人気の無い座敷部屋の中二階にて、夜舟は佇んでいた。
広げた風呂敷に、一滴の染みが広がっていく。
夜舟は風通しの良い軽装にも関わらず、汗に濡れていた。日が落ちたというのに、未だ軽い眩暈を覚える暑さだった。しかし、昼間のあの喧しい蝉の鳴き声から解放されただけでもまだましというものだ。
今まで、虫の音など耳に入ることなどなかったのだ。……それだけではない。普段なら気にもならない些細な事に苛立ち、常に力の抜き所がない始末だ。
原因は明白である。先延ばしにしてきた問題が、今になって突きつけられたからだ。その悪夢はいつか現実となって降りかかる。それを分かってはいても、夜舟は放置せざるを得なかった。
「秋人よ、お主は鏡華を愛していたのであろう。それでもそちらへ連れてゆこうとするか」
夜舟は秋人という人間を思い出してみる。涼しげな品の良い顔立ちに似合わず、底知れぬ情熱を胸に抱く男。秋人は民俗学者としての探究心からこの地に足を踏み入れ、久世に受け入れられた。夜舟には目論見が有ったのだ。鏡華と当主の合性を考えると、さらなる跡取りが必要だった。
秋人に鏡華を差し向けた夜舟はすぐに事が運ぶと思っていた。秋人は久世随一の美貌を持つ鏡華とすぐに関係を持つだろうと踏んでいたからだ。しかし鏡華の方はまんざらではないようだったが、肝心の秋人がよほどの朴念仁なのか、鏡華に一切手を出そうとはしなかった。
先に籠絡されたのは鏡華の方であった。秋人は鏡華そっちのけで久世の地の検分にのめり込み、状況は芳しくなかった。……が、そのうちに鏡華の積極的な姿勢に秋人も次第に心を開き、惹かれていく様子を見せた。
かくして二人は恋仲となり、秋人との子を鏡華は腹に宿した。来た時とは別人のように、その頃の秋人は本当に鏡華を愛していたようだった。
「……上手く行かぬものだ。別の道を与えてやろうとすれば、裏目にでよる」
誤算だったのは、鏡華の秋人への想いだ。立場を越えた愛が鏡華の中に芽生えるなど想定の範疇外のことだった。鏡華も久世の人間だ。男性禁制を念頭におけば、別れは必須である。それを分かっていてなお、鏡華は秋人を深く愛してしまったのだ。
夜舟は目の前に置かれた物言わぬ秋人の遺品をじっと見つめる。ここが久世でなかったら、秋人を快く鏡華の夫として迎え入れていただろう。最後に交わした言葉は、鏡華への情熱に満ち溢れていた。
結局腹の子が男子であった為、後に何人かの男を鏡華にあてがうことになってしまったが、その中で秋人は唯一認めた男である。
「ままならぬものよ。……人の想いというものはな」
秋人の件が発端となり、鏡華は今、その心に柊の兆候を見せている。夜舟の経験上、鏡華はもはや手遅れだった。
……十数年前の冬。秋人を迎え入れていなければ、鏡華の人生にはまた違った未来があったのかもしれない。
今宵も、深々と雪が降る。
例年に違わず冬に閉ざされた久世家周辺の山々において、唯でさえ少ない人々の往来は今やぱったりと途絶えている。にも拘わらず勇みよく足を運んだ柏木秋人は、この地に伝わる伝承や久世の風習についての研究の為、久世家当主である夜舟に接触を図った。
下調べの段階でこの久世家が他を寄せ付けぬ排外思想を持つ集落だと把握していた秋人は、一筋縄では行かないだろうと久世へ潜入する為の口実に道中頭を悩ませていたが、堅苦しい言い訳を告げる間もなく意外にもすんなりと夜舟からの承諾を得る事となった。
噂に反した待遇に引っかかりを感じてはいたが、ともあれ晴れてずっと着手を望んでいた現地民俗の調査の開始に至ったのである。さらに意欲の増した秋人は、一心に久世家伝統の解明に取り掛かることにした。
そうして雪解けまで社の一室を借り、夜舟から与えられた久世の文献を日々読み耽っている。はらりと紙を捲り、記述された新たな情報を頭の中で整理しながら記憶していく。今日もその繰り返しであった。
「もう止めにしないか」
背中越しに、秋人は鏡華の気配に意識を向けた。
「私はこれでも学者の端くれだ。物事の本質を見抜き、深く追究することを性分としている。それは人とて変わらない。君は本意ではないのであろう」
目を通していた書物に一端区切りをつけ、秋人は文机の隅に置かれた何冊かのそれと同じように上に積み上げた。
「……そのような事はありませぬ」
少し遅れて否定を示す鏡華の声には、僅かな緊張の色が見えた。
「急を要している所から察するに、跡継ぎが目的と思われる。なれば焦る必要はない。君が男に困る事はなかろう」
秋人が久世に滞在してからというもの、鏡華は常に片隅に付き、毎晩こうして秋人の部屋に入り浸っている。客人に対しての物珍しさということもあるだろうが、それにしてはどこかよそよそしいのだ。それに加え、ここ久世家では男性禁制の習性があるらしく、男の姿が一切伺えない。となれば、子孫を残す手段としてこのような計らいが行われているのも安易に推測出来た。そして鏡華は夜舟の実娘ということだ。この積極的な様子には裏があると見てほぼ間違いはなかった。
「しがらみがあるのであろうが、自分を大事にしたまえ」
鏡華の必死な姿勢に傷つけまいと学者という理由を口にしたが、鏡華の仕草や表情によく気を配れば誰にでも気づきそうなものだ。鏡華の意思ではないことが分かっていても、その魅力を前にして大抵の男はそのまま馴れ合ってしまうのだろう。しかしその負い目を見て見ぬふりが出来るほど、秋人は性根が腐ってはいなかった。
「しがらみなど……。一目見た時からそのお姿が頭から離れぬのです」
「確かに長旅で少々不精であった。申し訳ない」
秋人が鏡華の方へ向き直り、そう返すと、鏡華は驚いた表情を浮かべた後、押し殺すようにくすくすと笑いを漏らした。
「冗談を言われる方なのですね」
「良い笑顔だ。そちらの方が君によく似合う」
不敵に色仕掛けをしてくる鏡華は、事情を知らぬ者から見れば魔性とも感じられるのだろうが、数日共にした秋人には鏡華がそのような人間ではないことは分かっていた。根は優しく、実に奥手な女性であると。
「君は君のままで良いのだ」
秋人はそう優しく諭した。先ほどの邪推を一先ず置いた他意のない発言だったが、さらに大きな眼で秋人をまじまじと見る鏡華から察するに、その言葉を深く受け止めた様相だった。
「……変わった方。秋人様のような男性に会ったのは初めてにございます」
「違いない。そうよく言われるのだよ」
秋人に視線を残したまま、鏡華は少し呆けた顔を浮かべていたが、やがて頭を傾け、その長い黒髪を地に落とした。
「失礼いたしました。私が思っていたより秋人様はずっと誠実な方であられるようで、お恥ずかしい限りです。愚行をお許しください」
「いや、謝るのは私の方だ。私こそ分かっていながら、今の今まで君に演じさせてしまっていたのだ」
「どこまでもお優しい殿方ですね。……今日はこれでお暇させて頂きます。もう当主の娘がここに来ることはないでしょう」
鏡華は意味深な言い回しを残した後、静かに喜色を表しながら自室の床へと帰っていった。
気づけば大分夜も更けている。しかし、この上なく目が覚めてしまっていた。秋人は睡魔に襲われるまで、書物の続きを読むことにした。
もう何冊もの文献を読み漁ったが、どうにも妙であった。確かに綺麗にまとまった文献である。しかしこれだけでは何代にも渡り未だ強く根付く因習となり得る気がしなかったのだ。この痒い所まで届くような、説明に説明を重ねた文章。まるでこちらを核心へとたどり着かせない為の説示にも見て取れた。
常人は騙せても、学者は騙せないのだ。
どこかに綻びがあるのではないか。秋人は懐疑の心を宿しながら、部屋に光が差し込むまで同じ書物を何度も読み返していったのだった。