法王サリヴァーンが騎士たちに与えた魔性の指輪。
その黒い瞳は見つめる者を昂ぶらせ、死闘へと誘い、やがて騎士を獣のような狂戦士に貶めてしまう。
故に法王は、外征に際してのみこれを与えたという。
時は遡る。
「──────────〝告げる〟」
広い空間の中に、厳かな声が響き渡る。
それはかつて民たちが祈りを捧げ、聖歌隊の歌声が天まで……そこにおられる主に届くようにと技術の粋を集めて作られた聖堂。
王宮に次ぐ規模を持つそこで今、祭壇に立つ一人の黒き鎧を纏う少女が、高らかに声を張り上げていた。
そして少女はハッ、と心の中で笑う。いくら祈りを、歌を捧げたところで、
「〝汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意この理に従うならば応えよ〟」
祈りの代わりに捧げられるは、一つの奇跡をこの世に降ろす術理の発動句。
それを愛を叫ぶ少女より強く、戦場を駆ける戦士の咆哮よりも深い声音で少女が紡ぐ。強い、強い思いを持って。
捧げるのは主ではなく、聖堂の床一面に描かれた魔法陣。おおよそ魔術師であるならば、それが何かはすぐにわかる。
優秀な
すでにこの世になきものたちを呼び寄せる、招待状だ。
「〝誓いをここに〟」
手甲に包まれた華奢な指を胸に添え、謳う様はまるで聖女のよう。もし彼女を見るものがいれば、そう言ったであろう。
事実それは限りなく正解に近く、そして遠い。なぜなら彼女はまさしく、聖女
「────」
だがここには、一人を除いて次の言葉を告げようとする彼女を見るものは誰もいない。ああいや、その言い方には語弊があるか。
「〝我は常世全ての
もし彼らが生きていれば、詠唱する彼女を見て崇めただろう──────その内に宿るものが、激しい憎悪でなければ。
「〝汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者──汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ──────────!〟」
少女の呼び声に応え、かつて人間であったものを触媒に魔法陣が起動する。
悍ましい黒光が宿り、〝座〟より
「おお…………!」
常人がいれば、尋常でない魔力量に正気が消し飛ぶだろうそれに、少女の傍で一部始終を見ていた異様な男は声を漏らす。
そうしている間にも式は次々と己の役目を果たしていき、繋がっていく。それはやがて、一つのものとなって……
カッ────!
「──ふっ」
魔法陣が最高潮の輝きを発したその瞬間、
光の暴流は聖堂を包み、激しい余波が少女と男の全身に叩きつけられる。だが、彼らにそのようなものは通用しない。
光はやがて粒子となり、暴風は壁や床を撫でる微風となる。その代わりに、新たな〝影〟たちがあった。
うずくまる彼らは次々と身を起こし、その姿を晒していく。そうすると、皆一様に少女に目を向けた。
「さあ、我が救世主よ。彼らに言葉を」
「ええ、わかっています」
男に促され、少女は一歩前に出る。ただそれだけで、得体の知れない雰囲気が聖堂内を包み込んだ。
自分を見つめる〝それら〟を興味なさげに眺めて、ハッと皮肉げに笑うと目元を歪め言葉を落とす。
「よく来ました、
その言葉に、〝それら〟の中で誰一人として疑問の声をあげるものはいなかった。
それは彼らが己という存在の中に感じる繋がりが何よりの証明であったし、サーヴァントとはそういう存在だ。
何より──喚ばれた瞬間、〝歪み〟を
その姿勢に満足そうに目を細めて、少女は話を続けた。
「召喚された理由はわかっていますね? 破壊と虐殺、それが私から下す唯一にして絶対の
迷いなく、なんの躊躇もなく。
少女は彼らに、その命令を下した。どこか無垢な……ある意味それは正しいだろう……顔に浮かぶは、純粋なる冷酷。
狂気はない。ただただ、在るのは怒りだけ。当然だ、彼女は
「春を騒ぐ町があるのなら、思うままに破壊なさい。春を謳う村があるのなら、思うまま蹂躙なさい。どれほどの邪悪であれ、どれほどの残酷であれ、
それが絶対不変の事実であると、断固たる自信をもって彼女は断言する。
その根底にあるのは、やはり憎悪。この憎しみこそが、神がそうであろうと自分の意思を確定していた。
「罰をお与えになるのなら、それはそれで構いません。それは神の実在とその愛を証明する手段に他ならないのですから」
もしも否定するのなら、それもいいだろう。どちらに転んだとしても、神がいるという事実は変わらない。
一通り言うことを全て述べた彼女は、今一度サーヴァント達の顔を見る。どうやら全員、しっかりと理解したようだ。
「それではジル、〝彼〟を連れてきてちょうだい」
「はい、畏まりました」
話しかけられて、ようやく声を発する男。ギョロリと今にも眼窩から溢れそうな目を動かし、恭しく頭を下げる。
「手は出してないでしょうね?」
「もちろんですとも。ですがどうするか、は考えておいでで?」
確認するように問いかける男に、ああと少女は声をあげる。男の言わんとするところを察したのだ。
そして、慈悲に溢れた微笑みを男に向ける。それはまごうことなき聖女の微笑で、今の彼女とは最もかけ離れたもの。
「おや、その顔を見るに私のアイデアは不要ですかな?」
「ああ、私が悩んでいると気を遣ってくれたのね──は、バッカじゃないの。いつまでも愚かだと殺すわよ、ジル」
己を慕う様子を見せる男に、一切の嘘偽りなく殺意を向ける少女。しかしそれすらも受け止め、男は笑う。
「アナタは食事を取るとき、今日はフォークをどう使おうか、なんて考えるの?しないでしょう?それと同じよ。〝彼〟をどうするのかなんて、自明の理です」
「では、そのように」
再び礼をした男が、聖堂から一度出ていく。そしてすぐに片手で何かを引きずって戻ってきた。
もぞもぞと動くそれは、無造作に少女の前に放られる。顔面を強打して「ぐわっ」と蛙のような潰れた声を出した。
暫くもがいていたものの、やがてふらついた動きで立ち上がると忙しない様子で周囲を見渡し始めた。
「な、何だ!? ここは、どこで、お前達は一体……!?」
それは、人間だった。
目に毒な真紅の豪奢な法衣に身を包み、白い帽子を禿げた頭に被った老年の男。顎はたるみ、怠惰な体型は彼の人間性を表している。
加齢からブルドッグのようにとろけた頬を震わせ、豆粒のような小さな目を怯えに染めて状況を判断しようとした。
小動物じみている、というにはあまりに滑稽な様子は、長く続かなかった。短気な彼は、意味不明さにキレたのだ。
「ええい、そこのお前、説明して──ヒィッ!?」
いつもそうしているように、近くにいたものに乱暴に告げようとして……彼女の顔を見て悲鳴をあげた。
腰を抜かし、老人はガタガタと震えて少女を見上げる。先ほど以上に滑稽な男に、彼女はやや大げさに話しかけた。
「ああ、ピエール!ピエール・コーション司教!お会いしとうございました!貴方の顔を忘れた日は、この
声高に……あるいは嘲るように……言う少女──否、ジャンヌ・ダルクに、ピエールと呼ばれた男は震える指を向ける。
「ば、バカな。バカなバカなバカな!お、お前はジャンヌ・ダルク!?」
「ええ、そうですとも。それ以外の誰に見えます?」
「あ、ありえない!あり得るはずがない!お前は、
「──
言うはずだった言葉を引き継ぎ、心底可笑しそうにニヤニヤと笑うジャンヌ・ダルク。司教は一層の恐怖を覚える。
彼からすれば、まさに死人が目の前にいるようにしか見えないのだ。それもこの目で死ぬのを見た、
「これは、夢だ。悪夢以外の、なんだと言うのだ……!」
やがて恐怖を処理しきれなくなった司教は、現実逃避を始めた。人間としては普通の反応だ。
だが、それを彼女たちは許さない。目の前にいる自分たちを否定して目を背けるなど、許すはずがない。
ズブリ。
「………………は?」
故に。彼女は痛みを持ってして、哀れな子羊を夢から現実に引き戻すのだ。
「ぎゃぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁっっっ!?」
「ああ、いけないわ司教。現実を見なさって?ここにいるのです、私は。三日前貴方が火にかけた私は!」
突如出現し、太ももを貫いている黒い槍に絶叫する司教の両頬に手を添えて、自分の方を向かせるジャンヌ・ダルク。
涙を流し、鼻水を垂れ流す司教は、視界いっぱいに広がる彼女の裂けた笑みに激しく全身を震わせた。
「さあ、どうします司教!?貴方が異端だと弾劾したジャンヌ・ダルクがここにいるのですよ!?十字架を握り、
「あ、ぁ……」
「私を罵り、嘲り、踏みつけ、蹂躙しなくて良いのですか?邪悪なジャンヌ・ダルクがここにいると!勇敢な獅子のように吠えなくていのですか!?さあ、さあっ!」
彼女はまるで、それを望むかのように叫んだ。目の前にいる哀れな男に対して、たった一つの答えを求める。
到底尋常でない気迫、圧倒的な威圧感。今まで感じたこともないようなそれに極限まで震え上がった司教は。
「た……」
「た?」
「たす、けて。助けてください」
司教が選んだのは、みっともない命乞いであった。涙を流し、助命を媚び願う。
「なんでもします。助けてください、お願いします……!」
「──ハ」
おおよそ神に仕え、その命を生涯捧げる聖職者がするべきでない惨めな顔に、少女は小さく声を漏らす。
そこにあったのは嘲りでも、嘲笑でも、ましてや怒りでもなく。何よりも深い深い、落胆の色であった。
「あは、アハハハハハハハ!ねえ、聞いたジル!?助けてください、助けてくださいですって!私を縛り、嗤い、焼いたこの司教様が!」
「ええ、見るに絶えぬ矮小さです」
「あれだけ取るにたらないと!私は虫けらのように殺されるのだと、慈愛に満ちた眼差しで語った司教様が、その私に命乞いしてるなんて!こんなにおかしい話はないわ!」
アハハハ、と片手で顔を覆い、天を仰いで笑うジャンヌ・ダルク。心底おかしくてたまらないといった様子だ。
「ああ──悲しみで、泣いてしまいそう」
だがそれは、氷などとは比べ物にならない呪詛のごとき声音で終わりを迎えた。
一瞬前の様子は何処へやら、ゴミを見るような冷酷な目で、地の底のように無の表情で司教を見下ろす。
「だって、それでは何も救われない。そんな紙のような信仰では天の主には届かない。そんな羽のような神苑では大地には芽吹かない。神にすがることすら忘れ、魔女へ貶めた私に命乞いをするなど、信徒の風上にも置けない」
司教の顔から手を離すジャンヌ・ダルク。拘束と同時に支えでもあったそれを失って床に後頭部を打ち付ける司教。
ジャンヌ・ダルクは悲しかった。己を罰し、殺したこの男がこれほどに矮小だったことに。その信仰が薄っぺらいことに。
ああ、だってそうだろう。そのような簡単に捨ててしまえる思いで、自分は殺されたと言うのならば──これほどバカらしいこともない。
「司教、私は悲しいです。悲しくて悲しくて、もう気が狂いそうなぐらい笑ってしまいそう!」
「…………っ!」
「わかりますか、司教。あなたは今、自らの手で自分を異端だと証明してしまったのです。それなら、刑に処さなくては、ね?」
彼女のいわんとするところを察した司教は、これまでで最大に目を見開いた。そして己の終わりが近づいていることを悟る。
ゆっくりと、ジャンヌ・ダルクは微笑みながら近づいてくる。必死に後ずさる司教だが、足に槍が刺さっていては満足に動けまい。
「ほら、思い出して。異端をどういう風に処刑するのか、貴方は知っているでしょう?」
「い、いや、嫌だ!たすっ、助け、てっ……!」
「残念、免罪符は品切れです……さあ、始めましょうか」
片手を司教に向けるジャンヌ・ダルク。司教の目にはそれが、地獄の番犬が口を開けているように見えた。
ゴウッ!!!!!
「私が聖なる焔で焼かれたならば。お前は地獄の焔で、その身を焦がすがいい」
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア──────────!」
彼女が手をふりかざせば、司教の全身が黒い炎に包まれる。
その胸に宿るものと同じ炎は、肉を溶かし、骨の髄まで罪人を喰らい尽くしていく。それを誰も止めるものはいない。
ただ、炎を眩しそうに、あるいは楽しそうに眺めるのみ。誰が一番楽しんでいたかは、言うまでもないだろう。
狂気の宴は、やがて終わりを迎える。火は消えて、代わりに焦げた床だけがそこに残った。
「塵も残さず消えましたか。ああ、くだらないことに時間を使ってしまったわ。ごめんなさいね、ジル」
「何をおっしゃる。これも全て意義のある鉄槌ゆえ。それで、他に生き残ったものたちはどうします?」
そうね、と彼女は考えて。すぐに決まり切った答えを男に返した。
「いちいち審問をするのも時間の浪費ですし、彼らに食わせてあげましょう。ああ、もちろんあの
聖堂の奥、次いで天井を見上げて言うジャンヌ・ダルク。そこに潜んでいるものを知っているかのようなそぶりだ。
事実、彼女は知っていた。いつの間にかこの世界にいた、
「さて。改めて命令を下すわ」
それを見るのもそこそこに、サーヴァントたちに向き直って宣告する。
「私が望むのはたった一つ。この国を、フランスという過ちを一掃する。刈り取るように蹂躙なさい」
その命令に、七人の
あるものは笑い、あるものは狩人のように鋭い眼光を放ち、またあるものは何かを決意するかのごとく獲物を握りしめる。
「まずは、いと懐かしきオルレアンを。そして地に蔓延した春の沃地を荒野に帰す。老若男女の区別なく、異教信徒の区別なく、あらゆるものを平等に殺しなさい。それがマスターとして送る、唯一の命令です」
そのために、彼女は召喚した際にサーヴァントたちに狂気を植え付けた。それを自覚する彼らもまた、彼女と同じく笑う。
「聖女であろうと、英雄であろうと壊れた心で踊りなさい。この世界の
幾千、幾万の祈りを捧げ、なお何も証明できなかった人間。このジャンヌ・ダルクにとって、それは無価値な生物だった。
故にこそ、虐殺を。むせかえるような悪逆と、徹底的なまでの蹂躙を。それを今を持って、存分に楽しむがいい。
「善人も、悪人も、一人も逃してはならない。最後の一人まで、血祭りにあげなさい!」
「おお、おお……!なんという力強さ、偽りのない心理!」
堂々と立つジャンヌ・ダルクに、男が突如感類に咽び泣きながら声を張り上げる。
心底歓喜しているといった様子は、彼がどれだけジャンヌ・ダルクを信奉しているのかが見て取れた。
「帰ってきた……私の光が……!貴方は本当に蘇ったのですね、ジャンヌ!」
「ええ、そうですとも──さあ、旗を掲げましょう。災禍の象徴である邪竜を旗印に、我々はこの世界を焼き尽くすのです!」
──1432年、6月2日。
この日、一人の少女が蘇った。彼女の手によって、束の間の平穏を享受していたフランスは絶望に沈むこととなる。
彼女の名はジャンヌ・ダルク。人々に担ぎ上げられ、側にされ、利用され、その果てに理不尽に見捨てられた──
次回から本格始動です。今日の夜に上がるかな?
思ったこと、感じたことを書いていただけると嬉しいです。