加者は夜のうちは東に位置取ろうという者が多い。鬼は陽光の下では行動出来ず、太陽が最も早く登るのが東方なのだから当然の選択であった。

 逆に夕暮れになる頃合いには西に移動する、という者もいる。少しでも夜の時間を短く過ごしたいという思いからだ。だが体力との相談でもあるので、昼夜問わず移動し続けるのは無理な話。

 また鬼の襲撃を受けて現在位置を掴めなくこともざらにあり、強引にまとめてしまえば参加者は臨機応変に対応するのが一番だ。

 

 では、鬼はどうなのか。

 

 答えは無秩序。藤の花に囲まれたこの舞台であれば何処にでもいる。

 最終選別の場にいる鬼は人を二、三人しか喰っていない謂わば雑魚鬼だ。

 鬼は喰った人間の数だけ強くなるし、知能も付く。

 つまり雑魚鬼は弱く知能が低い。理性的な行動など取れるはずもないのだ。

 

 長年この藤襲山で人間を喰って、しぶとく生き残っているような個体がいない限りは。

 

「くくく。まただ、また来たぞ」

 

 異形の鬼は嗤っていた。

 人間の姿形など見る影もない、子供が落書きで描く化け物そのもの。体長は縦も横も成人男性三人分にも達する巨体で、全身のあらゆる箇所から大小の腕を生やした異形の鬼。

 見る者が見れば分かる。この鬼は少なくとも三十人は喰らってきたと。

 確かな理性を保ち、残虐なまでに発達した身体は決して雑魚鬼の括りに収まらない。最終選別に挑む参加者には荷が重すぎるだろう。

 

 その鬼は山の東側にいた。知っているのだ。此方側に馬鹿な獲物たちが雪崩れ込んでくることを。

 早速やや遠い位置に一人の子供を見つけた。どうやら別の鬼と戦闘中らしく、怖気付いた様子で逃げ回っている。

 恐らくあれは介入するまでもなく死ぬだろう。

 だからといって、折角の御馳走を見逃す理由にはならないが。

 

「くくく、さて、喰いに行くか」

 

 異形の鬼は脚を進めようとしたその瞬間──体感したことのない怖気が全身を駆け巡った。

 

(なッ⁉︎ なんだこの感覚は⁉︎)

 

 理性では無く本能で動きを止める。

 下手に行動すれば死ぬ。何故かそれが理解できた。

 

 答えは、たった今見ていた戦場に現れた。

 

(狐面のガキ! 鱗滝の弟子かっ!)

 

 一瞬で感情が憎悪に支配されるも、その少年が一太刀で鬼を屠るのを見て忽ち冷静になる。

 同時に、心中でガンガンと途轍も無い警鐘が鳴らされた。

 

(あのガキはヤバい……勝てない、必ず殺される……っ⁉︎)

 

 通常鬼にとって、人間は食糧以外の何ものでもない。男より女の方が栄養があって美味いとかそういう差異はあるが、基本的には区別なく人肉としてしか見れないのだ。

 それは相手が鬼殺の剣士であろうと変わらない。鬼からすれば訓練を積んでいない人間と鬼殺隊員かの区別など、一目で分かることの方が少ない。

 

 相手が化け物染みた強さで無ければ。

 鬼殺隊最強に座する柱たる者達の強大さを、異形の鬼は思い出した。

 

(あの時の鱗滝と同等、いや()()()()だッ! 無理だ無理だ無理だッ‼︎)

 

 異形の鬼は一目散に逃げる。自分をこんな牢獄に閉じ込めた恨みの元凶である者の弟子であると分かっていながら、恥も外聞も無く逃走していた。

 あの狐面は無理だ。絶対に勝てない。近付いてもならない。気付かれればその瞬間に、自分の頸が刎ねられる。

 

(覚えた、覚えた、覚えたっ! 黒髪を一つに結った狐面。あのガキはヤバい‼︎)

 

 異形の鬼は離れるように東に逃げる。

 そして少年も東に脚を進める。長年の経験だけで此方側に何かいると、直感だけで動き続ける。

 

 立場が逆転した絶望的な鬼ごっこが始まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ……っ、はぁ……っ!」

 

 少女は肩で息をする。溜まった疲労は抜け切ることはなく、日を跨ぐ毎に着実に増していった。

 

「俺の獲物だァっ! どきやがれ!」

「テメェが消えろォッ!」

 

 五日目の夜、目の前には鬼が二体。

 端的に言えば運が無かった。どうしてか連日連夜鬼と遭遇し、集中を解く暇がなく心休まる時間が皆無だった。全てが一対一だったのが幸いして生き残れたが、此処に来て二体同時に相手取るのは至難である。

 それでも挫けることは許されない。少女には、生きて帰らねばならない理由があるのだ。

 

(キツイけど……私は死ねない。帰らなきゃ、あの子を一人にしちゃうもの!)

 

 最終選別の場に連れて来なかった最愛の家族を想い、少女は気力を振り絞って息を吸う。

 深く、優しく、全身に空気が行き渡るようにと祈りながら。

 

 ──全集中・花の呼吸

 

 フゥウウウッ、と呼吸音を鳴らし、神経を研ぎ澄ます。

 揉めていた鬼達は結局、争うように我先にと詰め寄っていた。連携など何もない、ただ此方に迫るだけ。

 都合が良い。技は連発すればするほど疲れるのだ。一息で頸を断てるのならそれに越したことはない。

 

 肉薄してくる鬼達を静かに、微かな哀れみを瞳に乗せて見据える。

 焦らない。

 死ぬかもしれないという恐怖に打ち勝つ。

 ギリギリまで引き寄せて、そして。

 

「っ‼︎」

 

 少女は一歩踏み込んだ。

 

【伍ノ型・(あだ)芍薬(しゃくやく)

 

 奔る複数の銀閃。桃に色づいた斬撃の数は五を超えて、鬼二体の全身を斬り刻んだ。

 

『ガァッ⁉︎』

 

 最後の横一閃にて頸を断つ。

 唯一の弱点である部位を斬られて鬼は灰となって消滅した。

 その様子を彼らの来世の幸福を願いながら見届けた後、少女は倒れ込むように地面に膝と両手を付いた。

 

「はぁっ、はっ、はぁっ、はっ‼︎」

 

 息が荒れる。落ち着こうと思えば思うほどに呼吸が浅く早くなっていく。

 少女は既に限界を迎えていた。

 

(落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて……まずは息を整えないと。まだ二日ある。とりあえず、朝まで……)

 

「──よォ」

「ッッッ⁉︎」

 

 耳元の声が届くと同時、激烈な衝撃が少女を襲った。

 

「くッ⁉︎」

 

 蹴鞠のように吹き飛ぶ。ごろごろと地面を転がり、痛みを堪えながら何とか体勢を整えて少女は両足を付いた。

 

(腕が……⁉︎)

 

 反射的に構えた日輪刀の柄部分に攻撃が当たったことで運良く致命傷は避けられたが、その一撃だけで両腕が完全に痺れていた。

 少女は自分が元いた場所に視線を走らせる。

 其処にいたのは先程斃した鬼とはまた違う、瞳に理性を宿した鬼だった。

 

「今のを防ぐなんてなァ。女の分際でやりやがる」

 

 鬼は振り抜いた脚を元に戻す。その挙動で少女は初めて自分が蹴撃を受けたのだと理解するも、状況が好転する気配は全くない。

 むしろ逆、絶望的な窮地に堕ちていると知った。

 

(この鬼は強い……今の私じゃ……)

 

 腕は動かない。呼吸は戻らない。視界は霞む。

 気概だけで立ち上がるも、終幕は呆気なく降ろされる。

 

「じゃあ死ね」

「あっ……」

 

 鬼の姿が掻き消えたかと思った次の瞬間には、鬼は目の前で脚を振るおうとしていた。

 眼に映る光景がゆっくりと進んでゆく。

 身体は動かない。

 ただゆっくりと、迫り来る運命を受け入れるしか。

 

 ──死……

 

『姉さん』

 

 思い浮かんだのは、最愛の妹の笑顔。

 これが、走馬灯……

 

 

 

 ──水の呼吸

【漆ノ型・雫波紋突き】

 

 

 

 蒼き流星が視界を横切った。

 その瞬間に、急速に景色が流れていく。

 

「なっ⁉︎」

 

 発生した突風に顔を手で防ぐ。

 突然の事態に驚きながらも、少女は視線を鬼ごと消えた影へと向ける。

 その時には全てが終わっていた。

 少女に見えたのは、誰かが仰向けに倒れている鬼の頸を一閃で斬り飛ばしたところだけだった。

 

(……た、助かったの?)

 

 少女は呆然と、命の恩人たるその人が此方に振り返るのを見る。

 少年だった。特徴的な狐の面を付け、漆黒の髪を一つに結った、蒼の日輪刀と同じ色の静謐な瞳を持つ少年。

 

「無事か?」

「う、うん、大丈夫……」

 

 凛とした雰囲気とは似合わない少し高い声。声変わりも終えていないのなら年下だろうか。

 展開の早さに追い付いていない頭がどうでもいいことを考えてると、静かに歩み寄っていた少年の足が止まった。

 顔を見るに、微かに瞠目しているので驚いているようだ。

 

「お前は……」

 

 その時になって、少女はやっと言うべき言葉を思い出した。

 

「ありがとう……本当、に……」

 

 脚がふらついた。どうやら直前の死の重圧が、少女の気力を根刮ぎ奪い去っていたようだ。

 意識が暗転する。戦場にいることも忘れて、少女は気を失う。

 最後に感じたのは、身体を包む暖かな温もりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 眼下で眠る少女。突然倒れるように気を失った彼女を咄嗟に抱き支えて、寝やすい姿勢にした後にまじまじとその顔を見る。

 似ている。面立ちも、身に付けている物も。いや、物に関しては同じかもしれない。

 

 紫掛かった黒の長髪。

 蝶の羽を模した羽織。

 硝子細工の蝶の髪飾り、それが二つ。

 

 最初は誰かも分からずに助けたが、月明かりの下ではっきりと顔を見た時には思わず固まった。

 

 ──そうか、同期だったのか……

 

「……んぅ」

「起きたか」

 

 少女の瞳がゆっくりと開く。

 朧になった視界で少女は上手く働かない頭を回転させて、今自分がどういう状況だったのかを思い出そうとした。

 

(……私は、確か……最終選別に……っ‼︎)

 

 眠気が吹き飛んだ。

 ハッとして瞳を見開いた。

 

 目の前にとても綺麗な二つの蒼の宝石があった。

 

「君は、さっき助けてくれた?」

「ああ。どうやら大事ないようだな」

 

 少女は直前の出来事を思い出す。

 

(そうか、私気を失って……)

 

 不覚だ。下手をすれば永遠の眠りに就くところだった。事実、少年の助けが間に合わなかったら死んでいただろう。

 もう一度御礼を述べようと考えた時、ふと自分がどういう状態なのかに意識が傾いた。

 

(温かい……それに、なんか後頭部が柔らか固い……?)

 

 自分は今仰向けに寝転がっている。身体は若干の凸凹の上にあって寝心地が悪いが、後頭部だけは枕とは異なる何かが敷かれていて不思議と落ち着く。

 至近距離で此方を見下ろす少年。

 下半身は見えない。

 後頭部にだけある温かさ。

 

 膝枕されていた。

 今日初めて出会った年下であろう少年に膝枕されていた。

 ぼっ、と顔が紅く燃える。

 

「わっきゃあああああっ⁉︎」

 

 認識と同時に奇声を上げて起き上がる。

 少年は目を見開いて驚いているが、少女は諸々の恥ずかしさが凄まじくて気にしていられない。

 

「大丈夫か? どこかに大きな怪我でもあったか?」

「だだだ大丈夫よ! それより、ありがとね。ホントに助かったわ」

 

 わたわたと両手を振る少女を訝しむ少年だったが、本当に大丈夫なのだろうと判断して立ち上がる。

 少女も紅潮する頰を冷やすように手で仰いだ後に、立ち上がって服に付いた汚れをパッパと払った。

 

「どのくらい寝ていたのかしら?」

「三十分程だ。疲れているのだろうが、日が昇るまでは起きていてくれ」

「うん、もう大丈夫よ。大分楽になったわ」

 

 睡眠時間に反して効果は絶大だったのか、気力が戻った身体を軽くほぐす。

 側に置いてあった日輪刀を拾い上げて、少年に向き直った。

 

「まだ自己紹介してなかったわね。私はカナエ、胡蝶カナエよ。よろしくね」

「冨岡義勇だ」

「義勇くんだね。私のことはカナエって呼んで?」

「分かった」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 少女──胡蝶カナエは、義勇と名乗った少年に微笑む。

 名前を聞き、その笑顔を目の当たりにして、義勇にはやはりという思いが浮かんだ。

 

(胡蝶カナエ……胡蝶しのぶの姉か……)

 

 義勇としては、ほとんど覚えていないというのが率直の感想だ。此処に至るまで、同期だったというのも知らなかった。

 もちろん蝶屋敷に世話になったことはざらにある。むしろ他の隊員より多かったと言っても過言ではないだろう。

 

 最終選別後の数年、義勇は心身共にボロボロだった。

 

 無茶な鍛錬、無謀な鬼殺任務の数、重傷を負った場合を除き、一切の休憩を挟むこと無く奔走していた。

 でなければ思い出してしまうから。最愛の姉を、親友を、仲間を喪った時の悲しみを。

 一度止まってしまったら、もう二度とそこから動けない。そんな強迫観念に囚われていた。

 

 周りの制止の声も顧みず、義勇はがむしゃらに突き進んだ。

 その中にはカナエもいたのかもしれない。しのぶもいたのかもしれない。

 それでも義勇は覚えていなかった。煩わしいとすら思っていたかもしれない。

 周りの人間関係の全てを犠牲にして、義勇は死に急いでいた。

 

 落ち着いたのは、柱を任命されてからだ。

 自分には不相応な立場である。無礼にも数度は断った。それでも尊敬するお館様に強く勧められ、形だけでもと拝命したのだ。

 それ以降も無理は繰り返していたが、ある時お館様にも軽いお咎めを受けた。

 

 上に立つ者は、下の者への手本とならなければならない。

 

 自分が上だなんて微塵も思ったことは無かったが、なまじ立場がある為に反論出来なかった。

 その頃になってやっと周りを少し見回す余裕が出来たのだが、その時には既にカナエは故人だったのだ。

 尤もカナエの存在を知ったのも、妹であるしのぶが蟲柱となってから。

 

 だからカナエと真面に会話をするのはこれが初めてで。

 一番に思ったのは違和感だった。

 

(胡蝶に似ているが……どこか似ていない。カナエの方が笑みが自然で……蔦子姉さんの笑顔に似ている)

 

 しのぶの笑顔を思い出す。

 彼女は基本的には笑みを絶やさない少女だったが、カナエの笑顔を見た後だと思うのだ。何処か空っぽだったなと。

 

 思う所はあったが、今は雑事と義勇は思考を切り替えた。

 

「カナエ、あと二日ある。一人で生き残れるか?」

「……さっきあんな目にあったばかりだからちょっとね……」

 

 面目無いです……と落ち込むカナエ。ある程度快復した今なら先ほどの鬼にも遅れを取るとは思わないが、決して本調子と言える状態ではなかった。

 義勇は咎めない。見れば分かる、カナエは最終選別参加者の中でも強者に当たるだろう。

 むしろ一人で探索したいなどと言われなくて都合が良かった。

 

「なら頼みがある」

「なにかしら? 私に出来ることなら何でも言って!」

「此処から西。最初の広場のほど近くに参加者が集まっている。負傷した者や戦意喪失した者を、幾人かの動ける者で守護してもらっている。カナエにも合流してほしい」

 

 カナエは驚きで瞠目する。

 そんな発想が無かった。最終選別が始まってから今の今まで、自分の安全しか頭の中に無かった。

 率先して他者を慮る余裕など、カナエには無かったのだ。

 

 それを義勇は何ともなしに平然と行なっている。目の前の、年下であろう少年が。

 カナエは無性に情けなくなった。

 

(鬼殺隊に入ろうと決心した時の想いを見失うなんて……)

 

「カナエ……?」

「あっ、ううん。何でもないのよ。話は分かったわ。私もそこに合流して全力を尽くすから」

「感謝する」

「義勇くんはどうするの?」

「俺は今日中に東側全域を回ってから西側に移動する。中央までは既に一掃した。恐らく鬼と出会わずに合流出来るだろう」

「……分かったわ」

 

 なんて気高いのだろうと、カナエは思う。

 義勇は自然体なのだ。それでいて、誰かを護ることを最優先に考えて行動している。

 そしてそれを成し遂げる気概も力も備えているのだ。

 

(思うだけじゃダメなのね。私ももっと強くならないと!)

 

 カナエは最後に微笑んでから、義勇に感謝する。

 

「気を付けてね。さっきは本当にありがとう!」

「ああ、カナエも気を付けろ」

 

 両者共に駆け出して別れる。

 義勇としては付き添っても良かったのだが、妙な胸騒ぎに従って探索を優先した。

 

(初日から感じていた鬼の気配を見失った……西側に逃げられたか……?)

 

 一先ずの方針として東側の鬼を殲滅する。

 この五日で三十体以上屠ったために残りは居ても数匹だろうが、取り零しがないよう念入りに捜索するつもりだ。

 残り二日は西側に進出し、錆兎と合流する。

 

(あの時の最終選別で死んだのは錆兎だけ。鬼の殆どが錆兎によって殺された。……恐らくだが、錆兎は最終日まで生きて居たはずだ)

 

 助けられた義勇が言うのもあれだが、あの時の最終選別での実力者は錆兎ぐらいだったのだろう。次点でカナエがいたのかもしれないが、死者が一人しかいないのというのはつまり、最終日まで参加者を守る存在が必要だったはず。

 

(可能であるならば明日合流したいが……)

 

 神経を尖らせて、義勇はひた走る。

 東側から鬼の姿が一体残らず消え失せるのは時間の問題だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「包帯を取り替えるからじっとしていてね」

「ありがとう、ございます……」

 

 血で汚れ赤く染まった包帯をカナエは優しく巻き取り、自前の新しい包帯を用いて負傷箇所を覆う。

 側でその様子を見ていた少女が感嘆の溜め息を漏らした。

 

「カナエさんは本当に上手です。医学の知識があるのですか?」

「うん、少しだけね。鬼によって孤児になった子を養う屋敷に住んでるんだけど、そこは鬼殺隊員の治療院にもなってるの。私と妹はずっとそこでお手伝いしてたから、自然とね」

「そうだったんですね」

 

 会話を交えながらもカナエの手が止まることはない。

 慣れた手捌きであっという間に包帯を取り替えたカナエは、倒れている少年に声を掛ける。

 

「終わったわ。今日が最終日だから無理はしないで横になっててね!」

「はい……」

 

 処置を終えた少年に寝ているよう言い伝えてからカナエは立ち上がり、他に手当てが必要な者がいないかを見渡す。

 カナエ含めてこの場に十名以上いて、殆どが負傷したか戦意喪失したかで動けない者だ。その他の動ける参加者は護衛と警戒を兼ねてこの場を中心に円状に配置されており、一種の野戦病院として機能していた。

 見回してカナエは安堵する。どうやら致命傷を負った者はいないようで、今夜を乗り越えて適切な治療を受ければ完全回復が可能だと分かったからだ。

 

 死者零人という快挙を成し遂げる立役者となったのは二名の参加者。

 

(義勇くんと、錆兎くんだったかしら?)

 

 狐の面を付けた少年に助けられた。

 此処にいる皆が口を揃えてそう言う。

 一人はカナエも助けられた黒髪の少年である義勇のこと。

 もう一人は右頬に傷跡のある宍色の髪の錆兎という少年らしい。

 

(同じ狐のお面を付けているのなら、きっと同門なんだわ)

 

 持参した包帯や軟膏をテキパキと片付けながら、カナエは二人の関係性に当たりをつける。

 義勇はその目で見たから知っているが、恐らく錆兎も相当の実力者なのだろう。

 

 この臨時的野戦病院はこの二人が示し合わせたように作り上げたものだ。助けを呼ぶ声に応じて二人が鬼を殲滅し、一人二人と増えていった救助者をまとめて守護する為に設けた場所。

 二人が直接居合わせた場面を見た者はいないらしいが、代わる代わる訪れて助けた者たちを預ける姿を目撃している子は多い。

 

 純粋に凄いとカナエは感嘆する。

 どちらもカナエより一つ年下──二人とも十三歳だと聞いたと他の子が言っていた──にも関わらず、こうも完璧な連携で人命救助を行えるのだから。

 

 死者は居らず、気付けば最終日の夜を迎えている。

 このまま無事に過ごせれば、全員で生還できるだろう。

 

 そんなに都合良く終わる筈がないのに。

 

「……何事もなければいいのだけれど」

「──負傷者です! 誰か来てくれませんか⁉︎」

 

 周囲の警戒を行なっていた子の声が耳朶を打った。

 即座に自身の甘い考えを切り捨てて、カナエは急いで声の方へと向かい合流する。

 

「……っ⁉︎」

 

 全身傷だらけの少女を見て絶句した。両腕が膨れ上がるように腫れており、一目で重傷だと分かってカナエは慎重かつ迅速に行動に移す。

 

「横にします! そのまま支えていてください!」

 

 肩を貸していた少年と共にカナエは少女の身体を労わりながら、体勢を横にして寝転がらせる。

 すかさず全身を隈なく確認して、カナエは心中でひとまず安堵した。

 

「……両腕が折れてますが、命に関わりそうな傷は見る限りありません」

 

 あえて断言するように告げると、少年と少女の緊張が目に見えて解けていくのが分かった。

 だからといって放っておいていいものではない。カナエは素早く添え木を用意して適切な処置を施す。

 

「今はこれくらいしか出来ないけど……」

「ありがとうございます……それより、あの人を……」

 

 必死に懇願する少女の言葉を聞いて、心当たりが二人浮かんだ。

 

「あの人って髪は黒色? 宍色?」

「宍色の、錆兎さんという、方です……」

 

 少女は折れている腕を動かして、カナエの羽織を掴む。

 激痛が走っているだろうに、顔を歪ませながらも心の燃料だけで言葉を募る。

 

「錆兎さんを、助けて! 私のせいで、怪我を……すごく大きな異形の鬼に、一人で……っ!」

「っ⁉︎」

 

 飛び出た言葉に驚愕する。

 雑魚鬼しかいない筈のこの藤襲山に異形の鬼など存在しているなんて、冗談にしても性質(たち)が悪い。

 でも分かる。間違いなくそれは存在しているのだと。

 

 ならば救援に向かわなければ。

 

 思考に雑音が混ざる前に、カナエは即断で決心を固めた。

 

「どっちかな?」

 

 少女は震える指をもって戦場の在り処を示す。

 

「ありがとう! この子をお願い!」

 

 側に控えていた少年に言い残して、カナエは全力疾走でその場を離れる。

 

(お願い、無事でいて!)

 

 命の恩人たる義勇の同門を、義兄弟の無事を願いながら、カナエは疾風となって木々の合間を駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時を少しだけ遡る。

 

「もうすぐで皆が集まっている場所だ」

「ありがとうございます、錆兎さん。ご迷惑ばかりかけて……」

「気にするな」

 

 最終日の夜。

 錆兎は鬼に襲われ負傷していた少女と合流し、山の中央へと向かっていた。

 最終選別も今夜をもって終了する。

 西側にいた鬼は粗方斃し尽くした筈だ。一応まだ他の参加者がいないかを確かめる為に今日一日で最後の探索を考えていた錆兎だったが、今からでは完遂するには時間が足りない。

 このまま野戦病院の守護に徹するべきだろうかと考えていた。

 

(知る限り死者は出ていない。結局義勇と会うことは無かったが、まぁ問題ないだろう)

 

 気懸りではあったが心配はしていなかった。

 既にこの七日間で何十体と鬼を斬った錆兎だからこそ分かる。義勇がこの程度の相手に遅れを取るわけが無い。

 たった三ヶ月で水の呼吸の教えを全て修得し、その先の可能性すら示し、今では錆兎ととも対等以上に渡り合える義勇だ。例え十対一という状況であろうと、この舞台にいる鬼共など瞬殺できる。

 

 ならば後は今夜を乗り越えて試練の終わりを待つのみか。

 

「……ようやく見つけたぞォ、俺の可愛い狐を」

 

 その思考は突如木霊した不快な声に中断させられた。

 

『っ⁉︎』

 

 異質な声音と発せられる鬼気に警戒心を露わにする。

 二人は自然と背中合わせとなって周囲を見渡し、声の主の姿を待つ。

 

 最初に目視したのは少女だった。

 

「……嘘……なんであんなのが⁉︎」

「……異形の鬼か」

 

 振り向いた錆兎が確認すると、人の身の丈を優に超える、全身から幾多もの腕を生やした異形の鬼がいた。

 内心で己の甘い考えを叱咤し、錆兎は緩んだ気を引き締め直す。

 少女を一瞥する。刀を持った手は震えており、戦意を失いかけているのは一目で理解出来た。

 

 故に結論は早い。

 

「君はこのまま中央に合流し、このことを伝えるんだ。可能ならば距離を取るように言え」

「さ、錆兎さんは……まさか戦うんですかっ⁉︎」

「誰かが相手取る必要がある。俺なら問題無い、行け」

 

 強い口調で告げる。拒否は認めないという錆兎の双眸を覗き見て、少女は唇を噛んで決断するしか無かった。

 己の無力が原因で錆兎の足手纏いになる方が怖い。

 

「必ず救援を呼んできます!」

 

 傷付いた身体を庇いながらゆっくりと駆け出す少女を最後まで見送ることなく、錆兎は異形の鬼と対面する。

 敵意を漲らせて、錆兎は理性ある鬼を真正面から見据えた。

 

「狐小僧。今は明治何年だ?」

「質問に答える義理がない」

「鱗滝の弟子は教育がなってないな。そんなのも分からないのか」

「……どうして鱗滝さんを知っている?」

 

 ピリッ、と張り付く剣気が錆兎から溢れる。

 錆兎は気にしていた。この鬼は錆兎のことを可愛い狐と、狐小僧と連続で呼んだ。

 まるで知己であるかのような、その素ぶり。

 

 久し振りの会話が嬉しいのか、鬼は丁寧に錆兎の問いに答える。

 

「知ってるさァ! 俺を捕まえてこの藤の花の牢獄にぶち込んだ張本人が鱗滝だからなァ。もう四十年程も前になる」

「そうか、その醜い身体と腐敗臭はそういうことか」

 

 ギリギリと怒りで自分の身体を握り潰す鬼に対して錆兎は態度を崩さない。

 生意気な錆兎が気に食わない鬼は血管という血管が全身に浮き上がる。

 

「鱗滝め鱗滝め鱗滝めェ! 俺をこんなところに閉じ込めやがってェ! 許さん、絶対に許さんんんッ!」

「御託はいい、失せろ」

 

 錆兎が日輪刀を構える。

 勝てない相手では無い。厄介な体格をしているが、言ってしまえばそれだけだ。頸を刎ねる隙を作って刃を振り抜くのみ。

 錆兎の様子を見て異形の鬼は忽ち冷静になる。

 そして、クスクスと嗤い始めた。

 

「いいのか?」

 

 全ての手の人差し指がとある方向を示した。

 それは中央に向かった少女の背を指しており。

 

「先にあのガキが死ぬぞ?」

「……きゃああああああああああっ⁉︎」

「っ、貴様っ⁉︎」

 

 恐怖に満ちた叫び声を聞いて錆兎は俊足をもって駆け、五秒もかけずに少女に追い付いて己の失態を悟る。

 少女は地中から現れた巨大な手に握り潰されていた。

 

「痛い痛い痛い痛いッッ‼︎ 誰かぁッッ⁉︎」

 

 ──水の呼吸

【弐ノ型・水車】

 

 縦回転斬りにて巨腕を両断。

 少女を拘束する指を全て斬り刻み、錆兎は跳躍して空いた片手で少女を脇に抱え込んだ。

 

「離してッッ! 離してェェッッ‼︎」

「落ち着け! 俺だ、鬼じゃない!」

 

 あまりの激痛と恐怖で恐慌状態に陥っている。

 そう判断して怒鳴るように宥めるが、錆兎に失策を嘆く時間は与えられなかった。

 

「死ねぇッ!」

「ッ⁉︎」

 

 地中から更に溢れる膨大な手の平。その全てが錆兎に向けて殺到し、矮小な人間を握り潰さんと開閉を繰り返す。

 少女の身を案じて咄嗟に飛んだのは失敗だった。

 地に足が付いていないこの状態では、少女を庇いながら無傷で乗り越えるのは錆兎でも困難。

 

「ッッ!」

 

 それでも空中で振るう刃に迷いはない。

 的確に相手の攻撃を捌いて捌いて捌き切る。

 全てを斬り終えて両足を地面に付けたその時、鬼の薄ら笑いが聞こえた気がした。

 

「さァ、これならどうする?」

 

 ズン、と地面が揺れ、地中より現れる鬼の手。

 錆兎の足元に二つ。

 少女を狙った腕が多数。

 

(此奴ッッ!)

 

 戦い慣れている。四十年此処に巣食ってきたのいうのは伊達ではない。戦闘経験においては錆兎など足元にも及ばないだろう。

 

 本来であれば、この鬼もこんな回りくどい戦闘方法は取らなかった。否、今までは取る必要が無かったのだ。この場に訪れる鬼殺の剣士の卵たちは、実力差で押し潰せるのだから。

 では何故錆兎相手にここまで手の込んだ戦いを仕組んだかと言えば、それはひとえに初日に見た鱗滝の弟子──義勇の存在が大きかった。

 

 錆兎は見ただけで震え上がるような恐怖は湧かなかった。

 だかそれが弱いという同義にはならない。

 むしろ同世代なのだから強者である可能性の方が高いと睨んだのだ。

 

 事実、錆兎は強かった。

 只の参加者ならもう詰んでいる攻撃を、錆兎は捌き続けている。

 

 しかし、この攻撃の悪辣さは錆兎の力を僅かに上回ったようだ。

 

 錆兎は、見捨てるという判断が下せなかった。

 

「はぁあああっ‼︎」

 

 自身の足首を握り潰そうとする手を無視して、錆兎は少女目掛けて襲い来る手の悉くを斬り刻む。

 全てを斬り終えた後に足元を一閃。

 

 その直前に、足から嫌な音が鳴ったのを錆兎は聞いた。

 

「っ!」

 

 渾身の力で錆兎は背後に跳躍。

 地面を削るように制止して、錆兎は脇に抱えていた少女を見る。

 状況を理解した少女は涙目で錆兎に謝り続けていた。

 

「あぁ……っ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいッ! 私のせいで、私のせいでッ⁉︎」

「泣くなっ‼︎」

 

 大音量の一喝に少女がビクンと震える。

 

「君も鬼殺の剣士を目指す者だろう! ならば泣くな! 男も女も関係ない。俺たちが挫ければ、多くの民が死ぬんだぞ!」

「……はいっ、……はいっ!」

「ならば行け! 振り向かずに中央まで走り抜けろ!」

「はいっ‼︎」

 

 解放された少女は走る。折れているだろう腕を懸命に動かして必死に。

 

「逃すと思うかァ?」

「追えると思うなよ?」

 

 鬼の挑発に錆兎は静かに刀を振り上げる。

 

 ──水の呼吸

【捌ノ型・滝壺】

 

 地面が爆砕する振り下ろしで土煙を巻き上げる。

 立て続けに爆音が鳴り響き、土埃が甚大な煙幕として鬼の視界を土色に染め上げた。

 

(クソッ、見失った! 女も狐小僧も!)

 

 錆兎が巻き起こした土埃は少女の足取りを隠すと同時に、錆兎自身の目眩しとしても機能した。

 一瞬の判断で下した攻守備わった一手。

 

 ──水の呼吸

 

「ッッ⁉︎」

 

 真横から襲い来る重圧に気付いた異形の鬼は、動かせる全ての腕で防御に回った。

 

【陸ノ型・ねじれ渦】

 

 土煙を突き破って現れた錆兎が上半身と下半身をネジのように捻り、壁と化した鬼の腕を一太刀で叩き斬る。

 

「ちぃっ!」

 

 仕留め切れなかったことに錆兎は舌を打ち、仕切り直しを考えて間合いを取った。

 鬼から視線を外さずに、錆兎は足の具合を確認する。

 

(痛みが酷い。左は捻挫で、恐らく右は折れているか……)

 

 踏み込むだけで両足共に激痛が苛み汗が止まらない。

 機動力は十全の半分程度にまで落ち込んでいる。

 それでもまだ、錆兎には勝機が見えていた。

 

(呼吸で痛みを和らげる……)

 

 この状態でも冷静に事を運べば十分に対応可能だ。

 少しでも気が散らぬように足の痛みを誤魔化しつつ、錆兎は相手の頸を刎ねる戦術を模索する。

 

 一方、異形の鬼は内心で焦燥に駆られていた。

 

(このガキも異常な強さじゃないかッ⁉︎ 足を折った手応えはあったのにこの動き!)

 

 侮らずに足を奪ったというのに、錆兎はそこらの参加者より依然速い。

 鬼も悟る。未だに分が悪いと。

 だからこそ、鬼は嘲笑を隠さなかった。

 

「やるなァ、狐小僧。お前ほど強い鱗滝のガキはいなかった」

「……なんだと?」

 

 聞き捨てならない台詞に錆兎は反応してしまう。

 異形の鬼は見せ付けるように指折り何かを数え始めた。

 

「九……、十……、十一……、お前で十二だ」

「……何の話だ?」

 

 口振りから予想は出来ていた。

 それでも問わずにはいられなかった。

 錆兎の荒れ狂う心中を想像したのか、異形の鬼は口元に手を寄せてクスクスと嗤う。

 

「俺が喰った鱗滝の弟子の数だよ。アイツの弟子はみんな殺してやるって決めてるんだ」

 

 重苦しい静寂が空間を押し潰す。

 日輪刀の柄の形が変わるのではないかという力が手に込められる。

 一滴の雫が波紋となって、徐々に波がおおきくうねり始める。

 

「目印なんだよ、その狐の面がな。鱗滝が彫った面の木目を俺は覚えてる。アイツが付けてた天狗の面と同じ彫り方だ」

 

 鬼はお喋りを止める気はなかった。

 知っているのだ、この話をすると相手は冷静さを失って、我を忘れて突撃してくることを。

 そうするとどうなるか。簡単だ、手玉に取りやすくなる。

 そうやって殺してきたのだ。

 

「厄除の面とか言ったか? それを付けてるせいでみんな喰われた」

 

 クスクス、クスクスと嗤い続ける。

 

「みんな俺の腹の中だ。鱗滝が殺したようなもんだ」

 

 ブチッ、と何かが切れた。

 

「あいつらの悲鳴は最高だったな。特に手足を引き千切った時は」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 赫怒が燃え上がる。

 過去に無い怒髪天を衝いた形相で錆兎は咆哮した。

 

「貴様ぁあああああああああッッッ‼︎」

 

 怒声が戦闘再開を告げる号砲となり、異形の鬼は多数の腕を伸ばして錆兎を襲う。

 錆兎はそれらを力任せに叩き斬る。身体に染み付いた熟達した剣技が陰るような闇雲な斬撃。

 それでも錆兎の力は相手の攻めを上回り、腕の護りを難無く突破する。

 

 伸び切った腕は直ぐには戻せない。

 これまでの戦闘でその事実を見抜いていた錆兎は躊躇い無く跳んだ。

 

 ──水の呼吸

 

 目の鼻の先に現れた錆兎に鬼は仰天する。

 

(ここまでやってまだ駄目なのか⁉︎)

 

 あり得ない強さだ。

 過去に類を見ない飛び抜けた実力。完全に見誤った。

 

 鬼は咄嗟に可能な限りの腕を集めて頸を覆う。悪足掻きであろうと、これしか出来ることがない。

 

 眦を釣り上げた錆兎は、交差した両腕を一気に振るう。

 

【壱ノ型・水面斬り】

 

 確実に頸を横切る軌道の斬撃。

 死を直視した鬼は、予想外の光景に瞳を見開く。

 

 ──パキンッ!

 

 振り抜いた錆兎の日輪刀が、半ばから折れていた。

 

 実力で言えば、錆兎の圧勝であった。

 万全の状態であったならば勝負にもならなかっただろう。錆兎はこの時点で圧倒的な強者であったのだ。

 

 しかし、足りないものもある。

 戦闘経験および継戦能力。

 この二点が強さとは不釣り合いな程に錆兎には不足していた。

 

 七日間で多数の鬼を斬り、不慣れな空中戦や他人を護る戦闘を行い、怒りに任せた剣で術理を陰らせた。

 

 刀を酷使し過ぎたのだ。

 悲鳴をあげ続ける己が相棒である日輪刀の声を、錆兎は最後の最後で聞けていなかった。

 

 だから、こんな結末になってしまった。

 

「っ⁉︎」

 

 錆兎は驚愕して咄嗟に動けない。

 異形の鬼は自身の勝利を確信して、錆兎目掛けて腕を突き上げる。

 

 迫り来る魔手を前に、錆兎は刀を振るえなかった。

 

 己の死に様を幻視する。

 無念のまま師と妹と弟と、先に逝った兄姉を想う。

 

 思い出に浸る間も無い。

 

 刹那、芳しい花の香りが辺りを包んだ。

 

 

 

 ──全集中・花の呼吸

【肆ノ型・(べに)(はな)(ごろも)

 

 

 

 斬ッ! と鬼の腕が斬り飛ばされた。

 

『っ⁉︎』

 

 勢いが弱まった攻撃を前に、錆兎は顔面狙いであった拳に側頭部を向ける。

 パリンッ、と砕ける狐面。直撃は避けられなかった錆兎は、そのまま成す術なく吹き飛んだ。

 

(錆兎くんっ! ……ッ⁉︎)

 

 死闘へ乱入した少女──胡蝶カナエは錆兎の様子を見ようとするも、伸し掛かる殺気に反応して鬼と空中で正対する。

 

「なんだ、お前は?」

「っ‼︎」

 

 カナエを貫こうと迫る凶手。

 眦を決してカナエは身体を捻る。

 

 ──全集中・花の呼吸

【陸ノ型・渦桃(うずもも)

 

 鍛えられた体幹から繰り出す滞空奥義。身体をひねり回した反動を用いた一閃で鬼の巨腕を斬り裂く。

 追撃の手は緩まない。

 カナエが着地すると同時、今度は数に任せた手の群れが襲い掛かる。

 出し惜しみする余裕など皆無だった。

 

 ──全集中・花の呼吸

【弐ノ型・()(かげ)(うめ)

 

 全方位に対応した相手の攻撃に合わせる連撃技。迫る腕を斬り捨て、返す刃で攻撃の出鼻を挫く。

 鬼の猛攻を耐え切ったカナエは距離を取る為に背後に跳躍。

 真後ろに錆兎がいる位置まで後退した。

 

「はぁっ、はぁっ! 錆兎くん! 聞こえる、錆兎くんっ‼︎」

 

 全集中の呼吸三連発で荒れた息を切らしながら、カナエは大声で呼び掛けるも返事は無い。

 可能性は二つ。気絶しているか、最悪な場合は……。

 

 確認したい衝動に駆られるも、一度でも目を背ければその瞬間に殺される。

 そう確信出来る尋常でない威圧をカナエは全身で感じていた。

 

 ブチブチと耳障りな音が鳴る。

 それは鬼があらん限りの力で自身の身体を握り潰している音だった。

 

「このガキィイイイイイイッ! よくも邪魔をしてくれたなァアアアッッッ!」

 

 突き刺さる殺意が空気を震撼させる。

 その余りの威圧にカナエは一瞬身体を震わせるも、瞳に宿る闘志に翳りは無かった。

 カナエは冷静に、迅速に状況を分析する。

 

(私がこの鬼を斃せるとしたら超短期決戦しかない。だけどそれじゃ錆兎くんを護れない。救助は義勇くん級じゃないと逆に足手纏いだわ)

 

 ならばどうするか。

 カナエの覚悟は疾うに決まっていた。

 

(攻撃の全てを斬り捨てる!)

 

 やれるだろうか? カナエは自身に問い掛ける。

 問いが間違っていた。やれるかではない、やるしかないのだ。

 

(しのぶ、私に力を貸して!)

 

 カナエは鞘に仕込んだ仕掛けを作動させ、ここまで温存していた奥の手を準備する。

 

「狐小僧と共にくたばれェえええええええッッ‼︎」

 

 怒りの咆哮と共に突き出る夥しい数の拳。

 一直線に殺到する絶望的な脅威を前に、カナエはどこまでも冷静だった。

 

 ──全集中・花の呼吸

 

 カナエは思い出す。正確に言えば、思い出した。義勇の雄姿を見て、過去の誓いを。

 両親を鬼に惨殺され、妹と共に九死に一生を得たあの日。カナエは妹と共に誓った。

 

 ──鬼を倒そう。一体でも多く。二人で。

 ──私たちと同じ思いを、他の人にはさせない。

 

 今度は自分の番だ。

 命を救ってくれた義勇へと返そう。

 義勇の義兄弟をこの手で護ってみせる。

 

 護る者を背負ったこの瞬間、カナエは己の限界を踏み越えた。

 

【玖ノ型・千本(せんぼん)(ざくら)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 舞のように流麗に、荒波のように激しい目にも留まらぬ剣閃の嵐。

 音を置き去りに、カナエは迫り来る拳を斬って斬って斬り捨てる。

 

 カナエが繰り出した奥義である千本桜。これは鬼殺の呼吸の中でも特異な、護りに特化した守護の型。

 何ものも己の背後へ通さない覚悟をもって振り抜かれる極地に至った剣技。

 

 振り抜いた刃は全ての拳を斬り裂いていた。

 

「なんだとォッ⁉︎」

 

 異形の鬼は驚愕して声を上げる。

 同時に、身体の異変に気付いた。

 

(腕の再生が遅い⁉︎ 身体も上手く動かない⁉︎)

 

 まるで毒にでも侵されたような感覚に鬼は冷静さを失う。

 

 その様子を見て、カナエの判断は早かった。

 

「錆兎くん!」

 

 駆け寄り、脈拍を測る。

 カナエの顔に笑みが溢れた。

 

(生きてる! ちゃんと生きてるっ!)

 

 呼吸も安定している。恐らく軽い脳震盪で気絶したのだろう。

 あの直撃を受けてこれだけで済んでいる錆兎の頑丈さに感謝して、カナエは錆兎の身体を持ち上げる。

 

「待ァああ……てぇえええ……ッ!」

 

 鈍重な動きで此方へ腕を伸ばす鬼を無視して、カナエは走り去る。

 中央から離れるように、カナエは一目散に走り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「錆兎くん、錆兎くんっ!」

 

 樹に背凭れにして座らせた錆兎にカナエは声を掛けるも、未だ起きる気配がない。

 この場を離れるわけにもいかないカナエは、内心かなり焦っていた。

 

(位置的に中央に行けなかった。あの鬼がどう行動するか読めない以上、早く合流しないといけないのに!)

 

 離れ過ぎては中央にいる参加者たちに危険が及ぶ。

 かと言って一人で打倒するにはあの鬼は強大で。

 そもそも錆兎の側を離れて単独行動など論外。

 

 儘ならない状況に焦りが募り、カナエの頰に汗が伝う。

 

 ガサッと音がした。

 警戒心を剥き出しに、カナエは怒鳴るように誰何する。

 

「誰っ⁉︎」

「その声は、カナエか?」

 

 中央から見て更に西側より現れた狐の面を見て、カナエは満面の笑みを浮かべた。

 

「義勇くん!」

 

 救世主だ。この状況を一手で引っ繰り返せる可能性を秘めた存在が現れてくれた。

 漆黒の髪を靡かせる義勇に、カナエは心底安堵した。

 

「義勇くん、力を貸して! 今本当にまずい状況なの!」

「そうか。俺に出来ることなら何でも……」

 

 義勇の言葉が止まる。

 その視線は一箇所に縫い止まり、大きく瞳を見開いていた。

 木の幹が影となって見えなかった錆兎が其処に居たからだ。

 

「錆兎っ⁉︎」

 

 慌てて駆け寄る義勇に、カナエは簡単に説明する。

 異形の鬼がいたこと。仲間を庇って錆兎が足を負傷したこと。あわや命を落とすといった時にカナエの救援が間に合ったこと。一先ず撒いたが、危ない状況であること。

 一つずつ噛み締めるように聞いた後、義勇はカナエに向き直る。

 

「カナエが助けてくれたのか……」

「ギリギリだったけど、間に合って本当に良かったわ」

「ありがとう、カナエ。本当に、ありがとう」

 

 万感の思いを込めて義勇は感謝を告げる。

 また自分の知らないうちに友を、家族を喪うところだった。どれだけ感謝してもし尽くせない。

 カナエは本当に嬉しそうに笑った。

 

「お礼なんて。助けられて、本当に良かった」

「…………うぅ」

「錆兎!」

 

 小さな呻き声に反応して、義勇が錆兎に声を掛ける。

 うっすらと瞳を開けた錆兎は、目の前にいる義勇を見て口を開く。

 

「義勇か?」

「ああ。身体の調子はどうだ?」

「身体……?」

 

 痛みを訴える身体の状態を確かめ、錆兎は何故こうなっているのかと記憶を巡り。

 カッ、と瞳を見開いた。

 

「あいつは何処だ!」

 

 常に冷静な錆兎には似付かわしくない豹変振りに義勇が驚く。

 

「どうした、錆兎?」

「義勇! あの異形の鬼は何処だ⁉︎」

「此処から東にいると聞いた。それよりも落ち着け、何があった?」

「落ち着いてなんていられるか! あいつは鱗滝さんの、俺たちの仇なんだぞ‼︎」

「……どういうことだ?」

 

 しん、と義勇の眼差しが細まる。

 錆兎は感情任せに事情を話す。

 

「あいつは俺たちの兄弟子姉弟子を全員殺したと言った! 嗤いながら、俺たちの家族を皆殺しにして喰った鬼なんだ!」

「……酷いっ……」

 

 カナエは両手で口を抑える。

 一方で義勇は冷静な態度を崩さなかった。

 話を聞いて錆兎が怒り狂っている理由を理解した。

 だからこそ、義勇は同じ言葉を繰り返した。

 

「そうか……。話は分かった。それを踏まえて言う。錆兎、一回落ち着け」

「ふざけるな! 家族の仇を前にして落ち着いていられる訳がない!」

「錆兎、もう一度だけ言う。落ち着け」

「義勇……! お前は何故冷静でいられる! 家族が殺されてお前は何とも」

 

 ──パァン!

 

 甲高い音が鳴り響いた。

 側で見ていたカナエは口元を手で覆った状態で固まる。

 錆兎も声を失っていた。

 

 左頬が痛い。

 

 義勇の平手が、錆兎の左頬を思い切り打ち抜いていた。

 

「ぎ……義勇……?」

「錆兎。呼吸が、心が乱れている。鱗滝さんの教えを忘れたか」

「っ⁉︎」

 

 錆兎はひゅっと息を飲む。

 自分は今まで何をしていた? 怒りで我を忘れて、目の前の友であり家族である弟に何を口走ろうとしていた?

 家族を殺されて何とも思わない者などいない。

 もしいるとすれば、そんなのはもう人間ではない。

 

 義勇をそんな畜生と同じだと、そう言おうとしたのか。

 

 冷や水を浴びせ掛けられたように、錆兎の心が凪いでいく。

 

「……すまない、義勇。俺は……」

「いい、気にするな。落ち着いたか?」

「ああ、迷惑を掛けた」

「言うべき相手が違う。お前を助けたのはカナエだ」

 

 その時になって、錆兎は初めてカナエに気付いた。

 死を直視したあの時に漂った花の香り。

 錆兎は立ち上がって、カナエに頭を下げた。

 

「迷惑を掛けた、すまない。ありがとう、あなたのお陰で命を拾った。俺は錆兎、義勇の兄だ」

「ううん、錆兎くんが生きてて良かったわ。私は胡蝶カナエ、錆兎くんの弟に命を救ってもらった者よ」

 

 錆兎に合わせたようなお茶目な切り返しに錆兎が笑う。

 完全に我を取り戻した錆兎は、転がっていた己の日輪刀を拾い上げて謝罪する。

 

「すまない、俺が未熟なばかりに」

 

 ほんの少しの間だけ黙祷するように瞳を閉じる。

 次に目を開けた時、錆兎の双眸には決意が宿っていた。

 

「状況を説明してほしい」

「危機はまだ去っていない。その異形の鬼が狙うのは俺たちか中央の参加者たちだ」

「そこまで離れてないから今すぐ行けば多分間に合うわ」

 

 話を聞いて、錆兎は思い出した。

 

「そうだ、一人直前に中央に行かなかったか?」

「両腕が折れてた女の子が来たわ。その子から異形の鬼のことを聞いてなかったら、私は間に合ってなかったわ」

「そうか……」

 

 錆兎は少女が彼女自身に課した責務を果たしたのだと深く感謝する。

 

「その子が間に合っているのなら、恐らく中央の参加者は避難しているはずだ。義勇、東側はどうなっている?」

「一体残らず殲滅した。この二日で西側も見たが、恐らくこの山にいる鬼はその異形の鬼で最後だろう」

「嘘でしょう……」

 

 交わされる会話の内容に戦慄するカナエ。可能だろうとは思っていたが、実現されると軽く引く。

 

 整理すると状況は単純明快だった。

 異形の鬼を仕留めるか、今夜だけでも逃げ切るか。

 

 全てを踏まえて、錆兎は決意を口に出した。

 

「あいつは俺が斬る。俺がやらなければならない」

 

 固い意志を感じる言葉。

 義勇は驚かなかった。錆兎ならそう言うだろうと確信していた。

 しかし、一度は敵の術中に嵌って仕損じたのだ。義勇は冷徹に、錆兎の覚悟を問う。

 

「折れた日輪刀でか?」

「そうだ、まだ戦える」

「無謀に近い」

「だが、やる。これは決めた事だ」

「死ぬとしてもか?」

「もう俺は死ぬわけにはいかない。カナエに救ってもらった命でもあるし、何より鱗滝さんと真菰に帰ると約束した」

「そうか……」

 

 自暴自棄になっているわけではない。

 必ず生きて帰るという強い意志を感じた。

 ならば良い。力を貸すことに何の躊躇いも無い。

 

「錆兎」

 

 義勇は鞘ごと日輪刀を引き抜いて、錆兎に差し出す。

 

「日輪刀は、俺たち鬼殺の剣士にとって魂の半分だ」

「義勇……」

 

 錆兎は静かに義勇を見据える。

 

「俺の魂をお前に託す。錆兎、俺たち家族の仇を取ってくれ」

「……ああ、任せろ!」

 

 互いの日輪刀を交換して、錆兎は授かった義勇の魂を握り締める。

 

「勝ってくる」

「ああ」

 

 錆兎はそのまま脚を負傷しているとは思えない速さで駆け出し、樹々の闇を抜けていく。

 

 虚空を見詰めるようにその後ろ姿を眺めていた義勇に、カナエは恐る恐る声を掛けた。

 

「いいの、義勇くん。追い掛けなくて」

「……一応、助太刀に入れるようにはする。だが、今の錆兎なら問題無い」

 

 倒れている姿を見た時は心が凍えた。

 怒りに囚われ、我を忘れた錆兎を元に戻せたのは錆兎のお陰だ。自分がああして目を覚まさせて貰ったのだ。

 不思議と、もう心配していなかった。

 最後の心のつかえがようやく取れた。

 

 義勇はカナエに向き直る。

 

「カナエ、もう一度言わせてほしい」

 

 これまで練習しても一向に出来なかったのに、今は違った。

 自然と、感情が表情に表れた。

 安堵して、嬉しさで満ちて、もう大丈夫だと確信して、義勇は素直に笑うことが出来た。

 

「カナエ。錆兎を、俺の兄を助けてくれてありがとう」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 その微笑みの破壊力は凄まじかった。

 

 この短い触れ合いの中で義勇は一度も笑わなかった。せめてもの感情の変化は驚きだけで、それも殆ど表情が変わらない。

 能面で無表情で、冷たい印象すら覚える義勇から溢れた、とても柔らかで真っ直ぐな微笑み。

 

 直視したカナエの胸が高鳴るのも無理は無かった。

 

「えっ、あっ、いや、その、うん! 私こそありがとね! 義勇くんは命の恩人だもん、私の方がお礼を言わないといけないよね!」

 

 真正面から不意打ちを喰らったカナエはあたふたする。それはもう盛大にあわあわした。

 急に顔を紅らめたカナエに義勇は一歩近付く。

 

「大丈夫か? やはりどこか痛めて熱があるのか?」

「そんなことないかなー⁉︎ 元気、私すごく元気!」

 

 両拳を胸の前で握って大袈裟に体調良好を訴えるカナエに、義勇はやや首を傾げるも気にしないことにした。

 カナエが元気と言うなら元気なのだろう。

 

「では行こう。錆兎に追い付けなくなる」

「うん、そうだね!」

 

 すぐに無表情に戻ってしまった義勇を残念だと思う反面、さっきから妙に働き始めた心臓を落ち着かせるのに忙しいカナエは気付かない。

 微弱な甘い電流が流れ始めたことを、まだ誰も知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 錆兎は義勇から授けられた日輪刀を見て笑ってしまう。

 敵わない。一番側で見ていたつもりだったが、まだ義勇の力量を見誤っていたらしい。

 刃毀れが一切無い。刀身の歪みも無く、心なしか鱗滝より預かった時より蒼く輝いている気さえする。

 まるで研ぎ澄まされた義勇の心そのもののような。

 

「魂か、そうかもしれないな」

 

 一度は己の不覚で折れてしまった錆兎の日輪刀。

 あんな風に怒りに飲まれてしまっては折れて当然だ。むしろ最後まで耐えてくれた相棒に感謝こそすれど、悪感情など湧くはずがない。

 

 未熟な自分、弱い自分は折れた。

 消えてはいない。そんな自分を糧に、今の錆兎がいる。

 

 異形の鬼と再び向き合った時、錆兎の心は静謐なままだった。

 

「何処に行く?」

「あァ?」

 

 地響きを鳴らしながら中央へ移動していた異形の鬼は、錆兎の声に反応して振り返る。

 ボロボロに傷付いた錆兎を見て、鬼はクスクスと笑った。

 

「なんだ、わざわざ殺されに来てくれたのか? 馬鹿なガキだな」

「……気持ちは晴れたか?」

「なに?」

「兄弟子、姉弟子を殺して、俺たちの家族を殺して、お前の憎しみは少しでも晴れたのか?」

 

 真っ直ぐと見詰める錆兎の視線に、どうしてか鬼は危機感を覚える。

 だがあまりにも滑稽な質問の内容に、本能の警告を無視して怒り狂った。

 

「晴れる訳がないッ‼︎ こんな場所に閉じ込めた鱗滝を、俺は絶対に許さんぞォッ‼︎」

「……そうか」

 

 会話が可能な鬼は初めてだった。

 復讐心に雁字搦めにされた鬼。それは元凶である家族を殺せば少しは楽になるのか。どうしても気になって問い掛けた。

 

 結果は、残念ながら予想通りで。

 錆兎は心底実感した。

 

 ああ、鬼とはこういう存在なのだな。

 

 人間の成れの果て。

 不幸にも鬼の血に呪われ、食人鬼として宿業を背負った哀れな存在。

 

 もしかしたら人間の頃の記憶があって、人並みに喜怒哀楽があるのかもしれない。

 けれど錆兎には分からない。匂いだけで感情の機微まで把握できる鱗滝や真菰とは違うのだ。

 

 錆兎には救えない。

 鬼を人間に戻すことはできない。

 

 ならば、もう。

 

 烏滸がましい言い方だとしても、救うには殺すしかない。

 

 錆兎は日輪刀を引き抜いた。

 

「もう楽になれ」

「……なんだと?」

「お前の頸は、俺が斬る」

 

 ゾワッ、と異様な威圧感が鬼を襲う。

 静かに、ゆっくりと歩み寄る錆兎に、誰かの姿が重なる。

 初日に見た黒髪の少年が。

 今までに殺してきた鱗滝の弟子達が。

 天狗の面で顔を隠した男が。

 

(鱗滝ッ⁉︎)

 

 鬼となってからの原初の恐怖。

 それを振り払うように、異形の鬼は叫んだ。

 

「鱗滝ィいいいいいいいいいいいッッッ‼︎」

 

 全身から飛び出る手の平。

 目の前の人間を押し潰さんと、一気呵成に錆兎に殺到する。

 

 ──水の呼吸

 

 自然体のまま錆兎は構える。

 義勇の魂たる日輪刀を手に、錆兎はふと思い出す。

 最終選別への最後の調整に入った一月前。

 真菰と共に義勇から授かった、もう一つの可能性を。

 

 見事だった。

 言葉を失う流麗な剣捌き。

 

()()()()──

 

 水の呼吸に存在する型は拾まで。

 鬼殺の長い歴史の中で培われ受け継がれた、必殺の御業。

 それを修行してから一年と経ずに、新たな未来を切り拓いた自身の弟弟子。

 

 この一月密かに鍛錬していたが、錆兎には出来なかった。

 義勇にしか不可能なのか。錆兎と真菰には未来への一歩を踏み出す資格が無いのか。

 否、断じて否だ。これは水の呼吸なのだ。

 出来ない道理など無い。

 

 そして、今この時。

 義勇の魂たる日輪刀を授かった今なら。

 

 錆兎は成功を確信していた。

 

 ──(なぎ)

 

 風が止んだ。

 辺り一帯が無風状態となり、静けさが周囲を包む。

 

 錆兎に迫っていた鬼の手は、跡形も無く消え失せていた。

 

「…………は?」

 

 理解不能な事態に鬼の呆けた声が漏れる。

 この瞬間になるまで、斬られたことすら分からなかった。

 

(き……斬られたのか⁉︎ あの攻撃を、今の一瞬で⁉︎)

 

 異形の鬼は焦燥と恐怖に目を背向けて、すぐに腕を再生させようとする。

 

(あり得ない! 何か仕掛けがあるはずだ! もう一度、もう一度──)

 

 目の前にいた錆兎が唐突に消える。

 視界の端に影を見た。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 風切り音を最後に、地面に向かって落ちていく光景が網膜に焼き付いた。

 

「……えっ、」

 

 ごろんごろんと転がる。まるで蹴鞠のように、自身の身体をなぞってごろごろと。

 土埃を上げて着地する。

 見上げた先で、自身の身体が崩壊していく光景が映った。

 

(死ぬ……のか?)

 

 呆然と、鬼は最期を想う。

 ああ、何故こんなことになってしまったんだろう。

 どうして自分は、人を喰っていたんだろう。

 どうして自分は、兄を喰ってしまったんだろう。

 

(兄ちゃん……)

 

 暗闇の中、一筋の光が見える。

 温かなそちらに走り出すと、一人の少年がこちらに手を差し出していた。

 

「兄ちゃん!」

 

 駆け寄って、笑う。

 

「手を握ってくれよ、兄ちゃん!」

 

 少年は微笑んだ。

 

「しょうがない奴だな。いつまでも、怖がりで」

 

 兄に手を引かれて、二人は消えていく。

 鬼の呪縛から解放された少年は、光の中へと溶けていった。

 

 

 

「……」

 

 異形の鬼の最期を見届けて、錆兎は納刀する。

 残心の後、背中から後ろに倒れ込んだ。

 

「終わった……。仇は取ったぞ、みんな」

 

 どっと疲れた。しばらくはこうして寝転がっていたい。

 見上げる空は薄っすらと明るくなり始めている。そう時間を置かずに夜が明けるだろう。

 珍しくぼーっと何も考えずにいた錆兎の顔に影が掛かる。

 

「仇は取れたか?」

「見ていたのなら聞くな、義勇」

「見事な剣技だった」

「……いや、まだまだだ。義勇のとは比較にならない」

 

 偽らざる錆兎の所感だ。自身が放ったあの技は完成とは程遠い。それであの威力なのだから錆兎は苦笑してしまう。

 錆兎は上体だけ起こして義勇と向き合った。

 

「これで終わりだな」

「ああ、帰ろう」

 

 立ち上がるのを手助けする為に差し伸べられた義勇の手。

 錆兎はそれを掴み取ろうとして、キョトンとした顔で驚く。

 

「義勇、上手くに笑えるようになったな」

「そうなのか? それは良かった」

 

 優しげに義勇は微笑んだ。

 

「実はついさっき出来るようになったんだ」

「……ふっ、それは何よりだ」

 

 遥か東方から光が溢れる。

 山林に射し込む太陽の光は祝福の煌めきのようだ。

 

 七日間に及ぶ最終選別はこうして幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「全く、情けない。あんな意気揚々と出てきたというのに、帰りは一人で歩くことも儘ならないとはな。すまないな、義勇」

「気にするな。五体満足で帰れるんだ。これ以上を望んでどうする」

「……それもそうだな」

 

 狭霧山へと続く田畑に囲まれた一本道を義勇と錆兎は歩いていた。

 折れた状態で無理をし続けた錆兎の足は上手く動かず、義勇の肩を借りなければ歩けない程だった。カナエの診断で後遺症は残らずに完全回復が可能だと言われたのは幸いだろう。

 

 二人は一歩一歩、確実に帰り道を進んでいく。

 山の麓に至り、そこから少しだけ登って。

 

 長く暮らしてきた家が見えた。

 

 家の前に、家族がいた。

 

「…………」

 

 心ここに在らずといった様子で真菰は箒を掃いていた。同じ場所を何度も、何度も繰り返し掃き続けている。

 七日間が経って、それから一日過ぎても義勇と錆兎が帰って来ないからだ。

 行きは朝に出て夕方には着く距離に藤襲山はある。

 それなのに、帰って来ない。

 一日経っても帰って来ない。

 

 真菰の不安は最高潮に達していて。

 

 ふと、真菰が顔を上げた。

 くんと鼻を鳴らし、そして、振り向いた。

 

「真菰……」

 

 錆兎がいた。

 義勇がいた。

 

 家族がちゃんと家に帰って来た。

 

 真菰は箒を手からこぼす。からんからんと音を立てて転がる箒を無視して、ゆっくりと二人に歩み寄る。

 

「錆兎、義勇……」

 

 ふらふらとした足取りで真菰は歩を進めて、次の瞬間には走り出していた。

 

「錆兎! 義勇!」

 

 真菰は二人に思いっきり抱きついた。

 握り締められ着物が歪む。それだけで、真菰がどれ程不安だったかを推し測れた。

 

「遅いっ! 遅い遅い遅い遅い、……遅いよぉ……っ‼︎」

「すまない、真菰。心配をかけた」

「本当にすまない、真菰。俺のせいなんだ、義勇を責めないでほしい」

「連帯責任っ‼︎」

 

 理不尽な言い訳無用の両成敗に義勇と錆兎は苦笑して、真菰を抱き締め返す。

 抱き合っていた三人を、今度はまとめて鱗滝の大きな手が覆った。

 

「……よく、帰ってきてくれた」

 

 長い間、本当に長い間弟子が最終選別から帰って来る姿を見れなかった。

 鱗滝の言葉には万感の思いが込められており、天狗の面の下では滂沱の涙を零している。

 

 温かい。家族の温もりがただひたすらに温かい。

 義勇と錆兎の瞳にも涙が浮かんでいた。

 

 しばらくの間、そうしていただろう。

 全員が喜びを噛み締め満足した頃合いになって、あっ! と真菰がしまったという声を出した。

 

「鱗滝さん、ちゃんと言わないと!」

「そうだな、まだ言っていなかったな」

 

 抱擁を解いた真菰と鱗滝は一歩だけ下がる。

 笑顔を浮かべる真菰。

 柔らかな雰囲気を醸し出す鱗滝。

 四人は一番大事なやり取りを忘れていた。

 義勇と錆兎もそれを察して、穏やかに微笑む。

 

 家族が家に帰ってきたのだ。

 

 言うべき言葉は決まっていた。

 

『おかえりなさい』

 

『ただいま』

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


















 ──完・結!

 ……って言ってもいいんじゃない? ってくらいには書ききった感あります。
 因みに、カナエさんの【玖ノ型・千本桜】はオリジナルです。



 ここで明治コソコソ噂話
 今回のお話に出てきたヒロイン、実は○ンデレの素質を備えている、かもしれない、らしいですよ?



 次回(需要があったら)
『第3話 胡蝶しのぶ』

 つづく……?





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