鬼滅の刃 ──逆行譚──   作:サイレン

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※読む前の注意
・明治後期から大正にかける教育や職業に軽く触れていますが、にわか知識です。
・不死川母の名前等については、拙作オリジナルです。







第6話 出会いと別れを繰り返して ③

 

 

「こんこんこやまのこうさぎは

 なぁぜにおみみがなごうござる」

 

 とんとんと、優しく一定の間隔で仰向けで寝る子供の肩をたたく。

 

「ちいさいとぉきにかあさまが

 なぁがいこのはをたべたゆえー

 そぉれでおみみがなごうござるー……」

 

 この子守唄を歌う時は、自分でも驚くぐらいに穏やかな声が出る。

 続けて二番を囁くように歌い上げて目を開けると、部屋にいた年端もいかぬ幼児たちはみんな眠りに就いていた。

 

 昼食を終えた後の和やかなひと時。

 子供たちの寝顔を一通り眺めて、少年──不死川(しなずがわ)実弥(さねみ)は淡い微笑みを浮かべた。

 

(よし、みんな寝たな)

 

 実弥は音を立てずに立ち上がり、部屋にいる大勢の子供たちに毛布を掛ける。弟妹たちは手を繋いで寝ていて、他所の子達も仲良く寄り添い合っている光景は見ているだけで自然と心が安らぐ。

 

 小さな部屋には十人近くの、五歳にもなっていないだろう子しかいない。

 実の弟妹以外は近隣に住む、実弥の家族と同様に父親がいない家庭の子供たちだ。

 家族を養うために母親は働いており、その間に面倒を見る者がいない。その問題を解決するために母親間で協力して現在の状況となっていた。

 最初は無償でという話だったのだが、それは流石に悪いと僅かばかりではあるがお金が貰える。義務教育の尋常小学校を卒業した後、小さな家族の面倒を見るために長い時間働けない実弥にとってはありがたい話であった。

 

「ただいまぁ……兄ちゃん?」

「おかえり、玄弥、弘、貞子」

 

 小さな声で実弥は帰ってきた弟たちを迎い入れる。

 尋常小学校から帰ってきた三人の弟妹たち──玄弥(げんや)(ひろし)貞子(ていこ)は、ぐっすりと眠っている子供たちを起こさぬようにと忍び足で部屋を移動した。

 

「お昼寝中?」

「あぁ、今寝かしつけ終えたところだ。後は頼むぞ」

「うん、任せて兄ちゃん!」

「赤ん坊はうつ伏せにさせないようにな」

 

 ふんすと気合いを入れる貞子に母親から教わった要注意事項だけは伝え、実弥は三人に子守を任せて外に出る。

 駆け足で向かう先はこの集落に隣接している比較的大きな街の、人通りの多い道に店を構える安くて美味しいと評判な定食屋だ。

 裏口から入って実弥は素早く母からの借り物である割烹着を着用する。手洗いを済ませて準備を整えたのち、厨房で料理を作り始めていた主人に近付く。

 

「すみません、遅くなりました!」

「おう、よく来たな坊主。まだ混み合う時間じゃねぇから問題ねぇよ。適当に掃除しといてくれ!」

「はい!」

 

 店主の言葉に従い実弥は布巾を持ってせっせと掃除を済ませると、夕暮れ時のいい頃合いになって客足が伸び始める。

 給仕に皿洗いに会計に、必要な知識や対応を慣れた様子で実弥はこなしていく。女子であれば間違いなく看板娘と呼ばれていただろう相応の働きであった。

 

「ありがとうごさいました!」

 

 最後の客を送り出した後に、実弥はふぅーっと大きな息を吐く。

 店主と夫人と一緒に後片付けを済ませ、ありがたく賄いを頂き、ほぼ毎回手土産まで貰えることに感謝する。実弥は、というより不死川家はこの定食屋夫婦に随分と世話になっているのだ。

 

「これ、下の子たちと一緒に食べてね」

「ありがとうございます!」

「お母さんには流行り病の時に世話になったからね。このくらいしか出来ないけど……」

「いいえ、とんでもありません! 俺みたいなガキを雇って頂けるだけで本当に助かっています」

 

 実直な実弥の態度に夫人は柔らかく微笑みを浮かべる。とっさに頭を撫でようとするが、実弥も十四になる少年だ。恥ずかしいだろうと少し残念に思いつつ、これ以上引き止めては悪いと主人に場を譲った。

 

「んでこれが今日の日給だ。また明日も頼むぜ!」

「はい、ありがとうございます! 明日もよろしくお願いします!」

 

 弟妹たち用に貰った手土産と給金を手に実弥は頭を下げて、礼儀正しく店を出る。

 空を見上げれば星々と月の光が眩く輝いており、遅くなったと急いで家族の元へと実弥は走り出した。

 

「ただいま」

『おかえり、兄ちゃん!』

 

 慣れた道程をほぼ全力疾走で駆けて実弥は家へと辿り着く。汗一つかいていないのは彼の身体能力の高さを物語っていた。

 

「すぐ飯の支度するからな、もうちょい待ってろ。貞子、手伝ってくれるか?」

「うん、任せて兄ちゃん!」

 

 かなり早いが花嫁修行も兼ねて長女の貞子に料理を手伝ってもらう。

 定食屋直伝の実弥の料理の腕は中々であり、母親は長男の家事能力の万能さに若干の慄きと果てしない申し訳なさを抱いているのだが、それを知る者はいなかった。

 

 手際良く少ない食材で料理を作り上げた実弥たちは食卓に集まって、頂きますと唱和する。

 次男坊である玄弥ですら九歳で、下の三人──こと、寿美(すみ)就也(しゅうや)は六歳にもなっていない。家族団欒といえば聞こえはいいが、実弥含めて七人も子供がいれば喧しいことこの上ない。長男として、実弥は近所迷惑にならない程度に注意を飛ばし続けることになるのが常だった。

 

「にいちゃんにいちゃん、ごほんよんで」

「あぁ、待ってろ寿美」

 

 晩飯を終えてしまえば後は下の子を寝かし付けるだけだ。

 金銭に余裕は無かったが、読み聞かせをするための本といった細やかな娯楽はある。寝転がる実弥にまるで群がるように小さな三人が寄り添って、実弥が紡ぐお話に耳を傾けた。

 

 しばらくすれば、聞こえてくるのは小さな三つの寝息。

 先程まであれだけ元気いっぱいだったのが嘘のように静かになって、実弥は一度だけ三人の頭を撫でて立ち上がった。

 

「お前らももう寝ろ。玄弥もだ」

『はぁ〜い』

 

 兄の役に立ちたいとせがむ弟妹たちは可愛いのだが、夜更かしさせるなど言語道断とばかりに実弥は布団に入らせた。

 

『おやすみ、兄ちゃん』

「あぁ、おやすみ。玄弥、貞子、弘」

 

 一度布団に入ってしまえば不思議なもので、日中消費した体力を回復させようとしてかすぐに寝入ってしまう。全員が十にも満たない子供なのだから仕方がない。

 一人起き続けている実弥は台所へと向かい、近くの川から汲んできた水を節約しながら使って皿を洗う。

 黙々と作業を進める途中で、玄関の戸が慎重に開かれたのを見た。

 

「ただいまぁ……、実弥?」

「おかえり、お袋」

 

 大分遅い時間に実弥たちの母親──不死川(すず)が帰ってきた。

 隣街の病院で鈴は看護婦として朝から晩までずっと働いている。少し前までは日が暮れる頃には帰宅していたのだが、父親が居なくなって子供たちの危険が無くなってからは働き詰めだった。これも家族を養うためだと思うと、ろくに支えてやれない自分が情けない。

 

「いつもありがとね、実弥。ほら、あなたももう寝なさい」

「これが終わったら寝るよ。お袋もあんま夜更かしすんなよ」

「えぇ、気を付けるわ」

 

 実弥は母の言葉に眉間に皺を寄せた。何度言っても母が早く寝ることはないと確信しているためだ。

 鈴は帰ってきてからも内職している。裁縫の腕が際立っている鈴は手拭い(ハンカチ)の刺繍や着物の繕いといったものにも手を出しており、夜遅くまで起きているのだ。

 そして朝は誰よりも早く起きて洗濯物を洗い、日が昇る頃には干し始めている。本当に、いつ寝てるのかが疑問でならない。

 

「……はぁー。お袋、身体は壊さないでくれよ」

「ふふ、勿論よ。予防には気を付けているわ」

 

 これ見よがしに実弥は大きな溜め息を吐いてみるも効果がないようだ。慈愛を秘めた微笑みを浮かべられては、実弥はもう何も言えない。

 諦念の境地の中で実弥は皿洗いを終わらせ、母の言葉に逆らうこと無く布団に入る。実弥では裁縫は手伝えないし、一度強情張って起き続けようとして気付けば寝落ちしてた恥ずかしい過去もあって、実弥は素直に寝るようになった。

 

「おやすみ、お袋」

「えぇ、おやすみなさい、実弥」

 

 瞼を閉じてしまえば抗いがたい眠気が実弥を襲う。朝から子守をして、夕方からは定食屋で働いているのだ。それ相応の体力は消費している。

 

(起きたら洗濯物を干すのを手伝って、飯作って、あいつら学校に送り出して、他所の子の向かいに行って、それから……)

 

 思考も朧げに、実弥は明日の予定を考えるも限界は早い。

 意識が闇の底に落ちるのを、母だけが静かに見守っていた。

 

 これが不死川家の、実弥の日常だ。

 

 貧乏で生活は厳しいが、家族と共に過ごせる毎日は幸せだった。暴力ばかり振るう碌でなしの父親が刺されて死んでからは、平穏な日々を送れていた。

 ずっとこんな日々が続くのだと、心の底から信じていた。

 

 あの時までは。

 

 

 

 

 

 

 

 

「留学、ですか?」

 

 病院の看護婦用の一室にて。

 夕食を食べていた際に先輩看護婦から話を振られた不死川鈴は、聞き馴染みのない単語をキョトンと復唱していた。

 

「そうなのよ。東京府の病院で働く看護婦の中で希望者を募ってるらしいわ」

「それはまた、夢のあるお話ですね」

 

 看護婦という職業は女性の社会進出の中でも尊敬を集めている職業だ。

 国際組織である赤十字に認知されている国際職であり、明治の文明開化を機に近代化が進む我が国において、女性の社会参画を大いに促進していた。当時の皇后陛下を筆頭に、皇族・華族の方々が赤十字に関わって、女性職としての看護職を奨励したことも背景にあった。

 ましてや留学なんてこの時代の女性ではとんと縁がない話で、鈴の言うように正に夢のある話なのだ。

 

「立候補されるのですか?」

「まさか。まだ子供も小さいもの。不死川さんもそうでしょ?」

「はい。私達には関係ないお話ですね」

「それがそうもいかないのよ。希望者を募ってはいるけれど、やっぱり優秀な人がいいみたいで、関係者のお偉いさん方が病院を回っているらしいわ」

「もしかして、此処にもですか?」

「えぇ、近いうちに来るらしいわ」

 

 先輩看護婦が苦い顔をしている理由を察して鈴は苦笑する。只でさえ日常業務で忙しいにも関わらず、その方々への対応も考えれば気が滅入るというもの。

 

 相手がお偉いさん方というのも懸念である。

 看護婦は国際職として尊敬を集める反面、相当の重労働の割には必ずしも十分な収入が得られるわけではない。独り身ならともかく、家族を養う立場になると物足りない面もある。実際に鈴も副業に手を出しているし、そういう同僚は少なくない。

 

 問題なのはその副業の内容だ。

 

 本当に切羽詰まっている者は売春まがいの行いもしている。文字通り身体を売って稼いでいるのだ。

 女性の社会参画の代表的な職と認知されつつある看護婦に、その手の話は好ましくない。

 だが、ここで給金を上げてと声を出せないのもまた事実。

 留学という一大事業に関わるような方々とお近づきになりたいと思う看護婦は少なからず存在するだろう。その辺りにも目を光らせなければならないと考えると気が重くなる。

 

「失礼いたします」

 

 二人してややげんなりとしていた時に、部屋の戸が開かれた。

 もう交代時間かと思う二人だったが、現れた女性を見て鈴は急いで立ち上がった。

 

「珠世先生、お久しぶりです!」

「はい。鈴さん、お久しぶりですね。突然お邪魔して申し訳ありません。どうぞ楽にして下さい」

 

 畏まった対応を苦手としてか、品のある仕草で入室した女性──珠世は柔らかく微笑む。

 突然の来訪には驚いたが、珠世がこの病院を訪れるのはこれが初めてでない。

 本当にたまたまだったのだが、仕事帰りに鈴が住む集落で珠世が住民に無償の治療を施していたのを目撃したのがきっかけであった。

 医術の心得のある女性はこの時代数えるほどしか存在しない。それが男性よりも優秀となれば尚の事。

 気付けば鈴は珠世に話し掛けていて、同じ医療現場で働く女性同士ということで意気投合するのは早かった。少し強引にこの病院に引っ張ってしまったことは反省しているが。

 

「あの少女はその後どうなりましたか?」

「はい、ついこの間退院されましたよ。珠世先生に会えなくて残念そうにしていました」

「そうですか、治ったのであれば何よりです」

 

 心底安堵したと微笑む珠世は慈母そのものだ。どうしても一回の病診で完治させられなかった子をわざわざこうやって見舞うくらいなのだから、珠世の根は清らかに透き通っているのだろう。

 身元不評、年齢不詳の謎多き神秘的な女性なのだが、鈴個人は珠世のことを好ましく思っていた。

 

「浮かない顔をされてましたが、何かあったのですか?」

 

 二人の気落ちした様子を見たのだろう。

 珠世の問いに鈴は苦笑いを浮かべてあらましを説明すると、珠世も同じような表情で同情を滲ませていた。

 

「それは大変ですね……」

「本当ですよ珠世先生……あっ、珠世先生がお手伝いに来ていただけると助かるのですが……」

「それは、その……」

「先輩、無理を言ってはダメですよ」

「あはは、そうよね。忙しいっていうのにね」

 

 はぁーっと先輩看護婦は頬杖をつきながら溜め息を吐く。

 一度愚痴をこぼしてしまったからか、彼女の口からは止めどなく言葉が漏れ始めた。

 

「赤十字の関係者はまだいいのよ。一応勝手知ったる仲だもの。でもね、お国の偉い人とか、貿易会社の方とか、どう応対すればいいのかしらねぇ」

「皇族・華族の方がいらっしゃるのですか?」

「話によるとね」

 

 鈴はうへぇ、という表情が浮かびそうなのをなんとか堪える。無礼一つでもしようものなら無職になるんじゃないかと、過剰かどうかも分からない懸念に溜め息を漏らす。

 だからこそ、珠世の白磁の肌が更に青白くなったのには気付かなかった。

 

「……貿易会社の方とは?」

「留学に当たっての移動の伝手だそうで、何故かそこの社長の方が各病院に足を運んでいるそうですよ」

 

 付き合いというものなんでしょうねと先輩看護婦は呟き、問いを投げかけた珠世は神妙な顔付きとなる。

 その瞳の奥に宿るのは、紛れも無い焦燥。

 

「ちなみに、会社名などはご存知でしょうか?」

「えぇ、はい」

 

 珠世の只ならぬ様子をようやく怪訝に思いつつも、隠すことでもないと先輩看護婦はあっけらかんと告げる。

 

「鬼頭貿易会社の、鬼頭月彦(つきひこ)さんと仰るそうですよ」

「……そうですか」

 

 ──あぁ、そんな……

 

 人違いであれば、まだ救われたのに。

 

 狂おしい程の罪悪感が珠世の心を焼き尽くす。

 何も出来ない無力な自分に吐き気がする。

 

 悲惨な未来を変える力が、珠世にはないのだ。

 

 人々の何気無く、それでいて幸福な日常が壊れ去るかもしれないことを、珠世だけが理解してしまった。

 

 

 

 

 席を外して浅草の本拠へと向かう帰路にて。

 

「愈史郎」

「はい」

「あの病院に使いを」

「畏まりました」

 

 暗い夜道の中、珠世は一人でにそう命じる。

 声に応じた気配が離れていったのを見計らって、珠世は沈痛な面持ちで俯いた。

 

「……申し訳ありません」

 

 危険だと分かっているのに。

 人としての尊厳を失うかもしれないと知っているのに。

 珠世には何も出来ない。

 

(集めた情報通りなら……)

 

 愈史郎の血鬼術を行使して、宿敵のことは探ってきた。現在其の者が何処にいるか、何をしているか、危機が及ばない範囲で情報収集してきたのだ。

 

(あの男は今、貿易会社を持っているはず)

 

 鬼頭月彦。

 それは偽りの名前だ。幾つも使ってきて、躊躇いなく捨ててきた名前の一つに過ぎない。

 それの正体は、食料としての感情しか抱いていない人間の真似事をして、人の営みの中で暮らす人(あら)ざる化け物。

 

 ──鬼舞辻無惨

 

 其の男こそが諸悪の根源にして、千年もの時を生きる鬼の始祖なのである。

 

(どうか、どうか何ごともなく終わって下さい……っ!)

 

 珠世には、祈ることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「姉ちゃん、危ないって!」

「弘もおいで! 川遊びなんだから川に入らないでどうするの! 寿美も!」

「うん!」

「こと、川の水って気持ちいいだろ?」

「そうだね、玄弥にい!」

 

 子供たちのはしゃぐ声が絶え間なく聴こえる。

 久々の休暇で我が子たちの活き活きとした姿を見て、鈴は昨日の疲れが取れていく気持ちだった。

 

「実弥も一緒に遊んできていいのよ?」

「そしたら誰が就也の面倒を見んだよ」

「それはもちろんお母さんよ」

「今日くらいはゆっくりしろって言ったばかりだろうが」

「……ふふっ、そうね。じゃあお言葉に甘えさせてもらうわね」

「おうっ」

 

 川辺の岩に腰掛けて、鈴は長男である実弥と一緒にパシャパシャと脚で水を弾く。実弥の腕の中では末っ子の就也が気持ちよさそうに寝ており、柔らかな日差しと人肌の温もりに包まれて暫くは目を覚まさないだろう。

 少し過剰なばかりに気を使う長男に年寄り扱いされているような贅沢な不満はあったが、この日の鈴は本当に疲れていた。

 

(お偉いさん方の視察の接待であそこまで気を張るとは思わなかったわ……)

 

 つい先日のことだ。

 いつの日か先輩看護婦から聞いた看護婦の留学話に伴う歴々の視察が、ついに鈴が勤めている病院にも訪れた。

 内容としては大層なことはない。看護婦は日々の業務をこなすだけで、歴々にとってもその様子を見ることが目的。普段の仕事に妙な緊張感が伴っただけで、想像していたよりは遥かに穏当な視察体験であった。

 

 ただ一つの懸念さえなければ。

 

(鬼頭月彦様……あの方がどうしようもなく怖かった……)

 

 他人に刺されて死んだ夫のような残虐な者と長く一緒にいたせいか、鈴は他人の本質、特に心に潜む残忍性には人一倍敏感であった。特技とも言い辛い観察眼であったが、自己防衛にはとても役立つこの技能を鈴は有難く思っている。

 日々の中でならこの感覚が鋭敏になり次第距離を置くのが常なのだが、仕事中はそうもいかない。況してや相手が高いの身分の者なら尚の事。

 

(あの方は絶対に危険……もう関わり合いにすらなりたくない)

 

 得も言われぬ恐怖に鈴は身体を震わせる。

 鈴は直感で理解していた。あの男は既に何人もの人を殺していて、そのことに罪悪感すら抱かない人種であると。

 病院にも患者として明らかに堅気の人でない方が訪れるが、彼等などとは比べることすら烏滸がましい。

 安直な喩えではあるが、蛇に睨まれた蛙とは正にあのことだろうと思う。正直仕事中は生きた心地がしなかったし、そのせいでつまらない失敗を犯してと、とんだ災難であった。

 

「お袋、冷え過ぎたんじゃねえか?」

「えっ?」

「顔色が悪いんだが……」

「あら、そうっ? ごめんね、少しぼぉーっとしてたのよ」

 

 しまったと、鈴は気の緩んだ自分を叱咤する。どうやら実弥に気取られるくらいには消耗しているようだ。

 日頃から気苦労を掛け過ぎている長男にこれ以上の心配はさせまいと、鈴は即座に母親の顔を取り戻した。

 

「さて、そろそろスイカも冷えた頃ね。みんなで食べましょう」

「……そうだな」

 

 実弥は慣れた態度で、母への言及を取り止める。それをありがたいと感謝して、鈴は濡れた足を拭って立ち上がった。

 

「みんなー、戻ってー! スイカを食べましょー!」

『はーいっ!!』

 

 声を張り上げて子供たちを呼ぶと、彼らは我先にと川の中を一目散に駆け寄ってくる。

 その様子に危ねぇだろうが! と実弥が叫び、それにビックリした就也が起きて実弥が慌てるのを横目に、いの一番にやって来た長女の貞子を鈴は抱き締めた。

 

「母ちゃん、私がスイカ切りたい!」

「そう、じゃあお母さんと一緒に切ってみましょ?」

「うん!」

 

 布で何度もぐるぐる巻きにして箱に詰めた包丁を慎重に取り出して、貞子は用意されたスイカへと向き合う。

 実弥の日頃の教えが厳しいからだろう。刃物を手にした瞬間にその眼差しと表情には真剣味が宿り始めた。

 これなら大丈夫かなと思いつつも、心配になってしまうのが母親というもの。

 貞子の後ろから手を重ねるようにして、一緒にスイカを切っていく。

 

「うん。上手に出来たわね、凄いわ貞子!」

「えへへ〜。兄ちゃんにいつも教わってるもん!」

 

 花が開いたような満面の笑みを浮かべる貞子の頭を撫でる。

 されるがままににこにことしていた貞子だったが、離れた鈴の手を見た瞬間に大きく目を見開いた。

 

「あっ!?」

「えっ?」

 

 その素早い動きに呆気に取られた鈴は、隠すことも出来ずに貞子に手を取られた。

 直後、また失敗したと気付く。

 

「母ちゃん手怪我してる!?」

 

 貞子のその叫びに、子供たちは一瞬で表情を変えた。

 

「母ちゃん大丈夫!?」

「痛くない!?」

「かあちゃんっ!?」

 

 子供たちに尋常でない様子で心配され、やってしまったと鈴は自身の迂闊さを後悔するも、安心させるように微笑んだ。

 

「大丈夫よ、昨日のお仕事中にちょっと硝子の破片で切っちゃっただけよ。お母さんは平気よ」

 

 泣きそうな表情をする子供たちの頰を手の平で順繰りにくるむ。側で下の子を見守っている実弥や玄弥も憂わしげな顔をしており、鈴は内心で母親失格だと嘆いた。

 

 夫が、子供たちにとって父が生きていた頃、鈴は夫から家で頻繁に暴力に晒されていた。その矛先が子供たちに向かおうものなら鈴は全身で子供を庇い、その度に少なくない傷を負って流血していた。

 そんな光景を見せ付けられれば、子供たちは当然母親の傷に敏感になる。その結果がこれだ。

 あの家庭環境でよくここまで心優しい人間に育ってくれたと愛おしく思う反面、消えることの無いだろう心の傷を生み出してしまったことには悔恨が絶えない。

 

『かあちゃん、かあちゃん』

 

 くいくいと袖を引く寿美とこと。

 もう隠すことに意味は無いと素直に怪我した手を差し出すと、二人は小さな手で鈴の手を握った。

 

『いたいのいたいのとんでけー!』

 

 パチクリと、鈴は思わず目を瞬いてしまった。

 しかし幼子たちの意思共有は早かったのか、気付けば長男次男を除いて全員が鈴の手を取っていた。

 

『いたいのいたいのとんでけー!』

 

 真面目に、真剣に、母親の手から痛みが消えるようにと。

 祈って願う子供たちの姿に、自然と目頭が熱くなった。

 

「兄ちゃん! 兄ちゃんたち早く!」

「えっ、いや……お前らだけで充分だよ。なぁ玄弥?」

「そ、そうだな、兄ちゃん!」

 

 えーっ!? と駄々を捏ねる下の子たち。

 頰を紅くしてそっぽ向いてる上の子たち。

 愛おしくてたまらない家族の姿に鈴は嬉しくなって、空いていた手で切り傷を摩ってみたりする。

 

「あー、傷が痛いわー! 実弥と玄弥がいたいのいたいのとんでけーってやってくれないからかもしれないわー!」

『兄ちゃんっ!!』

 

 弟妹たちの責める眼差しの効果は抜群だった。

 実弥と玄弥はわなわなと口許を震わせて顔を紅くし、その間にもうるうるとした瞳で一心に見つめてくる幼子たちに早々に観念した。

 

「〜〜〜ッ!? あぁ分かった、分かったからそんな目で見るなッ! 玄弥ァ、いつまで恥ずかしがってんださっさとしろォ!」

「えっ、いや、ちょっ!?」

「痛いなー、手が痛いなー。玄弥がしてくれないと手が痛いなー」

「ッ、分かった、分かったよ!」

 

 玄弥が最後にババっと駆け寄って、子供たち全員で鈴の手に触れる。

 只でさえ小さな鈴の手に七人もの手が重なるも、感じるのはただただ温かな想いだけ。

 

『いたいのいたいのとんでけーっ!!』

 

 唱和されるその言霊には、不可思議な何かが確かに込められていたのだろう。

 元より無かった痛みだったが、昨日の疲れを一気に吹き飛ばす活力が鈴の中で生まれていた。

 

「ありがとう、みんな。お母さん、凄く元気になったわ!」

 

 わぁーっ、と歓声を上げる子供たちにつられて、鈴も柔らかな微笑みを浮かべた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ……こうして家族と仲良く、いつまでも暮らしていけたらいい。

 

 

 

 何気ない日常で願うのは、些細で人としての当たり前な思いだけ。

 

 

 

 共に生きていきたい。

 願ったのは、それだけだったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家族と共に休日を満喫した翌日。

 一昨日の視察の際の顔色の悪さを心配してか、鈴は周りから今日は早めに帰るようにと何度も言われ、心遣いを無駄にするわけにもいかず日が沈んだ頃には帰路についていた。

 

(いつも実弥に任せきりだもの、今日くらいはお夕飯を作らないと……)

 

 集落の入り口まで歩き、あと一刻もせずに家へと着く場所。

 朝食を用意した際の食材の残りを頭に思い浮かべて、晩御飯の献立を考えていた時だった。

 

 ──バチン!

 

「えっ……?」

 

 何かが閉じられた音が聞こえた同時、鈴の身体が異変に包まれた。

 

(身体が、勝手に……ッ!?)

 

 ぐんっ、と力任せに引っ張られる感覚。側はおろか目に見える範囲にも人はいないというのに、あり得ない強制力を持った現象に鈴の混乱は徐々に高まっていく。

 

「えっ、えっ、えっ!?」

 

 現実感がまるで無い状況に何をどうしていいのかが分からない。戸惑うばかりで助けを呼ぶという選択肢すら頭に浮かばない。

 操り人形のように移動していく自分の身体。走らなければ倒れてしまう勢いに逆らえず脚を動かしていたが、行き先が段々と人気の無い場所になっていると気付く。

 

 何処かに誘い込まれていると理解してしまった。

 

 此処にきてようやく本能が警鐘を鳴らした。

 

「だ、誰かっ!! 誰か助け──ッ!!?」

 

 大声を発しようとして、喉が詰まる。

 正確に言えば先程までとは比較にならない力が身を襲い、身体がくの字に折れて声を出せなくなった。

 

「ッッッ!!??」

 

 地面に足が付かない。なのに高速で動き続けている。埒外の力は鈴の身体を宙に浮かした状態で、暴力的な移動を繰り返し始めた。

 方向転換の度に肉と骨が悲鳴を上げる。あまりの激痛に叫び出したいのに、その意思すら押し潰して摩訶不思議な現象は鈴を蹴鞠のように振り回した。

 

「うぐっ……っ!?」

 

 どれだけそうなっていたかも分からない体感時間の中で、唐突に終わりが訪れる。

 投げ出されるように床に転んだ鈴は息も絶え絶えで、それでも常軌を逸した状況への恐怖を押し殺して咄嗟に周りを確認した。

 

(此処は……集落の、廃屋がある一帯……の一つ?)

 

 耳に聞こえる人の気配は微塵も無い。月明かりに頼る宵の内とはいえ、人々の喧騒が全く聞こえないのはつまりそういうことだろう。

 今自分が何に巻き込まれたのか。それが全く分からない。

 

 降り積もった危機感が迷わず告げてくる。

 兎に角此処から逃げなければ。

 

「来たか」

「っ!?」

 

 前方から聞こえた声に鈴は身を震わせる。

 倒れ伏した状態からなんとか姿勢を変え、視線をそちらに向けた。

 

「えっ……?」

 

 見上げたその姿。

 西洋の衣装に身を包んだ、端整な顔立ちの男性。闇のように暗い漆黒の髪に、何処か珠世を思い浮かばせる白磁の肌。

 何よりも恐怖を引き立たせる、妖しく輝く血赤の瞳。

 

「鬼頭……様?」

 

 一昨日出会った、一目で危険だと感じた男──鬼頭月彦が其処にいた。

 なんで、こんなところに、どうして、この状況と何か関係が──

 様々な思考が巡る中で、どうしようもない焦燥が一つの結論に辿り着く。

 

 ──逃げなければ!!

 

 何振り構わず立ち上がろうと鈴はもがく。幸い脚は折れていないようなので、身体に走る痛みさえ我慢すれば何とかなる。

 そう思って脚に力を入れた瞬間、不可視の何かに上から押し潰された。

 

「ぅぐっ!?」

「……ご苦労、もう下がっていいぞ」

「御意」

 

 鬼頭月彦の言葉に、暗闇に影となって控えていた別の男性の声が聞こえる。

 ちらりと見えたその男の掌には、気味の悪い巨大な瞳が刻み込まれていた。

 

「ひっ!?」

 

 あり得ないと無意識に外していた可能性に、鈴はようやく確信へと至る。

 彼等は人間ではない。

 比喩では無く、本当に。

 

 妖怪か妖か、そういう類の人非ざる存在だと。

 

 彼等のような人外が何故、人の営みに混ざっているのか。こんな大胆な行動に出た理由は何なのか。分からないことだらけの中で、悟ってしまった未来が一つだけあった。

 目を付けられた時点で、鈴の命運は決まっていたのだ。

 

「……やはりお前は良さそうだ」

 

 一人、滔々と語り出す。

 

「血の匂いで稀血であることは分かっていた。()()()みて分かったが、過去に見たことがない性質でもある。素体としても充分以上だ」

 

 ……何を、この男は何を言っている。

 稀血という単語がまず分からない。性質とは、素体とは。自分の身体の何を知っているというのか。一体血がどうしたと……。

 

(…………あっ、まさか……)

 

 一昨日の視察の時に、鈴は小さな失態を晒した。目の前の男から感じる恐怖に緊張した身体が震えて、ガラス容器を落としてしまったのだ。

 慌てて拾おうとして、切り傷が手に刻まれた。血が流れて、何かで抑え付けないと考えた時。

 

 この男からハンカチを差し出された。

 

 断るのも無礼だ、必死にいつも通りを取り繕って借り受けた。

 

 そして、返した。

 血が止まったから。親しい仲なら洗浄して返しただろうが、その日限りの出会いと互いが思っていたから。気にせずにと、この男が言ったから。

 

 絶望的な悪寒が背筋を走る。

 人ではない何かに、己の血を採取された。意図的にだったのかは定かでは無いが、もうどうしようもなく手遅れだ。

 

 だから今、こうなっているのだろう。

 

「お前には、血を与えよう」

 

 男の指先から漆黒の荊が生えた。倒れ臥す鈴の首元へと伸び続けて、躊躇いなくその肌を突き抜ける。

 瞬間、度し難い何かが体内へと流れ込んだ。

 

「……ア゛ぁあああああああああああああああああッッッ!!??」

 

 五臓六腑が掻き回されるような感覚に絶叫する。のたうち回ってもその痛みと不気味さは加速度的に増して全身を侵し尽くす。

 肉が、骨が、内臓が、自分の知らないものへと作り変えられていく。人間から逸脱した何かへと変貌を遂げて、ついには心まで侵食された。

 

「ふむ、この量でも壊れないか。良い拾い物だったな」

 

 男の言葉は耳に入らない。その激烈な苦痛に意識を保つ事すら困難で、やがて視界が暗く沈んでいく。

 

 気絶するその間際。

 浮かんだのは愛する子供たちの姿で。

 

 ──あぁ、()()()()()

 

 壊れた心で、鈴はただそう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 













 ──真菰、急ぐぞ!!
 ──うん!!


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