世間から目をはばかり、謎に包まれた久世の宮。
その当主に君臨する夜舟の信仰心は、計り知れないものがある。必要とあらば肉親を手にかける事さえ厭わない程だ。しかしそんな夜舟とて、初めからそのような冷徹無慈悲な人間であったわけではない。当主の座に就く前、夜舟は娘の鏡華のように他人を慈しむ心を持った優しい少女だった。ある悲劇をきっかけに、夜舟は己を見つめ直し、揺るぎない決意を固める。
……それはまだ夜舟が零華と年端の変わらぬ時代の話だ。
社の境内の裏手側に、いくつかの大きな庭石がある。周りの木々が日差しを遮るその場所は、少々暑くなってきた今の季節には過ごしやすい。おまけに人も滅多に来ないとくれば、夜舟にとってこの上ない隠れ処だった。
夜舟は適当に見繕い、最も座り心地の良さそうな庭石の表面を手で軽く払った。小さな土煙が舞い、近くの花で羽を休めていた蜻蛉が身の危険を察して機敏に飛び立っていく。そんなありふれた光景を目にし、夜舟は卑屈に思う。……虫ですら、自由なのだ。そこに居る事も、逃げる事も、と。
夜舟は目立つ汚れが落ちたことを確認し、庭石に尻を乗せた。久世の束縛から解放され、一時の緩やかな時間が訪れる。蒼く澄み渡る清涼な空を見上げ、夜舟は物思いに耽った。
どうにか出来ると思っていた。曲がりなりにも自分は当主の血を受け継ぐ者。まだその地位に付いていないとはいえ、権限の一端は既にこの手中にあると高を括っていた。夜舟は高慢であった自分に嫌気が差す。
……母様は冷たいながらも、儀式に対しての姿勢だけは邪険に扱うことはなかった。婆様だって、自分には素晴らしい当主の器があると褒めてくれていた。
だから夜舟は自信を持って母であり、現当主である
なぜ、桜花は頑なに公平な選定を拒んだのか。適任者は他にも沢山いた。あえてそうしたのは、ただ一つの言いつけを守らなかった自分へのあてつけなのか。
夜舟はしばし視界へ入る鳥の羽ばたきを目で追っては、そんな自問自答を繰り返していた。
「夜舟、やはりここにいたんだ」
そこで初めて足音を鳴らし、突然社の角から見慣れた少年が姿を現す。全くと言っていいほど気配を感じなかった夜舟は意表を突かれ、体をびくりと跳ね上げた。
「……天涯、いつも脅かせるなと言ってるでしょう」
「仕方がないじゃないか。こんな所をうろついてることがばれたら、酷い仕打ちに合ってしまう」
神出鬼没の主は幼馴染の天涯だ。おそらくまた大工の修業を抜け出して来たのだろう。本人は暇つぶしのつもりなのかもしれないが、夜舟にとってはいい迷惑だった。ただでさえ侍女の目を盗んでここに来ているというのに、こんな場面を見られてしまっては言い訳がきかなくなる。
久世で唯一の男手である宮大工達は、宮下の村の小さな一画で細々と暮らしている。久世の掟の下、仕事以外でその区域を極力出てはならず、他の女性らと必要以上の干渉を避けなければならなかった。
だからなおのこと、当主の血族である夜舟が気軽に宮大工に会うなど許されることではない。それがどうしたことか、今や天涯の勢いに押され、この有様だ。初めは公の場で顔を合わせる程度のものだったが、いつの頃からかこうして隠れて会うことが当たり前になっていた。
「だったら来なければ良いだけの事」
夜舟は冷たくあしらった。
「つれないな。今回ばかりは本当に君を心配して駆けつけたというのに」
「……心配事など、抱えていないわ」
眉間に目いっぱい皺を寄せて、夜舟は言う。その説得力のない顔に呆れてか、天涯は小さくため息を漏らした。
「そんなはずはない。いつも楽しそうな君なのに、
久世楓。そう、本来ここにいるはずだった少女。まさしく夜舟の悩みの種だった。
「楓が巫女になったのは、君のせいじゃない」
「どうしてそう言い切れるの」
「楓は元々この村の子供じゃないんだ。分かるだろう」
天涯の言い分は最もだ。巫女は基本的に身寄りのない子供であることが条件である。それはこの世に未練を残さない為。久世の女達が宮大工との子を儲けない理由の一つでもあった。確かに、今その条件を満たすのが楓だけだったなら納得もいっただろう。
「まだ村の外から連れられた子供は沢山いる。にも拘らず楓が巫女に選ばれてしまった。私が仲良くしていたせいで、母様がお怒りになったとしか思えない」
「そうかもしれない。けれど、今回選ばれなくてもいずれ楓はそうなる定めだったんだ」
いつか楓は巫女に選ばれて、別れの時が来る。楓が久世の養子として引き取られた時、夜舟はまだ物心が付いておらず、桜花の言葉を理解していなかった。常日頃、楓とは仲良くしては駄目だと言われていた。桜花はこうなることを見越して、身近になる楓との仲に苦言を呈していたのだろう。
「……そもそも本当に刺青の儀式は必要な事なのか、私にはそれすら分からなくなってしまった」
「気持ちは分かる。けど、巫女様の言葉が何よりの証拠さ。きっと疎かにすれば、大きな災厄に見舞われてしまう」
刺青の儀式が久世の長い歴史から消えずにいるのは、その巫女の奇跡を目の当たりにするからだ。参拝者の心の病を癒し、自らの痛みとして背負う。ごく一部の者しか知りえないが、その後巫女はまるで参拝者本人であるかのような苦しみを見せる。何も知らないはずの巫女が、取って代わったかように参拝者の無念を悲痛に語り出す。その姿を見て、久世の教えを信じぬ者はいなかった。
「破戒……。巫女に刻まれた柊が、あの世の淵から吹き荒れる瘴気と共に現世へ還ること。そう私達は伝えられてはいるけれど、実際の所それがどういったものであるのかは誰も知らない」
「それはそうだ。その時は久世が滅ぶ時だ」
「貴方は見たこともない事を信じられるの」
「信じる信じないの問題じゃない。僕らはそうある為に生まれた一族なんだ。久世の掟に従うのは、はなから決められた運命というだけさ」
まるで久世の祖先に責任を押し付けるかのような言い草を、天涯は述べた。いつもそうだ。天涯は不満を漏らすことはないが、自身のあらゆる行動に対して自主性がなかった。夜舟にはそれが掟に対する無言の反発のように見え、そこに何か私怨ようなものを感じていた。
「考えても仕方がない。なるようにしかならないんだ。今日楓が初儀式を迎える事も、誰にも止められなかった。それは君であってもだ」
天涯の言うとおり、間もなくして楓の肌に柊が刻まれる。夜舟は間に合わなかったのだ。巫女は一度背負ってしまえば、もう役目を下りることは出来ない。奈落の底で眠りにつくことでしか、柊を鎮める術がないからだ。
「……楓は巫女に向いてない」
「きっと大丈夫さ。君が思うより楓は芯が強い女の子なのだから」
さらりと言う天涯を見て、付き合いの浅い天涯に何が分かるのだろうと癪に障ったが、それが自分への気遣いだと知っていた夜舟は口を紡いた。
楓は臆病で、気が弱い。人間どころか動物の死にさえ心の底から悲しんでしまうような、泣き虫な性格をしている。巫女の適任者とはとても言い難かった。……果たして楓の心は柊に耐えうるのだろうか。
夜舟に不安がよぎった。せめて、戒の儀よりも早く楓を失ってしまうことにだけはならないようにと、一心に願うばかりだった。
……その日、 予定通り儀式は遂行され、楓に柊が刻まれた。
参拝者の想い人の女性は山から転落したそうだ。発見された遺体は落下時の衝撃の凄惨さを物語るが如く、見るも無惨な姿だったという。