――数年後。
とうとう明かりを消すこともなく、下宿部屋に淡い日差しが差し込む。所々小さな傷が目立つ年期の入った漆塗りの机の上には、とある地方の文献、それにまつわる資料や関連性の高い古記録など、様々な書類が散乱している。
要は徹夜がけでまとめた報告書数枚を手に取り、紙を立てて角をきっちりと整えてゆく。しかしその開放感からか、ばらばらに崩れるのもお構いなしに、元あった机の上に無造作に放り投げる。そうして要は口に手を当て気怠そうに小さな欠伸をしながら、のそのそと窓際に立った。
昨日に引き続き快晴である。これ程直に注ぐ陽光は疲れ目には少々きつい。頭も冴えず、長時間同じ体勢で仕事を続けた所為で、そこら中に痛みが走っていた。そんな不健全な身体にせめて新鮮な空気を取り入れようと、要は窓を開け放った。
途端に入り込んだそよ風に、少々目に掛かった要の前髪が靡く。最後に散髪したのはいつだろうか。そんな事さえ覚えていないくらい、要は任されたこの仕事に熱中していた。
人の見る夢についての研究。要は今、麻生博士の助手となって協力をしている。実に興味深い題材であった。
要が体験した巫女の夢に通じるものを、博士は語ってくれた。この研究を手伝うことによって、要は自身が追い求める何かを得られる気がしたのだ。
それからというもの、忙しい日々だった。そんな本業の合間に、要は久世についても並行で調査はしていたが、久世が過去の産物である為に新しい情報はなく、そちらの目覚ましい進展はなかった。
……そう、久世は忽然と姿を消してしまった。あの日、要は久世があった近くの場所で、一人雪に埋もれて倒れていた。要を発見したのは、要が話した地元にある久世の因習に関心を持っていた書生仲間である。要が一度故郷へ戻ることを告げると、ひとしきり羨望の眼差しを向けた書生仲間は、着手している仕事が片付き次第、久世の調査の為に後を追うことを約束したのだ。
体温の低下と失血で瀕死の重体だったが、書生仲間が手際よく対処したおかげで要はなんとか持ちこたえたというわけだ。
しかし、棘獄からどうやってそこまでたどり着いたのか、要は覚えていなかった。ただ一つ記憶に残っているのは、久世の門の前で首を振る雨音の姿だった。
だとすると、雨音が外まで誘導してくれたのかもしれない。その後の雨音の目撃は皆無であることと、最後に見せた悲しげな表情。……雨音は一緒に逃げる事を拒んだということなのか。
静かに迎えた早朝の中で、ふいに物悲しさが要の胸中を渦巻く。雨音も、零華も、いなくなってしまった。そんな大事な事も、痛みも、長らく忘れてしまっていたのか。どうにも詰まる思いに追い立てられ、要は再度机の前へ胡坐をかいた。
どうしてもこの感情を吐露せずにはいられず、悩んだ末に要は表現としてまた、この形を取ったのだ。
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過ぎ去りし零華へ
かうして屆く當てのない手紙を書いてゐるのは、僕の氣持ちの整理の爲なのかもしれない。
或は、あの日に起こつた事は幻で、君はまだどこかで元氣に暮らしてゐるのだと、儚い夢を抱いてゐるのだ。
併し、月日が經つごとに思つてしまう。
僕が見ていた君は、傳承上に出てくる寢目の巫女樣であつたのではないかと。
幼い時を共にした事實が薄れてゆき、今では全てが空想上の出來事のやうである。
人とは殘酷なものだ。君に向けた強い想いでさえも、忘れ去らうとする。
けれど、君の聲だけは。
依然として、色褪せることなく鮮やかに、僕の記憶の中で鳴り響いてゐる。
やはり、だうしてもまう壹度、君に逢ひたい。
此君と同じ蛇の刺靑と片割れの耳飾りが、いつか君の元へと導いてくれることを、切に願つてゐる。
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そう書き終えて、要はゆっくりと袖を捲った。傷痕を這う立派な蒼い蛇がそこにあった。数少ない資料と己の記憶を頼りに、巫女の零華に似せた刻印だ。
こうやって誓ったはずなのに。時間と共に忘れる事が救いなのだというのなら、己の望むところではない。人の根幹にある不滅の思念、……それが柊だというのなら。
久世はとても人情的で、自分はなんて薄情者なのだろうかと、要は寂しく笑う。
そんな傷心の要を知ってか知らずか、気まぐれな風が吹き、要の背中を摩る様に一撫でする。遅れて、要の想いを綴った和紙をさらって行った。要は急いで掴もうとしたが、既に先程開けた窓の外へ運ばれてしまった後だ。
誰かに見つかっては面倒な事になると、要は駆け足で玄関へ向かおうとした。その時、ようやく異変に気付いたのだ。対面側にも窓は備え付けられている。だから風が部屋を吹き抜けることはよくあることだ。しかし、途中で視界に入った対面側の窓は、昨夜から一切手を付けておらず、閉まったままだった。
……。
――巫女の夢、耳飾り、蛇の巫女。
思い当たる節はいくつもある。今度は、心地よい笑いが要から漏れた。
「君は僕なんかよりずっと人想いで、しっかり者だ。……僕が大事な事を忘れない様、いつまでも見守っていてくれ」
いや、もしも愛想を尽かして傍からいなくなったとしても、完全に忘れてしまうことはないだろう。本当は耳を澄ませばいつも聞こえているのだ。――それは懐かしく、甘美な響き。自分の名を優しく呼ぶ、刺青の聲が。