戒の儀という節目を迎え、騒ついていた宮内は落ち着きを取り戻しつつあった。丁度四季の移り変わりで冷え込んできたせいか、宮下の村にも活気はなく、久世全体にどこか物寂しい風景が広がっている。
巫女の体調や参拝者の数に左右されるこの区切りの時期は決まった周期ではない為、その都度季節は様々である。この寒候期に休眠する動物達程ではないが、人間の活動も閑散として大きな動きを見せなくなってゆく。生き物全てが不活発になり始める初冬の幕開けだった。
そんな中、零華の最後の儀式を事無く終えたというのに、夜舟は多忙な日々を送っている。本来ならばゆっくりと暖を取りたい所だったが、夜舟には悠長に構えられない理由があった。見通しがつかない次の巫女の選定。その準備に追われていた為、夜舟はむしろ戒の儀以上に身体を酷使していたのだ。
現在ここ久世内にて、刺青の儀式における適齢の少女は枯渇していた。今回選ばれる範囲の世代と言えば丁度秋人が久世に滞在した辺りの年の生まれだが、その時分中々客人に恵まれず久世に子を授からない期間があった。こういった場合、埋め合わせに零華のように外部から養子を迎え入れることが通例であったが、歳を限定した身寄りない子供や訳有りの子供がそう都合良く見つかるものでもなく、十数年の間良い巡り合わせは訪れず、上手く事が運ばずに今に至っていた。
追いつめられた夜舟は苦肉の策として、近隣の村の子供や山での遭難者を誘引しようと試みたこともあった。しかし年々人足が途絶え続けるこの地域では中々そういった機会が訪れず、神隠しの噂が浸透し始めた周囲の村々の久世への警戒は強く近づく事さえままならなかった。
その為、夜舟はしきりに久世を離れ、巫女候補探しに明け暮れていた。一方、忙しない夜舟とは打って変わって久世で暮らす者達にはどこかだらけた様子が見られている。普段は決して逆らえぬ権力を持つ当主の不在で、誰しもがその緊張から解かれ、おのずと開放感に浸ってしまっていたのだ。本来、こういう時こそより勤しむべきである重役でさえ各々の任務に対して気を緩めてしまう始末だった。だから、あってはならぬ部外者の侵入を許してしまったのだ。
今日も収穫なくして久世に出戻った夜舟は早々、これ以上とない程に憤慨を露わにしていた。刺青の儀式の掩蔽において、その責務を怠った者への懲罰は重い。よって門を突破されてしまった見回りや門番は今後二度と同じ事が起こらぬ様、皆の前で見せしめにしなければならなかった。そして、共犯に手を染めた雨音である。雨音はあろうことかその侵入者を宮内へ導いてしまったのだ。いかに血の繋がった孫であり唯一の跡継ぎであろうと、こうなってしまっては流すことも止むを得ない状況だった。後継者が絶たれるなど久世の歴史上前代未聞のことである。しかし掟は絶対である為、次の当主にはもはや久世に深く従順し最も信頼の置ける別の人間を立てる他なかった。
そんな久世の未来を憂いながら、夜舟は他の鎮女達を血眼で探していた。帰って間もなく手分けして従者に久世内を捜索させたが、目当ての雨音は見つからなかった。ただ、直近で目撃されたのが棘獄への隠し通路がある祭壇の部屋付近の廊下だという情報が入ったのだ。棟梁である天涯と鎮女であった雨音だけは、その秘密を知っている。だから夜舟は最悪の状況を想定し、最善の対処をする為にはやる気持ちを抑えて行動していた。雨音の所在が分からない今、まずすべきは他の鎮女達へ当主直々に命令を下すことだった。
「氷雨よ」
夜舟が鎮女達の行方をしらみつぶしに探そうとしていた所、たまたま付近の廊下で遭遇した氷雨に呼びかけた。
「他の鎮女達を集め、雨音を見つけて咎打ちにせよ」
「そんな。当主様、一体何があったんですか」
夜舟の思いもよらぬ言葉に、氷雨はその小さな身体に似つかぬ程に声を張り上げた。咎打ちとは本来巫女の代わり身である人形を打ち付けることで、人間にする儀式ではない。そしてそれの意味する所はつまり、罪人を流すということ。雨音が何らかの罪を犯したと言う事に、氷雨は信じられないという様子だった。
「つい先ほどではあるが、見知らぬ男を宮内へ案内したと耳にした。もう間に合わぬかもしれぬ」
「まさか、雨音ちゃんが……」
「出来ぬというなら、雨音と同罪とする。急ぎ他の鎮女達にも伝えよ」
夜舟は一方的にそう告げ、立ちすくむ氷雨を置き去りにして祭壇の間へと急いだ。
(……これで一先ず破戒に通じる根回しは全て終えた。今頃天涯に棘獄への招きの言伝も届いているであろう)
夜舟が棘獄まで一度も足を運んだことのない天涯を呼んだのは、これが極めて緊急な事態であったからだ。もしもの時に備えて、棟梁である天涯は立ち会わなければならない。天涯は破戒を唯一鎮める術を持つ者としてすぐに行動に移せるよう、当主の近くで判断を待つ必要があった。
いずれにしろ全ては場を見極めてからだ。部外者が棘獄へ向かっているとは限らないが、そうだとしてもまだそれ程時間は経ってはいない。それに下りた経験のない人間に奈落の足場は実に危険で骨の折れる道である。だから今からでも追い付けるはずだと夜舟は考えていた。
そうして夜舟は途中物置部屋で手頃な凶器を見繕い、先に進む侵入者の背へと徐々に忍び寄っていった。
結局夜舟が奈落を下り切った頃には一足遅く、棘獄の扉は開かれていた。もはや疑う余地はなかった。雨音が手引きしたのだ。そうなるとよほど零華に思い入れのある人間で、情に訴えかけられた雨音はその言葉に籠絡されてしまったのだろう。鏡華が立場を忘れて身を委ねてしまった秋人の時のように。いつの時代も久世を脅かすのは外界の男共だった。
……久世の悲劇の歴史を知らず、当主の大義を知らず、のうのうと俗情を弁じかどわかそうとする愚者達。如何なる理由があろうと、何人たりとも禁忌に触れることは許されぬ。
錆びれた斧を手に力を込め、夜舟はそう殺意をむき出しにしていた。
夜舟が棘獄の扉の陰に隠れながら中を覗きこむと、松明を持った若い男が零華の目の前に立っていた。懐かしげに何かを話しているようだったが、零華の反応はない。夜舟の聞いた限りでは零華に村の人間以外に親しい者はいなかった。だとすれば零華や露葉のように運良く生き残った者かもしれない。折角命を拾ったというのに、皮肉なものである。結局どう転んでも死の運命は変わらなかったのだ。
夜舟は足音に注意しながら、ゆっくりと男の背後へ近づいていった。相も変わらず男は夜舟に気づく様子もなく、零華に語りかけている。そして刃先が十分に届く距離まで来た時、夜舟は渾身を込めて両手で斧を掲げ、男の無防備な背に振り下ろした。
斧が深々とめり込み、男の肉が大きく裂けた。間入れず夜舟はニ撃三撃と続け、倒れた男の命を確実に奪ってゆく。まるで何かに憑りつかれた様に殺戮に興じる夜舟だったが、既に男が絶命していることに気づき、斧を地に落とす。そして荒々しい呼吸を整えながら、夜舟はただ茫然と零華を見つめた。
……。
たった今殺した男と同様に、身体を硬直させ目を大きく見開いている。動きも感情も一切見て取れないが、夜舟はその姿に妙な不安感を抱いた。事切れている様にも見えるが、何か……、何か様子がおかしい。未だ慣れぬ殺人に震える手を押さえながら、夜舟は零華から視線を外さずゆっくりと後ずさった。確かに破戒の危機に瀕したせいで、少々冷静さを欠いてはいた。柊に対し、心の隙を与えていたかもしれない。しかし、この徐々に膨れ上がる得体の知れぬ圧力は柊の仕業とは言い難く、その比にならない程凶悪で異質の物だ。
そう警戒心を強める夜舟の傍らで突如、零華から涙が溢れた。
……そして、その瞳に、蛇が宿ったのだ。
刹那、膨張した圧力は爆発するように一気に押し広がった。夜舟はその不可視の衝撃に身体を射抜かれ、よろめきながら辺りを見回した。景色に変わった様子はない。だが明らかに空気が違う。柊の幻覚とは違った生々しい狂気がこの場を支配していた。恨みや悲しみの聲をのせて辺りを渦巻く邪念。気を抜けばたちまち生気を奪われてしまうような重圧。夜舟はその重苦しく奇怪な雰囲気に圧倒されていた。
目には見えないが、常世海の先……、黄泉の国から何かがこちらへ殻を破り生まれ出ようとしているのが分かる。
夜舟は直ぐにここを立ち去るべきかどうか戸惑っていた。判断を誤れば命取りになる。どこから発現し、何が起こるのか。夜舟は零華、周囲の巫女、常世海へとくまなく目を泳がせる。と、その視線は零華に強烈に引き付けられた。言い表せない禍々しい存在感が、そこにあったからだ。しかし夜舟が零華の異変に気付いた時には、既に手遅れだった。まるで蛇が脱皮するかのように、紛れもなく零華自身であるはずの何かが、磔にされた肉体を残してずるりと抜け出した。その瞬間、夜舟は棘極の門へと駆け出すが、すぐに足を止める羽目になった。
背にしたはずの零華が、目の前にいたからだ。
零華と視線を交えた夜舟の背筋が凍りつく。零華の異常な程見開き、悍ましく血走った四白眼が夜舟の恐怖を煽った。いや、それだけではない。刻まれた刺青が硬化した鱗を幾重にも巻き付けた肢体。その合間に覗く、滑りと光沢がある蒼白の肌。まるでその悲哀の心を焼くように、身体全体から冷たい激情の焔が迸っている。あの時の楓よりもより一層邪悪で、どこか美しい異形の姿であった。
これは零華の怨念なのか、はたまた瘴気が見せる幻なのか。あるいはそのどちらでもないのかもしれない。
零華に呼応し、周囲の巫女達の亡骸から無数の蒼き業火が立ち上り、陽炎のようにゆらゆらと空間を歪ませる。時折それはしゃれこうべを形作り、こちらを覗き見ては、断末魔を上げて宙に消えてゆく。
……破戒。それは地獄の入り口。ついに、久世は禁忌を犯してしまったのだ。
「全ては、泡沫の如くよ……」
もはや繋いてきた久世の意思も歴史も、露と消える。成す術なく立ち尽くす夜舟を、鋭利に縦筋の通った蛇の眼で、零華はただじっと見据えていた。
「夜舟よ、何があった」
緊迫の最中、棘獄の扉の方から駆け付けた天涯の声が響き渡った。
「こちらへ来るでないぞ」
「何事か」
天涯は顔をちらりと覗かせ、再度問いただした。
「破戒じゃ。もう止められぬ」
「なんと……」
それを聞くと、天涯は変わり果てた零華を見やり、夜舟に駆け寄ろうとした。
「ならぬ。この後に及んで私の生き方を愚弄する気か」
夜舟の怒鳴り声に、天涯は思わず足を止める。
「しかし、このままでは……」
「あの日約束したはず。私が必要としたのは棟梁としてのお主の力であって、幼馴染としての助けではあらぬ」
天涯が加勢すれば、もしかしたらいつかのように零華から二人で逃げ切れるかもしれない。しかし久世にとって今一番大事なのは当主の命ではなく、破戒を鎮める事なのだ。それを分かっていてなお夜舟を選ぼうとした天涯は苦虫を潰したような顔を浮かべていた。
「今よりお主が指揮を執り、早急に眠りの宮と狭間の宮を築け。本当に私を想うならば、己の役目を全うせよ。これを世に解き放ってはならぬ。絶対にじゃ」
天涯に自分の立場を思い出させる為に、夜舟は強く言い放った。そして、不甲斐なさを詫びるように少し俯き声を落とす。
「辛い役目をお主に背負わせる……済まぬ」
「……そうか。承知した」
天涯の目から迷いが消えた。夜舟が直接語らずとも天涯は悟ったのだ。柊を抑え込む回廊の建設には規模に応じた人柱が必要になる。最上の封印を用いなければ破戒の侵食を止めることは不可能だ。時に、人柱は弟子達だけに留まらず、棟梁自らの命をも捧げなければならない。この状況にはそれ程強力な結界が必要だったのだ。
「胸を張れ、夜舟。儂だけは知っておるぞ。お主が真の当主であったことを。また地獄で相見えようぞ」
天涯はそう言うと、己の使命を果たす為夜舟を置いて棘獄を後にした。
(もしも互いに久世に生まれず、違った出会い方をしていれば、私は……)
夜舟にとって天涯以上の男はいない。こうして最後まで自分の為に身体を張ってくれる人間の想いに、夜舟は答えられなかった。気持ちは同じだと言うのに、立場がそれを拒絶する。人とは本当にままならないものだと、夜舟は己の人生を憂いた。
こうなってしまった以上、もう夜舟にできることは何もなかった。しかし、当主として久世の行く末を見届けるべきである。絶望的状況の中で、夜舟はこの場を生き延びる為に零華へと身構えた。
と、そこで初めて零華が動き、軽く開いた右手を前にゆっくりと突き出す。……が、夜舟に届くには少し距離が足りなかった。縮地の如く突然間合いを詰める歩みはあるが、あの時の祟りよりも動きが鈍く遅い。触れられなければ脅威はないだろう。この分ならばどうにかなるかもしれないと、夜舟は思った。
そうして夜舟が逃走を図ろうとした瞬間、零華は半開きの右手を閉じ始める。すると夜舟は己の首が強く締め付けられる感覚に襲われ、堪らずその場でもがき苦しんだ。
「ぐっ……は」
零華は何もない空を握っているだけだ。だというのに、喉元に細く鋭利な牙を突き刺されたかような激痛を感じ、目に見えぬ圧力によって頸骨が軋む音が聞こえた。
困惑する夜舟を余所に、零華はその腕を徐々に上空へ滑らせていく。驚くことに、それに連動して夜舟の身体が宙に浮いていった。
自らの体重がかかり、首に一層圧迫感が増す。わざとそうしているのか、頸骨が砕ける寸前の力加減を保ち、零華はしばらく静止していた。時間をかけてなぶり殺すつもりなのだろうか。
苦しみの限界を迎えた夜舟は死の安楽を願ったが、零華はそれを許さなかった。零華の纏う蒼炎がその右手を伝い、夜舟に燃え移ったのだ。この世にあらぬ煉獄の炎が夜舟の身をじわじわと焼き始める。いや、見た目とは裏腹に皮膚に熱さはなかった。代わりに今までに味わったことの無い激痛が、身体の内部に広がっていった。夜舟は血の混じった泡を吹き、口から肉の焦げた臭気を放つ黒煙を吐き出した。直接臓腑を焼かれているようだった。さらに外へ駆け出ようとする高温の熱風が両目の水分を一気に奪い、夜舟は視力を失った。
まるで楓の運命をなぞるようで、夜舟は小さく笑った。……相応しい結末ではないか。それだけの罪を犯してきたのだ。この世のありとあらゆる苦痛を受けても足りないぐらいに。
とうとう骨、肉、肌とありとあらゆる部分に燃え広がり、夜舟の命を燃やす。夜舟がどんなに激痛に喘ごうと、零華の瞳は変わらず憎悪に満ち溢れていた。
息絶える寸前に、夜舟は己を振り返る。思い浮かぶのは、遠きあの日の情景。木漏れ日を浴びながら、楽しげに話す三人の姿。ようやく長い役目を終えた夜舟は童心に還り、掛け替えのない思い出に浸る。重い肩の荷が下りたように、その顔は安らかであった。
……零華の蒼炎が夜舟の全てを焼き尽くしてゆく。遂には煤となり、さらさらと無残に崩れ去った。久世家最後の当主、夜舟の人生は壮絶に幕を閉じたのだ。
かくして、久世は終焉を迎え、天涯の命をもって幽世に封印される。悲劇の巫女の因習は、地上から完全に消え失せた。
―――時代は流れ。
刺青の儀式を含め、長く続いた各地の慣わしや伝承が忘れ去られた現代において。他者の死に捉われてしまった人間を誘う、眠りの家という都市伝説の噂が巷で囁かれていた。夢で何度も想いを寄せる死者と出会えるが、その都度幻覚の刺青が体を蝕み、やがて煤を残してこの世から消えてしまうという恐ろしい話だ。
その夢の中で、行くあてもなく彷徨う一人の巫女の姿がある。……もう二度と触れることの出来ぬ想い人の温もりを、少女は今も探していた。
※アンケート結果(2022年12月現在)
久世零華 1票
久世鏡華 1票
読んでくださり本当にありがとうございました。今後の参考にしたいので、よければ読者様が最も好感の持てた登場人物を教えてください。
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久世零華
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久世鏡華
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久世夜舟
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柏木秋人
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鳴海天涯
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乙月要
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鼓露葉(非原作)
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久世蒼蓮(非原作)
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久世桜花(非原作)