零 -刺青ノ聲-   作:柊@

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   -久世家当主(クゼケトウシュ)- 三ノ刻

 

 空は星一つ見せぬ漆黒の闇に覆われ、静寂に沈む夜。時折風と葉の擦れる音が残響を残し、社のしじまに溶け込んでゆく。

 

 今宵はどこか不穏で不吉だ、と夜舟は思った。あれ程凄惨な死体を見てしまえばそう感じてしまうのも無理もない。夜舟は元々臆病ではなかったが、かといって未知の恐怖に対して心が動かぬほど豪胆でもなかった。先の見えぬ暗がりの廊下を前に、この世でたった一人取り残された気分になり、少女らしく年相応に身体を震わせる。

 

 おそらく事の始まりは楓が迎えた初の刺青の儀式だ。久世に降りかかった何らかの異変は、時系列的にそれを機として起こったのだと考えるのが普通である。そしてその日の明け方である今日、夜舟が目覚めた時に噂は既に社内に広まっていた。あの久世の者であろう人物が見るも無残な姿に変えられたのは、夜の出来事ということになる。

 

 ……惨劇に見舞われたのは、昨夜のこれくらいの時間だったのだろうか。

 

 蝋燭のか弱い灯を片手に、たどたどしく歩を進める。好奇心などという上等な感情がこの足を焚き付けているのではない。それはもっと、惨めで情けない動機だった。

 

 本当は、人の温もりを感じたいが為。しかし夜舟には建前が必要だった。であれば当主の血筋といううってつけの理由が自分にはある。これは責務なのだと、言い聞かせればいい。あわよくばその通りにこの奇怪な事件の真実に辿りつき、不安の根本自体を絶ってしまおうという腹づもりだった。そう、夜舟は物怖じする自分が許せなかったのだ。

 

 そうして誰に頼まれたわけでもない見回りに勤しむ中、自身の蝋燭とは別の明かりが視界に入り、夜舟は足を止めた。夜目で距離感が奪われているが、淡い光が漏れ出す先は位置的に祖母である蒼蓮(そうれん)の部屋のようだった。

 

「蒼蓮様」

 

 夜舟はゆっくりと近づき、光源の確認が取れた後静かに部屋の主へ呼びかけた。

 

「……その声、夜舟じゃな」

 

 返事を聞いた夜舟は襖を開き、灯篭の前で書物を開く蒼蓮の姿を捉えた。 

 

「こんな時間にどうしたというのじゃ」

 

「今日の出来事に居ても立ってもいられなくなりまして……、それで、少々見回りをしていた所、蒼蓮様の部屋に明かりが付いていたので、こうして立ち寄った次第です」

 

「堅苦しくならずとも良い。婆と呼べ。しかし、そうか、お前の耳にも届いておったか」

 

 蒼蓮は手で招き、夜舟を隣へと誘導する。

 

「母様は隠そうとしていたようでした。なので、全てを知っているわけではありませんが、あの奇妙な死体を見てしまったんです」

 

 座しながら夜舟は蒼蓮が手に持つ書物の内容を、横目でちらりと盗み見た。寝かされた巫女を取り囲む二人の女性の簡易な略図。どうやら刺魂の儀に関する記述のようだ。

 

「なるほど、あ奴らしいわ」

 

「婆様こそ何をされていたんですか」

 

「ああ、少し桜花の奴の手助けをな。久世の当主があのようにおろおろと……。とても情けなくて見てられぬわ」

 

 眉間に皺を寄せながら頭を振る蒼蓮の前には、沢山の文献や書物が散乱している。それは久世で最も知識の深い蒼蓮ですら、この事件については知り得る所ではない事を物語っていた。けれどそれよりも夜舟にとって意外だったのは、蒼蓮の口から語られた桜花の様子である。今日に限らず、夜舟の目に映る桜花は常に毅然としていて、蒼蓮が言うような姿は今の今まで一度も見たことがない。それは対面した相手が母親であるからだろうか。夜舟自身も他の誰の前であろうと冷静であるが、桜花を前にすると心に乱れが生じてしまう。当主である母は偉大で、いずれ辿り着かなければならない目標である。桜花も例に漏れず、蒼蓮と二人きりの時には萎縮してしまうのだろうか。

 

「しかし前例の無い事態故、儂もお手上げじゃな。刻女に儀式の状況を聞く事も叶わぬ今、解決策が見当たらぬ」

 

「聞けないとは、どういう事ですか」

 

「ああ、そこまでは知らなんだか。……ふむ」

 

 蒼蓮は夜舟を見たまま、少し考え込んでいる様子を見せた。

 

「まあ、教えても良いじゃろう。あの死体は刻女達じゃ。二人が変わり果てた姿で明け方に部屋で発見されたのよ」

 

 夜舟は蒼蓮のその言葉で初めてあの死体が刻女の物であることを知った。しかし、今、確かに達だと蒼蓮は言った。……ということは、あれは二人分だったのか。

 

「刻女だったんですか。一体何が……」

 

「巫女様は変わりない様子。儀式が失敗した形跡もあらぬようじゃ」

 

「とはいえ、人の仕業とも考え難いです」

 

「そう、じゃからこうして盲点があらぬか儀式の記述に目を通しているのよ」

 

 そうして蒼蓮は夜舟から視線を外し、再び文献へと目を落とす。

 

「見回りなど止めるのじゃ。どんな危険が待ち受けているかも分からぬ。朝早くからまた修練があるのじゃろう。お前は部屋へ帰り、明日に備えよ」

 

「私も手伝います」

 

 夜舟は蒼蓮に反して、近くに落ちている書物を拾い上げた。

 

「……寝坊して桜花に叱咤を受けても、儂は知らぬぞ」

 

「構いません」

 

 早々に書物を読み進める夜舟に蒼蓮は小さく嘆息し、説得を諦めた。そして灯篭の光を頼りにするように、互いに腰を丸め合う。夜舟がこうも協力的なのは心細さからくるものだということを、蒼蓮が知ることはなかった。

 

 ……そうして何冊かの書物を積み重ねた頃、事態は急変したのだ。

 

 

 あ゛ぁ゙ぁぁぁ……。

 

 

 不気味な断末魔が、書物に集中する二人の耳に入った。

 

「婆様、今のは……」

 

「……何か、あったようじゃな」

 

  蒼蓮の顔に緊張が走る。夜舟の頭にすぐさま思い浮かんだのはあの刻女の姿だった。また犠牲者が出たのだろうか。おそらく蒼蓮も同じことを考えているのだろう。

 

「少し様子を伺いに行く故、ここで待っておれ」

 

 蒼蓮は片手を付き、立ち上がろうとした。

 

「私も行きます」

 

 置いて行かれそうになった夜舟は慌てて蒼蓮の腕を掴んだ。

 

「駄目じゃ。その身に何が起こるか分からぬ」

 

 蒼蓮はそう言うが、一人きりになるより一緒にいる方が幾分安全ではないだろうかと思い、夜舟は首を振った。

 

「平気です」

 

「もしもこれが儀式による代償ならば、今はまだお主の関与する所ではない。まさしく当主に手を染めた者の業である。今から足を踏み入れることはない」

 

「それでも」

 

 夜舟は譲ろうとしなかった。確かに夜舟の内にはあの死体に対する恐怖心が植え付けれていた。が、こうも頑ななのはそれが理由ではない。はたして老体である蒼蓮が未知なる脅威に立ち向かえるのだろうか。蒼蓮もまた刻女のようになってしまうのではないかと、夜舟は心配で仕方がなかったのだ。

 

「……ふむ、その頑固さは母親譲りじゃのう」

 

 きつく結ばれた夜舟の口と眉に、蒼蓮は返事を窮した。

 

「良かろう、付いて参れ。くれぐれも周囲への警戒を怠るでないぞ」

 

 蒼蓮は灯篭を掲げ、夜舟と共に部屋を出た。先程の声も相まってか、淡く照らされた輪郭の乏しい廊下に物々しさを感じた。先導する蒼蓮は聞き耳を立てながら静かに足を進める。

 

 争っているような感じではないが、どこからか畳を引きずり、何か物を落とすような妙な音がしていた。蒼蓮はその音を辿り、やがて明らかになってきたその在り処に顔を強張らせた。

 

「桜花の部屋、か」

 

 今度はぴちゃぴちゃと雫が垂れるような音が聞こえくる。

 

「覚悟は良いか」

 

 蒼蓮が小声で問いかけ、夜舟は無言のまま小さく頷く。そうして蒼蓮は勢いよく襖を開いた。

 

 そこには、大きな血溜まりがあった。ひしゃげた肉塊の上に、ゆらゆらと揺れる人影。それが辛うじて女性であることは認識出来た。

 

 ……が、それは人の持つ関節の数を、ゆうに超えていた。

 いや、違う。あれは関節ではなく、元々の四肢が途中であらぬ方向へ何度も曲がってしまっている状態なのだ。所々皮膚を突き破り、骨が露出している。さらに不自然にふら付く頭を見れば、その首骨すらも砕けていることが見て取れた。

 

 そして、その下の奇形の主も同様だ。あらゆる部分を折り紙のように容易く曲げられ、今もなお何らかの圧力が加わり、くの字になった腹が裂けそうになっていた。

 おそらくそれに耐えられなかったであろういくつかの手足が胴体と離れ、大量の血を絡ませ畳に飛び散っている。桜花の部屋はこの上ない惨状と化していた。

 

「母様」

 

 夜舟は狂ったように頭を抱えながら思い切り叫んだ。

 

「彼奴はなんじゃ」

 

 蒼蓮は夜舟と違い、桜花であった肉塊には目をくれず、その上に伸し掛かる者に釘づけになっていた。蒼蓮が桜花よりもそれを優先したのも仕方がない事だった。夜舟は我に返り、同じように視線を上に向けた。

 

 改めて気づいたのは、それは人とは遠く、実体が薄い事であった。よくよく見ればその足元は桜花の身体を貫通し、全体的に形状がはっきりとせず陽炎のように揺らめいていた。目を凝らせば後ろの景色が覗ける程、肌が透けている。

 

「……儀式の祟り、なのか」

 

 呆気にとられ、蒼蓮と夜舟はその場に立ち尽くしていた。すると、蒼蓮の言うその祟りがこちらの存在に気づき、ふわりと低空に浮かび視線を向けた。

 

 痛イ…… 助ケ……

 

 口はそのように動いてはいるが、夜舟はそこから発せられているとは思えなかった。なぜならそれは脳内に直接反響するような声だったからだ。祟りはがくがくと顔を揺らし、前のめりにこちらへとゆっくり手を伸ばしてくる。

 

「婆様、どうすれば」

 

「ううむ……」

 

 まだ十分に距離はある。ひとまずここを離れ、体勢を立て直すのが無難だろう。夜舟は蒼蓮の支持を待った。

 

「あ……」

 

 信じられぬ光景に、夜舟は思わず目を見開いた。一呼吸置くこともなく、既に息がかかるようなほど近くに、祟りがいた。いや、正確には、一度姿を消して突然眼前に現れたという具合だった。しかし、なんとも悍ましい顔なのか。祟りの両目は在らぬ方へ向き、半分頭皮が捲れ、血みどろだ。

 

「夜舟」

 

 夜舟は横から蒼蓮に突き飛ばされた。夜舟を掴むはずだった祟りの手が蒼蓮の肩に乗る。後に、蒼蓮の腕が圧迫され、めきめきと悲鳴を上げ始めた。

 

「逃げよ」

 

「でも、婆様」

 

 夜舟は祟りの手を振りほどこうとしたが、捉えた感触もなく空を切る。代わりに触れた瞬間、あの時の楓と対峙したような激しい悪寒に襲われた。

 

「うっ」

 

「儂に構うな。こやつは想像以上に危険極まりない代物じゃ。生き延びることだけを考えよ」

 

 蒼蓮は耐え忍ぶような悲痛な声で、夜舟に伝えた。

 

「ぐ……っ、さあはやくゆけっ」

 

 確かにこのままでは二人とも祟りの餌食となってしまう。夜舟は迷ったが、歪む蒼蓮の顔に耐えられず、覚悟を決めた。

 

「直ぐに助けを呼んで参ります。どうか耐えてください」

 

 夜舟は身を翻し、思い切り駆けた。まだ希望はある。蒼蓮と同じ世代の者や、刻女の指導者、宮大工の長なら、このことについて詳しく知っているかもしれない。それよりもまず身近な者を叩き起こし、応援を呼ぶことが先決だ。大丈夫、きっとなんとかなる。

 

 ……おそらくはこれが蒼蓮との今生の別れになるだろうと、夜舟は悟っていた。あれは人の手に負える物ではないと、肌身で感じていたからだ。しかし、そう言い聞かせることでしか夜舟は己を保つことが出来なかった。

 

 


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