祭壇に飾られた鏡の前で、零華は膝の上に両手を交差させ、正座していた。
丸形の鏡面に映し出されたのは方々に走る蒼蛇に埋め尽くされた不気味な肌と、現実と寝目を彷徨う虚ろな瞳。その酷くやつれた女の顔は、もはや零華の知るものではなかった。
故郷が雪に飲まれてから四季を一巡し、再び訪れた冬の最中であった。ついにこの時が来てしまった。何もせずほとんど吊牢の中で眠っていただけだというのに、あっという間に歳月は過ぎる。……人の一生など短いものだ。例え一代の命を全う出来たとしても、巫女であった期間の瞬きを思えば、満足のいく生涯など歩めてはいなかっただろう。
隙間風に揺れ、消えかかった蝋燭の灯に零華は自らを重ねた。今や柊に意識を根こそぎ奪われ、自我を保つことが困難だ。こうしてつかの間の知覚を得て想うのは、幼馴染の後ろ姿という我意。こんないまわの際になってまで、まだ要を求めてしまうのか。いや、死期が近いからこそより焦がれてしまうのだ。
零華は遠い記憶に触れるように、耳飾りに手を伸ばす。最後にこの手を包んだ要の手の温もりが忘れられなかった。あの時の別れが、未だにこの胸を苦しめている。ずっと、ずっと、おかしくなる位考えていた。生い立ちを知る事がそんなに大切だったのだろうか。もし真相を得たとして、目的を果たした要がちゃんと村に戻るつもりはあったのだろうか。故郷を旅立つ強い意思の裏には、何か他の特別な理由があったはずだ。それが過去の一切と袂を分かつ決め手となってもおかしくはない。けれどもし知れていたなら、もう一度要の目をこちらへ向けることが出来ていた気がした。だからその理由を最後を迎える今、どうしても知りたかった。
……要は一体どこから来たのだろう。ふと零華は要との出会いを思い返した。要が今の親の養子になったのは正確には四歳の頃で、その時の事は良く覚えていない。それから長い付き合いで元々村の子供であったかのように感じられていたが、それを考えれば要との出会いは偶然だ。もしも要の本当の親に要を手放さなければならない状況が訪れなかったら、要に会うことはなく、その存在すら知ることはなかっただろう。けれど、人の縁というのは確かにあるのだという実感はあった。いつの日も視線は絡み、互いに向けるのは運命を見る瞳。年齢の近い村の子供は他にもいたのに、引き合うようにいつも近くにいた。心と心を結ぶ何かを、要も感じ取っていたように思う。……それでも、気持ちは同じではなかったということなのだろう。ただ一緒に居ることを望んでいただけなのに、要には伝わらなかった。結局、人間というのは孤独だ。誰しもがすれ違い、本当に一つにはなれない。都合のいい時に足りないものを埋め合うだけなのだ。その心の隙間が大きい方が、相手に依存し離れられなくなる。
過去を振り返った零華の頭に浮かぶのは、要の顔ばかりだった。暖かな思い出の中にも、悲しい情景の中にもその傍らには常に要の姿がある。それほどまでに同じ時間を過ごしたはずなのに、要を引き留める存在にはなれなかった。やはり、躊躇うことなく故郷を去れた要とは想いの強さが違っていたのだ。その気持ちの差が、要に別れを選ばせたのかもしれない。
胸にぽっかりと空いた穴。辛うじて残された外縁も、あの雪崩で跡形もなく消え去ってしまった。だから、全てを無くしてしまった己の存在理由を求めて、夜舟が差し出した久世の大義に身を委ねた。
本当は巫女になんてなりたくなかった。自分の前から誰もいなくなってしまって自暴自棄になっていただけなのだ。ただ流れに身を任せ、考える事を放棄したかった。そうしなければ、心が壊れてしまっていたから。
零華はつくづく自分勝手な人間だと思った。皆の死を良い様に利用しただけだ。運命に追いつめられ、己で追いつめた果てに思うのは。
ずっと一緒に居たかった。……ただ、それだけだった。
……私は巫女の役目を終え、時間と共に貴方に忘れ去られてゆくのだろう。そして貴方はまた良い女性に巡り合い、平穏な暮らしの中で幸せな家庭を築くのだ。闇の底で孤独に朽ちて、私は本当にこのまま消えてしまう。こんなに寂しい終わりは辛すぎる……。
しかし、その嘆きを全身のくちなわが絞め潰し、引き返す道などないのだと告げる柊達の聲が響く。ああ、もう全てが遅すぎたのだと、零華は悟った。
砌の鏡が心なしか淡く輝いて見える。これは現世の未練を絶つ為の清めの儀式。覚悟を決め、零華は自身の想いを宿した砌の鏡を手に取った。
そうしておもむろに両手を振り上げた瞬間、零華は動きを止めた。人は死の直前、走馬灯を見るという。なぜかこの時の零華の頭の中にも同様に、先ほどの反芻に比べものにならない程の膨大な、今までの人生の記憶が駆け巡っていた。まだ死はもう少しだけ後であるというのに、だ。
そう、砌の鏡は巫女の心そのものなのだ。これを砕くということは、心の死を迎えると言う事。それに気づいた零華に迷いが一瞬生まれた。
要との完全なる決別の時だった。乾ききった両目が一気に湿り、零華は唇を噛み締める。小さな嗚咽を漏らしながら、砌の鏡を思い切り床へ叩きつけた。
ばりんと大きな音を立てて鏡面が勢いよく割れ飛び散った。その途端に、様々なしがらみから心が解放されていく様を感じ、零華は静かに目を瞑る。
確かに未練は軽くなった。が、胸中には未だ熱を帯びた情緒がある。躊躇したのがいけなかったのだろうか、要への想いを完全に断ち切ることは出来なかった。
零華は近くの部屋で待機している夜舟に儀式の失敗を伝えようと立ち上がったが、すぐに考え直した。なぜならば、突如ささやかな願望が湧き上がってしまったからだ。
……忘れながらではなく、要を想いながら死を迎えたい。
ある意味、一番いい形で儀式は作用してくれた。後を引く感情だけが薄れ、ただ要を大切に感じる心だけが残されていた。このまま戒の儀へ赴いても特に問題はないはずだと、零華は思ったのだ。
沈んでいた気分が晴れ、零華の表情は穏やかさを取り戻す。
要の気持ちがどうであれ、あの時の二人の想いは決して偽りではなかった。その真実だけは永遠に消えることはないのだ。
この先の要の幸せと息災を願いながら、零華は最後の儀式へと気持ちを向けた。もう要との過去に捉われる事はないだろう。後は皆の悲しみを、この身と共に忘却の地へと鎮めるだけだった。