鬼舞辻無惨。
その名前を珠世が口に出した瞬間、側にいた義勇は条件反射で二歩ほど距離を取るように跳躍していた。
義勇のその行動を見て、珠世はとある事実に思い当たる。
「……驚きました。鬼殺隊は鬼舞辻の呪いを既にご存知なのですね?」
鬼は鬼舞辻無惨の名を口に出来ない。
言えば『呪い』が発動するから。
この呪いは、端的に言えば鬼を死に陥れる。鬼となった際に身体に残留する鬼舞辻無惨の細胞が、その者の身体を破壊し尽くすのだ。
鬼殺隊がこの事実に確信を得たのはつい最近。
千年に一人の天才である胡蝶しのぶ。
彼女が開発した鬼専用の毒によって判明したのだ。
以前より疑問ではあった。
会話が可能な鬼に対して、鬼舞辻無惨について聞いた隊士はごまんと居る。
回答が得られることは終ぞ無かったが、大抵の答えは同一でどうにも気に掛かる返答であった。
──言えない。
言わない、ではなく、言えない。
この二つには天地ほどの差がある。
言わないのは相手の意地だが、言えないは一種の禁忌を仄めかしており、手段を選ばなければ口を割る可能性があるのではないか。
そう思い至ったしのぶは実験も含めて、脳の機能を狂わせる自白剤のような毒を創り出した。
結果は成功。
同時に、失敗に終わった。
鬼舞辻無惨の名を口にした鬼は、例外無く内側から悍ましい腕が生えてそれに惨殺されたからだ。
そう、例外は無かった。
少なくとも試した鬼においては。
「……驚いているのは此方だ。何故何もない?」
「簡潔に申すと、私は鬼舞辻の呪いを外しているのです」
「そんなことが可能なのか?」
「可能です。と言っても、今は生きている私しか証明になるものはありませんが……」
「……そうだな、浅はかな問いをした」
表情には一切の変化がないが、義勇は本当に、二重の意味で驚いていた。
鬼でありながら此方側に与するであろう存在が、こんな身近にいたという事実に。
義勇は珠世に見覚えがあった。
顔を一瞬見ただけの会話すらした事のない相手だが、場面が場面だけにその相貌は記憶の片隅に刻み込まれていた。
前回の最後の記憶である決戦の場に落とされる、まさにその直前。
柱たちが鬼舞辻無惨に初めて相見えたあの時に、鬼舞辻無惨の腹を左手で貫いていた女性が珠世だ。
状況から考えるに、珠世は味方だったのだろう。柱の誰よりも先んじて産屋敷邸にいたということは、お館様と面識があったと考えるのが自然である。
珠世はきっと、鬼舞辻無惨を滅殺する為の重要な役割を担う。
義勇はその直感を信じた上で、珠世の向こう側にいる真菰に視線をずらした。
「真菰、どうだった?」
「うん。少なくとも、嘘は一つもついてなかったよ。個人的にも信用できると思う」
交わされる会話の内容に、珠世は小首を傾げた。
「あの、どういうことでしょうか?」
「あー、うん。えーとね、私は鼻が良いって言ったでしょ? 実は血鬼術だけじゃなくて、相手の感情も判るんだ。そのお陰で嘘も見破れるのー」
疑問に答える真菰は実にあっけらかんとしていたが、珠世の驚嘆は計り知れないものであった。
「ほ……本当ですか?」
「うん。お姉さんは二百年間は人を食べてない、敵対の意志はない、人に戻れる薬の開発に鬼舞辻無惨の抹殺が目的。これには嘘は一つも無かったよ」
「……失礼ですが、真菰さんは本当に人間ですか?」
「面と向かって酷いこと言われたー⁉︎」
「あっ、すみません! 本当に興味本位の問いでして!」
「結構本気で疑われてる⁉︎」
ガーン、と凹む真菰。
直後に謝り倒す珠世だったが、本心には変わりなく油断すれば冷や汗が浮かぶ真実であった。
(なんと恐ろしい逸材……)
あの問答の速さと呆気なさにはそういう理由があったのか。
恐怖で脅すより確実な識別方法があったからこそ、義勇の問いには淀みが無かったのだ。
実は義勇がただ一言も二言も足らない人物だとは知らない珠世はそう勘違いして、義勇の評価を格上げする。
真菰はまだ年相応の可愛げと幼さが見て取れるが、義勇はもう思慮深い大人として対応した方が賢明だと判断した。
然りとて、この場における主導権は珠世にはない。
死に直結する可能性の分岐点は、既に相手の手の内だ。
「真菰さんの仰る通り、嘘はついていません。それで、その……」
話は最初に戻り、自身の運命を義勇に問う。
義勇は逡巡すること無く、再度口を開いた。
「提案がある」
「……聞かせてください」
緊張に苛まれる珠世は一世一代の覚悟をもって、義勇の言葉を待つ。
「協力させて欲しい」
放たれた言葉の内容を、すぐには理解出来なかった。
「…………えっ?」
思わず素っ頓狂な声が漏れる。
珠世の様子に相変わらずの欠点が出たかと義勇は察して、毅然とした態度で補足を加えて繰り返す。
「鬼を人間に戻す薬の開発に協力させて欲しい。鬼殺隊としての支援は不可能だろうが、俺と真菰個人なら手伝いたい」
「義勇ー、巻き込むのは構わないけど、本当に大丈夫なのー?」
「いざとなれば腹を切る」
「……はぁ。しょうがない弟だなー」
「え? ……え?」
前と後ろを交互に見ながら動揺を隠せない珠世。
冷静さを無理やりに取り戻して、義勇の提案と二人の会話を脳内で反芻する。
理解が及んだ後、珠世からは少なくない驚愕とそれを上回る遥かな感謝が浮かんだ。
「……ありがとうございます。その提案、此方からもお願いしたく思います」
綺麗な所作で頭を下げる珠世を見て真菰は微笑むも、とある匂いにピクンと反応して一人きょろきょろする。
そんな真菰に気付かず、珠世は義勇へと向き直った。
「詳しいお話をしたいのですが、場所を変えてもよろしいでしょうか? すぐ近くに拠点がありますので」
「構わない」
「では、此方に」
「……ねぇねぇ珠世さん」
「はい。どうかしましたか、真菰さん?」
柔らかな表情で振り返る珠世は直後にギョッとする。
真菰が日輪刀の柄に手を置いて、臨戦態勢を整えていたからだ。
すわ何事か身構える珠世に、真菰は空いていた片手で背後を指差した。
「さっき珠世さんが使ってた血鬼術の匂いが物凄い速さで此処に迫ってるんだ。なんとなく殺意をビンビンに感じるんだけど、珠世さんの味方? それとも敵? 斬っていいの?」
『…………』
静寂が場に降りる。
数秒の間キョトンと固まっていた珠世だったが、次の瞬間には顔面蒼白となって握り拳を開いていた。
手の中にはくしゃくしゃになった札が数枚。
眼のような紋様が描かれているこれこそ、珠世の姿を他者から隠蔽していた血鬼術の正体だ。
実はこの異能、珠世の血鬼術ではない。珠世の同行者の力である。
他者にも付与可能なこの血鬼術は大変便利で、他にも有能な点としてこの札が破損などで元の形を保てなくなった場合、能力者にその事態が伝わる機能があった。
この機能はどのような時に使うのか。
そんなもの決まっている。
緊急事態の伝達だ。
そして鬼にとっての緊急事態など、生命の危機に他ならない。
珠世は真菰に見付かった時に札を握り潰していた。日輪刀を持った人間に血鬼術を看破されたのだから、珠世の判断は当然と言えるだろう。
不幸中の幸いだったのは、義勇と真菰が滅多に存在しない話の分かる相手だったということ。
今この時点における不幸は、その事実までもが同行者に伝わるものではなかったということ。
ゆらりと日輪刀を引き抜き始めた真菰を見て、珠世は冷や汗を流して盛大に慌てふためいた。
「み、み、味方です! 私の協力者です‼︎ ──愈史郎! 止まってください愈史郎‼︎」
お淑やかさを犠牲にわちゃわちゃと手を動かして全身であたふたする珠世。
その反応が可笑しくてつい気が抜けそうになるが、匂いが分からずとも感じる殺意に薄れる気配が無いため、真菰は刀身を全て晒して向かってくる気配へと正対する。
珠世は信用した。
だがその協力者にも信が置けるかと問われれば、現段階では否と答えるしかない。
協力者は珠世の危機を察した。
一刻も早く駆け付けようと剣呑な気配を滲ませるのは仕方の無いこと。
どちらも当然の反応だ。
両者の気持ちを理解できるからこそ、珠世の恐慌さに拍車がかかる。
ただ一人この状況を無血で和解に持ち込めるだろう珠世は本当に必死だった。
「愈史郎⁉︎ お願いです、愈史郎! 私の声が聞こえているのなら止まってください! お願いですよ! 脅されてるわけではないですよ! 私は安全なんですよ!!」
珠世自身にも同行者の姿が見えないためか、必死に思いの丈を叫ぶ妙齢の女性という構図は実に二分以上にも及んだ。
涙目で慌て続ける珠世。
その人間味の溢れる可愛らしい行動を見て、義勇と真菰の信頼度が上がったのは思わぬ収穫ではあっただろう。
その後なんとか落ち着きを取り戻した珠世は、己の醜態を思い出して紅くなる顔を両手で覆うのだった。
◆
「いつも思うけど、血鬼術はホントに何でもありだよね〜」
珠世の案内に従い、石塀を透り抜けて大きな屋敷と対面した真菰の第一声である。
義勇も幻影の壁を通り抜けた経験は初めてであった為、能面は変わらずとも不可思議な現象に驚いていた。
(この手の血鬼術は厄介だな……)
感覚や精神に作用する血鬼術は、義勇のような歴戦の猛者にとっても鬼門である。上弦以外で柱が敗れるとしたら、これに類する異能の鬼が関わっていることが非常に多い。
敵に回らなかった結果に安堵しつつ、その能力者へと視線をズラす。
中へと先導する珠世の真後ろに控えた、見た目は少年の鬼。
珠世の渾身の説得後も不機嫌な様子を露ほども隠さない彼こそがこの血鬼術の使い手。名前は愈史郎と言うらしい。
先程から義勇に対する眼光が鋭利過ぎて、義勇は内心戸惑っていた。
「……真菰」
「ん?」
「俺は彼に何かしたか?」
「……んー、何もしてないと思うよー」
真面目な顔で阿呆なことを心配し出した義弟に、逐一解説するのが面倒な真菰は適当に答える。
愈史郎の露骨な珠世への好意に気付かない義勇が本気で心配にもなるが、その課題は会話能力向上なんかよりもずっと難関なので真菰は早々に諦めていた。
恋愛ごとに類する男女の機微については蔦子に一任である。流石の真菰も弟分とはいえ年上の男性にそんなことをもう指導したくない。
蔦子の最近の胃痛の原因なのは知っていたが。
「こちらでしばしお待ちくださいね。お飲み物をお持ちいたします」
「感謝する、珠世殿」
客間へ義勇と真菰を残し、珠世と愈史郎の二人は奥へと姿を消す。
大人しく畳の上で正座した真菰は、隣で瞑目する義勇へと小首を傾げた。
「珍しいね。義勇だったら絶対遠慮すると思ったのに」
「俺たちに必要なのは信頼関係の構築だ。相手から頂くものを出だしで断れば、不和を生む可能性がある」
「なるほど〜。……そういうところには気が置けるのになぁ……はぁ」
小声で囁く真菰は大きな溜め息を吐いて、改めて義勇の両極端な成熟さ具合に頭をひねる。
礼儀作法などの大人の常識については年不相応なものが身に付いているのに、人間関係に関する能力は多方面においてゴミ同然。
幼稚なのではなく下手くそ。それも極まった不器用さだ。恋愛ごとにおいては目も当てられない。
微笑みの爆弾という女性特効兵器を生み出した罪の一端を担っている自覚があった真菰は義勇育成計画に再度尽力したのだが、継子になって半年で匙を投げた。
義勇の中で人は雄と雌ではなく、家族か仲間か護るべき民かの三分だと察した時は両手で顔を覆って蔦子に伝えた。蔦子も両手で顔を覆った。
決して悪い事ではないけどどうしてこうなった。
お前本当に思春期の男子かと真菰が疑うくらいだ。
一応出会ってからを考えると素晴らしい進歩はあるのだが、何故だろうか、一定の水準に達してからは一向に成長しなくなったのだ。思わず兄弟子と一緒になんなんだこいつは……と声を揃えたのは記憶に新しい。
これではあの姉妹を始めとした多くの女性が浮かばれない。
というか義勇自身が決定的な何かをやらかさないか気が気じゃない。
蔦子の心労も募るばかりだ。
真菰は割と本気で、義弟が死ぬのは痴情の縺れ
(自覚無し)で背中を刺された時なのではないかと、光を失った瞳で義勇を見た。
「……なんだ?」
「義勇、蔦子お姉さんを泣かしたらダメだよ?」
「当たり前だ」
知らぬは本人ばかりなり。
かつて投げた筈の匙が再び手元に戻ってきたが、真菰は即座に天高く放り投げた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
上品な陶磁器を四つ乗せた盆を持った珠世が客間に戻り、愈史郎が嫌々一つずつ配っていく。
嗅いだことのない芳しい香りに真菰の顔に笑みが浮かぶ。
「わぁ、美味しそう。これ何ですか?」
「紅茶です。真菰さんにはあまり馴染みが無かったでしょうか?」
「初めてです。へぇ、こんな感じなんだ〜」
陶磁器を覗き込むように見る真菰に珠世は微笑んだ後、綺麗な所作で正座して四人は対面する。
「……ん?」
違和感無く過ぎた光景に最初は何も思わなかった真菰だったが、飛び切りの疑問が脳裏をよぎって頭を傾げた。
「あれ? ……すみません、改めて確認なんですが、お二人は鬼なんですよね?」
「はい、その通りですが……」
今更何を……といった態度で小首を傾げる珠世。
その答えに疑問が深まった真菰は素直に聞く。
「鬼って紅茶とか飲めるんですか?」
「あぁ……そういうことですか」
納得した珠世は一拍置いて、照れ照れと恥ずかしそうに俯いた。
「私は鬼舞辻の呪いを外すと共に身体を随分と弄っています。それでその……紅茶だけ飲めるようにしたのです」
「ほへぇ〜」
感心なのかは分からない相づちを挟んで一言。
「珠世さんはすごく可愛らしい方ですね!」
真菰の邪気の無い純粋無垢な言葉が珠世の羞恥心を抉り抜く。
悪気が無いからこそ響いたその一撃。珠世は頬を真っ赤に染めて、耳の裏から首筋まで紅潮させていた。
「おい、お前」
すると、ここまで無言を貫いていた少年──愈史郎が、真菰に厳しい目を向ける。
『…………』
無言で真っ向から視線を交わす真菰と愈史郎。
次の瞬間、ガシッと手を握り合っていた。
「お前は見所があるようだな」
「君もね」
魂が共鳴したのだろう二人は一瞬で意気投合した。
珠世は羞恥にプルプルと震え、両手で顔を隠して更に縮こまった。
「真菰、大人をからかうものではない」
「えっ? からかったつもりなんてないよ?」
義勇、渾身の失敗。
似合わない気の遣い方をして見事に不発に終わり、珠世はもう居た堪れない。
「……こほんっ」
回復に少しの時間をかけて、珠世はわざとらしく咳払いする。
依然頬が紅いままだが、ここで突っ込むほど真菰は天然では無かったようだ。神妙な顔をして背筋をピンと伸ばしていた。
「本題に移ってもよろしいでしょうか?」
「お願いする」
義勇の促しで瞬時に纏わせる空気感を変えて、珠世は言葉を紡ぎ始めた。
「まずは改めて。私たちに協力して頂けること、深く感謝いたします」
「此方にも利がある。気にする必要はない」
「いえ、そうはいかないでしょう。これからお願いする内容は危険を伴うものとなるのですから」
物騒な言葉を放つ珠世に、先程とは打って変わった静謐を瞳に宿す真菰が口を開く。
「そもそも、鬼を人間に戻すなんて可能なんですか?」
「……今はまだその方法が確立されていませんが、私は可能だと確信しています。どんな傷にも病にも治療法があるように、鬼を人に戻すことも可能だと」
「…………」
真菰は無言のまま、くんくんと小さく鼻を鳴らす。
嘘偽りのない清らかな匂いと、必ず成し遂げてみせるという強い信念を感じる。
やはり珠世なら信じられると、真菰は義勇を見て一度だけ首肯した。
協力を持ち掛けた時点で腹を切る覚悟すら決まっている義勇に、躊躇う理由など一つもない。
「何が必要となるのか、お教えください」
「……必要なのは鬼の血です。それも沢山の鬼の血液が必要となるでしょう」
特に、と珠世は重苦しく切り出す。
「鬼舞辻の血が濃い鬼の血液が欲しいのです」
「十二鬼月からという意味で相違ないか?」
「はい、その通りです。此方の要望が過酷なものだとは理解しています」
申し訳無さそうに話す珠世だったが、義勇と真菰の反応は大したものでは無かった。
はっきり言うと、二人は拍子抜けしていた。
「なんだ、そんなことでいいんだ〜。深刻そうに話すからどんな無理難題かと思ったよ。ね、義勇?」
「あぁ、それなら然程問題は無い」
あっけらかんと了承の意を示す二人に珠世は呆気に取られる。
「十二鬼月ですよ? 鬼の中でも最強の十二体なのですが……」
「俺たちは鬼殺隊です。鬼を斬ることが使命であるのならば、避けては通れない」
いずれは戦わなければならない敵だ。
相手が十二鬼月であろうと、無辜の民の命が脅かされるのならば鬼殺隊士は刃を振るう。
しかし、現実問題として困難な点が存在するのは否めない。
「ただ、上弦の鬼の血は約束できない。柱でも、一対一で勝ち切ることは難しい」
「義勇でも無理なの?」
「あぁ。確実を期すなら、柱が三人はいるだろう」
「じゃあ下弦は?」
「相性はあるだろうが、負ける気はない」
繰り広げられる会話に珠世は圧倒されるも、頼り甲斐のある二人に笑みを零す。
「因みになんですが、どうやって血を採取すればいいんですか?」
「それは此方をご利用ください」
真菰の問いに珠世は用意していた器具を取り出す。柄が空洞となった小さな小太刀のような物だ。
「これを身体に刺すと自動的に血を採取できます。何本か差し上げますので、利用して頂きたいと思います」
「すごーい、こんなの作れるんだ〜」
手に取って興味深そうに眺める真菰は目をキラキラとさせる。物騒な玩具に心惹かれる年頃なのだ。
義勇も差し出された器具を持って検分してみるも、学の無い義勇では疑問しか浮かばない。
(これでどうやって血が取れるのかが分からない……)
しのぶならば即座に理論立てて理解出来るのかもしれないが、如何せん鬼殺に特化した義勇ではこうした科学に疎い。
そしてそれは真菰も同じ。特殊な刃物以上の感想が浮かばない。
こういう時、脳筋で天然な二人の思考は一致する。
──よし、一回試してみよう。
義勇はおもむろに隊服の袖を捲った。
「真菰」
「ん」
真菰は義勇の意図を察して、何の躊躇いも無く手首の振りで器具を投擲。
義勇の腕に突き刺さったそれを見て、珠世と愈史郎が微かな悲鳴を上げた。
「お、お前っ⁉︎」
「大丈夫ですか⁉︎」
「問題ない。……成る程、取れているな」
「おお〜、便利だね〜」
引き抜いて血が柄に溜まっているのを見て、真菰は無邪気に感嘆する。
全集中の呼吸を用いて即座に止血する義勇も手早く包帯を取り出して患部に巻き始めるも、視線は血を溜めた器具から離れていなかった。
ふむと頷いて、満足そうに納得する二人。
直後、おどろおどろしい圧にビクンと身体が跳ねた。
「義勇さん、真菰さん。何をしてらっしゃるのですか?」
仄昏い微笑みを浮かべる珠世は端的に言って激怒していた。
身を竦ませた二人は親に怒られる子供のように上目遣いをしてみるも、得てして母の怒りとはそんな行為で収まるものではない。
「義勇さん、真菰さん?」
「…………」
「いや〜、その……どんな感じなのか試してみようかな〜って」
「これは刃物だと分かってましたよね? 真菰さん、躊躇いなく投げましたよね?」
「だって、……義勇がいいって」
「だって?」
「いえ、すみませんでした」
早々に逆らうのを止めて真菰は両手を付く。
珠世の眼光が無言の義勇を貫いた。
「義勇さん?」
「……身に付ける道具の使い方はすぐ覚えるべき」
「貴方は真菰さんを導く立場ですよね? 真菰さんが人を傷付けて何も思わないような人になっても良いと?」
「そういう、わけでは……」
「わけでは?」
「いえ、申し訳ありませんでした」
分の悪さを悟って義勇も土下座の姿勢を取る。
二人の脳天を冷え切った目で見下ろす珠世だったが、やがて大きな息を吐いて柳眉を和らげた。
「貴方方が痛みにも傷にも慣れているのは承知しています。ですがそれは、自らを傷付けていい理由にはなりません」
珠世は義勇の側へと移動して、乱暴に巻かれた包帯を一度解いて新しいものに取り替えてから丁寧に巻き直す。
「義勇さんは柱で、真菰さんはその継子。責任があり、人望もある立場でしょう。だからこそ、貴方方が傷付くことに心を痛める人はきっと多いはずです。私もそう。今日出会い、短い触れ合いですが、私はお二人に好感を抱いています。そんなお二人が怪我をしたと聞けば、私はとても悲しい」
蝶屋敷の主人である姉妹よりも卓越した速さと的確さで処置を終えた珠世は、義勇と真菰に顔を上げるように肩を叩いた。
「難しい願いとは分かっていますが、それでも言わせてほしい。どうか、ご自愛ください。もっと自分を大切にしてください。傷付くことに慣れ過ぎてしまうと、他人の痛みも分からなくなってしまいます。心も身体も人のまま、生きてください」
鬼となった珠世だからこそ響く言葉を、義勇と真菰は静かに聞き入れる。
似たような言葉を投げ掛けた者は少なからずいただろう。だが、義勇の柱という立場に対する遠慮が大きくて、身に染みて来なかったと珠世には思えた。
第三者だからこそ、届く想いもある。
二人の為人について理解した珠世は義勇と真菰なら珠世の言葉を額面通りに受け取って、可能な限り実践してくれるだろうと表情を綻ばせた。
「お説教などしてごめんなさいね。でも、覚えていてほしいの」
「はい、ありがとうございます」
「今後は気を付けます!」
「ええ、約束ですよ?」
『はい、お母さん』
「誰がお母さんですか」
思いの外キレのあった珠世のツッコミを最後に、四人は今後の動きなどの詳細を詰めていく。
「一つ確認したい。鬼殺隊で貴方方の存在を知っている者は他にいるか?」
「恐らくにはなりますが、柱を含めても隊士でご存知の方はいらっしゃらないでしょう」
ほぼ断言に近い発言の後に、一拍溜めてですが……と珠世は続ける。
「産屋敷家の当主は私のことを把握してるかと思います」
「そうか。好都合だ」
「好都合、なのですか?」
言い淀んでいた珠世は義勇の反応に呆気に取られる。
自身が所属する組織の実質的長が鬼の情報を隠していたのだ。これはかなりの衝撃的事実であろうに、義勇には全く意に介した様子はなく、むしろ面倒が無くて有難いと思ってすらいそうだった。
義勇の真意が汲み取れなかった珠世は疑問を視線に乗せる。
「貴方の事はお館様……鬼殺隊当主に報告するつもりだ。知っているのであれば頼み事がしやすい」
「どのようなことを?」
「柱には警備区域が決められている。珠世殿の拠点がある区域を俺の区域にできれば、貴方方におよぶ被害を最小限に留められるだろう」
「成る程、確かにそれはありがたいですね」
鬼殺隊士との偶然の接触が珠世たちの死に繋がる可能性を孕んでいるのだ。協力体制を構築するのであれば、潰せる危険性は潰すべきである。
その後、考えられる粗方の懸念を摘み終えた義勇は、預かった血液採取の器具を取り出した。
「これに血液を採取した場合だが、直接届ければ良いのだろうか?」
「いえ、ご足労頂く必要はありません。此方で連絡手段を用意しております。茶々丸、出ておいで」
そう言って、珠世は虚空へと声を掛ける。
「にゃ〜」
「──⁉︎」
刹那、義勇の身体がブレた。
一瞬の風となってその姿がかき消え、突然の事態に目の前にいた珠世と愈史郎はパチクリと目を瞬く。
ゆっくりと二人一緒に顔ごとズラすと、部屋の角の壁二枚を利用して蜘蛛のように天井近くに張り付いた義勇がいた。
人間ってそんな姿勢になれるんだ、と珠世たちは思った。
「あっはっははははは!! 義勇、いくらなんでもその挙動と体勢は面白過ぎるよ!」
義勇の動きを目で捉えていた真菰は指を差して爆笑し、義勇はここ一番のしかめ面で真菰を睨む。
「何故言わなかった?」
「わざとじゃないよ? ここ自体が血鬼術で隠された屋敷だから匂いがあちこちからするんだ。何かいるのかな〜、とは思ってたけど、こんな可愛い猫ちゃんだとは分からなかったんだよ」
そう言って、真菰は突如として現れた闖入者である仔猫を抱きかかえる。にゃーと鳴いたその仔猫は、主人たちと同様に義勇を見てキョトンとしていた。
状況の理解が及ばない珠世と愈史郎も同じ顔をしている。
「あの……義勇さんはどうされたのですか?」
「えーとですね、義勇は犬を筆頭に動物がダメなんです」
「はぁー……柱となられる方にもそんな弱点があるのですね」
義勇とて、普段はここまで過剰な反応は示さない。
ちゃんと目で確認していればその瞬間に硬直し、恐る恐る近付いて手を伸ばしてみるか、そもそも近付かないで距離を置くかの二択である。なお、前者の場合だと今のところ十割の確率で攻撃される。
今回は自身の間合いに突如として現れたのがいけなかった。突発的な驚愕ともはや本能にまで刻み込まれた苦手意識が、義勇を蜘蛛へと変化させたのだ。
平静を装った義勇は音も無く着地し、真菰に抱かれた仔猫と視線を合わせる。
『…………』
一歩一歩、ゆっくりと仔猫に近付く義勇。
両者共に一瞬も視線を外さない。
時が経つに連れ縮まる距離。
遂に義勇の手が届く範囲に詰まった互いの間合い。
何故か固唾を飲んで珠世が見守る中、義勇がそっと手を伸ばした。
「にゃ!!」
迷い無く仔猫は爪を振るった。
予想通り過ぎる結末に真菰は身体を震わせて笑いを堪える。
「こら、茶々丸! どうして引っ掻くの!!」
「珠世様、初対面であのような態度を取られれば、今の対応は仕方ないかと……」
「どんな理由があろうと暴力はいけないことです!」
めっ! と言って珠世は仔猫を叱り、対して茶々丸はにゃーと鳴く。
しょんぼりした義勇の頭を真菰は撫でながら、話を本筋へと戻した。
「それで、この猫ちゃんが伝達係なんですか?」
「はい。見て頂いた通り、普段は愈史郎の血鬼術で姿を隠して貴方方に同行致します。鬼の血液を採取した時や、私たちに用事がある時はこの子を呼んで下さい。この子が現れる合図は鳴き声です」
「へぇ〜、茶々丸は賢いんだね〜」
空いた手で今度は茶々丸を撫でてみると、擦り寄るように真菰に戯れてくる。
義勇も触りたそうな目で仔猫を見てみるが、先程の茶番劇が再現される未来しか見えなかったので泣く泣く諦めた。
「では、俺たちは行く。世話になった」
紅茶を嗜んで少し休憩したのち、義勇と真菰は立ち上がって珠世たちに別れを告げる。
時間としては深夜に違いないが、二人の普段の活動時間はむしろ此処からのため然程問題はない。
日輪刀を腰に挿して準備を整えた義勇たちに、珠世は突如喉奥に何かが詰まったかのように表情を曇らせた。
「どうかしました?」
心配げに真菰が声を掛けて、珠世の中でそれが決め手となった。
鬼である自分たちにこれほど心地良い信頼を寄せてくれる彼らに、此方も想いを返したい。
それが例え、二人を死地へと誘うことになろうとも。
「……本当は言わないつもりでしたが、一つ、情報提供があります」
重苦しく紡がれる発言に義勇たちの眼光が鋭利となる。
協力関係といえど隠し事はあって当然。その点を詰め寄る気など二人には毛頭無いが、長年鬼として活動していた善良な心の在り方を持つ珠世が、態度からして此方を気遣って隠匿した情報だ。
鬼が出るか蛇が出るか。
「時間としては二日ほど前のことですが……」
言葉を切って、珠世は告げる。
「私たちは鬼舞辻無惨を目撃しています」
『──ッ!?』
その内容に、二人は驚愕が隠せない。
しかし、その感情の揺らぎを瞬時に吹き飛ばす勢いで義勇が珠世へと詰め寄った。
「何処だ! 鬼舞辻無惨は何処にいる!?」
こうなることを予想して珠世は口を噤んだのだ。
言えば二人は必ず踏み込むと分かっていた。
何も出来ない己の無力を恥じて、されど珠世は毅然と言う。
「場所は東京府京橋區。街からは少し外れた、金銭に余裕の無い方々が暮らす住宅地です」
◆
「わー! 兄ちゃんすげー!」
「えぇー……危ないよー……」
「にいちゃんがんばれー!」
「兄ちゃん、あと少しだよー!」
「すぅ……すぅ……」
子供たちの色とりどりの声が樹々生い茂る山の麓で木霊する。
下から届くその声を声援に変えて、樹を登っていた少年は幹に張り付くカブト虫へと手を伸ばした。
「よし、届いた!」
わぁっ、と歓声が耳朶を打つ。
右手でしっかりと捕獲したまま、少年は身軽に樹を伝って地面へと着地する。
駆け寄ってくる弟妹たちに、少年は戦果を見せた。
「どうだ、弘。大きなカブト虫だろ?」
「うん! 兄ちゃんすげー! 俺も持っていい?」
「ああ」
少年はねだる弟にゆっくりとカブト虫を手渡して、それを話題にわいわいと盛り上がる家族を静かに見守る。
その中で一人、一番小さな弟を抱きかかえていた次男が近付いてきた。
「兄ちゃん」
「玄弥。悪いな、就也の面倒任せて」
「そんなことねぇって。久々の休みなんだから、俺は兄ちゃんにも楽しんでほしいんだよ」
「……ふっ、生意気言うようになったな!」
ガシガシと乱暴に弟の頭を撫でる。やめろよー、と恥ずかしがっているものの、満更でも無さそうなその様子に少年は笑みを浮かべた。
「みんなー、ご飯にするわよー! 手を洗ってきてねー」
『はーい!』
少し離れた場所でお弁当を広げていた母親の声に元気良く返事をして、わちゃわちゃと近くの清流に足を運ぶ兄弟たち。
手拭いで綺麗に拭いてから母親が待つ場所まで戻ったら、忙しなくいただきますと言ってご飯を口に運ぶ弟妹たちを見て、少年は少しだけ顔を顰めた。
「そんなに慌てて食うんじゃねぇよ。まず弁当を作ってくれたお袋にありがとうだろ?」
『かあちゃん、ありがとう!』
「ふふ、どういたしまして。みんな、ゆっくり食べていいのよ」
次男から末っ子を預かった少年の苦言を弟妹たちは素直に受け止めて、母親は慈愛に満ちた微笑みをたたえる。
一人弁当に手を付けない母親の側に少年は寄って、不満と心配が綯い交ぜになった表情で呟く。
「お袋。偶の休みなのに、家で休まなくて良かったのか? わざわざ弁当まで作って、ちょっとした遠出だ」
「お母さんを年寄り扱いしないで! ……って言いたいところだけど、そんなに心配しないでも大丈夫よ。家族みんなでこうして遊んでいる方が、よっぽど明日からの活力になるわ」
そう言って微笑する母は、控えめに言っても酷い環境下で優しく育ってくれた長男に感謝する。
「いつもあなたには苦労を掛けちゃうわ。ごめんね、頼りないお母さんで」
「そんなことはねぇ! ……俺だってしたいからこうしてるんだ」
「ふふ……ありがとうね、実弥」
少年──
実弥は家族と過ごすこの何気無いひと時が好きだった。あの男が居なくなってからは尚のこと。
間違いなく今は、幸せだと言えるだろう。
だけど、人生には空模様があることを知っている。
それは絶えず移ろって動いていくものだ。
ずっと晴れ続けることはないし、ずっと雨が降り続けることもない。
そして、幸せが壊れる時には、いつも血の匂いがしていた。
母から溢れる赤い血の、その匂い。
実弥はそのことを、誰よりもよく知っていた。
時系列については完全にねつ造です。
おまけ:珠世様の血鬼術
──血鬼術
《惑血・視覚夢幻の香》
真菰「珠世さんが自分のことガリガリに傷付けてる……」
珠世「私は鬼ですので……」(目逸らし)
愈史郎「珠世様は今日も美しい。きっと明日も美しいぞ」
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