零 -刺青ノ聲-   作:柊@

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   -民俗学者(ミンゾクガクシャ)- 三ノ刻

 鏡華の懸命な看病があってか、秋人の風邪は長引くことなく快方へと向かっていった。

 まだ咳は出るが、もう完治したといっていいだろう。

 

 しかし、これを境に一変してしまった己の在り方に、秋人は苦悶していた。

 民俗学という一生涯をかけると決め込んだ学問において、一時の気の迷いなのか、現在その熱意は薄れている。病み上がりということもあり、そのうち気持ちが追い付くだろうと気長に構えていたが、奮起の意を込め、再度文献に目を通そうと、取り巻く久世の文化に触れようと、一向に込み上げてくる想いはなかった。

 

 それどころか、別の感情が秋人の意思とは無関係に思考を支配しようとしてくるのだ。どうやらこの患いは長期に渡るものらしい。はっきりいって、風邪の方が断然ましであった。これ程あらゆる事柄に対する意欲を根こそぎ奪われる病にかかったことなど、早々になかった。

 

 久世鏡華。それが秋人の心を壊してしまった張本人である。理屈で動く秋人には今まで縁のなかった想い。秋人の中で、日に日に鏡華の存在が大きくなってゆく。

 

 鏡華に会うことがなければ、こうして募ることもないのかもしれない。しかし情事の条件を飲んだ鏡華は夜舟から完全に許可が下りたようで、再び過ちを犯さぬ様監視は付いているようであったものの、これまでと変わらず毎日秋人と顔を合わせていた。

 

「最近その艶やかな黒髪によく目を奪われる。その心のように、とても美しく思う」

 

 会話に一段落がつき、鏡華が雅やかに茶を啜っていた所だった。

 

「……そのような事を言ってくださるとは、思いもしませんでした」

 

 秋人の不意の一言に、鏡華は湯呑を置く事も忘れ、膝の上で抱えていた。

 

「私も世の男達と何一つ変わらぬ生き物だ。下心がないわけではない。しかし私はそれ以上に、物事や事象の真相を紐解くことに至福を覚える人種なのだ。だからいつも女性は二の次になってしまう」

 

 そう言って秋人は大きく頭を振るう。

 

「……らしくない。こんなことは初めてだ。君の事を考えると、あれ程熱中していた仕事が手に付かないのだよ」

 

 鏡華はいつも秋人の話を熱心に聞いていたが、ここ一番とばかりに耳を傾け、興味津々の様子だった。

 

「それも秋人様に違いありません」

 

「そうなのだろうか。なんだかもどかしい気分だ」

 

「無理をなさらずに、秋人様は秋人様のままで良いのです。在りのままの自分で良いのだと、そう貴方が教えてくれたではありませんか」

 

 にこりと笑う鏡華に、秋人は面を食らった。

 

「これは、参ったな。しかし、このような情熱を向けられては君も迷惑だろう」

 

 こうして対面している間にも、その身勝手な欲念に翻弄され続け、秋人は額に手を当てる。これまでの経緯を考えれば拒絶されるのは当たり前の事だったが、予想に反して鏡華の表情は綻んでいた。

 

「生きてきて今この時以上に、幸福を感じたことはありません」

 

 それが本心であることを語る様に、鏡華はとても嬉しそうに満面の笑みを秋人に返す。秋人はたったそれだけで、心が満たされていくのを感じた。今まで他者から向けられたあらゆる感情を、正面から受け止めたことは皆無だったかもしれない。己にとって必要であるかそうでないかだけを考え、ずさんに扱ってきてしまった。そんな自分が相手に何かを要求し、見返りを求めるなど都合が良すぎるというものだ。秋人はふと我が身を振り返り、とても後ろめたい気分になった。

 

「……私は幸せ者だな。こんな薄情な人間だというのに、人が人生で一度も巡り合えぬかもしれない良縁を、なんの努力もせず得てしまったのだ。辛い思いをさせてしまってばかりであった。許してほしい」

 

「謝らないでください。本当に、そのように感じたことなど一度たりともないのですから」

 

「有難う。鏡華、これからも宜しく頼む」

 

「はい、喜んで」

 

 柔らかな空気が秋人と鏡華を包み込む。そうして秋人と鏡華の仲は急速に深まっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 久世を深々と押し隠していた雪は解け始め、もうすぐ春が訪れる。

 そんな時期になって、鏡華にある兆候がみられていた。それを聞いた秋人は、真っ先に鏡華の部屋へと駆け込んだのだった。

 

「鏡華、体に大事はないか」

 

「はい。どうやら間違いなく、私のお腹には秋人様の子供がいるようです」

 

 つわりがあったのだ。久世は女性ばかりで構成されているだけあって、詳しい者は沢山いた。鏡華の症状を見定めた結果、妊娠は確実のようであった。

 

「そうか。とてもめでたいことだ」

 

 秋人は感極まった様子で、非常に喜んだ。普段顔に出さない秋人がこんなにも感情的になるのは、二つの理由があったのだ。一つは純粋に鏡華との子を授かったこと。もう一つは、これで鏡華が誰と分からぬ男の相手をしなくて済むということだった。今や秋人は鏡華を深く愛し、夜舟の出した条件を秋人が飲むことが出来なくなっていた。秋人が滞在を許されたのは冬の終わりまでであった為、これが最後の転機だった。

 

「……」

 

 しかし、肝心の鏡華の表情は暗く、黙ったままである。心なしか、秋人にはむしろ悲しげに見えた。

 

「どうした。君も望んでいたではないか」

 

 明らかに鏡華の様子がおかしかった。何も語らない上に、その瞳にうっすらと涙を浮かべているのだ。

 

「一体どういうことなのだ。やはり気分が優れないか」

 

「そうではありません。そうでは、……ないのです」

 

 勿体ぶる鏡華を秋人は怪訝に思った。その理由が全くもって分からなかった。分かち合えるはずだったこの喜びが、鏡華からは感じ取れないのだ。互いの感情が、なぜかすれ違っているようだった。

 

「……秋人様、ここからお逃げください」

 

 ようやく真意を紡いだ鏡華の言葉に、秋人の理解は遅れた。

 

「それはなぜか」

 

「秋人様の身に危険が迫るからです」

 

「……」

 

「ここはそういう所なのです。……当主様はきっと久世に深入りした秋人様をお許しにはならないでしょう」

 

 秋人は鏡華との時間に浸る内に大事な事を忘れていた。やはり、学者の勘は当たっていたのだ。鏡華が直接口にしなくても、それがどういうことなのかは明白であった。夜舟の当初の狙いが盤石となった今、もはや秋人は用済みということなのだ。

 

「……なるほど、薄々気づいてはいた。しかし、そうだとしても君を置いてはゆけぬな」

 

「その気持ち、とても嬉しく思います。けれど今の私は足手まといにしかなりません。それに、ここには残していくわけには行かぬ、私を慕ってくれている者達がいます」

 

「では、私が当主様に上手く取り入ることは出来ないか」

 

「……無理です。当主様にとって、掟は絶対なのです」

 

 他に秋人がどのような案を出そうと、鏡華はその一点張りだった。どう足掻いても夜舟に狙われるのは避けられぬ運命のようであった。

 

「……分かった。私はここを出よう」

 

 万策尽きた秋人は、そう言う他なかった。

 

「はい」

 

 鏡華は自ら望んだはずの答えに、寂しげに小さく頷いた。

 

「勘違いしないでくれたまえ。私は君を諦めたわけではない。先に待つ君との未来の為に、一旦私はこの地を去るだけなのだ」

 

 鏡華は俯いた顔を秋人に向けた。

 

「ほとぼりが冷めた頃、君と赤子を迎えに来よう。その時までに、身の回りの準備をしておくように」

 

 秋人の言葉を受け取り、鏡華の表情は徐々に明るさを取り戻していった。

 

「待っています」

 

 鏡華の立場を考えれば、それは実現することはないのかもしれない。しかし、秋人のその想いだけで、鏡華の心を救うのには十分だった。

 

「……では、今夜にでもここを発ってください」

 

 秋人が現状を受け入れることもままならない中、鏡華はさらに急きたてた。

 

「急だな。それ程久世は徹底的であるということか。しかし、私が易々と抜けられる程、警備は容易くはあるまい」

 

「心配しないでください。私が助力致します」

 

「それは心強いな」

 

 数か月とはいえ久世に身を置いた秋人には、夜舟の目を掻い潜るのがいかに骨が折れることであるかを痛感していた。実際鏡華の手助けがなければ、限られた区画にしか足を運べない有様だったからだ。その鏡華の協力を得ることが出来るとするならば、ここから逃げ出すことも現実味が増すというものだった。

 

「秋人様は人に見つからぬ様、ただ大門に向かうことだけを考えてください」

 

「了解した。それで、君の助力とは何か」

 

「久世の大門のすぐ傍に、門番の為の休憩小屋があります。そこに私の使いの者が火を放って混乱を誘います。見張りが気を取られている隙に、秋人様は自力で門を開けた後にここからお逃げください」

 

 中々に目立つ計画だった。確かにここを出るには大門をどうにか潜り抜けなければならないが、秋人としては、夜舟が鏡華の関与に気づいてしまうのだけは避けたかった。

 

「そんな大事になれば、君や使いの者に疑いがかけられよう」

 

「むしろ下手に門番に接触を図ることの方が危険です。これが一番の良策なのです。使いの者が上手く門番を欺ければ証拠を押さえられることもなく、誰も罰せられることもありません」

 

「……不審な人物が上がるとすれば、姿を消した私だけということか」

 

「……そうなります。申し訳ありませんが、ここからお逃げになる以上、それは避ける事が出来ません。表沙汰に協力者を出してしまえば、犠牲が増えるだけなのです。私は私の為に動いてくれる者を、傷つけたくありません……」

 

「いや、私としても願ったりだ。その後の君達が心配で仕方なかった」

 

 秋人は暫くの間久世を離れなければならない。鏡華の身体は勿論のこと、秋人自身も久世から鏡華を連れ出す策を考え、準備をする時間が必要だった。

 

「どうか、ご無事で」

 

「必ず戻ってこよう。……必ずだ」

 

 今日という日が終われば、次に会えるのは数年後になるだろうか。秋人は別れの前の鏡華とのひとときを、まだ見ぬ我が子を思い浮かべながら噛みしめた。

 

 

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