実は……ヒスイ地方に旅立っていました。
今回も楽しんでいただけると嬉しいです。
〝彼〟の夢だ。
ぼんやりと曖昧な視界の縁に、そう確信した。
彼は変わらず、軽装の鎧と上質な衣服に身を包み、その左手を腰の剣に添えていた。
顔はやっぱり見えなくて、ただ真剣な表情であることはなんとなくわかる。
今は、どこかの部屋の前に立っている。そこを守っているかのようだ。
何をしているのだろう、と思っていると、ノック音がする。
それはドアの内側からで、彼も気づいて振り返った。
カチャリ、と控えめな音を伴い、ドアが開かれる。
中から顔を出したのは──あの、白銀の少女だった。
「姫。いかがなさいましたか?」
膝をつき、優しい声音で彼は聞く。
隙間から顔を覗かせた少女は、もじもじと恥ずかしそうに視線を右往左往させた。
やがて、その顔の下半分を隠すようにして、手に持っていた本を見せる。
「あのね。今日のお勉強のことで、分からないことがあって。貴方なら知ってるかなって」
「私に理解できる事であれば、お教えできますが……」
「地理の勉強なんだけど……」
「ああ、なるほど。それなら少しはお力になれるでしょう」
そう聞くと、少女は表情を明るくした。
ドアを開け放ち、彼の手を取る。そのまま部屋の中へと引っ張った。
彼も抵抗することなく入っていき、手を引かれるままに机の方へと向かう。
「それで、何がわからないのですか?」
「えっとね、これ。読み方がわからないの」
本を机の上で開き、指で示す少女。
後ろから覗き込むように見た彼は、「ああ」と納得したような声を漏らした。
「これはメルヴィアですね。魔術と呪術、その両方に長い歴史と強力な力を持つ術士の国です」
「へえ、メルヴィアっていうんだ。どこにあるの?」
「我が国からですと、北西になりますね。海を越えた遠方です」
「ふうん……」
少女が説明を受けたことで、興味深そうに文字列を眺める。
俺にはわからない言語だったけれど、彼の言葉でどこかの国の記述だということだけはわかった。
「じゃあ、ここは?」
「アストラです。優秀な騎士を多く抱える国であり、特に上級騎士と呼ばれる者達の祝福された武具は強い力を持つ。礼節のある国柄ですよ」
「じゃあじゃあ、こっちは?」
「それは……ドラングレイグ。遥か昔にあった、大きな力を持つ王が収めた大国です」
スラスラと出ていく答えが面白いのか、少女は次々と質問を投げかける。
その全てに澱みなく答える騎士はとても博識で、まるで実際に見てきたような……
「すごい、すごいわ! 貴方、なんでも知っているのね!」
「はは。私も驚きです」
答える彼の心が、その時伝わってきた。
──何故、私は知っているのだろうか。我が主に仕える以前のことは、
少女に答えた言葉の通り、どうやら彼自身も自分の知識に戸惑っているようで。
それでも微笑みながら、彼は手を伸ばして本のページを捲る。
現れたのは、おそらく世界地図。
そこには先程答えた国の名前もあって、地形は……俺の全く知らないものだった。
「よいですか、姫。この世界には多くの国があります。様々な技術、土地、人々、文化……その全てが、我らのすぐ隣に存在しているのですよ」
「はぁ……世界って広いのね」
キラキラとした目で、地図を眺める少女。
以前は勉強から抜け出していたが、子どもらしく未知への興味は強いのだろう。
彼に地名を教わりながら、その国についてのページを繰って、目を輝かせる。
それを見守る彼に、彼女は振り返ってこう言った。
「ねえ! いつか私も、この国々を見られるかしら!」
「そうですなあ。我が国は外交も盛んですし、姫も赴くことがあるかもしれません」
「本当!? それだったら私、とても楽しみ! 知らないものがいっぱいだもの!」
まだ見ぬ世界を知りたい。
そこにある、未だ知らぬ輝きを、その目で見たい。
どうしてだろう。彼女の考えていることが、手に取るように俺にはわかった。
どこか眩しそうにそれを見ていた彼の、剣の柄頭に乗せられた手に彼女が触れる。
驚く騎士に、少女はあどけない笑顔で囁いた。
「その時は守ってね。私の隣で、いつものように」
少し、彼は息を呑む。
驚きだろうか。守ろうとしている相手からの、それができていると証明するような言葉への。
けれども彼は、少し口角を上げて、自分の手を彼女の小さなそれに被せたのだ。
「ええ、必ず。外の国々は、
「ふふ、楽しみにしてるわ!」
彼の言葉に、あれ、と思って。
そこで、視界が滲んで…………夢が溶けた。
●◯●
「──ぱい、先輩」
「んぅ……ましゅ…………?」
揺り動かされ、目を覚ます。
瞼を上げて、最初に見えたのはこちらを覗き込むマシュの顔だった。
「はい、マシュです。お目覚めですか?」
「うん……俺、寝ちゃってた?」
「はい。島での探索は相当大変でしたから、無理もありません」
「ごめん、先輩として不甲斐ないね」
「いえ、そんなことはっ」
話しているうちに眠気も覚めてきて、よっと声を上げて立つ。
後ろを振り返ると、そこには波打つ青い海。
「島から随分と離れたね」
「そうですね。もう影も形も見えません」
流石はドレイク船長の船と言うべきか。半日もあればあっという間だった。
夜が明けるまでは、俺も警戒して気を張っていたんだけど……そこで限界がきた。
そのうち波に揺られる船に、うつらうつらとしてしまったんだ。
「航路は?」
「順調です。敵船も無し、例の日記に従い航行中。この調子なら、いずれは何かを見つけられるかもしれません」
「そっか」
マシュの報告を聞いて、俺は甲板上に視線を巡らせる。
先頭の辺りで、縁に腰掛ける女神エウリュアレの姿があった。
ドレスの裾を海風に靡かせ、物憂げな顔で海原を見つめながら、彼女は小さく歌を口ずさむ。
それが、風に乗って聞こえてくる。
傍では、アステリオスが膝を抱えて、歌声に合わせ体を揺すっていた。
「流石はエウリュアレさん、見事な歌声ですね」
「アステリオスも元気そうでよかった」
迷宮で、あれ以上傷つけなくてよかった。
あどけない顔でエウリュアレの歌を聞く彼を見ていると、そう思えてくる。
そんなことを考えていると、不意に後ろから肩に衝撃が走った。
「おわっ!」
「なーに二人とも、こんなとこでボケッと見てるんだい?」
「せ、船長!?」
「どうせなら特等席で聞こうじゃないか、ねえ?」
そう言ったドレイク船長は、俺達が答える暇もなく引きずっていった。
とても女の人とは思えない力で近づいていくと、彼女も気がついてこちらに振り返る。
自然と歌うのも止まって、目の前に来た時は怪訝な顔になっていた。
「なんだい、もう終わりかい? せっかく聞きに来たってのに」
「聞いていいなんて言ってないのだけど」
「う?」
「そんな意地悪言うなよぅ」
す、拗ねてる……相変わらず欲望に忠実だなぁ。
「はぁ……ずっとそんな顔されると面倒だから、一回だけ聞かせてあげるわよ」
「おっ、気前がいいねぇ」
「まったく……それで」
エウリュアレが、こちらをもう一度見る。
俺達を超えた先に向かっている視点に、三人で揃って振り向くと……
そこには、静かに佇むバーサーカーがいた。
「あなたも観客、でいいのかしら?」
「まあ、そのようなものだ」
「ふぅん……まあいいわ」
一瞬目を細め、しかし彼女はそれ以上なにかを尋ねることはなく。
海を見て小さく口を開き。
「La——♪」
また、歌い始めた。
美しい。それだけが心に浮かんだ言葉だった。
完璧な少女の偶像として定義された女神。その名に恥じることなく、芸術品のような歌声。
歌詞はなく、具体的な意味を持つわけでもなく。ただ気ままに紡がれるだけの、繊細な旋律。
そこにこれほどの美があることを、俺は生まれて初めて知ったのだ。
「ほぉ……こいつはいいねぇ」
「先輩、とても綺麗ですね」
「うん……」
感嘆のため息を吐いたのは、きっと俺達三人全員だったと思う。
それから数分ほどで、彼女の歌は終わった。そのことに名残惜しさが心を撫でる。
「はい、おしまい。あなた達にはこれで十分でしょ」
「素晴らしかったです、エウリュアレさん」
「すごく良かった」
「ああ! あんたらを船に乗せて正解だったよ!」
思わず拍手をすると、周りからも聞こえてきた。
見れば、甲板にいた全員が手を打っている。皆が聞き惚れていたようだ。
「ほらあんたら! いい見世物を見たんだから、ビシバシ働きな!」
「「「アイアイ、キャプテン!!」」」
威勢良く答え、彼らは仕事に戻っていく。船長も指示を出しに行ってしまった。
後には俺達だけが残されて、ふとまだ何も言わないバーサーカーを見た。
彼はやはり、黙してその場に立っている。
「バーサーカー、どうだった?」
彼は、少しの間そのまま沈黙していて、やがて少し顔を上げる。
「…………かつて、我ら不死の時代の話だ。
「っ!」
ドラン、グレイグ……それって…………
「その話を、貴公らを見ていると思い出したよ」
「う?」
「……私の知らない伝承と同じにされるのは遺憾だけれど。まあ、褒め言葉として受け取っておきましょう」
「先輩、どうやらバーサーカーさんも楽しんでいらっしゃるようです。…………先輩?」
ドラングレイグ……あの夢の中で、騎士が少女に説明していた国の名前……
だとすれば、あれは火の時代の……? なら騎士は不死の……彼の正体は、一体──
「先輩? 先輩!」
「っ、え、あ、どうかした?」
「いえ、先輩がぼうっとしていたので……大丈夫ですか?」
「うん、全然平気。ちょっと考え事をしていただけだよ」
「それなら良いのですが……」
心配させてしまったな。気をつけないと。
とりあえず笑いかけて、なんでもないことを証明しておく。
「この私の歌声を聞いたんだもの。そうなってもおかしくないわね」
「……そういえば、ずっと聞き忘れていました。エウリュアレさん、貴女は誰に追いかけられていたのですか?」
思い出した、といった表情で問いかけたマシュに、エウリュアレが顔を険しくした。
もう、これでもかというほど苦々しい顔に、よっぽど嫌な記憶なのだと悟る。
「貴女、嫌なことを質問するわね……」
「申し訳ありません。ですが、懸念事項はしっかりと把握しておく必要があるんです」
「……まあ、悪気はないようだし。許してあげる」
ふぅ、とため息を吐いた彼女は、海の方へ顔を向ける。
そのまま、しばらく黙り込んで……やがて、とても重々しい口調で語り出した。
「ほら。私って、可愛いじゃない?」
●◯●
「「……はい?」」
「だから、私って可愛いでしょう?」
「は、はぁ……それはまあ、そうですが……」
「確かに、女神様なだけはあるけど……」
「そう。可愛いし、可憐な私。だから男共に狙われるのは当然よね。だけど……」
「だけど……?」
「今回は、とびきりタチの悪いのに引っかかったみたい。ドレイクと同じ、でも正反対に妙な海賊にね」
「海賊、ですか……」
「ただの海賊ではないわ。
俺が息を呑むのと、マシュが同様の反応をするのは同時だった。
後ろにいたバーサーカーも身じろぎをしたのか、ガチャリと金属音が聞こえてくる。
海賊のサーヴァント。それはもしかしたら、俺達が追っている敵と同一の存在かもしれない。
「真名は知らないわ。知りたくもないし。ただ、世界であれ以上に気持ち悪いものは滅多にいないでしょうね」
「き、気持ち悪い……?」
「ええ。あれを見たら、スキュラでさえ自分の体を見直すでしょうね」
「強いでも怖いでもなく、気持ち悪いって……」
「どんなサーヴァントなのか、見当もつきませんね……」
だが、情報が入ったのはいいことだ。
それが同じ敵でも、そうじゃなくても、おかしな敵だということはわかった。
海賊の英霊なら船を持っていることは確実だし、気持ち悪いというのも何かの力かもしれない。
用心した方が良さそうだ。
「私からも一つ、質問をしていいかしら?」
「何でしょうか? 答えられることでしたら良いのですが」
数度目にこちらを見たエウリュアレが、片手をもたげる。
そして、ほっそりとした人差し指で示したのは、またしても俺達の後方。
バーサーカーだ。
「貴方。とてもおかしな存在よね」
「……人類史に刻まれし女神よ。私は前時代の遺物だ。そう思うのも仕方があるまい」
「そうじゃないわ」
はっきりと断言した彼女は、次にこう言った。
「貴方──呪いにかかっているでしょう?」
っ!?
「バーサーカーさんが、呪いに……?」
「エウリュアレ、どういうこと?」
「あら、マスターなのに解っていないの? その男、呪いで霊基が雁字搦めになっているわよ。それも、とても強力……神々でも早々解呪できないレベルね」
むしろどうして動けているのかしら? と、彼女は首をかしげる。
「それじゃあ本来の半分も実力を発揮できないでしょう。英霊になって格下げされた私といい勝負よ」
「バーサーカーさん、本当なのですか……?」
「もしかして、ずっとそんな状態で俺達と旅を……?」
思い出した。そういえばローマでも、カエサルが似たようなことを言っていた。
あの時は必死で、記憶の隅に押し流したけど……英霊にはすぐに見抜けるほどの呪い。
それを、俺はマスターのくせにずっと気付けなかったのか……?
じっと、バーサーカーを見つめる。
胸の中には驚きとか、悲しみとか、不甲斐なさがぐるぐると渦巻いていて。
かなり混乱していると──彼は、面頬の奥で嘆息した。
「……神というのは、いつの時代も理不尽だな。人が隠すものを遠慮なく暴き立てる」
「あら。むしろ感謝してほしいわね。貴方、自分からそこのマスターに言うつもりはなかったでしょう」
「まあ、な。だがそれは、重責を背負う彼に、私などの事情を上乗せしない為だ」
「大した詭弁ね。神にも等しい力を持ちながら、それと一緒に人間らしい傲慢さも封じられたのかしら」
「耳の痛い話だ」
かぶりを振ったバーサーカーは、先ほどとは比べ物にならない大きなため息を漏らす。
そして俯くと、しばらくの間黙っていたが……やがて、俺とマシュの方を見た。
「女神の余計なお節介に乗じ、告白しよう。そうだマスター、私は呪いに侵されている」
「…………それは、どんなものなの?」
「大したものではない。精々が、我がソウルに収められた武具の多くを使えなくなるのみ。あれらがなくとも、君達の力にはなれるだろう」
「それは、確かに戦力的には今のバーサーカーさんでも十分以上ですが……それ以外の害はないのですか?」
「無い、と言っていいだろう。それにな、マスター。マシュ殿」
バーサーカーは、その手を自分の胸に当てる。
そこに宿るソウルに触れるように、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「これは、誰かから戒められたものではない。
「えっ……!?」
「自分自身で!?」
呪いを自らにかけるなんて、何があったんだ!?
「最初は誓いだった。しかし、英霊として召喚されるにあたって逸話となり、効力を持つ呪いに昇華された。つまりは自業自得なのだよ」
「ほんと、人間って馬鹿よね。自分の首を絞めることを、好き好んでやるのだから」
「ああ、私はとても愚かだ。必要以上の力は持ちながら、己を縛ることでしか保てない……とても、英雄や神と呼ばれる器ではない」
その言葉は、冬木で出会ったあの時にも聞いたもので。
もし呪いが、自分に戒めた何かがその理由なのだとしたら。
俺は、藤丸立香は……
「私は所詮、遺物以上の何者でも」
「英雄だよ」
「……マスター?」
声を、張り上げる。
まっすぐにバーサーカーを……そのスリットの奥にある、彼の瞳を見るつもりで。
「誰がなんて言おうと……たとえ、貴方自身がそうでないと言っても。俺にとってバーサーカーは、確かに英雄なんだ」
「……君は…………このような私を、そう呼ぶのか」
「何度だって呼ぶ。貴方は、英雄だ。他でもない、藤丸立香の、一番の大英雄なんだよ」
思い出す。
あの時、あの瞬間。
目に見えた死を、打ち払ってくれた彼の後ろ姿を。
あの日から、俺の思いは色褪せてはいない。
「……私も、そう思います」
「マシュ……」
「オルタさんを前にして挫けそうになった時、バーサーカーさんの激励が、私を奮い立たせてくれたんです」
彼女はぎゅっと、胸の前で拳を握る。
その手をもう一方で包み込んで、掛け替えのない思い出を抱きしめるように。
心からの想いがこもった微笑みで、バーサーカーを見てくれた。
「私が挫折を、死を選ばずにいられたのは。今先輩の隣に居られるのは、貴方という英雄がいたからです、バーサーカーさん」
「………………」
「だから、どうか恥じないでください。貴方はどんな英傑にも見劣りしないと、マシュ・キリエライトが断言します」
…………あぁ、本当に。
なんて綺麗な目をしているのだろう、この
「…………私は」
「お気が晴れましたか、灰の方」
「ルーソフィアさん」
いつの間にかやってきた彼女は、柔らかく微笑む。
そしてバーサーカーの手を、寄り添うように両手で包んだ。
「灰の方。彼らでも足りないのであれば、私が貴方の素晴らしさを語ることにいたしましょう」
「…………いいや。それは少々、気恥ずかしい」
大きな手でルーソフィアさんの手を握り返し、彼は踵を返す。
怒っただろうか。不安に思ったその時、彼は顔だけこちらに振り返る。
「見張り台に行ってくる。もし敵を見つければ、誰より早く撃滅してみせよう。貴公らの仲間として、な」
「「っ!」」
「では、失礼する」
甲板を蹴り、バーサーカーはメインマストの上へと跳んでいった。
俺達は顔を見合わせて、互いの笑顔を確認し合う。
「まったく。とんだ茶番だこと」
「みんな、なかよ、し?」
「そうね。これだから人間は」
いつかの日。
彼の抱える
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