自身が落としたのか、零華に持たせた片割れか、それは耳飾りだった。これがひとりでに移動するわけがない。……だとしたら。
要は危険を察し、素早く身を翻す。何者かが大きく舌打ちし、要に向かって斧を振り下ろしていた。忍び寄ろうとした際、落ちていた耳飾りに気付かずに蹴ってしまったと言う事か。おかげで、巧まずして救われた。物に意思などという馬鹿げた妄想も、あながち的外れではなかったようだ。しかし、躱すことはもう出来ない。要はなるべく重心を後ろに預け、半身の状態で身構える。
斧は要の左肩とその腕の肉を抉った後、地面に激突して固い金属音を発した。手に持った松明が宙を舞い、要は衝撃で倒れ込んだ。熱く激しい痛みに耐えながら、すぐさま体制を整える。しゃがんだ状態で傷口を押さえ、要は相手の方を見上げた。
明かりの範囲が狭まってはっきりとは見えないが、位の高そうな衣装を纏った老婆のようだった。老婆は仕留めそこなった事に憤慨している様子で、今度は勢いよくこちらへ迫ってくる。
出血が激しい。が、動けない程致命傷ではなかった。二撃目を阻止する為、要は立ち上がる。正面から対峙し、老婆が攻撃に入ろうとした瞬間、要はその腕を掴みにいった。取っ組み合いになったが、高齢で女性だけあって大した力ではない。だが、負傷した腕では上手く斧を奪い取る事が出来ず、双方押し引きの膠着した状態が続いていた。
「勝手に久世に踏み入った僕も悪いが、突然殺しにかかるなんて正気の沙汰じゃない。久世はそこまで蛮人なのか」
要は拮抗する争いの合間に、老婆を非難した。
「禁を犯すものに容赦はせぬ。うぬら外界の者とは生きている世界が違うのじゃ」
体力の劣る老婆は、傷ついた要よりも辛そうに息を荒げている。しかし、要を鋭く突き刺す眼光は、相反して気迫に満ちていた。
「久世は間違っている。人の命はそんなに軽々しい物ではない」
「御託は良い。さっさと死ね」
言葉に威勢だけはあるものの、要の必死の抵抗に対し老婆は徐々に押し負けてゆく。あともう少しで、老婆を抑え込むことが出来る。そう思った時だった。
突然老婆の力が抜け、要はいとも簡単に斧を奪い取れた。諦めたのか、むしろ自分から手放したようだった。要は不思議に思い、老婆をまじまじと見つめる。
老婆はそんな要など気にも留めずそこかしこに目を泳がせ、辺りを警戒するように慎重に一歩、また一歩と引き下がってゆく。先程の士気など微塵もなく、明らかに狼狽えていた。
要は一体どうしたのかと声をかけようと思ったが、そんな余裕はすぐになくなった。その脅威的な何かに、要も気づいてしまったからだ。
「これは……」
身の毛がよだつような悪寒が走る。周囲を包む悍ましい空気を、要も感じ取ったのだ。
「やってくれたな。許すまじ愚者よ、あの世で己の行いを後悔するがよい。……よもや貴様に構っている暇はあらぬ」
老婆は憎しみを込めた捨て台詞を吐いた後、要を置いて棘獄の扉へ駆け出し、そのまま立ち去って行った。