楓の刺青の儀式から二日目。久世は最悪の結末と共に朝を迎える。あれから直ぐに祟りは姿を消し、それ以上の被害が拡大する事はなかったが、久世が失ったものは大きすぎた。
初日の犠牲者である刻女二名から始まり、久世家現当主の桜花、さらには当主の座を明け渡して久しいとはいえ、実質最高地位の権力者である蒼蓮までもがその魔の手に命を散らした。儀式の組織体制が大幅に崩れ、強制的に世代交代を余儀なくされた久世は、まさに大混乱の渦中にあった。現状、刺魂の儀の役割の大部分が欠けた状態となっており、次の遂行が見送りとなっている。刻女の後継はいるもののまだ儀式に赴けるほどの技量はなく、代替えの精通者が焦慮に駆られながら指導に当たっていた。
……しかし、一番の問題は当主となった夜舟である。この一件は後にも先にもない程、夜舟に大きな爪痕を残した。半端者の当主という自らの置かれた立場よりも、まず向き合わなければならないのは母親と祖母との死別だった。ここは紡がれた慣わしを信仰する久世という特殊な家系ではあったが、それでも一般的な家族間における愛情が皆無というわけではない。現に夜舟が慕っていたのは、厳しくも子を見守る母親の目をした桜花であり、忙しい桜花の代わりに何かと面倒を見てくれた祖母としての蒼蓮であった。むしろ平和で並々と満たされた家族愛とは違う希薄な情故に、時折与えられる優しさが人より増して深く心に刻まれてゆく。そんな渇望と共に生きてきた夜舟の喪失感は、常人には計り知れないものがあるだろう。
だが、周りの者が夜舟に足並みを揃えていられるような状況ではなかった。今回の件が異例中の異例であった為、現役の儀式関係者から久世の未来を担う末端の者達までといった過去に類を見ない多数の人間が大広間に集められ、速やかに大規模な集会が開かれた。そこで今後の方針や対策について議論が行われたが、その中心である夜舟はやはりというべきか終始もぬけの殻で、度々見せる覇気のない相槌に皆苦渋の表情を浮かべていた。
話し合いの末、現時点で祟りに対し打つ手はなく、原因の解明、守備の強化、組織体制の修復といった方向性で対策を立てられた。
心ここに非ずの夜舟を余所に議論は着々と進められ、ある程度のまとまりが付くと、それぞれが成すべき事に取り掛かる為、足早にその場を後にしてゆく。
そんな中、夜舟は場に居合わせた天涯に呼び止められた。
「ここでは話しづらい。場所を代えよう」
そうして二人は人目を避けながら、どちらからともなく境内の裏手へと向かっていった。
「……」
まるで悪い夢でも見ているようだった。この先桜花の手助けも、蒼蓮の助言も得れず、ただの一人で当主を全うしなければならない。道を示してくれる者が消え去ってしまった今、何を指標に前へ進めばいいのだろうか。落とされた視線と足取りの重さが夜舟の心境を如実に語る。気づくと天涯は少し離れた場所で振り返り、待ち惚けていた。夜舟は頭を振り、急ぎ足で天涯の後を追った。
馴染みの地に着くと、天涯は比較的平らな庭石を何度かはたいた後、夜舟と庭石の間を手で仰ぎ着席を促した。夜舟が素直を応じると、天涯は別の庭石に土を払う事もせず腰を下ろし、片膝を抱えた。
「君が見たその祟りというのは、本当の話なのか」
着いて早々落ち着く間もなく天涯は話を切り出す。天涯のいつもの気楽さは陰を潜め、張りつめた表情で夜舟の顔をじっと見つめていた。
「実際に目の前で母様と婆様が殺されているのよ。こんなことで嘘をつく意味なんてないわ」
夜舟はあまりに現実味に欠ける出来事であった為戸惑ったが、結局集会で事の成り行きをありのままに説明した。しかし皆は半信半疑といった様子で小首を傾げている者も多かった。当然天涯も聞いていたわけだが、やはり皆同様に未だ信じられないということだろう。
「すまない、分かってはいるさ。どちらかといえば、これは僕の都合の為の確認なんだ」
天涯の返しに、夜舟は何を言っているのか分からず眉を潜めた。相変わらず天涯との会話には要領を得ない事が多い。おそらく己の心の内を明かさず、相手から最低限の情報を引きだして勝手に自己完結する癖があるのだろう。天涯はそれでいいかもしれないが、対面する側としてはこうして毎度理解に苦しむのだ。
「……夜舟、君は宮大工の宿舎に身を隠せ。僕の近くにいるんだ」
「出来るわけないでしょう」
夜舟は即答した。こんな分かりきったことをなぜ聞くのかと夜舟は睨んだが、天涯は一切動じなかった。
「こんな時にまで掟か。そんな事を言っていられる状況ではないのは君も理解しているはずだ」
いつになく強い口調で天涯は夜舟を咎めた。が、夜舟には志を曲げる気など毛頭なく、反発心を目に宿すばかりだった。
「……ならばせめて夜に寝ず、明るい内に仮眠を取っておいてほしい。今の段階ではそれは深夜の僅かな時間のみ出没する傾向があるようだ。しかし念の為、日中であろうと身近に見張りを置いて眠るように」
天涯は子を躾ける親のようにまくし立てた。不快感はあったが、現状を考えれば至極全うな意見である。
「……分かったわ」
夜舟そう力なく答えると、天涯は両手で夜舟の肩をがしりと力強く掴んだ。
「夜舟、しっかりしろ。君の婆様を無駄死にさせる気か。問題の解決は二の次にして、まずは自分の命の安全を第一に優先するんだ」
天涯の目は真剣そのものだった。分かってはいる。天涯がこんなにも強気な姿勢なのは、心底自分を心配してくれているからだ。
「天涯……、私は、どうしたらいいの」
天涯の優しさにあてられ、夜舟は柄にもなく弱音を吐いた。先程提案を拒否されたばかりの天涯はやや複雑な表情を浮かべたが、夜舟の基準はあくまで当主としてである。互いの考えが交わることがなく平行線であることに対してか、天涯はやれやれといった感じで頭をかいた。
「それを決めるのは君自身だ。ましてや僕はただの宮大工だ。意見を挟める立場にはない。それに僕が何を言っても、今の君には無駄だろう」
夜舟の目線に合わせた皮肉であろう。天涯はそんな思いの外冷たい言葉を投げかけ、足裏で庭石を軽く蹴り地面に降りた。返す言葉の見つからない夜舟を尻目に、天涯は声をかけることもなく背を向けたのだった。
夜舟が答えを出せぬまま、また日は落ちた。天涯に言いつけ通りに昼間から床についたが、ただ横になっていただけでほとんど眠る事が出来なかった。今夜祟りが現れたとしたら、次に襲われるのは自分かもしれない。そればかり考えてしまって頭が休まる事がない所為だ。正直己一人の力で切り抜けられる自信はなかった。だとしたら、自分もあのような無残な死を迎えてしまうのだろうか。
恐怖が身体を伝い、四肢を震わせる。こんな脆弱な人間が当主とは聞いて呆れる。楓の柊と対峙した時の凛とした桜花の姿や蒼蓮の最後に見せた勇敢な姿を思い浮かべ、夜舟はとても惨めで情けない気持ちになった。
「……様」
夜舟が自己嫌悪に苛まれる中、廊下から呼びかける声があった。見張りの者であろう。夜舟に気を使ってか襖を開けようとはしなかった。
「……に……げ」
様子がおかしかった。間も入れず夜舟は襖から距離を取り咄嗟に身構えた。目は慣れてはいたが、この暗がりではあの不鮮明な祟りの姿を正確には捉えきれないだろう。そう思い、目線を残しながら手探りで行灯に火を灯す。部屋全体が淡く照らし出されたが、こちら側に特に変化はなかった。この場を離れるにも廊下で何が起こっているのかを確認するにもどの道襖を開けなければならない。しかし、あの先に祟りがいると思うと行動に移すのが躊躇われた。しばらくの間どたばたと騒がしかったが、やがて廊下は静まり返ってゆく。
「何事なの」
夜舟の問いかけに返事はない。当たり前の事だった。祟りに対し反撃の術がない現状、この静寂の差す意味は二つしかないからだ。見張りが身を挺して囮となり祟りを引きつけてここを立ち去ったか、あるいは抵抗できずに祟りの犠牲となったか。よもや別件で見張りが動いたとは考え難い。どちらにせよ、夜舟の声が見張りの耳に届くことはないはずだ。
最善と最悪の一方だけが、そこにはある。夜舟は恐る恐る襖に近づいて行った。五感を研ぎ澄まし外側に意識を向け気配を探ってみたが、廊下には何も存在しないように思える。夜舟は意を決して襖に手をかけた。
「夜舟」
夜舟の指が襖の引手に触れるや否や勝手に襖が開いた為、驚きの余り夜舟は尻もちをついた。
「天涯、どうして」
目に映ったのは見張りでもなく祟りでもなく、今唯一心を許せる少年だった。本来なら怒り心頭の展開であるが、現状とても心強い助っ人のように感じられ、そのいつもと変わらぬ姿に夜船は安堵した。
「祟りからいつでも君を助けられる様、社内に潜んでいたのさ。何度か人に見つかりそうになり、肝を冷やしたよ」
今朝は見限られたように思えたが、天涯なりに考えがあったようだ。掟破りではあったが、さすがの夜船もこの時ばかりは責める気持ちは浮かんでこなかった。
「ここに見張りがいたはずよ」
天涯に身を案じられ、夜船は照れくささから話題を逸らした。
「ああ、祟りに追われてなんとか撒いたみたいだ」
「生きているのね。良かった」
夜舟はさらなる犠牲が生まれなかったことに大きく胸を撫で下ろした。
「そう落ち着いている暇はない。僕は撒いた、と言ったんだ。夜舟、行灯を持って早く廊下へ」
天涯が時折視線を大きく外し、何かを気にする素振りを見せていた。夜舟は察し、すぐさま行灯を手に廊下へ出た。するとやはり祟りがもう間近まで迫ってきていた。天涯は守るように夜舟を背に隠し、祟りと正面から対峙した。
「しかし、これが件の……」
祟りはぎろりと睨みを効かせ、天涯に詰め寄ってゆく。肝心の天涯は距離を取るわけでもなく、悠長に構えている。
「そいつに捕まったらおしまいよ」
夜舟の必死の忠告に対し、天涯は口角を上げ鼻を鳴らした。
「僕にとっては久世の人間に捕まる方がよっぽど怖いね」
そんな軽口を叩く天涯を見て、夜舟は虚勢を張っている場合ではないと伝えようとしたが、それより僅かに早く天涯が動いた。
「とりあえず、走るぞ夜舟」
天涯は夜舟の手を取り、強引に走り連れた。
「近くの者に助けを求めるべきだわ」
「駄目だ。祟りは僕達が引き付け、僕達だけで対処する。誰も死なせたくのないなら、僕の言う通りにしてほしい」
確かに、寝起きで状況を把握しきれていない者を下手に巻き込むよりはそちらの方が無難だ。しかし、それは本当に可能なのか。祟りの真の脅威は、距離を物ともしない神出鬼没の動きである。
「僕は社内の構造に明るくない。人気がなく、行き止まりにならない道筋を教えてくれ」
揺れる行灯の火が掠れ、明滅を繰り返しながら頼りなく進路を示す。祟りからどんどんと離れ、よもや追ってこないのではないかと言う程距離を稼いだ。
夜舟と天涯は呼吸を整える為、一時休息する。しかし、ここを撒けたとして気を緩めることは出来ない。蒼蓮の時とは違い、今祟りの足止めするものはなかった。そんな夜舟の不安が的中し、突然天涯の目の前に祟りが現れた。もはや躱せる距離ではない。夜舟が諦めかけた瞬間、間一髪で天涯が夜舟の手を突き放し自らの身体を捻った。祟りは二人の間を紙一重ですり抜けてゆく。
「集会の時に特長はしっかりと聞いていた。分かっていれば避けるのはそう難しい事じゃない。君も逃げながら奴の動きだけに集中するんだ」
天涯に恐怖は微塵も感じられない。夜舟は驚きを隠せなかった。いざという時、天涯という男はこんなにも度胸が据わっていて頼れる存在だったのかと。
再び夜舟達は互いの手を取り合い、祟りとの追走劇に身を投じた。祟りから逃げ、視認出来なくなったら休むといった行動を延々と繰り返してゆく。そして何度目かの休息の際、完全に心拍が落ち着こうと祟りは一向に顔を見せなくなる。どれ程待とうと、ついに祟りが再び二人の前に現れる事はなかった。
「……追って来なくなったようね」
「やはり限られた時間にしか現れないようだ」
体感にしてまだ半刻も経っていないだろう。祟りに襲われたのは昨日も今日も大体丑三つ時である。
「よくある怪談そのものだな。こう目の当たりにしてしまっては、次から作り話だと笑い飛ばす事が出来なくなったよ」
緊張の糸が切れたのか、今更ながら天涯の指が震えていた。そう、天涯も男とはいえ夜舟と同じまだ子供であるのだ。こんな非現実的な光景を前に平常心を保てるわけがない。強がって見せていたのだとすれば、それは夜舟の為。夜舟を少しでも不安にさせまいとした天涯の配慮だったのだ。
大切に扱われている実感が、夜舟に天涯を意識させる。初めて味わう慕情であった。しかし、ふと各々の立場を思い出し、夜舟は胸に鋭い痛みを覚える。互いがどう想おうと、決して実ることはない。そう夜舟は諦観の念を抱き、湧き上がる感情を鎮め心の片隅に押し隠す。
そして祟りに果敢に立ち向かった天涯を見て、夜舟は改めて己を見つめ直した。
……自分はうじうじと、何をしているのだろう。こんなにも命を張ってくれて守ってくれる者達がいるというのに。
「天涯、甘えてばかりで本当にごめんなさい。私は、前に進まなければならないのね」
ようやく夜舟は現実に目を向け始めた。
「家族を亡くしたばかりだというのに、不憫に思う。けれど、これは急を要する事態なんだ。君には辛く当たってしまったけれど、分かってほしい」
夜舟の心中を察するように、天涯は痛ましげな表情を浮かべる。
「大丈夫。ちゃんと理解しているから」
天涯がどれだけ自分の事を考えてくれているのかが、今回の件で分かった。こんなにも全力で行動に示してくれたのだ。今度は自分の番である。天涯や久世の者を守る為に、覚悟を決めて当主の采配を振るわなければならない。
「……夜舟、君に伝えたいことがある」
突然おもむろに向けられる、天涯の強い視線。とても重要な事柄を口にしようとする素振りを見せ、少しの間沈黙する。天涯の心の中でも何か固まる物があったようだ。
「全てを捨てて、僕とここから逃げよう」
その思いもよらぬ天涯の言葉は、濁流のような激しさを生み、夜舟の決意の心を飲み込んでいったのだった。