楓の刺魂の儀を終えた翌日。決められた日程の半分を終えた夜舟は、足早に桜花の下へと向かってる途中だった。よもや信仰や知識に抜かりはなく、当主としての地盤を徹底的に固めた夜舟に残された課題は実践のみとなっていたが、未だ桜花の許可は下りていない。だから、ここ最近はもう必要のない無駄な修練を再度繰り返す日々だ。だとしても夜舟の志は高く、例え簡単な基礎修練だとしても常に手を抜くことはなかったが、今日はどうにも集中力を欠いていた。
純粋にその後の楓の容態が気がかりなのもあるが、夜舟の心をこうも掻き乱すのは、朝に耳に入った侍女の噂話だった。詳細は分からないが、宮内で何か問題があったらしい。この時期にそんな事を聞かされては嫌でも頭が楓と結び付けてしまい、さすがの夜舟も気が気でならなかった。夜舟は合間を見て桜花に尋ねようと探してはいたが、桜花はその件に追われているのか多忙のようで中々捕まらなかった。
仕方なしに桜花の専属の侍女に聞いてみた所、どうも口止めされているようで、明確な解を得られない。これでは拉致が明かぬと感じた夜舟は直接話を伺う為、こうして桜花の足取りを追っているというわけだ。情報を伝い、最後に目撃された境内の離れにある蔵を目指している。
ここに来るまでどこか異質な騒々しさを感じていた。廊下をすれ違う久世の重役を担う者達の顔色は悪く、刺青の儀式に関係した難事であることに間違いはなさそうだった。
夜舟は草履を履き境内に出ると、やはり蔵の扉は開錠されていて見張りが待機しているのが見えた。儀式で使う血の回収にわざわざ桜花が出向くことはない。だから新たな素材の調達が行われたのだろうと夜舟は考えたが、蔵と玄関を繋ぐ目に付いた痕跡がその憶測を否定した。
血痕だった。赤茶色に変色し凝固し始めている所からして、零れ落ちてから幾ばくか時間が経っているようだ。なぜか大門のある村側からではなく、社側から点々と続いている。どこからか持ち帰ったのならば簡易な処置を施してから運ぶはずであるし、一旦社へ持ち込む意味も分からない。実に不可解だったが桜花に会えばそれもすぐに明らかになるだろうと、夜舟は一端疑念を振り払い、血の軌跡を辿る様に蔵へ赴いた。
「夜舟様、お待ちを」
見張りが夜舟に気づき慌てた様子で侵入を阻もうとしたが、夜舟はお構いなしに無理矢理押しのける。蔵の中では桜花と従者達が何やら神妙な面持ちで話し合いをしていた。
「母……、当主様」
呼びながら目に付いた、桜花達の足元に置かれた真っ赤に染まる大きな布を被せられた何か。死体であることは確かだろう。しかし、盛り上がった形があまりに不自然だった。
「……動物、ですか」
規則性の無い複数の隆起と円に近い輪郭から、人を寝かせた状態ではないのは明らかだ。上空から見た山脈ような歪な形をしている。大きさを加味し無理矢理当てはめるとするならば、蹲った大人と言った所であろうか。そうだとしてもあまりに奇形であり、人としての均衡が取れていない。かといって発言してはみたが、なんの動物であるのか予想もつかず、その用途も思いつかなかった。
「夜舟、どうしてここへ来たのです」
桜花は問いかけを無視し、鋭く睨みを効かせて夜舟を責め立てた。
「申し訳ありません。今朝方、妙な噂を耳にしまして、真相を聞きに参りました」
「大したことではありません。貴方は知らなくて良い事です」
夜舟に対する常套句で、桜花は即答した。桜花は例外的な問題が発生した時、どんな些細な事であろうと夜舟から儀式を遠ざける節がある。桜花の専属の従者が口を割らない時点で察するべきだったのだ。
「分かったのならば社へ戻りなさい」
まるで取り付く島もなかった。しかし、夜舟はこのまま引き下がることは絶対に出来なかった。いつにも増した桜花の頑なな態度から、いよいよもってこの件が楓の初儀式の線で濃厚であると感じられたのだ。
「あの」
「まだ何か」
桜花は身体をぶつける勢いで夜舟の前に一歩踏み出し、威圧をかける。桜花は夜舟に対し普段から似たような態度を見せるが、今は相当に苛立っているようだった。
「巫女様の様子は如何でしょうか」
「変わりありません」
桜花は短く答えた。何か言わなければと咄嗟に口に出してしまったが、なんとも無意味な質問をしたものだと夜舟は思った。その真偽は定かではないが、こうした態度に出る桜花が真実を口にするわけがなかった。
「楓に会いたいですか」
「えっ……」
全く予想外な展開に、夜舟は返答に詰まった。性格上、もしもその気がないなら、そんな問いかけをわざわざ桜花がすることはないだろう。となれば少なくとも楓は会わせられる状態ではあるのだということだ。夜舟は確かに楓の身が心配だったが、その桜花の言葉に楓に対する安堵よりも驚きの方が勝っていた。なぜならば、これは夜舟が儀式の最中である巫女に対面する許可を、桜花が初めて出したということだったからだ。
「はい、会いたいです」
勿論答えは決まっていた。楓の顔を見れることもそうだが、この機を逃せばいつまた桜花の許可が下りるか分からない。僅かながらも桜花に認められたということ。これは当主としての大きな一歩だった。
「いいでしょう。付いてきなさい」
桜花は周囲に少し目を配ってから、踵を返した。
「当主様、この遺体はどうなさせたら宜しいですか」
夜舟を連れその場から離れようとする桜花に、従者の一人が慌てて声をかけた。
「とりあえずはこのままなるべく崩さずに保管しておきなさい。くれぐれも丁重に扱うのですよ」
「承知いたしました」
やはり従者は遺体と言い、桜花は崩さず、と言った。原形を留めていない程、損傷が激しいということなのか。それを聞いても、あの布の裏に人の遺体があるとは到底思えなかった。
「……夜舟。貴女は当主として正しい道を選び、一つの答えを出さねばなりません」
夜舟が遺体に気を取られる中、不意に思わせぶりな言葉を桜花は口にした。それは夜舟に言い聞かせたというよりも、そうあってほしいという願いが漏れてしまったように、か細い声だった。
「分かっているとは思いますが、楓の肌にはもう柊が刻まれています。心に隙を見せぬ様に」
今度はしっかりとした声調で夜舟にそう念を押した後、夜舟が付いてきているかも確認せず、桜花は忙しなく蔵から出て行った。夜舟はすぐに桜花を追いかけようとしたが、従者達がゆっくりと遺体を下に敷かれた布ごと持ち上げようとした姿が横目に入った為、足を止めて振り返る。その手つきは慎重そのものであったが、それでも隙間からぼとぼとと中身が滑り落ちていったのだ。
横から生々しい桜色の太い管がぶらりと垂れ下がり、骨や皮が雑に混ざり合ったどこの部位かも分からぬ真紅の肉片が、無残に地面を転がった。
「夜舟様、早く当主様の下へ」
夜舟の視界から遺体を隠す様に、従者は間に身体を割り込ませた。が、時既に遅く、夜舟の目にはその光景が焼き付いてしまっていた。……一体何があったというのだろうか。こんなもの、儀式に使える代物ではない。それに、ちらりと覗かせた遺体を包んでいたであろうずたずたの着衣は、儀式関係者の正装であった。つまるところ、これは身内の死体ということである。人を形成する赤系統の極彩色が、夜舟に猛烈な吐き気を誘い出した。
「うっ……」
死体など見慣れているのだ。そんな耐性すら物ともしない程、酷い有様だ。あれはどのような外的衝撃を受け、どれ程の痛みを持ち主に与えたのか。想像しただけで背筋が凍り、恐怖に心が支配された。
急いで楓のいる吊牢の間へ行かなければならないが、桜花の機嫌を気にしている余裕もない程に気分が悪い。夜舟は喉まで差し掛かった逆流を必死に堪え、口元に手を当てながら蔵を後にした。
吊牢の間のある廊下で、桜花は待っていた。
「夜舟、あれを見たのですか」
桜花は夜舟の顔色に悪さに気づいたようだ。そのせいか、到着の遅さを咎める様子はなかった。
「はい」
「……そうですか」
出来れば知られたくなかったのだろう。あの死体を見れば、夜舟でなくても儀式に関する何らかの異常事態だということが分かってしまう。あれが人の手によって出来上がった死体とは、到底考えられなかった。
「この件は貴方が介入して良い問題ではありません。……例えどんな決断を私が下そうと、貴方は耐え切らねばならないのです」
その桜花の口振りから、夜舟はすぐに悟った。やはりこの問題の中心には楓がいる。そしてそれは時と場合によって、楓を流すことも厭わないという意思の現れなのだ。
「さあ、中へ」
桜花は襖を開き、夜舟を部屋へと促した。吊牢の間へ踏み入ると、部屋の中央の宙吊りにされた吊牢の中で、楓が一人寂しそうに膝を抱えていた。
「夜舟ちゃん」
楓は夜舟の姿を確認するやいなや格子に飛びつき、他者の想いを乗せた顔で飛び切りの笑顔を見せた。
「楓、特に変わりはない様ね」
夜舟のよく知る楓だった。唯一違う点は、右の頬と左目の周りに刻まれた柊である。
「うん。ただ、やっぱり聲が聞こえるようになったの」
参拝者の心の聲。巫女の意識と同調し、脳内で反響するようにこだますると聞くが、その感覚は柊を刻んだ本人しか知りえない。今はいいが、これが戒の儀間際になれば数多の聲に心を支配されることになる。最後まで正気を保てない巫女も少なからず見てきた。楓は最後まで楓でいられるのだろうかと、夜舟は改めて思った。
「……貴女に何もしてやれなくて、本当にごめんね」
楓が初儀式を迎えてしまった以上救う術はない。楓を巫女にさせまいと躍起になってきたが、桜花の意思の前にその力は及ばなかった。
「ううん、そんなことないよ。私は今まで夜舟ちゃんにいっぱい助けられてきたんだから」
「助けたわけじゃない。ただの気まぐれよ」
久世にも宮下の村にも居場所がなく、しゃがみ込んで泣いてばかりいた楓をいつしか放っておけなくなっていたのだ。
捨て子だった楓は寺院に拾われ、寺主が亡くなった後、行くあてもなく彷徨っていた。当然幼い子供が一人で生きられるわけがなく、飢えに死を待つばかりだ。そんな楓が久世の門を叩くのは必然だったのかもしれない。しかし、それはただの延命でしかなく、楓にとってどちらの死が幸せだったのかは夜舟には分からない。
あまりにも不憫で、同情してしまったのだ。生まれた時から死を決定づけられていた楓に。今思えば、当主という定められた道を行くしかない自分を重ねていたのかもしれない。
「これは恩返し。今度は私の番だよ」
夜舟はただ楓の話し相手になっていただけだった。結果としてそれは楓に辛く当たる久世の人間や宮下の村人から守ったことになるのかもしれない。夜舟が楓と親しくなり始め、それに迎合するかのように人々の態度も変わっていった。何人たりとも、当主の血族者に逆らうことは出来なかったのだ。
「こうしてお別れの時は来てしまったけど、夜舟ちゃんと共に過ごせた日々は本当に幸せだった……」
それは夜舟も同じだった。当主の娘というだけで敬遠され、親しい人間など一人としていなかった孤独を楓が埋めてくれていたのだ。
「私に居場所をくれたのは夜舟ちゃんだけだった。沢山の思い出を、ありがとう」
楓はほろりと涙を浮かべながら、にこやかにそう言った。ぐさり、と、胸に楔が打ち込まれたようだった。深く考えないようにしていた。……本当は気づいていたのだ。先に心が壊れてしまうのは楓ではなく、自分の方ではないのかと。常に当主の立場を問われ、重責に押しつぶされそうになっていた自分の前に現れた安らぎ。辛い時いつも隣で励まし、笑顔を振りまいてくれた楓。そんな楓が、いなくなってしまう。
夜舟の心は悲しみに震えた。楓が巫女であることを忘れて。
「楓……、私は貴女を失いたく……」
刹那。突然空気が張りつめた。ぞくり、と体内の神経全てを網羅するかのような激しい悪寒が全身を突き抜ける。夜舟は凄まじい重圧に、身も心も押しつぶされそうになった。
……目を離してはいなかった。いつの間に成り代わったのか。
眼前にいたはずの楓は瞬時に変貌し、この世ならざる者の姿を見せていた。頬に刻まれた柊は鱗のように硬化し、瞳には凶猛な捕食者の眼を宿している。さらに青々とした一匹の大蛇が、楓の足元から蜷局を巻きながらその肢体を這い上がり、肩からひょこりと顔を覗かせた。双方今にも夜舟を取り殺さんと、鋭く眼光を光らせている。
夜舟は身動き一つ出来なかった。まさしく蛇に睨まれた蛙だ。静止した空間に、夜舟の冷汗だけが静かに流れ落ちる。
このままでは、飲まれてしまう。そう僅かに後退の意思を向けた瞬間。大蛇が目にも留まらぬ速さで格子をすり抜け、夜舟の喉元をめがけて飛びかかった。
「気を強く持ちなさい」
獣の咆哮のような激しい喚声が、びりびりと辺り一面に響き渡る。その衝撃は大蛇を切り裂き、景色に無数の亀裂を生んだ。発したのは桜花である。
「夜舟ちゃん、どうしたの」
気づけばそこにあの化け物は存在せず、よく見た幼馴染の顔があった。
「……私は当主失格です」
油断してしまった。よもや次期当主である自分がこんな不覚を取るなどあってはならない。
「気に病むことはありません。未だに私でも囚われてしまうことがあります」
心底気落ちしていた夜舟に、桜花は意外な事実を口にした。
「本当ですか」
夜舟の目からして、母親である桜花は偉大で何一つ穴の無い完璧な当主として映っていた。しかしそんな桜花にも迷いはあり、完全に心を殺す事は出来ない人間だったということだ。見本となるよう、特に夜舟には心の弱さを隠し続けてきたのだろう。
「ええ。けれど当主たる者、己の力で捻じ伏せねばなりません。精進するように」
今の夜舟に足りないもの。それは何事にも動じない強い意志である。夜舟は桜花が巫女に楓を選んだ理由が分かった気がした。夜舟が真の当主になる為に必要な次の段階を、桜花は理解していたのだ。しかし、これは夜舟とってあまりにも辛い試練だった。
「もういいでしょう。そろそろ修練に戻る時間です」
桜花は再び襖を開け、夜舟を廊下へと連れ出した。
「夜舟ちゃん、またね」
「元気でね」
別れ惜しそうに見送る楓に、次の機会がある保障のない夜舟は、そう返す他なかった。
「……さて。貴女が柊に飲まれかけた時の楓は一先ず置きましょう。それ以外の楓の様子はどうでしたか」
襖を閉めた桜花は、すぐに夜舟を帰すことはせず、その場で立ち話を始めた。
「特に変わりはありませんでした」
「そう、楓は柊に蝕まれた様子もなく、至って正常なのです」
桜花は襖越しに楓を見つめるように目を細め、少しばかり顔をしかめた。
「今の楓の様子を心に深く刻んでおきなさい。非常に稀有な経験となり得るかもしれません」
今の楓の状態がよほど不服なのか、口惜しそうに桜花は言った。夜舟は漠然とだが、この現状がうっすらと見えてきていた。確かにこの問題は一筋縄では行かぬようだ。桜花の認識としても先程の異常な死体は儀式の代償と捉えているのだろうが、おそらくその原因を未だ特定出来ていない。楓の様子から紫魂の儀が上手く行かなかった形跡がないからだ。夜舟も学んだ儀式の知識を思い出し、深く考察してはみたが他に思い当たる節はどこにもなかった。
「さあ参りましょう。貴女はいつものように、基礎修練に励みなさい」
「分かりました」
柊の脅威を見た夜舟は完全に意を削がれ、何の反発心もなく桜花に従った。その挫けた様子を快く思わなかったのか、桜花は小さくため息を漏らした。
「……なぜ私が今の今まで、こうして貴女に当主としての手解きばかり繰り返させているのか分かりますか」
それは以前なら夜舟も桜花の口から聞きたい事だった。しかし今回の件で当主としての力の無さを痛感し、その答えを知った。
「私が及ばないからです」
「そんなことはありません。貴女は実に良い素質を持っています」
自虐した夜舟の返答を、桜花は真っ向から否定した。
「では、なぜですか」
「それは貴女の当主になる目的が、少なからず私に認めてもらうことだからです」
「あ……」
夜舟は言われて初めて気づいた。確かに久世の安寧を願う気持ちはあるが、それは久世に生まれた人間であるが故だ。夜舟が積極的に当主としての研鑽を積もうとするのは、久世を支えようとする当主の覚悟ではなく、大半は桜花の目を引きたいが為だった。
「そのような覚悟では、心に付け入る柊に足元をすくわれかねないのです」
まさにその通りだった。現に先程も己の覚悟の甘さで柊に飲まれる寸前だったのだ。
「本当は貴女がそれに気づいてくれるまで待つつもりでした。しかし、もうそうも言っていられないのかもしれません」
思えば口数の少ない桜花にしては、今日はしゃべり過ぎている。こんなことを口にする桜花は初めて見るかもしれない。それほど事態は緊迫しているということだ。
しかし、桜花を初め久世の重役達はこの問題を軽視していたといっても過言ではなかった。すぐに行動に移さなければいけない事態であったと、夜舟は後に思い知ることになる。
……この時、久世が想像を超えた未曾有の危機にさらされていることに、誰一人気づく者はいなかったのだ。